ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の27
目次 見出し
第4章
第1節 上級生としての活動
新入生の<オルグ>もしくは<勧誘>
オルグの第一ステージ―在日の新入生情報の入手―
オルグの第二ステージ―当事者へのアクセス
オルグの第三ステージ―在日の民族主義的学生活動家の誕生
本文
第四章
第1節 上級生としての活動
新入生の<オルグ>もしくは<勧誘>
1年生の終わりから2年生の初めにかけての僕の大学生活に関する記述の途中から、すっかり野放図な道草を繰り返してきた。しかし、今後は本筋に戻って、2年生、つまり晴れて上級生となった頃の僕の学内の民族サークルと学外の民族組織だった韓学同の活動について記す。
2年生になって焦眉の活動は、新入生の勧誘だった。僕らはその活動のことを<勧誘>とも<オルグ>とも呼んだ。
本シリーズの初めの頃にも、僕自身が1年生時に受けたその種の活動のことを、その二つ<勧誘>、そして<オルグ>と表記していた。
そのことも思い出して、今になって少し気になりだした。そこで今さら何をと思いながらも、念のためにWikipediaを確認してみたところ、以下のように記されていた。
「オルグとは、主に左派系団体・政党が組織拡大のために、組織拡充などのために上部機関から現地派遣されて労働者・学生など大衆に対する宣伝・勧誘活動で構成員にしようとする行為、またはその勧誘者を指す。この言葉そのものはいわゆる既成左翼・新左翼の内部の肯定的利用、または外部による批判利用、カルト的宗教団体勧誘批判の意味で主に使われている。」(2024年12月9日15時に確認)
以上の記述は実は僕にとって目新しいものではない。と言うよりも、僕らの世代であれば、むしろ常識的な語感だし、僕もさすがに同時代人として、<オルグ>を左翼用語と捉えていた。若かりし頃にプロレタリア文学も随分と沢山、読んでいたから当然のことである。
ところが、大学時代に僕が関係していた組織は、その左翼とは一般にじゃ考えられていなかったから、少し話がややこしい。僕らの学生組織は、自他ともに右翼団体と認められていた「在日大韓民国居留民団」の傘下団体であり、親団体から月々の定額の補助金の他にも、年間の恒例行事の度にいろんな名目で臨時の補助金なども運営経費としていたし、事務所も無償で貸与されるなどの便宜も与えられていた。
それだけに、僕らの学生組織とそれと密接な関係のある大学内民族サークル、そしてその一員だった僕自身などは、その親団体による監視、警告、統制を受け、その組織の思想、原理、規則に背反することは許されなかった。
したがって、用語その他のいろんな面で、組織内向けと組織外向けの両刀使いをするのが必須であり、現にそのようにしていた。
例えば、僕ら在日組織の学生の大半は、当時の日本の、とりわけ学生の社会・政治運動において圧倒的に主流だった左翼的思潮の影響を受けるばかりか、そのように自認もしていた。だからこそ、<オルグ>という用語を普通に採用していたのだが、組織の公的立場ではそれを隠さねばならなかった。
親団体である民団の関係者が相手、もしくはそれと関連した時と場所では、<オルグ>は避けて、もっぱら勧誘と呼んでいた。他方、左右を問わず学生が相手の場合は、少しは相手の思想的傾向も勘案しながら両者を使い分けたが、さすがに学生活動家としての<体裁>を重んじて、<オルグ>の頻度が高かった。
そんな内情を少しは知っていた民団の人々、特に、学生青年団体を警戒し監視する役職者は、韓学同や韓青同をスイカに例えていた。殻は青くても割ってみれば、中は<真っ赤>と言うのである。つまり、実態は左翼と見なし、敵としながらも、まだ学生ということで少しは大目に見てやるが、それにも限度があるから、くれぐれも自重しないとひどい目にあわせるぞと警告、もしくは脅迫するのだった。
そして、そうした見方は大きくは外れていなかったのだが、<真っ赤>というのは大げさすぎて、せいぜいピンク程度、それも各人によって色合いがいろいろで、全体として白から赤みがかったピンクまでのグラデーションを描いていた。もしも本当に真っ赤な学生ならば、僕らの学生サークルや韓学同なんかに長くとどまってなどおれなかった。
僕らの仲間の殆どは右翼とは自認していなかったが、親が属する民族組織とその思想的傾向との兼ね合いで、反共民族主義を自認する学生も多くはなくても、現にいた。しかし、民族主義よりも反共を優先するような、例えば、勝共連合的な学生はいなかった。そんな学生も僕らの仲間としては甚だしく居心地が悪くて、すぐに離れて行った。
それはともかく、勧誘という用語は、まるで無色透明な学生の文化サークルみたいで、何かだ気恥ずかしさが拭えないので、以下では、オルグを使用するが、それは競合する学生団体のことを気にした、左翼的<衒い>に過ぎない。そのあたりを予めご理解のほどをお願いしておきたい。
オルグの第一ステージ―新入生情報の入手―
僕らが関わっていた学生組織の実態が赤か白か、或いはその狭間のピンクかの話はさておいて、新入生をオルグするには、新入生の姓名と連絡先などの基本情報を入手しないと始まらない。何故か?
僕らのオルグ対象者は、新入生総体といった不特定多数ではなく、実績から見れば入学者の1%に満たない在日学生に限られ、しかも、そのほとんどは新入生の群れの中に身を隠していたからである。身を隠すというのは、民族名ではなく、植民地時代の創氏改名という民族抹殺政策の延長上にあった日本風の通名を名乗る形で、意識的か無意識的かを問わず、民族名、そして民族的帰属を公にせずに、生まれて以来、隠しながら暮らしてきた青年層だったからである。
公開で呼びかけても、呼応してくれることなどあまり望めない。したがって、何らかの形で、その人たちの情報を予め入手して、いわばピンポイント、或いは、<一本釣り>で働きかけねばならなかった。
とりわけ、僕らが大学生だった時期には、大学紛争の後遺症で学内のサークル活動が和気あいあいと新入生をサークルに勧誘する場は、すっかり消えていたという事情もあったし、民族サークルが学内でその存在を誇示もしくは露出する場、さらに言えば、学内の拠点となるサークル室なども持たないなど、学内に常設の根拠を持たない状態だったからでもある。
学内のどこかに新入生に対する募集を貼っておけば、それに応じて訪ねてくる学生が対象ではなく、こちらが捕まえて離さず、話を聞いてもらって、個人的な関係を結べるように努力してようやく、相手もこちらに胸襟を開いてくれるかもしれない。正体を隠すことが殆ど本質のようになった<うぶでいて老獪>な在日学生を捕まえねばならなかった。
例年の実績では、約2000名強の新入生のうちの約0,5%から1%くらいの在日学生、つまり10名から20名ほどの姓名と連絡先を入手するのがオルグ活動の第一歩だった。例年だとそのうちの3割から4割が、民族サークルと関係を持つようになっていたから、せいぜい、二つの民族サークルを合わせても、4人から6人くらいで、それを二つのサークルで等分に割って、2人から3人を確保できれば上出来だった。
そうした必須の情報の入手方法にはいろいろとあったが、最も手っ取り早いのが、大学の事務局の学生部に、情報の提供を依頼(要請)することだった。個人情報の秘匿に関する規則や常識がすっかり厳しくなった現在では考えられないことだが、当時は大学の事務局がそんな情報を僕らに提供してくれることもあった。常にではなく、年度によって、さらには、担当者によって対応が変わることもあったが、不思議なほどに懇切丁寧な対応をしてくれる時もあった。
但し、それは必ずしも喜ばしいことではない。大学側が特別に在日学生の管理のために、或いは他の外部機関(例えば、警察の外事課など)から在日学生の管理の資料を要求(依頼)されて、資料を作成していると考えられるからである。つまり、在日学生は他の学生一般とは異なって、一括して管理対象となっている証拠と見なすことができるからである
しかし、学校側の意図がどうであれ、僕らが必要としている情報がそのように一気に得られるとすれば、それに飛びつかないわけにはいかない。そもそも、在日管理のために在日学生のリストが作られているからと言って、そのことを問題視して追及する力量なんか僕らにはなく、むしろそのリストがあることを勿怪の幸いと考えるしかなかった。
そこで、僕らの目的、つまり、在日サークルの新入生を募って、民族差別などについての認識を深め、それに負けないで有意義な学生生活を送れるようなサポートをするのだと、事情を説明したうえで、朝鮮籍と韓国籍の新入生のリストの提供を依頼した。その具体的な内容は姓名、所属学部、出身高校、住所、電話番号などだった。
しかし、先にも述べたことだが、大学側からそうした便宜供与が常になされていたわけではない。容易に入手できる年もあったが、文書で正式依頼を行ったうえで、指定日に出直すように指示される場合もあったし、<けんもほろろ>の対応をされる場合もあった。
当時はなにしろ、大学紛争で学内の行政機構なども混乱して不安定で、大きな変動過程にあり、それ以前、或いは、その後のようには、一律の基準などなかったからという事情のおかげに過ぎず、そのような方法がその後も続いたとは思えないが、そんな時代もあったくらいに理解していただければ幸いである。
その他では、時代とは関係なく最も確実な方法は次のようなものだった。
特定の新聞や週刊誌に掲載されるのが恒例となっていた大学別の、出身高校名も記載された入試合格者リストの中から、それらしい学生をピックアップする。
それらしいと判断するにあたっての根拠は、姓と名の両方である。姓については、漢字一字の民族名(と思しき姓)で掲載されていれば割と特定が容易なのだが、当時の在日の学生で民族名の漢字表記で合格者名簿に記載されているケースは非常に少なかった。大抵はいかにも在日らしい日本名(通名)による表記だが、それは創氏改名の際に、先祖代々の痕跡を残すべく、先祖ゆかりの本貫を反映させた日本風の氏であることを想起すれば、ある程度は民族姓が推察できるものだった。例えば、木下や新井なら朴姓ではないか。金田、金村、金山は金姓ではないかといった具合である。僕の姓は、朝鮮ではそれほど一般的ではないけど希少というほどでもなく、特に済州や、北半部では割と一般的で、<延州(本貫)玄氏>の我が一族の場合、創氏が延州をなんとか残そうと工夫した結果としての延山や延原だったが、植民地から解放されてからも、在日の場合はたいていがそのまま通名として使うようになった。
他方、姓は日本式の通名表記であっても、ファーストネームは民族名の漢字表記が当時は多かったので、その人物も在日候補としてピックアップする。僕の<善允>などは、朝鮮風の名前とは断言しにくいが、一見して朝鮮風と思われる名を用いていた学生が当時はまだ割といた。但し、その名もまた、民族名と日本風の通名の二種類を使っている場合もあって、そんな場合は特定するのは至難の業だったが、さすがに在日的知識や勘が大いに役立った。。
以上のようにして、姓と名の両方ともにそれらしいもの、次いでは、片方だけがそれらしいものを選び出して、オルグの優先順位を決める。
その他には、地縁血縁も最大限に活用する。学内の民族サークルや学外の民族組織の在学生や卒業生などに、家族、親戚、友人知己や地域の在日コミュニティで、該当しそうな新入生がいる場合には、その姓名と住所と電話番号などの情報の入手を依頼する。
実は以上の2番目の方法、つまり、大学合格者名簿に基づき、在日的知識と勘を働かせる方法は、僕自身が正反対の立場ではあるが、その2年ほど前に経験していたものだった。
高校三年の夏に、韓国の新聞社主催の高校生親善野球大会のために、在日の野球協会の人たちが在日の高校選手だけでチームを構成して韓国に送るために依拠したのが、まさにその方法だった。
朝日新聞社主催の夏の甲子園野球大会の各地方予選大会の開始にあたって、紙上で公開される参加チームの登録メンバーのリストから、殆どが通名で掲載された在日の生徒をごく短期間に見つけ出し、高校に電話で問い合わせた上で、連絡先を教えてもらって当人やその家族と交渉し、少なくとも20人前後を集めて韓国に派遣する。僕らの時が、その13回目だったらしく、初回のメンバーには張本勲がいたし、僕らと同行予定者には、後に巨人で活躍した新浦投手も含まれていた。しかし、その新浦投手は甲子園で決勝戦まで進んだせいで、ついに参加できなかった。その他に、甲子園本戦に出場したものの1回戦で敗退した長野県の高校チームの選手の場合は、少し遅れたが韓国で僕らに合流して、その後は試合に出場するようになった。張本選手はソウルの東大門運動場での僕らの試合の前に、元ミスコリアの夫人と二人で現れるなどで満員のスタジアムからの拍手喝采を浴びたが、彼が結婚したなどと言う話は、日本では聞いたことがなかったから、報道に関しても、玄界灘を境にした大きく執拗な障壁は、昔も今も変わらないということなのだろう。
僕は当時としては珍しく、漢字一字の民族姓の表記だったので、何の苦もなく見つけ出したらしいが、韓国に同行した20名ばかりのチームメイトの殆どは日本式の通名表記だった。そんな在日の選手を予選が終わってからの短期間に集めてチームを構成するという面倒な作業を、10年以上も続けてきた在日の野球協会の方から、その苦労話を詳しく聞いていた僕なので、その2年後に、今度は僕が大学合格者リストから在日の新入生を見つけ出して交渉に漕ぎつけるために、同じような苦労をしていることに、不思議な因縁を感じたことを覚えている。
オルグの第二ステージ―当事者へのアクセス
そのようにして、在日と想定される合格者については、出身校に電話で問い合わせる。事情を説明して、その卒業生が在日かどうか、もし在日ならば電話番号と住所を教えてもらえるように依頼する。すると、上司などと相談するので、数日後に改めて電話するようにとの返事が一般的だったが、その指示に従って改めて電話すると、親切に教えてもらえる場合が多かった。これまた今では考えられないことだろうが、当時は個人情報といった言葉すら殆ど聞いた覚えがないほどで、そんな<親切>による個人情報の漏洩(提供)が当たり前のこととしてなされていた。
出身高校から聞き出した情報を受けて、ほぼ確実に在日とされた合格者の家に電話する。ところが、「間違いです。私はれっきとした日本人で、なんとも迷惑な話です。今後、この種の電話は一切お断りです!」と、本当か嘘か分からないが、相手にされない場合もあった。或いは、「なるほど韓国(朝鮮)籍ですが、自分(あるいは、うちの子ど)はそんなことにはまったく関心がないし、迷惑なので、二度と連絡しないでください」と家族や本人から冷たく言われることもあった。
しかし、その割合は予想していたほどには高くなかった。子供が合格した大学の在籍者や関係者からの電話連絡ともなると、特に当時の在日の人たちは、相当に信頼していたのだろう。
オルグの第三ステージー在日の民族主義的学生活動家の誕生
新入生に関する情報収集に続いて、実際に新入生にアクセスして、オルグ活動を重ねる。それにつれて、上級生になったばかりの学生でも、いっぱしの民族主義的学生の、少なくとも<衒い>は身に着ける。何かと分からないことだらけだし、自信などなくても、少しは知識や自信がある<振り>をしないわけにいかない。そして、それを繰り返すうちに、やがてはそれが板についてくる。ついには、そうなったと思いこむこともある。
まだピカピカの二年生でも、一年前に自分が新入生だった時には、左右、南北、その中間、或いはその他の組織やサークルからの、度重なるオルグの大波に翻弄された。その記憶はまだ新しい。ほぼ同年齢の上級生(あるいは、浪人経験のある場合には、自分と同年齢、もしくは年下の上級生)から、30歳を越えるOBや専従活動家まで、実に多様な人々による実に多様な理屈や話し方に圧倒され、たじろぎ、悩み、改めて話を聞き、反論、抵抗なども試みるなど、あくまでオルグを受ける立場ではあるが、それなりの経験を積んでいる。
それを今度は、以前とは逆に、上級生として新入生に対して行うという点が異なるだけである。そして、その際に活用できる手持ち材料の中心は、自らも在日二世の学生であることに加えて、入学後に様々な上級生から倣い覚えた理屈であり話術である。各人がそれを自分なりに加工しながら、自分なりのオルグのスタイル、つまりは、活動家としてのスタイルを創り上げていく。
例えば、真っ正直に知識の優位を盾にした説法に励む者もいる。民族主義の論理もあれば革命の論理もあるだろうが、それがきちんと分かっているつもりの新二年生など多いはずはない。分かったつもりでも、あくまで<~もどき>程度にすぎず、そのことは重々承知している。しかしそれしかないのだから、それを盾にして新入生にぶつかるしかない。
但し、上から目線の説法は、自分の経験に照らしてみれば、反発される危惧が十分にある。習い覚えたばかりの<正しそうな>理屈は、押し付けとか無理強いと見なされたあげくには、激しい抵抗、あげくは関係の断絶を招来するなど、往々にして逆効果になる。
従って、柔軟性を前面に押し立てる。何よりも関係を培うことが肝要で、そのためには阿ねることすら辞さず、新入生にイニシアチブを委ねる格好もとる。相手に話すように促し、耳を傾ける。しかし、自分としてはそのつもりでも、せっかく習い覚えた知識もあるのだからと、それを吹聴したくてたまらないが、人の話に耳を傾ける訓練くらいにははなる。
話の糸口としては、大学生活一般に関するアドバイスなど、大学生活の経験者としてのサービス供給が有効である。新入生の不安その他を聞きだし、それに丁寧に対応し、警戒心を取り除きながら、意志疎通に努める。そして頃合いを見て本題に入る。
しかし、そこでも慌てると元の木阿弥どころか、逆効果になりかねない。そこで、別れる際に、改めて会う約束を取り付けることさえできれば、とりあえずは成功である。その他、新入生歓迎会などのイベントへの勧誘も、効果的である。その種のイベントに参加してもらえさえすれば、他の多くの新入生や在学生や卒業生など多種多様な<同胞>と対面し、少しは言葉も交わし、アルコールや食事を共にすれば、おのずと一体感も沸いてくる。
そうなると、個々の在日経験や今後の生き方などに関する対話や議論への導入がスムーズに進む。その先には、民族サークルの活動の意義なども話しあえるかもしれない。相手の反応次第では、学外組織の紹介にも踏み込める。或いは、その反対に、その種の話は当分、ペンディングにする場合も少なくないが、せめて民族名で呼び合える関係にたどり着けば大成功である。
実は、一年時にオルグを受けた経験だけでは、活動家の資格としては重要な要素が足りない。上級生として新人へのオルグを経験してこそ、在日の学生活動家として必須のイニシエーションが基本的に完了する。
オルグを一方的に受けているだけでは、自分と在日という集団との関係が一面的にとどまっている。オルグの受け手は、自分に対してオルグを行う集団を、民族主義的当為性を体現するマスとして捉えがちで、その個別性にはあまり目が届かない。それに対して、上級生として新入生を個別にオルグすることを通じて、在日の個々の多様性と対面することになる。
在日とされる集団は、自分自身も含めた多様な個人の集合であることが見えてくる。しかもまた、オルグ対象の新入生からは、民族主義的学生集団というマスの一員として見られることを通じて、自分がその集団に属し、それを代表する役割を果たしていることを、自覚する。自分がその集団を代表して他者に対し、その責任を負う存在として意識するようになる。
こうして、民族主義を体現する集団としての側面と、その集団内部の多様な個人の集合性の両面に目を開き、自らを在日の民族組織の一員としての学生活動家として位置付ける。
その後の卒業までの数年間にも、さらには卒業後の長い人生における紆余曲折を経て、<民族なんて大嫌い>、<学生時代の同胞仲間>なんて会いたくもないし、話もしたくないと変貌する者も少なくないが、大学入学以来の民族的成長の一つの達成としての活動家の誕生であることは間違いない。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の28に続く)
目次 見出し
第4章
第1節 上級生としての活動
新入生の<オルグ>もしくは<勧誘>
オルグの第一ステージ―在日の新入生情報の入手―
オルグの第二ステージ―当事者へのアクセス
オルグの第三ステージ―在日の民族主義的学生活動家の誕生
本文
第四章
第1節 上級生としての活動
新入生の<オルグ>もしくは<勧誘>
1年生の終わりから2年生の初めにかけての僕の大学生活に関する記述の途中から、すっかり野放図な道草を繰り返してきた。しかし、今後は本筋に戻って、2年生、つまり晴れて上級生となった頃の僕の学内の民族サークルと学外の民族組織だった韓学同の活動について記す。
2年生になって焦眉の活動は、新入生の勧誘だった。僕らはその活動のことを<勧誘>とも<オルグ>とも呼んだ。
本シリーズの初めの頃にも、僕自身が1年生時に受けたその種の活動のことを、その二つ<勧誘>、そして<オルグ>と表記していた。
そのことも思い出して、今になって少し気になりだした。そこで今さら何をと思いながらも、念のためにWikipediaを確認してみたところ、以下のように記されていた。
「オルグとは、主に左派系団体・政党が組織拡大のために、組織拡充などのために上部機関から現地派遣されて労働者・学生など大衆に対する宣伝・勧誘活動で構成員にしようとする行為、またはその勧誘者を指す。この言葉そのものはいわゆる既成左翼・新左翼の内部の肯定的利用、または外部による批判利用、カルト的宗教団体勧誘批判の意味で主に使われている。」(2024年12月9日15時に確認)
以上の記述は実は僕にとって目新しいものではない。と言うよりも、僕らの世代であれば、むしろ常識的な語感だし、僕もさすがに同時代人として、<オルグ>を左翼用語と捉えていた。若かりし頃にプロレタリア文学も随分と沢山、読んでいたから当然のことである。
ところが、大学時代に僕が関係していた組織は、その左翼とは一般にじゃ考えられていなかったから、少し話がややこしい。僕らの学生組織は、自他ともに右翼団体と認められていた「在日大韓民国居留民団」の傘下団体であり、親団体から月々の定額の補助金の他にも、年間の恒例行事の度にいろんな名目で臨時の補助金なども運営経費としていたし、事務所も無償で貸与されるなどの便宜も与えられていた。
それだけに、僕らの学生組織とそれと密接な関係のある大学内民族サークル、そしてその一員だった僕自身などは、その親団体による監視、警告、統制を受け、その組織の思想、原理、規則に背反することは許されなかった。
したがって、用語その他のいろんな面で、組織内向けと組織外向けの両刀使いをするのが必須であり、現にそのようにしていた。
例えば、僕ら在日組織の学生の大半は、当時の日本の、とりわけ学生の社会・政治運動において圧倒的に主流だった左翼的思潮の影響を受けるばかりか、そのように自認もしていた。だからこそ、<オルグ>という用語を普通に採用していたのだが、組織の公的立場ではそれを隠さねばならなかった。
親団体である民団の関係者が相手、もしくはそれと関連した時と場所では、<オルグ>は避けて、もっぱら勧誘と呼んでいた。他方、左右を問わず学生が相手の場合は、少しは相手の思想的傾向も勘案しながら両者を使い分けたが、さすがに学生活動家としての<体裁>を重んじて、<オルグ>の頻度が高かった。
そんな内情を少しは知っていた民団の人々、特に、学生青年団体を警戒し監視する役職者は、韓学同や韓青同をスイカに例えていた。殻は青くても割ってみれば、中は<真っ赤>と言うのである。つまり、実態は左翼と見なし、敵としながらも、まだ学生ということで少しは大目に見てやるが、それにも限度があるから、くれぐれも自重しないとひどい目にあわせるぞと警告、もしくは脅迫するのだった。
そして、そうした見方は大きくは外れていなかったのだが、<真っ赤>というのは大げさすぎて、せいぜいピンク程度、それも各人によって色合いがいろいろで、全体として白から赤みがかったピンクまでのグラデーションを描いていた。もしも本当に真っ赤な学生ならば、僕らの学生サークルや韓学同なんかに長くとどまってなどおれなかった。
僕らの仲間の殆どは右翼とは自認していなかったが、親が属する民族組織とその思想的傾向との兼ね合いで、反共民族主義を自認する学生も多くはなくても、現にいた。しかし、民族主義よりも反共を優先するような、例えば、勝共連合的な学生はいなかった。そんな学生も僕らの仲間としては甚だしく居心地が悪くて、すぐに離れて行った。
それはともかく、勧誘という用語は、まるで無色透明な学生の文化サークルみたいで、何かだ気恥ずかしさが拭えないので、以下では、オルグを使用するが、それは競合する学生団体のことを気にした、左翼的<衒い>に過ぎない。そのあたりを予めご理解のほどをお願いしておきたい。
オルグの第一ステージ―新入生情報の入手―
僕らが関わっていた学生組織の実態が赤か白か、或いはその狭間のピンクかの話はさておいて、新入生をオルグするには、新入生の姓名と連絡先などの基本情報を入手しないと始まらない。何故か?
僕らのオルグ対象者は、新入生総体といった不特定多数ではなく、実績から見れば入学者の1%に満たない在日学生に限られ、しかも、そのほとんどは新入生の群れの中に身を隠していたからである。身を隠すというのは、民族名ではなく、植民地時代の創氏改名という民族抹殺政策の延長上にあった日本風の通名を名乗る形で、意識的か無意識的かを問わず、民族名、そして民族的帰属を公にせずに、生まれて以来、隠しながら暮らしてきた青年層だったからである。
公開で呼びかけても、呼応してくれることなどあまり望めない。したがって、何らかの形で、その人たちの情報を予め入手して、いわばピンポイント、或いは、<一本釣り>で働きかけねばならなかった。
とりわけ、僕らが大学生だった時期には、大学紛争の後遺症で学内のサークル活動が和気あいあいと新入生をサークルに勧誘する場は、すっかり消えていたという事情もあったし、民族サークルが学内でその存在を誇示もしくは露出する場、さらに言えば、学内の拠点となるサークル室なども持たないなど、学内に常設の根拠を持たない状態だったからでもある。
学内のどこかに新入生に対する募集を貼っておけば、それに応じて訪ねてくる学生が対象ではなく、こちらが捕まえて離さず、話を聞いてもらって、個人的な関係を結べるように努力してようやく、相手もこちらに胸襟を開いてくれるかもしれない。正体を隠すことが殆ど本質のようになった<うぶでいて老獪>な在日学生を捕まえねばならなかった。
例年の実績では、約2000名強の新入生のうちの約0,5%から1%くらいの在日学生、つまり10名から20名ほどの姓名と連絡先を入手するのがオルグ活動の第一歩だった。例年だとそのうちの3割から4割が、民族サークルと関係を持つようになっていたから、せいぜい、二つの民族サークルを合わせても、4人から6人くらいで、それを二つのサークルで等分に割って、2人から3人を確保できれば上出来だった。
そうした必須の情報の入手方法にはいろいろとあったが、最も手っ取り早いのが、大学の事務局の学生部に、情報の提供を依頼(要請)することだった。個人情報の秘匿に関する規則や常識がすっかり厳しくなった現在では考えられないことだが、当時は大学の事務局がそんな情報を僕らに提供してくれることもあった。常にではなく、年度によって、さらには、担当者によって対応が変わることもあったが、不思議なほどに懇切丁寧な対応をしてくれる時もあった。
但し、それは必ずしも喜ばしいことではない。大学側が特別に在日学生の管理のために、或いは他の外部機関(例えば、警察の外事課など)から在日学生の管理の資料を要求(依頼)されて、資料を作成していると考えられるからである。つまり、在日学生は他の学生一般とは異なって、一括して管理対象となっている証拠と見なすことができるからである
しかし、学校側の意図がどうであれ、僕らが必要としている情報がそのように一気に得られるとすれば、それに飛びつかないわけにはいかない。そもそも、在日管理のために在日学生のリストが作られているからと言って、そのことを問題視して追及する力量なんか僕らにはなく、むしろそのリストがあることを勿怪の幸いと考えるしかなかった。
そこで、僕らの目的、つまり、在日サークルの新入生を募って、民族差別などについての認識を深め、それに負けないで有意義な学生生活を送れるようなサポートをするのだと、事情を説明したうえで、朝鮮籍と韓国籍の新入生のリストの提供を依頼した。その具体的な内容は姓名、所属学部、出身高校、住所、電話番号などだった。
しかし、先にも述べたことだが、大学側からそうした便宜供与が常になされていたわけではない。容易に入手できる年もあったが、文書で正式依頼を行ったうえで、指定日に出直すように指示される場合もあったし、<けんもほろろ>の対応をされる場合もあった。
当時はなにしろ、大学紛争で学内の行政機構なども混乱して不安定で、大きな変動過程にあり、それ以前、或いは、その後のようには、一律の基準などなかったからという事情のおかげに過ぎず、そのような方法がその後も続いたとは思えないが、そんな時代もあったくらいに理解していただければ幸いである。
その他では、時代とは関係なく最も確実な方法は次のようなものだった。
特定の新聞や週刊誌に掲載されるのが恒例となっていた大学別の、出身高校名も記載された入試合格者リストの中から、それらしい学生をピックアップする。
それらしいと判断するにあたっての根拠は、姓と名の両方である。姓については、漢字一字の民族名(と思しき姓)で掲載されていれば割と特定が容易なのだが、当時の在日の学生で民族名の漢字表記で合格者名簿に記載されているケースは非常に少なかった。大抵はいかにも在日らしい日本名(通名)による表記だが、それは創氏改名の際に、先祖代々の痕跡を残すべく、先祖ゆかりの本貫を反映させた日本風の氏であることを想起すれば、ある程度は民族姓が推察できるものだった。例えば、木下や新井なら朴姓ではないか。金田、金村、金山は金姓ではないかといった具合である。僕の姓は、朝鮮ではそれほど一般的ではないけど希少というほどでもなく、特に済州や、北半部では割と一般的で、<延州(本貫)玄氏>の我が一族の場合、創氏が延州をなんとか残そうと工夫した結果としての延山や延原だったが、植民地から解放されてからも、在日の場合はたいていがそのまま通名として使うようになった。
他方、姓は日本式の通名表記であっても、ファーストネームは民族名の漢字表記が当時は多かったので、その人物も在日候補としてピックアップする。僕の<善允>などは、朝鮮風の名前とは断言しにくいが、一見して朝鮮風と思われる名を用いていた学生が当時はまだ割といた。但し、その名もまた、民族名と日本風の通名の二種類を使っている場合もあって、そんな場合は特定するのは至難の業だったが、さすがに在日的知識や勘が大いに役立った。。
以上のようにして、姓と名の両方ともにそれらしいもの、次いでは、片方だけがそれらしいものを選び出して、オルグの優先順位を決める。
その他には、地縁血縁も最大限に活用する。学内の民族サークルや学外の民族組織の在学生や卒業生などに、家族、親戚、友人知己や地域の在日コミュニティで、該当しそうな新入生がいる場合には、その姓名と住所と電話番号などの情報の入手を依頼する。
実は以上の2番目の方法、つまり、大学合格者名簿に基づき、在日的知識と勘を働かせる方法は、僕自身が正反対の立場ではあるが、その2年ほど前に経験していたものだった。
高校三年の夏に、韓国の新聞社主催の高校生親善野球大会のために、在日の野球協会の人たちが在日の高校選手だけでチームを構成して韓国に送るために依拠したのが、まさにその方法だった。
朝日新聞社主催の夏の甲子園野球大会の各地方予選大会の開始にあたって、紙上で公開される参加チームの登録メンバーのリストから、殆どが通名で掲載された在日の生徒をごく短期間に見つけ出し、高校に電話で問い合わせた上で、連絡先を教えてもらって当人やその家族と交渉し、少なくとも20人前後を集めて韓国に派遣する。僕らの時が、その13回目だったらしく、初回のメンバーには張本勲がいたし、僕らと同行予定者には、後に巨人で活躍した新浦投手も含まれていた。しかし、その新浦投手は甲子園で決勝戦まで進んだせいで、ついに参加できなかった。その他に、甲子園本戦に出場したものの1回戦で敗退した長野県の高校チームの選手の場合は、少し遅れたが韓国で僕らに合流して、その後は試合に出場するようになった。張本選手はソウルの東大門運動場での僕らの試合の前に、元ミスコリアの夫人と二人で現れるなどで満員のスタジアムからの拍手喝采を浴びたが、彼が結婚したなどと言う話は、日本では聞いたことがなかったから、報道に関しても、玄界灘を境にした大きく執拗な障壁は、昔も今も変わらないということなのだろう。
僕は当時としては珍しく、漢字一字の民族姓の表記だったので、何の苦もなく見つけ出したらしいが、韓国に同行した20名ばかりのチームメイトの殆どは日本式の通名表記だった。そんな在日の選手を予選が終わってからの短期間に集めてチームを構成するという面倒な作業を、10年以上も続けてきた在日の野球協会の方から、その苦労話を詳しく聞いていた僕なので、その2年後に、今度は僕が大学合格者リストから在日の新入生を見つけ出して交渉に漕ぎつけるために、同じような苦労をしていることに、不思議な因縁を感じたことを覚えている。
オルグの第二ステージ―当事者へのアクセス
そのようにして、在日と想定される合格者については、出身校に電話で問い合わせる。事情を説明して、その卒業生が在日かどうか、もし在日ならば電話番号と住所を教えてもらえるように依頼する。すると、上司などと相談するので、数日後に改めて電話するようにとの返事が一般的だったが、その指示に従って改めて電話すると、親切に教えてもらえる場合が多かった。これまた今では考えられないことだろうが、当時は個人情報といった言葉すら殆ど聞いた覚えがないほどで、そんな<親切>による個人情報の漏洩(提供)が当たり前のこととしてなされていた。
出身高校から聞き出した情報を受けて、ほぼ確実に在日とされた合格者の家に電話する。ところが、「間違いです。私はれっきとした日本人で、なんとも迷惑な話です。今後、この種の電話は一切お断りです!」と、本当か嘘か分からないが、相手にされない場合もあった。或いは、「なるほど韓国(朝鮮)籍ですが、自分(あるいは、うちの子ど)はそんなことにはまったく関心がないし、迷惑なので、二度と連絡しないでください」と家族や本人から冷たく言われることもあった。
しかし、その割合は予想していたほどには高くなかった。子供が合格した大学の在籍者や関係者からの電話連絡ともなると、特に当時の在日の人たちは、相当に信頼していたのだろう。
オルグの第三ステージー在日の民族主義的学生活動家の誕生
新入生に関する情報収集に続いて、実際に新入生にアクセスして、オルグ活動を重ねる。それにつれて、上級生になったばかりの学生でも、いっぱしの民族主義的学生の、少なくとも<衒い>は身に着ける。何かと分からないことだらけだし、自信などなくても、少しは知識や自信がある<振り>をしないわけにいかない。そして、それを繰り返すうちに、やがてはそれが板についてくる。ついには、そうなったと思いこむこともある。
まだピカピカの二年生でも、一年前に自分が新入生だった時には、左右、南北、その中間、或いはその他の組織やサークルからの、度重なるオルグの大波に翻弄された。その記憶はまだ新しい。ほぼ同年齢の上級生(あるいは、浪人経験のある場合には、自分と同年齢、もしくは年下の上級生)から、30歳を越えるOBや専従活動家まで、実に多様な人々による実に多様な理屈や話し方に圧倒され、たじろぎ、悩み、改めて話を聞き、反論、抵抗なども試みるなど、あくまでオルグを受ける立場ではあるが、それなりの経験を積んでいる。
それを今度は、以前とは逆に、上級生として新入生に対して行うという点が異なるだけである。そして、その際に活用できる手持ち材料の中心は、自らも在日二世の学生であることに加えて、入学後に様々な上級生から倣い覚えた理屈であり話術である。各人がそれを自分なりに加工しながら、自分なりのオルグのスタイル、つまりは、活動家としてのスタイルを創り上げていく。
例えば、真っ正直に知識の優位を盾にした説法に励む者もいる。民族主義の論理もあれば革命の論理もあるだろうが、それがきちんと分かっているつもりの新二年生など多いはずはない。分かったつもりでも、あくまで<~もどき>程度にすぎず、そのことは重々承知している。しかしそれしかないのだから、それを盾にして新入生にぶつかるしかない。
但し、上から目線の説法は、自分の経験に照らしてみれば、反発される危惧が十分にある。習い覚えたばかりの<正しそうな>理屈は、押し付けとか無理強いと見なされたあげくには、激しい抵抗、あげくは関係の断絶を招来するなど、往々にして逆効果になる。
従って、柔軟性を前面に押し立てる。何よりも関係を培うことが肝要で、そのためには阿ねることすら辞さず、新入生にイニシアチブを委ねる格好もとる。相手に話すように促し、耳を傾ける。しかし、自分としてはそのつもりでも、せっかく習い覚えた知識もあるのだからと、それを吹聴したくてたまらないが、人の話に耳を傾ける訓練くらいにははなる。
話の糸口としては、大学生活一般に関するアドバイスなど、大学生活の経験者としてのサービス供給が有効である。新入生の不安その他を聞きだし、それに丁寧に対応し、警戒心を取り除きながら、意志疎通に努める。そして頃合いを見て本題に入る。
しかし、そこでも慌てると元の木阿弥どころか、逆効果になりかねない。そこで、別れる際に、改めて会う約束を取り付けることさえできれば、とりあえずは成功である。その他、新入生歓迎会などのイベントへの勧誘も、効果的である。その種のイベントに参加してもらえさえすれば、他の多くの新入生や在学生や卒業生など多種多様な<同胞>と対面し、少しは言葉も交わし、アルコールや食事を共にすれば、おのずと一体感も沸いてくる。
そうなると、個々の在日経験や今後の生き方などに関する対話や議論への導入がスムーズに進む。その先には、民族サークルの活動の意義なども話しあえるかもしれない。相手の反応次第では、学外組織の紹介にも踏み込める。或いは、その反対に、その種の話は当分、ペンディングにする場合も少なくないが、せめて民族名で呼び合える関係にたどり着けば大成功である。
実は、一年時にオルグを受けた経験だけでは、活動家の資格としては重要な要素が足りない。上級生として新人へのオルグを経験してこそ、在日の学生活動家として必須のイニシエーションが基本的に完了する。
オルグを一方的に受けているだけでは、自分と在日という集団との関係が一面的にとどまっている。オルグの受け手は、自分に対してオルグを行う集団を、民族主義的当為性を体現するマスとして捉えがちで、その個別性にはあまり目が届かない。それに対して、上級生として新入生を個別にオルグすることを通じて、在日の個々の多様性と対面することになる。
在日とされる集団は、自分自身も含めた多様な個人の集合であることが見えてくる。しかもまた、オルグ対象の新入生からは、民族主義的学生集団というマスの一員として見られることを通じて、自分がその集団に属し、それを代表する役割を果たしていることを、自覚する。自分がその集団を代表して他者に対し、その責任を負う存在として意識するようになる。
こうして、民族主義を体現する集団としての側面と、その集団内部の多様な個人の集合性の両面に目を開き、自らを在日の民族組織の一員としての学生活動家として位置付ける。
その後の卒業までの数年間にも、さらには卒業後の長い人生における紆余曲折を経て、<民族なんて大嫌い>、<学生時代の同胞仲間>なんて会いたくもないし、話もしたくないと変貌する者も少なくないが、大学入学以来の民族的成長の一つの達成としての活動家の誕生であることは間違いない。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の28に続く)
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