折々のメモ7ー築港FW(2024年5月19日)を終えてー
5月19日(日)13時、大阪地下鉄中央線大阪港駅「西改札口」前集合
「大阪築港周辺エリアの朝鮮人の生活の痕跡をたどるー軍事拠点とリゾート地、朝鮮人と中国人の苦難と闘いー」(ブログにアップした写真は、以下のどれかと関係する)
行程
① 糧秣支廠跡(兵士の食糧や軍馬の飼料を調達、製造、貯蔵、配送する施設)
② 天保山中国人強制収容所受難者追悼碑
③ 旧水上署
④ 現水上署
⑤ 中央突堤、旧大桟橋跡
⑥ 天満屋
⑦ 旧大潮湯。捕虜収容所支所跡
⑧ 住友倉庫(赤レンガ)
⑨ 築港高野山
⑩ 築港遊園地跡住吉神社
1.はじめにー雨天で少し迷った末に決行ー
フィールドワークを企画すると、一番の心配が天候。ついでは、当日の電車などの遅延による遅刻、そしてFW中の事故などである。これまでにその三つとも実際に起こった。アクシデントは起こるものだ、という英文を昔、習ったことがある。助動詞のwould の用例の一つだったような記憶が。
長期予報によると、今回はその心配から免れる安心していた。ところが、前々日くらいからは予報がしだいに悪化して、案の定、当日の朝に目覚めて直ちに外を見ると、既に雨が降り始めていた。それでも、小雨だし、雨脚が強まるのは夕方以後との予報だったので、中止するまでのこともないと高をくくった。そもそも、その程度の雨で中止にすると、この先の雨季では、計画など立たられなくなる。それに何よりも、僕自身が心待ちにしていた企画を中止にすると、当分の間、気がめげてしまう。
そんな状況と僕の気持ちを、ガイド役を引き受けてくれている高野さんにメールしたところ、すぐに電話をいただいた。
「ひょっとして、午後を午前に繰り上げたらいかがですか?」との相談だったが、高野さんもそれはかえって厄介なことになりかねないことを、重々ご承知のうえのことだろうと思って、「それはむしろ混乱を起こしかねないので、避けましょう。ともかく決行することにして、実際に集まり、現地を歩きながらの状況次第で、中止なども考慮するしかないのでは。この天候でも集まりたい人が、実際に顔を合わせて判断しましょう」と返事すると、「やはり、そうですよね」とすぐに同意していただけた。
そこで、その旨を参加希望の皆さんにメールでお伝えしたところ、地下鉄中央線の大阪港駅で、予定通りに13時には全員が集まった。参加予定者のうちでは、日曜日しか参加できないからと、すごく楽しみになさっていたIさんが、2日前に酒席でたまたまお会いした際に、「足を怪我して参加は無理」と残念がっていたので、そのIさんを除外すると、参加予定者全員が集合してくださった。ひとまずは安心した。
雨のせいで傘が必携だったが、歩き回るのに支障があるほどではなく、むしろ、暑さをしのげるから好都合という声も出るほどで、少なくとも僕の耳には、不安の声などまったく届かなかった。
いざ出発となり、17時前まで4時間足らずの行程を、途中でカフェでのしばしの休憩を挟んだが、予定のコースをほぼ踏破したので、僕は大いに満足だったし、参加者の中でもそんな声が多かった。
以下の報告では、FWのコース(最初に挙げたコースを参照)の詳細には立ち入らないで、僕にとって特に印象的だったことに限って記したい。
2.FWの変化
まずは参加者だが、男女別(こんなことをわざわざ書くのは僕の、あるいは僕の世代的限界で、時代遅れと非難されかねないのだが、なんとなく様子を分かってもらえるのではないかと)では男性5名女性7名の12名。年齢的には最高年齢層の70歳代が3名、中心の世代は60歳代で、最年少は何歳なのか、さらには、それが誰なのか僕にはまったく定かでない。
全員がFWの全コースはもちろん、その後の中華料理店での二次会が終わるまで、ひとりの脱落者もなしに、爽やかに別れの挨拶を交わすなど、無事に終えることができた。
参加者のこれまでの僕らのFWとの関係などについて言えば、僕が企画案内した2回の済州FWの経験者が7名、塚崎さんが亡くなって以降に始めた僕らの一連のFWへの初参加者は1名だった。しかし、その方も塚崎さんの別のグループのFWを経験しておられるので、塚崎さんの遺志を継ぐFWと無縁だった方は一人もいないことになる。
資料は塚崎さん作成のものだし、コースも塚崎さんが開発したもので、ガイド役は塚崎さんのFWでその面白みを体感して病みつきになった高野さんであるなど、多様な面で、絆の中心には故塚崎昌之さんの影がある。
しかし、改めて言うまでもないのだが、塚崎さんの存命中には、準備や当日の案内のすべてにわたって、塚崎さんが八面六臂の活躍だったが、彼が亡くなってからはさすがに、彼の生前とは大きく変わった側面が浮かび上がってきている。
その理由は、塚崎さん亡き後に遺された僕らの能力不足その他の事情によるのだが、それを否定的にではなく、むしろ肯定的に捉えて存分に楽しむことで、それを人生の糧にすることが僕らのFWの最大目標である。
その意味でも、今回のFWは楽しく、頼もしく感じられたので、その側面について少し立ち入って記したい。
3.僕らのFWのヌーベルバーグ(フランス語であり英語ではニューウェイブ)
前回の島本町周辺のFWは、島本町グループの主催で、僕らはあくまで協賛の資格で参加したことにも窺われるように、僕らのFWもかつての塚崎さんに「おんぶにだっこ」の状態から、役割分担その他、多元的傾向が運営の形に如実に表れた。
それに続く今回は、もっぱら僕らのグループによる運営だったが、その随所に発話者の多元化、集団的運営、あるいは、参加者全員による運営といった形が、なんとなく明確に感じられた。
塚崎さんがコースを準備し、資料を印刷してきて配り、随所で説明し、歩きながらも関連の説明を怠らず、その間、参加者はひたすら塚崎さんの話を傾聴していたかつての様子とは大きく様変わりした。
特に今回は、いろんな参加者が各所で随時かつ自発的に、その場所などにまつわる自分自身の経験や知見を語り、それが多様な参加者それぞれに固有のアンテナで受け止められた。そんなワイワイガヤガヤが、僕なんかには刺激的で、企画の世話役として大いにやり甲斐を感じるとともに、肩の荷が軽くなった。
ガイド役の高野さんはひたすら控えめに、「僕は塚崎さんが作成された資料で言及されている場所にお連れするだけなので、その他のことはどうかご自分で資料を熟読願いたい」と言ってらしたが、そのおかげでかえって、参加者自らが発話しやすくなったのかもしれない。だとしたら、高野さんの教育的配慮はなかなかのものである。
そもそも、FWの元来の大きな魅力の一つは、参加者同士の袖すり合わせながらの多声的交わりであると僕は固く信じているのだが、それがすごく自然に、まさに成り行きみたいに具現していた。
いつもご一緒のKさんとNさんのお二人は、他のグループの主催によるFWに参加した際の記憶などを見事に活かして、「あれ、このあたりは???」などと呟きながら、いつの間にか僕らを先導して、僕らだけではついつい見逃しかねない場所や見どころを案内してくださった。
いつもと同じように撮影役の金稔万さんは、普段の仕事場が築港沖の埋め立て地ということもあって、勝手知ったる我が家(地元)みたいなもので、築港周辺の、特に万博会場である夢洲がはらむ数々の問題の指摘に加えて、最近の輸出入の主要品目の変化などの現況についても話してくれた。その断片的なアクチュアリティが僕にはすごく面白かった。
金稔万さんはその他、築港絡みの昔のフィルムなども所蔵しており、そこには1930年代に済州島から大阪築港に着いたり、そんな済州人に済州伝統の餅その他を売る女将さんたちの姿が映しだされているといったことも話してもらえた。
大阪で最初の市電がこの築港から現在の九条までの5キロ強の路線(1903年)で、当時は釣り客のために、釣り道具を置くための装置もついていたという高野さんの話がでたついでに、在日一世の時代のことを考える際には、彼らが最も利用した交通機関としての市電の重要性、そしてそれに則った動線などを前提とする必要があるなどと、前々からの持論を述べた。
その大阪で初めての市電の路線は築港ができたからこそ敷設されたわけで、築港を通しての大阪における海外膨張(済州への直行便としての君が代丸)、あるいは、海外からの労働力導入その他の政治、資本の意向が如実に表れている。
旧水上署の近辺では僕が、50年以上も前の学生時代に、親に言われて、明け方に済州から密航してきた親戚などを引き取るために車で築港周辺その他に出向いて、お金と交換で密航者を受けとったことなども話したし、済州島でインタビューした大阪や名古屋への密航経験者の話の一部も紹介したが、それはこのブログの<触れ合った人々>というカテゴリー内でも紹介している。
疲れてきたので休息をとるためにカフェに入った。金稔万さんが普段、通勤のために早めにそのあたりに着いて、そのカフェ兼パン屋さんで朝食を摂ってから、改めて海底トンネルを通って築港の沖合にある仕事場に出かけるらしい。
コーヒーが150円とすごく安価な割には、コーヒー大好きの僕が納得できる味だったし、自家製パンの品ぞろえと味の良さ、さらにはインテリアのシンプルさと清潔感など、掘り出し物の店を紹介してもらえたおかげで、菓子パン(今では死語ではないのかな)や飲み物を味わいながら、おしゃべりとくつろぎのひと時を過ごせた。
ところで、FWではいつも感じることなのだが、ここでも歴史の移り変わりの、一見では意外なようだが、少し考えてみれば、どこにでも見られて、まるで必然みたいな権力と資本の結合の結果を、今さらながらに痛感する。だからこそ、そんな知見や体感を社会の動きを予見したり、日常生活を設計する際に活用できればと思いながらも、それがいかに困難なことかも思い知る。実に悲惨なことが誇りでもするかのように堂々と行われていた現場が、少し時代がづれると、現を忘れた人々が享楽に耽る場に、さらには聖なる衣を被せられて、祈りをささげるべき聖所とされる。
悲惨な処遇を恣に行っていた捕虜収容所が後にはテーマパークに、さらには、その跡地が神社にといった具合。
今では誰も気づかないようにひっそりと佇む日中友好の記念碑に対する扱い方を見ると、その碑を建てるために尽力された人々の無念さが偲ばれる。
日本における1970年や80年代までの、近現代史のまっとうな復元のための努力が、その後の政治と資本と行政と市民たちの四位一体によって、いかに骨抜き、さらには台無しにされ、「美しい日本」を唱える人々がヒステリックに我が世の春を謳歌するようになったか、そんなことがトータルに一挙に展示される場ができればなどと、見果てぬ夢を抱いたりもするが、そんな夢自体が努力の放棄の自己弁護に成り下がってしまうことにも注意すべきだろう。
FWは5時前に終わったが、生憎と二次会ができそうな唯一の場所である中華料理店が5時半にならないと入店はできないというので、いったんは解散して、半時間後に店内で集まることにした。
雨足が強まってきて、どこにも行けそうにないので、僕らは高架の地下鉄の駅の構内で、しがない余生のお金の心配の話などで時間をつぶし、定刻に少し遅れて入店したら、すでにメンバー全員がそろっていた。
広々として、いかにも中華料理店らしいインテリアの店なのに、閑古鳥が鳴いているというか、スタッフは母子だけで、客も僕ら12名だけだった。収容人数は40名から50名ほどの規模のようなのに、日曜日の夕刻でもそんな状態なら、経営は大丈夫かなと、僕らしい余計な心配もした。その心配には、味も期待しない方がよさそうという心配も絡んでいた。
僕らの入店直後に、お助け人とした店に入って来たお母さんは、僕らと同じく高齢そうで、その上、体に何か支障でも抱えていそうな様子だったので、ビールや料理の配膳は無理ではないのかと心配しながら見ていたが、言動はいたってぶっきらぼうでも、それは不親切ということではない。そんな性分にすぎず、なかなか親切に対応してもらえたおかげで、料理とアルコールを 僕らは十分に堪能した。料理の味も心配していたほどにではなかった。
それよりなにより、支払い額が意外な低額で、間違っているのでは心配したり、申し訳なかったり。
こんな店がすたれていくのが、今の社会、あるいは、そんなすたれ方を、当事者が納得しているのかも。それはともかく、無事に全員が参加してのワイワイガヤガヤも、ついに終わった。
その後も呑み助の僕は人をしつこく誘って、よそにまで足を延ばし、改めてしつこく飲んだが、それについてはここで報告の必要はないだろう。
4.後日譚
翌日にはメールで、感想を寄せてくださった人もいる。その文面をすべて紹介したいところだが、了承を得ていないので、その一部を僕なりに分類して、記すにとどめる。
まずは、参加者個々人が何を目的として参加なさったのか、その一端がうかがい知れるものとしては、次のようなメールをいただいた。
「祖父がこの築港を経て、渡日してきたのかと感慨が深かった」
次いでは、歩きながら、あるいは、二次会で同席しながらの会話を通じてのエンパワーメントにとっての掛買いのない機会となったとのことである。
「話を交わしたどの方も、すごくエネルギッシュな方たちで、何か元気をいただいた」
それぞれにいろんな困難を抱えながら、それでも敢えて、あるいは、そうだからこそ参加されて、達成感を伝えてくださる方もいた。
終日のFWの半分ほどの行程だったけど、「自分自身の体調などを考えれば、これが限界なので、踏破できてよかった。」とおっしゃる。
世代的偏りは毎度ながらの課題だが、そんな欠損というか、否定的なことよりも、自分たちがその時間を楽しむことの方が大事と考えて、今後もワイワイガヤガヤを続けていきたい。率直なご意見など、遠慮なくお寄せください。(完)





5月19日(日)13時、大阪地下鉄中央線大阪港駅「西改札口」前集合
「大阪築港周辺エリアの朝鮮人の生活の痕跡をたどるー軍事拠点とリゾート地、朝鮮人と中国人の苦難と闘いー」(ブログにアップした写真は、以下のどれかと関係する)
行程
① 糧秣支廠跡(兵士の食糧や軍馬の飼料を調達、製造、貯蔵、配送する施設)
② 天保山中国人強制収容所受難者追悼碑
③ 旧水上署
④ 現水上署
⑤ 中央突堤、旧大桟橋跡
⑥ 天満屋
⑦ 旧大潮湯。捕虜収容所支所跡
⑧ 住友倉庫(赤レンガ)
⑨ 築港高野山
⑩ 築港遊園地跡住吉神社
1.はじめにー雨天で少し迷った末に決行ー
フィールドワークを企画すると、一番の心配が天候。ついでは、当日の電車などの遅延による遅刻、そしてFW中の事故などである。これまでにその三つとも実際に起こった。アクシデントは起こるものだ、という英文を昔、習ったことがある。助動詞のwould の用例の一つだったような記憶が。
長期予報によると、今回はその心配から免れる安心していた。ところが、前々日くらいからは予報がしだいに悪化して、案の定、当日の朝に目覚めて直ちに外を見ると、既に雨が降り始めていた。それでも、小雨だし、雨脚が強まるのは夕方以後との予報だったので、中止するまでのこともないと高をくくった。そもそも、その程度の雨で中止にすると、この先の雨季では、計画など立たられなくなる。それに何よりも、僕自身が心待ちにしていた企画を中止にすると、当分の間、気がめげてしまう。
そんな状況と僕の気持ちを、ガイド役を引き受けてくれている高野さんにメールしたところ、すぐに電話をいただいた。
「ひょっとして、午後を午前に繰り上げたらいかがですか?」との相談だったが、高野さんもそれはかえって厄介なことになりかねないことを、重々ご承知のうえのことだろうと思って、「それはむしろ混乱を起こしかねないので、避けましょう。ともかく決行することにして、実際に集まり、現地を歩きながらの状況次第で、中止なども考慮するしかないのでは。この天候でも集まりたい人が、実際に顔を合わせて判断しましょう」と返事すると、「やはり、そうですよね」とすぐに同意していただけた。
そこで、その旨を参加希望の皆さんにメールでお伝えしたところ、地下鉄中央線の大阪港駅で、予定通りに13時には全員が集まった。参加予定者のうちでは、日曜日しか参加できないからと、すごく楽しみになさっていたIさんが、2日前に酒席でたまたまお会いした際に、「足を怪我して参加は無理」と残念がっていたので、そのIさんを除外すると、参加予定者全員が集合してくださった。ひとまずは安心した。
雨のせいで傘が必携だったが、歩き回るのに支障があるほどではなく、むしろ、暑さをしのげるから好都合という声も出るほどで、少なくとも僕の耳には、不安の声などまったく届かなかった。
いざ出発となり、17時前まで4時間足らずの行程を、途中でカフェでのしばしの休憩を挟んだが、予定のコースをほぼ踏破したので、僕は大いに満足だったし、参加者の中でもそんな声が多かった。
以下の報告では、FWのコース(最初に挙げたコースを参照)の詳細には立ち入らないで、僕にとって特に印象的だったことに限って記したい。
2.FWの変化
まずは参加者だが、男女別(こんなことをわざわざ書くのは僕の、あるいは僕の世代的限界で、時代遅れと非難されかねないのだが、なんとなく様子を分かってもらえるのではないかと)では男性5名女性7名の12名。年齢的には最高年齢層の70歳代が3名、中心の世代は60歳代で、最年少は何歳なのか、さらには、それが誰なのか僕にはまったく定かでない。
全員がFWの全コースはもちろん、その後の中華料理店での二次会が終わるまで、ひとりの脱落者もなしに、爽やかに別れの挨拶を交わすなど、無事に終えることができた。
参加者のこれまでの僕らのFWとの関係などについて言えば、僕が企画案内した2回の済州FWの経験者が7名、塚崎さんが亡くなって以降に始めた僕らの一連のFWへの初参加者は1名だった。しかし、その方も塚崎さんの別のグループのFWを経験しておられるので、塚崎さんの遺志を継ぐFWと無縁だった方は一人もいないことになる。
資料は塚崎さん作成のものだし、コースも塚崎さんが開発したもので、ガイド役は塚崎さんのFWでその面白みを体感して病みつきになった高野さんであるなど、多様な面で、絆の中心には故塚崎昌之さんの影がある。
しかし、改めて言うまでもないのだが、塚崎さんの存命中には、準備や当日の案内のすべてにわたって、塚崎さんが八面六臂の活躍だったが、彼が亡くなってからはさすがに、彼の生前とは大きく変わった側面が浮かび上がってきている。
その理由は、塚崎さん亡き後に遺された僕らの能力不足その他の事情によるのだが、それを否定的にではなく、むしろ肯定的に捉えて存分に楽しむことで、それを人生の糧にすることが僕らのFWの最大目標である。
その意味でも、今回のFWは楽しく、頼もしく感じられたので、その側面について少し立ち入って記したい。
3.僕らのFWのヌーベルバーグ(フランス語であり英語ではニューウェイブ)
前回の島本町周辺のFWは、島本町グループの主催で、僕らはあくまで協賛の資格で参加したことにも窺われるように、僕らのFWもかつての塚崎さんに「おんぶにだっこ」の状態から、役割分担その他、多元的傾向が運営の形に如実に表れた。
それに続く今回は、もっぱら僕らのグループによる運営だったが、その随所に発話者の多元化、集団的運営、あるいは、参加者全員による運営といった形が、なんとなく明確に感じられた。
塚崎さんがコースを準備し、資料を印刷してきて配り、随所で説明し、歩きながらも関連の説明を怠らず、その間、参加者はひたすら塚崎さんの話を傾聴していたかつての様子とは大きく様変わりした。
特に今回は、いろんな参加者が各所で随時かつ自発的に、その場所などにまつわる自分自身の経験や知見を語り、それが多様な参加者それぞれに固有のアンテナで受け止められた。そんなワイワイガヤガヤが、僕なんかには刺激的で、企画の世話役として大いにやり甲斐を感じるとともに、肩の荷が軽くなった。
ガイド役の高野さんはひたすら控えめに、「僕は塚崎さんが作成された資料で言及されている場所にお連れするだけなので、その他のことはどうかご自分で資料を熟読願いたい」と言ってらしたが、そのおかげでかえって、参加者自らが発話しやすくなったのかもしれない。だとしたら、高野さんの教育的配慮はなかなかのものである。
そもそも、FWの元来の大きな魅力の一つは、参加者同士の袖すり合わせながらの多声的交わりであると僕は固く信じているのだが、それがすごく自然に、まさに成り行きみたいに具現していた。
いつもご一緒のKさんとNさんのお二人は、他のグループの主催によるFWに参加した際の記憶などを見事に活かして、「あれ、このあたりは???」などと呟きながら、いつの間にか僕らを先導して、僕らだけではついつい見逃しかねない場所や見どころを案内してくださった。
いつもと同じように撮影役の金稔万さんは、普段の仕事場が築港沖の埋め立て地ということもあって、勝手知ったる我が家(地元)みたいなもので、築港周辺の、特に万博会場である夢洲がはらむ数々の問題の指摘に加えて、最近の輸出入の主要品目の変化などの現況についても話してくれた。その断片的なアクチュアリティが僕にはすごく面白かった。
金稔万さんはその他、築港絡みの昔のフィルムなども所蔵しており、そこには1930年代に済州島から大阪築港に着いたり、そんな済州人に済州伝統の餅その他を売る女将さんたちの姿が映しだされているといったことも話してもらえた。
大阪で最初の市電がこの築港から現在の九条までの5キロ強の路線(1903年)で、当時は釣り客のために、釣り道具を置くための装置もついていたという高野さんの話がでたついでに、在日一世の時代のことを考える際には、彼らが最も利用した交通機関としての市電の重要性、そしてそれに則った動線などを前提とする必要があるなどと、前々からの持論を述べた。
その大阪で初めての市電の路線は築港ができたからこそ敷設されたわけで、築港を通しての大阪における海外膨張(済州への直行便としての君が代丸)、あるいは、海外からの労働力導入その他の政治、資本の意向が如実に表れている。
旧水上署の近辺では僕が、50年以上も前の学生時代に、親に言われて、明け方に済州から密航してきた親戚などを引き取るために車で築港周辺その他に出向いて、お金と交換で密航者を受けとったことなども話したし、済州島でインタビューした大阪や名古屋への密航経験者の話の一部も紹介したが、それはこのブログの<触れ合った人々>というカテゴリー内でも紹介している。
疲れてきたので休息をとるためにカフェに入った。金稔万さんが普段、通勤のために早めにそのあたりに着いて、そのカフェ兼パン屋さんで朝食を摂ってから、改めて海底トンネルを通って築港の沖合にある仕事場に出かけるらしい。
コーヒーが150円とすごく安価な割には、コーヒー大好きの僕が納得できる味だったし、自家製パンの品ぞろえと味の良さ、さらにはインテリアのシンプルさと清潔感など、掘り出し物の店を紹介してもらえたおかげで、菓子パン(今では死語ではないのかな)や飲み物を味わいながら、おしゃべりとくつろぎのひと時を過ごせた。
ところで、FWではいつも感じることなのだが、ここでも歴史の移り変わりの、一見では意外なようだが、少し考えてみれば、どこにでも見られて、まるで必然みたいな権力と資本の結合の結果を、今さらながらに痛感する。だからこそ、そんな知見や体感を社会の動きを予見したり、日常生活を設計する際に活用できればと思いながらも、それがいかに困難なことかも思い知る。実に悲惨なことが誇りでもするかのように堂々と行われていた現場が、少し時代がづれると、現を忘れた人々が享楽に耽る場に、さらには聖なる衣を被せられて、祈りをささげるべき聖所とされる。
悲惨な処遇を恣に行っていた捕虜収容所が後にはテーマパークに、さらには、その跡地が神社にといった具合。
今では誰も気づかないようにひっそりと佇む日中友好の記念碑に対する扱い方を見ると、その碑を建てるために尽力された人々の無念さが偲ばれる。
日本における1970年や80年代までの、近現代史のまっとうな復元のための努力が、その後の政治と資本と行政と市民たちの四位一体によって、いかに骨抜き、さらには台無しにされ、「美しい日本」を唱える人々がヒステリックに我が世の春を謳歌するようになったか、そんなことがトータルに一挙に展示される場ができればなどと、見果てぬ夢を抱いたりもするが、そんな夢自体が努力の放棄の自己弁護に成り下がってしまうことにも注意すべきだろう。
FWは5時前に終わったが、生憎と二次会ができそうな唯一の場所である中華料理店が5時半にならないと入店はできないというので、いったんは解散して、半時間後に店内で集まることにした。
雨足が強まってきて、どこにも行けそうにないので、僕らは高架の地下鉄の駅の構内で、しがない余生のお金の心配の話などで時間をつぶし、定刻に少し遅れて入店したら、すでにメンバー全員がそろっていた。
広々として、いかにも中華料理店らしいインテリアの店なのに、閑古鳥が鳴いているというか、スタッフは母子だけで、客も僕ら12名だけだった。収容人数は40名から50名ほどの規模のようなのに、日曜日の夕刻でもそんな状態なら、経営は大丈夫かなと、僕らしい余計な心配もした。その心配には、味も期待しない方がよさそうという心配も絡んでいた。
僕らの入店直後に、お助け人とした店に入って来たお母さんは、僕らと同じく高齢そうで、その上、体に何か支障でも抱えていそうな様子だったので、ビールや料理の配膳は無理ではないのかと心配しながら見ていたが、言動はいたってぶっきらぼうでも、それは不親切ということではない。そんな性分にすぎず、なかなか親切に対応してもらえたおかげで、料理とアルコールを 僕らは十分に堪能した。料理の味も心配していたほどにではなかった。
それよりなにより、支払い額が意外な低額で、間違っているのでは心配したり、申し訳なかったり。
こんな店がすたれていくのが、今の社会、あるいは、そんなすたれ方を、当事者が納得しているのかも。それはともかく、無事に全員が参加してのワイワイガヤガヤも、ついに終わった。
その後も呑み助の僕は人をしつこく誘って、よそにまで足を延ばし、改めてしつこく飲んだが、それについてはここで報告の必要はないだろう。
4.後日譚
翌日にはメールで、感想を寄せてくださった人もいる。その文面をすべて紹介したいところだが、了承を得ていないので、その一部を僕なりに分類して、記すにとどめる。
まずは、参加者個々人が何を目的として参加なさったのか、その一端がうかがい知れるものとしては、次のようなメールをいただいた。
「祖父がこの築港を経て、渡日してきたのかと感慨が深かった」
次いでは、歩きながら、あるいは、二次会で同席しながらの会話を通じてのエンパワーメントにとっての掛買いのない機会となったとのことである。
「話を交わしたどの方も、すごくエネルギッシュな方たちで、何か元気をいただいた」
それぞれにいろんな困難を抱えながら、それでも敢えて、あるいは、そうだからこそ参加されて、達成感を伝えてくださる方もいた。
終日のFWの半分ほどの行程だったけど、「自分自身の体調などを考えれば、これが限界なので、踏破できてよかった。」とおっしゃる。
世代的偏りは毎度ながらの課題だが、そんな欠損というか、否定的なことよりも、自分たちがその時間を楽しむことの方が大事と考えて、今後もワイワイガヤガヤを続けていきたい。率直なご意見など、遠慮なくお寄せください。(完)





