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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-8

2025-06-15 14:02:55 | 触れ合った人々

塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-8

 本シリーズの前回の7では、東京の在日韓人歴史資料館での塚崎さんと僕の二人講演とミニシンポ、さらには、その翌日の塚崎さんと僕が二人して、彼の生まれ故郷である靖国神社その他の散策と蕎麦屋での昼食の様子の記述だった。しかし、その後は、今シリーズの続きのアップを、半年以上も中断していた。そのせいで、以下の記述の流れが読者にはつかみにくいだろうと考えて、つなぎとしての補足をしておきたい。前回の最後は次のような文章になっていた。

「塚崎さんが無事に帰宅したことは、関西に戻った翌々日になって知らされ、ひとまず安堵した。しかし、依然として、塚崎さんは僕が最も強く懇請していた医師の診察と検査を先延ばしにしているようだった。あれほどひどい姿を僕に見せつけながら、大阪に帰った週の木曜日には、メディア関係者に囲まれての塚崎塾と親しまれていた連続学習会で、約束通りに講演を行い、その後の二次会でも、いつものようにビールを飲んでいたという。
僕なんかの手には負えないという紛れもない現実を、ほかならぬ本人から電話で直接に聞いた。
彼と生活を共にして、敢えて悪者になれる者しか、彼の行動に歯止めをかけることができないだろうからと、半分以上は諦めた。しかし、せめて親しい知人たちには状況を細かく知らせて、彼に対する仕事の依頼などは、断じて止めるようにお願いした。それくらいしか僕にできそうなことはなかった。」
 以上の補足を受けて、半年ぶりの続きのアップを始めます。

33.東京でのシンポ以降。

 塚崎さんが、最後に公開の場で話したのは、若手のジャーナリストが塚崎さんを慕って囲む勉強会(塚崎塾と称されていた)だった。東京の在日韓人歴史資料館でのミニシンポが土曜日、僕と二人して彼の生まれ育った靖国神社や神楽坂界隈の街歩きが日曜日だったから、その4日後のことだった。実はその後には、僕が知っているだけでも、二つの研究会での報告が予定されていたが、緊急入院と、それに続く死のせいで、それは叶えられなかった。
 事態を正確に把握して、適宜に対応しておれば、その死は避けられたというのが、事後的な気配もあるが、やはり客観的な見方だろうし、僕はそれ以前からそのように思っていた。避けることができたはずで、周囲の幾人かがその為の方法、実に単純なことで、医師の検査と診断に過ぎなかったが、それを執拗に勧めたのに、当人が何らかの理由で、その方向を選ばず、自分を窮地に追い込んだ。
塚崎さんがそうしたのには、もちろん彼なりの信憑や理由があってのことだっただろうが、それが自分の死と引き換えになると分かったうえで、そんな選択をしていたとは思えない。塚崎さんには状況認識その他を、決定的に誤っていた。そして、それにもまた明確な理由があったと僕は思う。
 例えば、自分の身体や寿命に対する過信があった。彼の頭には自分が60歳台で亡くなる可能性などまったくなかった。彼自身だけでなく、その周囲の人々の多くも、強靭な身体と長寿を運命づけられた塚崎像を、塚崎さんと共有していた。
 彼自身に限って言うと、そのような身体と寿命に関する過信は、塚崎さんが愛し、生き方の一つのモデルにしていた亡父の心身の強靭さと勤勉と長寿に基づいていたのだろう。二度にわたる徴兵、さらにはシベリア抑留経験まで経ながらも百歳近くまで生きた亡父に倣って、自分も百歳まで生きる星の下に生まれたと思っていたに違いない。
 そして、周囲の多くの人もそうした本人の言動を真に受けて、同調していた。鉄人としての塚崎昌之像である。少なくとも彼の高校教師時代から一貫した勤勉さと論文その他の生産性の高さ、そして周囲の若者などに対する細やかな配慮を知っている人なら、そうなるのも自然だったろう。
 そうした信憑ともつながることだが、塚崎さんのおそらくは天賦と思える楽観主義もしくは性善説のようなものも関係していたのだろう。塚崎さんの人の良さ、警戒心の薄さも絡んだ善人・塚崎昌之像に疑いをさしはさむ人などいないだろう。しかし、それがまた、塚崎さんを死に至らしめた。そんな因果関係を僕は想定する。
 そのような塚崎さん像(長寿、人の良さ)を、塚崎さんの信憑が伝染した結果、それに同調して、より強固に創り上げた。したがって、塚崎さんの<早すぎる死>の責任は塚崎さんばかりか、その周囲の善意の人々にもある。
 例えば、上でも触れた塚崎塾での結果的に最後となった講演の様子を、塚崎さんに愛され、それだけに晩年には厳しい叱咤も受けていたIKさんや、ジャーナリストとして塚崎塾のまとめ役でもあったWさんから伝え聞いた際に、僕はしきりにそんなことを思った。
その勉強会では、塚崎さんはいつも、聴衆と対面の形で、つまり、通常の授業や講演会のように教え諭すような形をとらなかった。参加者と同じように同じ方向を向いて座り、パワーポイントのスクリーンを聴衆と一緒に見ながら話していたと言うのである。つまり、あくまで参加者のひとりとして話す塚崎さんの同志的姿勢を強調しているのだが、それはいかにも塚崎さんらしいことと思わないわけでもないが、僕としては別の解釈をする。
 東京から帰って数日後の、塚崎さんのそうした姿は、塚崎さんを慕って参加していた人の解釈はそれとして、既に立って聴衆に向き合って話せる状態ではなくなっていた塚崎さんが採用できる唯一の形だったのではないか。つまり、致し方なくそうなったのではないかと、僕は考えるのである。
 しかし、それはその数日前の東京での塚崎さんの姿、そしてその2年前頃からの塚崎さんの体調悪化の進展を見てきた僕だからこその見方に過ぎないかもしれない。
 そんなことをまったく知らないままに、勉強会に参加していた多くの人々が、そのことに気付かなかったのも、当然のことだった。
月に一回で、全10回の予定で、その時が第8回目だったから、あと2回のはずが、その後は塚崎さんの入院、死亡でその機会、とりわけ、最後は塚崎さんお得意のフィールドワークの予定だったらしいが、その機会は永遠に失われた。

34.誰が、或いは、何が塚崎さんを死に導いたのか?

 東京で別れる際には、僕が執拗に繰り返した願い、或いは、命令、哀願としての「何よりも医者の診察と検査の勧め」を無視して、そんな講演をしていたことを後で当人から聞いて、僕は心底、呆れてしまった。そして、電話を通して、詰問調になった僕に、「前々から約束していたから」と塚崎さんはしきりに弁解していた。
 なるほど、自分の話を聞くために駆け付けてくれるジャーナリストたちの期待に背くことなど、塚崎さんにはできなかったのだろう。それにまた、医師の診察を受ければ、おそらくはドクターストップがかかり、その後に予定されたいろいろな約束、とりわけ11月の朝鮮史研究会全国大会での基調報告の機会が奪われかねない。
 そのことを、塚崎さんは何よりも恐れて、それを回避するためにも医師の診察や検査を忌避していた。逆に言えば、それほどまでに基調報告の<晴れ舞台>が彼にとって重要なことだったのだろう。
 しかし、塚崎さんがそんなことをそれほどまでに重要視して、結果的に死に追いやられたのは何故だろう。義理堅い性格ももちろんあるだろうが、それだけではなかっただろう。
 僕の観点からすると、その問題を考慮に入れないでは、塚崎さんの頑固なまでの診察・検査の忌避は不可解なままに留まる。それはただの医者嫌いではなかった。しかも、ただの医者嫌いと判断するにしても、それを自称する人びとの多くに、そうした一種の強がりの裏に何が隠されているのか、少しは想像力を働かせてみるべきではないかと思っている。
 普段から医者に通わない人ほど、診察・検査を怖がるものである。医者に頻繁に通い、当然のように検査に慣れっこの人でさえも、いざ検査となると、その結果が出るまで不安な時間を過ごす。
 そのように、誠に人間らしい弱さに目を向けることを拒む人には、塚崎さんの研究調査や生き方、さらには彼の人生の目標と表裏一体となっていた苦しみなどには、想像力が働きにくいだろう。
 自分の心身の強靭さ、健康、そして長寿に関する塚崎さんの信憑のようなものに同一化して、塚崎さんを見るしかなく、結果として、塚崎さんの「早すぎる死」を惜しむだけになるだろう。
 塚崎さんが亡くなってから、葬儀その他で、塚崎さんが特に親しくしていた人たちに会うたびに、僕は「塚崎さんのここ1,2年の様子に何も変化、或いは異常を感じませんでしたか」と尋ねて回った。すると、誰もが口をそろえて、「何一つ変わることなく、元気そうだった」という返答だった。
 それを聞いて僕は「やはりそうだったか」と、誰もが自分の都合のいいように、つまり、塚崎さんが見て欲しがっているようにしか、塚崎さんのことを見ていなかったと、今さらながらに思った。
 こんなことを書くのは、そんな人々の「うっかりの見過ごし」のようなことを非難する為ではない。僕自身も含めて、多くの者が塚崎さんの心身の状況を、さらに言えば、その病状を、自分にとって都合のいいようにしか理解しようとしなかった。その結果、自分の不明に気付いて、情けなく、申し訳ないなどと、反省や後悔が湧き上がってくる人もいただろう。しかし、それが塚崎さんを囲む人々の現実だった。塚崎さんの死に関して責任があるのは、塚崎さんだけではなく、塚崎さんの善意の知人・友人たちでもあった。
それが普通の人間関係であり、社会はそういう関係で成り立っている。しかも、そのことで塚崎さんは満足していただろうから、誰にも迷惑などかけていない。
 それに対して、塚崎さんの結果的には晩年となった頃に、塚崎さんに大きな心理的負担をかけていた者がいるとしたら、責められても致し方ないだろう。そして実は、その筆頭に僕がいることは確かなことなので、僕には甚だ厄介なことになる。
必ずしも意図してのことではなかったが、それと知らないで、そうなったと無垢を言い張るわけにもいかない。2人の関係がそのような事態を引き起こした。
(「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の9」に続く)


塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の7

2024-11-29 15:24:14 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の7

目次
19.塚崎さんのアキレス腱
小見出し
シンポ構想の練り直し
礼儀正しさと人の良さがもたらすアキレス腱
アキレス腱は民族や国籍を超える
中途半端なお節介
歴史は繰り返すが人間関係もまた
在日について語ること
記憶と記録の対照と語呂合わせの妙 
ふたりしての最後の街歩き

本文
19.塚崎さんのアキレス腱

シンポ構想の練り直し
 
 上で少し触れた在日韓人歴史資料館のシンポの<構想の練り直し>とは次のようなことだった。
当初に館長の李成市さんからお聞きした限りでは、上述の在日朝鮮族関連のWEB研究会の形式と出演者をほぼ踏襲するような基本構想だった。つまり、司会は僕が、塚崎昌之さんとMさんのお二人がそれぞれ在日史の解放以前と解放以後についての研究報告、但し、さらに一人の講演者と、コメンテーターを招くことによって、新機軸を打ち出す。そして以上の5名と主催者代表としての李館長の総6名による総合討論という腹案だった。
 それに関して、僕には異論はなく、その通りならあまり無理なく実行できそうに思えた。塚崎さんとMさんの気心や研究についてある程度は理解しているつもりだったから、僕でもスムーズな進行ができそうだった。言い方を換えれば、僕のような者にでも、それくらいのことなら務まりそうなので、喜んで協力したかった。
 そこで、とりあえずは、報告者候補のお二人の了解を取り付けないと話は始まらないと考えて、お二人に李館長の案を示したうえで、意向を確認するメールをお送りした。
 すると、Mさんからは直ちに、「異論はなく、むしろこの機会に、解放後の在日史に改めて本気で取り組んでみたい」と予想以上に積極的な返事をいただけた。
 ところが、塚崎さんからは珍しく、なかなか返事がなかった。しかも、数日後になってようやく届いた返事は、曖昧な言葉に終始していた。塚崎さんが乗り気でないのは明らかだったし、それまでの塚崎さんが漏らしていた断片的な言葉から、躊躇いの理由もる程度は推察がついた。
 次の二つの理由で、塚崎さんは躊躇していそうだった。
 一つは東京のHさんのことが気がかりだったのだろう。東京での対面イベントとなると首都圏で活躍しているHさんの参加の可能性が十分にある。その人は、塚崎さんとほぼ同じ対象を研究しているが、塚崎さんとは部分的に鋭く対立する説を唱え、しかも、その種の研究では権威とみなされている。したがって、その人が参加して、塚崎さんの報告に対する異論をぶつけてくることを予め覚悟しておく必要があるなど、心理的負担が大きいのだろうと、僕は推察した。
 但し、以上の説明ではかえって誤解を生じかねないので、重複を厭うことなく、もう少し説明を補充しておかねばなるまい。
東京のHさんは、塚崎さんと研究領域が重なり、塚崎さんは相当に厳しい異論を数々の論文で提示してきたが、その方は塚崎さんのそうした議論に反応を示したことが一度もないと、塚崎さんは酔っぱらうと漏らすことが多かった。塚崎さんの口から、愚痴っぽく名前が出てくる人物など他には殆どいなかったから、すごく例外的な人物だった。
 塚崎さんの業績の多くが掲載されてきた研究雑誌の編集責任者がその人に他ならなかったから、東京のHさんが、塚崎さんの論文を読んでいないはずはなかったし、その論文がそのHさんの業績に対する異論を多く含むことも、その人が知らないはずもなかった。それでいながら、編集後記その他でも、その人は塚崎さんの論文その他について言及したことが一度もなかった。
 しかも、その研究雑誌は今時では珍しく、レフリー性を採用しておらず、掲載の決定権はその人に委ねられている。そんな研究雑誌だから、論敵と見られて当然の塚崎さんの原稿が数多く掲載されてきたのは、その編集責任者のHさんが塚崎さんの論文の価値を認めていたからと見なすのが、普通の見方だろう。ところが、塚崎さんの考えではそうではなかった。
 その雑誌で塚崎さんにこれまで与えられてきた相当な紙幅、それに比肩する執筆者など誰一人いない。相当に大げさな言い方になるが、塚崎さんの論文を掲載しなければ、その雑誌は相当にやせ細ったものになりかねないなど、塚崎さんはその雑誌にとって貴重な貢献者だった。だからこそ、編集責任者としては、不承不承ながら掲載する一方で、それについての言及を一切行わない、つまり無視を決め込むという、なんとも異様な対応が長年にわたって続いてきた。以上が、僕が塚崎さんから直接に聞いた限りでの、彼の見立てだった。
 ともかく、塚崎さんは自作に対しての、以上のような東京のHさんの長年にわたる完全黙秘、或いは、無視を大いに気にしていた。是非とも学問的論戦を行いたいのに、そんな機会がない。そんな状態があまりにも長く続いた結果、ついには諦めてしまったが、そのストレスは塚崎さんの心中深くに積み重なっていた。
 そこで今さらのようにして、公衆の面前でそんな人から手厳しい批判でも浴びせられたら、或いは、またしても無視を貫徹されでもしたら、自分はいったいどのように対応すればいいのかと、礼儀正しさと人の良さで定評のある塚崎さんも、相当に神経過敏になっていたに違いない。
 それでも塚崎さんは、ついには参加を決意したのだが、シンポ当日の打ち合わせ会議では、スタッフから提示された参加申し込み者のリストをいち早く確認して、その人の姓名がないことを確認するや、横にいた僕にははっきりとわかるようなため息をつきながら、「Hさんの名前がないね」と呟いた。ため息とその言葉に、僕は塚崎さんの相対立する二つの気持ち、つまり安堵と落胆を同時に聞き取れるような気がした。
 塚崎さんが東京でのイベントへの参加を躊躇っていたもう一つの理由は、在日史を解放以前と以後に分けて講演する候補者であるMさんとの<相性>、もしくは長年にわたる因縁だった。
 以下については、拙文の殆どすべてに亘っても言えることなのだが、とりわけ以下については、あくまで僕の推測であるという前提を忘れずに読んでいただくように、切にお願いしておきたい。
 僕の推測に過ぎない程度のことなら、公にすべきでないという意見もあるだろうし、なるほどまっとうな理屈だと僕も思う。だからこそ躊躇いを拭えないのだが、塚崎さんのことを総体として理解したければ、無視するわけにはいかない側面だからと、敢えて、踏み込もうとしている。
 塚崎さんの長所と表裏一体のアキレス腱と思えるからこそ、その両者のどちらも無視するわけにはいかないのである。
そして、このシリーズのサブタイトル<在日二世と日本人の交友の形>、つまり、この文章全体の主たるテーマとも密接に関係し、僕にとっての塚崎観の重要な側面でもある。知らないふりして素通りするわけにはいかないのである。
 塚崎さんには不似合いに感じられるかもしれないが、塚崎さんほどに人の良さで知られている人でも、特定の集団や個人に対しては、不信と警戒心から免れていなかった。それを露骨な言動で示すことは殆どなかったが、そうした側面が彼には確実にあり、しかも、単なる性格的な好悪の問題にとどまらない者であると、僕は思っていた。
 塚崎さんは在日全般にもそうだったが、とりわけ年長の人には控え目に対していたし、すごく寛容だった。但し、控えめと寛容と礼儀正しさなどを、もっぱら仮面にして「君子危うきに近寄らず」といった責任回避、それと塚崎さんのそれとは対蹠に位置するものだった。
 塚崎さんの慎重な言動は、いつかはしっかりと踏み込んで、真摯で厳しい相互批判も辞さない関係ができるまでの準備段階だった。意思疎通の障害となりかねない敵対感情を極力避けて、真摯な議論の共通の土台を創り上げようとしての深謀遠慮だった。

礼儀正しさとアキレス腱
 
 ところがそのような節度ある言動に、むしろつけ入るような言動をする人やグループがいるもので、塚崎さんは表には出さなくても、フラストレーションを募らせることがあった。
 僕が知る限り、その代表的な人が既に触れた在日の研究者のYさんだった。
 Yさんのすっかり癖のようになった塚崎さんへの厳しい批判、或いは攻撃に対して、塚崎さんが時を外すことなく真っ向から反論していたならば、Yさんもそんな悪癖に染まらずに済んだかもしれないと、とそんな場に立ち会わすたびに、僕は思っていた。
 僕の知る限り、Yさんは物事の筋と自らの体面を重んじる人だった。そんな人でも時と場合によっては、特に特定の話題や特定の人物に対しては、病的な症状を曝しだす。それを抑止することができるのは、現場での原則的で当意即妙の対応だと考えて、僕のような者にも司会者としての発言権が与えられたら、そのような考えに基づく、運営に努めて、会が終わってから、在日の長老格の方から、「お前、外に出ろ」ときつい言葉を浴びせられて、苦笑したこともある。司会者の責任は、会に参加した全員が不快な思いをしないで、会を楽しむことに向けられるべきである。ところが、そのように運営されないことも往々にしてある。
 僕が見る限り、塚崎さんその他が参加していた研究会では、いろんな遠慮や配慮があって、その場で直ちになすべき反論を司会者ばかりか参加者全員が自制した結果、Yさんの塚崎さんその他に対する言動はすっかり悪癖となって固着して、状況次第では垂れ流されることになり、当然のように、塚崎さんなどは言葉にできない不満を蓄積するようになった。
 そんなYさんとは、事情もその結果としての関係の様態も異なるが、塚崎さんとMさんとの間にも、大きなディスコミュニケ―ションの陥穽があった。常々、そのように僕は思っていのだが、そのことを肝腎のMさんが知っていたかどうかは疑わしい。Mさんはそんなことなど全く想像もしていなかっただろう。したがって、Mさんがこんな文章を読んだら驚き、僕に対して不信感どころから怒りだすかもしれない。そんな懸念がありながらも、せっかくの機会だからと、勇を振るって、書くことにする。
 塚崎さんが僕に漏らした言葉の数々、そしてMさんに関する僕の理解を併せて、Mさんに代表される在日の知識人の一部に対する塚崎さんの違和感、そして警戒感の源である、心中深くの澱のようなものに、少しでも触れることができればいいのだが。
 僕が知る限りでは、ことの発端は、Mさんの著書に対する塚崎さんの書評と、それに対するMさんの対応だった。塚崎さんが口頭でMさんの著書に対しての書評を行う研究会に、塚崎さんの誘いもあって参加した僕は、それ以来の塚崎さんのMさんに関する言動などに触れるにつけ、その際の印象を更新してきた。既に15年以上も続く深い因縁だった。

 Mさんの済州島関連の著書に対する塚崎さんの口頭による書評が朝鮮史研究会で行われ、その場には著者のMさんも参加されていたことは確実である。その当時の僕はMさんと面識はあったが、それほど親しくしていたわけではなかった。書評対象の書物も読んでいたのかどうか定かでない。それにまた、当時はまだ、僕の済州の歴史や社会に関する知識は甚だ限定されていた。したがって、塚崎さんの書評の内容を正確に理解していたとも思えない。当然のごとく、塚崎さんの書評が正鵠を得ているのかどうかの判断ができるはずもなかった。
 そんなことも関係してのことだろうが、今の僕は塚崎さんの書評の詳細を殆ど覚えていない。したがって、以下の僕の記述は、その口頭の書評に関する甚だ朧げな印象に加えて、その後のMさんに関する塚崎さんの折々の言動などを通して感じてきたことなどを総合した記憶の断片に基づくものに過ぎない。
 以上を前提にしたうえで言えば、塚崎さんの書評は、その書物の中心的テーマそのものよりも、そのテーマの前提となっていそうな、済州島の解放直後に関するMさんの状況認識、つまり、<解放空間>という規定に対する違和感に基づいての、実証的批判だったように覚えている。そして、その批判は著者のMさんにとっては、応答するのが難しいだろうなあと僕も思った。Mさんにとって、その解放空間という認識は、その4.3や済州社会のその後の変遷のみならず、韓国の民主化運動に対する認識にも関わるもので、在日でも先端的にその問題に関わり、実践的な運動を持続していたMさんとしては、塚崎さんの批判は受け入れられないだろうと、僕自身が思うくらいだった。
 そして、案の定、Mさんは塚崎さんの書評に真っ向から答えることを避けた。そんな印象は、相当に確かなものとして僕には残っている。しかも、そのことで塚崎さんはすごく落胆していたし、実は、僕も同じ気持ちだった。答えられないことがあったとしても、その理由も含めて、塚崎さんの論点をMさんなりに整理して、答えられる部分と答えられない部分を分けて、その説明もしたうえで、その後の相互批判の道筋をつけて欲しいと、僕は何故かしら、すごくないものねだりをしていたからだろう。それほどに、ふたりの対話に期待していたわけである。
 それはともかく、塚崎さんは自らの書評に対する著者の沈黙に、すごく傷ついた。そして、その傷は、その前後におけるMさんが直接には関与していなかった数々の、しかも、塚崎さんにとって不愉快きわまる出来事などと相まって、なかなか解せないシコリになってしまった。
 繰り返す。済州島が1945年8月15日の解放以後、4・3が勃発するまでに、さらにそこに政治的な解放空間であったか否かという議論自体ももちろん重要だったが、塚崎さんのMさんに対する疑心のシコリは、そのことで生じたものではなく、塚崎さんなりに懸命に取り組んだ書評に対して、著者としてその場にいたMさんが、真正面から対応しなかったことを契機としている。僕はMさんの対応に関する自分の印象とも照らし合わせて、そのように考えた。そして、それは今も変わらない。
 先にも少し触れたように、Mさんにも事情や考えがあっただろうが、ともかく、そのすれ違いのようなことを、その後の20年近くにわたって、二人が解消しないままに、少なくとも塚崎さんの深層で、すっかりシコリとなった。Mさんに同じようなことがあったのかどうか、僕には分からない。僕が見るところ、Mさんはその種のことに関するこだわりがなく、むしろ、健忘症のようなところがあるからこそ、だれでも気楽に付き合える<良い人>であり続けているのではと、僕自身は思っている。
 塚崎さんのその種のシコリは、実はMさんだけが限られたものではなかった。その前後における、済州島の4・3に関する研究と運動の中心だった研究機関に対する塚崎さんの不信も重なっていたと僕は推察している。
「依頼されて投稿した論文内容を最後の段になって、勝手に書き換えることで、論旨を完全に歪められた。いくら運動のためとしても、ひどすぎて、研究者として我慢ならない。それ以来、いくら頼まれても寄稿は断わることにした」と塚崎さんは珍しく怒りを隠すことなく僕に漏らしていた。
 そして、Mさんは日本にあって、それらの機関と連携する運動を最も主体的に担っていた人だから、塚崎さんの不信の対象としてはすっぽりと重なっていた。
 従って、塚崎さんのMさんに対する不信は、必ずしもMさん個人に対するものというより、4.3運動などを担う韓国の、とりわけ済州や在日の知識人、ひいては、それとは直接には関係のない在日の知識人一般にも広がりかねない性格まで帯びるものだった。

アキレス腱は民族や国籍を超える
 ところが、そんなMさんと同じく済州を出自とする在日二世の僕なのに、塚崎さんとの関係が破綻しなかった理由の一端も、実は、以上のような脈絡から浮かび上がってくる。
 先ずは、僕が知識人とは呼びにくい品性とステイタスしか持たないからだった。それに加えて、4.3の真相究明運動その他の社会運動とは極力、距離を置くなど、「政治的に正しい道」を歩んでこなかったこともあって、<在日の無謬性>、ひいては自分の無謬性など言い張る資格がないことを前提として、恥多い自分なりに考えたことを正直に話すことだけにしかこだわりがないという、変な奴だったからだろう。だから、気楽に酒を飲みながら、気が付くことを忌憚なく指摘しあって、楽しめる相手だったからだろう。
 その後に二人が何らかの形で、その失敗した出会いの仕切り直しがなされなかったせいで、塚崎さんは書評の際のMさんの対応に、韓国や在日の知識人との関係で受けてきた傷を重ね合わせて、不信感を募らせたと言うのが、僕の信憑なのである。
但し、以上のことで、僕は塚崎さんとMさんのどちらかに肩入れするつもりはない。虫の良い話に聞こえるかもしれないが、両方に肩入れして、その問題の根を少しでも掘り起こせないかと思っている。それがこのシリーズのサブタイトルとした「在日二世と日本人の交友の形」と絡んでの、僕にとってのこれを書く意味の一部である。
 僕は以上のような塚崎さんの心の内を知っているつもりだったし、Mさんは話の通じる人であるという信憑もあったから、ふたりの間に橋をかけようと試みたことが幾度かある。二人の意思疎通のきっかけになればと、酒席なども設定した。
 しかし、それはやはりお節介に過ぎず、そんなものはたいていが無駄に終わるものらしくふたりの間で話が通じていそうな気配はなかった。
 そもそも、Mさんは塚崎さんの心中における自分の位置なんか、まったく気づいていなかったみたいだったので、長年かけて絡みあってシコリとなって塚崎さんの気持ちを解けるわけもなかった。それに僕のお節介も逆効果だったかもしれない。塚崎さんは、僕がしつらえた酒席で、普段より言動がぎこちなく、Mさんも何を話していいのやらとまどっているような気配もあったから、塚崎さんは、Mさんはやはり自分とは話が通じない人であるという信憑を募らせただけかもしれない。
 そうしたふたりの関係には、学問分野の違いも大いに関係していたのだろう。徹底して実証的な歴史家を理想視していた塚崎さんは、大日本帝国軍隊の研究、とりわけ、大戦末期の済州島における、自らが発掘した資料に基づく研究の延長上で、解放直後の済州島における権力関係からして、解放空間などありえなかったと判断していた。したがって、4.3に関して、アメリカの進歩的学者のリードにより、しかも韓国の民主化運動も相まって次第に定説化されるようになった4・3の前史としての解放空間といったものは、民主化運動の一環としての理想化に傾きすぎているという点で、学問的な不信が強かった。少なくとも僕はそのように思っていた。
 しかし、だからと言って、塚崎さんが4・3の真相究明運動に敵対することはなかった。その運動の一環として組織された研究会などにも参加するなど、じっくり見守っていそうに、見えた。
 だから、Mさんの運動家としての、そして研究者としての立場にも、一定のシンパシーは保持し、同席を拒否するようなことはなかった。しかし、在日史に関して視点の差異を越えて、議論が通じる相手とは見なしていなかった。だから、シンポの舞台上に一緒に立って、議論することには大きな躊躇があったのだろう。

繰り返しの中途半端なお節介
 そこで、僕は二人の先に触れたWEB研究会でのそれぞれの報告に関する僕なりの感想と合わせて、在日韓人歴史資料館でのシンポジウムが実現し、ふたりが改めて一緒に舞台に立つことになった場合に関する、僕なりの提案も含めた長文のメールをお送りした。
2人の報告に基づいて議論をかみ合わせるには、どのような工夫が可能か。そして、塚崎さんにはさらに、東京のHさんの予想される異論を予め繰り込んだ形での報告原稿も可能ではないかという、ないものねだりまで含めていた。
 例えば、塚崎さんの主張が、特にどのような資料を重視することによって成立しているのかを強調する一方で、他の歴史解釈も、それが依拠する資料次第では可能といった、門外漢ならではの折衷策もしくは弥縫策と言われかねない要素も敢えて繰り込んではと、勝手な注文まで付けくわえた。
 幸いにも、ふたりからは僕の提案を基本的に受け入れるという返事をいただいたので、僕は安堵のため息をついた。そして、イベントを構想中の李成市館長に、ふたりから協力を取りつけるメールをいただけたことを報告した。したがって、その企画は近いうちに実現するものと思っていた。
 ところが、その後にはますますコロナ禍が深刻化して、対面のイベント企画はすべて頓挫するなどに紆余曲折を経て、ずいぶんと後に李館長から連絡があった際には、企画の内容が変わっていた。僕は少なからず狼狽えた。
問題が二つあった。一つは既にすごく前向きな了解を得ていたMさんの出番がなくなったことである。もう一つは、僕が司会から講演者に変わったことである。
 しかし、Mさんは、僕よりも資料館の館長の方が近しい関係だろうから、ふたりの間で既に了解がついているのだろうと思い込んで、僕が口出ししない方が良さそうに思った。しかし、そのことについて、僕からMさんに釈明しておかなかったことが、後に気になりだした。しかし、すっかりタイミングを逸したものを、今さら何をと、気おくれが募った、またもや先送りしてしまい、折に触れては思い出し、気が重くなった。
 李館長がどうであれ、僕が当初の案に沿って、イベントへの参加の了解を取り付けた当事者として、Mさんにお詫びして、了解を取り付けるべきだった。そのように思っては、<後ろめたさ>が募り、そのことについてMさんと話などできなくなった。生憎と会う機会もすっかりなくなって久しかった
 このように、きちんと対応するタイミングを逸すなどして、責任を回避したり、全うできなかったことは、塚崎さんのMさんに対する不信の問題とも、どこかで通じていそうに思える。自分の思い込みとそれがもたらした行動に関しては、常々、チェックが必須で、何らかのミスに気づいたら、早急にリカバリーに努める。そんな小さなことの積み重ねが、人間関係のみならず、生きていくうえで非常に重要なことを、今さらながらに痛感する。
 そこで、あまりにも遅ればせながらも、この場を借りて、Mさんにお詫びの気持ちを表明しておきたい。Mさんに関しては、実は他にも長年にわたって気にかかりながら、いざ同席しても、切り出せなかったことがある。命があるうちに、きちんと整理しなければと気持ちが焦る。

歴史は繰り返し、人間関係も類型に従って繰り返される
 
 因みにそのMさんと僕が初めて会ったのも、韓国ソウルでのことだった。年下の在日二世で当時は韓国ソウルに留学していた知人が、僕がソウルに行く予定と連絡すると、その機会に是非とも紹介したい人がいるという。そこで、三人で会うことにした。それがMさんで、その紹介者は彼のことを、「兄、ヒョン」と呼び、すごく尊敬していそうだった。小学校か中学までは、同じく総連系の民族学校に通っていたことがあって、絆が強そうな様子だった。
 今から思い返すと、僕に塚崎さんのことを話し、是非とも会うように勧めたTさんと、僕が初めて会ったのと同時期、ひょっとしたら同じく国際シンポジウムの会場でのことだった。ココまで書くうちに、ようやく気づいた。
 それはともかく、僕をMさんに紹介した知人も、そのTさんとよく似たことを言っていた。
「玄さんには何としても会ってほしい人がいるので、なんとか時間を都合してください」と。ところが、紹介されて、その3人で酒を交わしているうちに、その若い知人の顔つきが徐々に険悪になり、ついには激高して、テーブルをひっくり返したので、同席していた僕とMさんは何がどうしたのか訳が分からないままに、ともかく店の関係者や、たまたまその店にいたお客さんたちに対しての謝罪などで慌てふためく羽目になった。その一方では、興奮した後ではすっかり放心状態になっていた紹介者を宥め、おとなしく帰宅させるために協力しあった。
 騒ぎの張本人である年下の知人は、僕らに別れを告げる前に、自分が起こした騒ぎについて、次のように釈明した。
 韓国に留学して以来、何かと辛抱を重ねるばかりでストレスが溜まっていたところに、気が許せる二人と一緒に酒を交わしているうちに、すっかり気が緩んでしまい、そんな心の隙に、その間のいろんな思いが一気に蘇ってきて、自分でも何が何だか分からなくなってしまったと、僕ら二人に謝罪したが、ともかく彼を送り出して一息ついた。
 残された僕ら二人は、初対面で紹介者の尻ぬぐいをする羽目になった者同士として、同病相哀れむような心境になったのか、特に何をというわけではなくても、それなりに気持ちよくよもやま話をしながら、また機会があれば会おうと約束して別れた。後味は悪くなかった。
 ところが、その紹介者とは、その時のことが災いしたのかどうか、おそらくその時の彼と僕の言動で、思考や感情のスタイルにおいて相いれないことに互いが気づいたからか、やがては音信不通になった。
 他方、僕とMさんの関係は、結果的に反面教師のようになった紹介者のおかげもあってか、近づきすぎて面倒なことにならないようにといった自制が相互に働いたのか、互いの立場や考え方や情動の動きの違いを前提として、緩やかで安定した関係が続いた。在日二世で同世代(同年齢)の知識人の中では話が通じそうな気になった僕は、やがて彼を全面的に信頼するようになった。
 Mさんが僕と同じような気持ちなのかどうか定かでない。せめて面倒くさくても、そんなに悪い奴ではない、とでも思ってもらえているなら、それで充分だから、シンポでもどこでも同席することは大歓迎だから、異論などあるわけがなかった。
 因みに、構想におけるもう一つの変化の方、つまり、僕は司会役だったはずが講演者の一人になったことの方は、上述のMさん絡みの懸念よりも僕自身にとっては大きな問題だった。

在日について語ること

 研究発表以外で、不特定多数の聴衆を前に在日について話すなんてことを、僕がしなくなって既に20年以上になっていたこともある。
 それ以前には、依頼があれば、よほどの支障でもなければ、引き受けるようにしていた。主に高校生とその教員たちを対象とする人権教育の一環としての在日問題だった。そんな講演会を組み込むように、教職員が懸命に取り組む高校が、当時はまだずいぶんと残っていた。
 ところで、僕は元来がおしゃべりだし、自分のことを話すことも嫌いどころか、自分もその一員である在日二世については、物心ついて以来、最も真剣に考え続けてきたし、中年期以降はその問題を主要テーマにして文章を捻くることを糧として、辛うじて生き延びてきたという認識を持つほどだった。
 したがって、その種の経験とそれについて自分がどのように考え、感じてきたかについて話すことは、ついつい一人相撲をしがちな僕にとっては、それを抑止する格好の機会にもなった。しかも、それを見ず知らずの他人に伝えようと努めることが必須の場は、思考に対話を組み込む方法を試す機会にもなるので、むしろ喜んでいるほどだった。
 そんな際に特に重視し、課題としていたことが以下のようなことだった。
① 聴衆と同じ土俵に立って話すこと(教えようとしないこと、自分の経験と考え、つまり、ワンオブアスとして語ること。
② 聴衆の中にきっといるはずの、<出自を隠蔽している在日の子どもたち>に辛い思いをさせないこと。
③ 大多数である日本人の子どもたちの中のほんの少数であっても、僕と同じような、そして日本人と少しは同じ部分もある在日の子どもたちの存在に気づいて、共に生きようとする気持ちを持ってもらえるようにすること。
 以上のことを心掛けたからと言って、そうなったかどうかは分からないのだが、ともかく結果としては、僕の話はそれなりに好評とのことだったから、毎年、依頼されると、少なからずの励ましになった。
 ところがその一方で、講演を終えるたびに、虚脱感に襲われ。恥ずかしさがこみあげてきた。僕自身が課題としていた上記の三つのどれも十分に果たすことができていそうにないという反省と後悔のせいもあったが、どこか嘘をついていそうな不安が最大の要因だった。
 そこで、事前に親しい友人にやけ酒の相手をしてもらう約束を取り付けるようになり、おそらくは噓交じりの話を聞く生徒たちだけでなく、僕自身にも良くないことだからと、依頼があれば、誰か知人に回すなどして、僕自身は引き受けなくなった。それから、既に四半世紀の歳月が流れていた。
 しかも、この歳になっても大阪しか知らないから、何かと臆することが多い東京に出向き、多数の聴衆を前にして、改めて在日について話すなんて、気遅れが甚だしかった。

記録と記憶の対照と語呂合わせの妙

 しかし、その一方で、自分の年齢を考えると最後の機会だろうし、人生の幕引きの機会に塚崎さんと同じ舞台に立てるのは、勿怪の幸いという気持ちもあった。しかも、李館長の<記録>と<記憶>を対照させて語呂合わせとしても妙味があるアイデアが、僕ら二人がそれぞれに行ってきたことを表現するタイトルとしてすごく魅力的だった。
 塚崎さんの資料に基づく実証的で堅実な歴史の語りと僕の曖昧ながらもそれなりに懸命な記憶の語りが、対話的な場を醸成して、聴衆は歴史を個々人の人生と重ねて追体験する契機になるかもしれないといった、期待と楽観まで兆してきた。そうなるともはや躊躇ったり断ったりしている場合ではないと思えてきた。
 そんな気持ちの揺れの勢いも借りて、いまだに躊躇していそうな塚崎さんの説得に努めて、ようやく二人しての参加という運びになった。
 ふたりでなんとかシンポジウムを終え、その翌日には塚崎さんの生まれ育った靖国神社や神楽坂の界隈を歩いた。路地裏の坂に面した由緒ありそうな蕎麦屋に入り、蕎麦と天ぷらを肴に生ビールで、無事に終わったことを祝って乾杯した。
 その際の講演内容は、その3か月後に予定されていた朝鮮史研究会全国大会での基調講演のそれとほぼ同じだった。そのことを、僕は塚崎さんが亡くなったせいで、基調講演ができなくなった全国大会の場で初めて知った。そして結果論ではあるが、8月の東京での講演で、その3か月後に予定していた講演を、塚崎さんは東京で既に公衆を前に済ませていたことになるので、結果オーライだったなどと考えて、納得しようとした。
 しかし、そんなお為ごかしの理屈は、他人事だからこそのものだった。朝鮮研究会全国大会で専門家を前にしての報告こそが、塚崎さんの本来の望みだったはずで、塚崎さんとしてはすごく無念なことであることに、何の変りもないと考え直した。
それにまた、塚崎さんにとっては、その実現が叶わなかった基調講演が、切実なものであったからこそ、それになんとかして参加して役目を果たしたいという気持ちが、塚崎さんの命を縮めたのではないかと、それまでに思っていたことを改めて確認したりもしたのだが、それについてはまた次回以降に詳しく述べることにしたい。

二人しての最期の街歩き

 それぞれに別用があったので、往路も復路も別行動だったが、当日の開催前の参加者の打ち合わせが1時間、シンポジウムが4時間、その後の懇親会が2時間、さらに、関西からの参加者である僕ら2人だけは、会場すぐ近くのホテルでの宿泊だったので、僕の部屋での2時間ほどの、またしてもビールで反省会というかよもやま話を続け、さらには翌日の午前中の3時間ほどの、塚崎さんが生まれ育った靖国神社と神楽坂界隈の散策。その途中には朝鮮総連のかつての本部周辺の、今でも機動隊が警護している地域を、僕としては生まれて初めて歩いた、そして、神楽坂の由緒のありそうな蕎麦屋でのビールを飲みながらの昼食まで、実に長い時間を2人で過ごした。
 そして、その時になって、僕があるがままに見ることを避けてきた現実をとことん思い知らされた。
 塚崎さんは相当に危険な状態に立ち至っている。そのことを、この目で見てしまった僕は、それ以降は彼を仕事に引っ張り出したりしてはならないと思った。そして、そのような動きがあれば、それに対しての盾になろうと決心した。
 それ以上に緊急なことは、塚崎さんを一人で移動させてはならないことだった。昼食をとった蕎麦屋からは徒歩圏内という親戚の家に連絡して、親族に付き添ってもらって帰宅するようにと、口を酸っぱく繰り返した。
 一人で重くて大きなリュックを背負って歩ける状態ではなかった。ほおっておくと後ろ向けに転倒して、後頭部を地面にぶつけるなど大事になりかねない。
 蕎麦屋にたどり着くまでも、何度も転倒しそうになり、用心のために少し後ろから歩いていた僕が懸命に支えねばならないことが何度もあった。
 彼のリュックは僕が背負うことにして、彼が少しでも体を軽くして歩けるように工夫したが、彼には自分の危険度が分かっていないのか、むしろ、あえて危険なことをしようとしているようにさえ見えた。歩いているうちに、崩れるようにして座り込むこともあった。
 蕎麦屋で何度も言い聞かせているうちに、さすがに僕の言うことが少しは効果を及ぼしたのか、電話で実家にいる姪御さんにサポートを依頼して、了解を得たと言うので、僕は塚崎さんに別れを告げて、別の用事に向かった。
 塚崎さんが無事に帰宅したことは、関西に戻った翌々日になって知らされ、ひとまず安堵した。しかし、依然として、塚崎さんは僕が最も強く懇請していた医師の診察と検査を先延ばしにしているようだった。あれほどひどい姿を僕に見せつけながら、大阪に帰った週の木曜日には、メディア関係者に囲まれての塚崎塾と呼ばれる講演会で、約束通りに講演を行い、その後の二次会でいつものようにビールを飲んでいたという。僕なんかの手には負えないという紛れもない事実を、本人から電話で聞いた。
 彼と生活を共にして、敢えて悪者になれる者しか、彼の行動に歯止めをかけることなどできはしないと、半分以上は諦めた。しかし、せめて親しい知人たちには状況を知らせて、彼に仕事の依頼などは、厳として止めるようにお願いした。それくらいしか僕にできそうなことはなかった。
  (塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の8に続く)


塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の6

2024-11-22 17:11:11 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の6
目次
18.遅まきの研究もどきの伴走者
 済州島の日本軍軍事施設のフィールドワーク
済州女性文化遺跡の探索
済州4・3
 塚崎さんの天敵
 朝鮮族研究と在日研究

本文
18.遅まきの研究もどきの伴走者

<済州学事始め>
 先にも紹介したように、二つのフォーマルな研究会(朝鮮史研究会と青丘文庫研究会のこと)に僕が参加するようになったのは、ひとえに塚崎さんの誘いの結果だった。その後の長期にわたって継続して参加している頃にも、塚崎さんには何かと教えてもらってばかりだった。そんなことについても既に書いた。しかし、実はそれだけでなく、それ以外にも、塚崎さんの導きと助力があったからこそ、研究を断念して久しい僕が、今さらのように恥をかなぐり捨てて、遅まきの研究もどき、とりわけ<済州学事始め>に着手して現在に至るのに、それについては、全く書いてこなかった。
 それはおそらく、塚崎さんがいつも傍にいて助けてもらえるものだから、それが当たり前と思いこんでしまって、個別の<有難み>は忘却用のフォルダーにしまい込んでいたからだろう。
 ところが、この文章を書くうちに、そんなこともしだいに脳裏にあがってきた。頼りない記憶でも残っていたのだから、ありがたく思いながら、それについて書いておきたい。

済州島の日本軍軍事施設のフィールドワーク
 <済州学事始め>に取り組むうちに、僕はそれまで想像もしていなかった様々なことに首を突っ込むことになった。
例えば、済州の知人のたっての協力の依頼を受けて、『済州ウイークリー日本語版』の編集長といった職責を引き受けて、一年近くの間、慣れない諸事に翻弄されたのだ、そんな僕に実に多様な方々が助力や励ましを惜しまなかった。そんなありがたい人の中に塚崎さんがいないはずがない。自らが率先して行った「済州島における日本軍軍事施設の調査」の経験に関する記事を数回にわたって寄稿してくれた。
 塚崎さんは、在阪朝鮮人史の研究で知られているが、それ以外にも、多様なテーマを並行して扱っており、そのうちでも僕にとって特筆すべきは、済州島における日本軍に関する研究である。「韓国でも先端的で比類のない成果を残したのに、今では韓国、とりわけ済州の研究者でさえも、それを忘れて(あるいは、そのふりをして)いそうで申し訳ない」と、僕の済州の知人が悔しがるほどのものなのである。
 アジア太平洋戦争末期に大日本帝国は、本土を死守するための最終決戦の候補地の一つとして済州を選び、そこに7万人を超える朝鮮人兵士も含む日本軍を集結させた。そして人間魚雷の基地、総司令部その他の洞窟軍事陣地などで、米軍を迎撃するために全島を要塞化した。塚崎さんはその詳細な地図を日本の防衛省の資料室に日参したあげくに見つけ出すだけでなく、その多くの洞窟施設に、危険を顧みずに自ら率先して入り込むなど踏査した。
 塚崎さんの記事では、珍しく自身が生まれ育った家庭のことも触れられており、二回も徴兵されたあげくにシベリア抑留まで経験されたお父さんのことが、淡々と記されている。それだけになおさら、お父さんの生き様が塚崎さんのその後の人生、さらには研究に、なみなみならない影響を与えたことが分かる。塚崎さんを理解するには欠かせない文章である。
 因みに、塚崎さんの済州の日本軍軍事施設の研究は、僕と塚崎さんの関係を一気に深める媒介にもなった。
塚崎さんの強い勧誘もあって参加した2008年の済州島の日本軍軍事施設のフィールドワークは、それまでの僕の<故郷済州>との関係をドラスティックに変え、僕の後半生を決定する契機となった。
 それまでの僕にとっての済州は、一族絡みの難事の解決のために心身をすり減らす奔走と苦役の場、そして、その辛さを和らげて済州と和解を果たそうと始めた島一周サイクリングの癒しの場といったように、ひたすら私的で閉鎖的な時空でしかなかった。済州について、それも自分やその一族と結び合わせて学ぶなどの<贅沢>なんか自らに禁じての果てしない済州通いだった。
 ところが、2008年のフィールドワークの経験以降には、済州について学ばないでいるのは、逃避であり、恥ずかしいことでもあると考え直し、我が一族の問題と済州の歴史と生活文化をつなげて考えながら、生きるようになった。それが僕の<済州学事始め>の中核にあった。

済州女性文化遺跡の探索
 その導きの糸になったのが、偶然に遭遇した『済州女性文化遺跡100』であり、僕はその本をよりよく理解するために翻訳(ブログに掲載済)を試みるのと並行して、女性の生活文化の痕跡を探しまわった。その途上で力強い味方に出会ったが、それまた塚崎さんやその長年の盟友である足立さんの紹介によるタクシー運転手のMさんだった。
日本への2回も密航しての出稼ぎの話を車中で聞きながら、済州の随所で今やすっかり隠れたり、消え去ろうとしている生活文化の発見に努めた。
 Mさんも最初は、僕のことを奇異の目で見ている気配があったが、済州生まれの済州育ちでありながらも、昔に見たことがあってもすっかり忘れてしまっていたり、初めて見る生活文化の痕跡に驚き、僕の探索に彼固有の意味も見出すようになった。随所で積極的に助言や質問を僕に向けてくれるので、ふたりして探索を楽しむまでになった。
 彼のタクシーは僕の探索の足であり、彼の語る済州の生活や気持ちの話(本土の海岸地域への出稼ぎ海女である母親との異郷での苦しい幼少年時代の話や、成人してからのベトナム戦争への参戦、そして日本での2回で合計10年を越える密航者生活も含めて)は、僕にとっての<故郷・済州の人々の生活史>に関する学びにもなった。
 そしてついには、その成果のお裾分けと銘打っての、『済州の生活文化と歴史のフィールドワーク』が始まった。初回には塚崎さんにも参加してもらったこともあって、参加者の好評を博し、その勢いも借りての2回目は、折からの台風の予兆の厳しい天候下にありながらも、ほぼ予定通りにコースを経巡り、最終回のつもりで予定していた3回目に対する期待が高まって、参加希望者も膨らんだ。ところが、生憎と、コロナ禍のせいで直前になって中止を余儀なくされ、そのリベンジの機会を今なお夢見るなど、未練たらしい心境が続いている。

済州4・3
 塚崎さんの済州島における大戦末期の日本軍施設の研究は、解放前後の済州社会に関する研究の性格もあり、とりわけ解放直後、そして4・3事件時の済州社会の実態把握にも欠かせないものである。ところが、その知見は、4・3の真相究明運動における、解放直後の済州社会に対する見方とは、微妙に異なっていた。
 塚崎さんは、大戦末期の日本軍と済州の関係の実態から、4.3前夜の済州社会を<解放空間>とする捉え方には疑問を呈していた。そしてそうした把握に基づく4.3研究にも、違和感を抱いていた。しかし、それを声高に主張することは慎み、その運動の推移を静かに見守っていた。その態度に僕は、自分が何を言おうと、耳を傾けてもらえそうにない、といった塚崎さんの諦念を、僕は感じ取っていた。
 そのような推測、そして、その推測における塚崎さんの諦念の源には何があったのか?それについては後に立ち入るつもりなので、ここでは、僕の遅まきの済州学事始めにまつわる諸活動に対する塚崎さんの、留保付きの協力に限って記すにとどめたい。
先ずは、僕が他の若手の研究者と始めた学術振興会の競争的科学研究資金(科研費)による「済州4・3事件に関する共同研究」は、塚崎さんの済州に関する研究の蓄積と知見に基づく適切なアドバイスのおかげもあって、公開研究会を何度か組織することができた。
その共同研究自体の成果は生憎とまとめられなかったが、僕自身に限っては、いわゆる4.・3の真相究明運動とは少し異なった方向で、4・3自体よりも、その表象について考えてみた。さらには、その延長では、在日文学の代表とされる金石範の『火山島』についても、その小説言語に限定しての批評的議論を展開するという蛮勇を発揮するに至った。例えば次のようなものである。

「済州4・3事件に関する未体験世代の表象-済州での予備的インタビュー調査―」、『東アジア研究』大阪経済法科大学アジア研究所、第65号、2016年、

「金石範著『火山島』の言語の<異様さ>について」、東アジア研究、大阪経済法科大学アジア研究所) 第69号、2018年

塚崎さんの天敵
 しかしながら、その一方では、塚崎さんにいろいろと辛い目にあわせることになり、申し訳ないことが少なくなかった。
塚崎さんは決して論戦的な傾向を持った人ではなかったのに、そうだからこそかえってそうなのか、塚崎さんに対して攻撃的な議論を執拗に行う人が、僕が知るだけでも、数人はいた。それに対して塚崎さんが反撃に出るような気配はなかった。だからこそだろうか、相手はその塚崎さんの優しさ、寛容、そして礼節に付け込むのが癖のようにになってしまったのではないかと、僕はじれったくて堪らなかった。
 その結果として、塚崎さんが苦手にしていた人には、日本人も在日もどちらもいたから、国籍や民族とは基本的に関係なかった。
その中でも僕が最も不思議に思った人が、塚崎さんとよく似た思想や活動の遍歴を持っていたことである。大学時代に全共闘運動に参加して、三里塚闘争などにも参加した。そしてその後は、そうした運動の経験をむしろ既成左翼だけでなく、右翼や左翼を問わず、既成概念に固執して現実を裁断する党派や個人を批判する立場から活動しており、それもまた、塚崎さんと近いはずなのに、塚崎さんの在日の歴史に関する研究報告にはいつも、誤解に基づく質問や批判を繰り返した。僕はその人の悪意や邪心のなさ、何にでも体当たりで実際に体験することを厭わないチャレンジ精神の強靭さなどを知り尊敬していたので、塚崎さんに対する批判は、本当に不思議だった。それだけに、塚崎さんになり替わって、その人には誤解や無知のせいでとんでもない批判になっていることを何度も指摘したが、彼のその傾向には大きな変化が生じなかった。それが僕にとっては、人間関係の不思議さの一つであった。但し、その人の場合は、悪意がないことは確実だったから、対応は容易だった。しかし、その反対に、対応がいたって難しい人もいた。
 その代表が、在日二世であるが実質的には一世と言う方が相応しく、僕よりも、したがって塚崎さんからすれば相当に年長の研究者で、僕から見れば、塚崎さんと相当に近い考え方をしていそうなのに、塚崎さんのこととなると、何故かしら厳しく、しつこく、その欠点や不足をあげつらった。
 そんな困った癖をお持ちであることを重々承知しながらも、僕らよりも一回り以上も年長世代の、しかも、かつては総連組織で活躍していた人たちの4・3観を是非とも聞きyたいからと、報告をお願いした結果、またしてもすぐさま本筋を離れて、塚崎さんに対する批判を始め、いったんそうなると、自制がきかないらしく延々とそれが続きそうなので、司会をしていた僕が懸命に制止に入らざるを得なくなった。
 そんなことを諸種の研究会で長年にわたって耐えてきた塚崎さんなので、その方がいらっしゃる場では、可能な限り口を開くことを慎むのが習性となっていた。それを承知しながらも、ふたりを同席させたのは、僕の不始末であり、塚崎さんには本当に申し訳なかった。
 塚崎さんは研究会が終わってからの打ち上げの酒席で、その方にまつわる不愉快がさすがに積もっていたからか、そしてもちろん、共同研究の内容にも異論や不満があったからだろうが、僕とは別のメンバーの報告に対して、「何を言っているのかまったく訳が分からない」と、珍しく深刻な不満を僕に対してだけ、こぼしていた。
 僕が無理を言ってお願いしたせいで、塚崎さんには学ぶことなど何一つなく不毛な研究会に協力させてしまった結果として、塚崎さんらしくない愚痴をこぼす羽目に陥らせた責任はすべて僕にあったので、すっかり恐縮して、申し訳ないという謝罪の言葉さえも口にできなかった。

朝鮮族研究と在日研究
 次いでは、これまた学術振興会の研究資金を受けての、僕も含む在日(中国)朝鮮族に関する共同研究が主催したウェブシンポジウムへの塚崎さんの協力である。
 但し、それについては、少し前史に遡った説明もしておくべきだろう。
 僕は韓国で言うところの<在外同胞>、僕のいわゆる<朝鮮からの越境移住民の後裔>だから、同じく朝鮮からの越境移住民とその後裔である中国朝鮮族には、同類意識のようなものが作用して、格別な関心を持ち、研究もどきも細々と続けてきた。
 その一環で中国東北地方はもちろん、北京の朝鮮族集住地域である王京(ワンジン)などの調査もしたことがある。しかし、その後に調査に訪れた中国東北の大学内で公安に逮捕・連行され、犯罪の容疑者扱いで取り調べを受ける羽目になるなど、珍しく厳しい経験もした。しかも、その取り調べを受けたこと自体をまるで証拠のようにして、犯罪者と見なされたのか、ブラックリストに掲載されているらしく、その後は中国のビザが下りなくなって、既に10年以上になる。
 そのせいで、中年も後半になって老化との闘いの一環という意味も兼ねて盤強を始め、ついには中国の厦門大学に短期の語学留学までして、懸命に励んだ中国語学習も、すっかり無駄になった気分に陥った。
 しかし、そのことについて、今さら愚痴をこぼすつもりなどない。それぞれの国や社会に固有の事情があり、僕のように取るに足りない人間にも固有の事情がある。そんなことを予めしっかり弁えた上での準備や調整が不足していたせいで被った受難と見なして、そんな事態を受け入れようと努めてきたし、今後もそれは変わらない。
 そんなわけで、今や中国には足を踏み入れることも叶わなくなった身なのだが、それでも中国朝鮮族の人々への関心は継続し、中国から改めて越境移住して在日朝鮮族となった皆さんに対するシンパシーも失っていない。だからこそ、彼ら彼女らには決して迷惑を及ぼさないように心がけながら、親しく付き合っている。
 その延長として、在日朝鮮族一般はさておくとして、越境移住民としての朝鮮族に関する研究調査を志す人々には、僕らオールドカマーの在日総体の長い歴史的経験を是非とも知ってもらって、それも参考にしながら在日(中国)朝鮮族の研究を進めてほしいと、僕は強く願い、次のような文章も書いてきた。
 
「在日二世以降と「故郷・祖国」の伝統文化:済州の祝意広告と学校同窓会を事例に」(朝鮮族研究学会誌第10号、39頁~64頁)

 そして、そうした発想に基づいて、在日コリアンと在日朝鮮族の歴史と人の縁をつなぐWEBシンポジムを、上述の共同研究の主催で開催するに至った。その際には、最年長である僕が司会を、共同研究を代表してLさんが趣旨説明を、塚崎さんには解放以前(1945年以前)の在日史を、他方、在日二世のMさんには解放後から現在までの在日史についての研究報告をしていただいた。以上の報告を受けて、中国朝鮮族と在日の研究に加えて、社会運動の経験も豊富なCさんからのコメントもいただいて、以上のメンバーと参加者一般も参加しての総合討論へと進んだ。
 しかし、残念ながら、その企画自体はあまり成功とは言えなかった。WEB上での参加者のうち、中国朝鮮族の研究者は半数に満たず、しかも、その人たちの多くが、オールドカマーの在日史に関する知識や興味が限られていたこともあって、報告内容の理解が難しかったようなのである。
 その一方で予想外の反響もあった。在日史への関心を動機として参加した人々では、在日史の再検討を標榜する塚崎さんの議論が予想以上に好評だった。
 例えば、在日韓人歴史資料館の李成市館長は、お二人の議論を聞いて、大いに関心を掻き立てられて、その趣旨をさらに活かせるイベントの構想を抱く契機になったと言う。
 実は、李成市さんはそれ以前にも拙著『金時鐘は在日をどう語ったか』(同時代者刊)に関するWEB書評の会に参加されて、拙著の議論に関心を抱き、その延長上でこのWEB研究会にも参加したという経緯もあったらしい。
そして、李館長はその後も、コロナ禍を挟む3年のうちに、何度も大阪まで足を伸ばし、塚崎さんや僕との協議を重ねながら、当初の<構想の練り直し>に努めた。



塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の5

2024-11-16 17:06:06 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の5

 このシリーズは、ずいぶんと長い間隔を置いて書き継いできたので、以前に何が書かれていたのか、記憶が朧だったり殆どなくなっている読者も多いだろう。そもそも、書き手の僕自身も恥ずかしながら、同じようなものである。そこでこの機会に、これまでの4回のタイトルや小見出しを、冒頭に記したうえで、今回の本文へと繋いでいくことにしたい。

1-4の目次
第一部 死に至る病
その1
1. はじめにー塚崎さんを亡くして1年が過ぎた
2. 臨終とその前後
3. Zoom飲み会(病の発症)

その2
4. Zoom飲み会の前史1-フォーマルな二つの研究会
5. Zoom飲み会の前史2―インフォーマルな聞き取りの会
6. Zoom飲み会の盛衰

その3
7. 塚崎さんの異変1
8. 塚崎さんの異変の2-家の中での事故
9. 燃え尽き症候群―人生の転機の過ごし方

その4
 10.お詫びと訂正
 11.教育者の使命感と不機嫌
 12.アメリカ在住の在日二世のお姉さん
 13.半世紀以上も以前の一面的認識の化石
 14.善意の教え諭しと不機嫌

以上に続いて、以下は次のように書き進める予定である。

第二部 馴れ初めから晴れ舞台まで
その5の目次
 15.2人揃っての晴れ舞台
 16.出会い
 17.仲介者のTさん

本文
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の5

15.2人揃っての<晴れ舞台>
 2023年7月に東京の在日韓人歴史資料館主催のミニシンポジウム「在日の歴史を再考するー記録と記憶を見つめてー」に、塚崎さんと僕の2人が大阪から招待され、塚崎さんは史料に基づく(大阪の)在日の歴史を、僕はもっぱら大阪で生まれ育った在日二世としての経験と見聞についての個人的記憶を語った。二つの全く異なる視点から(特に大阪の)在日の過去と現在を照らし出したうえで、今後についても考える総合討論にも2人して参加した。
 その動画が最近になって、ネットで視聴可能になった。三部構成で、第一部が僕の講演、第二部が塚崎さんの報道写真を提示しながらの講演、第三部が上記2人の他に、作家の深沢潮さんがコメンテーターとして、さらには館長の李成市さんの司会による総合討論だった。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL6Kkg7cnPi5dwHyjbLY6Eh-XB4DNAG_am

 後でも詳しく書くことになるように、李成市館長はその企画をコロナ禍も挟んでの数年間にわたって温め、大阪まで何度か足を伸ばし、僕ら二人と意見交換を重ねた。その結果、当初の構想に少なからぬ変更を加えることも辞さないなど、内容を練りこむなど、満を持しての開催だった。
 しかも、在日韓人歴史資料館では、来年の創立20周年記念のリニューアル展示では、目玉とする企画として、塚崎さんが収集した報道写真をパネル展示すると共に、塚崎コーナーのようなスペースも新設し、さらには記念講演会などの企画も構想しているらしい。
そこで、皆さんにはとりあえず、動画を通して僕の笑い話と往時の塚崎さんの姿と語りを楽しんでいただきたい。次いでは、来年の秋以降に東京に行かれる機会でもあれば、麻布十番に位置する在日韓人歴史資料館までどうか足を伸ばして、新装なった展示の中でもひときわ光輝く塚崎さんの研究成果を楽しんでいただければ幸いである。
 塚崎さんはそれらの資料を収集・整理のために目を酷使した結果として、片目を殆どダメにしてしまうなど、まさしく命を削りながら収集・整理された成果である。
 さて、昨年7月のイベントの翌日には、塚崎さんは靖国神社や神楽坂界隈など、ご自身が生まれ育った地域に僕を案内してくださった。真夏の直射日光を浴びながら、僕は塚崎さんの話に耳を傾けながらとぼとぼ歩いていたのだが、その時になってようやく僕は、塚崎さんの体調に関する僕の不明と能天気の馬鹿さ加減を、この目で再確認しないわけにはいかず、慌てふためいた。
 そのあたりについては、既にこのシリーズの最初の方で触れてきたので、以下では、僕と塚崎さんの20年ほど前の馴れ初めから、上述のような2人しての悲喜こもごもの最初で最後の<晴れ舞台>までの20年間の交遊について、但し、これまでに書いてきたものとは別の角度から辿ってみたい。

16.出会い
 先ずは出会いだが、その仲介者は韓国の在日研究者だったTさんである。
「玄善允さんが塚崎さんをご存じないなんて信じられません。同じ市でお住まいのようなのに・・・是非とも、それも早いうちに、お会いください。その出会いから何が生まれるか、私としては大いに期待しています」と強く勧められた。信頼する彼女の勧めだから、僕はすぐにその気になった。ところが、それだけにかえって、その人の名前すら聞いたことがないことが不安になったか、在日の運動その他に深く関わっていた日本人の知人と会った際に、その塚崎昌之さんについて尋ねてみた。
 すると彼は「もちろん、よく知っています。信頼できる人ですよ」と、すんなりと望ましい返答があった。その口ぶりや表情から、仲人口のようではなく、本音と思えた。そこで早速、Tさんから教えてもらっていたメールアドレスに連絡を取ってみた。
 そして、当時の僕が、家族その他との少し改まった会食の場としてしきりに出入りしていた、大阪梅田の海鮮中華店で会食の約束を取り付けた。「鯛の中華風刺身」や「白身魚と卵白の炒め物」などあっさりとした料理が僕のお気に入りで、それを肴にすれば、ビールが進むのだが、その割にはリーズナブルな価格の店だった。
 その初対面で、塚崎さんと何を話したのか、まったく記憶にないが、僕に劣らずアルコールが好きなこと。そして、話し方に噓がなさそうなこと、その二点を確認できて、長く付き合えそうで嬉しかった。
 しかし、その時の塚崎さんの印象があまり強くなかったのは、彼が終始、控え目な態度に徹していたからだろう。それから20年間にわたって、それこそ塚崎さんの、少なくとも僕に対する基本的言動の特徴だった。それに付け加えることがあるとしたら、寛容だろうか。
 塚崎さんの控えめと寛容は、僕に対してだけの特別なことではなくて、彼の対人関係の基本スタイルだったが、僕に対するセットになった態度の特徴については、僕の属性が絡んでいそうだった。
 その一つは僕が在日であること、もう一つは僕が年長であることだった。塚崎さんは誰に対してもそうだったが、とりわけ在日で年長の人には、控えめで丁寧だし、すこぶる寛容だった。
 しかも、そこにまた、偶然にすぎない人間関係の機微のようなものが潜んでいることに、僕は気づいたし、塚崎さん自身が酔うと、それをよく口にしていた。
 塚崎さんが尊敬し、長年にわたって濃密な協力関係を維持してきた神戸のHさんと京都のMさんが、僕と同年令で干支が同じ虎だからと、その干支に因んで、<虎の三羽烏>などと持ち上げるなど、その2人に対する信頼感を僕にも反映しようとしていた。それは僕の想像などではなく、塚崎さんが酔うと、よくそんなことを僕に対するリップサービスも絡めて言っていた。しかし、僕に言わせると、それは完全な塚崎さんの買い被りとリップサービスのお手盛りと、僕は理解していた。
 それと言うのも、そのお2人とも、言動にぶれがないしそれとなく上品な、まさに紳士なのであり、その点では僕なんかとは正反対であると、僕自身が自認していたからである。
現に塚崎さんはその後、そんな買い被りの責任を負うようにして、お2人と僕の間に挟まれて、苦しむ羽目になった。そのあたりのことを知っているのは、おそらく僕だけなので、いつか、腰を据えて書くつもりでいるので、請うご期待!

 それはともかく。塚崎さんは僕と知り合ってから亡くなるまで、僕の気分を害すような言動などしたことがない。僕が彼の自分の意見に反することうを言うと、控えめながらも異論を述べたが、それは僕からしても望ましい振舞だった。僕が依頼したことの中で気が進まないことがある場合にも、その本音を明らかにしたうえで、彼の可能な範囲で協力してくれたので、僕としてはいつも感謝していた。
 僕も含めて誰に対しても、盲目的な追従などは、彼の思考や行動のスタイルとは対蹠のものだった。
 そう言えば、僕ら2人をつなぎ合わせたTさんも、そうした点で塚崎さんとよく似ているように僕は思っていたから、お二人は類は類を呼ぶような同志的関係と感心していたが、僕に関しては、どのように考えても、その類に属しそうにない。それなのに、その2人も含めた多くの人々のおかげもあって、それなりに楽しく生きてくることができた。
 幸運な星の下に生まれたわけではないかもしれないが、幼少年期はもちろん、中年を過ぎる頃以降に何とも遅ればせに知り合った人々の中にも、僕が老後を生き抜くにあたっての必須の糧を分け与えてくれる人が多くいたのだから、なんとも幸せな人生であると、掛け値なしに言える。
 それは幸いなことなのだが、僕と塚崎さんを仲介してくれたTさんに限っては、その数年後には、僕らの世界から完全に姿を消してしまって、多くの人のおかげで今でも能天気に暮らしている僕の近況など、伝わっていないだろうことが、なんとも悲しい
彼女のことだから、きっとどこかで元気に暮らしているものと信じているが、塚崎さんのことを考えるたびに、彼女の顔や声が浮かんできて、その度に元気でいたらいいなあと、つくづく願う。
 そこで、この際、僕が知る範囲で、彼女のことも少し書きとめておきたい。彼女の恩義に報いることなど殆どできなかったという慙愧の思いがあってのことである。塚崎さんを紹介してくれたことも、彼女に対する僕の大きな恩の一つだから、塚崎さんと絡めて彼女のことを書いておくのが、僕のせめてもの感謝の徴になることを期待して。

17.仲介者のTさん
 Tさんは、僕が裏方の一員として参加した韓国ソウルでの国際シンポジウムの会場で紹介された。誰の紹介だったか覚えていないが、その時に。彼女がすごく明晰な日本語を話すのが印象的だった。そこで日本留学の経験について尋ねたところ、一度も経験がないと聞いて、驚いた。
 その他、言葉遣いや立ち居振る舞いが、僕が韓国人、とりわけ女性について描いていたステロタイプとは異っているように感じた。そのこと自体は好悪とは関係ないはずだが、彼女に関しては、その全体としての印象に好感を持った。日本語の話し方も、上手な人が衒うような流暢さの気配がなくて、それだけに明晰さが際立っていた。言葉よりも思考のスタイルに由来する明晰さのように思えた。
当時の彼女は既にその年齢を超えていそうに見えたが、大学院生の博士課程に在籍しているという話で、その半年後には交換留学生として日本に半年間、滞在する予定と聞いて、実際に大阪で再会することになった。そして、そのあまり長くない滞在期間に、日本人と在日の研究者を糾合した在日研究のネットワークづくりに励み、協力を求められたので、僕なりに側面からお手伝いした。
 予定通りに韓国に戻ると、元々在籍していた大学院での研究プロジェクトのコーディネーター役を任されるようになったと聞いたので、夏季休暇中に僕がソウルを訪問した際には、その大学院を訪問して、学内の研究施設や大学周辺を案内してもらい、近くの景観の良いレストランでランチをご馳走になりながら、近況話を交し合った。
 大学院の研究プレジェクトが終わると、民間の著名な研究機関で在日関連の研究プロジェクトの責任者になったと連絡を受けた。
僕はその頃に、中国朝鮮族の韓国移住に関する研究の予備調査を企画して、韓国ソウルと済州を訪問した際に、ソウルでは彼女から何かとサポートを受けた。
 先ずは、宿泊場所に関してである。日本のホテルチェーンがソウルで初めての支店を開業に際して、格安料金という情報だけでなく、その予約までしてくれて、その建て替え払いまでしてもらえた。そのホテルは偶々、僕が高校時代に在日僑胞高校野球団の一員として、数多くの試合を行った東大門球場のすぐ近くだったので、時間があるとその周辺を歩き回るなど、数十年ぶりのノスタルジーに浸った。
 彼女が勤務する研究所の研究員だった中国朝鮮族の研究者には、僕が準備していたアンケート調査の内容のチェックとアンケート調査の方法などについても率直な意見を聞くことができた。その人は僕の調査については、肯定的な評価ができないといった言いにくそうなことまで、率直に言ってもらえたので、調査についての甘い幻想から覚めて、計画を練り直す契機になった。
 また、東京の大学で博士課程を終えてその研究所の研究員になっていた日本人の女性研究者とは、Tさんも一緒に3人で昼食をとりながら、韓国における日本人研究者の立場その他の問題点について、興味深いエピソードも交えて話してもらえて、大きな刺激となった。
 それから既に10年以上も後の昨年にソウルに行った際には、その研究所が母体となって創立された博物館を訪問して、彼女が今でもそこで精力的な研究活動を行っていることを知ることができて、感動した。
 僕が日本で企画することになった研究会に、Tさんを招いて研究発表もしてもらった。さらには、塚崎さんが関係している済州での日本軍軍事施設などのフィールドワークに僕が参加することを知らせたところ、Tさんは小学校6年生の娘さんも連れて、ソウルからはるばる済州にやってきて、その一部だけだが参加したので、3人でまるで遠足でもしているかのように、いろいろと話を交わしながら山中を歩いたこともある。
 その後、韓国のある地方大学が、在日研究の大規模プロジェクトを立ち上げて、それが国家的支援を受けることになったからと、彼女に相応しいからとコーディネーター役に招請された。ここでは立ち入らないが、そのプロジェクトでの彼女の活躍は目覚ましいものと僕には映った。
 ともかく、その研究活動の一環として、Tさんは拙著『マイノリティレポート』の一部を翻訳して、刊行物に掲載してくれた。その際に彼女は、おおむね次のようなことを言っていた。
 「玄さんがなさっているのは、今後の在日研究にとっての重要な示唆を含んでいると感じたので、拙いことは承知の上で、翻訳を試みたのです。従来は在日の集住地区を中心にした研究が主流の印象がありましたが、今後は、拡散して孤独に生きる在日の三世や四世が増えるのが確実ですから、玄さんがなさっていることから学ぶべきことが多々あると確信しています。」
 以上の内のいつのことなのか、定かではないのだが、Tさんは僕に、塚崎さんと是非とも会うようにと勧めてくれたのである。
その後、彼女が研究グループを引率して、大阪で研究成果を披露する研究会にも、彼女に請われて何度か参加して旧交を温めた。そして、その延長上で、再三の誘いを受けたので、彼女の拠点となった大学の研究機関を訪れ、彼女からは至れり尽くせりの歓待を受けた。
 先ずは、予約してくれたホテルが、その地方都市ではでは最も高級そうなところで、僕には似つかわしくない立派な部屋を見て、驚いた。
 Tさんは僕の体調、特に持病の腰痛のこともすごく心配して、大学付属の整体治療の部署にまで案内して、諸種の検査と腰痛解消のストレッチの指導まで受けさせた。
 研究所とその書庫では、彼女の努力のおかげで入手に至った在日のある民間研究所の蔵書を見学し、その整理作業の進捗状況の説明も受けながら、感心していた。
 そんなところに、そのプロジェクトの代表者という形で、彼女の名目上の上司にあたる人物がいきなり現れて、彼女に嫌味たらしく、こまごまとした指示を与える現場に居合わせてしまった。
 上司のその指示のせいで、彼女が僕を案内してくれるつもりでいた郊外の観光名所に彼女は同行できなくなった。そのことで、彼女は繰り返し謝罪に努めたが、僕はそれくらいのことは自分一人でも不都合などないし、かえって気楽でいいからと彼女を慰めた。
 しかし、その時点で既に、その上司の僕に対する異様な態度自体が、彼女に対する悪意の表現であり、攻撃の形態であると確信したので、すごく心配しながらも、一人で郊外の由緒ある寺とその周辺の古代遺跡の発掘現場めぐりを済ませた。
 そして夕刻には、彼女とその上司と3人で、民俗風の高級な料理屋で夕食をご馳走になったの、話が弾むはずもなく、気づまりな時間を過ごすと、上司なる人物は、そそくさと席を立った。彼女の上司のそうした不自然で無礼な態度の理由が何なのか、気になって仕方がなかった
 最初に考えたのは、僕の社会的ステイタスや、僕の服装や外観の貧相さで、僕を値踏みした結果なのだろうと思った。日本でもよくあることだが、韓国ではその種のことを数えきれないほどに経験してきたからである。
 そして、それなら僕の責任だし、仕方がないと無視すればいいのだが、どうもそれだけではなさそうな気がした。僕を招待したTさんに対する何らかのメッセージではと、ますます心配が募った。しかし、Tさんが何も言わないので、余計なお節介で、かえって心配をかけることになるかと、何も言わずに済ませた。
 その夜は、その研究所の費用で予約されていた、先にも触れたように立派なホテルで泊まったが、彼女のことが心配でなかなか眠りにつけず、その心配を振り切るために、翌朝は予定よりはるかに早くから、鉄道で次の予定地に出発した。
 Tさんにメールで感謝の気持ちを伝えたところ、十分な相手ができなくて申し訳ないという旨の返信メールをいただいた。
ソウル経由で中国の延辺に調査旅行に行った際には、帰路のソウルで再会を約束していたのだが、延辺滞在中の無理な飲食のせいですっかり胃腸を痛めてしまい、しかも、ソウルに着いて連絡をとった従弟から、奥さんが出産時に、赤ちゃんは無事だったが、奥さんの方が亡くなったという知らせを受けて、気持ちが完全にめげてしまった。そのように心身共にがたがたになっていたせいで、Tさんへの、約束を果たせないという連絡を怠ってしまったのである。
 僕からの連絡を今か今かと待ち受けていたTさんは、僕のことをすごく心配していたらしく、後になってそのことを知って、申し訳なく、自分が情けなかった。
 そのお詫びの気持ちもあったので、彼女が韓国では入手できなかった音楽家のコンサートを日本でなんとか見たいというメールを受けとった際には、そのチケットの入手に努めて、共同研究に参加のために日本にやってきた彼女に届けた。彼女はそれまでに見たことがないような、まるで子供のような喜び方をしてくれたので、気持ちが少しは楽になった。
 しばらく連絡が途絶えていた彼女から、メールが届いた。いろいろな事情が重なって、そろそろ潮時と決心して、職を辞すことにしました。すぐに外国に旅立ち、当分は韓国に戻らないつもりです、という短いメッセージだった。
 僕の危惧が当たっていたと思った。執拗なパワハラを受けて、大学の研究の世界には見切りをつけたのだろうと。
あれほど柔軟で強靭な精神力を持った人が、とまずは驚いたが、やがては、それも致し方ないことかと思うようになった。
 本人が直接に僕に話したことではないのだが、周辺の幾人かの人から漏れ聞いた話では、彼女は学生時代には民主化運動の闘士だった。卒業後も労働夜学で活躍するなどして、投獄経験もあった。そして、そうした運動で知り合った闘士の一人と結婚し、娘さんをもうけたが、その後にはその夫と別れ、娘さんを一人で育てた。そして、その娘さんが自分の手から離れる年齢になってようやく、学問研究を志し、大学院に入学した。それ以降、着実にそして目覚ましい活躍をしてきた。
 そんなことも考え併せて、非常時の政治的に厳しい状況下で闘い抜いてきた彼女でも、平常時の職場での研究プロジェクトという名目での位階秩序を盾にした執拗なパワハラには、耐えられなかったのかと思った。しかし、その一方で、油断すればどこでもいつでも付け入ってくるパワハラのような遍在的で犯罪的なメンタリティの跋扈を許す社会の恐ろしさを思い知った。
 しかも、そうしたパワハラだけが、Tさんの選択の理由ではなかったのかもしれないとも思い返した。
 実は、今後を共に生きるに値すると思える人物との出会いがあって、海外でボランティア的な事業に携わっているその人からの誘いもあって、迷っているといった話を、以前に聞いていたことを、ようやく思いだしたのである。
 それもあって、研究云々は潮時と考えて、その人のところに旅立ったのかもしれない。
 娘さんも既に成人して、母親としての義務も終わったと自らに言い聞かせてのことなのだろう。
 あまり立ち入ったことを聞くわけにはいかなかったが、ともかく元気に過ごすようにとの返信メールを送った。それ以来、完全に消息が途絶えた。
 Tさんのその後のことは全く知らないが、彼女のおかげでつながった僕と塚崎さんの関係は続いている。塚崎さんは残念ながら亡くなったが、それでも彼と僕らの関係は続いている。相変わらず僕はこんな拙い文章を書いているし、それ以上に、彼が遺してくれた資料の助けを借りて、フィールドワークを繰り返しながらの彼との対話は続いている。
 その一方で、僕とTさんと塚崎さんの関係はいったいどういうものであったのか、それが今になって、よく分からないままだったと、今になってようやく気づいている。どうしてTさんが僕と塚崎さんを仲介したのか、塚崎さんとTさんとの関係がどうだったのかも殆ど知らない。
 三人で一緒に会ったり、塚崎さんとTさんのことについて詳しく話しあったり、Tさんと塚崎さんのことを詳しく話した覚えもない。
 それにまた、塚崎さんの死後に知ったことだが、塚崎さんはTさんがネットワークを組織して完成した在日に関する調査報告の寄稿を、最終的には断って、知人にその役を任したらしく、それが何故だったのかも分からない。
 分かっていることは、Tさんのおかげで、僕はこの20年間をそれなりに楽しく生きてくることができたし、今後も僕が亡くなるまで、あれこれ考えるネタを手に入れることができたことくらいである。その筆頭が上でも触れたことだが、「塚崎さんの資料に導かれて在阪朝鮮人の暮らしの痕跡を巡る」という一連のフィールドワーク企画であり、月に1回くらいの頻度で、十名内外が、一緒に歩き、その後にはお決まりの酒席を楽しんでいる。
 老化は確実に進行しているが、今後も気持ちと体が続く限り、そのフィールドワークなど人間の環の再確認の場を心待ちにしながら、毎日を着実に楽しく過ごすことになるだろう。
(塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の6 に続く)

塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の4

2024-09-18 17:52:29 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の4

10. お詫びとお願い
今回の本題に入るに先立って、お詫びと訂正をさせていただきます。このシリーズで塚崎さんが亡くなった年である昨年(2023年)のことを2024年と誤記している箇所が数か所もあることを読者から、ご指摘いただきました。
 そこで、その事実の周知に努めることで、ご指摘に対して、お詫びと感謝の気持ちをお伝えいたしたく存じます。
 この先にも時期を見て、ブログ本文における誤記の訂正とあわせて、全面的な改稿も実行したいと考えているのですが、とりあえずのお知らせでした。
 その他に、誤記はもちろん記憶違いも多々ありそうで、恥ずかしく申し訳ないことですが、それでも書くことをやめるつもりはありません。
 現時点で僕がもっとも執着し、生活の糧にしているのが、このブログを書き継ぐことなのです。それが僕の人生の断捨離の大きな部分を占めているほどなのです。
 そんな事情もありますので、至らぬところについては、どうかご容赦のほどを切にお願いすると共に、どんなことであれ、お気づきのことがありましたら、遠慮なく、そして厳しくご指摘していただければ幸いです。
 それを大きな刺激、そして他には得難い糧として、誤記や記憶違いを極力、減らすように努めながら、書き継いでいく所存です。


11.アメリカ在住の幼馴染のお姉さんの歓迎宴
 さて、ようやく今回の本題に入ります
 2023年の2月頃だった。僕の幼馴染で、身内のように家族ぐるみで親密に付き合っていた近所の在日家族の一員で、僕からすればお姉さんと呼ぶのがふさわしい年配の在日二世女性であるKMちゃんを、実家に招待したことがある。
 その人は僕とわが家からは50mも離れていない家で生まれ育ったが、大学卒業後には、それまでに独力で懸命に貯めたお金でアメリカ留学を志して以来、幾度も大小の紆余曲折を経ながら、半世紀以上にわたって、アメリカを中心に日本国外で暮らしてきた。
 そして、生活が少しは落ち着いて以降は、数年に1回の頻度で、里帰りのように大阪で数週間を過ごすようになった。今や自分の在日の家族はすっかりばらばらになったが、妹が我が家が所有する賃貸マンションで暮らしているので、そこに身を寄せての滞在なので、わが実家にも頻繁に立ち寄り、母などとも会食するなどして、昔のように大いにしゃべり、大いに笑ってから、その時々に住居があった国に帰って行った。
 ところが、数年前の前回には、僕の母が老人介護施設に入っていたので、僕が実家で手料理を用意して歓迎することにした。そして、そのついでに、僕らの世代の在日二世の女性としてはレアケースの生き方をしてきた人だからと、インタビューを思い立ち、当人に提案してみたところ、即座に快諾いただけた。そこで、その様子を映像記録として残すために撮影を依頼したのが、僕や塚崎さんと長年にわたって親しく付き合ってきた映像作家のKさんだった。
 その際にKさんは、KMちゃんの語りとパーソナリティにすっかり魅了された様子で、その後も、時折、「彼女は今頃、どうしているのでしょうかね?」と話題にすることがあったので、彼女の数年ぶりの歓迎の会には、Kさんが必須と考えて招待した。さらには、すっかり元気をなくしていた塚崎さんにも、KMちゃんの元気いっぱいで饒舌な語りが、気分転換のきっかけになりはしまいかと、そして在日二世の女性の珍しいタイプを紹介したいという気持ちもあって、声をかけてみたところ、快諾いただけたので、僕は大いに喜んだ。

12.アメリカ在住の幼馴染の在日二世の姉さんの人生
 KMちゃんは僕よりは5歳以上も年長だが、母を含めて僕ら家族の全員が、彼女のことを<KMちゃん>と呼び、親戚付き合いの彼女の家族の中でも、格別に親しくしてきた。
 僕がまだ小学生か中学生だった頃に、日中は在日組織の民団事務所で働き、夜は定時制高校に通っていた彼女なのだが、自分の家で何か我慢ならないことがあると、わが家の母のところに泣きじゃくりながらやってきて、涙ながらにさんざん愚痴をこぼした後で、母から優しく慰められ励まされるうちに、すっかり明るい笑顔になって、元気そうに帰っていくのだった。
 彼女が、「おばちゃん、おばちゃん、聞いて!」と母に泣きついてくる直接の原因は多様だったが、その根本原因はと考えると、結局は次の二つのことに収斂した。
 ひどい貧しさと、そのしわ寄せが母親と子だくさんの中でも、家に残っている娘としては最年長であるKMちゃんの肩にのし掛かってくることだった。
 経済的困難を一手に引き受けようと、苦労性の母親が朝から晩まであくせく働いても、さすがに一人では手に負えない。そこで、ついつい、同性の上の娘であるKMちゃんに頼りがちになって、しわ寄せがまだ大人になっていなかった彼女の肩にのし掛かってくる。
 父親は済州で漢方医の長男として生まれ育ったから、幼少時から伝統的教育を骨身に沁みとおるほどに内面化していた。しかも、渡日してからは、京都の中学で新式(日本式の近代的教育)の教育も受けるなど、当時の在日にしては珍しく、新旧両方の教育をまともに受けた<学のある人>で、僕の両親はその人のことを、朝鮮語で<本を読む人>と呼んでいた。
 ところが、そんな経歴が逆に仇となり、肉体労働で汗を流すことも、商才を発揮してお金を儲けることも、卑しいことと見なすような考え方が、体の芯にしみついており、一家を支えるためなら恥も外聞もなくなんて、考えることが難しく、たとえ、そのように思っても、体が思うようにが動かない。
 その一方で、植民地期には支配者である日本人とその当局に、珍しい<学>を買われたのか、在日の朝鮮人の管理抑圧機構の一部である協和会の役を委ねられていたせいで、植民地からの解放後には、「親日派」として、左右合同を謡った組織から排除されて、学識に基づく知識と弁舌の活躍の場がどこにもなかった。
 それどころか、植民地時代の親日派として、また、解放後は反共主義者として、家庭内で君臨しながら、終日、家の中で座ってひたすら本を読むしかない。
 時には、そんな学を耳にした、非識字の一世たちの相談を受けて、新生児の命名や、縁談に必須の、本貫や姓や出生年月日を毛筆で書くなどして、謝礼を受け取るくらいのことはあった。
それ以外にも、さすがに漢方医の息子で、子ども時代からの習い覚えた技術を用いて、抜歯や捻挫の民間治療もどきを、頼まれれば行っていたが、その程度では、生計の足しになるはずがなかった。
 そこで致し方なく妻が、善良で従順という昔流の妻と母の理想像のような気立ての良さを発揮して、夫のできないことは何でも、つまりは、家のことはすべて、自ら率先して引き受けた。野菜や干物など、在日が好む安価な食材(干しワカメ、干し魚、唐辛子、ニンニク、手作りの各所のキムチその他)を家の軒先に並べたり、リアカーで行商して回るなどもして、辛うじて生計を立てていた。子どもに高等教育どころか中等教育でさえも十分に与える余裕などなかった。
 ところが、さすがに先祖代々、学のある家系のメンツを守るように教えられて育った成果なのか、長男は刻苦精励して国立大学に合格し、懸命にアルバイトしながら卒業に漕ぎつけたが、それでも就職差別のせいで、大した職にはありつけず、一家の経済を上昇させることはなかった。
長男でさえもそんな状態だったから、その下に男、女、男、女と続いた子どもたちには、中学卒業後の進学など余計な者に過ぎなかった。しかし、本人たちは働きながら定時制高校までは通ったが、大学も無理して働きながらの夜間がせいぜいだった。
 とりわけ娘の場合は、中学卒業後の進学なんか夢の夢だった。
 ところが、KMちゃんは、そんな状況などものともしなかった。中学を卒業すると昼間は働いて夜は定時制高校に通いながら、大学進学の夢を実現するための学資の準備にも勤しんだ。そして大学の入学試験にも合格した。しかし、その入学手続きの段になって、母親に預けていた大学入学資金が、すっかりなくなっていることを知らされた。
 母親にしても古風な考え方で凝り固まっており、女の子を大学に送るなんて本気で考えたこともなかったので、家計の不足を娘から預かったお金で補填するのは、娘には申し訳ない気持ちくらいはあっても、一家の主婦として当然のことだった。KMちゃんは憧れの大学入学の手続きができるはずもなかった。
 その時に、KMちゃんが目を腫らしてわが家に駆け込んできた時の様子が、僕の記憶には強烈に残っている。KMちゃんはそんな時にも、僕の母に慰められているうちに、気持ちを取り直した。
 またしても、一からお金を貯め、翌年だったか、さらにその翌年だったか、ついに念願の大学入学を果たした。
 ところが、苦闘はそれで終わったわけではない。大学時代はアルバイトに明け暮れて、なんとか卒業はしたものの、当時の大卒女性に関しては、就職年齢が低く、適齢期になるとあっさりと寿退社といった企業にとってはなんとも効率的な短期の循環サイクルに最適な短大卒の女性は別として、4年制大学卒の女性の就職の門戸は狭かった。その上、深刻な民族差別まで背負った在日の女子ともなると、まともな就職口などみつからなかった。
 そんな現実を突きつけられて、KMちゃんは改めて将来の道を開拓しなくてはならなくなった。
 日本にいる限り、在日女性である自分に将来の希望が開けるなんてことはありえない。アメリカ留学を目標にお金を貯めることにして、ついにはそれを実現した。
 しかし、米国に着いたとたんに、自分の英語力が決定的に不足していることばかりか、まともに英語の運用能力を身に着けて社会的足場を創れるほどになるまでの米国滞在には、準備してきた資金では到底、足りないという厳しい現実に気づいた。そこで、お金が切れると致し方なく、日本に戻って出直すことした。
 そして、数年後にはそれだけの資金を用意して米国留学に再挑戦した。そして、なんとその留学中に、米国の職業軍人と恋に陥り、結婚するに至った。
 その後は、軍人である夫の勤務地である韓国、ドイツ、アメリカ各地を転々としながら暮らすことになるのだが、その間も、安定した主婦の座に安住していたわけではない。ドイツやアメリカでは資格取得の努力の果てに、中学などで日本語教員として勤務もした。
 しかも、その間には愛娘を事故で亡くし、その喪失感に耐えられないからと、韓国滞在時には、夫を説得して、しかも、制度上の難問も辛うじてクリアーして養女を迎えいれた。そして、その後には自分自身が予想もしていない妊娠をして、結局は2人の娘を育て上げた。そのふたりとも今では結婚して子供を産み、豊かな暮らしをしている。

13. 半世紀以前の、在日の一部における在日と朝鮮半島に関する一面的認識
 以上のように、何だって思い立つと、怯えを知らず、猪突猛進で、ネイティブではない言語圏の国々で生活してきたKMちゃんはしかし、その分だけ、日本事情はもちろん、在日事情についても、幼い頃に家で両親から習い覚えた常識を半世紀以上にわたって、化石のように持ち続けてきた。
 しかも、その両親の常識が当時の在日でも特殊なものであったことも知らないだけでなく、その後の在日事情や日本社会の在日観の変化などにも、在日生活だけを70年以上も積み重ねてきた僕なんかからすれば、不思議に思えるほどに、KMちゃんは疎い。
 そんなことが言葉遣いにまで、何一つ包み隠すことなく露呈する。今やすっかり死語と化した言葉遣いが、何のためらいもなしに繰り返され、<社会的に正しい言葉遣い>に少しは配慮しながら暮らしている僕らは、たじろがずにはおれない。
 既に述べてきたように、それはしかし、彼女の履歴や性格からすれば無理もないことである。彼 女は数年に一度の割合で日本に立ち寄ることがあっても、旧交を温める相手と言えば、昔の学校時代の日本人しかおらず、その人たちは在日はもちろん、朝鮮半島に関心を持っているわけがないし、話題にするわけがない。むしろ、在日の彼女に配慮して、そんな話題を避ける方が一般的である。したがって、彼女の在日や朝鮮半島に関する昔流の、それも今からすれば偏向した常識を訂正する契機に恵まれない。
 生まれてから25年間も在日生活だった彼女なのに、今でも会って話せる在日など、数少ない親戚とわが家の家族を除くと、あまりいない。
 その親族にしても、今やすっかり数少なくなっているし、その上、いろいろな軋轢などの結果として、付き合いも薄くなった肉親に会ったとしても、半世紀以上も昔に家庭内で共有していた古臭くて、その家庭独特の常識がそのまま通じて便利は反面、変更や訂正の必要など感じないから、彼女の在日観や朝鮮半島観は化石のままである。
 アメリカ観や朝鮮半島観、とりわけ、北朝鮮観や韓国観、さらには日本観などについては、彼女のそれはアメリカの元軍人の夫を中心としたコミュニティの影響を圧倒的に受けている。彼女の黒人観など、まさにアメリカの中流の白人世界、それも職業軍人コミュニティのそれでありそうなことに、僕なんかは驚くこともある。
 しかし、そうしたことは、決して異様なことではなく、彼女の生活環境がそうであっただけのことだし、彼女と僕らとの生活環境、知的環境、情報環境に差異がいくら大きくても、それにあまりに拘泥していると、話が通じなくなりかねない。
 僕らは議論をするために会っているわけではない。話が通じるところで、お互いの生身の生き方に沿っての会話を楽しみたい。そのためには、こちらが少しは機転を利かして、話題をコントロールするように努めながら、基本的にはKMちゃんの言うことを尊重するしかない。
 彼女は日本語で話す機会は希少なだけに、英語では話そうとしても話せないことを昔の日本語で話しており、それが僕らの眠ってしまった何かを刺激してくれることもあって、爽快だし、解放感を覚えることも少なからずある。
 違和感が強いことは聞き流すなどして、自分をコントロールする必要もある。但し、他にだれもおらず、ふたりだけで話している場合に、そして、相手に通じそうに思える時には、言葉遣いその他に関して、今の日本では誤解を受けかねないようなことについては、気を付けたほうがよいかもしれないといった言い方で柔らかいアドバイスを挟むくらいのことはする。それがエチケットでもある。
 ともかく、彼女に肉体化された思考法や言葉遣いのうちでも、僕らの常識に逆らうような部分は聞き流せばよい。それが僕らの対話の中心ではない。中心ではないことで、彼女が話すことは、僕らと彼女との付き合いに何の支障もない。それどころか、彼女の話を聞くだけでも、あの貧しく厳しい子ども時代の生活に耐えて、自分で将来を切り開いてきたバイタリティには目を見張るし、失敗を恐れずに新しいことに挑戦する覇気には驚嘆して、人生は楽しいものだと励まされる。
 何よりも、彼女の率直な言葉遣いとエネルギッシュな人生の語りに好感を抱いているからこその歓迎会だった。彼女の話を通じて、彼女の人生の動力としての<尽きることのない元気,挑戦マインド>のおすそ分けにでも与ろうという魂胆なのである。
 同席したKさんは、既にインタビューと映像撮影の際に、彼女の語りの面白さと特異さや揺れ幅について、ある程度は知っていたが、他方の塚崎さんには、そこまで詳細な情報を伝えずに、幼馴染の愉快でエネルギーいっぱいの在日二世の姉さんがアメリカから久しぶりに大阪に来るので、楽しく一杯といったことしか伝えていなかった。それが僕の大きなミスだった。

14. 善意の教え諭しと心身に居座った不機嫌との絡み合い
 KMちゃんは山羊ひげを生やした塚崎さんとの初対面で、さすがに緊張したのか、最 初は普段のようには言葉が弾まなかった。他方の塚崎さんも、ひと回り以上も年長の女性であるKMちゃんが同席しているからか、緊張気味で、Kさんに対しても、いつもの辛目の軽口は出ずに、僕が見慣れた塚崎さんとは少し違っていた。
 しかし、塚崎さんはいつものように最初はビールだったが、途中からは、「体が冷えるから、焼酎か日本酒にします」との、塚崎さんらしくない言葉を境にして、少しずつ言葉も出てきた。それにつれて、KMちゃんもさすがに、いつもの饒舌モードになってきた。
 その話の中にやたらと「北鮮(ほくせん)」という言葉が挟まるようになった。
「これは拙い」と僕は思いながらも、せっかく普段のペースを発揮しだしたKMちゃんに冷や水をかけることになりかねないからと、口を挟むのを思いとどまった。それが悪かった。
 繰り返される「北鮮」の語感が、塚崎さんの耳と神経をこすり、不快さを募らせたのか、あるいは、歴史家として、教育者として、そして社会運動家としての使命感を刺激されたのか、ついに塚崎さんは表情も口調も硬く、KMちゃんに向かって、アドバイスと言うよりも、不快感をのぞかせるような訓戒を始めた。
「その呼称は差別的な言葉であると広く認められて、今ではよほどに無知か、ヘイトスピーチをする愚かで悪意を持った人々しか用いません。そんな社会的事情もしっかり考えたうえで、別の呼称に変えた方がよろしいでしょう」
 抗議とまではいかないが、真顔の真剣な教え諭しを見て、もっと早く僕が介入すべきだったと後悔した。塚崎さんなら彼女の事情も慮って、聞き流してくれるものと、あまりにも楽観視していた僕のミスを痛感していたのである。
 KMちゃんは、塚崎さんが何を言っているのか最初はよくわかっていなかった。しかし、塚崎さんのすごくまじめな顔つきと口ぶりの厳しさを見るうちに、少し理解しはじると、すっかり恐縮してしまった。それを見て、僕はますます狼狽えた。それと言うのも、僕が塚崎さんの心身に対する配慮も欠いていたことに、ようやく気づいたからである。
 僕は二重に大きなミスをしてしまったことに、ようやく思い至った。塚崎さんの使命感と心身の状態に対する洞察を欠いて、適宜に穏当な介入を怠ったのは、その会の言い出しっぺであり、仲介者でもあった僕の大きな過ちだった。
 とはいえ、その一方で、KMちゃんはそんなことくらいで、気を悪くするような人ではないと、堅く信じていた。
 案の定、アメリカに戻ったKMちゃんからの第一報では、そのことで塚崎さんに対して悪印象を持つどころか、「すごく立派な日本人の学者さんとの会食の機会まで、ありがとう。良い話をたくさん聞くことができて、勉強にもなりました。くれぐれもあの顎髭の優しく、いかにも誠実そうな先生に、よろしく伝えてください」と記されていたので、僕の取り越し苦労だったかもと、少しは安堵した。
 それはそれとして、現場に居合わせた僕としては、後悔の余韻もあって、塚崎さんの心身には何か大きな問題が居座っていそうに思わずにはおれなかった。
 塚崎さんの心身の奥の方に、不機嫌の種がどっしりと腰を下ろし、何かをきっかけに爆発しかねないと改めて心配になった。
 その不機嫌は必ずしも心理的なものではなく、むしろ体が思うようにならないことからくるものであり、鬱症状の一環としての不機嫌だろうと思い至ると、ますます不安が募った。
 そんなことを考えるうちに、塚崎さんが会食時にトイレに立った際の、動きの不自然さ、足元と全身のふらつき具合が記憶の底から蘇ってきて、鬱は全身症状の一部に過ぎないといったように、考えるべき筋道だけは見えてきた。しかし、さらに進んで、適切な対処の方法は思い浮かばなかった。不機嫌に配慮しながらも、ともかく、医師の診察と心身全体の精密検査を、繰り返し勧めるくらいしか、手立ては見当たらなかった。
(2024年9月18日17時30分、塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の5に続く)