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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

「トモダチのトモダチはトモダチ」の補足、「ムシュー玄の人生小劇場」

2018-08-20 07:22:04 | 触れ合った人々
「トモダチのトモダチはトモダチ」の補足―ムシュー玄の人生小劇場―或いは、「なんでやねん?」シリーズ)

前口上1
 先だってアップしたばかりの「トモダチのトモダチはトモダチ」のシリーズで、済州での偶然のガイド稼業がはるか昔の高校時代の話と繋がって、含羞のK先生こと川副先生、そしてさらには赤フンその他の高校時代の教師集団のこともほんの少し触れた。しかし、あまりにも端折りすぎて、あの頃の雰囲気が伝わりそうにないから、我ながら大いに不満だった。そこで、その高校時代を中心とした「わが青春」について書いた「ムシュー玄の人生小劇場―(別名「なんでやねん?」シリーズ)を補足としてアップすることにした。

前口上2
 今から8年ほど前に、1,2年生の時にフランス語の初級と中級を教えていたことのある学生数人と一緒に酒を飲んだ。その時、「もうすぐ卒業なのでなにか記念になることをしたい。協力してくれませんか」と相談された。そして、彼ら彼女らは、手作りのフリーペーパーを発行することになった。多くの学生たちにインタビューするなどして原稿作成、写真やレイアウト、印刷・製本などもすべて手作りで、3回にわたって発行し、手分けして配布したり、大学の各所にも置いてもらったらしい。
 そのフリーペーパーに、僕も相談に乗ったから何か書いて手伝うのが筋、そんな学生たちの言い分に、なるほどと思って楽しく書いた。タイトルは学生が決めてくれた。ただ、その実物では、以下の文章は毎回、メンバーの一人が撮ってくれた僕の大量のカラー写真で縁取られていて、恥ずかしくて堪らなかった記憶がある。

ムシュー玄の人生小劇場1

 僕は来年、晴れて還暦を迎えるおっさんである。そのうえ、非常勤講師として諸大学を駆けずりまわって小金をかき集めるのに汲々する生活を長年続けた結果なのか、すっかり心身が弱り、明るい未来など見えるわけもなく、ついつい過去のことに気持ちが向かう。「何でこんなことに?」というわけである。
 その一つとして、「何で大学なんかに進んだのか?」。こんな疑問を自らに向けるのは「変」かもしれない。そう、僕は境遇が皆さんとは少々、異なるから、「変」に見えるに違いない。僕は大阪で生まれ育ち、長じて後もその圏内で生きてきたが、国籍は韓国でいわゆる「在日朝鮮人二世」。僕がまだ若い頃にには、「在日」がいかに良い?大学を出たからと言って、「まとも」な企業に就職する道なんかほぼ閉ざされていたのに、「何で大学なんかに?」

 とは言っても、たいした理由などなかった。通っていた高校ではほぼ例外なく大学に進むように見えていたから、僕もまた、というわけである。「みんな」と大きく条件が異なるのに、「みんな」と同じように。あるいは、「みんな」と違うからこそ、「みんな」と同じようになりたい。或いは、せめてそんな「振り」をしたい。
 ではその大学で何をして、大学卒業後には何をしようと思っていたのか?
僕の父は小さな町工場を営んでいたから、その後継をと、いつの頃からか決まっていた。少なくとも自分ではそのように思いこんでいた。だから、僕にとっての大学は、その後に待ち受けている厳しい民族差別に直面するまでの猶予期間、そんな気持ちだった。でもだから逆に、就職、出世ばかり考えている「みんな」と違って、純粋に学問をなどと気取ったりもしたが、そんなものはコンプレックスの裏返しの見栄にすぎなかった。それでも僕はひそかに、ある目標を持っていた。せめてその猶予期間に、幼いころから身に沁みついた民族的コンプレックスを転倒することができやしまいかと。
 そうした観点からすれば、大学入試は僕にとって大きな意味を持っていた。「みんな」に遜色ない、或いはそれ以上の結果を出すことで、能力的には「みんな」に劣らないことを、誰よりも自分に証明する機会なのである。だから、入学試験に合格さえすれば、それで目的は果たされた!。勉強も卒業もほとんど意味がなかった。

 だから僕は大学時代、遊びと、在日韓国人のサークル活動と、さらにその延長上での在日の民族運動にかまけて勉強などそっちのけ。それに加えて、家業もあった。僕は小学生の頃から、我が家では大事な労働力だったし、大学時代は、未来の跡取り息子の準備期間に他ならず、早朝にトラックで取引先に納品して帰ってくると、あわてて乗用車で大学に向かう毎日だった。とりわけ、在日の学生の反体制運動まがいで忙しく、あえなく留年してからは、家業に専念していた。
 その頃の楽しみと言えば、「猶予期間」にすっかり身についた小説を読むことで現実を忘れること。但し、これは終日の肉体労働の後では、すぐに瞼が重くなる。もう一つは、土曜日の夕方に疲れ切った心身を引きづって、大阪梅田の繁華街に出かけること。地下街の階段に腰を下ろして、行き交う人たちを眺めて、世の中には幸せそうで、美しい人たちがたくさんいるものだと、今さらのように思ってため息をつき、その後には、お初天神の隅の小さな居酒屋で、ビールを飲んで一息つくくらいのことだった。前途に見えていたのは、町工場のおやじとしてのささやかな暮らしだけだった。
 
 そんな僕なのに、ひょんなことから卒業することになった。日頃から、何故かしら不思議なほどに劣等生の僕に親切にしてくださっていた大学の女性職員がいた。その方から、コウバに電話がかかってきた。「玄君、授業料を滞納しているやないの。なんとか支払って、きちんと卒業しやな。するんやで!」との優しい勧め、もしくは励ましに、うろたえてまともに応答できない僕を傍から見ていた父が、僕に事情を問いただした。そこで、僕が素直に事情を説明すると、「できるんやったら、卒業くらいしといても誰にも迷惑にはならんし、お前の損にもなれへんやろ」と、僕が滞納していた1年間の授業料12000円を出してくれると言うのである。
 しかし、今さらなどと躊躇い、迷った挙句、数日後になってやっと僕は重い腰を起こして、学校に向かった。主任教授に会って、「今からでも卒業論文を書いてよろしいでしょうか?」とお伺いを立てると、学界では有名な学者らしいが、一学年にたった数名の仏文科の学生の名前と顔が一致しないといったように、学生に対するシンパシーの欠片も見られないその教授様は、「お好きなように」とおっしゃった。その言葉を受けて、僕は慌てて我ながらお粗末極まりない卒業論文をでっちあげて、「晴れて」卒業することになった。
今から振り返ってみると、僕の人生、いつでも主体性を欠き、偶然に身を任してきたものだと心底、あきれるばかりなのだが、それを今さら後悔しても仕方ない。そんな自分でも、せめて自分くらいは愛おしんでやらないと。

 こんな誰の役にも立ちそうにないばかりか、前途ある学生の皆さんの関心など引くわけもない昔話を、「なんでやねん?!」シリーズと銘打って書き継ごうと思っている。笑ってやってください。意見、感想をぶつけたいという奇特な方がいらっしゃれば、遠慮なく以下のアドレスにメールをチョンマゲ!
sunyoonhyun@yahoo.co.jp

ムシュー玄の人生小劇場2

 前回の「何で大学なんかに?」に続いて、「何で仏文科なんかに?」などと、またしても、初老を迎えつつあるおっさんの昔話。
 
 幼い頃から人生に対する諦観を強いられていた「在日二世」の僕でも、やはりまだ若いから、何かと出口を探している。悟ってなどいるはずがない。当時の「在日」一般にも底辺から這い上がる動力としての幻想がいろいろとあった。技術は国境を越えるかもしれないと、「在日」は一般の日本人よりもはるかに工学部系志望の率が高かった。ところが、日本の企業では技術は国籍を越えないという現実をとことん思い知らされて、その夢は急速にしぼんだ。そしてその後釜として、自営が可能な技術というわけで、医歯薬系志望の大波が起こった。そんな在日の大勢に漏れず、僕の兄と弟は大変な苦労をして医師に、妹は薬剤師、そしてこの僕も、高校2年の終わりまでは理科系志望のクラスにいた。なのに、3年に進級するにあたって、文科系志望のクラスに急きょ、変更する羽目になった。
 何故そんなことになったかと言えば、先ずは相反する2種類の教師集団の正反対の影響が作用したようである。
 高校2年生時の担任の教師が「赤フン」だった。戦中は典型的な皇国少年で陸軍幼年学校に通っていたのだが、その途中で敗戦を迎えた。そしてそれを契機に、左翼へと大変身。それと同時に、アジア侵略の責任を考えるために北大に入って、中国文学・哲学を学んだ。師事したのは、戦後文学の旗手の一人であると同時に、中国文学者として名高かった武田泰淳だったらしい。その一方で、水泳部の名物顧問で、赤銅色の肉体に赤い褌姿で、学生たちを厳しく指導する姿がなんとも異様な輝きを発していた。
 但し、赤フンの僕らへの影響力は、いわゆる文武両道といったレベルではなく、当時流行していた「造反」的言動によるものだった。「お前たちは何故、大学へ行くのか?」と折あらば受験教育に対する疑惑を僕ら受験生予備軍に吹き込み、「授業は自分で選ぶべきものだ」と授業のサボタージュの勧めらしきものまで。それを真に受けた「うぶ」な僕などは、実際に授業をさぼっては野球部の汗臭く乱雑で狭い部室で「エロ本」を読んだり昼寝を貪ったりする癖がつくほどだった。ところが、そのアジテーターである赤フン自身の授業をサボっていると、クラスメートが赤フンの命を受けて僕を迎えに来て、僕はすごすごと教室に戻る羽目になった。そんな時には、教師なる存在の宿命的な二枚舌に呆れもしたが、そんなことを恥ずかしげもなく敢行するところがまた赤フンらしいと感心するのだから、人に対する好悪というものは理屈とは関係ないものらしい。
 
 僕が通っていた高校は伝統的な進学校だったから、外からはがり勉の巣窟のように思われていたようだが、実際は他の高校と比べれば際立って、規則なども緩やかで自主性が尊重され、それなりに自由な雰囲気だった。例えば、春夏の遠足や修学旅行などもクラス単位で討論して行き先を決めることが許されていたし、様々なイベントの後では、二次会というわけで、時には先生も交えて繁華街に繰り出した。定番は、当時、学生や若いサラリーマン男女の憩いの場であった歌声喫茶。そこに行くと同じ高校の生徒たちが若い青年男女に交じって、アコーディオンを抱えた司会兼歌手の先導で、肩を組んでロシア民謡やフォークソングの合唱といった具合だった。

 とは言え、やはり有数の進学校だから、小中学校では優等生でもそこに入った途端に、普通の生徒、しかも、油断するとすぐにおちこぼれの危機に陥りかねない。だからのほほんとしているようでも、実はそれなりの重圧を引きづっている。
 そんな状況での赤フンのアジテーションは、優等生にとっては一時のオアシスであり、おちこぼれ(或いはその予備軍)にとっては、「主体的おちこぼれ」の理論的支柱を提供してくれる。一人前の社会批判で自己合理化に勤しみ、時には酔いしれる。
 しかも、赤フンは一学期の中間試験の直後には僕をわざわざ呼び出して、「この程度の成績なら十分だ、あとは野球に本気で取り組めばいい」などと煽ててくれて、僕はすっかりその気になってしまった。その結果、右肩下がりの成績に慌てふためくのはずっと先の話。
 赤フンだけではなかった。赤フンとは政治的信条に加えて、教師の役割に関する認識が正反対、つまりは受験至上主義の教師たちにとっては、赤フンの影響下にあることが一目瞭然の「だらしない」僕などは、嫌われる必要十分な条件を備えていた。

 二年の物理の授業中のことだった。板書された図をノートに書き写すように指示されて、眼鏡がなくてあまりよく見えないながらも、自分なりに書き写していた。するとクラスを巡回していたカマキリ(僕がつけたニックネーム)が僕に対して大声を張り上げた。「お前は一体何をデタラメな!」と。僕は座り、カマキリは立っているから、その罵声は真上から襲い掛かって来る。こわごわ見上げると、カマキリの顔が怒りで青ざめ、歪んでいる。僕は怯えて、とっさに「眼鏡が割れて」と応答したから、怒りの炎に油を注いだようなものだった。「それならなぜ、予めその事情を言って、前の席に移動しないんだ!卑怯な弁解はするな!お前のような生徒がいるから・・・」その口から次々に飛び出てくる唾を顔にまともに受ける羽目になった。
 その頃、とみに近視が進み、必需品になっていた眼鏡を前日の野球の練習の際に、不注意から割ってしまって、新しい眼鏡を注文中だったので、弁解などではなかった。「理不尽なヒステリーカマキリめ、お前の授業なんて金輪際、受けてやるもんか!」などと心中で弱犬の遠吠えもどきを連発しながら、堪えたのだった。
 もう一人、体は大きいのに、いやに気の弱そうな顔つきで、べとつくような物言いをする化学の「白ブタ」がいた。あたりさわりのない人生を目標とし、それを実践しているという意味では、ある種の教師の典型。そんな白ブタにとって、授業をサボったり、遅刻を繰り返す僕、さらにはそれが周囲に、とりわけ同じクラスの運動部仲間にも伝染するのは目障りこの上ない。ついには業を煮やして、「玄君、頼むから3年になったら僕の授業を取らないでくれ」と、冗談めかしながらも実は本気ということを、そのネッチリした目つきで僕に示しながら、哀願してくる始末。

 僕らの高校では、概ね全科目が同じ教師集団の持ちあがり体制になっていたから、理科系志望のクラスに留まる限り、3年になっても「奴ら」の授業を受けることになる。しかし、そうはいかなくなったから、僕は文科系志望のクラスに移らざるをえなかったのである。

 でも、本当に「仕方なく」だったのかどうか。現に志望変更に際して、僕は一応の理屈を編み出していたからである。「経済学部で商売の基礎を学んで、町工場の経営に活かすんだ」などと、大学の経済学の勉強があたかも家内コウバの経営に役立ちでもするかのような幼稚な理屈。つまるところ、先ずは理科系、その次には文科系でも実学系といったように、在日朝鮮人が強いられた「小さな世界」から日本人が織り成す「大きな世界」への脱出の未練が残っていたわけである。
 
 ところで、当時は大学紛争の真っただ中。僕が受験する年度には東大の入試が史上初めて中止となり、その余波で受験戦線にも大混乱が生じた。もっとも、そんなことなど志望学部の選択に関係があるはずもないのだが、何故かしら僕は3年の12月頃に、急きょ、経済学部から文学部に志望を変えた。教師になる以外には就職に何の役にも立たない文学部、その中でもとりわけ「無用」な仏文科が志望先として競りあがっていたのである。
 社会的に何の役にも立たないもの、それが当時の一部の若者を掴んだ流行の「思想」であり、赤フン体験ともあいまって、僕はそれに大きく影響されたわけである。
 実はそれには大きな伏線があった。高校3年の夏、地方大会の3回戦であえなく敗退し、遅ればせながら受験勉強をと思った矢先に、ひょんなことから僕は野球選手として初めての「祖国訪問」を果たした。韓国に1カ月ほど滞在して、そこで「日本でも異邦人、<祖国>でも異邦人、僕はいったい何者なのか?」という問題に直面していた。それが手に負えない体験だったからこそ、僕は受験勉強という大義名分でその経験を圧し殺そうと努めていたのに、受験戦線の混乱という状況の力に押されて、それが一挙に再浮上したわけである。
 
 翻って考えてみると、僕は幼い頃から、自分が「在日であることの謎」を解明しようと懸命だった。我が家を訪れる朝鮮人のおっちゃん、おばちゃんと両親の四方山話の席に、何気なく坐って聞き耳を立てたり、両親や僕たち「在日」に対する周囲の日本人の眼差しに人一倍、敏感だった。また伝記の類を尋常ならない関心を持って読みまくり、「不幸な子供」がいかにしてその不幸を糧に世界を切り開いていくかといった成功物語に自らを重ね合わせて、未来への不安を宥めていた。そればかりか、小学校6年の終わりごろに小遣い稼ぎで新聞配達をしていた頃には、配達が終わると、残った新聞を隅々まで読むなど、実に「ませた」子供だった。通信簿でも教師たちの僕に対するコメントはたいていが「子供らしさがない」だった。
 
 もっとも、そんな「おませ」は小学校までのこと。その後は勉強とスポーツの両立などという標語に乗せられて、しかも生意気が目立ったせいもあって、上級生のワルたちから呼び出しを食らって殴られたりするうちに、それに対抗すべく自らもワルを気取ったり、不良もどきの実践に励んだりと、読書とはすっかり無縁になっていた。
 それなのに、高校3年の、それも終わりごろになって、「在日という謎」の探求、そしてそれと手を携えるかのように文学への憧れが蘇ったのに、意外なことに入試には一発合格したせいで、何一つ突き詰めて考えることなく、大学生活になだれ込んでしまった。
といったわけで、僕の人生は阿弥陀くじのようなもの。いろんな因果が絡み合い、横棒が一本でも付け加わったり、あるいはその反対に一本削除されたりすれば、結果はすっかり変わっていたにちがいない。

ムシュー玄の人生小劇場3

 大学などきっぱり棄てて家業を継ごうと決めていた僕なのだが、ひょんなことから卒業できることになると、心境の変化が生じた。朝早くから夜遅くまで機械の奴隷となる単調な肉体労働、時にはそれから解放されても、お得意先への配達とその度に苦情の拝聴というわけで、「まだ若い人生を、こんなことで・・・」とついつい、ため息が出る。そんなところに、思わぬ誘惑が忍び込んできて、くすぶっていた「牢獄からの脱出願望」が顔を覗かせる。

 僕ら「在日」は当時、「ないものづくし」だった。そのないものの一つが、育英資金の受給資格。しかし、それを埋め合わせるように、在日向けの育英団体があって、僕は奨学金を受け取りにその事務所に足を運ぶたびに、在日の学生団体の先輩でもある職員の方に、昼食をご馳走してもらったり、夕刻なら飲みに連れて行ってもらうなど、ずいぶんと可愛がってもらっていた。
 卒業を目前に控えて久しぶりにそこへ赴いたところ、たまたま居合わせた所長が、「卒業後はどうするんだ?」と問いかけてきた。僕は「家業を継ぐことになっているのですが・・・もしかして、新聞や出版社などの業界で数年だけでも働けたらという密かな夢もないわけではなくて」と思わぬことを口にして、自分でもびっくり。すると所長は、「それなら、ちょうどいい話がある。在日系の新聞社なんだが、今からでも行ってみなさい」とおっしゃった。
そんな親切を拒むわけにはいかず、生涯にわたって縁がない職場見物くらいの軽い気持ちで、その新聞社に行ってみた。すると、お偉方らしい方がよほどの暇だったのか、わざわざ僕の応対に出てくれて、「ついでだから、入社試験を受けなさい」と言う。僕にはそんなつもりなど全くなかったのに、成り行きに乗せられて、その試験を受ける羽目になった。その試験、我ながらひどい出来で、その情けなさも含めた一連の予想外の展開を「すべて酒で流してしまおう」と、友人たちに連絡を取り、その日に受け取ったばかりの数か月分の奨学金を資金に痛飲した。何ともひどい話なのだが、ともかく僕としては、その日の茶番はそれで終わったつもりだった。
 ところが、その数日後、さらに意外なことになった。母の眼の手術に付き添い、終日の病院での缶詰状態からやっと解放されて帰宅したところ、父が見るからに強張った顔つきで僕を迎えた。「おまえはいったい、どういうつもりや。新聞社の副社長いう人がやってきて、是非ともお前に入社してもらいたいから、許してほしい、言うてた」。僕はその言葉に驚いて、何一つ答えることができなかった。すると父は語気を強めた。「おまえはほんとにそんな会社に入りたいんか。他にしたいことはないんか。もしそうやったら、親父はまだ若いから、ほんとにしたいことをしたらええ」とさらに意外な話。
 
 そもそも、その新聞社に入るには、大きなハードルが立ちはだかっていた。僕は「在日」の学生運動のせいで、4年生の頃に在日の韓国系最大の団体から除名処分を受けていた。その団体は自主団体を謡っているが実質的に韓国政府の出先機関的な役割も果たしていたから、その処分は国籍剥奪に等しい。しかも、連坐制という封建的な制度がいまだに生きていたその組織そして国家だったから、両親もまた旅券を剥奪されるなどという理不尽なことにもなった。
 その頃には故郷である済州訪問を最大の楽しみにしていた父にとって、それはとんでもないことで、父は激高し、僕は物心ついて初めて、そして生涯で一度だけ、父に一発見舞われることに。母はそんな父と僕の間に挟まれて右往左往。
 父の言うように「転向声明書」のような謝罪文を書いて団体に提出すれば、善処の可能性もなくはなく、そのような脅迫や督促や善意の助言などがあった。とりわけ、僕が幼い頃から知っていた父の知人、友人たちの父や僕の家族のことを心配しての助言にまつわる情が僕にはきつかった。
「思想は大事にしたらええ。でも外見だけでもごまかしたら、お父さんもお母さんも助かるし、あんたの将来にも禍根を残さずに済むんやから・・・」
意地を張って親に迷惑をかける権利や資格が僕にあるのか、そんな大層な思想などといったものを自分は持っているのか?と自問してみたところ、答えは「ない」だった。しかし、それでもなお僕はなけなしの意地を通した。それは僕の青春の形見のようなものだった。その分、父には申し訳なかった。だからこそ、今後は世間の片隅で静かに暮らす、つまり、幼い頃から思っていたように、そして父や母の期待通りに家業を継ぐことにしたのだった。僕なりの責任を取るやり方だったが、まるで自分内部における取引みたいなものだった。
 他方、父の方でも後ろめたいことがあったのだろう。父も若い頃は在日の民族運動、それも当時の主流だった左翼系のシンパだったから、「正義」に対する思い入れの名残があったに違いない。父は僕に手を下ろしたとき、眼を赤くして、目尻を濡らしていたのである。
 
 そんな前歴がある僕が、韓国への往来が必須の在日系の企業である新聞社に就職しようとするならば、またしても旅券に絡んだ「転向」云々の話がぶり返されるに違いなかった。ところが、そんなことを繰り返すつもりのない僕にとって、そんな就職は端からあり得なかったのである。僕は奨学会の所長と新聞社の副社長に、入社の誘いに対する感謝と、断りのお詫びの電話を入れた。それでその話は終わった。
 
 ところが、である。その話をきっかけに外の広い世界に対する欲望が次第に膨らみだした。何よりも、大学生活でやり残したことが気になった。熱に浮かされるようにして多種多様な書物を乱読したが、専門であるはずの仏語、仏文学の勉強など、まともにしたことはなく、それが情けないという気持ちが高じてきた。そこで、「大学院に進みたいので、一年だけ、猶予をください。そしてもし合格したら、せめて2年間の修士課程だけでも通わせてください」と父に申し出て、父はじつにすんなりと受け入れてくれた。父も本当は家業よりも、自分ができなかった学問の道を息子に進んで欲しかったのかもしれない。それに家業に関しては、父はまだ若いつもりだったし、僕の下にはまだ息子が二人いたので、楽観していたのだろう。
 そして一年、僕なりに勉強に努めたが、既に酒の習慣が身についてしまっていた僕に、まともな勉強ができたのかどうか、疑わしいし、もっぱら独学による勉強の偏狭性というものが明らかだった。
 しかし、ともかく試験には合格し、研究者予備軍の世界に足を踏み入れたのである。しかも、僕には既に生涯を共にしたいと思っていた女性がいて、そろそろ潮時かなと思ってもいた。僕が家業の町工場の親父になるのをためらったのには、そんなうだつの上がらない生涯を運命づけられた僕と、彼女との結婚生活が可能かという懸念が強かった。家内工業は夫婦を含めた家族全員が埃と汗とにまみれて、昼夜を問わず長時間にわたって、しかも、コウバを中心に生活を営むことを余儀なくされる。そんな生活に彼女を引き入れる自信がなかった。金はなくてもせめて文化的、知的な生活でないと持たないのではと、腰を引きながらも僕なりの上昇志向には執拗なものがあった。
  
 そんなわけで、大学院入学が決まると、今だと、決心した。両親に彼女のことを伝えた。兄をさておいて次男の僕が先に結婚するなんて、韓国の儒教精神に悖るし、僕と彼女とは国籍は同じ韓国でも、その出身地方が異なっているので、地方主義、対立を昔のままに抱え持っていた一世にとっては大問題といったように、難問山積だったが、両親の説得は割と感嘆だった。両親にしてみれば、「こいつはこんなやつ、反対しても効果は望めない」と諦めたのかもしれないが、幼い頃からいつだって、両親は僕らをすごく自由に育ててきたので、今になって何を言っても、それは自らの教育方針の誤りを自認することになったに違いない。そんなわけで、話はとんとん拍子に進み、程なくしてゴールインとなった。
 
 それ以来、当時まだ学部の4年生だった妻と新米の大学院生である僕は二人してのアルバイトまみれの新婚生活を始めた。波風の種は尽きなかったが、つつましい生活にはそれなりの充実感があった。そしてその内に、周囲の空気が感染したのか、研究生活で生涯を過ごしたいと思うようになった。最初の動機や予定とは大きく矛盾しているのに、そんなことに気をかける余裕などなかった。ともかく、修士論文を書き上げて博士課程の試験に合格することが焦眉の課題となっていた。そして無事に博士課程に進学し、子どもが生まれ、妻も大学院に通い始めた。その頃には、父も既に、僕に家業を継がせる気持ちなどすっかり捨てていた。まだ下に弟がいたし・・・
 そんなわけだから万々歳と言いたいところだけど、実はその先が問題だった。僕にはそもそも研究というものが何のことか、全く分かっていなかった。それどころか、僕が抱いていた文学観の幼稚さの問題もあった。その結果、考え出した研究テーマは能力をはるかに越えてまとまるわけもない。しかも、方法論もない。だから当然、まともな研究業績など上げられるわけもないままに、もっぱらお勉強もどきに精を出す。
 そのうちに、大学のフランス語の非常勤講師の口が舞い込んできて、それは他のアルバイトと比べればはるかに実入りがよいし、外見も悪くはないから、それに馴染むようになる。但し、それで生活するには、数をこなさねばならず、ついつい小金を求めて駆けずり回るようになる。研究などできるわけもない。無事に研究職に就いた同輩、後輩たちからは置いてけぼりをくらい、焦る。職を得るには、業績ばかりか、恩師、先輩その他、学界の皆さんにも気を遣わねばならないのだが、僕は生来、生意気を衒い、それを粋がっているような人間だから、正論を盾にした屁理屈が口をついて出だしたら、誰が相手でもスットップすることがない。当然、悶着の種には事欠かない。こうしてどんづまりとなった。
 
 やがて、「研究」など身の丈合わないものは脱ぎ捨てて、我が道を行くことに決めざるを得なくなった。何よりも生きるコト、妻や二人の娘と共に生活を楽しむこと、在日二世として日本の地域で、人々と共に生きること、大学で嫌なフランス語の授業を受けてくれている学生さんたちと少しでも楽しい時間を過ごすこと、それが当座の目標となった。その一方で、精神的安定のために何かをするとすれば、自分の幼稚な文学観の検証、そしてそれは、僕にとっての謎であり続ける在日について改めて考えることでもあるのだが、それを継続するためにともかく書きつづけることくらいが関の山。それを生涯のテーマと思い定めるようになった。
 それから既に15年、駄文を懸命に書き散らかしているが、納得できそうな出来栄えのものは多くない。でもそれこそが自分の生涯だと気持ちが定まったと思ったら、もう60歳。残された時間を懸命に生きるしかない。
 
 それにしても、両親を筆頭に僕の周囲の皆さんのやさしさに包まれて、我儘な僕は、如何にも腰の定まらない人生を歩んできたものだと、今さらながらに思う。それに報いるためにも気持ちを新たに前進、或いは、後退に励むとするか。


トモダチのトモダチはトモダチの(2)

2018-08-13 08:42:46 | 触れ合った人々
トモダチのトモダチはトモダチの(2)

5.雑誌の探索依頼
 日本に戻った僕に、Y教授からメールが届いた。ある古雑誌を探してもらえないかという依頼だった。日本の「蝶類同好会」という団体が1937年から長期間にわたって発行していた『Zephirus〈ゼフィルス〉』という雑誌、特にその第7巻に石宙明という済州ゆかりの朝鮮人学者の貴重な論文が掲載されており、石宙明研究にとっては必須の資料なのだが、入手に手こずっているというのである。
 ところが、先にも強調したように、僕は自然科学など全くの門外漢、それどころか、人間以外のことには関心を持てない子供のなれの果ての浪花節中年男だから、その種の専門家ともまったく付き合いがない。さてどうしたものかと思い悩み、とりあえず国会図書館にアクセスしてみたものの、短いエッセイ程度のタイトルはあったが、それではその雑誌の探索にはあまり役立ちそうになく、困り果てた。
 しかし、そのうちにある記憶がよみがえった。高校時代に地理を教わったK先生が「蝶々博士」と呼ばれていて、僕らが卒業して30年ほど経ってから始めた同期の同窓会にも、よく参加されていた。ずいぶん遅くまで、微笑を絶やさず、かといって饒舌というわけでもなく、「君たちを教えていた時代が一番楽しかった」という一節を、まるでリフレインのように挟みながら、静かに酒を飲んでおられた。高校で教えを受けていた頃もそうだったが、その含羞の色が濃い訥々とした語り口が、僕の記憶の中から浮かび上がった。

 でもやがてそんな時代も過ぎ去った。僕は中年も盛りを過ぎるにつれて、人がたくさん集まるところはひどく疲れを感じて悪酔いするので、すっかり足が遠のくようになった。
 それでもK先生とは、偶然に何度かお目にかかった。高校の同期だったRさんが営んでいて、気安く、しかも、経営者のRさんには申し訳ない話なのだが、贅沢なほどに広いスペースには不つり合いなほど客数はあまり多くないので、まるで自分だけの空間のように寛げる。そこで、仕事や家庭その他、嫌なことがあれば仕事帰りに立ち寄って、Rさんに宥められたり励まされたり、或いは逆に、きつい一喝をくらって気持ちを立て直したりで、中年の危機を凌いでいた。そんな時に、K先生も時折、仕事帰りや何かのついでに、そのお店に姿を現された。
 僕がカウンターでタバコを肴に、いつも変わらず地味だが深い味わいが特徴のオールドパーをロックでちびりちびり、K先生も同じカウンターの、僕とは少し離れたところでオールドパーを水割りでちびりちびり。時折、思い出したように、それぞれが何の脈絡もなさそうな言葉をぽつりぽつり・・・そんな時には、はるか昔の高校時代の一群の先生たちの姿がその場にいるK先生と重なって、二重の時間を同時に生きているような不思議な感覚に浸ったものだった。
 僕らが高校生だった時代はちょうど、全国的な学生反乱がたけなわの頃だった。先生方もその一翼を担ったり、そこまでではなくとも、反乱する学生たちに共感を示す先生方が少なからずいらして、僕なんかにはそれまでとは異なる感情教育になった。その種の先生方の中で最も直接的な影響を受けたのは、「赤フン(水泳部の顧問で赤いふんどし姿で部員を指導する姿が圧巻だった)」という別名もある漢文のT先生で、僕の二年生の担任だった。その赤フンは、戦争時代にはまぎれもない皇国少年で、陸軍幼年学校に通っているうちに終戦を迎えた。その皇国少年が敗戦を期に大転向、日本のアジア侵略に対する責任を痛感して、北大の中国文学に進んだ。そして卒業後は高校の漢文の教員となり、急進的な教員組合運動に関わっておられた。僕ら生徒たちに対しては、受験教育への疑問を提起し、企業戦士になることを理想像として大学進学を考える風潮に警鐘を鳴らし、国家や社会のためになろうなんて決して考えてはならんと、声を高めておられた。
 そんな赤フン先生を含む幾人かの先生方は、普段から職員室とは別の部屋にたむろされていて、たまたまそこへ呼ばれて行ったりでもすると、高校の他の場所とは随分違った、無頼というか自由というか、そんな雰囲気が漂っていた。英語、数学、社会、物理、歴史の先生方もいた。その中でも異色がK先生だった。例えば、赤フン先生は単刀直入、社会批判を歯に衣着せない鋭い論法で開陳なさっていたのに対し、K先生はいつでも、含羞の色が濃い表情で顔を落として、ぽつりぽつりと反乱学生たちへの共感を漏らすといった按配だった。そのポツリポツリと含羞の色が印象的だった。
 雑誌探索の依頼を契機に、脳裏にあの表情がよみがえった。そうだ、あのK先生にお尋ねしたら、手がかりがあるかもしれない。先にも記したことだが、K先生の別名が蝶々博士で、知る人ぞ知る存在であるといったことが、生徒たちの間でもささやかれていたのである。すっかり忘れていたはずのそんなことが、蝶々絡みの雑誌の探索で行き詰っていた僕の脳裡に浮かんだわけである。
 ところが、僕が最後にそのK先生にお会いしてから、既に10年以上も経っている。そしてその10年前でも、既に先生は相当の高齢だったし、その間の阪神淡路大震災で蝶々の貴重な標本、蔵書などがめちゃくちゃになって、すっかり元気をなくし、書庫に入るのも怖いとおっしゃっていた。長年にわたって収集してきた愛蔵品の数々、それは先生の人生が集約されたもので・・・
 そんなわけだから、踏ん切りがつかなかった。何もしないままに気が付いてみると、一週間がたっていた。そこで、慌てて前に進まねばと、Rさんに電話してみることにした。本来ならば、店に立ち寄って、事細かに事情を説明して協力を求めるのが筋だと思いはしたが、僕はその数年前に過労で体を壊し、仕事も半分くらいに減らして、タバコを肴にウイスキーのロックという僕の最大の喜悦まで自らに禁じるなど体調の回復に努めていた。そんな僕なのに、あの店にいけば長年のあの喜悦の誘惑に耐えられそうにない。足を遠ざけるしかなかったのである。
 そこで仕方なく、電話でRさんに先生の近況を尋ねてみたところ、先生もまた最近はすっかり足が遠のいているとのことで、「電話してみたらいいじゃない」と勧めてくれたが、「老齢で、もしかして何か深刻な問題を抱えでもされていたら、そんなところにいきなり電話して勝手なお願いをするのは、気が引ける」と、僕は相変わらず、生来の優柔不断を引きずっていた。するとしびれを切らしたRさんは、「じゃあ、私がまず電話で近況を確認したうえで要件を伝えて、玄君から電話してもいいかどうか伺ってみるわ」と、僕がまさに心の奥で望んでいたことを言ってくれた。しかも、すぐさまK先生に電話して、了解をとりつけてくれたのである。そのように、Rさんの助けを借りるばかりか、彼女に背中を押してもらって、ようやくK先生と電話でコンタクトをとる段階にたどり着いた。
 いささか緊張しながら電話してみたところ、予想通りに先生の声はか細く、弱っていることが歴然としている。しかし、勇をふるって用件を述べてみた。すると、「その雑誌なら、欠号があるかもしれないけど、バックナンバーのほぼ全部を所蔵しているはず。でもね、僕はあの震災以来、無残な書庫に足を踏みいれる気力がないし、例え、入ってみたとしても、目も弱っていることもあって探し出せるかどうか」とのこと。「じゃあ、失礼ですが、僕がお宅を訪問して自分で探してみるわけにはいきませんか?」と自分勝手な提案をしたところ、「申し訳ないけど、老齢夫婦の二人暮らしで、二人とも目が悪くなったこともあって、客を招き入れれる状態ではなく、どなたであれ、来訪はお断りしているんだよ」と、うまくいかない。でも最後に、「僕も、たぶんこれが最後になるだろうけど、論文を書こうと思っていて、そのためには書庫に入って資料を探さないといけないから、そのついでになんとか探してみることにするよ」と、実にありがたいお言葉をいただいた。
 でも、その一方で僕はほとんど諦めていた。あの声ではめちゃくちゃになった大事な資料の山をかき分けて、70年以上も前に刊行されていた、おそらくは保存状態もよくないはずの、それも同好会が発行していた「小さな雑誌」を探し出す気力などあるはずがないだろうし、例え、その気力を発揮されたとしても、好い結果など期待できそうになかった。
 ところが、それから1時間もたたないうちに、Rさんから電話がきた。「玄君、その雑誌あるって、先生から電話もらったから、すぐにでも電話して詳しい話を聞いてみたら。なにしろ相当に弱っておられるから、何か誤解があってもいけないし・・・」Rさんの声が弾んでいる。それでも僕は、半信半疑だった。ぬか喜びかもしれない。もしそうだったら、僕のぬか喜びなどどうでもいいことだけど、ただでさえ弱っておられる先生を落胆させて、何か悪いことでも起こったりはしまいかと。
 でも、ひるんでいるわけにはいかない。Rさんに勧められたとおりに先生に電話してみると、電話口の先生は、現にその雑誌を手にしておられる様子だった。「僕も昔は石宙明さんの論文を楽しみながら読んでいたことがあってね」と先生もずいぶん気分が良さそうで声にも潤いがある。そしてなんとも感慨深げである。こうして、二日後の日曜日に、先生のお宅の最寄り駅まで出向いて、その雑誌の石宙明論文が掲載された号を数冊だけお借りする約束を取り付けた。
 僕は早速、親しい友人に連絡して、翌日の土曜日の夕刻に一杯の約束を取り付けた。そしてその酒席で、その友人は珍しく興奮しながらあれこれと話す僕を肴に、そして僕の方は偶然が招き寄せてくれた「人生の味」を肴に、しこたま酒を食らった。その「人生の味」とは何かについては、また後に。

6.恩師との再会と雑誌
 そして約束の日の朝、雲一つない晴天をこれ幸いと、二日酔い醒ましも兼ねて、待ち合わせの場所まで自転車を走らせた。先生は電車の切符売り場の横の柱に背を持たせて待っておられた。その姿が僕の記憶の中の姿よりもはるかに小さく、しかも右肩がぐったりと落ちこんでいて、左右のバランスが異様に悪い。立ち続けるのも難しそうな様子で、いきなり心配になるほどだった。

「先生、お待たせしました、玄です」と声をかけると、先生は顔を上げて、ヘルメットを被りサイクリングタイツを履いた異様な中年男である僕に、怪訝そうな顔をされた。昔はなかった白くて長い顎鬚もあって、まるで仙人のようだった。
 喫茶店で腰を落ち着けてゆっくり話すつもりだったが、先生は他の用もおありとのことだったので、その場で挨拶もそこそこに、要件の話に入った。「これだよ」と先生が差し出してくださった袋を受け取ると、僕は気がせいて、すぐさま中身を確認した。僕が探していた雑誌に間違いなかった。しかも、同好会の雑誌ということから僕が想定していたのとは段違いに立派なものだった。
 古風で優雅な趣のある布張りのハードカバーの装丁で、それを見るだけでも中身への期待が高まる。そして実際に頁を繰ると、カラー写真や白黒写真の蝶々の図版が随所に挟まれて、文章を読まなくても、豪華で見どころたっぷりである。そして文書を走り読みすると、満州、台湾、朝鮮の蝶類の新発見の報告などが克明になされている。なるほど植民地帝国というものは、民間の同好会ごときにこれほどの仕事をなしとげさせるものなのかと、今さらながらに植民地帝国の力を思い知った。さらには、表紙裏には見事な図形の蔵書印と入手した日付と所蔵者の氏名などが達筆で記されており、所蔵者が大切に保存されていたことがよく分り、言わば、幾重もの愛の結晶なのである。
 まるで眼前の先生の存在を忘れてしまったかのように、次々に雑誌のページをめくる僕に、先生は昔と同じように、とつとつとその入手の経緯を説明された。
 蔵書印の方は、先生の小学校時代の同級生で、その方が同好の友人であった先生の従兄さんに譲られた。しかしその後、その従兄さんが亡くなる直前に、数冊分だけまとめてK先生に残された。先生はそれとは別に、その雑誌のバックナンバーをほぼ全巻、所蔵しておられるのだが、そっちの方は書庫のどこにあるのかわからない。しかし、その従兄さんから遺贈された数号だけは別個に保管されていたので、今回、容易に見つけることができたというのである。小学校の同級生、そして従兄などの縁戚の幼い頃からの蝶々を巡っての関心と交友、それが大人になっても継続されていた関係性にも驚かされた。
僕のようにあくせく生きてきた人間の周囲では決してなさそうな、夢のような交友話も含めて、神を信じてもいないこの僕に神さまがプレゼントでもしてくれたみたいで、良い気分だった。
「先方が望んでいる部分だけスキャンして送ったら、お返しします」というと、先生は「別に急がないよ」とおっしゃってくださった。

7.「架橋」よりも「人生の味」
 帰宅するとすぐに、雑誌の重要部分(石宙明の論文のほか、表紙や裏表紙の蔵書印のほか、大量の図版など)をスキャンしてメール添付で送ると共に、K先生との面談結果を済州のY教授に報告した。するとこれまたすぐに、感謝のメールが届いた。そしてそこには、Y教授があの雑誌を探している理由についての詳細な説明が含まれていた。僕はそれまで、そんな事情をはっきりと知らないまま、例の漁師さんを紹介してくださった恩義に報いたいという気持ちだけで、雑誌の探索をしていたのだった。ともかく、Y教授からのメールの内容は、概ね次のようなものだった。

 Y教授は、石宙明さんを済州学の先駆者として尊敬し、いつか石宙明ゆかりの地に済州の行政が資料館(もしくは博物館)を建てて済州学の拠点とするように、地道に運動してこられた。そして、その未来の資料館の展示資料として、あの雑誌が必須で、それは韓国にはなくても日本のどこかにはきっとあるはずだからと、日本在住の僕にその探索を依頼された。
 したがって、長期にわたって継続して発行された雑誌のうちで、石宙明論文が掲載されたいくつかの号が見つかったことは大変喜ばしいことなのだが、それで話が終わるわけがない。資料館の建設へ向けての機運を盛り上げて行政その他にアピールするために、石宙明の業績に対して多様な角度から新たな光をあてる国際シンポジウムを企画しており、是非とも、K先生に講演をお願いしたい。さらには、K先生が所蔵なさっておられるバックナンバー全巻を譲渡していただき、シンポジウムの場に展示することを希望しており、K先生への講演依頼と、資料の譲渡依頼とをあわせて、僕に依頼したいと言うのである。

 そのメールを受けて、僕が越えるべきハードルは一段と高くなった。依頼された雑誌の所在を見つけ出し、その一部の写真をお送りしたことで、Y教授に喜んでいただけたことは僕にとっても実に喜ばしいことだった。少しは恩義に報いることができた。
 しかし、K先生が所蔵しているバックナンバーすべての寄贈となれば、はるかに難問のように思えた。そんな話をK先生に気軽に口に出すわけにはいかない。貴重な資料であろうとなかろうと、高齢で病気を抱えた先生の気持ちを害しかねない話をするわけにはいかない。しかし、もしかしたら、その話を持ちかけたら、逆に先生は喜んでくださるかもしれない。貴重な蔵書の一部が将来的に活用される可能性が開けるのだから。
 しかしそのためには、すでに一度は断られたことだが、その雑誌のバックナンバー全体の所在確認のために、先生の書庫に立ち入る許可を得なくてはならない。しかし、それを口に出すのは難しい。迷い始めた。いつ、どのように切り出せばいいのだろうか?
 もし事情が許せば、夏休みにでもY教授が来日して先生に会い、依頼の趣旨を伝えれば、その気持ちにほだされて、いい結果が出るかもしれない。そのようにY教授にメールで提案したところ、Y教授は、喜んでそうしたいと大いに乗り気だった。だけでも、さてどうするか?
 そのように、うれしいけれども微妙な宿題が続く。しかし、それは僕の遅まきの、しかも徒労感にまみれた済州通いの成果と言えないこともない。こういうことが「人生の味」なのかもしれない。
 何らかの幸運に、少しは自分も関与して喜べる場合のことを、僕はそう呼んでいる。自分の努力の成果そのものではない。またその逆に、まさに幸運としか呼べない他律的なことでもない。そこに、偶然であっても少しは自分が関与していることが「みそ」である。その「みそ」に自分に対する励ましや慰労の源泉がある。その味を求めてではなく、ただただ目前の現実に対応しているうちに、それも関わっての小さな幸運が舞い込んでくる。、そんな時にこそ人生の味を味わえると言うのである。自分の主体的な要素が大写しにでもなれば、それは往々にして傲慢を胚胎する。
 
 そうした考え方、感じ方は、二国間に架橋するという考え方、或いは欲望にもと関係しそうである。
 韓国と日本の間に橋を架けるなどといった言い方にはそっぽを向いていた僕が、やはり歳のせいかなのか、そんなことを時には考える。韓国、とりわけ済州との往来を繰り返しているうちに、いろいろな依頼を受けてその実現に努めてきた効果かもしれない。あるいはまた、自分にはその程度のことしかできないという諦念が作用しているのかもしれない。
 国籍は韓国であっても、僕は韓国のことをあまり知らない。できるだけ考えないように努めながら暮らしてきた期間が長すぎるということもある。本当によく分らないのである。それにまた、生まれてこの方60年以上も暮らしてきた日本のことも、あまり分かっていそうにない。最近、ますますそのように思うようになってきた。
 僕の意志などとは関係なく、僕は日本とも韓国とも切れない関係にある。その一方で、僕はそのどちらにも所属していないように感じる。日本の社会に対しては、金属疲労のような、関係疲れとでも呼べそうな距離感、他方、韓国には感受性や文化的差異のせいもあっての居心地の悪さがある。あちらの人々も、僕のようなさまざまな意味で中途半端な老人を持て余す気配もあって、どこまでも「お客さん」の域を出ない。
 そんな僕が、日本と韓国の間に橋を架けるなんておこがましい。僕はどちらにも少しは拘束されていても、やはり外部の人間である。それは自分が望み、選んだ位置関係であろう。その分、そのどちらに対しても「同胞」などといった過剰な思い込みに陥る資格などない。何かの縁でたまたま関係するようになった他人、その程度に考えて、常に新たな関係を作る努力をする方がよほど健康的な気がする。
 ところがそのように考えている僕も、「在日」については同胞意識の惰性が強く残っているようで、他者と見ることが難しい。ついつい強張ったり、過剰な情動、喜怒哀楽が作用してしまう。肩の力を抜いて対応できないのである。
 それもまた、時間の問題、慣れ、習熟の問題なのかもしれない。いつか、在日を他者として見ることに慣れて、触れ合うたびに新たな関係をつくっていけるようになるかもしれない。でも、そのようになるまで寿命が残されているだろうかとも思うが、それは仕方ない。
焦ることなく腰を据えて、その方向で努力をするしかなさそうである。
 二つの国、二つの文化の架橋などと気取ることもない。その両者に僕は拘束されると同時に積極的に関与している部分も少なくないのだから、僕はそういう存在として、揺れ動きながら、数々の出会いの喜びに彩られた人生を大いに楽しめばいい。それしかない。人生の味をしっかり噛みしめたい。

8.含羞の来歴
 Y教授の依頼や要望を受けて、逡巡のあげくに決意を固めた。Y教授にわざわざ大阪まで来ていただくまでもなく、僕がK先生に改めてお会いして、率直に相談するのがベストだと。そして、直ちに、それを実行に移した。K先生に済州の要望をお伝えしたうえで、検討をお願いしたのである。そしてその際には、おまけとしてK先生の蝶々との因縁やそれと密接に関連するライフヒストリーお聞きすることもできて幸いだった。そして帰宅するとすぐに、K先生とのその日の面談の内容を済州のY教授にメールした。その内容は次の通りである。

 本日、ようやくK先生と改めてお会いすることができました。自転車で先生のご自宅近くまで1時間ほど自転車を走らせて、先生のお宅の玄関の前に自転車を置かせてもらって、近くの喫茶店で2時間ばかり、お話ししました。
 先生は目と腸と、そして何よりも、筋肉の脱力に苦しんでおられるとのことでした。数年前から、急に筋肉から力が抜けてしまうことがあり、そうなると歩けないし、腕も思うように動かない。常にそうなのではなくて、急にそんな症状が襲ってくる。目のほうも深刻で、一時は出血が激しく、今は落ち着いたが、何かを読む際には海中メガネのような大きな眼鏡が必須らしく、今日もそれを持参しておられました。
 さて、今日の話の中心は二つ、一つは石宙明さん関連のこと、もう一つは、先生の幼少期から大学までの四方山話でした。その両者を掻い摘んで記します。
 石宙明さんについて日本で知っている世代はおそらく自分たちが最後だろう。蝶々に関する研究もすっかり様変わりして、昔のように蝶々の形態の詳細な比較研究といった方向よりも、遺伝学、分子学のような方向が圧倒的な主流になってしまっている。K先生も既に長年、その方向での蝶々研究をしている。つまり、石宙明さんのような従来の蝶々研究とはすっかり距離を置くようになっており、先生よりも若い人たちはなおさらそうだろうとK先生はおっしゃるのです。
 例の雑誌を紐解きながら、そこで執筆している方々の名前を逐一確認して、この方はいついつ亡くなったというようなことを、懐かしそうに連綿と語っておられました。
 その人たちは1937年の雑誌に論文などを書いておられる人たちなので、その当時に既に、いくら若くても30歳は越えていたはずで、それなら現在では100歳を超えるわけですから、亡くなるのも当然のことなのですが、そうした事実を一つ一つ確認するように話しておられました。
石宙明さんについていくつか文章を書いておられる柴谷さん(一年ほど前にお亡くなりになったはず)とは昵懇の間柄だったらしく、例の雑誌も自分が所蔵しているもののほとんどは、その柴谷さんがオーストラリアで入手されたものを、当時のお金1万円で譲ってもらったのだそうです。そして、その柴谷さんこそは、日本で石宙明さんについて話ができる最後の人だったのでは、ともおっしゃっておられました。というわけで、シンポジウムでの発表者の見当は全くつかないということになります。
 ただし、ひとりだけ可能性がなくもない人がいらして、一度手紙を書いてみるとおっしゃっておられました。しかし、先生よりも高齢らしいので、期待を抱かないほうがよさそうな気がします。
 また、例の雑誌のバックナンバーを揃えている可能性のあるところとしては、岐阜県の昆虫研究所を挙げておられました。
 因みに、先生所蔵の雑誌を済州大学が取得する可能性は十分にありそうです。先生は自分が持っていても無意味だから、譲ってもいいとおっしゃっておられました。それは願ってもない話なのですが、改めてお会いして、きちんと話を進めてみますので、もう少しお待ちください。
 ついでは、先生の幼少期から大学までの遍歴の話になりました。人間だけにしか興味を持てない僕には、実に興味深いものでしたので、覚えていることだけを箇条書きで記します。
1.公務員の息子として生まれ、幼い頃から、正座して父親から孟子などの古典の購読を受けさせられた。
2.子供のころから蝶々に興味を持っていたが、それ以前には鉱物に関心を抱き、近畿一円の山を歩きまわっていた。やがては蝶々に関心が移ったが、だからといって鉱物への関心が途絶えたわけではないのだが、ともかく、蝶々が好きになってからは。当時有名な昆虫学者に手紙でいろいろな質問したりしていた。小学校6年の頃の話です。
3.その後、旧制中学(生野中学)の一年生時に、先生に勧められて陸軍幼年学校の試験を受けて合格、さらには航空士官学校に入って、その最終学年の前年に終戦を迎えた。その直前には、上司が腹切りさせられたので興奮した士官学校生が、一種の反乱を起こして立てこもるという事件があったが、それは公式の歴史では言及されていないのだそうです。
4.敗戦の10日後、つまり1945年の8月25日になって、学校から家に帰された。ゲリラになって山に入って抗戦しろという話もあったりして、武器を持って(銃や銃剣など)帰宅した。今でも役所に登録したうえで、その時の銃剣は家に所蔵している。まったく手入れしていないから、ひどい状態だけれど。
5.敗戦後は、国に騙されたという思いが強く、先の方向性が見えなかった。しかし、なんとかして生き延びねばならないから、父の斡旋もあって、大阪市の地下鉄の売店でアルバイトをしていた。しかし、なにしろ生意気なものだから、お客に「ありがとう」を言うことができずに、困った。
当時は食べるものがなくて、母親は栄養失調で46年に亡くなった。しかも、庭のある官舎に住んでいたからお金があると思われたのか、何度も泥棒に入られた。そのせいで、家の何もかもが盗まれるし、ともかく飢えていた。
6.旧制の大阪高等学校に編入して卒業後に京都大学に入ったが、世の中に役に立ちそうにない勉強をするつもりで、古代史に進もうと思ったが、史学科は昔の皇国史観の名残が強く、諦めた。その代わりというわけで、地理学に進んだものの、主任教授とうまくいかず、激論になったりもしたが、幸いにも卒業だけはさせてもらった。しかし、京大の人文地理は肌に合わなかった。もっと自然環境に焦点を当てた自然地理学が本当はしたかった。
7.僕が、「南方熊楠と絡めて石宙明さんの話ができる人でもいらしたら、きっと、面白いでしょうね」と思い付きを言うと、先生は「まあ、そんな人は今ではいないだろうね」とおっしゃり、「そうそう、僕も大英博物館から著書を1986年に刊行しているんだ」と恥ずかしそうに付け加えられた。僕はそのことは知っていたのですが、行きがかり上、「へえ、すごい!」と言って、その自分の言葉で改めてそのように思ったりもしました。言葉の力、特に音声言語の力というものは面白いものです。
 今度お会いする時には録音機を持参して、録音を取りながら昔の話を聞かせてくださいと言うと、「そんな恥ずかしいことを」などとおっしゃっておられましたが、いつか実行するつもりでいます。何よりも、先生が意外にお元気だったことだけでも、僕には幸福な時間でした。

9.寄贈資料のその後―蝶々学者で済州学の創始者でもある石宙明―
 以上のメールを送ってから、そこでも記しているように、K先生との再度の面談の席で、K先生が所蔵しておられる『Zephirus〈ゼフィルス〉』全巻に加えて、大英博物館から出版された先生の著書の両方を、済州に寄贈する了解を取り付けた。但し、先生の体調の事情もあって、シンポジウムへの参加は無理なので、他に適任と思える研究者を探してみるということになった。
 その後、シンポジウムの参加者については幾人かの候補をあたってみたが、日程などの都合がつかず、うまくいかなかった。他方、寄贈資料については、僕が自転車で先生宅まで出向いて受け取り、直ちに最寄りの郵便局から済州に送った。これでひとまず僕の役は終わった。
 その後、それを貴重資料として会場に展示する形で、石宙明に関する国際セミナーが済州大学校で開催される運びとなった。以下は、そのセミナーに関する新聞記事の抄訳である。新聞で実名報道がなされているので、これまでは匿名にしてきたお二人、Y教授とK先生に限っては、以後は実名とする。

 開かれた広場:済州学の先駆者・石宙明先生を讃えて
 石宙明先生は蝶々博士、済州学の先駆者、エスペラント初期運動家、初期山岳人など実に多様な別名を持っており、一言で評価するのは難しい。去る10月6日はそんな先生の逝去61周忌であり、来る10月17日は生誕103周年にあたる。そこで、10月7日、8日の両日にわたって、多様な分野の石宙明研究者が済州に集まり、先生の学問的業績に新たな光を当てる学術大会が盛大に開かれた。
・・・
 その他にも今回の学術大会で意味深いことは、石宙明の済州島学叢書をはじめとする原書が公開されたことである。長い間、口伝えでだけで知られていた日本の雑誌Zephyrus全巻が展示公開された。日本の蝶々博士である川副昭人(1927―  )先生が、生涯にわたって保管されていたZephyrusの創刊号(1929年)から終刊号[1934年]までの34巻と、ご自身の著書『原色日本蝶類図鑑』(1976年)(Blue butterflies of the Lycaenopsisgroup)(1983)など貴重な蝶々関連図書を、済州大学校耽羅文化研究所に寄贈してくださった。とりわけ、『Zephyrus』には、題目だけが伝わっていた石宙明先生の最初の学術論文「朝鮮??地方産蝶類目録」(1932年)、「白頭山蝶類採集記」(1934年)「朝鮮東北端地域産蝶類採集記」(1936年)、「済州島産蝶類採集記」(1937年)など、石宙明研究に新転機をもたらす可能性がある19編の論文が含まれている。
 去る4月、石宙明先生が1936年夏に一か月にわたって済州島を旅行しながら蝶を採集した成果である『済州島産蝶類採集記』を懸命に探していたところ、日本の川副博士がその文献を所蔵しておられるという噂を耳にした。そこで川副先生に『Zephyrus』を寄贈していただければ、石宙明記念館が完成した暁には、先生のお名前と共に永遠に展示することをお約束し、学問的、歴史的に天文学的な価値があるその図書を寄贈していただいた。この紙面を借りて、川副先生と、その縁を結んでくださった日本在住の玄善允先生(耽羅文化研究所特別研究員)に衷心から感謝申し上げる。
 済州島学叢書をはじめとする石宙明先生の済州学資料は、済州島の宝物であり、半ば済州人であることを自任し、済州を愛していた世界的碩学である石宙明先生は、済州島の財産に他ならない。今回の学術大会に参席くださったすべての学者たちが異口同音に、石宙明を済州島ブランドとして活用するためにも、その人生と業績を讃える石宙明記念館を一日でも早く建設すべきであると主張した。(尹龍澤済州大学校教授、耽羅文化研究所所長)

 これで一連の話は終わった。そのつもりだった。その一方で、現実とははるかな距離がある夢のようなものとして、尹教授の企画が実現に向けて前進することを願っていた。そしてそれにかこつけて、その夢の石宙明資料館に川副先生の寄贈資料が展示され、日本と済州の絆を引き継ぐ意志のシンボルにできればどれほどいいだろうかとも思っていた。そして、それが実現の暁には、川副先生のお供をして、その夢の資料館を訪問したいとも。
しかし、それから程なくして、川副先生はお亡くなりになった。その知らせをRさんからもらいながら、僕は雑事にかまけて葬儀にも欠席という不義理をしでかすことになった。そもそも僕は幼い頃から、葬式は大の苦手で、その幼児的な自己中心主義への固執から、いまだに脱却できないでいるという体たらく。
 そんな不義理もあって、この一連の物語の記憶は、忘恩の徒である己を今さらながらに痛感させるものともなって、尹教授の夢のその後に思いをはせることなどできないでいたのである。ところが・・・

⒑ 終わりにかえて―夢の実現―
 僕が知らないうちに、そして僕なんかとはまったく無関係に、尹教授の夢は実現に向かって着々と進んでいた。先般の済州訪問の際に、フィールド調査中に大けがをして入院中の尹教授をお見舞いに訪れたところ、腰骨の骨折でほとんど身動きできない状態の尹教授が、その夢の企画の進捗状況を詳細に説明してくださったのである。なんとも驚いた。そして、その驚きは二重だった。朗報自体がもたらした驚きに加えて、ベッドから一時も離れることができないどころか体を起こすこともできない身でありながら、枕元にあった企画パンフレットを手に、僕にその詳細を熱心に語る尹教授のエネルギッシュな姿に対する驚き。夢というものはこういう人に憑りついて、その中で育まれ、そしてついには実現することもあるものなんだなあ、と思わずにはおれなかった。人が夢を選ぶのか?或いは、夢が人を選ぶのか?僕の場合はそのどちらにも関与しそうにないのだが。

 済州道の漢拏山南側の西帰浦市が資料館の建設費を予算化するに至って、第一段階の難関はクリアーしていた。しかし、土地の確保という難問が立ちはだかっていた。かつて日本の植民地時代に数年間、石宙明が勤務し、研究活動を行っていた京城帝大生薬研究所済州島試験場が、今では済州大学の所有、つまり国有になっている。それを西帰浦市が何らかの方法で譲りうけないかぎり、市としての事業は行えない。その問題が障害となって、計画は長らく進展を見なかった。実はそこまでは、前回の済州訪問時に耳にしていた。そして、それを聞いた段階では、その敷地問題の解決は相当に複雑で、策がみつかりそうにないという感触だったのである。
 ところが、それが先ごろ、一気に解決したと言う。西帰浦市が所有している他の空き地と、その済州大学所有地(国有地、資料館予定地のこと)との交換という案は前々からありながら、その線で合意がなされなかったのに、それが急転直下なのか、あるいは機が熟したということのか、一気に解決を見たという。こうして箱モノとしての資料館(記念館)建設自体については大きな障害はなくなり、その企画はすっかり既定事項の域に入ったわけである。
残っているのは、その資料館の将来的な運営、維持管理の問題なのだが、それもまた、地域振興事業とリンクして運営するという大きな方向性はほぼ合意を見ている。
 つまり、済州の各地で展開されている観光絡みの「村おこし企画」の一環として、石宙明ゆかりの土地を域内に持つ村が、その資料館企画と連動して村おこし企画を推進しようというわけなのである。こうして、済州学関連(石宙明研究者も含む)の研究者や環境関連の市民団体と村が共同して企画の詳細を練りながら、その実現に向けて邁進している。
 尹教授はそうした機運をさらに盛り上げて実質的に推進するために、マスメディアと協力して、ラジオとテレビで数回にわたっての「石宙明と済州学」をテーマとした連続放送のシナリオを作成し、それに自ら出演するなどして大活躍なのである。
 そのおかげなのか、済州社会の各層における石宙明の認知度もはるかに向上し、それを地域振興に活用するというアイデアが多様に提起されるようになった。今や、一部の研究者の野心的な夢というレベルを完全に脱して、環境関連の市民団体、そして地域村民との共同作業に姿を変えているところなのである。
 このように夢の実現までもう一歩なのだが、その反面、難題も浮かび上がりつつある。呉越同舟が危惧されているのである。
 村おこし、より具体的には地域の観光資源として石宙明資料館を活用したいとする村側と、済州学あるいは学問融合の拠点としての活用といった具合に、あくまで学術的な志向性にこだわる研究者たち、この二者の思惑のずれ、下手をすれば対立の芽が垣間見えるようになってきたと言う。
 その両者を満足させるような案が模索されているのだが、それが簡単なはずもない。箱モノの建設という一時的なことに留まらず、今後の運営経費の捻出など、長いスパンの問題でもあり、資料館を含めた周辺地域全体に関わる総合的なプランを巡って、凌ぎあいが続いている。それが真剣になされることはよい。「なあなあ」は禍根を残しかねない。
 しかし、最終的にどのように決定されようと、資料館が完成した暁には、『Zephirus』全巻が展示されないはずがない。そうなれば、それがどのような経緯で入手・展示されるに至ったかが紹介されるかもしれない。例えば、その寄贈者がどんな人物だったのかといったことも。
 植民地大帝国日本に生まれ育った自然(鉱物や蝶々など)大好き少年が、やがて当時の教員その他によって皇国少年に仕立て上げられ、必ずしも望んだわけでもない航空士官学校に通うようになった。その少年が敗戦後には、そうした経験を基礎にしてどのような思いで生きてきたのか、さらには、そうした生き方の一つの派生物として、石宙明に関する貴重資料が日本の大阪から済州にたどり着いた。
 そうしたことを、韓国語はもちろん日本語でも記した文章を、参考資料として片隅に置いて、韓国はもちろん日本からの訪問者に読んでもらうこと、それを川副先生に対するせめてもの感謝の徴、或いは忘恩の弟子のなけじめにしたい。そんな夢が僕の中で次第に膨らんでいる。
しかも、全くの偶然やいろんな方の助力のおかげで、こんな僕にでも何かできることがあるかもしれないというかすかな期待も抱くようになったこと、それだけでも老化との闘いに敗北を重ね続けている僕にとっては、大きな励ましになる。資料館の完成を、すっかりしぼんだ胸を再び大きく膨らませながら、待たないわけにはいかないのである。


トモダチのトモダチはトモダチ

2018-08-12 15:46:25 | 触れ合った人々
トモダチのトモダチはトモダチ

トモダチのトモダチはトモダチの(1)
1.はじめに
2.臨時ガイド稼業 
3.自称専門家の見識と言葉 
4.生活者の言葉―江汀の漁師さん―

トモダチのトモダチはトモダチの(2)
5.昔の雑誌の探索
6.蝶々博士の含羞との再会 
7.架橋という使命感? 
8.含羞の来歴 
9.寄贈資料のその後―済州学の創始者・石宙明― 
10.終わりにかえて―夢の実現の形―

トモダチのトモダチはトモダチの(1)
                         
1.はじめに
 春夏の長期休暇を利用して済州滞在を繰り返していた頃(今回の話は2011年春の滞在が起点)、瓢箪から駒のようなことが次々に起こった。その連鎖が思いがけないことばかりで刺激が強く、それぞれの時点で経緯を書き留めていたが、その連鎖が途切れてしまうと、日常の多忙に紛れ、やがては記憶の底に沈みこんでしまっていた。
 ところが、その連鎖が復活、と言うよりむしろ、僕のあずかり知らないところで継続していたらしいことが、最近になって分かった。そしてそれをきっかけに、消えていたはずの記憶がくっきりと浮かび上がってきたので、それらを書き留めていたメモなどもつなぎ合わせて、紹介することにした。但し、上でも触れたように、これは既に終わってしまった物語ではなく、この先の展開に僕は少なからずの期待を抱いており、この文章はその期待が叶った際の感激、その場面に対する前口上となる可能性も十分にある。

2. 臨時ガイド稼業
 2011年の一カ月にわたる済州での研究滞在時に、日本の魚類関連の研究者(文化人類学)のガイドまがいのサポートをすることになった。インフォーマントを探し出してアポイントを取り付け、研究者を案内して訪問したり、資料収集のために官庁や図書館や博物館を案内して巡ったりで慌ただしく、しかも、骨の折れる役回りだった。実は、その前後にも日本から次々と来訪客があって、その案内や接待などで翻弄されている気分に落ち込むこともあって、僕はこんな歳になっていったい何のために、何かと面倒な済州滞在をしているのかと、我ながら呆れたり、苦笑いしたりするほどだった。
 しかし、なんだって考えようである。どんなことであれ、その渦中では徒労感に苛まれたとしても、終わってみれば損得勘定はプラマイゼロ、あわよくばプラスなんだと、無理やりにでも自分に言い聞かせるのが、僕のなけなしの「人生の知恵」である。しかも、今回は珍しいことに、自ら無理矢理などではなくて、本気でそのように思うことができた。引き受けてよかったと。
 そもそも、「お助けマン」役は、その言葉がイメージさせそうな面倒さよりも、何かと便利、あるいは有益な面が少なくない。他人のためという責任感もどきのおかげで、自分のことなら躊躇や怖気が先立って、ついつい回避したり、延々と後回しにしてしまいそうなことでも、依頼された仕事だからしないわけにはいかないと自分に言い聞かせるから、案外、気楽にトライできる。その結果、もっぱら自分の必要から求めていた現実の一端が、垣間見えたりもする。さらには、ガイドとして付き添ううちに、研究者なるものの飽くことない好奇心や貪欲さに、内心で苛立ったり呆れたりする一方で、その欠片も持ち合わせていない自分のことに想いが及んで、僕などは研究者などには端からなれるはずがなかったことを今さらながらに痛感する。そして、そうした遅まきの自覚が、この老いた心身のこわばりを解いてくれそうに感じて、解放感を覚えたりもする。
 
 さて、僕がガイド役を引き受けることになったHさんとTさんのお二人は、シイラという魚の世界各地での多様な漁法や活用方法を調査するために、あちこちを走り回っておられる。その一環で先ごろ韓国の木浦を訪問したところ、済州でもその魚がよく獲れるという話を聞きつけて、急きょ、予定外だった済州調査を企てることになった。ところが、あいにくなことに、お二人とも殆ど韓国語ができないうえに済州訪問も初めてなので、現地には人脈も土地勘もない。その上、年度内の研究費は殆ど使い果たしており、調査内容に見合ったガイドや通訳を雇う金銭的余裕もない。そんな不利な条件がわんさとあるのに、いったん思い立ったからにはと、研究者特有の貪欲さを抑えきれず、知人の知人の知人といった具合に伝手を次々と辿ったあげくに、たまたま済州に滞在していたこの僕にお鉢が回ってきたらしい。
 そしてその僕なのだが、高校2年までは理科系志望のクラスにいたが、いろんな事情が重なって3年に上がる際にいきなり文系クラスに転向する羽目になって以来、40年以上にわたって文系、なかでも文学や語学畑に閉じこもって生きてきたので、よほどの例外を除いては人間関係もその枠内に収まってきた。それに、趣味で魚釣り三昧というようなマメで辛抱強い人間ではないので、酒の肴として以外には、魚について知っていることなど何ひとつない。
その他にも、両親が済州出身だから在日済州人などと呼ばれることがあっても、40歳を過ぎて遅まきにその「故郷」往来を始めたにすぎない僕には、そんな自意識などまったくないし、済州の事情にもそれほど詳しくはない。さらには、韓国人だとは言っても、幼い頃から家で韓国語が話されていたわけでもなく、その後も韓国語をまともに学んだこともないから、通訳ができるほどの韓国語能力など備えておらず、済州滞在中もいつも言葉の障壁で苦しんでいる。
 と言ったわけで、ないものづくしで、どこから見ても研究調査のガイドとして不適格極まりない。しかし、だからこそ経費も安くてすむ。これがおそらく僕にお鉢が回ってきた最大の理由なのだろうと、依頼された方々の懐具合や切羽詰まった内情も想像して断りにくい。
 それに実は僕の方でも、ガイドという僕にはお門違いだから面倒に違いない役回りを引き受けざるを得ない事情があった。生来、頼まれれば嫌と言えない軟弱な性分ということもあるのだが、それ以上に、当時の僕の状況が背中を押した。済州滞在の本来の目的の達成が殆ど無理ということが明らかになり、しかも、先の展望も開けずに落ち込んでいた。そこで、残された短い滞在期間に、誰かの、それも研究と名の付くもののお役にたつことができるならば、自らの不毛感、不能感を紛らわして、済州滞在にそれなりの意義や役割を見いだすことができるかもしれない。そうした自分勝手な理屈に基づいて、そのガイド役にむしろ自己救済の期待をかけるという側面もあった。
 そんなわけで、相当に迷ったあげくのことなのだが、ともかく承諾のメールを送った。しかし、そのとたんに安請け合いの後悔が始まり、肩の荷がずどんと重くなった。
 だがともかく、動きださねばならない。そのお二人が済州につく前に、宿舎の確保、3泊4日のスケジュールの作成、つまりは会ってもらえそうな関連研究者やインフォーマントの確保と資料収集の手立てなど、方々に助けを求めながら準備に努めた。ところが・・・
 先にも記したように、魚類に関する調査については、僕は全くの門外漢なのだが、なにしろ済州現地に滞在しているからには、現地の知人たちに尋ねてみたらなんとかなるだろうと、高をくくっているような部分もあった。ところが、いざ周囲の人々に尋ねてみると、捗々しい返事はまったく得られない。済州でそんな魚(済州ではマンベギと呼ばれているというのが、日本から来訪予定の研究者たちからの情報)のことなど、聞いたことがないという人がいるかと思えば、その魚のことは知ってはいるけど、あまりに生臭いものだから、周囲を海に囲まれて、魚が豊富な済州人は、わざわざそんなものをより好んで食べるわけがないなどと、僕の質問に呆れかえり、馬鹿なことに首を突っ込んでしまった無知で能天気な僕に対する同情の気配まで。
 頼りない探索であることは端から承知のつもりだったが、いざとなると、たちまちのうちに予想以上の障壁が立ちはだかり、デッドロック状態になってしまった。そこで仕方なく、最後の頼りというわけで、Aさんに助けを求めた。
 中年も佳境に入って遅まきに始めた済州滞在、その初期に知り合って以来、滞在中はもちろん、日本に戻っている間も、何かとお世話になってきた方である。そして、僕の側でもせめてもの恩返しにと、いろいろと相談に乗ったり、僕にできそうなことなら何だってお手伝いしてきた。要するに、現時点での僕にとって済州で最も信頼できる方だった。だから本来なら、この種のことなら僕としては最初に相談をすべき人なのに、それを躊躇っていたのである。というのも、僕の本来の目的だった調査のことで面倒をおかけしただけでなく、その調査が想定通りに進まなかったことで、折角の協力に報いることができなかった申し訳なさもあった。だからこそ、そのうえさらに相談して負担をおかけするのはいくら何でも調子が良すぎるという懸念が僕を縛っていた。
 しかし、今や僕ひとりでできそうなことは何もないことが明白で、つべこべ言ってられない。覚悟を決めて相談を持ちかけた。するとAさんは、まるで何事もなかったかのように、いともすんなりと僕の願いを受け入れて、すぐさま、その種のことでは周辺で最も頼りになりそうな社会学のC教授に相談してくださったのである。すると、予想以上の反応があった。
 C教授は済州の歴史や社会に関する大型の共同研究の推進に加えて、それを市民運動にもつなげて精力的な研究活動を推進してこられた方である。そして、その多彩な活動のネットワークは済州や朝鮮半島に留まらず日本にまで広がっており、この僕もそれまでに日本と済州の両方で何度かお会いしたことがある。しかも、前回の済州滞在時には、研究の一環としてのインタビュイー役を依頼されて、2時間余りにわたって面談した後、ご夫婦と食事を共にするなど、僕もそれなりの関係を構築していた方だった。そんなC教授が、僕が依頼された調査への協力について、おおむね次のようなことを仰ったらしい。
 従来の済州学研究は文系の学問領域の比重が圧倒的に重く大きく、それだけにその領域だけで自足する傾向がある。しかし、今やそうした従来の枠を越えた新しい領域・分野を取り入れることによって、済州学のパラダイム転換を模索すべき時である。そうした観点からすれば、今回のような領域の研究者の来訪、そしてその調査に対する協力は今後の共同研究の契機になるかもしれないので、是非とも協力したいというのである。
 しかも、C教授は口先だけでなく、すぐさまアンテナを働かせて、学内でのその種(魚類や海関連)の権威である海洋学部の学部長とコンタクトを取り、面談の手筈まで整えてくださったのである。

3.自称専門家の言葉と見識
 それをAさんから伝え聞いた僕は、すっかり気が楽になり、そうなると不思議なもので、臨時ガイドの準備もスムーズに運びはじめた。日本から研究者が来訪の日には、Aさんの車で空港に向かい、二人を拾って旅館まで案内して荷物を下ろすと直ちに、C教授が待ってくれているはずの大学に向かった。そして、C教授がアポイントを取ってくださっていた海洋学部長の応接室に同行した。通された部屋は広くて豪華で、さすがに権威を重んじる韓国らしいと余計な感心をしたりと、僕はすっかり楽観していたのである。   
 日本からのお二人は、面談時の使用言語のことを気にかけておられたので、学部長の登場を待つ間に、そのことについて打ち合わせをしておいた。C教授は、「自分は話すのは拙くても、聞き取ることはある程度できるので、日本語で不都合はありません。学部長はまったく日本語ができないでしょうが、有能な通訳のAさんもいらっしゃるし、必要な際には玄先生が助けてくださるでしょうから、何も問題はないので、今回はご自分が一番確実に、そして気楽に意思を表現できる日本語でなさるのがいいでしょう」と、お二人の不安を一掃してくださった。それで言語の問題は一件落着した。誰もがそのように考えていたはずである。
 やがて学部長が満面に笑みを浮かべながら現れた。いかにも、公式行事に慣れた韓国のお偉方風、もしくはアメリカ風の大げさな歓迎の仕方だと僕は感心し、安心もした。ところが、その学部長の口から飛び出してきたのは、なんと英語だった。
 僕らは意表を突かれて、どぎまぎせざるをえなかった。日本からのお二人も少し狼狽える気配があった。しかし、さすがに海外での調査経験が豊富だからなのだろう。即座に、自己紹介を兼ねて訪問の目的などを、たどたどしいながらも理解は十分に可能なレベルの英語で始められた。しかし僕は、これは拙いと思った。学部長に失礼になるかもしれないという危惧を振り切って、咄嗟にお二人の日本の研究者に向かって声をかけた。慣れないからこそ、その分、ガイドとしての責任感が強く働いたのかしれない。
 「無理に英語で話すよりも、先ほども話し合ったように、日本語で話されたほうがいいですよ、僕かAさんが通訳するので、意思疎通に関して不都合なんか何一つありません。それに、先生方はここではお客さんなのですから、ご自分を中心に考えたほうが自然です」。C教授も間を置かず、「そりゃあ、日本語で気楽に話し、通訳を介したほうがいいでしょう」と加勢してくださった。この二人の言葉を受けてすぐさまAさんが、学部長に向かって韓国語で、僕とC教授の意見をかいつまんで話して了解を求めた。学部長は、お得意の英語を披露する折角の機会を奪われてご不満の気配もなきにしもあらずだったが、さすがに場の空気、あるいは、客人である僕らの側の意向を受け入れたのか、韓国語にスイッチされた。こうして、日本語を中心として、必要な場合は韓国語の通訳を介してのやりとりが、スムーズに運ぶようになった。
 しかし、僕はその時点で既に、せっかくの面談なのだが、例の魚に関する新たな情報を得る可能性は殆どないと判断した。デジャ・ヴュのようなものが作用してのことである。
 
 僕は以前にある大学のアジア関連の研究所で、シンポジウムの準備その他で様々な国々の教員や事務職員との交渉で頭を悩ましていたことがあった。その中でも特に厄介だったことの一つが、韓国の教授さんたちの挙動だった。誰もがそうだというわけではないが、僕の定規からすると古臭い権威主義が深刻で、相手の位階によって態度を露骨に変えては無理難題を言ったりして僕を呆れさせた。そしてもちろん、僕は大いに苦しんだ。そのうえ、その種の人たちは、自分たちは英語ができるのに日本人は英語ができないという思い込みが強く、その彼らが思いこんだ優位性を担保に、敵つまり日本の大学関係者に対してカウンターパンチのつもりなのか、英語でまくしたてて相手がどぎまぎするのを見て得意満面といった場面に何度も出くわして、腹が立つと同時に情けなくなったりもした。そんな御仁たちに対する僕の拒否感、嫌悪感は、おそらくは僕のどこかに潜む「同族としての羞恥心」のような、幼稚で過剰な情動に由来する部分があっただろうから、自慢できそうな代物ではない。しかしともかく、僕はそれで大いに苦しんだので、その種のパフォーマンスには過剰反応してしまう。嫌悪感が抑えられない。
 そんな類の仕事を離れて既に10年も経っており、あれほど不快だった記憶も殆ど消えていたのに、学部長は僕の記憶に残っていたパターンのパフォーマンスを、そっくりそのままに眼前で演じている。そんな印象だった。したがって、そんな場で生産的な何かが生じるなんて、僕が思えるはずもなかった。
但し、かつて僕が余儀なくされていた交渉事の場合とは違って、この面談では利害など殆ど絡んでいないからだろうか、学部長のその種のパフォーマンスにもそれほど嫌味はなく、むしろ子供じみた滑稽さが微笑みを誘う程度のものだった。そのおかげで日本からのお二人も、初めは少し気後れの気配もあったが、やがて気を取り直した。研究への情熱と業績に関するプライドが、「めげる」ことを許さないのだろう。ゆっくりと日本語で、調査の趣旨を事細かく説明し、それをAさんが通訳し、時には僕が補足し、さらに時にはC教授も加勢してくださった。
 そうなると、学部長さんも武装の一種に他ならない劇場的パフォーマンスを次第に脱ぎ捨てて、実にフレンドリー、時には善人のお節介のように情がこもった態度で応対してくださった。会った瞬間から「超多忙」を連発されていたので、せいぜい30分が限度と予想していたのに、既に1時間を超えていた。
 しかし、肝心のシイラという魚に関しての収穫はゼロだった。「済州にはそんな魚はほとんどいない。自分が言うのだから間違いない」と断言なさるのだが、僕はその言葉をまったく信じていなかった。そうした信憑には、彼の話しぶりに済州の「におい」が全く感じられないことも作用していた。彼の韓国語には釜山の言葉遣いとアクセントが歴然としていた。この人は済州のことはあまりわかっていないというのが、僕の確信だった。
 C教授も同じような感触をもっておられたのだろう。最後に一つ、意外な質問をなさった。「どこのご出身ですか」。すると学部長は「釜山の出身で釜山で大学を終えて、アメリカで学位を」と誇らしそうにお答えになった。予想通りだった。しかし、先にも触れたように、彼の「済州の海や魚のことで知らないことはない」とか、「そんな魚は済州にはない」というセリフは、彼の無知と虚勢(ステイタスが要求していると彼が思いこんでいる態度)の絡み合いの結果にすぎず、殆ど意味がないと僕は見なしていた。会見を終えて学部長室を出る際に派、また一からのやり直しと自分に言い聞かせていた。
こうして僕らが期待していた探索の第一歩は、殆ど無駄足だったのだが、専門家を自称する方々の言葉を鵜呑みにしてはいけないという教訓を体で教えてもらった気分だった。
 C教授は仲介者として、僕らに対して申し訳なさそうで、「漁師さんに直接会うのが一番なのだが、また機会を見つけて食事でもしながら相談しましょう。今日は今から授業があるので申し訳ない」という言葉を残して、教室に急がれた。
 残された僕たちは、もうお一方、面談の約束をしていた研究所の所長を待つことになった。しかし、先ほどのこともあるので、学者さんに期待をかける気分ではなかった。研究所に戻り、大量の蔵書が並んでいる書架をぼおっと眺めていた。
 
 やがて、その所長がにこやかな表情で登場された。さっきの学部長が自らの何かを誇示するための笑顔だったのに対し、所長の方は僕らを柔らかく包み込む微笑だった。
 所長は環境哲学の教授の傍ら、環境保護など市民運動でも大いに活躍している方である。とりわけ最近は、ご自身の生まれ育った江汀村の海軍基地反対運動に精力的に関わっておられると言う。
 僕らの先ほどの収穫、実際は収穫無しの面談の話を聞きながらも、それは当然だから気にすることはないとばかりに、笑顔を絶やさない。その表情で僕らを励ましてくれているようだった。そして、なんとも気楽な口調で、「そんなことは学者なんかよりも、漁師の話を聞くのが一番で・・・」と、C教授と同じことをおっしゃる否や、携帯電話を取り出して、電話をおかけになった。現役の漁師である幼馴染らしい。その通話の様子を漏れ聞いているうちに、僕の期待は膨らんだ。通話を終えると、Y教授はその幼馴染の話の内容をかいつまんで説明してくださった。
 「その魚は済州ではよく獲れる。すぐに生臭くなるので、済州では評判が悪く、あまり食べない。漁師も、たとえ釣れてもその場で捨てるくらいである。しかし、実は、観光客向けの海鮮食堂では、刺身の盛り合わせの中に、それを紛れ込ませてお客に供している。安価だし、新鮮でありさえすれば、特有の生臭さもなく、客たちは、済州人には不人気な魚であることなど知らずに、十分に満足している。それに地元の市場でも売っていて、実は地元の人たちも食べないわけでもない。それになによりも、ヒラマサやブリなどがその魚を追って餌にする習性があるので、ヒラマサやブリを狙う漁師は、その魚の群れを追っていると、お目当ての獲物に遭遇する可能性が高いので、その魚の有無は漁獲を左右する指標にもなっている」。
 そう言い終えると、所長は僕らにいたずらっぽく、ウインクした。意気消沈はふっとんだ。

4. 生活者の語り―江汀(カンジョン)の漁師さん―
 翌日、所長の幼馴染の漁師さんに会おうと、村まで赴いた。事前にアポイントを取っていたわけではないから、もしかして不在だったらとか、ひょっとして失礼になりはしないかなどと不安だったが、二人の研究者の滞在期間はたった4日で時間的余裕もないので、ともかく押しかけてみようということになったのである。
 実は昨日、所長が電話を切る前に、或いは切ってからでも、アポイントをお願いすべきだったのだが、切る前にはその通話内容が定かではないかったし、通話内容が分かった後では、予想外の朗報だったから、僕らはのぼせ上がって、大事なお願いをするのを失念していたのである。所長が去ってようやく、その失敗に気づいたのだが、所長の電話番号も知らず、改めて所長に幼馴染とのアポイントをお願いするのは申し訳なく思って、今回は自分たちだけで挑戦してみることに決めたのである。漁師さんの電話番号も教えてもらっていた。翌日に、資料収集のために赴くつもりだった官庁と同じ方面だから、 ついでに少し足を伸ばして、うまくいけばよいし、うまくいかなくても仕方ないということになった。
タクシーで漢拏山を越え、江汀のマウル会館(村民会館)の前に着いて電話してみたところ、「漁に出るつもりだったが、風が強すぎるので断念して、家で雑用をしているところだから、遠慮はいらない。来たらいい」と気持ちよい返事だった。助かった!
 電話で教えてもらった道筋を辿って、それらしき門の中を覗いてみたところ、中年の男性が庭で大きな木を伐採していて、声をかけると、屈託のない笑顔で僕らを迎え入れてくれた。研究所の所長と幼馴染とは信じられないほどに若く精悍に見えた。挨拶もほどほどに家の中に入って、居間で勧められるままに円座になったところへ、奥さんがミカン(漢拏山にあやかってハルラボンという名称だが、本当は日本のデコボンの模造品との話もある)とコーヒーを持ってきてくださり、あいさつ代わりの笑顔を残して、すぐさま引き下がられた。
 半農半漁(ミカン畑の収入も家計に占める比重が大きいらしく、これは済州の漁師や海女たちの経済生活の一般的な形)で、塀で囲まれた大きな庭には立派な菜園もあって、特にニンニク畑が目についた。鉄筋二階建てで、一階は3部屋だが、どの部屋も日本の都会の部屋と比べれば、はるかに広くてゆったりしている。総二階建てなので、2階にも同じくらいのスペースがあるはずである。少し乱雑な感じもあるが、だからといって不便がありそうでもない。家自体もその主であるご夫婦と同じように、格好をかまわない自然体の印象だったし、そのおかげで僕らもすぐさま、ごく自然に寛げた。
 話が始まった。彼の言葉が完璧に理解できたわけでもなかったが、僕なりに懸命に理解し、通訳に努めた結果は、おおむね次のとおりだった。
ご本人は1961年生まれ、韓国式で51歳(僕よりは11歳年下ということになる)、背丈は少し低いが、体つきは頑丈そうで、精悍な顔つきの中でもとりわけ眼差しが強い。しかし、いかついといった感じはなく、子供の純真でまっすぐな目つきといった方がふさわしく、僕はその容貌と訥々とした話しぶりに、たちまちのうちに魅了された。
 代々が漁師の家系で、幼いころから祖父や父の船に一緒に乗って漁を覚えた。今では誰もが、例えば実弟も立派な装備の大きな船で漁をしているが、自分は意固地にほとんど装備がない昔風の小船で、空や海や山の気配を見ながら、もっぱら経験に基づく勘でポイントを選んで、ヒラマサやブリなどの高級魚の一本釣りをしている。そう言いながら、立ち上がって隣の部屋から、竿その他の釣り道具を持ってきて、その操作などの実演を交えて、漁法などについても詳しく説明してくれた。僕は釣りのことなど皆目分からない人間だから、その熱心な説明は無駄だったが、研究者のお二人は韓国語は分からなくても、さすがにその方面の研究者だからか、僕よりもはるかによく理解できているようで、しきりと頷き、時には質問を返したりもした。それを僕が通訳に努めるのだが、具体的で詳細な部分は、僕には無理な領域なので申しわけなかった。でも、研究者も漁師さんも不都合を感じていそうな気配はなかった。漁師さんは自分が特にお気に入りの竿を、いかにも愛おしそうに見つめ、さらには触りながら、漁具は圧倒的に日本製がよいと、まるで自分の子どもを自慢しているような口ぶりだった。
 次いでは最近の村の懸案の話になった。この江汀村は海軍基地の建設で大いにもめている。昨年の住民投票で賛成多数ということになったが、それでことが決したと思っているわけではない。国や道庁に対して数多くの訴訟を提起しており、それが決するまでは勝負は決まらない。ところが、海軍はすでに工事を始めると同時に、立ち入り禁止区域を設けて鉄条網をたてるなど、強硬一点張りである。
 国側は地主である村民に何の相談もなく、市場価格の30パーセンの低価格を売買価格に設定して、その総額を公的な機関に供託することで合法性を装って、強引に工事を推進している。生業補償の額も、他の地域(本土の米軍基地その他の軍事関係)と比べると、10パーセントくらいの恐ろしく低い金額の提示を変えない。そんな態度をみると、昔と変わらず、本土の人間や政府は済州島の人間を馬鹿にしているとしか思えない。
 海岸には基地建設反対運動のテントがあって、ソウルのある学者などは大学を辞めて、そこで4年間も住み込みながら、チームで映像資料を作成して反対運動に活用するなど、支援の輪も広がり、日本などからも支援の人々が訪れたりしてくれて有り難いことだが、それで国家安保も絡んだ問題の解決にどれほど影響するものなのか・・・
 その話の途中で、折角だから現場で話したほうがよかろということになって、彼の愛車の4WDに乗せてもらって海岸に向かった。評判通りに素晴らしい海や海岸の景色を前にして、続けて説明を受けることになった。
 昔から景色と自然環境で評判のその海岸を埋め立てて基地を作る計画らしく、その輪郭が分かる程度には工事が進み、クレーンなどの重機が随所に聳え、威圧的に感じる。
 次いでは、家族の昔話になった。
 4・3事件当時は貧しくて、養豚でなんとか生計を立てていた。ある時、村人が豚肉を分けてくれというので、そうしてあげたところ、その豚肉が山部隊(パルチザン)に渡ったことを盾にして、お母さんが警察に連行されて、ひどい拷問を受けて死んでしまった。指の爪と肉の間に鉄棒を突っ込まれたりと、遺体にはひどい傷跡が残っていたらしい。そのように僕らは聞いたが、その当時にはこの漁師さんはまだ生まれておらず、一族の口伝になっているのだろう。それにお父さんの当時の生活を話してもらっていたら、もう少し事情が分かっただろうにと後で後悔した。
 その後、朝鮮戦争の際にはお父さんが参戦してひどい傷を負い、一級の傷痍軍人の補償を受ける資格があった。ところが、戦争で傷を負ったわけではないのにわざと自分を傷つけ、それを盾にして補償金をもらい、しかも、そのことを自慢する知人に我慢ならないからと、自分自身の戦争傷害の申請をせず、当然ながら、補償金を受け取ることもなかった。この話もまた、前に上げたお母さんの話と同様に、話し手の漁師さんはまだ生まれていなかったはずだから、一家の口伝になっていたのだろうが、それだけではないはずである。お父さんとはその後に一緒に暮らすだけでなく、同じ船で漁なども共にしていたのだから、その合間などでお父さんから直接に、それもきっと、何度も何度も聞いた話なのではなかろうか。
 そのお父さんがその後、一人で漁に出て遭難したのか、戻らなかった。そして3年も消息がなかったので、亡くなったものと見なして葬式も終えた。ところが、それから程なくして、生きて現れた。漂流中に日本の船に救助されて日本に連れていかれたのだが、まだ今のように通信環境が便利な時代ではなくて、しかも、日本と韓国とは国交が結ばれていないという秋条件が重なって連絡のとりようもなく、帰りたくてもなかなかその機会が訪れないままに時が過ぎた。そして3年経って、ようやく戻ってこれたのだと言う。
 兄さんがまだ幼いころに亡くなったので、次男の自分が後を継いでいる。弟は自分よりも大型の船で漁をしているが、先にも言ったように、自分は昔気質で、小型の船で勘に頼って漁をする傍らミカン畑などの農業もしていて何とか生計を立てることができているので満足している。ところが、この基地問題で、先行きが見えなくなっている。
 方々からいろんな圧力がかかって、仕方がないからと海軍の補償金を受け取るような人が多くなっており、近隣の村では100パーセント近くになっているところもあるらしいが、自分たちの江汀村では、おそらく五分五分だろう。ともかく行けるところまで行くしかない。
海辺には、その海で取れる魚や周辺の珊瑚などの写真が展示されており、来訪した人たちのメッセージがたくさん張ってある。韓国最高と評判の彫刻家の作品もいくつかあるらしい。石垣の上にもいろんな作品が載せられている。伝統的な習俗である「防邪塔(邪気が外部から侵入するのを妨げるお呪い)」にヒントを得たものなのだろうか。
 その他、いろんな話をたっぷりとお聞きしたのに、その一部しか覚えていない。それはなるほど残念なのだが、その一方では、話していた際の彼の目つきがすごく純真で、力のこもった真黒な瞳が赤焼けた頬の色と見事にマッチしていた記憶だけでも、僕としては十分という気がしないでもない。
因みに、江汀についての基本情報を少々。
 この村はその名前(江と汀といったように、サンズイのある漢字ふたつの合体)からも想像できるように、水で有名な地域である。済州島は火山島の特質上、雨水もすぐさま大地にしみ込んで伏流水になって、主に海岸もしくは海中で吹き出すので、水が常時流れている川はあまりないのだが、ここ江汀村は珍しく良質で大量の水が流れる川が幾つもあり、川魚、例えば鮎も豊富だし、済州では珍しいことに昔から稲作を行っていたところである。その上、栄養価が高くクリーンな水が流れ込む沿海は、美しいだけでなく、豊富な生物資源に恵まれており、漁場としてもすぐれている。だから、元来は何だって済州で一番という評判の村の一つだった。
 そんなところに、いきなり海軍基地の建設の話が降ってわいた。候補地にもなっていなかったのに・・・地元の有力者のイニシアチブで、おそらくは道庁トップや海軍などと極秘裏に話が進んでいたようで、きちんとした周知徹底もされない村の会議での投票で、誘致が決まったということになっている。その経緯の不透明性、それに加えて、本来の幾つかの建設候補地では反対があまりに激しかったので建設を強行できなくて、だしぬけにその代わりにというのだから、、この江汀村の住民が怒らないわけはなく、その反対運動も熾烈にならざるを得ないだろう。
 そもそも、どうして村の一部の有力者がそのように強引にことを進めたのかと言えば、反対運動が熾烈になることを見越していたからであろう。ではそれを見越しながらも、その決断をしたのは何故かと問えば、地域の利益のためということに、それらの人々の立場からはなるだろう。何故それが地域の利益になるのかと言えば、環境が秀抜だからこそ他と比べて環境・自然保護関連の規制が厳しく、大規模開発・建設の時流から長らく取り残されてきた結果として、経済的な地盤沈下が著しいという事情があってのことらしい。「自然や環境だけでは食えない」というのが、建設推進派の大義名分なのである。
つまり、世界の随所で潜在し、時には表面化することもある開発発展か環境保護かという二項対立が、ここ済州の江汀村でも顕在化したわけである。
 
 すでに数年にわたって厳しい反対運動を続けているが、方々からの切り崩し工作、闘争疲れもあって、ついには再度の住民投票で賛成票多数というように、工事の追認となったのだが、納得していない村民が少なくない。親子、兄弟、親戚、友人間の軋轢、葛藤などによって、結束を誇ってきた村の共同体はすっかり壊れてしまうなど、精神的な傷も深刻である。だからこそなおさら、今さら引き下がるというわけにはいかないという気持ちにもなるのだろう。環境問題、財産問題、その他の諸問題に加えて、国家の安全保障という大義が絡んでくる。韓国では、環境問題も往々にして国防、安保の問題と絡み、そうなると国論を二分する政治対立になって、解決の道筋が見えなくなりがちである。
 それはともかく、この漁師さんのおかげで、魚関連の資料収集その他にも弾みがついて、予想よりも収穫が多かったらしく、それから3日後に研究者のお二人はすごく満足な様子で済州を発たれた。
 後に残された僕も、大任を果たした気分で満足だったし、その上、こうした思いがけないガイドの真似事のおかげで、不毛感や不能感からも解放されるという余得もあったのだから、万々歳だった。
 しかも、それを契機に僕の済州との関わり方の変化の兆しもあった。この江汀の漁師さんのような生活者の立場に寄り添う形で、済州について考えたいという気持ちがますます強まった。僕のように何重にも外様である者が、例えば基地建設という複雑な問題で、一方に肩入れして正義を気取るというわけにはいかない。僕はどこまでも部外者である。その立場を忘れることなく、いろんな現実に苦悶する人々の実態に対して五感を作動させて、理解する道筋を探し出す努力くらいなら、できなくはないだろう。
 済州出身の両親の下に生まれながら、その済州と本気になって付き合い始めたのは50歳を過ぎてのことだからと、その半世紀もの不在と無知を取り返そうなどと焦っても仕方ない。僕なりに気持ちが動くような些細な発見の喜びをかみしめながら、地道に済州と付き合っていきたいと、切実に思うようになった。
 
 そんな僕の思いを推察したのかどうか、Y教授は江汀村の自然環境保護のために自作自演で制作したDVDと、ご自身が執筆した関連文献を大量に僕にくださった。そしてそれを見るうちに、今までとは全く異なる視覚、分野からの済州へのアプローチも可能かもしれないいう気になるなど、新鮮な興味を覚えた。そこで、頂戴した文章を自分の勉強のつもりもあって翻訳を試み始めたのだが、何だってそれほど甘くはない。巨視的なレベルでの概念的、或いは総体的な把握は短期間のうちにできたような気にもなるものなのだが、個々の具体的状況の細部に踏み込もうとしたとたんに、付け焼刃が露呈する。つまり、初歩的な能力不足に直面して、一歩も前に進めなくなるのである。
 例えば、Y教授から頂いた文章に大量に出てくる多様な希少生物の名称、それらの生物や環境の名称に深くしみ込んだ済州語などは、手元にある辞書に出てはずもなく、そもそも実物にお目にかかったことのない僕などにはイメージの欠片もなくて、たちまちのうちにお手上げとなる。そんなわけで、僕の再出発も端から頓挫してしまった。そして、普通ならそんな場合には、大層な挫折感に陥りがちである。ところが不思議なことに今回は、そんな感じが殆どなかった。むしろ、これで当然だとすんなり受け入れるなど、気持ちを切り替えることができた。もっと年を取って、もっと時間や気持ちの余裕ができて、その時になってもまだその気が残っていたならば、もう一度チェレンジすればいいじゃないか。今まで以上に出会いの喜びを覚え、それを楽しみつつ生きる糧にして、取り組めるのではないか、そんな風に思えたのである。


遅れること、弔うこと(1)-処女作の産婆役としての上野瞭さんー

2018-04-13 08:07:07 | 触れ合った人々
 今回は2002年に京都の「晩年学フォーラム」の会報に掲載してもらった文章である。その会の主宰者のお一人であった上野瞭さんの追悼号だったはずである。
 その文章を契機にシリーズで書き継ぐつもりで、次の一回はなんとか完成にこぎつけたのだが、何故かしらフォーラムには送らずじまいになったような記憶がある。
 しかも、その後に計画していた僕の父絡みの文章は、いろんな話が錯綜して収拾がつかなく、シリーズも2回だけであえなく頓挫してしまった。
そこで、このブログでは一応の完成に至った2回分だけ、少し手を入れて公開することにした。どちらも、たしか2002年の2月か3月頃に書いたものである。


遅れること、弔うこと(1)―処女作の産婆役としての上野瞭さん―
                          

 初っぱなから宣伝めいて恐縮なのだが、以下は拙著『「在日」の言葉』(同時代社、2002年)に付した後書きの一部の引用である。
 
 本書を構成する一連のエッセイは、京都の市民グループ「晩年学フォーラム」の会報に1995年12月から1996年12月まで13回にわたって連載した原稿に多少の手を加えたものである。
 40歳前後から、生き方、考え方、そして語り方が行き詰まる感じが強まっていた。残された人生をうまく生きるには、それら一切を考え直して、変えねばならないと感じながら、どうすればいいのか方向性が見えなかったから、何かが可能なようにも思えなかった。

 そうした折に、「晩年学フォーラム」の主宰者のおひとりである上野瞭さんからお誘いを頂いた。「気軽に書いてみませんか」という柔らかな声が私の中でくすぶっていたものを誘い出した。自分をしっかりと崩し、そこから生まれてくるものを掴みたいと思った。最初はなかなかうまく書けず苦労したが、「フォーラム」の参加者その他多くの人々から励ましを頂き、書ききりたいという気持ちが徐々に固まっていった。そしてなんとか、種が尽きるまで書き続けることができた。フォーラムの関係者に謹んで御礼を申し上げたい。とりわけ、苦しい闘病の渦中にあっても、書き、考え、人を励ますことを放棄しない上野さんに。
(中略)
 初めに手を付けて既に7年を経ている。その間、世の中は大いに変化しているが、私は殆ど変わっていないことを、推敲しながら確認しないわけにはいかなかった。この文章を書き次いでいるうちに、自分を受け入れ、人を受け入れる、そういう当たり前のことを少しは学んだようである。そういう意味で、本書は私の青春の遅まきの総決算であり、それ以後の人生の羅針盤ともなっている。それだけでも私にとっては大いに意味がある。しかし、それが私以外の人々にとっていささかなりとも意味を持ちうるかどうか、甚だ心許ない。  
 
 この書物は5年以上も前に日の眼を見るはずだった。それが叶わず今に至ったのは私の未熟を初めとして諸事情があって致し方なく、それどころか、そのおかげでいろんなことを学ばしてもらったのだから、かえってよかったとさえ思える。しかし、そのせいで、生前の父に見てもらえなかったこと、それが唯一の悔いである。3年前の大晦日に他界した父に本書を捧げる。

                  父の3回目の命日を控えて
                                 玄 善允

 実は、その本の刊行は本年(2002年)1月28日であり、当然のごとく、上野さんはその本はもちろんのこと、上記の文章も読んでおられない。しかも、僕が上野さんの訃報を目にしたのは、29日も午後になってのことだった(上野瞭さんのお別れの会は1月29日だったはずである)。
 上述のように、父が亡くなって3年余りになる。異郷たる大阪で亡くなった父の墓をどうするかは、父の生前からの我が家の懸案だった。私たち子供の全員が日本に居住しているという現実もあるから将来の墓守の問題など、あちら(韓国・済州)で生じかねない数々の問題を懸念して、母はひそかに私たちに指示して、父の願いに反してこちら(大阪)で墓所を用意させていた。父も晩年には、そんな事情をうすうす察知して、仕方のないことと是認してなのだろうが、墓の話は避けている気配があった。

 ところが、その父が亡くなって以降も母は迷い続けていたらしい。夜毎に夢の中で亡夫と対話を続けていたらしく、翌朝になると「済州に墓を作れ、言うて怒ってた」と憔悴した面持ちで漏らすことがあった。そしてついには、あれほど父が恋い焦がれていた故郷・済州に、父が希望していた土葬は今や叶わなくても、せめて骨だけでも納めたいと言い出した。そしてその後もそうした母の願いあるいは決意は揺るがず、それを知った済州在住の宗家の長男である従兄が、格好の墓所を紹介してくれると言う。その知らせを受けて現地見分に赴いたところ、なるほど絶好のロケーションだった。
 
 山間にある禅寺が開発した墓地からは、済州の南側の絶景である西帰浦の海が見え、眼を反対側に転ずると、父にとって故郷の象徴であった漢拏山の優しく雄大な姿も望める。反対する理由などあるわけがなかった。しかも、後に気が付いたことなのだが、僕が両親に同行して済州への往来を繰り返していた頃に、「ここで土方をして渡航費を稼いで日本に行ったんや」と父が言っていたのが、済州でも良い水が出ることで有名なその地域だった。
 
 その墓地への納骨の儀式から帰ってきたところだった。一族郎党を引き連れて、いわば添乗員と会計責任者、さらには通訳その他を兼務しての実に疲れる旅だった。しかも、長年の懸案の始末がついたからなのか、疲労と虚脱感が一気に押し寄せた。

 ぼんやりしながら、留守中に溜まっていた新聞に何気なく目を通していると、飛び込んできたのが上野さんの微笑みを浮かべた顔だった。実際には、それは僕の思い込みにすぎず、上野さんの顔写真など掲載されていなかったかもしれない。しかし、訃報を見たとたんに僕の覚えている上野さんのはにかみをまじえた微笑が僕の眼前に浮かび上がったことは確かなのである。もちろん、その日の正午と記されていた葬儀への参列は叶わない。感傷の大波が襲いかかってきて、過去のよく似た出来事の記憶を蘇らせた。父を筆頭に、僕にとって恩義がある方たちの死に絡む「手遅れ」が僕の人生には付き纏ってきたことに思い当たった。「遅れることと弔うこと」をシリーズの総タイトルに採用した所以である。
 

 僕は大学院の博士課程の頃から、あちこちの大学でフランス語を教えながら生計を立ててきた。だから、既に25年以上も非常勤講師稼業をしてきたことになるのだが、内情を知る人は多くはないのだろうが、この商売、なかなか厳しい。糊口をしのぐには数をこなさねばならず、昼食の時間を利用しての大学間移動なんてこともざらにある。そうして走り回っていたある女子大で、上野さんと初めて出会った。非常勤講師控え室、それも喫煙室でのことである。
 
 大学も嫌煙権が非常な勢いで、喫煙者は隅に追いやられる。個人研究室をお持ちの専任教員はそこで密かにタバコを喫ったりする人もいるらしいが、非常勤はそうはいかない。小さな非常勤用の喫煙室で、同業者同士が角突き合わさずにはおれない。そこで隅に追いやられた者同士の同族意識が働いて、年齢差や趣味の違いも乗り越えやすい。そのようにして僕と上野さんとは言葉を交わすようになった。それだけではなく、たぶん、上野さんと僕に共通する嗅覚のようなものも作用したのだろうが・・・
 
 要するに、非常勤かつ喫煙者という鼻つまみ者同士、しかも、それを相当に意識している者同士の出会いだった。
そうした鼻つまみ者としての自意識、それは少なくとも当時に限って言えば、僕よりも上野さんのほうが強かったはずである。長らくその大学の専任教員だったのに、定年を期にそこから「転落」して間もない頃だったから、その落差の大きさ、そしてわが身のはかなさを痛感せざるをえなかったはずである。よく愚痴っておられた。

 他方、ぼくなどは一度も高みに立ったことなどないから、幸か不幸か非常勤根性が体質化しており、その点に限っては年齢とは逆に僕の方が上野さんの先輩格であるので、上野さんが非常勤稼業についての不平不満をこぼされるのに対して、僕は余裕を持って相槌を打つ役回りになっていた。但し、二人の話題がもっぱら非常勤話に限定されていたわけではない。何を話していたのか殆ど記憶がないのだが、すごく新鮮なことが多かった。非常勤同士の会話はあまり生産的ではなく、自分でもうんざりすることをついつい口にしてしまいがちなのに、上野さんと僕のやりとりは、その種の臭みがなかったような気がする。

 だから僕は次第に上野さんとの週に一度の出会いを心待ちにするようになっていた。屈託を飼いならすことに汲々としていた僕にとって、上野さんとの短いやりとりは束の間のオアシスであった。それにまた、僕が目の前にしているその人が、実はその昔、偶然に目手の取って魅了されることになった文章の著者であることに気付いたのだから、その時間はますます僕にとって貴重なものに感じられるようになった。

 住まいが万博公園に近いこともあって、僕は二人の娘がまだ幼い頃には、万博公園の敷地内にある国際児童文学館に足しげく通い、紙芝居を借りて持ち帰っては家で子供相手に実演を試みたりする一方で、書架に並ぶ児童文学関連の書物、とりわけ評論を手当たり次第に読んでいた。その中でも、明晰で切れ味が鋭く、それでいて何か含みのある文章に心惹かれていたのが、その著者がなんと眼前の上野瞭さんであることに、遅まきながら気づいたのだった。

 そんなことをご本人を前にして話すなんて面はゆくて僕にはできなかったが、そんな僕の密かな気持ちがおのずと表情や口振りにでるからなのか、上野さんのほうでも、僕のように若輩者に対して実に率直に、そして優しく対してくださった。そしてある時、「いつかこの非常勤の実態について書いてみたい」とおっしゃったので、それを受けて僕は「そうですか、期待しています。お書きになったら、是非とも拝読させてください。因みに、僕もその種のものをすでにいくつか書いているので、もしよかったらお暇な折にでも読んでください」と、翌週に差し出したのが非常勤および大学の現実を僻目で書きなぐった「大学は黴菌の住処?」「大学内のブタ小屋」など戯文数篇だった。それを上野さんはいたく面白がって下さった。(今回の付記:それらの雑文は後の2003年に『大学はバイ菌の住処か?』と題して同時代社から公刊された)上野さんとの本当の意味で関係ができたのは、その時からだったかもしれない。
 
 さて、上野さんがそれらの駄文に関心を示されたのは、何よりも上野さんお得意のやさしさが作用していたに違いなかった。上野さんは実に優れたオーガナイザーの資質を備えていらして、それが先ず女性、そして自分よりも年下の男たちに対する寛容と励ましとなって現れ、その年下の男たちのうちに僕も含まれていたわけだろう。僕はそれ以前に、同じ「臭い」のする方に遭遇して大きな恩を受けていたこともあって、その種の「臭い」には相当に敏感だったから、その勘は確信に近かった。

 上野さんの僕に対する関心の理由としては上で述べた親切、優しさのほかに、異人種への興味ということもあったはずである。上野さんは人間の連帯、あるいは共生を執拗に追及された人だが、だからといって差違や断絶や葛藤に目を瞑るというようなところは少なかった。むしろ、自他の個性の差異に対する鋭敏な嗅覚を生来のものとしてお持ちだったし、差異の確認を執拗に追及しておられた。文学者の人間に対する関心などと言えばあまりにも陳腐なのだが、おそらくはそうした言い方が見事に当てはまる珍しい方だった。

 それでは、僕と上野さんとの差違とは何かと言えば、数え上げればキリがないのだが、ここでのテーマに即して言うならば、非常勤稼業で暮らしている人間における「非常勤性」の差異があったのではなかろうか。

 先にも触れたが、僕の書き物は「純粋非常勤の物語」だった。言い換えれば、高みに憧れながら、永遠に低いところに留まることを余儀なくされ、その結果、往々にして精神の分裂をきたすような人間たちの物語であった。その分裂の様相を僕は「純粋非常勤病」と呼び、自分自身がその病から抜け出る道をまさぐっていた。他方、非常勤としてはまだ新米の上に、もともと専任でいらした上野さんは、まだそうした視点を獲得するには至っておられなかったように思う。上野さんの非常勤に関する問題は、謂わば「上野さんの外」にあった。例えば、専任と比べての待遇の劣悪さなどにとどまっていて、それが上野さんの人格に影響を与えているというようなことはなさそうだったし、その種の可能性に対する懸念もなかったような気がする。

 要するに、僕のような者から見れば、上野さんはやはり雲上の人で、こと非常勤の問題に関する限り、被害者の側から社会を撃つという視覚にとどまっておられた。
 しかし、僕にとってはそのレベルは問題の一側面にすぎなかった。外部の問題は内部に転写される。社会の問題は個人の問題でもある。そうした問題を生きざるを得ない人間にとって、うまく生きるためには、外部の問題もさることながら、それ以上に、それに浸食されてしまっている己、つまり内部の問題を解決しなければならない。どのような社会であろうと、生きている人間の知恵を育んで生きねばならない。つまり、問題のメカニズムと、その問題に翻弄される自己の位置の認識を深めることによってこそ生き方の可能性を探るということになる。そうした筋道は往々にして、心理的な帳尻あわせに終わりかねないといった懸念がなくはない。客観的な事態の不正を告発する側面は弱くなり、下手をすれば、「おとなしい道徳主義」を謡って終わりの可能性が多いにある。しかし、たとえそういう危険性はあっても、上野さんは僕のそうした視点に、上野さんが見る非常勤の問題との異質性を察知しておられたのではないかと思う。

 さらに言えば、文体の問題がある。僕は自分の語り方を変えないと、そしてそれと並行して問題の立て方を変えないと、生きがたさが解消されることはないという予感を持っていた。それはもちろん、長年の非常勤生活に加えて、生まれてこのかたの在日朝鮮人生活が相まって、導き出されたものであった。正義の言葉は自分を硬直させ、自分を活かせないという感じが殆ど確信となっていた。だから、僕はある時期からは次第に、教室で学生を相手にする場合でも、語り方を変えるべく努めていた。僕が学生に教えるのではなく、むしろ彼ら彼女らに生きる励ましを求め、僕の方からは少しでもお返しができればいいといった姿勢を意識的にとるようにもなっていた。傍から見れば、学生たちに阿るなんとも情けなく酷い教師というように見えかねないし、実際にそうなのかもしれないが、それが僕の生きる手立てになっていた。

 正義を捨てること、言い換えれば、身を低くすることしか、僕を生かす道はない。それが僕の内部における自対自の対話を誘発する。それなくしては、僕はついつい「正義」に頼る。だからこそ、例えば戯作調のようなものが、若かりし頃に齧ってやがては盾にしてきた「正義の癖」の解毒剤として作用しそうな感触もあった。

 そうした視点の有効性を試すために、先に挙げた非常勤にまつわる戯れ文も、求められれば喜んで書き継いだ。戯作調は僕が選びとった方法のつもりであったが、実は生来の体質的なものであったかもしれない。それがどこまで成功したのか定かではないが、少なくとも、そうした側面がおそらくは上野さんの何かを刺激したと僕は思っていた。

 そしてある日、先にも触れたように、上野さんは僕に晩年学フォーラムの会報への執筆をお勧めくださった。「短いものでいいから、在日朝鮮人について書いてみたら、参加者はきっと面白がってくれるはず」というのが、僕が覚えている上野さんの言葉であった。その声調と顔つきを抜きにして言葉面だけをなぞっても、その説得力の半分も再現できはしないのだが・・・

 その時の上野さんの思惑は定かではないが、僕はその誘いをすごく真剣に受け止めた。おそらく僕の内部でくすぶっていた閉塞感がそうした励ましを待っていたのであろう。しかし、自信がなかった。書きたいという思いと、そうした自信のなさとから、ぼくは「いつか、きっと」と生返事をした。その一方で、ぼくは上野さんのお誘いを反芻していた。自分に何が書けるか。
 
 しかし、何を書きたいのかは決まっていた。自分の襞に入りたい。そのすべてに日の目を見させてあげたい。そうすれば自分は生き直すことができるかもしれない、などとなんとも深刻だった。だからこそ、久しぶりに会った在日朝鮮人の友人(大学時代の後輩)にその話を漏らしもした。すると彼もまた、実に優しい。「先輩以外にそうしたことを書ける人はいないんじゃないかな。普段の話術の気軽さで書けば、いいじゃないですか。いまさらフランス文学がどうのこうのということもないでしょう」これが僕の背中を押した。

 それ以後、僕は13ヶ月にわたって「私の言葉」なるエッセイを書き継ぎ、晩年学フォーラムの会報のおおきな紙幅を占有させていただいた。そればかりか、月例会とその後の懇親会にも足しげく通い、大いに酒を飲み、放言もした。その間、上野さんは酒の勢いを借りての僕の知ったかぶりに辟易されていたに違いないが、それはおくびにもださず、言葉短い励ましを忘れられることはなかった。僕は上野さんに甘えていた。
 その後、僕は非常勤生活の先行き不安もあって、大学の授業に加えて、土曜日の午後には塾でも教えることになり、月例会にはすっかり足が遠のくようになった。しかし、会報の上野さんの文章にはいつも励まされていた。本当のところは、病と老いをかこっておられた上野さんを僕の方が励ますのが筋なのに、などと思わないでもなかった。

 だが手紙のやり取りは幾度もあった。駄文の出版についてご相談すると、予定通りに運ばなくても我慢するようにと、諭すようなお手紙を下さることがあった。また、大学の事務職、しかしこれまた嘱託の身分に他ならない中途半歩な転職の誘いについても、僕は綿々と心境を書き連ねた手紙を送ったことがあった。僕は上野さんにお手紙を差し上げることで僕の精神的な踏ん切りをつけたかったのである。それに対して、上野さんは僕の手紙の十分の一くらいの分量で、息を抜いた見事な返事を下さった。「どこで何をしても、玄さんは玄さんである」といった内容であった。こういう言葉は僕を励ました。僕をどこかで認めて下さっている、というわけである。

 だからこそ、転職先で僕が企画の任に当たった講演会の講師にもお招きした。慣れない仕事で悪戦苦闘しながらも、なんとか無事に勤めています、ということをお伝えしたかった。また、上野さんのように自由な精神を、言行不一致と責任回避がまかり通り、言葉どころか人間への信頼を失わせるほど風通しの悪い勤め先の同僚や学生に紹介することで、新しい風を呼び込みたいという気持ちもあった。

 ところが、多いに期待していたその企画に際して、僕は自分のひどい自分勝手さを、今さらながらに痛感させられた。上野さんは遠路はるばるやってこられたこともあって、すごく疲れておられたし、僕の仕事の詰めの甘さもあって、少し不愉快にもなられたようでもあった。僕も遅まきにそのことに気が付かないわけにはいかなかった。これ以上、上野さんに迷惑をおかけすまいと思った。

 それ以後、僕は上野さんとほとんど没交渉になった。ぼくにはそれでよかった。僕は今の境遇において僕のスタイルで仕事をすること、それと同時に、あらゆる日常の些事を思考の訓練とするために書き続けること、これが上野さんへの御礼になるなどと勝手に思いこんでいた。
書くことが正義に寄りかかっての号令になることを回避することは難しい。書くことが自己弁護になることを避けることも難しい。しかし、「私」を通して、「私」の襞になんとかもぐりこみ、それを介して己の内部と接触を保つこと、そして人とつながることを目指すこと、これが上野さんから学んだと僕が理解していたことの骨格だった。そして、またしても「中年の屈託と悦び」というシリーズの駄文で7回も会報の紙幅を奪うようになった。これは途中でぽしゃりはしたものの、その戯れ文で僕は僕が上野さんから学んだと思っていたことの実践報告をしているつもりだった。

 それまで組織の中で仕事をしたことのない僕にとって、組織の中で自分を活かすことの難しさを思い知らされる歳月だった。ふらふらしながらも、個人と社会という問題を改めて考える生活でもあった。しかしまた、徐々にそれを楽しむすべを覚える日々でもあった。おそらくこれで僕は中年をなんとか過ごせるだろう、などと思えるようにもなった。遅まきの感情教育の5年であった。

 そしてなんと連載からほぼ6年を経て、あの「私と言葉」の連作エッセイが『「在日」の言葉』と改題して刊行された。仕掛け人は上野さんであり、誰よりも上野さんにご報告しなければならない。来月にもその本を持参のうえで、お礼を申し上げるつもりであった。なのに!というのが僕の感傷なのだが、もちろん、上野さんにとってそれがたいした意味をもつはずもない。

 でも、病に苦しみ格闘しながらどうしてあのような文章を紡ぐことができたのかしら、と僕は常々思っていたし、いまだってそう思う。書くことが「よく生きる」支えになるといったことを僕はしきりに思う。そして死とは、人を弔うこととは、などとぼんやり考えている。そしてその「弔うこと」が「遅れること」と僕の中では重なり、当面の僕の思考を奪いそうな予感がある。またしても連作でおじゃましたいと思っている。

 現時点(2018年4月)における付記:文中で紹介している『大学は黴菌の住処か?』は、ぼく自身が予想していたよりも評判はよかったのに、あまり売れなかった。おそらくは、僕がいちばん読んで欲しかった「純粋非常勤」の方々が、懐具合はもちろんのこと、それ以上に、そんな「汚らわしい本」など、買って読むなんて馬鹿げたことだと、無視を決め込んだ結果だろうと僕は思っている。

 でも、ある大学の事務局長の方などは、その本は大学の教職員ならぜひとも一読すべきだと、その大学の全職員に推薦されたと言う。それにまた、その後、各地で非常勤組合が結成されて、活発な活動を始めた。そうした動きに拙著が何らかの影響を与えたなどと言うわけわけにはいかない。しかし、さすがに同時代で、時代がその種の問題意識を広めるようになっていて、その一つとして拙著も生まれたということなのだろう。

 他方、僕の処女作ともいうべき『在日の言葉』は、たいした部数ではなくても、僕のこれまでの本では最もよく売れて、少部数ではあったが増刷された。実に悦ばしいことだったし、その本こそ、僕の原点であると今でも思っているのだが、それもすべて上野さん、そして晩年学フォーラムのみなさんのおかげである。改めて感謝の気持ちをお伝えしたい。

常に現場で汗をかく、含羞の人

2018-03-25 14:39:25 | 触れ合った人々
 このシリーズの初回なので、少しばかり説明をしておきたい。WCO(ワールドカルチャーオープン)という、韓国ソウルを拠点とする文化団体がウェブマガジンを出すために協力を求められて、数カ月、いろんな方々の協力を得て、社会の片隅で無償の活動を続けている方々に会ってインタビュ―したり、文化イベントを訪問したりして記事を書いたり、ご当人自ら文章を投稿してもらったりしてきた。ところが、その団体が諸般の事情で活動できなくなって、せっかくご協力いただいた方々の記事をウェブ上で掲載できなくなった。そもそも、この個人ブログを立ち上げる決意をした理由の一つが、それらのご協力に対してなんとか報いたいということであった。そこで、今後、6回にわたって、それらの記事を連載する。それ以後は、昔の書下ろし原稿その他である。

 初回は、信州在住の友人から紹介された狭間孝さんである。


 学生運動、労働運動、生協運動、シルバー産業、障碍者介助NPOと変転を繰り返しながらも、常に現場で汗を流し、交響楽団で心の言葉を発し続ける含羞の人!

NPO 法人 ヒューマンネットながの 事務局長 挟間 孝


――どんなことをなさっているのでしょうか?

―――NPO 法人 「ヒューマンネットながの事務局長」をしています。その前に働いていた介護用品の会社が嫌になって、勤続10年の社長からの銀時計贈呈式の直前に辞めることにしたのですが、ちょうどその頃に、ボランティアとして役員をしていたNPO団体が居宅介護を中心とする事業を始めていたので、専従として事業の責任者となることにしました。

 年収は半減しましたが、同居している息子もそろそろ独り立ちできるだろうという読みで踏み切りました。
いろいろありましたが、現在ではサービス利用者200余人、パートも含めれば従業員90名余りで年間1億8千万の事業規模になっています。しかし、人手不足の現状は一向に改善されず「2級ヘルパー」の私も毎日3~4箇所の現場をこなしています。身体・知的・精神の障害者の自立生活を支援しているのですが、時代の反映なのか、精神を患う人が急速に増えていることを実感しています。なにかと困難でも、自分の体が続く限り、続けようと思っています。

 その一方で、小学校4年生の頃に「才能教育」ブームの影響を受けた母の勧めで始めた楽器がすっかり趣味となって、長野市交響楽団を主な足場として、活動を続けています。これも職場と同じで、コントラバスからバイオリンにさらにはコントラバスに復帰などと楽器も「転職」を繰り返しています。

 コントラバスは長年やっているので大概の曲は出来るつもりになって、練習はサボリがちになって進歩の意欲が薄れたからです。バイオリンに換えて参加状況が改善されたせいか、団員投票による選挙で団長になり、70余名の団員の面倒を見て既に5年になります。そしてまた、楽団における楽器のパート不足を補うために、先生に付いて新たにチェロを習っているところです。これらの転職に共通しているところは、どれも宴席で勢いに乗って「よし、やってみよう」と宣言して後に引けない状況を作ってしまったことです。この勢いが無くなった時が自分の終わりだと思うこの頃です。


――どうしてそんなことに関わることになったのでしょうか?

―――話が長くなります。1969年の4月(東大闘争の終わった頃)、二浪の末に「蛍雪時代」(高校生や受験生の雑誌)で偶然にみつけた信州大学に合格したのです。ところがその二週間後には、後に文芸評論家そして東京都知事になる猪瀬直樹に誘われて、4・28沖縄デーのために上京して逮捕され、起訴され、釈放されるまでに3カ月もかかりました。しかし、そのおかげでソルジェニツインやドストエフスキーを読破できたのですが。

 その後の大学では、セクトの一員として自治会の役員にもなり学部封鎖などに関わる一方で、生活費はレストランのボーイ、その一方では信州大学交響楽団でコントラバスを弾いており、授業なんかそっちのけで卒業などできるはずもなかったのです。しかし、教員の引っ越しの手伝いをしたりのおかげで、5年かかりましたが、何とか卒業できました。学生運動については、その間に路線の対立などもあってセクトは離れていました。
 
 教員免許はあったのですが、身元調査が厳しい時代だったこともあり、どの職場でも最終面接では落ちてしまって、当時の恋人との生計維持のために4トン車の運転手を1年以上も続けていていました。
 そんなところに、当時総評(当時の日本最大の労働団体)にいた友人のアドバイスで、社会党の選挙を何度か手伝ったおかげで、生協の職員になれて、そのおかげで結婚もでき、市営住宅にも入居して少しは生活も安定しました。ところが、そんなところにまたしても、総評で書記の空席ができたというので、労働運動に入ることになりました。オルグとして全県、全国を駆け巡りましたし。総選挙の際には泊まり込みで支援活動をしました。しかし、その過程で、幹部の組合費の浪費ぶりをつぶさに見て、完全に見切りをつけました。
 
 ちょうどそんな頃に、退潮著しい総評の人減らし、経費節減の一環で、地元選出の社会党議員の秘書になるように説得されて、年収の魅力にも惹かれて、ついには引き受けました。しかし、地元秘書の仕事はまさに「男芸者」で、休日もなく、出ていくお金も多く、妻とは離婚する羽目になりました。そのうえ、議員も落選したせいで失業の憂き目に。しかも、秘書には失業手当もなくて、なんとも泣きっ面にハチ、それが45歳の時でした。

 そんな時に、役所に顔が利く人間を求めていた介護用品の会社に迎え入れられることになりました。なにしろ慣れない仕事で悪戦苦闘しましたが、それまでに人間の裏側ばかり見てきたので、休日をとれるようになった条件を活かして、交響楽団はもとより、老人施設などでフルート・バイオリンなどの独奏、また、仕事で知り合った障害者の仲間たちとオリンピック観戦、登山など、自立支援の手助けをして、それなりの生き甲斐を覚えるようになりました。

 ところが、別れた妻に引き取られていた中二の息子と、事情があって突然に同居することになり、しかも、創業者が亡くなってその二代目社長のあまりにひどさに愛想がつきて、収入は半分になるけれども今の職場に、というわけです


――そうした人生の転変の中でも、一貫していることがいくつかありそうですね。例えば、音楽、そして「人がすごく好き」という印象が強いですが、それら二つのことに何か関係があると思っておられますか?それと今の仕事との関連はありますか?

―――音楽は言語に頼らないコミュニケーションのひとつかと思っていますので。それと、今の仕事と音楽との間には、はっきりした連続性のようなものはないんじゃないかな・・・その時々に、やりたいことをやってきただけというか・・・
ただ、学生運動にしてもその後の職場の変遷にしてもその時代に僕が持っていた人脈が主な契機だったかと思います。不思議と、そこからは「出たくないなあ」と思うような空間、そんな連中との出会いがいろいろとあったのです。いつだってそんな空間が何となくあったという意味では、連続性、一貫性があると言えないこともないかなとも。

 学生運動は、挫折するほどにはのめり込んではいなかったし、失望はあったけれど、またあの時代に戻ったら、同じようにその運動に入りそうな気がします。その意味では、あまり変わっていない。革命などは信じてはいなかったし、今はもっと信じていないけど、社会主義については今でも有効だと思っているし。



――最後にもう一つだけ質問があります。今の介護の仕事で最も「やりがい」を感じるのはどんな時でしょうか?或いは、人々へのメッセージのようなものはありませんか?

―――利用者の方が私のことを信じてくれて本音で対応してくれたことを感じる時、私の原点が「反差別」だということを再認識します。


インタビューを終えて

 狭間さんは、たとえ自分がいいことだと思って懸命にしてきたり、今していても、それを言葉にしてしまえば嘘を含んでしまうと言う警戒心をもっておられるのではないか。言葉の不可避の限界のようなもの、それににすこぶる過敏だからこそ、或いは、そういうことに過敏ならざるを得ない経験を積み重ねてきたからこそ、含羞というものが体質化しているのではなかろうか。それが例えば、幼いころにお母さんの勧めで始めた音楽について、「音楽は言葉に頼らないコミュニケーション」という言い方をされているところに表れていそうに思った。

 僕としては、狭間さんの多様な経験と音楽、さらには現在の介護の仕事とのつながりに関心があったが、狭間さんに言わせれば、そんなものはなんだって偶然に過ぎないということになってしまう。しかし、そこにはきっと必然性、或いは、社会や人間にまつわる志というものが作動していたのでは、そんなことをしきりに考えさせられた。若い人々が希望に燃えて行動を始める過程で、このような人々の経験に学び、共に活動する機会を持てればいいなあ、と思ったし、僕個人としても、出会えて本当によかった。