塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の3
7.塚崎さんの異変
ネット飲み会のメンバーうちの何人かは、塚崎さんに何か異変が起こっていそうな感触を持つようになった。それが今から2年半か3年ほど前のことだった。
当時は、その深刻さの感じ方には個人差があったし、塚崎さんの死後にも、それらの異変と死を結び付けたかどうかについても、個人によって違っていただろうが、異変の感触は「zoom飲み会」のメンバーに共有されていたはずである。中でも僕などは、両者に緊密な関係を想定した筆頭だろう。
但し、そんな感触は、後知恵の色合いを否定できないし、いち早く両者の密接な関係を予見していたとしても、塚崎さんのその後、とりわけ、死そのものが生じなかったようにすることなどできなかっただろう。
当人が事態を直視して、その事態を受け容れて対処する覚悟をしない限り、外野からの中途半端な心配など、なんの意味もなかっただろう。塚崎さんには自分の心身の状態などはさておいて、すべきことがあったからこそ、心身の現実を直視することを避けていたのかもしれない。それが現時点での僕の推測の有力なものの一つなのである。
それはともかく、塚崎さんの<異変>について小出しにするだけで、その内実についてまともな説明をしてこなかったが、そろそろ、その<異変>の数々を具体的に、順を追って紹介しておかねば、前に進めそうにない。
死の病はシグナルを送ってくれていた。そのことに、事が終わってようやく、僕らもはっきりと気付いた。しかし、その全部ではなくて一部くらいなら、リアルタイムで感知していたように思う。
奇妙な事件がその始まりだった。3年ほど前(塚崎さんの死の2年ほど前)のことだった。既に「zoom飲み会」を定期的に開催していたが、その会の途中で、塚崎さんはその事件について僕らに、奇妙な事件のことを話した。
ある夜、最寄り駅から自宅への帰路にあたる路上で、気を失って倒れていた。それを通行人が発見して警察に通報した。警察は直ちに駆け付けて、塚崎さんを起こし、事件性の有無などの調査を始めた。本人は目覚めてからも、自分が何故にその路上で倒れていたのか、その間の記憶がなかった。最寄り駅に着いて、馴染みの店で一人酒を飲んだ以降の記憶のことである
大阪の都心での何かの研究会に参加し、それが終わると二次会で、いつものようにしこたまビールを飲みながら、参加者たちと楽しく過ごした。その酒席がお開きになると、自宅の最寄りの駅である北大阪急行の江坂駅で下車して、自宅までの帰路に位置する馴染の店で、ひとり酒で締めをした。そこまでは覚えていたが、その後の記憶がまったくないことを警官に話した。
警官はそんな証言を受けて、一人で酒を飲んだという居酒屋に塚崎さんと同行し、店の関係者から塚崎さんが店に立ち寄って去るまでの一部始終について尋ねた。しかし、その後の事件を想起させることなど何一つなかったという答えが返ってくるだけだった。
その話を「zoom飲み会」で塚崎さんから聞いた僕も、塚崎さんが酔った勢いで誰かとトラブルを起こしたあげくに、殴り倒されて意識を失ったまま、路上で眠っていたなど、想像もできなかった。
酒癖の悪いことで有名な僕ならいざ知らず、塚崎さんはそんな僕とは正反対で、酒に酔ったあげくに喧嘩沙汰になるような人では、断じてない。
20年にわたって一緒に深酒を繰り返してきた僕が、自信を持って請け合える。そんな彼にももちろん、酒癖がいろいろあったが、そのどれをとっても他愛ないことだった。酒癖と言うより、体の自動反応とでも呼ぶのがふさわしかった。
例えば、こんなことである。それまで機嫌よく楽しく話していたのに、何の予兆もなしに、ばたっと上半身が崩れて、下手をすると額を卓上の酒や肴にぶつけてしまいかねないのだが、いつもそれは見事に外していた。そんな急な動きには驚かされたが、本人はそのまま、卓に頭をのせて眠っていそうな気配である。そして、ほどなくすると、まるで何事もなかったかのように体を起こし、既に意識はしっかりしていて、改めてビールを注文して、元気に飲みだす。
さっきのことは何だったのか、僕にはもちろん、当人に尋ねても分からない。塚崎さんは照れ隠しなのか笑うだけである。
そんな塚崎さんも歳をとるにつれて、素面でも活舌が悪くなって、懸命に話す内容をうまく聞き取れないようなことも多くなった。そのうえ、酔っぱらうと、舌がもつれて、話していることがますます分からなくなった。しかし、僕はその表情や前後の話から、何を言いたいのかの見当をつけて、うんうんと頷いて済ますようになった。聞き返すことで話の腰を折りたくなかったし、変に聞き間違いをしそうな心配など、僕にはまったくなかった。塚崎さんの話の展開はだいたい。読めているつもりだった。
老いに伴うそんな変化が酒を飲むとひどくなると言っても、酒席で同席している人や、たまたまその近くに居合わせた人に対して、手をあげたりはもちろん、誰かのことを汚い言葉で罵ったり、悪口を言ったりすることも殆どなかった。そんな性格だし、飲みっぷりだった。素面でも酔っぱらっていても、その基調は殆ど変わらなかった。他者に対する寛容、それが塚崎さんの万事の基本だった。
それだけに、酒癖の悪い僕なんかに言わせれば、いたって健康的で、むしろ健康的すぎるほどだった。但し、実際に当人の心身が健康と言うよりも、<あと腐れのない飲み方>くらいの意味であり、二日酔いで苦しんだような話も、僕は当人から殆ど聞いたことがない。その意味でも、いつも長くきつい宿酔いに苦しんでは。なんの意味もない後悔に苛まれてばかりの僕とは対照的だった
それはともかく、駆け付けた警官は、居酒屋での調査の後では、念のために、病院にも塚崎さんを連れて行き、脳の検査などもしてもらったが、何も異常はないとの診断結果で、それ以上はなす術がなかった。肝心の塚崎さんは、そもそも記憶がないのだから、どうしようもなかった。しかも、その後に身体の異変もないので、やれやれだった。塚崎さんは、事件のあらましをそのように淡々と話した。
ところが、僕はちょうどその前後から、塚崎さんの表情や声の調子、そして機嫌の基調が変わったように感じていた。
但し、先にも触れたことだが、この種の記憶は相当にいい加減なものである。後知恵の懸念もぬぐえない。それでも、現在の僕の記憶ではそうなので、そのように書くしかない。
先ずは、塚崎さんは、本人が意識している以上に、その事件でショックを受けていそうに思った。
既にも触れたように、塚崎さんからその話を聞いたのは、パソコンのzoomを通してのことだったから、塚崎さんの表情その他を僕が正確にとらえていたという自信はないのだが、塚崎さんはその事件以来、どこかが変わったと思えることがいろいろとあった。
そこで、しばらくしてからのことだが、これまたzoom上で、塚崎さんに、どこかおかしいのか質問してみたところ、先にも少し触れたことだが、「鬱です」との返事で、その時の表情も声も口調も、なるほどとそうだったのかとすぐに納得できるほどに、力がなかった。
その時になって、鬱はあの路上で眠っていた事件が契機だったことがほぼ確実だと確信した。当人はその事件を鬱症状と関係づけていそうにはなかったが、そうだからこそかえって、彼の無意識、或いは、前意識におけるショックの大きさが、証明されていそうに思えた。体力に人一倍の自信があった塚崎さんだから、余計に、そういうことになるのではと考えた。
8.異変の2―家の中での事故―
路上の事件から半年以上が経っていた。コロナ禍が小康状態になったので、「聞く会」を生野区民ホールの会議室を借りて行うことになった。ところが、その日の午前中に塚崎さんから、家の中でちょっとした事故が起こり、目の周りをひどく傷つけてしまったので、午後の会には参加できそうにない、との連絡を受けた。どんな約束であれ、塚崎さんが急に参加を取りやめるなんて、すごく珍しいことだったが、前の事件のこともあって心配していたので、その方がよいと判断した。
「了解です。絶対に無理をしてはダメですよ。今日のような会なら、今後もいくらでも設定できるから、今日は何よりも体を大事にして、休養してください。特に目の周囲の怪我は危険だから、くれぐれも無理はしないで・・・」と、しつこく念を押して、休息を勧めた。
ところが、予定の時間よりは少し遅れたが、塚崎さんが会場に姿を現したので、驚いた。しかも、左目の周囲がひどく腫れて黒ずみ、その上からガラスに大きく傷がついた眼鏡をかけており、はたしてそれできちんと見えるものなのか、心配になるほどだったこともあって、呆れてしまった。
義理堅さは誰もが知っている塚崎さんのことだからこそ、何度も念押しして、休むように言ったのに、と困ってしまった。しかも、見るからに、すごく疲れていそうで、義理堅さもほどほどにしないと、この先が思いやられた。
それだけではない。その会では言葉数が普段とくらべると、めっきり減った。それでも、重要なところではきちんと質問をするのを見て、さすがと思った。しかも、二次会は延々と二軒のはしご酒になったのに、その最後まで付き合ってくれた。
幸いに、飲む量は抑制していたのか、足元はしっかりしていそうだったし、帰路では僕は実家に泊まる予定なので、塚崎さんが 下車する前の駅までは同行できるので、その先でのさらなる事故の心配はないだろうと安心して別れた。
僕が本当に心配になりだしたのは、その時のことだった。その家庭内での事故の話が、塚崎さんの説明では納得できにくかったこともあるし、彼自身が精神的に相当に参っていたこともあって、説明を端折ったせいもあったのだろうが、台所で料理をしていて、目の前の棚から鍋か何かを取り出そうとしたところ、その鍋が何かの拍子に落ちてきて顔面にぶつかったというような話だったが、なんだか信じられなかったからである。心身のどこかに何かが生じているからこその事故ではなかったのかと
そんな状態で酒を飲めることも不思議だったが、「さすがに塚崎さん」と自分にとって都合のいい理屈で、心配をねじ伏せた。否、すごく心配はしていたのに、それを以下で長々と紹介するような理屈で、<焦眉のものではない>から心配はしないようにしようなどと、考えた。少なくとも僕はそうだった。
9.燃え尽き症候群―人生の転機の過ごし方―
要は(これは塚崎さんの口癖)、鬱症状をどのように捉えるかという問題だった。
塚崎さん自身が告白した鬱症状のことを、塚崎さんのそれまでの生き方の必然的な結果である、と僕は考えた。つまり「バーンアウト(燃え尽き症候群)」だから、この機会に、心身の徹底的なチェックがてらにしっかりと休養をとる。そして、それまでは致し方なく重ねてきた無理に、しばらくは別れを告げて、積もり積もった垢としての、人間関係のしがらみや、思考や情動の硬直などを整理して、何にも増して、新たに生きることを重要目標とする。そのためにも、生活と人生の方向転換を試みてもらえれば、塚崎さんの新たな姿にお目にかかれることを期待した。
僕がそのように考え始めたのは、実は、当人による鬱の告白よりもはるか以前のことだったし、僕自身の痛い経験と照らし合わせてのことだった。
実は、その20年ほど前に、僕にもよく似たことがあった。誰であれ人生のどこかで必ずその種のことが襲い掛かってくる。人生とはそういうものであることを覚悟して、それが襲い掛かってきたら、それにきちんと対応しなくてはならない。それを怠ると、必ず痛い目に合う。
僕の場合は、心身の疲労の蓄積が限界を超えているのだから、収入が大きく減るなど経済的困難や将来不安のことはひとまず仕方ないこととして受け入れて、心身の回復を最優先に考えた。労働時間は半減、しかも、最もストレスフルだからこそ割の良かった仕事を断念したので、収入は3分の1に減った。それでも、命とは比べられないと諦めた。そして、多様な検査のために病院通いを繰り返した。医師の兄が、僕の症状は自殺衝動の懸念があると心配して、懇意にしている専門医の予約をとってくれまでしたので、心療内科も受診した。
担当医師は1時間もじっくりと僕と対話した後で、「一応、念のために薬を処方しますが、服用するかどうかは、ご自身で決めてくださって結構です。薬に頼らずとも毎日が齟齬世相なら、それで結構です。まだまだ寿命は十分にあります。無理を避けて、存分に楽しんでください」と笑顔で僕に告げた。
その他、持病の胃腸関連の投薬と休養、そして適度な運動を極力、心掛けた。起床して2時間ほどは軽い散歩や通勤時間にあて、その後でゆっくりと軽めの朝食を摂るようにした。そうした工夫の成果として、ひと月で10キロ近くも落ちてしまった体重だったが、1年後には半分近くまでとり戻した。すっかりなくなっていた食欲も、半年後には、少し息を吹き返した。気持ちのいい空腹感を久しぶりに覚えた時には、生きかえったみたいに嬉しかった。
その間に最も困ったのは、便秘と下痢が交互にやって来ることで、不意の便意が恐怖で、電車に乗るのも怖いくらいだった。そこで、電車に乗る前には便意があろうとなかろうと、必ずトイレでしっかり時間を過ごして、必ず用を済ますように心がけた。急を要したらすぐにでも下車できるようにと、各停電車だけを利用した。
酒とコーヒー、さらには人付き合いも極力減らした。いくら楽しそうに思っても、気遣いが必要そうな会合は断った。そのおかげなのか、一年後には胃腸の自覚症状は殆ど消えた。辛うじて生き延びることができて、一息ついた。しかし、完治などとは思えなかった。失った体重も半分は戻らなかったし、ストレスが続くと、少し時期がずれるが、必ず胃腸のひどい変調が始まり、復調するには長い歳月を要した。
だから、僕は相変わらず半病人であると、自分に言い聞かせると同時に、周囲にも言いふらして、誘いがかからないように、そして、誘いにすぐに乗ってしまう僕の馬鹿さ加減にも、歯止めをかけるように努めた。
他方、僕と違って塚崎さんの方は、燃え尽き症候群ときちんと向き合わなかった。身体に自信があったからか、僕のように、<踏みとどまって、生き延びるための方策>など必要には思えなかったのだろう。それどころかむしろ、してはならないことに、むしろ逃げ口を見出そうとしたふしがある。
週に数回、自宅での資料の確認や論文などの執筆作業を終えると、ジムでウェイトトレーニングに励んでからサウナに入り、その日に運動とサウナで落とした体重3㎏を、その後の大量のビールで取り戻すのだと、自慢していた。
中年を過ぎた者の体に、そんなことが良いわけがない。何よりも心臓への負担が大きすぎる。それなのに、自分の健康を信じていたのか、医師の診察も検査も受けなかった。あるいは逆に、どこかで健康に不安を抱いていたからこそ、それに目を背けていたのだろう。検査を受けて、ドクターストップでもかかれば、自分が長年にわたって用意してきた仕事の妨げになりかねないからと、自分にも、とりわけ、伴侶の大田さんには何としても秘密にしようとしていたのではなかろうか。
検査を受けて、もし何か問題があって、それが周囲に、とりわけ伴侶に知られでもしたら、自分の夢の実現の障害になりかねないと惧れて、そんな事態を避けるには、検査を受けないに越したものはない。予定の大事な仕事さえ終われば、きちんと検査を受けるつもりだから、少しの猶予を自分に許しているだけだと。
ところが、そんな思惑通りにことは運ばなかった。
やがて症状が深化して、僕の見る限りでは、以前には殆ど見たことのない不機嫌が加わった。
例えば、格別に可愛がっていたずいぶん年下の仲間であるKさんに対する、知らない人には、厳しすぎるように映る叱咤、その質が変わった。Kさんもそう感じたに違いないと思い、念のために尋ねてみたところ、口では何も言わないが、僕の老婆心ではなさそうな様子だった。
以前は、<可愛いからこそ>という感じの方が強く、叱る方も叱られる方も「じゃれて」いそうに見えたりもして、羨ましいくらいだった。<絆>をより強めるためのスパイスが叱咤だったのだろう。ところが、塚崎さんが亡くなった年である2024年を迎える頃になると、塚崎さんは本気で苛立って、棘のある口調と内容に変わって、傍から見ている僕までもがたじろぐほどだった。
(2024年9月7日14時30分、塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の4に続く)
7.塚崎さんの異変
ネット飲み会のメンバーうちの何人かは、塚崎さんに何か異変が起こっていそうな感触を持つようになった。それが今から2年半か3年ほど前のことだった。
当時は、その深刻さの感じ方には個人差があったし、塚崎さんの死後にも、それらの異変と死を結び付けたかどうかについても、個人によって違っていただろうが、異変の感触は「zoom飲み会」のメンバーに共有されていたはずである。中でも僕などは、両者に緊密な関係を想定した筆頭だろう。
但し、そんな感触は、後知恵の色合いを否定できないし、いち早く両者の密接な関係を予見していたとしても、塚崎さんのその後、とりわけ、死そのものが生じなかったようにすることなどできなかっただろう。
当人が事態を直視して、その事態を受け容れて対処する覚悟をしない限り、外野からの中途半端な心配など、なんの意味もなかっただろう。塚崎さんには自分の心身の状態などはさておいて、すべきことがあったからこそ、心身の現実を直視することを避けていたのかもしれない。それが現時点での僕の推測の有力なものの一つなのである。
それはともかく、塚崎さんの<異変>について小出しにするだけで、その内実についてまともな説明をしてこなかったが、そろそろ、その<異変>の数々を具体的に、順を追って紹介しておかねば、前に進めそうにない。
死の病はシグナルを送ってくれていた。そのことに、事が終わってようやく、僕らもはっきりと気付いた。しかし、その全部ではなくて一部くらいなら、リアルタイムで感知していたように思う。
奇妙な事件がその始まりだった。3年ほど前(塚崎さんの死の2年ほど前)のことだった。既に「zoom飲み会」を定期的に開催していたが、その会の途中で、塚崎さんはその事件について僕らに、奇妙な事件のことを話した。
ある夜、最寄り駅から自宅への帰路にあたる路上で、気を失って倒れていた。それを通行人が発見して警察に通報した。警察は直ちに駆け付けて、塚崎さんを起こし、事件性の有無などの調査を始めた。本人は目覚めてからも、自分が何故にその路上で倒れていたのか、その間の記憶がなかった。最寄り駅に着いて、馴染みの店で一人酒を飲んだ以降の記憶のことである
大阪の都心での何かの研究会に参加し、それが終わると二次会で、いつものようにしこたまビールを飲みながら、参加者たちと楽しく過ごした。その酒席がお開きになると、自宅の最寄りの駅である北大阪急行の江坂駅で下車して、自宅までの帰路に位置する馴染の店で、ひとり酒で締めをした。そこまでは覚えていたが、その後の記憶がまったくないことを警官に話した。
警官はそんな証言を受けて、一人で酒を飲んだという居酒屋に塚崎さんと同行し、店の関係者から塚崎さんが店に立ち寄って去るまでの一部始終について尋ねた。しかし、その後の事件を想起させることなど何一つなかったという答えが返ってくるだけだった。
その話を「zoom飲み会」で塚崎さんから聞いた僕も、塚崎さんが酔った勢いで誰かとトラブルを起こしたあげくに、殴り倒されて意識を失ったまま、路上で眠っていたなど、想像もできなかった。
酒癖の悪いことで有名な僕ならいざ知らず、塚崎さんはそんな僕とは正反対で、酒に酔ったあげくに喧嘩沙汰になるような人では、断じてない。
20年にわたって一緒に深酒を繰り返してきた僕が、自信を持って請け合える。そんな彼にももちろん、酒癖がいろいろあったが、そのどれをとっても他愛ないことだった。酒癖と言うより、体の自動反応とでも呼ぶのがふさわしかった。
例えば、こんなことである。それまで機嫌よく楽しく話していたのに、何の予兆もなしに、ばたっと上半身が崩れて、下手をすると額を卓上の酒や肴にぶつけてしまいかねないのだが、いつもそれは見事に外していた。そんな急な動きには驚かされたが、本人はそのまま、卓に頭をのせて眠っていそうな気配である。そして、ほどなくすると、まるで何事もなかったかのように体を起こし、既に意識はしっかりしていて、改めてビールを注文して、元気に飲みだす。
さっきのことは何だったのか、僕にはもちろん、当人に尋ねても分からない。塚崎さんは照れ隠しなのか笑うだけである。
そんな塚崎さんも歳をとるにつれて、素面でも活舌が悪くなって、懸命に話す内容をうまく聞き取れないようなことも多くなった。そのうえ、酔っぱらうと、舌がもつれて、話していることがますます分からなくなった。しかし、僕はその表情や前後の話から、何を言いたいのかの見当をつけて、うんうんと頷いて済ますようになった。聞き返すことで話の腰を折りたくなかったし、変に聞き間違いをしそうな心配など、僕にはまったくなかった。塚崎さんの話の展開はだいたい。読めているつもりだった。
老いに伴うそんな変化が酒を飲むとひどくなると言っても、酒席で同席している人や、たまたまその近くに居合わせた人に対して、手をあげたりはもちろん、誰かのことを汚い言葉で罵ったり、悪口を言ったりすることも殆どなかった。そんな性格だし、飲みっぷりだった。素面でも酔っぱらっていても、その基調は殆ど変わらなかった。他者に対する寛容、それが塚崎さんの万事の基本だった。
それだけに、酒癖の悪い僕なんかに言わせれば、いたって健康的で、むしろ健康的すぎるほどだった。但し、実際に当人の心身が健康と言うよりも、<あと腐れのない飲み方>くらいの意味であり、二日酔いで苦しんだような話も、僕は当人から殆ど聞いたことがない。その意味でも、いつも長くきつい宿酔いに苦しんでは。なんの意味もない後悔に苛まれてばかりの僕とは対照的だった
それはともかく、駆け付けた警官は、居酒屋での調査の後では、念のために、病院にも塚崎さんを連れて行き、脳の検査などもしてもらったが、何も異常はないとの診断結果で、それ以上はなす術がなかった。肝心の塚崎さんは、そもそも記憶がないのだから、どうしようもなかった。しかも、その後に身体の異変もないので、やれやれだった。塚崎さんは、事件のあらましをそのように淡々と話した。
ところが、僕はちょうどその前後から、塚崎さんの表情や声の調子、そして機嫌の基調が変わったように感じていた。
但し、先にも触れたことだが、この種の記憶は相当にいい加減なものである。後知恵の懸念もぬぐえない。それでも、現在の僕の記憶ではそうなので、そのように書くしかない。
先ずは、塚崎さんは、本人が意識している以上に、その事件でショックを受けていそうに思った。
既にも触れたように、塚崎さんからその話を聞いたのは、パソコンのzoomを通してのことだったから、塚崎さんの表情その他を僕が正確にとらえていたという自信はないのだが、塚崎さんはその事件以来、どこかが変わったと思えることがいろいろとあった。
そこで、しばらくしてからのことだが、これまたzoom上で、塚崎さんに、どこかおかしいのか質問してみたところ、先にも少し触れたことだが、「鬱です」との返事で、その時の表情も声も口調も、なるほどとそうだったのかとすぐに納得できるほどに、力がなかった。
その時になって、鬱はあの路上で眠っていた事件が契機だったことがほぼ確実だと確信した。当人はその事件を鬱症状と関係づけていそうにはなかったが、そうだからこそかえって、彼の無意識、或いは、前意識におけるショックの大きさが、証明されていそうに思えた。体力に人一倍の自信があった塚崎さんだから、余計に、そういうことになるのではと考えた。
8.異変の2―家の中での事故―
路上の事件から半年以上が経っていた。コロナ禍が小康状態になったので、「聞く会」を生野区民ホールの会議室を借りて行うことになった。ところが、その日の午前中に塚崎さんから、家の中でちょっとした事故が起こり、目の周りをひどく傷つけてしまったので、午後の会には参加できそうにない、との連絡を受けた。どんな約束であれ、塚崎さんが急に参加を取りやめるなんて、すごく珍しいことだったが、前の事件のこともあって心配していたので、その方がよいと判断した。
「了解です。絶対に無理をしてはダメですよ。今日のような会なら、今後もいくらでも設定できるから、今日は何よりも体を大事にして、休養してください。特に目の周囲の怪我は危険だから、くれぐれも無理はしないで・・・」と、しつこく念を押して、休息を勧めた。
ところが、予定の時間よりは少し遅れたが、塚崎さんが会場に姿を現したので、驚いた。しかも、左目の周囲がひどく腫れて黒ずみ、その上からガラスに大きく傷がついた眼鏡をかけており、はたしてそれできちんと見えるものなのか、心配になるほどだったこともあって、呆れてしまった。
義理堅さは誰もが知っている塚崎さんのことだからこそ、何度も念押しして、休むように言ったのに、と困ってしまった。しかも、見るからに、すごく疲れていそうで、義理堅さもほどほどにしないと、この先が思いやられた。
それだけではない。その会では言葉数が普段とくらべると、めっきり減った。それでも、重要なところではきちんと質問をするのを見て、さすがと思った。しかも、二次会は延々と二軒のはしご酒になったのに、その最後まで付き合ってくれた。
幸いに、飲む量は抑制していたのか、足元はしっかりしていそうだったし、帰路では僕は実家に泊まる予定なので、塚崎さんが 下車する前の駅までは同行できるので、その先でのさらなる事故の心配はないだろうと安心して別れた。
僕が本当に心配になりだしたのは、その時のことだった。その家庭内での事故の話が、塚崎さんの説明では納得できにくかったこともあるし、彼自身が精神的に相当に参っていたこともあって、説明を端折ったせいもあったのだろうが、台所で料理をしていて、目の前の棚から鍋か何かを取り出そうとしたところ、その鍋が何かの拍子に落ちてきて顔面にぶつかったというような話だったが、なんだか信じられなかったからである。心身のどこかに何かが生じているからこその事故ではなかったのかと
そんな状態で酒を飲めることも不思議だったが、「さすがに塚崎さん」と自分にとって都合のいい理屈で、心配をねじ伏せた。否、すごく心配はしていたのに、それを以下で長々と紹介するような理屈で、<焦眉のものではない>から心配はしないようにしようなどと、考えた。少なくとも僕はそうだった。
9.燃え尽き症候群―人生の転機の過ごし方―
要は(これは塚崎さんの口癖)、鬱症状をどのように捉えるかという問題だった。
塚崎さん自身が告白した鬱症状のことを、塚崎さんのそれまでの生き方の必然的な結果である、と僕は考えた。つまり「バーンアウト(燃え尽き症候群)」だから、この機会に、心身の徹底的なチェックがてらにしっかりと休養をとる。そして、それまでは致し方なく重ねてきた無理に、しばらくは別れを告げて、積もり積もった垢としての、人間関係のしがらみや、思考や情動の硬直などを整理して、何にも増して、新たに生きることを重要目標とする。そのためにも、生活と人生の方向転換を試みてもらえれば、塚崎さんの新たな姿にお目にかかれることを期待した。
僕がそのように考え始めたのは、実は、当人による鬱の告白よりもはるか以前のことだったし、僕自身の痛い経験と照らし合わせてのことだった。
実は、その20年ほど前に、僕にもよく似たことがあった。誰であれ人生のどこかで必ずその種のことが襲い掛かってくる。人生とはそういうものであることを覚悟して、それが襲い掛かってきたら、それにきちんと対応しなくてはならない。それを怠ると、必ず痛い目に合う。
僕の場合は、心身の疲労の蓄積が限界を超えているのだから、収入が大きく減るなど経済的困難や将来不安のことはひとまず仕方ないこととして受け入れて、心身の回復を最優先に考えた。労働時間は半減、しかも、最もストレスフルだからこそ割の良かった仕事を断念したので、収入は3分の1に減った。それでも、命とは比べられないと諦めた。そして、多様な検査のために病院通いを繰り返した。医師の兄が、僕の症状は自殺衝動の懸念があると心配して、懇意にしている専門医の予約をとってくれまでしたので、心療内科も受診した。
担当医師は1時間もじっくりと僕と対話した後で、「一応、念のために薬を処方しますが、服用するかどうかは、ご自身で決めてくださって結構です。薬に頼らずとも毎日が齟齬世相なら、それで結構です。まだまだ寿命は十分にあります。無理を避けて、存分に楽しんでください」と笑顔で僕に告げた。
その他、持病の胃腸関連の投薬と休養、そして適度な運動を極力、心掛けた。起床して2時間ほどは軽い散歩や通勤時間にあて、その後でゆっくりと軽めの朝食を摂るようにした。そうした工夫の成果として、ひと月で10キロ近くも落ちてしまった体重だったが、1年後には半分近くまでとり戻した。すっかりなくなっていた食欲も、半年後には、少し息を吹き返した。気持ちのいい空腹感を久しぶりに覚えた時には、生きかえったみたいに嬉しかった。
その間に最も困ったのは、便秘と下痢が交互にやって来ることで、不意の便意が恐怖で、電車に乗るのも怖いくらいだった。そこで、電車に乗る前には便意があろうとなかろうと、必ずトイレでしっかり時間を過ごして、必ず用を済ますように心がけた。急を要したらすぐにでも下車できるようにと、各停電車だけを利用した。
酒とコーヒー、さらには人付き合いも極力減らした。いくら楽しそうに思っても、気遣いが必要そうな会合は断った。そのおかげなのか、一年後には胃腸の自覚症状は殆ど消えた。辛うじて生き延びることができて、一息ついた。しかし、完治などとは思えなかった。失った体重も半分は戻らなかったし、ストレスが続くと、少し時期がずれるが、必ず胃腸のひどい変調が始まり、復調するには長い歳月を要した。
だから、僕は相変わらず半病人であると、自分に言い聞かせると同時に、周囲にも言いふらして、誘いがかからないように、そして、誘いにすぐに乗ってしまう僕の馬鹿さ加減にも、歯止めをかけるように努めた。
他方、僕と違って塚崎さんの方は、燃え尽き症候群ときちんと向き合わなかった。身体に自信があったからか、僕のように、<踏みとどまって、生き延びるための方策>など必要には思えなかったのだろう。それどころかむしろ、してはならないことに、むしろ逃げ口を見出そうとしたふしがある。
週に数回、自宅での資料の確認や論文などの執筆作業を終えると、ジムでウェイトトレーニングに励んでからサウナに入り、その日に運動とサウナで落とした体重3㎏を、その後の大量のビールで取り戻すのだと、自慢していた。
中年を過ぎた者の体に、そんなことが良いわけがない。何よりも心臓への負担が大きすぎる。それなのに、自分の健康を信じていたのか、医師の診察も検査も受けなかった。あるいは逆に、どこかで健康に不安を抱いていたからこそ、それに目を背けていたのだろう。検査を受けて、ドクターストップでもかかれば、自分が長年にわたって用意してきた仕事の妨げになりかねないからと、自分にも、とりわけ、伴侶の大田さんには何としても秘密にしようとしていたのではなかろうか。
検査を受けて、もし何か問題があって、それが周囲に、とりわけ伴侶に知られでもしたら、自分の夢の実現の障害になりかねないと惧れて、そんな事態を避けるには、検査を受けないに越したものはない。予定の大事な仕事さえ終われば、きちんと検査を受けるつもりだから、少しの猶予を自分に許しているだけだと。
ところが、そんな思惑通りにことは運ばなかった。
やがて症状が深化して、僕の見る限りでは、以前には殆ど見たことのない不機嫌が加わった。
例えば、格別に可愛がっていたずいぶん年下の仲間であるKさんに対する、知らない人には、厳しすぎるように映る叱咤、その質が変わった。Kさんもそう感じたに違いないと思い、念のために尋ねてみたところ、口では何も言わないが、僕の老婆心ではなさそうな様子だった。
以前は、<可愛いからこそ>という感じの方が強く、叱る方も叱られる方も「じゃれて」いそうに見えたりもして、羨ましいくらいだった。<絆>をより強めるためのスパイスが叱咤だったのだろう。ところが、塚崎さんが亡くなった年である2024年を迎える頃になると、塚崎さんは本気で苛立って、棘のある口調と内容に変わって、傍から見ている僕までもがたじろぐほどだった。
(2024年9月7日14時30分、塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の4に続く)