goo blog サービス終了のお知らせ 

玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の3

2024-09-07 14:29:36 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の3

7.塚崎さんの異変
 ネット飲み会のメンバーうちの何人かは、塚崎さんに何か異変が起こっていそうな感触を持つようになった。それが今から2年半か3年ほど前のことだった。
 当時は、その深刻さの感じ方には個人差があったし、塚崎さんの死後にも、それらの異変と死を結び付けたかどうかについても、個人によって違っていただろうが、異変の感触は「zoom飲み会」のメンバーに共有されていたはずである。中でも僕などは、両者に緊密な関係を想定した筆頭だろう。
 但し、そんな感触は、後知恵の色合いを否定できないし、いち早く両者の密接な関係を予見していたとしても、塚崎さんのその後、とりわけ、死そのものが生じなかったようにすることなどできなかっただろう。
 当人が事態を直視して、その事態を受け容れて対処する覚悟をしない限り、外野からの中途半端な心配など、なんの意味もなかっただろう。塚崎さんには自分の心身の状態などはさておいて、すべきことがあったからこそ、心身の現実を直視することを避けていたのかもしれない。それが現時点での僕の推測の有力なものの一つなのである。
 それはともかく、塚崎さんの<異変>について小出しにするだけで、その内実についてまともな説明をしてこなかったが、そろそろ、その<異変>の数々を具体的に、順を追って紹介しておかねば、前に進めそうにない。
 死の病はシグナルを送ってくれていた。そのことに、事が終わってようやく、僕らもはっきりと気付いた。しかし、その全部ではなくて一部くらいなら、リアルタイムで感知していたように思う。
 奇妙な事件がその始まりだった。3年ほど前(塚崎さんの死の2年ほど前)のことだった。既に「zoom飲み会」を定期的に開催していたが、その会の途中で、塚崎さんはその事件について僕らに、奇妙な事件のことを話した。
 ある夜、最寄り駅から自宅への帰路にあたる路上で、気を失って倒れていた。それを通行人が発見して警察に通報した。警察は直ちに駆け付けて、塚崎さんを起こし、事件性の有無などの調査を始めた。本人は目覚めてからも、自分が何故にその路上で倒れていたのか、その間の記憶がなかった。最寄り駅に着いて、馴染みの店で一人酒を飲んだ以降の記憶のことである
 大阪の都心での何かの研究会に参加し、それが終わると二次会で、いつものようにしこたまビールを飲みながら、参加者たちと楽しく過ごした。その酒席がお開きになると、自宅の最寄りの駅である北大阪急行の江坂駅で下車して、自宅までの帰路に位置する馴染の店で、ひとり酒で締めをした。そこまでは覚えていたが、その後の記憶がまったくないことを警官に話した。
 警官はそんな証言を受けて、一人で酒を飲んだという居酒屋に塚崎さんと同行し、店の関係者から塚崎さんが店に立ち寄って去るまでの一部始終について尋ねた。しかし、その後の事件を想起させることなど何一つなかったという答えが返ってくるだけだった。
 その話を「zoom飲み会」で塚崎さんから聞いた僕も、塚崎さんが酔った勢いで誰かとトラブルを起こしたあげくに、殴り倒されて意識を失ったまま、路上で眠っていたなど、想像もできなかった。
 酒癖の悪いことで有名な僕ならいざ知らず、塚崎さんはそんな僕とは正反対で、酒に酔ったあげくに喧嘩沙汰になるような人では、断じてない。
 20年にわたって一緒に深酒を繰り返してきた僕が、自信を持って請け合える。そんな彼にももちろん、酒癖がいろいろあったが、そのどれをとっても他愛ないことだった。酒癖と言うより、体の自動反応とでも呼ぶのがふさわしかった。
 例えば、こんなことである。それまで機嫌よく楽しく話していたのに、何の予兆もなしに、ばたっと上半身が崩れて、下手をすると額を卓上の酒や肴にぶつけてしまいかねないのだが、いつもそれは見事に外していた。そんな急な動きには驚かされたが、本人はそのまま、卓に頭をのせて眠っていそうな気配である。そして、ほどなくすると、まるで何事もなかったかのように体を起こし、既に意識はしっかりしていて、改めてビールを注文して、元気に飲みだす。
 さっきのことは何だったのか、僕にはもちろん、当人に尋ねても分からない。塚崎さんは照れ隠しなのか笑うだけである。
そんな塚崎さんも歳をとるにつれて、素面でも活舌が悪くなって、懸命に話す内容をうまく聞き取れないようなことも多くなった。そのうえ、酔っぱらうと、舌がもつれて、話していることがますます分からなくなった。しかし、僕はその表情や前後の話から、何を言いたいのかの見当をつけて、うんうんと頷いて済ますようになった。聞き返すことで話の腰を折りたくなかったし、変に聞き間違いをしそうな心配など、僕にはまったくなかった。塚崎さんの話の展開はだいたい。読めているつもりだった。
 老いに伴うそんな変化が酒を飲むとひどくなると言っても、酒席で同席している人や、たまたまその近くに居合わせた人に対して、手をあげたりはもちろん、誰かのことを汚い言葉で罵ったり、悪口を言ったりすることも殆どなかった。そんな性格だし、飲みっぷりだった。素面でも酔っぱらっていても、その基調は殆ど変わらなかった。他者に対する寛容、それが塚崎さんの万事の基本だった。
 それだけに、酒癖の悪い僕なんかに言わせれば、いたって健康的で、むしろ健康的すぎるほどだった。但し、実際に当人の心身が健康と言うよりも、<あと腐れのない飲み方>くらいの意味であり、二日酔いで苦しんだような話も、僕は当人から殆ど聞いたことがない。その意味でも、いつも長くきつい宿酔いに苦しんでは。なんの意味もない後悔に苛まれてばかりの僕とは対照的だった
 それはともかく、駆け付けた警官は、居酒屋での調査の後では、念のために、病院にも塚崎さんを連れて行き、脳の検査などもしてもらったが、何も異常はないとの診断結果で、それ以上はなす術がなかった。肝心の塚崎さんは、そもそも記憶がないのだから、どうしようもなかった。しかも、その後に身体の異変もないので、やれやれだった。塚崎さんは、事件のあらましをそのように淡々と話した。
 ところが、僕はちょうどその前後から、塚崎さんの表情や声の調子、そして機嫌の基調が変わったように感じていた。
但し、先にも触れたことだが、この種の記憶は相当にいい加減なものである。後知恵の懸念もぬぐえない。それでも、現在の僕の記憶ではそうなので、そのように書くしかない。
 先ずは、塚崎さんは、本人が意識している以上に、その事件でショックを受けていそうに思った。
既にも触れたように、塚崎さんからその話を聞いたのは、パソコンのzoomを通してのことだったから、塚崎さんの表情その他を僕が正確にとらえていたという自信はないのだが、塚崎さんはその事件以来、どこかが変わったと思えることがいろいろとあった。
 そこで、しばらくしてからのことだが、これまたzoom上で、塚崎さんに、どこかおかしいのか質問してみたところ、先にも少し触れたことだが、「鬱です」との返事で、その時の表情も声も口調も、なるほどとそうだったのかとすぐに納得できるほどに、力がなかった。
 その時になって、鬱はあの路上で眠っていた事件が契機だったことがほぼ確実だと確信した。当人はその事件を鬱症状と関係づけていそうにはなかったが、そうだからこそかえって、彼の無意識、或いは、前意識におけるショックの大きさが、証明されていそうに思えた。体力に人一倍の自信があった塚崎さんだから、余計に、そういうことになるのではと考えた。

8.異変の2―家の中での事故―
 路上の事件から半年以上が経っていた。コロナ禍が小康状態になったので、「聞く会」を生野区民ホールの会議室を借りて行うことになった。ところが、その日の午前中に塚崎さんから、家の中でちょっとした事故が起こり、目の周りをひどく傷つけてしまったので、午後の会には参加できそうにない、との連絡を受けた。どんな約束であれ、塚崎さんが急に参加を取りやめるなんて、すごく珍しいことだったが、前の事件のこともあって心配していたので、その方がよいと判断した。

「了解です。絶対に無理をしてはダメですよ。今日のような会なら、今後もいくらでも設定できるから、今日は何よりも体を大事にして、休養してください。特に目の周囲の怪我は危険だから、くれぐれも無理はしないで・・・」と、しつこく念を押して、休息を勧めた。
 ところが、予定の時間よりは少し遅れたが、塚崎さんが会場に姿を現したので、驚いた。しかも、左目の周囲がひどく腫れて黒ずみ、その上からガラスに大きく傷がついた眼鏡をかけており、はたしてそれできちんと見えるものなのか、心配になるほどだったこともあって、呆れてしまった。
 義理堅さは誰もが知っている塚崎さんのことだからこそ、何度も念押しして、休むように言ったのに、と困ってしまった。しかも、見るからに、すごく疲れていそうで、義理堅さもほどほどにしないと、この先が思いやられた。
 それだけではない。その会では言葉数が普段とくらべると、めっきり減った。それでも、重要なところではきちんと質問をするのを見て、さすがと思った。しかも、二次会は延々と二軒のはしご酒になったのに、その最後まで付き合ってくれた。
幸いに、飲む量は抑制していたのか、足元はしっかりしていそうだったし、帰路では僕は実家に泊まる予定なので、塚崎さんが 下車する前の駅までは同行できるので、その先でのさらなる事故の心配はないだろうと安心して別れた。
 僕が本当に心配になりだしたのは、その時のことだった。その家庭内での事故の話が、塚崎さんの説明では納得できにくかったこともあるし、彼自身が精神的に相当に参っていたこともあって、説明を端折ったせいもあったのだろうが、台所で料理をしていて、目の前の棚から鍋か何かを取り出そうとしたところ、その鍋が何かの拍子に落ちてきて顔面にぶつかったというような話だったが、なんだか信じられなかったからである。心身のどこかに何かが生じているからこその事故ではなかったのかと
 そんな状態で酒を飲めることも不思議だったが、「さすがに塚崎さん」と自分にとって都合のいい理屈で、心配をねじ伏せた。否、すごく心配はしていたのに、それを以下で長々と紹介するような理屈で、<焦眉のものではない>から心配はしないようにしようなどと、考えた。少なくとも僕はそうだった。

9.燃え尽き症候群―人生の転機の過ごし方―
 要は(これは塚崎さんの口癖)、鬱症状をどのように捉えるかという問題だった。
 塚崎さん自身が告白した鬱症状のことを、塚崎さんのそれまでの生き方の必然的な結果である、と僕は考えた。つまり「バーンアウト(燃え尽き症候群)」だから、この機会に、心身の徹底的なチェックがてらにしっかりと休養をとる。そして、それまでは致し方なく重ねてきた無理に、しばらくは別れを告げて、積もり積もった垢としての、人間関係のしがらみや、思考や情動の硬直などを整理して、何にも増して、新たに生きることを重要目標とする。そのためにも、生活と人生の方向転換を試みてもらえれば、塚崎さんの新たな姿にお目にかかれることを期待した。
 僕がそのように考え始めたのは、実は、当人による鬱の告白よりもはるか以前のことだったし、僕自身の痛い経験と照らし合わせてのことだった。
 実は、その20年ほど前に、僕にもよく似たことがあった。誰であれ人生のどこかで必ずその種のことが襲い掛かってくる。人生とはそういうものであることを覚悟して、それが襲い掛かってきたら、それにきちんと対応しなくてはならない。それを怠ると、必ず痛い目に合う。
 僕の場合は、心身の疲労の蓄積が限界を超えているのだから、収入が大きく減るなど経済的困難や将来不安のことはひとまず仕方ないこととして受け入れて、心身の回復を最優先に考えた。労働時間は半減、しかも、最もストレスフルだからこそ割の良かった仕事を断念したので、収入は3分の1に減った。それでも、命とは比べられないと諦めた。そして、多様な検査のために病院通いを繰り返した。医師の兄が、僕の症状は自殺衝動の懸念があると心配して、懇意にしている専門医の予約をとってくれまでしたので、心療内科も受診した。
 担当医師は1時間もじっくりと僕と対話した後で、「一応、念のために薬を処方しますが、服用するかどうかは、ご自身で決めてくださって結構です。薬に頼らずとも毎日が齟齬世相なら、それで結構です。まだまだ寿命は十分にあります。無理を避けて、存分に楽しんでください」と笑顔で僕に告げた。
 その他、持病の胃腸関連の投薬と休養、そして適度な運動を極力、心掛けた。起床して2時間ほどは軽い散歩や通勤時間にあて、その後でゆっくりと軽めの朝食を摂るようにした。そうした工夫の成果として、ひと月で10キロ近くも落ちてしまった体重だったが、1年後には半分近くまでとり戻した。すっかりなくなっていた食欲も、半年後には、少し息を吹き返した。気持ちのいい空腹感を久しぶりに覚えた時には、生きかえったみたいに嬉しかった。
 その間に最も困ったのは、便秘と下痢が交互にやって来ることで、不意の便意が恐怖で、電車に乗るのも怖いくらいだった。そこで、電車に乗る前には便意があろうとなかろうと、必ずトイレでしっかり時間を過ごして、必ず用を済ますように心がけた。急を要したらすぐにでも下車できるようにと、各停電車だけを利用した。
 酒とコーヒー、さらには人付き合いも極力減らした。いくら楽しそうに思っても、気遣いが必要そうな会合は断った。そのおかげなのか、一年後には胃腸の自覚症状は殆ど消えた。辛うじて生き延びることができて、一息ついた。しかし、完治などとは思えなかった。失った体重も半分は戻らなかったし、ストレスが続くと、少し時期がずれるが、必ず胃腸のひどい変調が始まり、復調するには長い歳月を要した。
 だから、僕は相変わらず半病人であると、自分に言い聞かせると同時に、周囲にも言いふらして、誘いがかからないように、そして、誘いにすぐに乗ってしまう僕の馬鹿さ加減にも、歯止めをかけるように努めた。
 他方、僕と違って塚崎さんの方は、燃え尽き症候群ときちんと向き合わなかった。身体に自信があったからか、僕のように、<踏みとどまって、生き延びるための方策>など必要には思えなかったのだろう。それどころかむしろ、してはならないことに、むしろ逃げ口を見出そうとしたふしがある。
 週に数回、自宅での資料の確認や論文などの執筆作業を終えると、ジムでウェイトトレーニングに励んでからサウナに入り、その日に運動とサウナで落とした体重3㎏を、その後の大量のビールで取り戻すのだと、自慢していた。
 中年を過ぎた者の体に、そんなことが良いわけがない。何よりも心臓への負担が大きすぎる。それなのに、自分の健康を信じていたのか、医師の診察も検査も受けなかった。あるいは逆に、どこかで健康に不安を抱いていたからこそ、それに目を背けていたのだろう。検査を受けて、ドクターストップでもかかれば、自分が長年にわたって用意してきた仕事の妨げになりかねないからと、自分にも、とりわけ、伴侶の大田さんには何としても秘密にしようとしていたのではなかろうか。
 検査を受けて、もし何か問題があって、それが周囲に、とりわけ伴侶に知られでもしたら、自分の夢の実現の障害になりかねないと惧れて、そんな事態を避けるには、検査を受けないに越したものはない。予定の大事な仕事さえ終われば、きちんと検査を受けるつもりだから、少しの猶予を自分に許しているだけだと。
 ところが、そんな思惑通りにことは運ばなかった。
 やがて症状が深化して、僕の見る限りでは、以前には殆ど見たことのない不機嫌が加わった。
例えば、格別に可愛がっていたずいぶん年下の仲間であるKさんに対する、知らない人には、厳しすぎるように映る叱咤、その質が変わった。Kさんもそう感じたに違いないと思い、念のために尋ねてみたところ、口では何も言わないが、僕の老婆心ではなさそうな様子だった。
 以前は、<可愛いからこそ>という感じの方が強く、叱る方も叱られる方も「じゃれて」いそうに見えたりもして、羨ましいくらいだった。<絆>をより強めるためのスパイスが叱咤だったのだろう。ところが、塚崎さんが亡くなった年である2024年を迎える頃になると、塚崎さんは本気で苛立って、棘のある口調と内容に変わって、傍から見ている僕までもがたじろぐほどだった。
(2024年9月7日14時30分、塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の4に続く)

塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の2

2024-08-31 12:04:08 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の2

第一部 死に至る病

3. コロナ禍におけるオアシスとしての<Zoom飲み会>とその前史

 塚崎さんは急死だったわけではない。僕らは、少なくとも2、3年ほど前から、塚崎さんに起こっている異変に気付いていた。頑健な心身を誇り、冗談半分で不死身みたいと言われていた塚崎さんの心身に、何かが起きている。傍目にもその兆候が少しは見て取れたし、本人もそれを自覚したうえで、僕らに漏らし、僕らは心配しないではおれなかった。
 但し、そんな危惧も、これほどひどい事態などは予想させなかった。目が曇っていたからだろうが、ただでさえ曇った目を、さらに曇らせる何かがあった。
 塚崎さん亡きあと、塚崎さんと親しかった幾人かに、この2,3年の間に塚崎さんに何か異変は感じませんでしたか、と質問してみた。すると、そんなことは全くなくて、いつも元気そうに見えた、という異口同音の返事だった。塚崎さんは自身の体調について周囲にこぼさないだけでなく、気づかれないように努めていたのだろう。
 人は自分の見たいものだけを見る。塚崎さんの周囲にはいろんな意味で優れた人たちが多くいたが、そんな人たちでさえも、目が曇っていたのだろう。
 その分、それより最も身近な人、塚崎さんと日々の生活を共にしてきた伴侶の大田さんが、抱えざるをえなかったストレスは並大抵のものではなかったに違いない。
 現に2023年ともなると、温厚で定評のあった塚崎さんが、僕の眼前で不機嫌をさらけ出すことがあったほどなので、長年の伴侶には甘えも相まって、無理難題を言うくらいはまだしも、酔っぱらったあげくにとんでもない面倒をかけたのではと、僕は亡父の晩年や自分自身の経験から、ついついお節介かつ傍迷惑な想像もしてしまう。
 そもそも時折、外で会うだけの僕らは、塚崎さんの以前とは異なった様子を見ても、それでストレスを覚えるほどではなかった。塚崎さんに何かが起こっていると心配し、ぜひとも、そして一刻も早く医師の診療を受けるように勧めるのが関の山だった。
 それでも、塚崎さんに何か異変が起こっていることは確かなこととして感づいていた。塚崎さんが自分や周囲に隠そうとしても、隠せないほどになった。
 塚崎さんの心身の異変は、彼が歩いているのを後ろから、或いは、対面で近づきながら見た場合で、足の運びの緩慢さと不安定さが一目瞭然だった。ところが、僕らが会う時には、そんなシチュエーションにはならなかった。殆ど常に室内で、互いに座って対面するので、彼の歩き方の異様さなど分かるはずがなかった。
 それでも、酒席で彼がトイレに立った際の、動きの緩慢さと頼りなさ、さらには、戻って来るまでの時間の長さとその際の全身の揺れのひどさを見ると、尋常でないことが分からないはずがなかった。時には、トイレに立った塚崎さんが戻ってこないので。もしかしてトイレで倒れてしまっているのではと心配するほどだった。
 しかも、酒席でおしゃべりに夢中になっていると、席を外した人の不在時間の長さなど殆ど気づかない。
 何かがおかしいと勘を働かせて観察でもすれば、すぐに分かりそうなことでも、先入観に支配されて、あるがままの今の塚崎さんの姿なんか目は捉えない。もっぱら、<頑健の塊>とばかり塚崎さんの彼自身が創り上げたイメージで、現実の彼を見ているつもりになっている。
 それはともかく、塚崎さんの異常に気付いて、危惧を共有する者たちもいた。塚崎さんが言い出しっぺで始まった、「zoom飲み会」のメンバーである。
 コロナ禍で様々な催しが中止や延期となり、直接に会って議論したり、酒席を楽しむ機会が殆どなくなった。そんな集まりが人並以上に好きな塚崎さんが、せめてもの代替物として、WEB上で顔を合わせ、それぞれが用意した酒肴に舌鼓をうちながら、おしゃべりを楽しもうと提案してくれた。言い出しっぺも、積極的な推進役も塚崎さんだった。
 当初は不定期で、話題を決めることもなかった。メンバーも少し流動的で、誘われて参加したものの、続かなかった人もいる。会の約束なんかすっかり忘れて連絡もなく欠席したり、遅れて参加する者もいた。しかしやがては、メンバーもほぼ固まり、頻度も週に1回、約2時間と安定した。司会役は特に決めていなかったが、必要な場合には塚崎さんが、ごく自然にその役を買って出てくれた。
 話の切り出しも、たいていは塚崎さんが近況や最新の関心事を話し始めると、それを受けて他のメンバーもそれぞれに感想や意見や関心事を述べる。やがて話題は微妙にずれて転々としたあげくに、僕なんか何を話していたのか、話の筋すら分からなくなることもあった。
 コロナ禍で老化が一気に進んだ感触があるうえ、普段の酒席が減ったことがあいまって、長年の自分なりの酒の飲み方まで忘れてしまっていた。酔いが意外と早く回り、何を聞き、何を話したのかも、覚えていないこともあった。人と言葉を交わす機会が減ったせいで、いざそんな機会が訪れると、過剰興奮していたのかもしれない。
 毎回を終えるにあたっては、次回の日時その他の約束をしたはずなのに、パソコンを切ったとたんに、次回のことでどのような約束をしたのか記憶が定かでなく、慌てて確認のメールを送るような体たらくだった。
 やがては、次回のテーマ(議論に取り上げる書物など)を決めて、各人がその準備をすることもあった。それも含めて、WEB飲み会の運営などは、塚崎さんが率先して行っていた。僕らは塚崎さんに<おんぶにだっこ>の状態だった。

4.「zoom飲み会」の前史1―フォーマルな二つの研究会―
 
 そんな、ざっくばらんで、成り行き任せのような会でも、大人が何人も集まってのことだから、前史めいたことがあった。
 特に挙げるべきは、やはり2つの研究会だろう。僕ら「zoom飲み会」のメンバー全員が、その2つの研究会の両方か片方に、何らかの形で久しく関係していた。そして、現在も僕を除いては(理由は後述)、その関係を継続しているのだろう。
 一つは神戸にあって、在日や朝鮮関係の研究者はもちろん、一般市民にも広く開かれた研究会、通称「S研究会」である。
 塚崎さんはその運営者ではなくても、その会を支える最も重要な人物だった。月例研究会の発表者が見つからなかったり、急に欠席することになった場合などの、その急遽の穴埋めはたいてい、塚崎さんがしていそうに見えた。
 その他、多様な参加者に気遣いを怠らず、気おくれがちな新規の参加者も、塚崎さんの細かな配慮に助けられて、気が付いてみるとすっかり仲間の一員になっていた。僕もそうだった。
 塚崎さんはそこに僕を誘い、つなぎとめ、20年近くも楽しませてくれた。
 その研究会はその間、僕にとって新鮮で楽しく、そして貴重な場だった。様々な人々との出会いと交友がなかったら、僕の中年後半以降の人生は、今のものとは別ものになっていただろう。
 30歳代後半に研究などは断念していた僕なのに、60歳に近くなって恥も外聞も捨てて、研究もどきを始めることになった。研究発表もどきも定期的にさせてもらい、月報にも何度も寄稿し、掲載していただいた。
 浅学を承知の上で、共に学びたいという思いを前面に押し出しながら、在日的経験をベースにして質問、感想、意見を率直にぶつけた。遅まきの初学者として、すごく刺激的な経験だった。
 市立図書館4階のS文庫の隣の会議室で、毎月、第二日曜日の午後1時から5時(現在は1時間短縮されているらしい)まで、二つの名称の研究会があって、それぞれに一つの研究発表と質疑応答で各2時間、総計して4時間は充実感があり、その後には徒歩で5分ほどの駅前の安い居酒屋での懇親会も恒例だった。
 但し、そんな酒席は長くて2時間、たいていは1時間半ほどで切り上げられ、市井の研究者や市民の慎みを持った交流・社交の場だった。
 しかし、そのように羽目を外すことのない紳士淑女の議論と酒では物足りなく感じる参加者の少なからず、さらに場所を移して酒を酌み交わしながら、相互批判や愚痴なども交えた、本音の議論を続けることも多かった。そんな場には必ず塚崎さんを筆頭に、後に「zoom飲み会」のメンバーになる幾人かが、そしてもちろん僕もいた。
 「zoom飲み会」のもう一つの前史は、上述のS研究会と人的にも研究対象やテーマなども重なる部分が多いC研究会関西部会の月例研究会であり、毎月第4土曜日の午後1時から5時まで、主に地下鉄中津駅近くの予備校の一室を借りて行われた。
 こちらは大学所属の研究者が多く、大学や学会その他における職業的ステイタスが言動に大きく影響を及ぼす気配があった。
 それだけに、そんな環境からは自覚的に落ちこぼれて以来、研究者を自認するつもりも、その資格もない僕などには、あまり居心地の良い場所でないどころか、むしろ避けて通りたい世界だった。
 ところが、塚崎さんの繰り返しの強い誘いを受けて、ついには新たな学びの場として、とりわけ塚崎さんと楽しい時間を過ごすことを主目的に参加することになった。そして、それにあたっては、S研究会以上に自分なりの原則を立てた。
 知識不足を口実に、議論に参加することを避けたり慎んだりはしない。いかに知識不足でも、研究発表やその後の質疑応答で、自分のアンテナにひっかかったことについては、これまでの在日経験と書物を通して培ってきたつもりの論理を押し出して、率直に質問や感想や意見を述べる。但し、質問やコメントは3分まで、長くても5分に限定して、傍迷惑をしないこと。以上がその研究会で意見や質問を述べるに際しての僕の原則だった。まかり間違っても、「立派な発表を聞かせていただき、おかげで多くを学ばせていただきました云々」のエールの交換のような言葉は厳しく自らに禁じ、報告内容に関して自分が理解できた限りでの質問や疑問や異論を明解に語るように努めた。そんな僕の意見や感想が参加者に十全に理解されたとは限らないが、後の飲み会では、僕の発言に刺激を受けたという若い研究者もいたし、塚崎さんも僕の発言に関する疑問や批判を率直に語ってくれたので、大きな励みになった。
 とりわけ、研究会後に主に塚崎さんの先導で、近くの居酒屋で2時間ほどの、そして盛り上がればさらに近くの別の居酒屋や、僕のなじみのラウンジに流れ込む場合もあり、そんな場で話を交わすようになった多様な人々、例えば、韓国から研究滞在中の研究者や、日本の若手の研究者の皆さんに相手をしてもらうなど、初老になって若い友人を得たような気分で楽しい時間を過ごせた。
 そんなありがたいことには何としてもお返しをと、研究発表を聞くだけでなく、貢献もしたいと思い立ち、書評などの口頭発表も、精いっぱいに準備して行った。そして、参加を止めて数年後には、人生最後の研究報告の機会を与えてもらい、僕の遅まきの研究もどきの締めくくりもできた。
 以上二つの、社会的に認知されたフォーマルな研究会の月一回の例会を、僕は15年以上にわたって楽しませてもらった。ところが、コロナ禍が始まった頃には、僕だけのことだが、その二つの会への参加を止めた。
 その理由は、それぞれの研究会で異なっていたが、本質的にはよく似た理由、例えば、僕の人徳のなさ、常識の欠如、社会的不適合症状が相まって、会の責任者たちの不評を買ったことだったようである。
 そんなことを思い知らされる出来事があってようやく、その責任を負うつもりで、貴重だったその二つの会への参加を自らに禁じた。自己懲罰のつもりだった。

4.「zoom飲み会」の前史2-インフォーマルな「在日の聞き取りの会」―

 中年の終盤から数年前まで、足しげく通って楽しませてもらってきた二つの研究会だったが、70歳になった頃に、いきなり参加を止めた。参加を禁じられたり、都合で参加できなくなったというわけではなく、「僕の意志」で参加を取りやめた。
 つまり、自発的なものであると自分自身に言い聞かせたのだが、そうする必要があるほどにひっかかりがあった。
 興味をなくしたから参加を取りやめたわけではない。そのことは、僕の周囲の一部の人は知っていた。しかも、その二つの研究会のそれぞれの中心メンバーも、知らないはずがなかった。S研究会の中心メンバーには、僕が直接に理由を告げた。他方、C研究会の方は、先方から、僕がそのように決心するように促す働きかけがあった。少なくとも僕は、そのように感じたので、その人たちの思惑に従った。
 その結果、二つの研究会自体には、何の支障もなかっただろうが、僕には二つの問題が生じた。一つは、僕と同じようにそれらの会に参加してきたし、その後も参加を続ける人々に、心理的な負担をかけることになった。そんなフォーマルな集団と僕個人を比較できるわけがないので、両者の<板挟み>なんてこともないが、少なくとも僕が親しくしていた人々は、それぞれの立ち位置との関係で、窮屈な気持ちになったはずである。僕の事情をそれなりに理解しても、そんな僕に同調して研究会への参加を止めるわけにはいかないからである。
 もう一つは、もっぱら僕にとっての不便或いは大事な機会と場の喪失だった。その二つの研究会への参加を止めると、在日や朝鮮について公開で議論できる場が、飲み会も含めて僕から消えた。
「そんな馬鹿な!探せば、そんな場所くらい、どこにでもあるはず」と考える向きもあるだろうし、なるほど、そうかもしれないが、僕のように、在日の世界の鼻つまみ者を自称する老人が、在日や朝鮮半島その他に関して気持ちよく議論できる場所を見つけ出すのはなかなか難しい。
「それなら気心が知れた人々とインフォーマルな形で議論すれば済むことではないか」と考える向きもあるだろう。
 ところが僕の考えでは、議論は相手が知人であろうとなかろうと、できる限り公的なものにしないと、仲間内の繰り言や誉めあいといった、不健康で実り少ないものになりがちである。
 そこで、一定の公開性、あるいは、公共性を保持した時空を、既に一定の信頼関係を作り上げてきた人々を軸にしながらも、参加を希望する人を拒まない形で、創出できないかと思った。
 もう少し正直に言えば、二つの研究会その他で知り合って親交を結んできたつもりの人々と一緒に、もう少しだけでも、何かをやりたいという未練を断ち切れないでいた。
 その結果として、僕が親しい人々に提案したのが、「事業経験のある在日二世以降の世代の聞き取りの会」だった。会の名称は仮称で、正式名称はなかった。参加をあまり広く募ることもなく、記録を残すこともない。そもそも、証言とそれに関する質疑応答なども、公表しないことを前提に話していただく。その方が、気楽で正直に話していただけるだろうと考えた。
 証言と質疑応答、そしてその後の、証言者も交えての酒席で、参加者が自分の心身で体験したことを、その後の研究を含めた人生の何らかの糧にできれば十分、という考えだった。
 他方では、言い出しっぺの僕には、ある信憑があった。誰だって、話したいことを秘めている。自ら意識していなくても、自分の経験を自分以外の誰かに伝えたい思いがある。したがって、証言を依頼して、すぐに応じてくれなくても、話を聞きたい気持ちを何度も伝えているうちに、応じてもらえることが多い。そして、質問の仕方や場の雰囲気にもよるが、本人が前もって話すつもりなどなかったことも、さらには、当人がすっかり忘れてしまっていたことまで話してもらえることさえある。そして、それを話すことによって、証言者は何かから解放される。心身のこわばりがほどける。その結果、話すものと聞く者との共同行為が、先ずは同一場所の限られた時間内でなされ、その後には、それぞれの特色を帯びた余韻として生き残るのではないか。記録を残さないからこそ、その場きりの出会いの貴重さといったものもあるのではないかと。
 大風呂敷を広げすぎた感があるので話を戻そう。
 「聞く会」の証言者は毎回、僕が斡旋し、会場も僕の実家のほか、証言者の家でも行ったし、メンバーが関係する大学や市民会館の会議室を借りたこともあるなど、何一つ、定まったことがなく、ないものづくしの会だった。
 しかも、その会の発想は必ずしも自前のものではなかった。韓国の国史編纂委員会が一時期、精力的に行っていた「在日の事業経験者の口述資料収集」企画の模倣であり、それと異なるのは、在日一世は対象からはずし、後続世代に重心を移したことだけだった。
 韓国史編纂委員会に勤務する知人から、僕の母にインタビューしたいと言われた際に、僕も通訳など補助的な役割で参加した際に、僕の在日二世に関する調査の死角になっていたのが、在日の実業経験者の体験と証言だったことに気付いて、今後はその側面を開拓するための試験的な企画でもあった。
そうした始まった「聞く会」を4回ほど終えた頃にコロナ禍が始まり、「聞く会」のメンバーは高齢者が多く感染の危惧も強く、開催が憚られるようになった。
 そこで二つのフォーマルな研究会やそうした「聞く会」に代わるものとして、塚崎さんの提案と牽引によって、「zoom飲み会」が始まった。「飲み会」であることに、特に留意願いたい。二つの研究会も「聞く会」もその後の飲み会が僕らには一次会と同等、あるいはそれ以上の重みを持っていたからこそ、「zoomの会」では物足りず、飲み会の重要度を意識し、それを実践することが必須だった。だからこその「zoom飲み会」だった
 コロナ禍の状況も注視しながら、対面が可能な時には「聞く会」を並行して行った。
既に触れたことだが、「聞く会」は僕の個人的事情に基づく提案だったのに対し、「zoom飲み会」は塚崎さん固有の事情や状況判断に基づく提案だったが、僕はもちろん、その提案に飛びついた。僕以外の人たちは、S研究会やC研究会がリモートでも開催されており、それに参加していたが、そのどちらにも参加をやめた僕にとっては特に必要な会だった。とりわけ「飲み会」だからこそ、僕にとっては待望の企画だった。

5.「Zoom飲み会」の盛衰と塚崎さんの異変

 「zoom飲み会」の主唱者は塚崎さんだったが、その次に熱心というか、それを必須の場として待ち遠しくしていたのは、間違いなく僕だった。
 既に述べたように、コロナ禍などとは関係なく、僕にはその種の場が必要な事態に陥っていたからである。
 その二つの会、とりわけ、S研究会への参加を取りやめたことでは、塚崎さんにおおいに心配をおかけした。そして、研究会の主宰者たちには、理由を告げたうえで、今後はその研究会が関係する一切のイベントに参加しないこと、さらに一切の連絡をお断りすると告げ、会費などもすべて清算して、「立つ鳥、後を汚さず」を気取った。
 ところが、他方のC研究会の方は、参加を取りやめることを、誰にも告げなかった。僕に警告を発した2人の中心人物にとっては、彼らの思惑通りだっただろうから、敢えて告げなくても分かると考えた。塚崎さんにも心して、何も言わなかった。塚崎さんがいない場で、塚崎さんが親しくしている中心人物たちが僕に不意打ちで警告、もしくは勧告を敢行したことを知ったら、僕をそこに誘い、常々、僕をサポートしてきた塚崎さんは、黙っておれないなど、またしても心を砕くことになりかねないと心配したからである。
 ともかく、C研究会には、なんとなく参加しなくなっただけと取り繕ったつもりだった。塚崎さんもそれについては、何故かしら、何も言わなかった。
 それはともかく、「zoom飲み会」は、コロナ禍の閉塞感を少しでも柔らげたくて、さらには、お喋りの機会を少しでも確保するために始まった。
 最初は週に1度か2週に1回くらいの頻度で、コンピュータ上で顔を合わせ、2時間内外、言葉を交わした。特に話題などを設定していなかったこともあって、散漫に流れる感じがしたからか、前回に次回のテーマを明確にして、場合によっては、それぞれがそのための準備としてテクストを読んでおいて議論するようになったこともある。
 それも塚崎さんの提案だった。塚崎さんは「zoom飲み会」を少しでも実りある場にするためにいろいろと工夫していた。
 僕は毎回、その時間をすごく心待ちにしていた。せっせと酒と肴の用意をして、パソコンの前に座った。しゃべりすぎて、参加者の邪魔になり、顰蹙を買っていたかもしれない。
 参加者の関わり方は各人各様だった。そもそも、必要度が異なっていたのだろう。熱意に個人差があって当然である。既に現役を退いた者と、今なお職務に翻弄されて悩みを抱えている者とでは、心身の余裕の差も甚だしい。仕事その他で、予定時間に遅れたり、参加できない場合もある。さらには、家でくつろいで一杯飲むと、眠気に勝てない人もいる。静かだなあと思っていると、すっかり眠り込んでしまっていた人もいた。
 何をするに際しても、性別、年齢、エスニックその他の多様性を確保したいと願い、その努力をしても、うまくいかないことが多い。この会も塚崎さんはその努力を怠らなかったが、結局は最初からのメンバーに新たに付け加わることはなかった。最小年齢の女性研究者が塚崎さんの勧めもあって参加したが、仕事や家庭の事情で、数回にとどまった。
 最高齢が1948年生まれ、その次の僕が1950年生まれ、次いでは、塚崎さんが1950年代半ばの生まれ、その次が1960年代の半ばの生まれが2人、その10年下がもう一人といった年齢構成で、全員が男性だった。つまり、相当に高齢の男たちばかりなので、女性や若い人はなじみにくかったのかもしれない。
 それに「zoom飲み会」は、飲み会としてはやはり代用品である。飲んで勢いがつくというよりも、むしろ眠くなるような人が多かった。それもあって、会全体が倦み疲れの感じも強くなった。
 期待していたほどには話が盛り上がらなかった。それでもなお、僕などには貴重な時間だった。塚崎さんにとってもそうだったに違いない。だからこそ、塚崎さんは何かと工夫を凝らしていたし、塚崎さんの尽力があったからこそ、それなりに続いた。
 しかし、何にでも賞味期限というものがあるし、コロナ禍が緩みだしたこともあった。その流れに乗って、「会はそれまで」となった
 今回が最後というような話は一度も出なかったのではないか。しかし、その一方で、「そろそろやめに」といった気配を、全員が感じ取っていたのだろう。まさに賞味期限だった。逆に言えば、それくらいに僕らのメンバー同士が、ツーカーの仲だったと言えなくもない。
 決定的だったのは、あれだけ熱心だった塚崎さん自身に、熱意の低下の気配があったことだろう。それより少し前に、塚崎さんの元気のなさが少し話題になった際には、塚崎さん自身が「鬱」と告白していたので、それがメンバーの塚崎さんの心身の状況に関する共通の認識となっていた。
 そのうえ、僕らはその<告白>以前に生じた塚崎さんのいろいろな異変とも関連付けて、当人が告白するまでもなく、「鬱」は突然のことではなく、ずっと以前からの塚崎さんの異変の深化であって、当人もやっとその自覚に至ったものと捉えた。
 ともかく、「Zoom飲み会」も塚崎さんがどれだけ頑張っても、続けるのは無理との諦めが大勢となり、塚崎さんもそんな大勢を受け容れる気配だった。
 そして、うまい具合に、コロナ禍からの中途半端な解放が訪れた。そのおかげで、「Zoom飲み会」などなくても、対面の飲み会が可能と安心したからこそ、「zoom飲み会」は有耶無耶のままに終わった。それでも差し支えないとみんなが」納得していたのだろう。
 しかし、既に触れたように、「zoom飲み会」が終わっても、そのメンバーが顔を合わせる機会がなくなったわけではなく、いろんな形で、いろんな組合わせで「zoom飲み会」のメンバーは会っていた。
僕の実家と塚崎さんのお宅が地下鉄で一駅とすごく近くて便利ということもあったし、思わぬ企画に二人が一緒に参加を求められるようなこともあって、僕の実家やその近くで2人で、そしてついでだからと、他のメンバーにも声をかけて酒席を持つこともあった。
 ところで、先にも少し触れたことだが、「zoom飲み会」がまだ継続していた頃に、塚崎さんに異変が次々に起こった。死の病の前兆だった。
 前後が逆転してしまったが、次回は主に、その病の前兆に戻って、話を進めることになる。
(2025年8月28日改稿)
(2024年8月31日、「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の3」に続く。)


塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の1

2024-07-31 08:50:57 | 触れ合った人々
カテゴリー:触れ合った人々

塚崎昌之さんとの20年近く-在日二世と日本人の交友の形-の1

本シリーズのお化粧直しに際して。
 ブログにアップした大量の拙文のチェックが甘すぎた結果、間違いだらけの文章ばかりで、誠に恥ずかしい。そこで以前から、いつかは全面的な校正に努めて、再アップするつもりだったが、その「いつか」がいつになるか、そもそもそれが可能なのか、自信がなくなってきた。
 そこで、とりあえず、その第一弾として、この故塚崎昌之さん関連のシリーズの記事から、手を付けることにした。但し、最初にアップした文章をほぼそのままにして、明らかな誤字脱字や、読みにくそうな箇所の若干の修正にとどめており、既にご一読して頂いた方は、スルーしていただければと。
 実は、来る10月11日に東京麻布の在日韓人歴史資料館で、塚崎さんが残した大量の資料展示を始める記念イベントで、僕も少しだけ塚崎さんについて語る役を仰せつかって、その下準備の必要も生じたと言う僕自身の都合もあってのことである。
 そのイベントで僕が話せそうなことはすべてこのシリーズで記述しており、そこからつまみ食いして、出来る限り聴衆の皆さんにとって楽しい時間になるようにと節に願い、そのように努力したいと思っている。
 僕にとって、公の場で塚崎さんについて語る、最後の機会になるだろうから、しっかり、お別れする準備をしておきたい。(2025年8月27日)

第一部 死に至る病
目次
1.はじめにー塚崎さんを亡くして一年ー  
2.臨終とその前後

本文
1. はじめにー塚崎さんを亡くしてもうすぐ一年ー
 僕が中年から老年にかけて、最も親しく交わってきた塚崎昌之さんが亡くなったのが、2023年9月の中旬、今日は2024年7月30日なので、僕は彼のいない生活を既に一年近くも送ってきたことになる。
 その間には折に触れて、彼のことや彼と僕の20年近くにわたる交友のあれこれを思い返し、何かを書こうとした。ところが、書き始めても、それが続かないので、狼狽えた。
 彼の生前には、彼のことを分かっているつもりだった。何か事がおこると、彼がどのように考え、どのように対処するかについても、概ね推察がついた。そして、それが大きく外れることはあまりなかった。そのように僕は思い込んでいた。だから、彼のことなら、その気になりさえすれば、いつでも書けると高をくくっていた。
 ところが、そうはいかなかった。書けたのは、僕自身から見ても支離滅裂な落書きばかりで、それ以上には一歩も前に進めなかった。しかも、それよりも困ったのは、書こうとすると彼が遠ざかっていく。彼と僕の関係の実相には全く近づけなかったことである。
 彼を亡くしてようやく知ったり、気付かされたりすることも多く、不意を衝かれてばかりだった。僕の塚崎昌之像がいつも小刻みに、時には大きく揺らぎ、不安になった。
 <急な>逝去を悼んで、塚崎さんを偲ぶ催しなどもあったらしく、多くの人が各人各様に彼のことを語ったり、書いたりしたものの一部を読ませてもらった。それを通じて、彼の履歴、業績、交友、その他に関して、初めて知ったことも少なくなかった。
 とりわけ、彼の他者、とりわけ年少の人々に対する寛容や細かな配慮の数々が、僕の見知ったものと段違いだったことには圧倒された。
 そんな体たらくの僕が、彼について何かを書いても、既に広く知られたことばかりだろうし、その程度のことでも、僕の手には余りそうで、怖気づくほどだった。
 ところが、翻って考えてみると、僕がこれまでに考えたり書いたりしてきたことは、甚だローカルな物事の、ごく一部に過ぎなかった。その点を自認したうえで、それがせめてもの存在価値と居直ることで、辛うじて書いたものばかりだった。
 例え些細なことでも、自分なりに関心を持った物事の一面に、意味を見出し、その意味について考えたり感じたりしたことだけを書いてきた。
 それは自己認識の繰り返しの再確認の試みにほかならず、僕の書きものの対象は、究極的には自分自身に他ならなかった。僕にできることはせいぜいその程度といった諦念が、僕の書くという行為の起点であり、到達点でもあった。
 そんな僕だから、塚崎さんについても、同じことしかできない。そんなことなど、改めて言うまでのこともないのだが、今回はこれまでにもまして、その態度に徹してみようと考えた。
 塚崎さんとの交友において、僕が何を見て、何を感じ、何を考え、何を喜びとし、何に苦しんできたのかを、できる限り正直に書きとめたい。
 それが誰かの何かに役立つなんてことはないだろう。そんなことは決して望まず、もっぱら自分に対して正直に書きとめることで、僕と塚崎さんの交友の意味を確認できれば、それで充分である。そのように、自分に言い聞かせながら、書けるところまで書いてみることにした。
 実は、それを怠ると、僕の余生にとっても重荷になったり、恥ずかしいことになりかねない。そんな危惧もあった。塚崎さんに潔く別れを告げるためにも、書けることを書いておくことが、誰よりも僕にとって必要なのである。
 それはきっと、僕自身の人間的欠陥や過誤の告白を含んだものになるだろうが、それこそが塚崎さんとの交友における僕の正体だったのだから、塚崎さんに対する僕の遅ればせのお詫びの表明にもなるかもしれないとの淡い期待もある。
 利口ぶって生きるよりは、恥をさらしながら生きる方が僕に相応しい。塚崎さんもそんなことくらいは十分以上に承知の上で、僕と付き合ってくれていたに違いない。きっと許してもらえるだろうと、またしても勝手なことを、彼が亡くなってからも押し付けようという魂胆もある。
ともかく、先ずは僕が知る限りでの塚崎昌之さんの臨終とその前後のことを辿ってみる。

2.臨終とその前後
 その日の夜明け前、ベッドでうつらうつらしていると、枕もとの携帯の電話音が聞こえた。その瞬間、塚崎さんの異変の連絡と察した。夜明け前に僕にかかってきそうなのは、それしかなかった。だからこそ、怖さのあまり電話を受けるタイミングを逸してしまった。
 しばらくしてから、残されていた音声メッセージだったかSNSの文字メッセージだったかで、推察が正しいことを確認して、今さらながらに茫然となった。
 気を落ち着ける時間が必要だった。起き上がって洗顔などを終えてようやく、塚崎さんの生涯の伴侶である大田季子さんに電話した。そして、彼女の肉声で、塚崎さんが危篤状態に陥っているという、予想通りのことを告げられた。
 西神戸のわが家から塚崎さんが入院していた南千里の病院まで、JRで三宮まで、そこで阪急神戸線に乗り換えて十三まで、そこでまたしても京都線に乗り換えて淡路まで、そこで千里線に乗り換えといった具合に乗り継いで、勝手知った南千里駅に着いた。
 そこからは徒歩で数分とかからない済生会千里病院では、休日のまだ早い時間だったからか、ほとんど人影が見当たらなかった。
 病室には大田さんの他に、中年の幾人かの男女の姿が見えた。ご親戚が急遽、駆け付けられたのかと思ったが、そうではなかった。塚崎さんの高校教師としての最初の頃の教え子で、その後も長らく付き合いが続いている人たちとのことだった。
 既に数十年前の教え子との交友が、臨終の床に逸早く駆け付けるような形で続いていることに驚いた。以前から話には聞いていたが、教師を天職とみなしていた塚崎さんらしい、と改めて思った。
 塚崎さんはベッドに臥して、苦しそうでも規則正しい呼吸をしていた。しかし、殆ど意識がなさそうな塚崎さんの姿を見ているのは、忍びなく、僕には荷が重すぎた。塚崎さんのそんな姿か目と意識をそらさないと、耐えられなかった。
 たまたま回診にこられた主治医と大田さんに、塚崎さんの<異変の始まりとそれ以降>について、僕がそれまでに考えてきたことをかいつまんでお伝えしたところ、主治医は知らなかったことがいろいろとあるらしく、少し驚いた様子だった。しかし、だからと言って、話が弾むわけでもなかった。
 僕にできそうなことは何もなかったので、まるで逃げるように病室を後にした。
 その日の午後になって、改めて大田さんから電話をいただいた。急遽して東京から駆け付けた長女の稔さんの到着を待っていたかのように、塚崎さんは静かに息を引き取った、とのことだった。しかし、稔さんが存命していたお父さんの姿を見て、彼を見送ることができたのかどうか、正確なことは聞き逃した。
 次女の光さんは、前日に塚崎さんが少し安定を取り戻したのを確認して、沖縄に戻ってしまった。その後で塚崎さんの病状は再度、悪化して危篤状態に陥った。そこで大田さんは長女の穂さんに連絡して、穂さんが東京から新幹線で病院に向かっている頃に、僕は病室を訪れ、そして早々とそこから逃げ去ったのだった。
 主治医と大田さんの話を僕なりに整理すれば、こうだった。心不全に始まって、それが身体全体の機能不全に進み、全身の機能不全のせいで亡くなった。しかし、詳細がどうであれ、いかにも塚崎さんらしい最後などと、僕は無理やり納得しようと努めていた。言いかえれば、納得できていなかったのである。
 医学的な詳細、例えば、心臓病と意識を失う原因となった脳出血との関係などについては、僕なんかに分かるはずがなかった。しかし、あくまでその間の見聞に基づく僕の勘によれば、塚崎さんの死は単純な因果関係で説明がつかなかった。循環器内科の専門医で、塚崎さんとも面識のある弟にも、そのことで僕の知る限りの情報を与えながら質問し、彼からもいろんな可能性について説明を受けたりもした結果も合わせての、その当時の僕の認識は次の通りだった。
 塚崎さんの死への道程は、随分と以前から始まり、2年ほど前からは、相当に具体的な形で表面化していた。それなのに当人が多様な理由で、頑なに受診を拒否、或いは、怠った代価として、塚崎さんの心身の奥深くに潜んでいた病が、緩慢ながらも確実に進行し、ついには彼を死に至らしめた。
 病室でたまたま出会った主治医でさえも、そんな塚崎さんの病の進行過程を正確に把握したうえで、適切な対応ができたようには思えなかった。しかし、塚崎さんの死に関して主治医に責任があるなどと、乱暴なことを言おうとしているわけではない。そんな資格など僕にあるはずがない。
 しかし、塚崎さんとその周辺の者たちが、事態を正確に把握することを何かが妨げていた。その最大の責任者は。ほかならず塚崎さんご本人であり、そんな事情をうすうすは感づいていた周囲の僕たちにも、その責任の一部くらいはある。そのように当時の、僕は思っていた。
 したがって、多くの人が語っていそうな「急死」というのは、当時の僕の感触とは程遠かった。しかも、それは僕ひとりのことではなかった。僕と同じ印象を持っていた人が、僕以外にも幾人かいたはずである。(2025年8月28日午前2時半に改稿して再アップ)

済州のタクシー運転手さんたち(2)―ライフヒストリーの断片―

2018-12-08 16:10:44 | 触れ合った人々
済州の運転手さんたち(2)―ライフヒストリーの断片―

7.優れたガイドとしての運転手-済州の離島・牛島のこと―
 済州を筆頭とした韓国のタクシー運転手さんたちの悪口を言いたくてこの文章を書いているわけではない。(1)で目立ったに違いない情けない話は、以下の(2)で披露する美味な刺身のツマもしくは前座にすぎない。つまり、以下こそが本番で、僕にとって印象深かった「よい運転手さんたち」の中でも極めつけの二人を紹介する。先ずは、済州本島の東側に位置する離島である牛島出身の運転手さん、次いでは方向としては正反対、済州の西端の大静邑にあって、風が強い済州でもとりわけ厳しい刀風のせいで「モッサㇽポ(とうてい暮らせない浦)」とも言われる摹瑟浦(モスルポ)の出身の運転手さんである。
 
先にも触れたが、このお二人の話は、フルコースのメインディッシュの魚と肉といったように二本立てなのだが、夫々がまた、これまでよりもはるかに長くなる。しかも、運転手さんによる済州情報というよりもむしろ、運転手さん自身の生活史こそが僕の「済州学もどき」にとって大きな意味を持ったので、以下の紹介は彼らのライフヒストリーに重点がかかってくる。
 
 済州島の東端、世界文化遺産で有名な城山日出峰の近海に、まるで牛が横たわっていそうに見えるから牛島と呼ばれるようになったその島には、今回で6回目の訪問だった。先ずは、友人たちと毎年恒例の済州一周サイクリングの際に、牛島でも3回だけ一周サイクリングを楽しんだ。次いでは、済州の亡父の墓に妻と同行した際に、ついでに牛島まで足を伸ばし、その波止場で借りたタンデム自転車で一周したのだが、タンデム自転車は二人の息が合わないと前に進まないので、息を合わせる難しさに加えて、とこの島特有の強風に多いに苦しめられた。さらには、長女を連れての初めての済州旅行の際には、徒歩での一周を試みたのだが、結果的には大いに冷や汗をかく羽目になった。それまではいつも自転車だったからなのか、徒歩でもせいぜい2時間はかからないと思い込んでいたのだが、いくら歩いても目的地の港にたどり着けず、済州本島に戻る最終便に間に合いそうになくなった。そこで慌てたあげくに、たまたま道路脇で洗車中だった青年に助けを求めたところ、ありがたいことに港までどころか、城山の宿まで車で送ってもらった。後で分かったことだが、一周が13キロなので、いくら懸命に歩いても3時間はかかるのを、それまでの経験もあるからと知ったかぶりで甘く見て、娘に対しても恥ずかしく情けない旅になってしまった。

 ところでその牛島へどうして何度も足を運ぶのかと言えば、わずか15分ほどでも船上で風に吹かれながら、本島、そして牛島の姿を眺めていると、なんとも言えない旅情があるからである。しかし、それだけではない。何よりも、真裸で海と風とに曝された地の果てという独特の印象のせいである。済州に関する「酷薄な自然環境」つまり、「痩せた土地」「荒々しい風」「激しい波濤」といった常套句が、牛島ではすごく短時間で、しかも「お手軽に」実感できる。
波止場の向こうの海上で激しい風を受けながらいかにも孤独そうに立っている灯台、海辺の防邪塔、白砂で有名な2か所の海水浴場、海の随所で作業中だったり、仕事を終えて陸上で大声で団らん中の海女さんたちの逞しい声と姿、時代につれての変遷が一目で分かる数種類の時代別のプルトク(海女さんの休憩場)、集落の随所にある石垣に囲まれた畑、そしてまたその畑の隅にある土饅頭(墓)、巫俗の聖所である各種の堂、昔は唯一の水源であった湧水池などが、揃い踏みなのである。そもそも、港で船を下りた途端に迎えてくれるのが、植民地時代の海女の抗日闘争記念塔であり、さらには、伝説の島にふさわしく、鯨が住んでいたと言われる断崖絶壁の下のえぐれた淵を見ると、伝説の島の面目躍如である。自転車ならば、そのすべてを1時間ほどで見て回ることができる。観光バスなら名所をすべて、のんびり観光して巡っても2時間、循環バスなら30分で一周が可能だと言う。

 さて今回は、成り行きで僕が編集長を引き受けざるをえなくなった『済州ウイークリー日本語版』という月刊新聞で、牛島を取りあげることになったので、再訪して新聞に載せることができそうな重要スポットを、カメラに収めるという具体的な目的があっての訪問である。
 当初は港までタクシーで行き、フェリーで島に渡り、その島内では自転車を借りるか、バスにでも乗るつもりだったが、宿舎が位置する大学内でたまたま拾ったタクシーの運転手がその目的地である牛島出身だと耳にして、そのままタクシーでフェリーに乗って島に渡り、島を一周してから、同じタクシーで市内へ戻ることにした。そして、その運転手兼案内人がすごくおしゃべり好きだったおかげで、牛島の自然、文化遺跡に加えて、現在の牛島の事情とそれらの文化遺産の関係なども合わせて「観光」することができた。さらにはまた、彼のライフヒストリーまで車中の暇に任せてたっぷりと聞かせてもらうなど、なかなかお目にかかれない幸運だった。

 そのおすそ分けをしたいのだが、話が多岐にわたるので、箇条書きで紹介させていただく。先ずは牛島に関する情報である。

① 海女で有名な牛島も、済州本島と同じく海女の高齢化が進んでいる。しかし、さすがに海女の島だから、女性は今でも殆ど例外なく海女仕事をする。海女経験などなかった女性でも、島の男性に嫁げば海女仕事をしないわけにはいかないから、今や本島では珍しいことなのだが、牛島には30代の海女さんもいる。しかも、海女仕事は女性の専売特許ではなく、その運転手さん自身も10歳ごろからお母さんの海女仕事を手伝っていたと言う。ついでに言えば、海女とくれば、その共同体の精神的絆のシンボルとなっている巫俗祭儀(クッ)の話を欠かすわけにはいかないのだが、彼のお母さんはカトリック教徒でありながらも、その「クッ」に毎年一回は参加していると言う。海女の共同体の絆は命がかかっているので格別のものらしく、その分、束縛も厳しいのだろう。

② 牛島では既に触れたように、様々の伝統的な文化遺産(プルトク、湧水池、防邪塔)の保存・案内表示などが行き届いており、観光客にとっては実に便利なのだが、それに絡んでの内輪話も少々。昔は島内の村ごとに、村民の結束で邪気の侵入を防ぐための防邪塔があったが、今では島内でたった一つになってしまっている。しかし、観光で村おこしをするために、ある村ではその有力なコンテンツとして防邪塔を再建しようという話が持ち上がった。しかし、防邪塔は元来は、老若男女を問わず村の住民全員が石を持ちよって、村民全体の願いを込めて積まれていたのだが、今や人口減少が激しくてそうもいかないので、各戸でお金を出し合って業者に建築を委託せざるをえなく、話がいざそこにまで至ると、費用対効果の論議が紛糾して前に進まなくなるらしい。
 そうした話を耳にすると、僕ら外部の人間はついつい、文化遺産や歴史遺産の形骸化、金もうけ主義を批判したり、打算に基づく伝統文化の復興事業を冷笑したくなったりもするのだが、僕らにそんな偉そうなことを言う資格などあるはずもない。観光とは自然、文化資源を現地の人々がどのように理解し加工し活用しているのかを見ること、或いは、観光客たちが現地をそのように仕向けている現場を観光客自らが確認し、体験するという側面がつきものであるに違いない。観光産業には観光する人たちが大いに加担しているわけである。

③ 地縁血縁意識が色濃く残っていると言われる牛島でも、「外部」の人々の参入が著しい。たとえば、運転者さんが案内してくれた食堂も、主人は大邱の人だと言う。そして、その店の売り物がアワビ入りのジャジャン麺と、牛島名産のピーナッツのアイスクリームなのだが、今や牛島名産とされているそのピーナッツも、牛島で生産されだしたのはそれほど古い話ではなく、伝統や名産などはいつだって新たに「創りだされている」わけである。しかも、そうした商売などに格好の土地は、殆ど外地の人々が購入して観光産業で成功しており、元来の牛島住民が観光で潤っているといった事例は多くない。要するに、済州本島で起こっていることが済州の離島である牛島でも起こっているわけである。観光コンテンツはいつだって誰かによって「創られる」のだが、それが地元民を潤すなんてことは、あまりよくある話ではなさそうなのである。

④ 牛島では済州本島のことを「ユッチ(陸地)」と呼ぶ。これは済州の人々が本土を指す言葉に他ならず、島の住民というものは、そのようにして中心と辺境としての自分の位置を確認していることを思い知った。牛島の人々にとっては、中心は先ずは済州本島なのである。

⑤ ジャジャン麺など、韓国の中華料理では必ず付いてくる「タクアン」を、牛島では昔「コウコウキムチ」と呼んでいたと言う。その呼称は、僕ら大阪の人間がその昔、タクアンに対して用いていた呼称にそっくりであることに驚いた。ひょっとしたら、大阪から牛島、あるいは済州に伝えられたものではなかろうか。或いは、その逆なんてこともあるかもしれない。
 牛島に限らず済州が昔からいかに大阪と因縁が強いところであったかなどと、正真正銘の大阪人間である僕は何かにつけて、そんな自分と済州との因縁を見つけ出そうとするのだが、これについては改めて確認してみなくてはなるまい。といったわけで、またしても宿題ができた。旅行とは気分を新たにして、自分の生活や歴史を考え直す契機、つまりは宿題を抱え込むことに意義があるのかもしれない。

⑥ 観光情報を少々。城山港のターミナルでチケットを買う際には、当日に城山に戻るのか、牛島で宿泊するかによって、値段も切符も異なることを忘れないようにしなくてはならない。また、帰りの最終便の時間に特に留意しておく必要がある。但し、便数は多いので過度な心配は無用だし、日帰りでも泊まりでも、十分なファシリティが整っており、言わば「似非地の果て」観光を、なんともお手軽に堪能できるのが、牛島なのである。

 以上のように運転手さんは見事な文化・観光ガイド役を果たしてくれたのだが、彼の話はそれだけではなく、プライベートな話もたくさん聞かせてくれて、僕にはそうした私的物語のほうが興味深かった。その一部をまたしても箇条書きで紹介したい。

⑦ 自分の母も海女で、自分も幼いころから海女仕事を手伝っていた。天草の採取の仕事などだった。実は自分は二男なのだが、長男がすごく甘やかされて育ったことに加えて、体に少し障害を持っていたこともあって、自立のために必要な知識もないままに歳を取り、今では経済的に苦しい。そういう事情も絡んで、昔から次男である自分が長男の役割もはたしている。

⑧ 母は75歳で、腰と膝に問題を抱えて済州本島の病院に通っている。天主教徒だが、1年に一度くらいは、村のクッには参加している。参加しないではおれない。しかしながら、海女でもプロテスタントの場合は、巫俗の儀式には参加しない。彼はそのように言っていたが、ではそのようにプロテスタントの海女が実際に牛島にいるのかどうかは聞きそびれた。しかし、わざわざそんなことを言うぐらいなのだから、いるのかもしれない。

⑨ 実家はかつては相当に金持ちで、例えば、家は瓦葺きで、そんな家は牛島では珍しかった。ところが、父親が済州で母とは別の女性と暮らし始め、帰宅すると母が海女仕事で稼いだお金を持ち出すようになった。そして、あまりのことに、母がお金を出すのを拒んだりでもすると、父は酒を飲んで暴れるようになった。そしてある時、父がいつものように酒を飲んで暴れているうちに、ふとしたはずみで家に火がついて、全財産が灰になってしまい、すごく貧しい暮らしになった。

⑩ 本人は46歳で、奥さんと子供3人暮らし、長女は25歳で幼稚園の先生、長男は大学生、次男は中学生といった家族構成である。
 自分自身は中学まで牛島で、その後は対岸の城山の水産高校に入学し、下宿で自炊しながら通っていた。しかし、その学校では「ごんた」で通り、毎年のように停学をくらい、3年時には無期停学になるほどだった。その後の軍隊時代にも上官への付け届けを拒んだせいでひどい扱いを受け、それに反抗したところ営倉入りになったりした。また、除隊後にも刑務所にも20日ほど入れられる羽目になって、本当に辛かった。
 しかし、その後は漁師になって、本土の統営の沿海まで遠出して、太刀魚漁で大いに稼いだ。ところが、でもそのお金を当時の妻がすっかり使い果たしてしまった。
 まだ彼女が漁港で働いていた頃に結婚したが、その後、亭主である自分には内緒で、彼女の家族・親戚にお金を融通して、あげくは借金まで作った。さらには、巫俗信仰に熱を上げたあげくに、神が自分に入ってきたなどと言いだしたので毎日喧嘩の連続で、ついには離婚を決心した。しかし、相手が離婚を承知しなくて困り果て、最後の手段として、離婚の原因をつくるために浮気して、ついには相手が離婚を承諾した。

 後に再婚した相手は、陸地から転勤してきた離婚歴のある女性だったが、結婚してからはいつも夫である自分を立ててくれるし、前妻がつくった借金もほとんど返済できた。もうすぐ、その重かった借金生活から解放される。
 今の家庭生活はすごく順調である。漁師をしていた頃は、家に帰るのが半月に一度、しかも家で1泊だけすると、またしても漁に出なければならず、それでは子供たちの教育にも悪いという妻の意見を尊重して、漁師はやめることにした。船を売って車を買い、個人タクシーを始めた。それまでの稼ぎとは比べ物にならないし、最初は客に頭を下げるのが性にあわなくて辛かったが、今ではそれにも慣れて、満足している。ただし、金持ち優遇の今の政府には腹が立つ。貧しい人間には本当に住みにくくなった。
 別れた前妻は今でも巫俗を続けており、それで生計を立てるなど、うまくやっているらしい。
 自分は昔は煙草をすっていたが、好きなサッカーで息切れがして自尊心が傷ついたので、タバコをやめたおかげで、今ではサッカーをしても息切れしない。
 その代わりに、昔は飲まなかった酒を始めたところ、酒友達もできて、なかなかいい感じである。家では毎日、焼酎1本くらい飲めば、すごくよく眠れる。
  以上が、運転手さんの話だった。

 宿舎前に着いてメーターを見ると110000円だったが、ガイド役などに対するお礼も込みで120000円払った。拘束時間が5時間程度にすぎなかったから、予め1時間10000円くらいで契約しておれば、5~6万円程度で済んだろう。だから、運転手さんとしてはいい仕事だったはずである。そういうこともあってのことか、お金を渡した時には笑顔の奥で、少し申し訳なさそうだった。でも僕としては最高のガイドへの謝金のつもりもあったので、万々歳だった。

8.二回も密航生活を経験した運転手さん
 最後は、済州の西端の大静出身の運転手さん、日本人の知人と初めて利用した時の印象がよくて、しかも、その知人とも長い付き合いらしく、信頼がおけそうだし、何といっても日本語ができるから、意思疎通の問題がないから、終日のチャーターの際には、ほとんどいつも利用させて頂くようになった。そしてまた、日本の友人・知人たちからタクシーの紹介を依頼されると必ず、彼に連絡するようにもなり、実際に利用した人々から、すごく親切にしてもらえたと感謝されもして、ますます関係が密になった。
 その延長上で、僕の済州での一大目的となったフィールドワークにも協力していただくようになった。僕が頼りにしていた『済州女性文化遺跡』という本には、アクセス情報も詳細に記されているのだが、その情報が古すぎたり誤りもあったりして、なかなか探しだせずに何度も行ったり来たりを繰り返し、地元の人に尋ねたりしたあげくに、ついに探し出した時には、握手して、労いあったりと、まさに僕の旅の道連れ、済州学もどきの同伴者になってもらえた。

 僕が「そんな変なこと」に興味を持っていることに呆れ顔をしながらも、「いまでもこんなに昔のものが残っていることにはびっくり」と彼自身も感動してくれたりで、僕も自分の酔狂に改めてやり甲斐をおぼえたりすることもあった。
 そんな道中の合間に、植民地時代の僕の両親の渡日過程や在日生活、そして従兄たちの1970年代になってからの密航物語などを話すと、彼も大いに共感してくれて、彼自身の密航話へとごく自然に話が展開するようになった。
 実にいろんな話題で話をしたのだが、彼の四方山話のうちで密航に絡んだ話に限って、それも断続的な話の数回分をつなぎ合わせると、次のようになる。

 ともかく貧しくて、済州では生計が立たなかった。子供の頃には、母親が長らく陸地(本土のこと)の東海(日本海のこと)沿岸へ出稼ぎ(出稼ぎ海女と呼ばれる)するのに同行していた。やがて一緒に済州に戻ってきたが、土地があるわけでもないから安定した仕事もなくて、1968年に日本に密航した。手元にお金があるはずもなかったので、神戸に着いた際に、親戚がその渡航費を持って迎えに来てくれて、そのお金と引き換えに自分の体も親戚に渡してもらえた。こうして、無事に密航に成功した。業者に支払ったその密航費用は、当時は30万日本円だった。普通なら済州で半額、日本に着いてから半額を親戚などが持参して、密航者の身柄と交換するのだが、自分の場合は親戚が密航のブローカーと知り合いだったという事情もあって、保証人になってくれたからこそ、特例的扱いをしてくれた。

 到着地は神戸と聞いたが、本当のところはどこだったのか、今でもよくは分からない。船底に隠れていたので、税関などの検査が行われているのを船底で聞き、それが終わるのを待って、ようやく外に出ることができた。一緒に来た人たちのうちの一人は、自分がそこから出て行くまでには迎えがこなかったから、その後、どうなったのか分からない。誰も迎えが来ず、お金が払えないのだから、韓国にそのまま連れ戻されたか、あるいは殺されたのかもしれない。しかし、「闇」で連れてきた人間を再び「闇」で連れ帰ってもお金にはなるはずもないから、そんな危険なことをブローカーたちがするとは思えないから、きっと、最悪の・・・

 親戚の斡旋で大阪の生野区の在日集住地区で暮らし、そして働いた。その生活に慣れて、渡航費用の借金を返し、済州の母親にも安定した送金ができるようになってから、親戚の紹介で、自分同じく済州から密航して、御針子として働いていた女性と結婚した。ところが、その数年後には、その妻の自転車(女性用)に乗っていたところを警察の不審尋問にあい、捕まってしまった。
 拘置所では、妻や親戚が次々と差し入れをしてくれて、それを「牢名主」に分け与えたおかげで、可愛がってもらえるなど、わりと楽な毎日だった。何度もつかまった経験のある人などは、家族にも見放されてしまったのか、差し入れがないから何かと虐められて、辛い毎日だっただろう。お金のあるなしで拘置所生活もひどく異なった。この世の中、どこへ行ってもお金がすべてだと思い知った。
 密航生活もすでに10年以上経過していたので、ブローカーや弁護士などを通じてお金をたくさん使えば、在留資格を得ることも可能という話を面会の親戚から聞いた。だから、親戚はなんとかして日本に留まれと言ってくれた。但し、家を持っておれば200万日本円程度、家がなければ1000万円もかかると言う。そんな巨額のお金を出すくらいなら、済州に送り返させられるほうがよかったそれにまた、母親を済州にひとり残していたことも気がかりで、この際、母親や先祖のためにも帰らねばならないと思った。

 実は父親も植民地時代には大阪にいて、解放後、親戚の反対を押し切って済州に戻ったそうで、その父親とそっくり同じことを言っているから、「やはり血筋だなあ」と親戚たちは感心していた。しかし、本当のところは、なによりも密航生活の辛さがあった。それは楽しいものなどではなかったし、日本は好きではなかったからこそ、済州に戻ることに決めたのである。

 在留資格の斡旋をするブローカーは、生野警察署のお偉方などと繋がっているような感じだった。ある時、親戚が頼んだからか、生野警察署のお偉方が自分に面会に来てくれたことがあって、入管の職員連中は、やたらと「ぺこぺこ」していてのを見て、なるほどと思った。
 強制送還される際には、大きな船で200名以上が一緒に釜山港に着いた。そしてそのまま収容された釜山の収容所では、人によっては、ずいぶん長く厳しい調査を受けたが、自分はたった2日で済んだ。きっとおとなしく、言われるままにしたからだろう。生意気な対応をした人が、調査者からひどく殴られたりするのを目撃して、そのことを痛感した。
 強制送還船に乗せられるまで収容されていた長崎の大村収容所では、殺人犯でやくざの組長クラスの人もいて、送還船に乗るのを拒否して、北朝鮮へ送れと要求して、自分たちと同じ船には乗らなかった。たぶん、いろいろな工作の結果、日本に残されたのではないだろうか。そんな話をよく耳にした。
 日本に残した妻はその後、自首して済州に戻って、改めて一緒に暮らせるようになったので、結果的によかったと当時は思った。しかし、この世はそうは甘くなく・・・
 
 密航時代に妻と一緒に貯めていたお金を元手に、済州で商売を始めた。スーパーのような店だった。しかし、あえなく失敗してしまった。しかも、その頃には歳もとっていて、職を見つけるのも難しかったので、仕方なく再度、日本に行くことにした。
 今度は安全を優先して、普通よりは高いお金を払って名古屋へ向かった。大阪や神戸その他、密航に関して実績のある港では警戒がすごく厳しくなっていたので、安全を期してのことだった。大枚はたいて失敗するなんてことは許されず、背水の陣だった。
 港に着くと、自分はすでに日本語ができるので、日本語ができない密航者の案内役にもなった。ブローカーは、密航のグループ内で役割分担をうまく工夫していた。この時には、密航費用は全額前払いだった。だから、港に着くとそのまま放置され、自分たちで落ち着き先に向かわねがならなかった。自分は新幹線に乗って大阪に行った。そして仕事の紹介を受けて、京都の山間の村に行き、そこの工場に住み込みで、8年間働いた。
 休日には、山に入って蕨を取ってきて、それを煮て、干して、生野の親戚の家に持って行くと、すごく喜ばれた。しかしその一方で、「休日くらいは休んだらいいのに」と呆れられた。自分でも同じように思うけれど、休むといっても山間では何もすることがなかったし、外に出るとお金がかかるし・・・
 その頃には、妻は3ヶ月の観光ビザで、1年に1回は大阪の親戚のところに来て働き(お針子)をしていたので、その際には休日には必ず会いに行っていたから、済州にいた頃よりも愛情が深まったような気がする。予定の金額の送金ができたので、今度は自首して航空券料金も自分で支払って、帰国した。

 妻は日本を懐かしがるが、自分は懐かしいという気持ちがあまりない。ところが、そんな夫婦の娘が、何故かしら日本に興味を持って、日本に行きたがっている。妻が日本で覚えた料理(カレーライスその他)を家ではよくするし、家では無意識に日本語を話していることがあるせいなのかもしれない。
 娘は中学校時代から、ネットで東京にペンフレンドを作り、熱心に日本語を勉強しており、今や、夫婦間で日本語で秘密の話ができないほどに、日本語を聞く能力は持っていて、将来、日本に行くことを夢見ている。
入管につかまっていたときに、入管の連中が、「今日も豚を何匹か捕まえた」などと自慢していた。豚とは自分たちのことに他ならず、豚扱いであった。当時の韓国人に対する差別を思い出すと腹が煮えたぎる。

付記
 こんな話を挟みながら、1年に数回、僕が済州でタクシーのチャーターが必要な時にはいつも楽しい時間を過ごしていたのに、その運転手さんも昨年に電話してところ、高齢だし、安全のことを考えたらそろそろ潮時だから廃業した、と言う。残念だが仕方ない。今までありがとう、これからもくれぐれもお元気で、と挨拶した。

済州のタクシー運転手さんたち(1)―多様な人となり

2018-12-07 16:34:26 | 触れ合った人々
済州のタクシー運転手さんたち
(1)―多様な人となり―
1.新鮮で有益な現地情報の窓口
2.優しくて悲しすぎる運転手さん―地域の歴史(1)
3.元日本人兵士の息子-地域の歴史(2)
4.「自分勝手な善意」と「狂気」の相乗作用
5.閑話休題―これまたびっくり、怒りまくっていたソウルの運転手
6.5・16(軍事革命)道路、別称「カンペ(ヤクザ)道路」を疾走する神風運転手

(2)―運転手さんたちのライフヒストリーの断片―
7.優れたガイドとしての運転手さん―済州の離島・牛島―
8.二回も日本での密航生活を経験した運転手さん


1.新鮮で有益な現地情報の窓口
 僕は済州でタクシーに乗るたびに、運転手さんと話を交わすように努めている。ある時などは、話に熱中するあまり、わざと遠回りされていることに気づかず、後になって「ひっかけられた」と気分を害したこともあるが、それでも懲りることはない。相当に深刻な韓国語コンプレックスを抱えている僕でも、後部座席にゆったりと腰を据えて運転手さんの背後から話すことになるので、随分と気楽である。それになにしろ、「お客だから」余裕もなくはない。さらには、運転手さんの言葉は直接ではなく、フロントガラスや車壁などを経由して聞こえてくるので、なんとなく柔らかく感じられて、耳と体にすんなりと入ってくる。話だけではない。運転手さんの動き全体を背後から、一方的かつ遠慮なく見ることもできる。
 そんな好条件が揃っているから、済州に本籍をおきながらも、その「故郷」での生活経験はない僕にとって、「故郷」の人々を観察し、済州滞在、さらには遅まきに始めた済州学もどきにとっても、実に手軽で得難い学習の機会になる。そんな運転手さんたちの幾つかの姿を紹介する。

2.優しくて悲しすぎる運転手さん―地域の歴史
 済州の繁華街での会食を終え、ほろ酔い気分でタクシーを拾った。そして済州大学内の宿舎に着くまで、ずっと運転手さんの話を聞いていた。その人が饒舌だったわけではない。なんとなく、タクシー内。つまり運転手さんに済州の「臭い」が希薄な気がしたので、少し躊躇ないながらも、「失礼ですが、済州の方ですか?」と質問をしたのがきっかけだった。
 彼はぽつりぽつりと自分の来歴を話し出した。光州で生まれたが、まだほんの幼い頃、朝鮮戦争の最中に避難のために両親に連れられて済州にやって来て、そのまま住み着いた。だから、1950年に大阪で生まれた僕よりは5、6歳ほど年上ということになる。
 生まれ故郷の光州については、貧しくてひもじかった記憶しかないが、済州に来てからもそれはまったく変わらず、将来に希望を持てたことなど、一度もなかった。日本へ密航してお金を稼いで帰ってきた周囲の人々に憧れたが、だからと言って、その真似を企てるのは容易なことではなかった。一つは、日本に頼りになりそうな知り合いや親戚がいなかった。それにまた、先立つものがなかった。密航しようとすれば自分にとっては恐ろしいくらい多額の経費が必要で、その算段などできるはずもなかった。
 しかし、やがて誰だって観光ビザで日本に行けるような時代がやってきた。そこで、ブローカーから、観光ビザで大阪へ行って、オーバーステイして稼ぐように勧められ、その経費を借金で賄って、夢を実現する決心がついた。手続き、そして大阪での働き先、住まいなどの一切は、ブローカーが手配してくれた。
経費はすべて借金で賄ったので、先ずはそれを返済しなくてはならず、がむしゃらに働いて、ようやく渡航費の借金を払い終えた。すると、少しは気持ちに余裕ができたのだが、そうなるとかえって、不法滞在で捕まる不安が深刻になった。
 借金を返済したことで、やっとスタートラインに立った。その後もますます懸命に働き、節約に努めた。将来は済州に戻って暮らせるように、ぎりぎりの倹約をしながら、済州の両親に懸命に送金した。その一部は両親や兄弟の当座の生活費に充てるとしても、できるだけ多くのお金を残して、ミカン畑を少しづつでも買い集めてくれるように頼んでおいた。
 いつどこでも捕まるのが不安で、気持ちが安らぐ暇がなかった。遊びに出かけなかったのも、節約のためという理由もあったが、それよりも捕まるのが怖かったからである。だから一刻も早く、生活を立てるのに十分なミカン畑を確保して、済州に戻って気楽に暮らそうと思っていた。その夢だけが励みだった。
やがて心配が現実のものとなった。あれだけ気を付けていたのに、ふとしたことから警察に捕まり、大村収容所を経て、済州に連れ戻された。しかし、いざ捕まってしまうと、捕まる不安から解放されて、むしろ気分も軽く済州に戻ってきた。ところが、そこでは夢にも思っていなかった現実が待っていた。
あれだけ節約して送っていたお金が一銭も残っていなかった。しかも、お金を送るたびに、電話でしつこいくらいに購入を依頼していたミカン畑もなかった。すごく腹が立ったが、両親や兄弟の相変わらずのひどい暮らしぶりを見ると、何も言えなかった。
 その後も両親や兄弟共々の貧乏生活が続き、結婚どころではないままに、すっかり老いてしまった。今では両親や兄弟たちもみんな亡くなって、養う者がいなくなったから、わりと呑気な一人暮らしである。寂しいけど・・・
たった20分くらいの短時間にそれだけの話を聞けたなんて、本当のことなのかと信じがたいのだが、記憶ではそうなっている。但し、僕の「語りの誘惑」もしくは「理解の欲望」が作用して、我知らず、僕にとって分かりやすく、そして書きやすいような「加工」、あげくは「捏造」がなされたのではという疑惑を一蹴できるほどに、自分の記憶力に自信はない。
 車がすごく多くなった済州なのだが、昼間と比べて車の量がはるかに少ない夜間だから、立派な道路が縦横に走る済州では、めったやたらとスピードを上げる車が多い。そんな中では目立って安全運転で乗り心地の良い運転だったので、ほろ酔い気分の僕にはなんとも快適な時間だった。しかも、そんな環境にすっかりマッチした、訥々とした話しぶりだから、そのストーリーと話し手の情緒が僕の心身にすんなりとしみいってきた。
 もっと詳しく話を聞かせてもらいたくなった。それにまた、少しは稼いでもらえるように、終日にわたってタクシーチャーターしてあげる機会があればと思って、降車の際に名刺をもらっておいた。
 そして幸いなことにその数日後には、そんな機会が訪れたので、喜び勇んで電話してみたところ、「生憎なことにその日は先約があって無理」と、すごく残念がってくれた。次の機会にと思ったが、その後は忙しさに紛れてしまった。たまには思い出すこともなくはないのだが、連絡先の唯一の手がかりである名刺をどこに置いたのか、見つけられないという、なんとも情けなくダラシナイ話なのである。
 
「根なし草」的な存在という意味では少しくらいは僕と似ていそうな気もするのだが、背負ってきた苦労と希望のなさは、僕なんかとは比べものにならない人だった。思い出す度になんだか申しわけなく、さらには切なくなって、ついつい溜息を吐く。

3.元日本人兵士の息子-地域の歴史(2)
 その数日後のことである。これまた済州市内での会食後、ほろ酔い気分で済州大学校に向かった時の話である。乗り込んだタクシーの運転者が、僕の下手な韓国語に興味を示したので、「両親の故郷は済州だけど、僕は大阪生まれ大阪育ちで、今もなお大阪に住む在日二世。長期休暇を利用しては済州にやってきて、いろんな人にインタビューしている」と自己紹介した。すると、「自分の父親も大阪に住んでいた」と言うので、密航だったのか、あるいは、植民地期に出稼ぎで大阪にいた人なのかと思った。済州ではよくありそうな話だからである。ところが、それに続いて、「自分の父親は日本人で大阪出身」と、意外な方向に話は展開した。
 それでもまだ僕は、体内をめぐる酔いも与ってのことなのか、「日本から戻ってきた済州島人なのかな」と、その意外さを丸め込もうとした。と言うのも、ずっと以前、僕が済州通いを始めた頃に、僕の従兄たちが僕の両親のことを「日本の父(イㇽボン・アボジ)、日本の母(イㇽボン・オモニ)」などと呼ぶのを聞いて、少しショックを受けたことが記憶に残っていたので、単に言い方の問題に過ぎないのではと思ったのである。そこで念のために、「僕のように在日僑胞(チェイㇽキョッポ)」だったの?」と問い質してみたところ、「そうじゃない。既報直前にこちらに大挙して送られてきた日本人兵士の一人で、終戦後も日本へは帰らずにこっちに居残ったんだ。そんな父親と済州人の母親から生まれたのだから、自分は韓日混血ということになる。因みに、父親は大阪の服部(ハットリ)という町の出身なんだが、知っているか?」と逆に質問してきた。しかも、「10年ほど前に、父親に頼まれて、服部にいる叔母、つまり父の妹に会いに行ったこともある」と言う。そして更には、「他にもう一人、父と同じように、日本人の元兵士で済州の女性と結婚してこっちに住んでいた人がいたのだが、もうずいぶん前に済州を去ってソウルで暮らしている」とも言う。
 
 僕は先ずは驚き、次いでは、その偶然を大いに喜んだ。あの終戦間際に、米軍の日本本土をせき止めるために、済州で迎え撃つための「決7号作戦」に投入された7~8万とも言われる日本兵たち、そのうちの一人に会えるチャンスである。そもそもその兵士たちと密接に関連して、済州全島に張り巡らされた日本軍軍事施設のフィールドワークに参加したことが、僕の済州学もどきの契機だったのだから、気持ちが逸らないわけがない。慌てて、提案してみた。「実は、僕もその服部からそれほど遠くないところで生まれ育ち、あの服部緑地公園にはよく通った。そんな縁もあるので、お父さんに是非ともインタビューしたいのですが・・・」。酷いこじつけであることは重々承知の上で、僕はまくしたてた。すると彼は、少し考えを巡らしている様子だったが、ついには「たぶん、父は喜ぶだろうが・・・ともかく、尋ねてから、正確な返事をする」と返答してくれた。躊躇いの気配がなくはなかったが、僕の願いを聞き届けてくれそうな感触だった。
 ところが翌日に、もらっておいた名刺の電話番号に電話してみたところ、受信音はしても、誰も電話口には出ない。その後も時間をおいて、さらにはその翌日にも、なんどか電話を試みたがダメだった。すごい肩透かしを食らった気分で落胆した。理由がわからないのも、気持ちが悪かった。ひょっとして父親が拒否したのだろうか。あるいは、彼自身に何か不都合でも生じたのだろうか。そのどちらかなのだろう。あの「日本人元兵士」の話が嘘だなどとは思えなかった。たまたま拾った客にすぎない僕に、わざわざそんな嘘をつく理由の見当などつかなかった。
 しかし、ついには納得した。残念だが、世の中にはいろんな事情があるものなのだから、仕方ないとあきらめた。

4.「自分勝手な善意」と「狂気」の相乗作用-人
 以上は、その後においてはうまく展開しなかったにせよ、僕の済州学もどきにとっては、うれしい出会いだった。ところが、済州でタクシーに乗ればいつでもそんな風に、都合のいいような出会いが生じるわけではない。運転手さんの中には客に対する愛想どころか基本的な礼儀も示さない人が稀ではない。殆ど無言のままで、乗客を煙たがっていそうに見える人さえいるし、客に全く関心を向けない人もいる。さらには、乗り合わせたのはひどい災難だった、と思わせられるタクシーの運転手さんもいる。
 西帰浦から東へ向かって、僕の本籍地がある地域へ行くために、バスにするかタクシーにするか迷ったあげくに、時間の節約のためにとタクシーを選ぶことにした。ちょうどうまい具合に、タクシーがバス停の前を通りかかったので、それを拾ったのだが、乗りこんだ瞬間から何かおかしいと感じた。運転手が後部座席の僕のことなど眼中になさそうに、何かをぶつぶつ呟いている。
 しかも、その呟きがやがて奇声に変わった。僕は呆気にとられて、その言の連鎖の意味がまったく理解できずに、運転手の挙動に目が釘付けになった。彼は前方を指さして、今度は怒鳴り始めている。そこで僕は、「僕が乗車する前に、前方を走る車と何かトラブルでもあったのかな、拙いことにならなければいいのだが」と大いに不安になった。そこで事態を把握するために、「どうしたんですか?何かあったんですか?」と尋ねてみた。運転手はしかし、僕の言葉などまったくおかまいなしである。返事の気配もない。

 その一方で、怒鳴り声を上げるのと同時にアクセルを踏み込んで、前の車を追撃する様子である。そしてついに追いつくと、今度は前の車と並行して走りだし、その隣の車に向かって叫び出した。ハンドルや前方のことなど、まるでお構いなしである。次いでは、いかにも急を要するといった具合で、ドアガラスを下ろして、改めて叫び始めた。身の安全が心配になりだいた僕も、その時になってようやく、事情が分かったような気がした。横の車のドアーが半ドアー状態だったようなのである。たぶん、僕のタクシーの運転手はそれが目に入ったから、前の運転手にそのことを注意するために、その後を追いかけて叫んでいたらしい。つまり、善意があまり余ったあげくの、常軌を逸したお節介だったわけである。
 僕もひとまず安心したし、横の車の運転手も、最初は背後から猛スピードで追いついてきたこちらの運転手の異常な様子に驚いているようだったが、こちらの運転手が窓を開けて叫びながら、しきりにドアを叩く仕草をしているので、何のことか気づいたらしく、ドアーを少し開けてから、バタンと勢いよく閉めなおして、僕らの車から逃げるようにしてスピードを上げた。異様な追撃に恐れを抱いたのだろう。関わりたくないと思うのも当然だろう。
「やれやれ、これで一件落着」と僕は思った。
 ところが、そうではなかった。むしろ、それが始まりだった。
それまで客の僕にまったく関心を示さなかった運転手が、ようやく僕の存在に気付いたのか、いきなりタバコの話を始めた。禁煙して3年になると言う。タバコ吸いの父親が肺癌で亡くなった際に、母に禁煙を誓ったのだそうだ。そして、それ以来、その誓いを破っていない。自分は何だって決意すればやり遂げる人間だと付け加えた。それを聞きながら、僕は少し耳が痛かったし、興奮した様子の運転手の気持ちを落ち着けるために、少し冗談口調で「何回も禁煙に失敗してきた自分と比べて、実に立派なことだ」と運転手を褒めて、話のけりをつけたつもりだった。しかし、そうは問屋が卸さなかった。そもそも、彼は僕と対話しているのではなさそうなのである。
 今度はいきなり政治、政治家の話になった。「口だけ達者で何一つ実行できない政治家のバカ共めが!」を皮切りに、またしても声が高鳴り始めた。そしてついには、後部座席の僕のほうを振り返っては、口角に泡といった具合でまくしたてる。興奮で目が充血しているのがわかって、僕からすれば大いに不安だし、前を見ないで運転しているのも恐ろしい。
「あんな虫ケラどもは軍隊を送って殺してしまわんといかん。ワシがその先頭に立って!」と叫びながら、まるで運転席から立ち上がろうとする気配まで。
 僕は二重の恐怖にとらわれた。まずは交通事故の恐怖、ついでは、精神軟弱で、言行不一致をまさに体現していそうな僕などは、彼が抹殺を主張する「虫ケラ」の一匹に他ならない。本気で怖くなった。

 「降りるから、車を止めて!」と僕は思わず叫んでいた。ところが、運転手は僕の言葉に従う気配などなかった。聞こえないふりをしているのか、実際に聞こえないのか定かではない。そこで僕のほうも覚悟を決めて、何度も同じセリフを叫んだ。4度目か5度目になって、運転手はようやく、前を向いたままで何も言わずに、急ブレーキで車を止めた。僕は料金メーターを見て、お金を差し出しながら、「お釣りは結構」と口早に言いながら、逃げるようにしてタクシーから降りた。そして、すぐさまその道路から路地に飛び込んだ。車で追いかけれらそうな恐怖のせいである。背後で何か叫び声が聞こえたような気がしたが、本当に聞こえたのか、僕の幻聴に過ぎなかったのかは分からない。 
 ともかく、命拾いした気分だった。ほとぼりが冷めるまで、つまり、あのタクシーが僕を探している気配がないことがはっきりするまで、その田舎街をぶらついてから、バスに乗って目的地へと向かった。もう、少なくともその日に限っては、タクシーはこりごりだった。

5.閑話休題―これまたびっくり!怒りまくっていたソウルの運転手
 ひどい運転手さんは済州だけのことではなかった。
済州で数日を過ごしてからソウルに向かった時のことだった。仁川空港からソウル市の東大門運動場(今の、東大門歴史公園駅)近くまで、普通なら地下鉄かリムジンを利用するところなのに、リムジンの停留所や地下鉄駅から、予約してあった東横インホテルまで荷物を引っ張って歩くのはきついなあとついつい弱気になって、タクシーに乗ることにした。僕に似合わない贅沢を発揮したわけだが、済州の場合と同じく、それが大失敗だった。
僕よりはずいぶん年配、たぶん60代後半と見受けられる、やせて貧相で、しかも眉間にしわを寄せて、なんとも剣呑な表情の運転手だった。しかし、空港の長距離客専用のタクシー乗り場で、長蛇の列をなしていたタクシーを、運転手の顔が気に入らないからと拒否するわけにもいかないし、そもそも、その顔をきちんと見たのは、タクシーに乗って後部座席に腰を下ろし、バックミラーに映るその顔を見てようやく気付いたことにすぎず、その時にはいまさら仕方ないと覚悟を決めるしかなかった。
 その人はまず、「どこから来たのか」と、甲高くて荒れた声、それも、客を相手にしているにしてはなんとも不躾な口調で質問してきた。もちろん不愉快だったが、韓国でそんなことを気にしていたら、あちこちで悶着を起こすことになりかねない。それが僕に染みついた「偏見」だから、不快さは強引に抑えこんで、「在日二世で、大阪から両親の故郷である済州に少し滞在してから、ソウルの友人たちに会いに来た」と答えた。「同胞なのだから、仲良くしようよ」と、呼びかけたつもりだったのである。ところが、その人は、「そんなことなら、カジノ、ゴルフ、料理、それにやっぱり女で遊べばいいじゃないか。誰でもそうしてる。その気があるなら、わしがお好みに応じて何でも紹介してやるから」と言う。その話の内容もさることながら、その口調にはカチンときたが、それでも僕はまだ自分を無理に抑えて、「申し訳ないけど、そんなことには関心がない。そんな年齢でもないし・・・」と、僕なりに冗談めかして流したつもりだったが、それがむしろ彼の「何か」を刺激したのかもしれない。しかし、そんな訳のわかったような推察は、ずいぶん後になって思いついたにすぎない。
 運転手は「男のくせにそんなはずがあるもんか!何を格好つけやがって」と宣うた。そして、「つい先日にも」、どんな客をどんな女に紹介したといった話を綿々と繰り出し始めた。僕はもうその野卑な話し方に耐えられず、僕には珍しく本気になって「そんな話、そこまでにしておけよ」と声を荒げた。すると、その運転手もさすがに口をつぐんだ。
そのおかげで、仁川からソウル市内までの高速道路からのソウルの光景を少しは気楽に楽しめそうになった。やれやれと思った。ところが、それも長くは続かなかった。
 やがてブツブツと独り言が始まった。今度は、タクシー運転手の惨状、そしてそれを放置している行政や政治に対する不満の類だった。そして、そんな場合に人身御供になるのが、いわゆる進歩派の政治家や政党と決まっているらしく、韓国の政治状況にあまり詳しくない僕でも知っている野党の指導者格の数人が次々と俎板に載せられた。
 但し、幸いなことに、僕がそのうちで知っている名前など限られていたので、実際には彼の罵詈雑言も、僕には殆ど意味をなさない。それは確かなのだが、それでも狭い車内での罵詈雑言は聞きづらいものだった。
ソウル市内に入って車が込みだして、前に進まない。それをいいことに、運転手は自分の惨状の訴えと社会への抗議、そしてそうした状況をもたらした最大の責任者と彼が考えているらしい民主政治家たちに対する激しい憎悪の叫びの我を忘れるようになった。その声色は、ただの雑音だと思いなして聞き流す努力をしても、耐えがたかった。しかし、その分、ホテルに着いてタクシーを降りる時には、すごい解放感を味わえた。
少しはその運転手の窮状に同情してチップを渡すつもりだったのに、途中ではそれを差し出す気持ちなど失せてしまっていたが、最後の段になって、やはり可哀想になったし、ようやく解放されてよほどにうれしかったのか、1万ウオンだけチップとして差し出した。
 ところが、「ありがとう」の一言、あるいはお愛想笑いさえもなく、まるでそれが当然のように受け取る様子を見て、さすがの僕も呆れてしまった。

6.5・16(軍事革命)道路、またの名が「カンペ(ヤクザ)道路」を疾走する神風運転手
 済州の話に戻って、これまでで最も恐ろしいタクシー体験の話をしてみよう。
 西帰浦在住の従兄を訪問して、済州市に戻る際のことである。従兄の奥さんがタクシーを呼んでくれた。済州からお客をのせて西帰浦で下したタクシーの帰路ならば、通常のメーター料金の半額になるらしい。もちろん、ケチな僕だから喜んで乗り込んだ。
 ところが、それから半時間以上、あまりにも恐ろしくて、自律神経ががたがたになったせいで冷や汗が絶えず、降車してからいきなり冷たい風にあたったことも相まって、夜には発熱騒ぎになった。
 西帰浦と済州市を最短でつなぐ道路が、通称5・16道路(第一横断道路)である。昔から済州島を横断する山道だったものを車道に拡張・開設するにあたって、クーデタで政権を奪取したばかりの朴正煕軍事政権は、「悪者退治と清廉」を売りにした人気取りと、危険負担と経費削減という実利を兼ねて、「やくざさん」たちを大量に投入した。「非・人間」の「更生」と地域開発の画期的な推進というわけである。
 その工事は漢拏山を横断する狭い崖道の連続だからただでさえ難工事なのに、そんな困難や危険な状況を無視した短い工期設定もあって、危険を顧みない突貫工事を強いられた。そのせいで「命知らずのやくざさんたち」は尋常ではないほどに酷使され、少なからぬ被害を出した。そんな経緯もあって、その第一横断道路は「カンペ(やくざ)道路」とも呼ばれる。そもそも5・16軍事革命そのものが、組織暴力団の仕業に他ならないと主張する人たちもいて、彼らに言わせれば、その意味も込めてのカンペ道路という呼称なのかもしれない。
 今や漢拏山を横断する道路は他にも幾つかあるので、僕はたいていは他の道を選ぶ。そのカンペ道路は絶壁に沿った急坂で屈曲を繰り返すので、僕のような怖がり向きではないのである。しかし、大きく茂った両側の街路樹が道路上に自然の緑陰トンネルをなしているなど、観光道路として持て囃される。それにまた、運転に自信があったりスリルが好みのドライバー、さらには短時間で稼ぎたいタクシー運転手なら、その道を選好する。その結果、「神風運転手」、「神風タクシー」が跋扈する道路としても有名なのである。
 その「神風」はもちろん、「カミカゼ」と日本語で発音される。済州には植民地時代の名残で、あまり印象のよくない日本語がたくさん残っていて、中でもカミカゼは特に有名な日本語である。海岸に潜ませて米軍艦に突撃する予定であった特攻ボートの回天は「海のカミカゼ」、「山のカミカゼ」はヤクザ道路を疾走する。済州では「カミカゼ」は死語にはなっていないのである。

 僕が乗り込んだのは、腕に自信があり、スリルを楽しむドライバーだったのか、或いは、ただただ経済的合理性(つまり短時間でできるだけ多く稼ぎたい)を最優先する運転手だったのか、或いは、その両方を兼ね備えていたのか定かではないのだが、ともかく猛スピードで「カンペ道路」を爆走した。
 彼の頭には後部座席で、車がカーブに差し掛かるたびに、右へ、左へ、さらには急ブレーキや急加速のせいで前後にと、ひたすらもんどりうち続け、一車線しかないカーブの連続なのに、隙あらば追い越しを狙って走るのを見て、恐怖に凍り付いている僕のことなど、まったくなかったにちがいない。或いは、ひょっとしたら、むしろそんな僕をバックミラーで時々見ながら、嘲り笑っていたのかもしれない。
 相当に無理して好意的に考えれば、彼は何よりも早く済州空港に戻って、長距離の上客を捕まえたい一心なのだろう。しかし、そのあおりを食らった僕としては、たまったものじゃなくて、そんな風にもっぱら好意的に考えられるわけがない。ただでさえ、車が嫌いで、車の運転もやめて久しい僕である。しかも、その理由が、昔の山中の雪道で3回も続いた事故騒ぎで、車という機械をすっかり信用できなくなったことが後を引いている僕である。車に関して僕はトラウマを抱えているのである。
 もう辛抱たまらなくなって、「料金は二倍出すから、ゆっくり、安全運転で」と悲鳴のような声で「お願い」したが、先方には耳を貸す気配などない。しかし、僕がその「お願い」を連発した結果、ついには「安心なさいよ、運転には自信があるんだ。これしきのこと、軽いもんだし、楽しいもんだ」と、鼻笑いであしらわれる始末で、再び口を開く気力も失せてしまった。
 済州市に着いて、そのタクシーを降りた際には、僕の心身はすっかり凍り付いていた。親戚がらみの人情とお金が絡み合ったややこしい問題で東奔西走の疲労の蓄積もあったのだろうが、既に心身のバランスをすっかり逸していて、冷や汗と寒気も絡んで、先にも触れたように、夜には発熱する始末だった。(次回の(2)に続く)