「トモダチのトモダチはトモダチ」の補足―ムシュー玄の人生小劇場―或いは、「なんでやねん?」シリーズ)
前口上1
先だってアップしたばかりの「トモダチのトモダチはトモダチ」のシリーズで、済州での偶然のガイド稼業がはるか昔の高校時代の話と繋がって、含羞のK先生こと川副先生、そしてさらには赤フンその他の高校時代の教師集団のこともほんの少し触れた。しかし、あまりにも端折りすぎて、あの頃の雰囲気が伝わりそうにないから、我ながら大いに不満だった。そこで、その高校時代を中心とした「わが青春」について書いた「ムシュー玄の人生小劇場―(別名「なんでやねん?」シリーズ)を補足としてアップすることにした。
前口上2
今から8年ほど前に、1,2年生の時にフランス語の初級と中級を教えていたことのある学生数人と一緒に酒を飲んだ。その時、「もうすぐ卒業なのでなにか記念になることをしたい。協力してくれませんか」と相談された。そして、彼ら彼女らは、手作りのフリーペーパーを発行することになった。多くの学生たちにインタビューするなどして原稿作成、写真やレイアウト、印刷・製本などもすべて手作りで、3回にわたって発行し、手分けして配布したり、大学の各所にも置いてもらったらしい。
そのフリーペーパーに、僕も相談に乗ったから何か書いて手伝うのが筋、そんな学生たちの言い分に、なるほどと思って楽しく書いた。タイトルは学生が決めてくれた。ただ、その実物では、以下の文章は毎回、メンバーの一人が撮ってくれた僕の大量のカラー写真で縁取られていて、恥ずかしくて堪らなかった記憶がある。
ムシュー玄の人生小劇場1
僕は来年、晴れて還暦を迎えるおっさんである。そのうえ、非常勤講師として諸大学を駆けずりまわって小金をかき集めるのに汲々する生活を長年続けた結果なのか、すっかり心身が弱り、明るい未来など見えるわけもなく、ついつい過去のことに気持ちが向かう。「何でこんなことに?」というわけである。
その一つとして、「何で大学なんかに進んだのか?」。こんな疑問を自らに向けるのは「変」かもしれない。そう、僕は境遇が皆さんとは少々、異なるから、「変」に見えるに違いない。僕は大阪で生まれ育ち、長じて後もその圏内で生きてきたが、国籍は韓国でいわゆる「在日朝鮮人二世」。僕がまだ若い頃にには、「在日」がいかに良い?大学を出たからと言って、「まとも」な企業に就職する道なんかほぼ閉ざされていたのに、「何で大学なんかに?」
とは言っても、たいした理由などなかった。通っていた高校ではほぼ例外なく大学に進むように見えていたから、僕もまた、というわけである。「みんな」と大きく条件が異なるのに、「みんな」と同じように。あるいは、「みんな」と違うからこそ、「みんな」と同じようになりたい。或いは、せめてそんな「振り」をしたい。
ではその大学で何をして、大学卒業後には何をしようと思っていたのか?
僕の父は小さな町工場を営んでいたから、その後継をと、いつの頃からか決まっていた。少なくとも自分ではそのように思いこんでいた。だから、僕にとっての大学は、その後に待ち受けている厳しい民族差別に直面するまでの猶予期間、そんな気持ちだった。でもだから逆に、就職、出世ばかり考えている「みんな」と違って、純粋に学問をなどと気取ったりもしたが、そんなものはコンプレックスの裏返しの見栄にすぎなかった。それでも僕はひそかに、ある目標を持っていた。せめてその猶予期間に、幼いころから身に沁みついた民族的コンプレックスを転倒することができやしまいかと。
そうした観点からすれば、大学入試は僕にとって大きな意味を持っていた。「みんな」に遜色ない、或いはそれ以上の結果を出すことで、能力的には「みんな」に劣らないことを、誰よりも自分に証明する機会なのである。だから、入学試験に合格さえすれば、それで目的は果たされた!。勉強も卒業もほとんど意味がなかった。
だから僕は大学時代、遊びと、在日韓国人のサークル活動と、さらにその延長上での在日の民族運動にかまけて勉強などそっちのけ。それに加えて、家業もあった。僕は小学生の頃から、我が家では大事な労働力だったし、大学時代は、未来の跡取り息子の準備期間に他ならず、早朝にトラックで取引先に納品して帰ってくると、あわてて乗用車で大学に向かう毎日だった。とりわけ、在日の学生の反体制運動まがいで忙しく、あえなく留年してからは、家業に専念していた。
その頃の楽しみと言えば、「猶予期間」にすっかり身についた小説を読むことで現実を忘れること。但し、これは終日の肉体労働の後では、すぐに瞼が重くなる。もう一つは、土曜日の夕方に疲れ切った心身を引きづって、大阪梅田の繁華街に出かけること。地下街の階段に腰を下ろして、行き交う人たちを眺めて、世の中には幸せそうで、美しい人たちがたくさんいるものだと、今さらのように思ってため息をつき、その後には、お初天神の隅の小さな居酒屋で、ビールを飲んで一息つくくらいのことだった。前途に見えていたのは、町工場のおやじとしてのささやかな暮らしだけだった。
そんな僕なのに、ひょんなことから卒業することになった。日頃から、何故かしら不思議なほどに劣等生の僕に親切にしてくださっていた大学の女性職員がいた。その方から、コウバに電話がかかってきた。「玄君、授業料を滞納しているやないの。なんとか支払って、きちんと卒業しやな。するんやで!」との優しい勧め、もしくは励ましに、うろたえてまともに応答できない僕を傍から見ていた父が、僕に事情を問いただした。そこで、僕が素直に事情を説明すると、「できるんやったら、卒業くらいしといても誰にも迷惑にはならんし、お前の損にもなれへんやろ」と、僕が滞納していた1年間の授業料12000円を出してくれると言うのである。
しかし、今さらなどと躊躇い、迷った挙句、数日後になってやっと僕は重い腰を起こして、学校に向かった。主任教授に会って、「今からでも卒業論文を書いてよろしいでしょうか?」とお伺いを立てると、学界では有名な学者らしいが、一学年にたった数名の仏文科の学生の名前と顔が一致しないといったように、学生に対するシンパシーの欠片も見られないその教授様は、「お好きなように」とおっしゃった。その言葉を受けて、僕は慌てて我ながらお粗末極まりない卒業論文をでっちあげて、「晴れて」卒業することになった。
今から振り返ってみると、僕の人生、いつでも主体性を欠き、偶然に身を任してきたものだと心底、あきれるばかりなのだが、それを今さら後悔しても仕方ない。そんな自分でも、せめて自分くらいは愛おしんでやらないと。
こんな誰の役にも立ちそうにないばかりか、前途ある学生の皆さんの関心など引くわけもない昔話を、「なんでやねん?!」シリーズと銘打って書き継ごうと思っている。笑ってやってください。意見、感想をぶつけたいという奇特な方がいらっしゃれば、遠慮なく以下のアドレスにメールをチョンマゲ!
sunyoonhyun@yahoo.co.jp
ムシュー玄の人生小劇場2
前回の「何で大学なんかに?」に続いて、「何で仏文科なんかに?」などと、またしても、初老を迎えつつあるおっさんの昔話。
幼い頃から人生に対する諦観を強いられていた「在日二世」の僕でも、やはりまだ若いから、何かと出口を探している。悟ってなどいるはずがない。当時の「在日」一般にも底辺から這い上がる動力としての幻想がいろいろとあった。技術は国境を越えるかもしれないと、「在日」は一般の日本人よりもはるかに工学部系志望の率が高かった。ところが、日本の企業では技術は国籍を越えないという現実をとことん思い知らされて、その夢は急速にしぼんだ。そしてその後釜として、自営が可能な技術というわけで、医歯薬系志望の大波が起こった。そんな在日の大勢に漏れず、僕の兄と弟は大変な苦労をして医師に、妹は薬剤師、そしてこの僕も、高校2年の終わりまでは理科系志望のクラスにいた。なのに、3年に進級するにあたって、文科系志望のクラスに急きょ、変更する羽目になった。
何故そんなことになったかと言えば、先ずは相反する2種類の教師集団の正反対の影響が作用したようである。
高校2年生時の担任の教師が「赤フン」だった。戦中は典型的な皇国少年で陸軍幼年学校に通っていたのだが、その途中で敗戦を迎えた。そしてそれを契機に、左翼へと大変身。それと同時に、アジア侵略の責任を考えるために北大に入って、中国文学・哲学を学んだ。師事したのは、戦後文学の旗手の一人であると同時に、中国文学者として名高かった武田泰淳だったらしい。その一方で、水泳部の名物顧問で、赤銅色の肉体に赤い褌姿で、学生たちを厳しく指導する姿がなんとも異様な輝きを発していた。
但し、赤フンの僕らへの影響力は、いわゆる文武両道といったレベルではなく、当時流行していた「造反」的言動によるものだった。「お前たちは何故、大学へ行くのか?」と折あらば受験教育に対する疑惑を僕ら受験生予備軍に吹き込み、「授業は自分で選ぶべきものだ」と授業のサボタージュの勧めらしきものまで。それを真に受けた「うぶ」な僕などは、実際に授業をさぼっては野球部の汗臭く乱雑で狭い部室で「エロ本」を読んだり昼寝を貪ったりする癖がつくほどだった。ところが、そのアジテーターである赤フン自身の授業をサボっていると、クラスメートが赤フンの命を受けて僕を迎えに来て、僕はすごすごと教室に戻る羽目になった。そんな時には、教師なる存在の宿命的な二枚舌に呆れもしたが、そんなことを恥ずかしげもなく敢行するところがまた赤フンらしいと感心するのだから、人に対する好悪というものは理屈とは関係ないものらしい。
僕が通っていた高校は伝統的な進学校だったから、外からはがり勉の巣窟のように思われていたようだが、実際は他の高校と比べれば際立って、規則なども緩やかで自主性が尊重され、それなりに自由な雰囲気だった。例えば、春夏の遠足や修学旅行などもクラス単位で討論して行き先を決めることが許されていたし、様々なイベントの後では、二次会というわけで、時には先生も交えて繁華街に繰り出した。定番は、当時、学生や若いサラリーマン男女の憩いの場であった歌声喫茶。そこに行くと同じ高校の生徒たちが若い青年男女に交じって、アコーディオンを抱えた司会兼歌手の先導で、肩を組んでロシア民謡やフォークソングの合唱といった具合だった。
とは言え、やはり有数の進学校だから、小中学校では優等生でもそこに入った途端に、普通の生徒、しかも、油断するとすぐにおちこぼれの危機に陥りかねない。だからのほほんとしているようでも、実はそれなりの重圧を引きづっている。
そんな状況での赤フンのアジテーションは、優等生にとっては一時のオアシスであり、おちこぼれ(或いはその予備軍)にとっては、「主体的おちこぼれ」の理論的支柱を提供してくれる。一人前の社会批判で自己合理化に勤しみ、時には酔いしれる。
しかも、赤フンは一学期の中間試験の直後には僕をわざわざ呼び出して、「この程度の成績なら十分だ、あとは野球に本気で取り組めばいい」などと煽ててくれて、僕はすっかりその気になってしまった。その結果、右肩下がりの成績に慌てふためくのはずっと先の話。
赤フンだけではなかった。赤フンとは政治的信条に加えて、教師の役割に関する認識が正反対、つまりは受験至上主義の教師たちにとっては、赤フンの影響下にあることが一目瞭然の「だらしない」僕などは、嫌われる必要十分な条件を備えていた。
二年の物理の授業中のことだった。板書された図をノートに書き写すように指示されて、眼鏡がなくてあまりよく見えないながらも、自分なりに書き写していた。するとクラスを巡回していたカマキリ(僕がつけたニックネーム)が僕に対して大声を張り上げた。「お前は一体何をデタラメな!」と。僕は座り、カマキリは立っているから、その罵声は真上から襲い掛かって来る。こわごわ見上げると、カマキリの顔が怒りで青ざめ、歪んでいる。僕は怯えて、とっさに「眼鏡が割れて」と応答したから、怒りの炎に油を注いだようなものだった。「それならなぜ、予めその事情を言って、前の席に移動しないんだ!卑怯な弁解はするな!お前のような生徒がいるから・・・」その口から次々に飛び出てくる唾を顔にまともに受ける羽目になった。
その頃、とみに近視が進み、必需品になっていた眼鏡を前日の野球の練習の際に、不注意から割ってしまって、新しい眼鏡を注文中だったので、弁解などではなかった。「理不尽なヒステリーカマキリめ、お前の授業なんて金輪際、受けてやるもんか!」などと心中で弱犬の遠吠えもどきを連発しながら、堪えたのだった。
もう一人、体は大きいのに、いやに気の弱そうな顔つきで、べとつくような物言いをする化学の「白ブタ」がいた。あたりさわりのない人生を目標とし、それを実践しているという意味では、ある種の教師の典型。そんな白ブタにとって、授業をサボったり、遅刻を繰り返す僕、さらにはそれが周囲に、とりわけ同じクラスの運動部仲間にも伝染するのは目障りこの上ない。ついには業を煮やして、「玄君、頼むから3年になったら僕の授業を取らないでくれ」と、冗談めかしながらも実は本気ということを、そのネッチリした目つきで僕に示しながら、哀願してくる始末。
僕らの高校では、概ね全科目が同じ教師集団の持ちあがり体制になっていたから、理科系志望のクラスに留まる限り、3年になっても「奴ら」の授業を受けることになる。しかし、そうはいかなくなったから、僕は文科系志望のクラスに移らざるをえなかったのである。
でも、本当に「仕方なく」だったのかどうか。現に志望変更に際して、僕は一応の理屈を編み出していたからである。「経済学部で商売の基礎を学んで、町工場の経営に活かすんだ」などと、大学の経済学の勉強があたかも家内コウバの経営に役立ちでもするかのような幼稚な理屈。つまるところ、先ずは理科系、その次には文科系でも実学系といったように、在日朝鮮人が強いられた「小さな世界」から日本人が織り成す「大きな世界」への脱出の未練が残っていたわけである。
ところで、当時は大学紛争の真っただ中。僕が受験する年度には東大の入試が史上初めて中止となり、その余波で受験戦線にも大混乱が生じた。もっとも、そんなことなど志望学部の選択に関係があるはずもないのだが、何故かしら僕は3年の12月頃に、急きょ、経済学部から文学部に志望を変えた。教師になる以外には就職に何の役にも立たない文学部、その中でもとりわけ「無用」な仏文科が志望先として競りあがっていたのである。
社会的に何の役にも立たないもの、それが当時の一部の若者を掴んだ流行の「思想」であり、赤フン体験ともあいまって、僕はそれに大きく影響されたわけである。
実はそれには大きな伏線があった。高校3年の夏、地方大会の3回戦であえなく敗退し、遅ればせながら受験勉強をと思った矢先に、ひょんなことから僕は野球選手として初めての「祖国訪問」を果たした。韓国に1カ月ほど滞在して、そこで「日本でも異邦人、<祖国>でも異邦人、僕はいったい何者なのか?」という問題に直面していた。それが手に負えない体験だったからこそ、僕は受験勉強という大義名分でその経験を圧し殺そうと努めていたのに、受験戦線の混乱という状況の力に押されて、それが一挙に再浮上したわけである。
翻って考えてみると、僕は幼い頃から、自分が「在日であることの謎」を解明しようと懸命だった。我が家を訪れる朝鮮人のおっちゃん、おばちゃんと両親の四方山話の席に、何気なく坐って聞き耳を立てたり、両親や僕たち「在日」に対する周囲の日本人の眼差しに人一倍、敏感だった。また伝記の類を尋常ならない関心を持って読みまくり、「不幸な子供」がいかにしてその不幸を糧に世界を切り開いていくかといった成功物語に自らを重ね合わせて、未来への不安を宥めていた。そればかりか、小学校6年の終わりごろに小遣い稼ぎで新聞配達をしていた頃には、配達が終わると、残った新聞を隅々まで読むなど、実に「ませた」子供だった。通信簿でも教師たちの僕に対するコメントはたいていが「子供らしさがない」だった。
もっとも、そんな「おませ」は小学校までのこと。その後は勉強とスポーツの両立などという標語に乗せられて、しかも生意気が目立ったせいもあって、上級生のワルたちから呼び出しを食らって殴られたりするうちに、それに対抗すべく自らもワルを気取ったり、不良もどきの実践に励んだりと、読書とはすっかり無縁になっていた。
それなのに、高校3年の、それも終わりごろになって、「在日という謎」の探求、そしてそれと手を携えるかのように文学への憧れが蘇ったのに、意外なことに入試には一発合格したせいで、何一つ突き詰めて考えることなく、大学生活になだれ込んでしまった。
といったわけで、僕の人生は阿弥陀くじのようなもの。いろんな因果が絡み合い、横棒が一本でも付け加わったり、あるいはその反対に一本削除されたりすれば、結果はすっかり変わっていたにちがいない。
ムシュー玄の人生小劇場3
大学などきっぱり棄てて家業を継ごうと決めていた僕なのだが、ひょんなことから卒業できることになると、心境の変化が生じた。朝早くから夜遅くまで機械の奴隷となる単調な肉体労働、時にはそれから解放されても、お得意先への配達とその度に苦情の拝聴というわけで、「まだ若い人生を、こんなことで・・・」とついつい、ため息が出る。そんなところに、思わぬ誘惑が忍び込んできて、くすぶっていた「牢獄からの脱出願望」が顔を覗かせる。
僕ら「在日」は当時、「ないものづくし」だった。そのないものの一つが、育英資金の受給資格。しかし、それを埋め合わせるように、在日向けの育英団体があって、僕は奨学金を受け取りにその事務所に足を運ぶたびに、在日の学生団体の先輩でもある職員の方に、昼食をご馳走してもらったり、夕刻なら飲みに連れて行ってもらうなど、ずいぶんと可愛がってもらっていた。
卒業を目前に控えて久しぶりにそこへ赴いたところ、たまたま居合わせた所長が、「卒業後はどうするんだ?」と問いかけてきた。僕は「家業を継ぐことになっているのですが・・・もしかして、新聞や出版社などの業界で数年だけでも働けたらという密かな夢もないわけではなくて」と思わぬことを口にして、自分でもびっくり。すると所長は、「それなら、ちょうどいい話がある。在日系の新聞社なんだが、今からでも行ってみなさい」とおっしゃった。
そんな親切を拒むわけにはいかず、生涯にわたって縁がない職場見物くらいの軽い気持ちで、その新聞社に行ってみた。すると、お偉方らしい方がよほどの暇だったのか、わざわざ僕の応対に出てくれて、「ついでだから、入社試験を受けなさい」と言う。僕にはそんなつもりなど全くなかったのに、成り行きに乗せられて、その試験を受ける羽目になった。その試験、我ながらひどい出来で、その情けなさも含めた一連の予想外の展開を「すべて酒で流してしまおう」と、友人たちに連絡を取り、その日に受け取ったばかりの数か月分の奨学金を資金に痛飲した。何ともひどい話なのだが、ともかく僕としては、その日の茶番はそれで終わったつもりだった。
ところが、その数日後、さらに意外なことになった。母の眼の手術に付き添い、終日の病院での缶詰状態からやっと解放されて帰宅したところ、父が見るからに強張った顔つきで僕を迎えた。「おまえはいったい、どういうつもりや。新聞社の副社長いう人がやってきて、是非ともお前に入社してもらいたいから、許してほしい、言うてた」。僕はその言葉に驚いて、何一つ答えることができなかった。すると父は語気を強めた。「おまえはほんとにそんな会社に入りたいんか。他にしたいことはないんか。もしそうやったら、親父はまだ若いから、ほんとにしたいことをしたらええ」とさらに意外な話。
そもそも、その新聞社に入るには、大きなハードルが立ちはだかっていた。僕は「在日」の学生運動のせいで、4年生の頃に在日の韓国系最大の団体から除名処分を受けていた。その団体は自主団体を謡っているが実質的に韓国政府の出先機関的な役割も果たしていたから、その処分は国籍剥奪に等しい。しかも、連坐制という封建的な制度がいまだに生きていたその組織そして国家だったから、両親もまた旅券を剥奪されるなどという理不尽なことにもなった。
その頃には故郷である済州訪問を最大の楽しみにしていた父にとって、それはとんでもないことで、父は激高し、僕は物心ついて初めて、そして生涯で一度だけ、父に一発見舞われることに。母はそんな父と僕の間に挟まれて右往左往。
父の言うように「転向声明書」のような謝罪文を書いて団体に提出すれば、善処の可能性もなくはなく、そのような脅迫や督促や善意の助言などがあった。とりわけ、僕が幼い頃から知っていた父の知人、友人たちの父や僕の家族のことを心配しての助言にまつわる情が僕にはきつかった。
「思想は大事にしたらええ。でも外見だけでもごまかしたら、お父さんもお母さんも助かるし、あんたの将来にも禍根を残さずに済むんやから・・・」
意地を張って親に迷惑をかける権利や資格が僕にあるのか、そんな大層な思想などといったものを自分は持っているのか?と自問してみたところ、答えは「ない」だった。しかし、それでもなお僕はなけなしの意地を通した。それは僕の青春の形見のようなものだった。その分、父には申し訳なかった。だからこそ、今後は世間の片隅で静かに暮らす、つまり、幼い頃から思っていたように、そして父や母の期待通りに家業を継ぐことにしたのだった。僕なりの責任を取るやり方だったが、まるで自分内部における取引みたいなものだった。
他方、父の方でも後ろめたいことがあったのだろう。父も若い頃は在日の民族運動、それも当時の主流だった左翼系のシンパだったから、「正義」に対する思い入れの名残があったに違いない。父は僕に手を下ろしたとき、眼を赤くして、目尻を濡らしていたのである。
そんな前歴がある僕が、韓国への往来が必須の在日系の企業である新聞社に就職しようとするならば、またしても旅券に絡んだ「転向」云々の話がぶり返されるに違いなかった。ところが、そんなことを繰り返すつもりのない僕にとって、そんな就職は端からあり得なかったのである。僕は奨学会の所長と新聞社の副社長に、入社の誘いに対する感謝と、断りのお詫びの電話を入れた。それでその話は終わった。
ところが、である。その話をきっかけに外の広い世界に対する欲望が次第に膨らみだした。何よりも、大学生活でやり残したことが気になった。熱に浮かされるようにして多種多様な書物を乱読したが、専門であるはずの仏語、仏文学の勉強など、まともにしたことはなく、それが情けないという気持ちが高じてきた。そこで、「大学院に進みたいので、一年だけ、猶予をください。そしてもし合格したら、せめて2年間の修士課程だけでも通わせてください」と父に申し出て、父はじつにすんなりと受け入れてくれた。父も本当は家業よりも、自分ができなかった学問の道を息子に進んで欲しかったのかもしれない。それに家業に関しては、父はまだ若いつもりだったし、僕の下にはまだ息子が二人いたので、楽観していたのだろう。
そして一年、僕なりに勉強に努めたが、既に酒の習慣が身についてしまっていた僕に、まともな勉強ができたのかどうか、疑わしいし、もっぱら独学による勉強の偏狭性というものが明らかだった。
しかし、ともかく試験には合格し、研究者予備軍の世界に足を踏み入れたのである。しかも、僕には既に生涯を共にしたいと思っていた女性がいて、そろそろ潮時かなと思ってもいた。僕が家業の町工場の親父になるのをためらったのには、そんなうだつの上がらない生涯を運命づけられた僕と、彼女との結婚生活が可能かという懸念が強かった。家内工業は夫婦を含めた家族全員が埃と汗とにまみれて、昼夜を問わず長時間にわたって、しかも、コウバを中心に生活を営むことを余儀なくされる。そんな生活に彼女を引き入れる自信がなかった。金はなくてもせめて文化的、知的な生活でないと持たないのではと、腰を引きながらも僕なりの上昇志向には執拗なものがあった。
そんなわけで、大学院入学が決まると、今だと、決心した。両親に彼女のことを伝えた。兄をさておいて次男の僕が先に結婚するなんて、韓国の儒教精神に悖るし、僕と彼女とは国籍は同じ韓国でも、その出身地方が異なっているので、地方主義、対立を昔のままに抱え持っていた一世にとっては大問題といったように、難問山積だったが、両親の説得は割と感嘆だった。両親にしてみれば、「こいつはこんなやつ、反対しても効果は望めない」と諦めたのかもしれないが、幼い頃からいつだって、両親は僕らをすごく自由に育ててきたので、今になって何を言っても、それは自らの教育方針の誤りを自認することになったに違いない。そんなわけで、話はとんとん拍子に進み、程なくしてゴールインとなった。
それ以来、当時まだ学部の4年生だった妻と新米の大学院生である僕は二人してのアルバイトまみれの新婚生活を始めた。波風の種は尽きなかったが、つつましい生活にはそれなりの充実感があった。そしてその内に、周囲の空気が感染したのか、研究生活で生涯を過ごしたいと思うようになった。最初の動機や予定とは大きく矛盾しているのに、そんなことに気をかける余裕などなかった。ともかく、修士論文を書き上げて博士課程の試験に合格することが焦眉の課題となっていた。そして無事に博士課程に進学し、子どもが生まれ、妻も大学院に通い始めた。その頃には、父も既に、僕に家業を継がせる気持ちなどすっかり捨てていた。まだ下に弟がいたし・・・
そんなわけだから万々歳と言いたいところだけど、実はその先が問題だった。僕にはそもそも研究というものが何のことか、全く分かっていなかった。それどころか、僕が抱いていた文学観の幼稚さの問題もあった。その結果、考え出した研究テーマは能力をはるかに越えてまとまるわけもない。しかも、方法論もない。だから当然、まともな研究業績など上げられるわけもないままに、もっぱらお勉強もどきに精を出す。
そのうちに、大学のフランス語の非常勤講師の口が舞い込んできて、それは他のアルバイトと比べればはるかに実入りがよいし、外見も悪くはないから、それに馴染むようになる。但し、それで生活するには、数をこなさねばならず、ついつい小金を求めて駆けずり回るようになる。研究などできるわけもない。無事に研究職に就いた同輩、後輩たちからは置いてけぼりをくらい、焦る。職を得るには、業績ばかりか、恩師、先輩その他、学界の皆さんにも気を遣わねばならないのだが、僕は生来、生意気を衒い、それを粋がっているような人間だから、正論を盾にした屁理屈が口をついて出だしたら、誰が相手でもスットップすることがない。当然、悶着の種には事欠かない。こうしてどんづまりとなった。
やがて、「研究」など身の丈合わないものは脱ぎ捨てて、我が道を行くことに決めざるを得なくなった。何よりも生きるコト、妻や二人の娘と共に生活を楽しむこと、在日二世として日本の地域で、人々と共に生きること、大学で嫌なフランス語の授業を受けてくれている学生さんたちと少しでも楽しい時間を過ごすこと、それが当座の目標となった。その一方で、精神的安定のために何かをするとすれば、自分の幼稚な文学観の検証、そしてそれは、僕にとっての謎であり続ける在日について改めて考えることでもあるのだが、それを継続するためにともかく書きつづけることくらいが関の山。それを生涯のテーマと思い定めるようになった。
それから既に15年、駄文を懸命に書き散らかしているが、納得できそうな出来栄えのものは多くない。でもそれこそが自分の生涯だと気持ちが定まったと思ったら、もう60歳。残された時間を懸命に生きるしかない。
それにしても、両親を筆頭に僕の周囲の皆さんのやさしさに包まれて、我儘な僕は、如何にも腰の定まらない人生を歩んできたものだと、今さらながらに思う。それに報いるためにも気持ちを新たに前進、或いは、後退に励むとするか。
前口上1
先だってアップしたばかりの「トモダチのトモダチはトモダチ」のシリーズで、済州での偶然のガイド稼業がはるか昔の高校時代の話と繋がって、含羞のK先生こと川副先生、そしてさらには赤フンその他の高校時代の教師集団のこともほんの少し触れた。しかし、あまりにも端折りすぎて、あの頃の雰囲気が伝わりそうにないから、我ながら大いに不満だった。そこで、その高校時代を中心とした「わが青春」について書いた「ムシュー玄の人生小劇場―(別名「なんでやねん?」シリーズ)を補足としてアップすることにした。
前口上2
今から8年ほど前に、1,2年生の時にフランス語の初級と中級を教えていたことのある学生数人と一緒に酒を飲んだ。その時、「もうすぐ卒業なのでなにか記念になることをしたい。協力してくれませんか」と相談された。そして、彼ら彼女らは、手作りのフリーペーパーを発行することになった。多くの学生たちにインタビューするなどして原稿作成、写真やレイアウト、印刷・製本などもすべて手作りで、3回にわたって発行し、手分けして配布したり、大学の各所にも置いてもらったらしい。
そのフリーペーパーに、僕も相談に乗ったから何か書いて手伝うのが筋、そんな学生たちの言い分に、なるほどと思って楽しく書いた。タイトルは学生が決めてくれた。ただ、その実物では、以下の文章は毎回、メンバーの一人が撮ってくれた僕の大量のカラー写真で縁取られていて、恥ずかしくて堪らなかった記憶がある。
ムシュー玄の人生小劇場1
僕は来年、晴れて還暦を迎えるおっさんである。そのうえ、非常勤講師として諸大学を駆けずりまわって小金をかき集めるのに汲々する生活を長年続けた結果なのか、すっかり心身が弱り、明るい未来など見えるわけもなく、ついつい過去のことに気持ちが向かう。「何でこんなことに?」というわけである。
その一つとして、「何で大学なんかに進んだのか?」。こんな疑問を自らに向けるのは「変」かもしれない。そう、僕は境遇が皆さんとは少々、異なるから、「変」に見えるに違いない。僕は大阪で生まれ育ち、長じて後もその圏内で生きてきたが、国籍は韓国でいわゆる「在日朝鮮人二世」。僕がまだ若い頃にには、「在日」がいかに良い?大学を出たからと言って、「まとも」な企業に就職する道なんかほぼ閉ざされていたのに、「何で大学なんかに?」
とは言っても、たいした理由などなかった。通っていた高校ではほぼ例外なく大学に進むように見えていたから、僕もまた、というわけである。「みんな」と大きく条件が異なるのに、「みんな」と同じように。あるいは、「みんな」と違うからこそ、「みんな」と同じようになりたい。或いは、せめてそんな「振り」をしたい。
ではその大学で何をして、大学卒業後には何をしようと思っていたのか?
僕の父は小さな町工場を営んでいたから、その後継をと、いつの頃からか決まっていた。少なくとも自分ではそのように思いこんでいた。だから、僕にとっての大学は、その後に待ち受けている厳しい民族差別に直面するまでの猶予期間、そんな気持ちだった。でもだから逆に、就職、出世ばかり考えている「みんな」と違って、純粋に学問をなどと気取ったりもしたが、そんなものはコンプレックスの裏返しの見栄にすぎなかった。それでも僕はひそかに、ある目標を持っていた。せめてその猶予期間に、幼いころから身に沁みついた民族的コンプレックスを転倒することができやしまいかと。
そうした観点からすれば、大学入試は僕にとって大きな意味を持っていた。「みんな」に遜色ない、或いはそれ以上の結果を出すことで、能力的には「みんな」に劣らないことを、誰よりも自分に証明する機会なのである。だから、入学試験に合格さえすれば、それで目的は果たされた!。勉強も卒業もほとんど意味がなかった。
だから僕は大学時代、遊びと、在日韓国人のサークル活動と、さらにその延長上での在日の民族運動にかまけて勉強などそっちのけ。それに加えて、家業もあった。僕は小学生の頃から、我が家では大事な労働力だったし、大学時代は、未来の跡取り息子の準備期間に他ならず、早朝にトラックで取引先に納品して帰ってくると、あわてて乗用車で大学に向かう毎日だった。とりわけ、在日の学生の反体制運動まがいで忙しく、あえなく留年してからは、家業に専念していた。
その頃の楽しみと言えば、「猶予期間」にすっかり身についた小説を読むことで現実を忘れること。但し、これは終日の肉体労働の後では、すぐに瞼が重くなる。もう一つは、土曜日の夕方に疲れ切った心身を引きづって、大阪梅田の繁華街に出かけること。地下街の階段に腰を下ろして、行き交う人たちを眺めて、世の中には幸せそうで、美しい人たちがたくさんいるものだと、今さらのように思ってため息をつき、その後には、お初天神の隅の小さな居酒屋で、ビールを飲んで一息つくくらいのことだった。前途に見えていたのは、町工場のおやじとしてのささやかな暮らしだけだった。
そんな僕なのに、ひょんなことから卒業することになった。日頃から、何故かしら不思議なほどに劣等生の僕に親切にしてくださっていた大学の女性職員がいた。その方から、コウバに電話がかかってきた。「玄君、授業料を滞納しているやないの。なんとか支払って、きちんと卒業しやな。するんやで!」との優しい勧め、もしくは励ましに、うろたえてまともに応答できない僕を傍から見ていた父が、僕に事情を問いただした。そこで、僕が素直に事情を説明すると、「できるんやったら、卒業くらいしといても誰にも迷惑にはならんし、お前の損にもなれへんやろ」と、僕が滞納していた1年間の授業料12000円を出してくれると言うのである。
しかし、今さらなどと躊躇い、迷った挙句、数日後になってやっと僕は重い腰を起こして、学校に向かった。主任教授に会って、「今からでも卒業論文を書いてよろしいでしょうか?」とお伺いを立てると、学界では有名な学者らしいが、一学年にたった数名の仏文科の学生の名前と顔が一致しないといったように、学生に対するシンパシーの欠片も見られないその教授様は、「お好きなように」とおっしゃった。その言葉を受けて、僕は慌てて我ながらお粗末極まりない卒業論文をでっちあげて、「晴れて」卒業することになった。
今から振り返ってみると、僕の人生、いつでも主体性を欠き、偶然に身を任してきたものだと心底、あきれるばかりなのだが、それを今さら後悔しても仕方ない。そんな自分でも、せめて自分くらいは愛おしんでやらないと。
こんな誰の役にも立ちそうにないばかりか、前途ある学生の皆さんの関心など引くわけもない昔話を、「なんでやねん?!」シリーズと銘打って書き継ごうと思っている。笑ってやってください。意見、感想をぶつけたいという奇特な方がいらっしゃれば、遠慮なく以下のアドレスにメールをチョンマゲ!
sunyoonhyun@yahoo.co.jp
ムシュー玄の人生小劇場2
前回の「何で大学なんかに?」に続いて、「何で仏文科なんかに?」などと、またしても、初老を迎えつつあるおっさんの昔話。
幼い頃から人生に対する諦観を強いられていた「在日二世」の僕でも、やはりまだ若いから、何かと出口を探している。悟ってなどいるはずがない。当時の「在日」一般にも底辺から這い上がる動力としての幻想がいろいろとあった。技術は国境を越えるかもしれないと、「在日」は一般の日本人よりもはるかに工学部系志望の率が高かった。ところが、日本の企業では技術は国籍を越えないという現実をとことん思い知らされて、その夢は急速にしぼんだ。そしてその後釜として、自営が可能な技術というわけで、医歯薬系志望の大波が起こった。そんな在日の大勢に漏れず、僕の兄と弟は大変な苦労をして医師に、妹は薬剤師、そしてこの僕も、高校2年の終わりまでは理科系志望のクラスにいた。なのに、3年に進級するにあたって、文科系志望のクラスに急きょ、変更する羽目になった。
何故そんなことになったかと言えば、先ずは相反する2種類の教師集団の正反対の影響が作用したようである。
高校2年生時の担任の教師が「赤フン」だった。戦中は典型的な皇国少年で陸軍幼年学校に通っていたのだが、その途中で敗戦を迎えた。そしてそれを契機に、左翼へと大変身。それと同時に、アジア侵略の責任を考えるために北大に入って、中国文学・哲学を学んだ。師事したのは、戦後文学の旗手の一人であると同時に、中国文学者として名高かった武田泰淳だったらしい。その一方で、水泳部の名物顧問で、赤銅色の肉体に赤い褌姿で、学生たちを厳しく指導する姿がなんとも異様な輝きを発していた。
但し、赤フンの僕らへの影響力は、いわゆる文武両道といったレベルではなく、当時流行していた「造反」的言動によるものだった。「お前たちは何故、大学へ行くのか?」と折あらば受験教育に対する疑惑を僕ら受験生予備軍に吹き込み、「授業は自分で選ぶべきものだ」と授業のサボタージュの勧めらしきものまで。それを真に受けた「うぶ」な僕などは、実際に授業をさぼっては野球部の汗臭く乱雑で狭い部室で「エロ本」を読んだり昼寝を貪ったりする癖がつくほどだった。ところが、そのアジテーターである赤フン自身の授業をサボっていると、クラスメートが赤フンの命を受けて僕を迎えに来て、僕はすごすごと教室に戻る羽目になった。そんな時には、教師なる存在の宿命的な二枚舌に呆れもしたが、そんなことを恥ずかしげもなく敢行するところがまた赤フンらしいと感心するのだから、人に対する好悪というものは理屈とは関係ないものらしい。
僕が通っていた高校は伝統的な進学校だったから、外からはがり勉の巣窟のように思われていたようだが、実際は他の高校と比べれば際立って、規則なども緩やかで自主性が尊重され、それなりに自由な雰囲気だった。例えば、春夏の遠足や修学旅行などもクラス単位で討論して行き先を決めることが許されていたし、様々なイベントの後では、二次会というわけで、時には先生も交えて繁華街に繰り出した。定番は、当時、学生や若いサラリーマン男女の憩いの場であった歌声喫茶。そこに行くと同じ高校の生徒たちが若い青年男女に交じって、アコーディオンを抱えた司会兼歌手の先導で、肩を組んでロシア民謡やフォークソングの合唱といった具合だった。
とは言え、やはり有数の進学校だから、小中学校では優等生でもそこに入った途端に、普通の生徒、しかも、油断するとすぐにおちこぼれの危機に陥りかねない。だからのほほんとしているようでも、実はそれなりの重圧を引きづっている。
そんな状況での赤フンのアジテーションは、優等生にとっては一時のオアシスであり、おちこぼれ(或いはその予備軍)にとっては、「主体的おちこぼれ」の理論的支柱を提供してくれる。一人前の社会批判で自己合理化に勤しみ、時には酔いしれる。
しかも、赤フンは一学期の中間試験の直後には僕をわざわざ呼び出して、「この程度の成績なら十分だ、あとは野球に本気で取り組めばいい」などと煽ててくれて、僕はすっかりその気になってしまった。その結果、右肩下がりの成績に慌てふためくのはずっと先の話。
赤フンだけではなかった。赤フンとは政治的信条に加えて、教師の役割に関する認識が正反対、つまりは受験至上主義の教師たちにとっては、赤フンの影響下にあることが一目瞭然の「だらしない」僕などは、嫌われる必要十分な条件を備えていた。
二年の物理の授業中のことだった。板書された図をノートに書き写すように指示されて、眼鏡がなくてあまりよく見えないながらも、自分なりに書き写していた。するとクラスを巡回していたカマキリ(僕がつけたニックネーム)が僕に対して大声を張り上げた。「お前は一体何をデタラメな!」と。僕は座り、カマキリは立っているから、その罵声は真上から襲い掛かって来る。こわごわ見上げると、カマキリの顔が怒りで青ざめ、歪んでいる。僕は怯えて、とっさに「眼鏡が割れて」と応答したから、怒りの炎に油を注いだようなものだった。「それならなぜ、予めその事情を言って、前の席に移動しないんだ!卑怯な弁解はするな!お前のような生徒がいるから・・・」その口から次々に飛び出てくる唾を顔にまともに受ける羽目になった。
その頃、とみに近視が進み、必需品になっていた眼鏡を前日の野球の練習の際に、不注意から割ってしまって、新しい眼鏡を注文中だったので、弁解などではなかった。「理不尽なヒステリーカマキリめ、お前の授業なんて金輪際、受けてやるもんか!」などと心中で弱犬の遠吠えもどきを連発しながら、堪えたのだった。
もう一人、体は大きいのに、いやに気の弱そうな顔つきで、べとつくような物言いをする化学の「白ブタ」がいた。あたりさわりのない人生を目標とし、それを実践しているという意味では、ある種の教師の典型。そんな白ブタにとって、授業をサボったり、遅刻を繰り返す僕、さらにはそれが周囲に、とりわけ同じクラスの運動部仲間にも伝染するのは目障りこの上ない。ついには業を煮やして、「玄君、頼むから3年になったら僕の授業を取らないでくれ」と、冗談めかしながらも実は本気ということを、そのネッチリした目つきで僕に示しながら、哀願してくる始末。
僕らの高校では、概ね全科目が同じ教師集団の持ちあがり体制になっていたから、理科系志望のクラスに留まる限り、3年になっても「奴ら」の授業を受けることになる。しかし、そうはいかなくなったから、僕は文科系志望のクラスに移らざるをえなかったのである。
でも、本当に「仕方なく」だったのかどうか。現に志望変更に際して、僕は一応の理屈を編み出していたからである。「経済学部で商売の基礎を学んで、町工場の経営に活かすんだ」などと、大学の経済学の勉強があたかも家内コウバの経営に役立ちでもするかのような幼稚な理屈。つまるところ、先ずは理科系、その次には文科系でも実学系といったように、在日朝鮮人が強いられた「小さな世界」から日本人が織り成す「大きな世界」への脱出の未練が残っていたわけである。
ところで、当時は大学紛争の真っただ中。僕が受験する年度には東大の入試が史上初めて中止となり、その余波で受験戦線にも大混乱が生じた。もっとも、そんなことなど志望学部の選択に関係があるはずもないのだが、何故かしら僕は3年の12月頃に、急きょ、経済学部から文学部に志望を変えた。教師になる以外には就職に何の役にも立たない文学部、その中でもとりわけ「無用」な仏文科が志望先として競りあがっていたのである。
社会的に何の役にも立たないもの、それが当時の一部の若者を掴んだ流行の「思想」であり、赤フン体験ともあいまって、僕はそれに大きく影響されたわけである。
実はそれには大きな伏線があった。高校3年の夏、地方大会の3回戦であえなく敗退し、遅ればせながら受験勉強をと思った矢先に、ひょんなことから僕は野球選手として初めての「祖国訪問」を果たした。韓国に1カ月ほど滞在して、そこで「日本でも異邦人、<祖国>でも異邦人、僕はいったい何者なのか?」という問題に直面していた。それが手に負えない体験だったからこそ、僕は受験勉強という大義名分でその経験を圧し殺そうと努めていたのに、受験戦線の混乱という状況の力に押されて、それが一挙に再浮上したわけである。
翻って考えてみると、僕は幼い頃から、自分が「在日であることの謎」を解明しようと懸命だった。我が家を訪れる朝鮮人のおっちゃん、おばちゃんと両親の四方山話の席に、何気なく坐って聞き耳を立てたり、両親や僕たち「在日」に対する周囲の日本人の眼差しに人一倍、敏感だった。また伝記の類を尋常ならない関心を持って読みまくり、「不幸な子供」がいかにしてその不幸を糧に世界を切り開いていくかといった成功物語に自らを重ね合わせて、未来への不安を宥めていた。そればかりか、小学校6年の終わりごろに小遣い稼ぎで新聞配達をしていた頃には、配達が終わると、残った新聞を隅々まで読むなど、実に「ませた」子供だった。通信簿でも教師たちの僕に対するコメントはたいていが「子供らしさがない」だった。
もっとも、そんな「おませ」は小学校までのこと。その後は勉強とスポーツの両立などという標語に乗せられて、しかも生意気が目立ったせいもあって、上級生のワルたちから呼び出しを食らって殴られたりするうちに、それに対抗すべく自らもワルを気取ったり、不良もどきの実践に励んだりと、読書とはすっかり無縁になっていた。
それなのに、高校3年の、それも終わりごろになって、「在日という謎」の探求、そしてそれと手を携えるかのように文学への憧れが蘇ったのに、意外なことに入試には一発合格したせいで、何一つ突き詰めて考えることなく、大学生活になだれ込んでしまった。
といったわけで、僕の人生は阿弥陀くじのようなもの。いろんな因果が絡み合い、横棒が一本でも付け加わったり、あるいはその反対に一本削除されたりすれば、結果はすっかり変わっていたにちがいない。
ムシュー玄の人生小劇場3
大学などきっぱり棄てて家業を継ごうと決めていた僕なのだが、ひょんなことから卒業できることになると、心境の変化が生じた。朝早くから夜遅くまで機械の奴隷となる単調な肉体労働、時にはそれから解放されても、お得意先への配達とその度に苦情の拝聴というわけで、「まだ若い人生を、こんなことで・・・」とついつい、ため息が出る。そんなところに、思わぬ誘惑が忍び込んできて、くすぶっていた「牢獄からの脱出願望」が顔を覗かせる。
僕ら「在日」は当時、「ないものづくし」だった。そのないものの一つが、育英資金の受給資格。しかし、それを埋め合わせるように、在日向けの育英団体があって、僕は奨学金を受け取りにその事務所に足を運ぶたびに、在日の学生団体の先輩でもある職員の方に、昼食をご馳走してもらったり、夕刻なら飲みに連れて行ってもらうなど、ずいぶんと可愛がってもらっていた。
卒業を目前に控えて久しぶりにそこへ赴いたところ、たまたま居合わせた所長が、「卒業後はどうするんだ?」と問いかけてきた。僕は「家業を継ぐことになっているのですが・・・もしかして、新聞や出版社などの業界で数年だけでも働けたらという密かな夢もないわけではなくて」と思わぬことを口にして、自分でもびっくり。すると所長は、「それなら、ちょうどいい話がある。在日系の新聞社なんだが、今からでも行ってみなさい」とおっしゃった。
そんな親切を拒むわけにはいかず、生涯にわたって縁がない職場見物くらいの軽い気持ちで、その新聞社に行ってみた。すると、お偉方らしい方がよほどの暇だったのか、わざわざ僕の応対に出てくれて、「ついでだから、入社試験を受けなさい」と言う。僕にはそんなつもりなど全くなかったのに、成り行きに乗せられて、その試験を受ける羽目になった。その試験、我ながらひどい出来で、その情けなさも含めた一連の予想外の展開を「すべて酒で流してしまおう」と、友人たちに連絡を取り、その日に受け取ったばかりの数か月分の奨学金を資金に痛飲した。何ともひどい話なのだが、ともかく僕としては、その日の茶番はそれで終わったつもりだった。
ところが、その数日後、さらに意外なことになった。母の眼の手術に付き添い、終日の病院での缶詰状態からやっと解放されて帰宅したところ、父が見るからに強張った顔つきで僕を迎えた。「おまえはいったい、どういうつもりや。新聞社の副社長いう人がやってきて、是非ともお前に入社してもらいたいから、許してほしい、言うてた」。僕はその言葉に驚いて、何一つ答えることができなかった。すると父は語気を強めた。「おまえはほんとにそんな会社に入りたいんか。他にしたいことはないんか。もしそうやったら、親父はまだ若いから、ほんとにしたいことをしたらええ」とさらに意外な話。
そもそも、その新聞社に入るには、大きなハードルが立ちはだかっていた。僕は「在日」の学生運動のせいで、4年生の頃に在日の韓国系最大の団体から除名処分を受けていた。その団体は自主団体を謡っているが実質的に韓国政府の出先機関的な役割も果たしていたから、その処分は国籍剥奪に等しい。しかも、連坐制という封建的な制度がいまだに生きていたその組織そして国家だったから、両親もまた旅券を剥奪されるなどという理不尽なことにもなった。
その頃には故郷である済州訪問を最大の楽しみにしていた父にとって、それはとんでもないことで、父は激高し、僕は物心ついて初めて、そして生涯で一度だけ、父に一発見舞われることに。母はそんな父と僕の間に挟まれて右往左往。
父の言うように「転向声明書」のような謝罪文を書いて団体に提出すれば、善処の可能性もなくはなく、そのような脅迫や督促や善意の助言などがあった。とりわけ、僕が幼い頃から知っていた父の知人、友人たちの父や僕の家族のことを心配しての助言にまつわる情が僕にはきつかった。
「思想は大事にしたらええ。でも外見だけでもごまかしたら、お父さんもお母さんも助かるし、あんたの将来にも禍根を残さずに済むんやから・・・」
意地を張って親に迷惑をかける権利や資格が僕にあるのか、そんな大層な思想などといったものを自分は持っているのか?と自問してみたところ、答えは「ない」だった。しかし、それでもなお僕はなけなしの意地を通した。それは僕の青春の形見のようなものだった。その分、父には申し訳なかった。だからこそ、今後は世間の片隅で静かに暮らす、つまり、幼い頃から思っていたように、そして父や母の期待通りに家業を継ぐことにしたのだった。僕なりの責任を取るやり方だったが、まるで自分内部における取引みたいなものだった。
他方、父の方でも後ろめたいことがあったのだろう。父も若い頃は在日の民族運動、それも当時の主流だった左翼系のシンパだったから、「正義」に対する思い入れの名残があったに違いない。父は僕に手を下ろしたとき、眼を赤くして、目尻を濡らしていたのである。
そんな前歴がある僕が、韓国への往来が必須の在日系の企業である新聞社に就職しようとするならば、またしても旅券に絡んだ「転向」云々の話がぶり返されるに違いなかった。ところが、そんなことを繰り返すつもりのない僕にとって、そんな就職は端からあり得なかったのである。僕は奨学会の所長と新聞社の副社長に、入社の誘いに対する感謝と、断りのお詫びの電話を入れた。それでその話は終わった。
ところが、である。その話をきっかけに外の広い世界に対する欲望が次第に膨らみだした。何よりも、大学生活でやり残したことが気になった。熱に浮かされるようにして多種多様な書物を乱読したが、専門であるはずの仏語、仏文学の勉強など、まともにしたことはなく、それが情けないという気持ちが高じてきた。そこで、「大学院に進みたいので、一年だけ、猶予をください。そしてもし合格したら、せめて2年間の修士課程だけでも通わせてください」と父に申し出て、父はじつにすんなりと受け入れてくれた。父も本当は家業よりも、自分ができなかった学問の道を息子に進んで欲しかったのかもしれない。それに家業に関しては、父はまだ若いつもりだったし、僕の下にはまだ息子が二人いたので、楽観していたのだろう。
そして一年、僕なりに勉強に努めたが、既に酒の習慣が身についてしまっていた僕に、まともな勉強ができたのかどうか、疑わしいし、もっぱら独学による勉強の偏狭性というものが明らかだった。
しかし、ともかく試験には合格し、研究者予備軍の世界に足を踏み入れたのである。しかも、僕には既に生涯を共にしたいと思っていた女性がいて、そろそろ潮時かなと思ってもいた。僕が家業の町工場の親父になるのをためらったのには、そんなうだつの上がらない生涯を運命づけられた僕と、彼女との結婚生活が可能かという懸念が強かった。家内工業は夫婦を含めた家族全員が埃と汗とにまみれて、昼夜を問わず長時間にわたって、しかも、コウバを中心に生活を営むことを余儀なくされる。そんな生活に彼女を引き入れる自信がなかった。金はなくてもせめて文化的、知的な生活でないと持たないのではと、腰を引きながらも僕なりの上昇志向には執拗なものがあった。
そんなわけで、大学院入学が決まると、今だと、決心した。両親に彼女のことを伝えた。兄をさておいて次男の僕が先に結婚するなんて、韓国の儒教精神に悖るし、僕と彼女とは国籍は同じ韓国でも、その出身地方が異なっているので、地方主義、対立を昔のままに抱え持っていた一世にとっては大問題といったように、難問山積だったが、両親の説得は割と感嘆だった。両親にしてみれば、「こいつはこんなやつ、反対しても効果は望めない」と諦めたのかもしれないが、幼い頃からいつだって、両親は僕らをすごく自由に育ててきたので、今になって何を言っても、それは自らの教育方針の誤りを自認することになったに違いない。そんなわけで、話はとんとん拍子に進み、程なくしてゴールインとなった。
それ以来、当時まだ学部の4年生だった妻と新米の大学院生である僕は二人してのアルバイトまみれの新婚生活を始めた。波風の種は尽きなかったが、つつましい生活にはそれなりの充実感があった。そしてその内に、周囲の空気が感染したのか、研究生活で生涯を過ごしたいと思うようになった。最初の動機や予定とは大きく矛盾しているのに、そんなことに気をかける余裕などなかった。ともかく、修士論文を書き上げて博士課程の試験に合格することが焦眉の課題となっていた。そして無事に博士課程に進学し、子どもが生まれ、妻も大学院に通い始めた。その頃には、父も既に、僕に家業を継がせる気持ちなどすっかり捨てていた。まだ下に弟がいたし・・・
そんなわけだから万々歳と言いたいところだけど、実はその先が問題だった。僕にはそもそも研究というものが何のことか、全く分かっていなかった。それどころか、僕が抱いていた文学観の幼稚さの問題もあった。その結果、考え出した研究テーマは能力をはるかに越えてまとまるわけもない。しかも、方法論もない。だから当然、まともな研究業績など上げられるわけもないままに、もっぱらお勉強もどきに精を出す。
そのうちに、大学のフランス語の非常勤講師の口が舞い込んできて、それは他のアルバイトと比べればはるかに実入りがよいし、外見も悪くはないから、それに馴染むようになる。但し、それで生活するには、数をこなさねばならず、ついつい小金を求めて駆けずり回るようになる。研究などできるわけもない。無事に研究職に就いた同輩、後輩たちからは置いてけぼりをくらい、焦る。職を得るには、業績ばかりか、恩師、先輩その他、学界の皆さんにも気を遣わねばならないのだが、僕は生来、生意気を衒い、それを粋がっているような人間だから、正論を盾にした屁理屈が口をついて出だしたら、誰が相手でもスットップすることがない。当然、悶着の種には事欠かない。こうしてどんづまりとなった。
やがて、「研究」など身の丈合わないものは脱ぎ捨てて、我が道を行くことに決めざるを得なくなった。何よりも生きるコト、妻や二人の娘と共に生活を楽しむこと、在日二世として日本の地域で、人々と共に生きること、大学で嫌なフランス語の授業を受けてくれている学生さんたちと少しでも楽しい時間を過ごすこと、それが当座の目標となった。その一方で、精神的安定のために何かをするとすれば、自分の幼稚な文学観の検証、そしてそれは、僕にとっての謎であり続ける在日について改めて考えることでもあるのだが、それを継続するためにともかく書きつづけることくらいが関の山。それを生涯のテーマと思い定めるようになった。
それから既に15年、駄文を懸命に書き散らかしているが、納得できそうな出来栄えのものは多くない。でもそれこそが自分の生涯だと気持ちが定まったと思ったら、もう60歳。残された時間を懸命に生きるしかない。
それにしても、両親を筆頭に僕の周囲の皆さんのやさしさに包まれて、我儘な僕は、如何にも腰の定まらない人生を歩んできたものだと、今さらながらに思う。それに報いるためにも気持ちを新たに前進、或いは、後退に励むとするか。