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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の13

2024-04-28 16:28:45 | 在日韓国学生同盟
ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の13

第三章 第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の3

1)旧高射砲台上で暮らす民族主義的活動家に垣間見えた政治的人間像
2)政治的人間の政治的工作―人脈づくりとオルグの一石二鳥としてのアルバイト斡旋ー
3)留学同の合宿学習会からの遁走―朝文研、留学同との中途半端な蜜月の終わりー

1)旧高射砲台上で暮らす民族主義的活動家に垣間見えた政治的人間像
 実質的にはコウバの跡継ぎ見習いながらも、名目上は大学一年生の生活をしていた頃に、家とコウバの近くの路上で、既にご登場いただいた朝文研の<大ボス>と家の近くでばったり出会った。苦手とするタイプの人物だったので、僕の方は当惑するだけだったが、相手の方は不思議なことに、満面に笑みを浮かべてすごく親しそうに話しかけてきた。そのうちに相手のペースにすっかり乗せられ、気が付いてみると、そこから徒歩圏内に位置するというその人の住居まで同行する羽目になった。
 案内されたのは、我が家から10分足らずの国鉄駅からさらに10分ほど歩いたところにある古ぼけた二階家で、建物外に敷設された階段を上ると、踊り場の横に安普請そうな玄関があり、そこを入ると10畳ほどの畳部屋と、その隅には炊事場も見えた。自炊しながらの一人暮らしと言う。
 他方、階下は階上の安普請の小屋とはずいぶんと雰囲気が異なり、ずいぶんと頑丈そうな分厚い鉄筋コンクリートの壁と骨格がむき出しになっているなど、まるで要塞である。僕には特に話題がなかったので、その異様な外観は格好の話題になるかと思いついて、それについて尋ねてみた。すると案の定、待ってましたとばかりに自慢気に話してもらえたのが、その建物の次のような来歴だった。
 その建物は、戦時中にその地域の数か所に設置されていた対空高射砲台であり、砲弾にも耐えられそうな分厚い鉄筋コンクリートの構造物の上に高射砲が据え付けられていたが。戦争が終わると直ちに、高射砲は撤去され、後にとり残された構造物は民間に払い下げられた。それを入手した人は、何もなくなった屋上にバラック小屋を建て増して、炊事場とトイレ、そして屋外からの階段も設置することで、階下とは独立して暮らせるようにして賃貸できるようにした。他方、階下はその頑丈な壁などの構造物はすべてそのままで、その内部をいくつかの部屋などに区切るなど手を入れて大家の家族が暮らしている。
 <朝文研の大ボス>が賃借しているその二階の小屋は、高級感とは程遠くても、プライバシーはほぼ完全に守られ、学生の一人暮らしには贅沢なほど広いだけでなく、東側と南側に大きな窓もあるので日当たりも申し分なく、賃貸価格も割安らしく、貧乏学生の住いとして理想的だった。
 それでも、建物の来歴や構造が風変わりだから、実際には何かと不具合、不都合が生じはしないかと懸念していたが、暮らしはじめたところ、移転した大学キャンパスへのアクセスも申し分なく、予想以上に快適で大いに満足しているとのことだった。
その部屋に入ったとたんに目に飛び込んできたのは、壁にかかった北の国家指導者の大きな肖像写真(画?)で、さすがになどと感心したが、その下方にあった机の横の本棚の質素さには驚いた。書籍数が少ないこともそうだが、書籍のジャンルの偏り方が、理系の学生だからそんなものなのかなと思いながらも、少なからず驚いた。
 その人の専門分野の英文と和文の研究書がいくつか、次いでは、北朝鮮やその系列の在日の組織傘下の出版社刊行のハングルと日本語のプロパガンダ的な書籍が目立った。その他では、黒表紙の世界革命文学全集の類が10巻ほどが目を引いた。趣味や遊びやエロっぽそうな雑誌や書籍など、若者らしく浅薄な生活を想わせそうなものは、何一つ見えず、整理整頓も行き届いていた。
 本棚のそんな外観は、その大ボスの生き方をそっくり映し出していそうだった。
 その人のことについては、上級生たちから噂話として聞いていたが、その日に当人から聞いた内容も総合すると、おおむね次のようなことらしかった。
 その人は工学部の博士課程の学生で博士学位の取得を目指して研究している。学部生を中心にした学内の民族サークルはとっくに卒業したが、在日の北系の科学者組織では今なお精力的に活動しており、それとの関連もあって、学部生対象の学外組織としての留学同にも隠然たる影響力を保持している。
 学部生の頃には留学同の執行部の一員として敏腕を云々されていたこともあるし、それ以前の高校時代にも、在籍する府立高校の生徒自治会ばかりか、北系の民族学校の学生リーダーたちとも連携して、大阪府下はもちろん京阪神の様々な日本人の高校の学生組織とも提携するなど(ただし、本人は「操縦」していたと言っていた)、在日の高校生の<政治>活動家として、日本人高校生の活動家の間ではつとに有名だったという。
 それまでにはほんの2,3回しか会ったことがなかった僕なのだが、その際のいかにも押しが強そうな印象が後を引いて、すごい苦手意識があったし、その人は僕のそんな気持ちも察しているものと思いこんでいた。それと言うのも、その人の自慢の一つが、人の気持ちを読み取って操縦することであると、自らが自慢気に言っていたからである。
 そんな二人なのに、路上でたまたま出くわした僕を自分の住いに誘ったこと、しかも、そんな人の誘いをすんなりと僕が受け入れたこと、そのどちらもがすごく意外なことだった。
 それはともかく、彼自身の来歴とその思考方法とが、彼の部屋の本棚の様子と、あまりにも直結していそうなことが面白いし、僕の今後の方向性についても示唆がありそうなので、訪問してよかったと思った。
 その本棚を見る限り、学生その他のオルグなど民族グループを組織すると同時に、そのシンパとして日本の学生組織を操縦したりする種本として役立ちそうなもの以外のものは殆どなく、そんなものしか読まない<政治的人間>は、自分のそうした文化的貧困には気づかないままに、その事態をむしろ自慢することで空白を埋めることになりそうに思えるなど、僕の野次馬根性をいたく刺激しもした。
 本棚に僕が見た<寂しさ>と表裏一体になっているのが、先に触れた北の指導者の肖像写真に対する尊崇、さらには、机上の家族写真に象徴される情愛の純一さということになりそうな気がした。
 そこに写るすごく肉付きの良さそうな体つきと屈託の影もない笑顔から、両親とその娘と息子らしい4人が、その部屋で暮らす大ボスの肉親であることは一目瞭然で、その娘と息子こそは、大ボスの弟妹で、妹は小学生くらい、弟はもっと幼く、学齢期以前のように見えた。
 当人の説明によると、彼が高校一年時に、つまり、すでに10年以上も前に、自分を大阪にひとり残して、家族全員が「祖国に帰還した。自分も博士の学位さえ取得すれば、その家族を追って祖国に帰り、祖国の建設に貢献する」と言うのだった。
両親ともに北系組織の熱烈な活動家で、長男は日本の先端的工業技術の知識を身に着けて祖国に持ち帰り、民族幹部として祖国発展に尽くせるようにようにと日本に残し、その他の家族は一刻も早く祖国のために全身全霊で尽くすために逸早く馳せ参じた。
 考え方と生き方の厳しさと立派さには、誰だって感銘を受けそうに思えたが、その僕自身は寒々とした気分になった。英雄譚や感動話などは眉唾物と見なして距離を置くといった生来の天邪鬼も作用してのことだろうが、それだけではなかった。
 日々の暮らしの中で見聞してきた<祖国帰還者>の、日本での生き様と帰還後の動静に関しての、なにしろまだ子供なので限られたものにすぎなかったが、それなりに信憑性を備えていそうな情報を考え合わせると、感動などするはずもなかった。
 しかも、小学の6年生時に、正しい民族教育を受けていると賞賛・自慢される民族学校の生徒たちから、正々堂々の一対一の果し合いという名目ながらも、実質的には10対1の集団リンチのような仕打ちを被り、その一団が凱歌を挙げ、嘲笑しながら去っていく後姿を見ながら、ようやく孤独に号泣した経験を忘れられない僕からすれば、北の国家やその在日組織の美しい話など信じられるわけがなかった。
 そもそも自分で実際に見たり聞いたり感じたりしたことに何よりも信を置くといった実感信仰の気味がある僕は、そうした心理的傾向と密接につながる価値観においても、自分と家族の安泰と平穏が何にもまして優先し、普遍的とされる正義や真理などには憧れはしても、あくまで憧れに過ぎないといったように、冷めて白けた感触が常に付きまとう。
 だからこそ、その<大ボス>の家族の愛国的で献身的な物語も、僕がその大ボスをますます敬して遠ざける根拠にはなっても、その人と僕との距離を縮めるようには作用するはずがなかった。むしろ、なんとしても距離を保持することを、改めて自分に言い聞かせた。
 その人と同じ世界では暮らせないし、暮らしたいとも思わなかった。もし下手をしてそんなことにでもなれば、僕のようなタイプの人間は大怪我をさせられる。そんな確信があった。
 要するに、僕なりにその人の世界観の輪郭をある程度は推察していた。その人にとっては、善悪に明白な区別があって、悪を打倒するために役立つか否かが、生き方の絶対的指標として揺らぐことなく、しかも、自分が常に善の側にいるという絶対的信憑を持っているから、僕お得意の自己懐疑など、つけ入る隙もない。そんな世界観や人間観は、僕が最も苦手とするニヒリズムの極致と感じられた。
 しかし、その一方では、「何もかも違いすぎる」ことがあまりにも明白なので、自分でも不思議なほどに気楽だった。相手も僕のそんな内心を見通していたのか、或いは、組織能力と説得力に過大な自信を持っているからか、僕程度の小生意気な青二才など簡単に丸め込んで配下に仕立て上げることができるとでも考えていたのだろうか、僕にとって実にありがたい話を持ち出してきた。

2)政治的人間の政治的工作―人脈づくりとオルグの一石二鳥としてのアルバイト斡旋ー
 旧高射砲台上の貸間と我が家との中間に位置する駅前で、同窓の大先輩が薬局を経営しており、その長男で中学生の家庭教師のアルバイトの話を持ち掛けられたのである。その大先輩も僕ら二人と同じく在日二世だが、僕よりは二回り以上も、大ボスと比べても一回り以上の年配で、将来的には長男を薬剤師にして薬局を継がせたいと考えて、その第一段階として長男の高校進学のための家庭教師を探しているというのである。
 何かの会合で会った際に、その大先輩から家庭教師にふさわしい学生を紹介してくれるようにと依頼された大ボスは、その日に僕とその地域の路上で出会ったとたんに、僕なら家も近くて何かと便利で打ってつけ、と思いついたと言う。
 僕は幼い頃から家業を手伝ってきたが、そのようにいくら家業を手伝っても、父から報酬などもらった試しなどなかった。ただし、コウバの急ぎの仕事で、職人がみんな帰ってから、家族総出で夜遅くまで精を出さざるを得ない場合に限って、出前で「うどんや中華そば」をコウバで手を休めながら振舞ってもらえるのが、僕らの手伝いの駄賃代わりで、大いに喜んだものだった。
 日々の小遣いとしては母から月ぎめで定額をもらっていたが、それはコウバの手伝いとは無関係というのが暗黙ながらも原則になっていて、育ててもらっている僕ら子供が、家業の手伝いで報酬を要求するなんて、我が家の親子関係からは想像もできなかった。
 だから当然、大学入学が決まって以来、毎日、朝から晩までコウバで働いても、報酬などもらったことがなく、高校時代よりは少し上乗せした月ぎめの小遣いで、あらゆる出費を賄わねばならない僕は小遣いにひっ迫していた。
 そんなわけで、まとまった現金収入になるアルバイトが喉から手が出るほど欲しかった僕は、勿怪の幸いと、直ちに快諾した。すると大ボスは、とりあえず僕のことを先方に伝えて約束を取り付けてから、二人でその家を訪問することにしようと提案した。
 約束の日時に駅横の、通称<開かずの踏切>で落ち合って薬局に出向くと、経営者の大先輩夫婦から大いに歓迎してもらった。そして、教えることになる中学生とも話を交わし、早速、翌週から教え始めることになった。
 その後で、大先輩と大ボスと僕の三人はお茶を飲みながら雑談を交わしたところ、薬局の大先輩は仲介者である大ボスが所属する北系の組織とは無縁で、むしろ南系の在日組織傘下の商工会で活動していると言う。僕は、はたと父のことを思い出して、その名を口にすると、大先輩は、「なるほど、あの玄さんの息子さんなのか?」と尋ねてきたので、その<あの玄さん>という人物の氏名を確認したうえで、「確かに僕の父です」と答えると、大先輩の表情が瞬く間にほころんで、「奇遇やなあ。お父さんとはすごく親しく付き合わせてもらってるんだ。そうなのか、それはよかった」と、僕を信頼してもよいという確証を得た様子だった。
 後になって考えてみたところ、薬局の大先輩は僕を仲介した大ボスについては、組織はもちろん、それと連動する思想的差異なども絡んで、警戒心をぬぐえないでいたのに、その人の紹介による家庭教師候補の僕が、その人と商工会で一緒に活動するなど親しくしている地元の人物の息子であることが分かって、すっかり安心できたので、仲介者の大ボスのことなど殆ど気にならなくなって、その大ボスとは距離をとりながら、気楽に付き合えるようになったはずである。その後、二人は共同して、大学の南北合同の同窓会を立ち上げることに尽力したらしく、それは大ボスの全方位外交の成果と思って、僕はなるほどと感心した。 しかし僕自身はその同窓会には一度も参加したことがない。その理由の一つは次のようなことだった
 その家庭教師を斡旋してもらったことで、紹介者である大ボスに関する僕の認識は深まって、それ以前から漠然とながらも芽生えていた警戒心がより明確になった。その人は所属組織とは関係なく、どんな相手でも躊躇いなく近づいて、ごく自然に関係を深める。それが生来のものなのか、それとも、特定の目的、例えば、政治目的のためなのかは定かではないが、ともかく、それを駆使することによってこそ、オーガナイザーとしての資質や能力を高く評価されるばかりか、自認もしていた。彼の住いを訪問して、そのいかにも柔軟な外見の裏にある厳しい内面、あるいは、何にもまして(ただし、家族は別)政治的目的を優先するニヒリズムを垣間見たつもりだった僕は、ますます警戒心を募らせて、その人が関係しそうなイベントへの参加は避けるようになった。
 それはともかく、そのようにして始めた家庭教師は、週に2時間が2回で報酬が月額1万円、当時の相場は8千円以下という噂を聞いていたので、相当な好条件だった。
 因みに、それは僕にとって人生で初の家庭教師ではなかった。中学二年時に、両親が同業で同郷だからと格別に親しくしていたご夫婦の、特にその夫人からしきりに頼まれて、末息子の家庭教師として、月額3000円と中学生にとっては多額の報酬を受け取り、その一部を貯めて、長年の念願だったギターやクラブ活動の野球の道具を買うなど、僕の中学生活を彩る物品を賄った。
その他にも、現金収入になりそうなら、実に多様なアルバイトもした。小学校時代にはほんの2か月に過ぎなかったが、朝夕の新聞配達もしたし、春、冬の休暇中でクラブ活動の妨げにならない範囲では酒屋の配達、正月近くになると餅屋の配達もした。中学生になると、クラブ活動がない日曜日は、朝早くから弁当持参で山中のゴルフ場に向かい、終日、ゴルフのキャディで中学生にしては高額の報酬を受け取るなど、小遣いに不自由することはあまりなかった。
 そんな経験があったからこそ、かえって小遣い不足には我慢ならない。だからこそ、節約に励で急な必要に備えるなど、お金はいつも僕にとって重要な関心事だった。
 それはさておき、既に触れたような経緯と因縁が重なって、薬局のご夫婦からもすごく親切にしてもらえたし、ずいぶんと久しぶりに、小遣いに不自由しなくなった。そのおかげで、夕方にコウバからの仕事帰りには、酒屋の立ち飲みカウンターでの生ビール、さらには夜に手持無沙汰にでもなると、ふらりと立ち飲み屋に一人で通うなど、すっかりいっぱしの酒飲みにもなった。
 しかも、僕のように幼い頃から小金大好きだった子供のなれの果てにとって、お金への執着にはキリがなくて、柳の下の二匹目の泥鰌を探すようになったあげくには、とんでもない困難を背負いこむことになるのだが、それについては後に詳述することにして、朝文研と留学同との曖昧ながらの蜜月の果ての決裂について語らねばならない。一年生時の夏のことだった。

3)留学同の合宿学習会からの遁走―朝文研、留学同との中途半端な蜜月の終わりー
 学内、学外の上級生や専従活動家のオルグを受けるうちに、僕は韓文研への親近感は強まる一方で、朝文研とは関係を続けられそうにないと思うようになった。それなのに、焦ることはなく、もう少し様子を見てから結論を、などと先延ばしにして、朝文研の集まりにも誘われて都合がつきさえすれば参加していた。
 そもそも、どんな集まりであれ、酒が絡む気配が少しでもありそうなら、いつでも参加に努め、自分勝手な酒の予想が外れた場合には、大いに落胆しながら寂しく帰路につくといった体たらく。酔いの楽しさと、それがもたらす緊張からの解放、そして集団的な一体感に僕は引き寄せられていたわけである。
 しかし、それは必ずしも手放しのものではなく、抵抗感もいろいろあった。特に朝文研と留学同の場合がそうだった。
美しく正しそうな論理、判で押したように誰もが同じような語彙、リズム、口調の三位一体、さらには、まるで外交辞令のような祖国とその指導者への謝辞や賞賛、そうしたものに対する違和感、拒否感が募って、将来的にもそれを拭い去って馴染めるなんて思えなくなっていた。それなのに、親切な言葉や、柔軟な対応には、情にほだされるのか、ついついどっちつかずの対応になってしまい、しきりに誘われたあげくに、留学同の合宿学習会にも参加することになった。
 それを契機に僕の最終的な態度決定もするつもりもあってのことだったが、それはやはり自己合理化の理屈にすぎず、執拗な誘いに、優柔不断の僕が押し切られたというのが正直なところだった。
 場所は京都の郊外に位置する留学同の寄宿舎だった。そこには普段は、京阪神の大学に通う留学同の学生たちが共同で生活しているが、夏季休暇中には寮生の一部が帰省や、留学同の日本各地での地域活動などで、宿舎を留守にするので、その空きベッドなどに加えて、大会議場や学習室などを活用しての、大学新入生のほかに、留学同の上級生でその寄宿舎で生活する学生もサポーターとチューターとして参加していた。そして、学習会の講師としてはある程度の年配の留学同の専従活動家に加えて、上部団体である総連や兄弟組織である青年同盟の専従たちだった。
 留学同の施設は初訪問だった。留学同や朝文研の関係者と会うのはいつも喫茶店や料理屋や所属大学内など、いわばオープンな場所に限られていた。僕が意識的にそうしていたのかもしれない。さすがに警戒心があったのだろう。それが今回は、留学同組織の根城ともいうべき施設での、それも寝食を共にしての学習会だけに、怖いもの見たさの野次馬根性もあったに違いなく、確かに怖かったからだろう。僕なりの安全弁を用意しようと画策した。
 韓学同の行事で知り合って以来、性格も考え方も正反対なのに、格別に気があった他大学の新入生がいて、その友人と相談して、「見物がてら」などと無責任そうな照れ隠しも用意しながら、一緒に参加することにしたのである。
 しかし、そんな軽口の一方で、口には出さなくても、二人ともそれなりの真剣さを持ち合わせているという信憑もあった。その組織に対して拭えない違和感や不快感、そして拒絶感の根源が何かを整理して、自分で納得できる理屈と形で別れを告げる契機にしたい。それが二人の暗黙の了解事項のつもりだった。
 二人とも留学同の関係者から誘われる一方で、特別に警戒されていそうな気配もあったので、そんな二人が連れ立っての参加はやはり拙いだろうと、別々に時間もずらして、その合宿場所に向かった。
 電車を乗り継ぐなど、初めての地域ということもあって、相当に緊張しながら目的の駅で降り、徒歩で寄宿舎に着いた。その敷地は思いのほか広くて、樹木などの植栽もあり、落ち着いた雰囲気で、一隅には小さな池もあった。
 後で聞いた説明によると、その池は初期の寄宿生たちが、朝鮮半島をなぞって作ったもので、愛国精神が込められたものだと言う。その寄宿舎では一泊する間に、そのたぐいの話を山と聞いて、何もかもに、北の指導者と党、そして在日の先人たちの血と汗と愛情が込められているという話が付きまとった。学習とはそのことを体感し、自分の心身に刻み込むことのようだった。
クリーム色の瀟洒な建物が、鉄筋の三階建てか四階建てだったが、今では記憶がおぼろになってしまったが、ともかく、その寄宿舎中央の玄関を入って、参加手続きを行った。学習資料などを受け取り、割り当てられたドミトリーには学生チューター(そ この寮生のうちでも指導者グループ)の案内で向かった。
 ドミトリーのドアを入ると、左右に二段ベッドがあり、さらに奥の窓側には、机も左右に二つずつ据え付けられ、その他に個人の身の回り品を置くスペースもあり、4人共用で、寝ることも勉強も可能である。しかも、そんなドミトリーとは別に、寄宿生全員が共用する学習室にも案内を受けたが、そこでは同じドミトリーの学生の迷惑など気にせずに時間制限なく勉強できる。
その他、シャワー室、講義を受ける大会議室も下見して、滞在中の規則などについても、案内係の学生から詳細な説明を受けた。
 最後に、朝、昼、夕の三度の食事をする食堂にも案内してもらった。案内係の学生は、普段からその施設で寄宿生活しており、食事も含めた寮費が格安なので、最低限の出費で良好な環境で学生生活を送れているが、それも祖国の指導者を筆頭に、在日の関係者の愛情の賜物で、とりわけ、食堂の賄いどで献身してもらっている女性同盟の「お母さんたち」の気遣いの行き届いた親切には常々、感謝の気持ちしていると、繰り返して言っていた。
 ちょうど、食器洗いに勤しんでいた中年の女性たちは、自分の子供や弟を相手にするように、寮生の世話を焼いてくれるらしく、たまたまそこに来た僕らにも、実に気さくに声をかけてくれた。ファミリー国家の庇護を受けたファミリー組織、そしてファミリー共同体の情愛に満ちた教育と生活の空間というわけだが、僕は相変わらず警戒心が勝って、計算されたショーの臭みを感じ取ってしまい、そのことで申し訳なく思ったりするなど、内心で自分の気持ちの処理に困っていた。そんな記憶も残っている。
 開講式の時間が近づいたので、ガイダンスと開講式の会場とされた大会議室に向かった。前方中央の教卓の横には主催者である留学同の関係者と講師陣が陣取り、それと対面する形で、僕ら一般参加者とチューター役やサポーター役の寄宿生が、組み立て式の机の前のパイプ椅子に座っていた。
 但し、実はこのあたりは、うろ覚えの断片的な記憶に基づいた記述なので、あくまでそのことを前提にして読んでいただきたい。そのうえで、明らかな間違った記述に関する指摘やお叱りは、ありがたたく拝聴して訂正に努めるつもりだが、それについてはあらかじめお断りして、ご寛恕のほどをお願いしておきたい。
 学習会の主たる会場は大会議室だったが、夕食後のグループ別の討論では、約10人単位が円座になって、寄宿生のチューターの先導で行われた記憶があるのだが、それはいったいどこで行ったのか、記憶がない。その一方で、僕が組み込まれたグループのチューター役が、受付時に親切に対応してくれた、いかにも優等生で生真面目で親切そうな寄宿生だったが、その討論で僕に相当に警戒感をもって過敏に対応する気配があった。それも僕がその合宿からの予定よりも早い離脱の要因の一つだったかもしれない。招かれざる客の自覚とでもいうか。長居をしているわけにはいかないし、長くいても、何の収穫も得られないと悟った結果だった。
 大会議室での学習会の開講式では、厳粛な表情と立ち居振る舞いの中年から老年の年配の講師陣、そしてそれと対面して、数十名の僕ら学生たちがパイプ椅子で座っていた。それについては確かな記憶があり、それだけの人数を収容してもまだ余裕があるほどに広い会議室だった。その会議室を中心として、その日の午後全部、そして翌日の午前の半ばまで、僕ら二人は辛うじて、何の事故も起こさずに講義を受けたが、内心では我慢ならなくなって、翌日の午前の講義の合間に遁走することにした。
 したがって、その他の参加者のその後のことなどは全く知らない。その合宿がそもそも何泊の予定だったのかも、今では定かではないのだが、せいぜい、1泊か2泊の予定だったのだろう。それ以上に長い予定だったなら、僕らにはとうてい無理だからと、端から参加しなかったに違いない。結果的には、辛うじて一泊だけはしたものの、その後が続かなかったから、僕ら二人はやはり、留学同の人たちが僕らに押した烙印だろう<ひどい新入生>だったことを認めないわけにもいくまい。
 因みにその寄宿舎も北の共和国から在日に対する親心で送られてきた教育に関する財政援助のおかげで建てられたという、なんとも美しく有難い話をその合宿に参加している間にも何度も聞かされたが、僕はその時点で既に、そんな話は眉唾ものと思っていた。
 それくらいの補助金なら、在日が北に送った膨大な寄付その他とは比較にならず、在日の膨大な寄付の一部をそのように親心などという言葉の包装紙にくるみ立派な熨斗まで付けて還流させたものに過ぎないと考えて、その種のお涙頂戴式の愛の物語をあざ笑うくらいだったから、そんな生意気で不埒な若者に講義をしていた方々にとっても災難だったろう。しかし、他方の僕らも、退屈極まりない講義を、黙って拝聴していたのだから、お互い様ではなかろうか。
 僕がその一泊の合宿学習会に耐えられなかったのは、実に多岐にわたる理由によるが、その一つが既に相当に自堕落になっていた僕自身の生活習慣だったことは疑いを容れない。 
 大学生ながら、コウバの仕事を手伝っているからと、僕は仕事帰りには立ち飲みで生ビールを一杯、あるいは、夕食時には父と御相伴しての晩酌の習慣などもすっかり身に着けていた。それだけに、その合宿ではアルコールが飲めそうにないことが、参加以前から不安で不満だった。
 <神聖な学習合宿>に参加する身でありながら、そんな<つまらない>心配をしているほどだったから、端から参加資格を欠いていたわけである。そんな僕が、厳しく美しく正しい北の路線と歴史認識の押し付け的講義に興味を持つはずも、理解できるはずもなかった。
 本当に恐ろしく退屈で苦痛だった。だからこそ、そんな内容を真理のご託宣のように話し続ける相当の年配の人たちの挙動が、いくら仕事でも、そして、真実でも、なんとも不思議だから、せめてその謎の一端なりとも見つけ出そうと観察に努めたが、発見など何一つなく、むしろ,嫌悪感が募るだけだった。
 初日の午後の、最初のプログラムで既にうんざりしていた僕だから、夕食後にも討論が続き、そんな場で、<民族心>を獲得、もしくは回復する過程の感動話をいかにも真剣に語る参加者にも我慢ならなかった。それなのに、その学生たちの中には、就寝時間にも、昼間の講義で学んだ内容をより深く理解するために、自習室で勉学に励むという殊勝な学生もいたらしい。
僕はもちろん、そんなことをするはずもなく、グループ討論が終わると、さっさとシャワーを浴びて、指定されたドミトリーに戻ると、何一つすることなどなく、たまらなく帰りたくなった。
 就寝に先立って、二人で相談して参加しながらも別のドミトリーを割り当てられた友人と、廊下ですれ違った際に、「そろそろ限界やけど、どうするかは明日の朝に決めよう」とささやきあったが、その余韻なのか、かなか寝付けなかった。脱走したら、ここの人たちどのように対応するのだろうか・・・
 翌朝は早朝から、部屋のスピーカーその他、あちこちから、<人民体操>が始まるので、直ちに屋上に集合という大音声の指示が轟き亘った。昨夜はうまく寝付けなかったこともあって、だるい体に鞭打ち、寝ぼけ眼をこすりながら屋上に出た。連れの友人を探したが、見当たらなかった。やがて、マイクからの元気溌剌な指示に従って<人民体操>が始まったので、まったくやる気が出ないままに、だらだらと体操もどきを行ったが、恐ろしく扱った。それが終わると、一階の食堂で朝食をとった。何を食べても味がしなかった。その後に、またもや大会議室での学習会が待っていた。そこへ行く途中で、連れの友人と連絡を取って、午前の一時間半の講義を最後として、脱出することで合意した。しかし、無断でそうするのは逃げたことになるので失礼だからと、それは避けるという点で意見が一致した。どのように非難されても、きちんと宣告してから、立ち去ることにした。
一時間半の講義は前日にも増して退屈で、ずっと辛抱との戦いだった。それが終わり次第、僕らはそれぞれが自分のドミトリーに足早に戻って荷物をまとめ、連れだって一階の責任者の部屋に赴いて面会を求めた。そして、「突然のことで申し訳ありませんが、すぐに帰宅しなくてはならなくなりました」と、一方的に告げた。先方も既にその気配を感じ取っていたのか、厳しい目つきで睨みつけ、「民族主体性が云々・・・」と、僕らの学習態度、生活態度に関する非難が続いた。その中には、参加以前から、やはり僕らは目をつけられて、警戒の対象だったことも、暗に告げられたが、僕らにはそんなことに耳を貸す余裕などなくて、相手の非難など完全に無視して、外にとび出た。
 追いかけられるのではと心配していたが、そんな気配はなかった。それでも、門を出てから最寄り駅まで、振り返る時間も惜しんで、速足で懸命に歩いた。駅前の喫茶店に入いり、背後や周辺を見回して、追手が見当たらないことを確認して、ようやく一息ついた。
 さて、どうしようかと思案したが、あてなど何ひとつなかった。確かなことは、そのまま帰宅する気にはなれないことだった。興奮というか、緊張が続いていた。
 そこで、映画でも見て時間を潰し、夕刻になってから、韓学同の上級生と会って、酒でも飲みながら話してみるということで話はまとまった。
 僕ら二人とも特別に信頼していた僕の大学の三年生に電話して、夕刻に会う約束を取り付けてから、電車で梅田に出て、映画館受付で、時間表を確認した。お目当ての映画の開始時間に合わせるために、時間つぶしも兼ねて、またしても喫茶店で軽く昼食をとってから映画を見た。何の映画だったかは、まったく記憶にない。興奮が収まっていなかったのだろう。映画が終わると、上級生との約束の場所に赴いて、3人でしこたま酒を飲み、山のようにたまっていた一日半のストレスを吐き出しては酒で洗い流した。
 それ以来、留学同はもちろん、学内サークルの朝文研からも誘いがこなくなったので、助かった。僕らは札付きの反動分子、さらにはスパイとでも呼ばれていたのだろうが、そんなことはどうでもよかった。それにしても、僕らを警戒していながら、なぜ、彼らはそんな僕らを誘ったのだろうか。合宿で鍛え上げれば、何か良い効果でもあるものと信じてのことだったのだろうか。或いは、ひたすら参加人数を確保して、成功を喜ぶためだったのだろうか。彼らはどのように後始末したのだろうか。
 
 以上の記述はすべて僕と友人の若かりし時代の、北系の組織から見ての<不純分子>としての、その組織や人々に関する否定的心証を、断片的な記憶に基づいて構成したものにすぎず、それがそのまま客観的真実だったなどと主張できるものではない。要するに、甚だ一面的な極私的な過去の記述である。そのことを、改めて強調しておきたい。
 僕は当時も今も、権威主義的に見えること、形式的に見えることを拒否することに、過敏にこだわっていた。しかし、だからと言って、僕が権威主義と無縁だったとは言えそうにない。
 僕が暮らしていた当時の日本社会において、僕の周囲の身近に感じる個人や集団で、最も権威主義的に僕を圧迫してくるような感触があるからこそ、僕が懸命に忌避し、拒否したいと思っていたのが、留学同であり朝文研であったというに過ぎない。それ以上に権威主義的な個人や団体はいくらでもあったが、それは僕とは無縁のものと思い込んでいたというだけのことなのである。
 僕の青春について記述する際には、僕に見えたもの、それをベースにして感じたことなどをないがしろにするわけにはいかなかった。しかし、ここで僕が否定的に記述していそうに映る方々から見たら、僕の方こそが、日本の時代的風潮に深刻な影響を受けて、それを浅薄に真似るがあまり、放縦に陥っては、神聖な民族運動を汚す輩と見えたことだろうし、そのような見方を僕としても否定するわけにはいかない。
 どこかの時点でのボタンの掛け違い、あるいは、すれ違いのようなことが、そのまま現在まで持ち越されてきたようで、なんとも残念なことだったし、今でもそうなのだが、それでも少しは触れ合った同時代の人々に対して、僕なりの尊敬の気持ちなどを、いつかしっかりと表明できるようになることを、僕なりに心の底から願っている。
 忌憚のないご批判を心から待ち望んでいる。(ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の14に続く)


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