塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-8
本シリーズの前回の7では、東京の在日韓人歴史資料館での塚崎さんと僕の二人講演とミニシンポ、さらには、その翌日の塚崎さんと僕が二人して、彼の生まれ故郷である靖国神社その他の散策と蕎麦屋での昼食の様子の記述だった。しかし、その後は、今シリーズの続きのアップを、半年以上も中断していた。そのせいで、以下の記述の流れが読者にはつかみにくいだろうと考えて、つなぎとしての補足をしておきたい。前回の最後は次のような文章になっていた。
「塚崎さんが無事に帰宅したことは、関西に戻った翌々日になって知らされ、ひとまず安堵した。しかし、依然として、塚崎さんは僕が最も強く懇請していた医師の診察と検査を先延ばしにしているようだった。あれほどひどい姿を僕に見せつけながら、大阪に帰った週の木曜日には、メディア関係者に囲まれての塚崎塾と親しまれていた連続学習会で、約束通りに講演を行い、その後の二次会でも、いつものようにビールを飲んでいたという。
僕なんかの手には負えないという紛れもない現実を、ほかならぬ本人から電話で直接に聞いた。
彼と生活を共にして、敢えて悪者になれる者しか、彼の行動に歯止めをかけることができないだろうからと、半分以上は諦めた。しかし、せめて親しい知人たちには状況を細かく知らせて、彼に対する仕事の依頼などは、断じて止めるようにお願いした。それくらいしか僕にできそうなことはなかった。」
以上の補足を受けて、半年ぶりの続きのアップを始めます。
33.東京でのシンポ以降。
塚崎さんが、最後に公開の場で話したのは、若手のジャーナリストが塚崎さんを慕って囲む勉強会(塚崎塾と称されていた)だった。東京の在日韓人歴史資料館でのミニシンポが土曜日、僕と二人して彼の生まれ育った靖国神社や神楽坂界隈の街歩きが日曜日だったから、その4日後のことだった。実はその後には、僕が知っているだけでも、二つの研究会での報告が予定されていたが、緊急入院と、それに続く死のせいで、それは叶えられなかった。
事態を正確に把握して、適宜に対応しておれば、その死は避けられたというのが、事後的な気配もあるが、やはり客観的な見方だろうし、僕はそれ以前からそのように思っていた。避けることができたはずで、周囲の幾人かがその為の方法、実に単純なことで、医師の検査と診断に過ぎなかったが、それを執拗に勧めたのに、当人が何らかの理由で、その方向を選ばず、自分を窮地に追い込んだ。
塚崎さんがそうしたのには、もちろん彼なりの信憑や理由があってのことだっただろうが、それが自分の死と引き換えになると分かったうえで、そんな選択をしていたとは思えない。塚崎さんには状況認識その他を、決定的に誤っていた。そして、それにもまた明確な理由があったと僕は思う。
例えば、自分の身体や寿命に対する過信があった。彼の頭には自分が60歳台で亡くなる可能性などまったくなかった。彼自身だけでなく、その周囲の人々の多くも、強靭な身体と長寿を運命づけられた塚崎像を、塚崎さんと共有していた。
彼自身に限って言うと、そのような身体と寿命に関する過信は、塚崎さんが愛し、生き方の一つのモデルにしていた亡父の心身の強靭さと勤勉と長寿に基づいていたのだろう。二度にわたる徴兵、さらにはシベリア抑留経験まで経ながらも百歳近くまで生きた亡父に倣って、自分も百歳まで生きる星の下に生まれたと思っていたに違いない。
そして、周囲の多くの人もそうした本人の言動を真に受けて、同調していた。鉄人としての塚崎昌之像である。少なくとも彼の高校教師時代から一貫した勤勉さと論文その他の生産性の高さ、そして周囲の若者などに対する細やかな配慮を知っている人なら、そうなるのも自然だったろう。
そうした信憑ともつながることだが、塚崎さんのおそらくは天賦と思える楽観主義もしくは性善説のようなものも関係していたのだろう。塚崎さんの人の良さ、警戒心の薄さも絡んだ善人・塚崎昌之像に疑いをさしはさむ人などいないだろう。しかし、それがまた、塚崎さんを死に至らしめた。そんな因果関係を僕は想定する。
そのような塚崎さん像(長寿、人の良さ)を、塚崎さんの信憑が伝染した結果、それに同調して、より強固に創り上げた。したがって、塚崎さんの<早すぎる死>の責任は塚崎さんばかりか、その周囲の善意の人々にもある。
例えば、上でも触れた塚崎塾での結果的に最後となった講演の様子を、塚崎さんに愛され、それだけに晩年には厳しい叱咤も受けていたIKさんや、ジャーナリストとして塚崎塾のまとめ役でもあったWさんから伝え聞いた際に、僕はしきりにそんなことを思った。
その勉強会では、塚崎さんはいつも、聴衆と対面の形で、つまり、通常の授業や講演会のように教え諭すような形をとらなかった。参加者と同じように同じ方向を向いて座り、パワーポイントのスクリーンを聴衆と一緒に見ながら話していたと言うのである。つまり、あくまで参加者のひとりとして話す塚崎さんの同志的姿勢を強調しているのだが、それはいかにも塚崎さんらしいことと思わないわけでもないが、僕としては別の解釈をする。
東京から帰って数日後の、塚崎さんのそうした姿は、塚崎さんを慕って参加していた人の解釈はそれとして、既に立って聴衆に向き合って話せる状態ではなくなっていた塚崎さんが採用できる唯一の形だったのではないか。つまり、致し方なくそうなったのではないかと、僕は考えるのである。
しかし、それはその数日前の東京での塚崎さんの姿、そしてその2年前頃からの塚崎さんの体調悪化の進展を見てきた僕だからこその見方に過ぎないかもしれない。
そんなことをまったく知らないままに、勉強会に参加していた多くの人々が、そのことに気付かなかったのも、当然のことだった。
月に一回で、全10回の予定で、その時が第8回目だったから、あと2回のはずが、その後は塚崎さんの入院、死亡でその機会、とりわけ、最後は塚崎さんお得意のフィールドワークの予定だったらしいが、その機会は永遠に失われた。
34.誰が、或いは、何が塚崎さんを死に導いたのか?
東京で別れる際には、僕が執拗に繰り返した願い、或いは、命令、哀願としての「何よりも医者の診察と検査の勧め」を無視して、そんな講演をしていたことを後で当人から聞いて、僕は心底、呆れてしまった。そして、電話を通して、詰問調になった僕に、「前々から約束していたから」と塚崎さんはしきりに弁解していた。
なるほど、自分の話を聞くために駆け付けてくれるジャーナリストたちの期待に背くことなど、塚崎さんにはできなかったのだろう。それにまた、医師の診察を受ければ、おそらくはドクターストップがかかり、その後に予定されたいろいろな約束、とりわけ11月の朝鮮史研究会全国大会での基調報告の機会が奪われかねない。
そのことを、塚崎さんは何よりも恐れて、それを回避するためにも医師の診察や検査を忌避していた。逆に言えば、それほどまでに基調報告の<晴れ舞台>が彼にとって重要なことだったのだろう。
しかし、塚崎さんがそんなことをそれほどまでに重要視して、結果的に死に追いやられたのは何故だろう。義理堅い性格ももちろんあるだろうが、それだけではなかっただろう。
僕の観点からすると、その問題を考慮に入れないでは、塚崎さんの頑固なまでの診察・検査の忌避は不可解なままに留まる。それはただの医者嫌いではなかった。しかも、ただの医者嫌いと判断するにしても、それを自称する人びとの多くに、そうした一種の強がりの裏に何が隠されているのか、少しは想像力を働かせてみるべきではないかと思っている。
普段から医者に通わない人ほど、診察・検査を怖がるものである。医者に頻繁に通い、当然のように検査に慣れっこの人でさえも、いざ検査となると、その結果が出るまで不安な時間を過ごす。
そのように、誠に人間らしい弱さに目を向けることを拒む人には、塚崎さんの研究調査や生き方、さらには彼の人生の目標と表裏一体となっていた苦しみなどには、想像力が働きにくいだろう。
自分の心身の強靭さ、健康、そして長寿に関する塚崎さんの信憑のようなものに同一化して、塚崎さんを見るしかなく、結果として、塚崎さんの「早すぎる死」を惜しむだけになるだろう。
塚崎さんが亡くなってから、葬儀その他で、塚崎さんが特に親しくしていた人たちに会うたびに、僕は「塚崎さんのここ1,2年の様子に何も変化、或いは異常を感じませんでしたか」と尋ねて回った。すると、誰もが口をそろえて、「何一つ変わることなく、元気そうだった」という返答だった。
それを聞いて僕は「やはりそうだったか」と、誰もが自分の都合のいいように、つまり、塚崎さんが見て欲しがっているようにしか、塚崎さんのことを見ていなかったと、今さらながらに思った。
こんなことを書くのは、そんな人々の「うっかりの見過ごし」のようなことを非難する為ではない。僕自身も含めて、多くの者が塚崎さんの心身の状況を、さらに言えば、その病状を、自分にとって都合のいいようにしか理解しようとしなかった。その結果、自分の不明に気付いて、情けなく、申し訳ないなどと、反省や後悔が湧き上がってくる人もいただろう。しかし、それが塚崎さんを囲む人々の現実だった。塚崎さんの死に関して責任があるのは、塚崎さんだけではなく、塚崎さんの善意の知人・友人たちでもあった。
それが普通の人間関係であり、社会はそういう関係で成り立っている。しかも、そのことで塚崎さんは満足していただろうから、誰にも迷惑などかけていない。
それに対して、塚崎さんの結果的には晩年となった頃に、塚崎さんに大きな心理的負担をかけていた者がいるとしたら、責められても致し方ないだろう。そして実は、その筆頭に僕がいることは確かなことなので、僕には甚だ厄介なことになる。
必ずしも意図してのことではなかったが、それと知らないで、そうなったと無垢を言い張るわけにもいかない。2人の関係がそのような事態を引き起こした。
(「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の9」に続く)