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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

折々のメモ7ー築港FW(2024年5月19日)を終えてー

2024-05-30 09:36:07 | 折々のメモ
折々のメモ7ー築港FW(2024年5月19日)を終えてー
5月19日(日)13時、大阪地下鉄中央線大阪港駅「西改札口」前集合

「大阪築港周辺エリアの朝鮮人の生活の痕跡をたどるー軍事拠点とリゾート地、朝鮮人と中国人の苦難と闘いー」(ブログにアップした写真は、以下のどれかと関係する)
行程
① 糧秣支廠跡(兵士の食糧や軍馬の飼料を調達、製造、貯蔵、配送する施設)
② 天保山中国人強制収容所受難者追悼碑
③ 旧水上署
④ 現水上署
⑤ 中央突堤、旧大桟橋跡
⑥ 天満屋
⑦ 旧大潮湯。捕虜収容所支所跡
⑧ 住友倉庫(赤レンガ)
⑨ 築港高野山
⑩  築港遊園地跡住吉神社

1.はじめにー雨天で少し迷った末に決行ー
 フィールドワークを企画すると、一番の心配が天候。ついでは、当日の電車などの遅延による遅刻、そしてFW中の事故などである。これまでにその三つとも実際に起こった。アクシデントは起こるものだ、という英文を昔、習ったことがある。助動詞のwould の用例の一つだったような記憶が。

 長期予報によると、今回はその心配から免れる安心していた。ところが、前々日くらいからは予報がしだいに悪化して、案の定、当日の朝に目覚めて直ちに外を見ると、既に雨が降り始めていた。それでも、小雨だし、雨脚が強まるのは夕方以後との予報だったので、中止するまでのこともないと高をくくった。そもそも、その程度の雨で中止にすると、この先の雨季では、計画など立たられなくなる。それに何よりも、僕自身が心待ちにしていた企画を中止にすると、当分の間、気がめげてしまう。
 そんな状況と僕の気持ちを、ガイド役を引き受けてくれている高野さんにメールしたところ、すぐに電話をいただいた。
「ひょっとして、午後を午前に繰り上げたらいかがですか?」との相談だったが、高野さんもそれはかえって厄介なことになりかねないことを、重々ご承知のうえのことだろうと思って、「それはむしろ混乱を起こしかねないので、避けましょう。ともかく決行することにして、実際に集まり、現地を歩きながらの状況次第で、中止なども考慮するしかないのでは。この天候でも集まりたい人が、実際に顔を合わせて判断しましょう」と返事すると、「やはり、そうですよね」とすぐに同意していただけた。
 そこで、その旨を参加希望の皆さんにメールでお伝えしたところ、地下鉄中央線の大阪港駅で、予定通りに13時には全員が集まった。参加予定者のうちでは、日曜日しか参加できないからと、すごく楽しみになさっていたIさんが、2日前に酒席でたまたまお会いした際に、「足を怪我して参加は無理」と残念がっていたので、そのIさんを除外すると、参加予定者全員が集合してくださった。ひとまずは安心した。
 雨のせいで傘が必携だったが、歩き回るのに支障があるほどではなく、むしろ、暑さをしのげるから好都合という声も出るほどで、少なくとも僕の耳には、不安の声などまったく届かなかった。
 いざ出発となり、17時前まで4時間足らずの行程を、途中でカフェでのしばしの休憩を挟んだが、予定のコースをほぼ踏破したので、僕は大いに満足だったし、参加者の中でもそんな声が多かった。
 以下の報告では、FWのコース(最初に挙げたコースを参照)の詳細には立ち入らないで、僕にとって特に印象的だったことに限って記したい。

2.FWの変化
 まずは参加者だが、男女別(こんなことをわざわざ書くのは僕の、あるいは僕の世代的限界で、時代遅れと非難されかねないのだが、なんとなく様子を分かってもらえるのではないかと)では男性5名女性7名の12名。年齢的には最高年齢層の70歳代が3名、中心の世代は60歳代で、最年少は何歳なのか、さらには、それが誰なのか僕にはまったく定かでない。
 全員がFWの全コースはもちろん、その後の中華料理店での二次会が終わるまで、ひとりの脱落者もなしに、爽やかに別れの挨拶を交わすなど、無事に終えることができた。
 参加者のこれまでの僕らのFWとの関係などについて言えば、僕が企画案内した2回の済州FWの経験者が7名、塚崎さんが亡くなって以降に始めた僕らの一連のFWへの初参加者は1名だった。しかし、その方も塚崎さんの別のグループのFWを経験しておられるので、塚崎さんの遺志を継ぐFWと無縁だった方は一人もいないことになる。
 資料は塚崎さん作成のものだし、コースも塚崎さんが開発したもので、ガイド役は塚崎さんのFWでその面白みを体感して病みつきになった高野さんであるなど、多様な面で、絆の中心には故塚崎昌之さんの影がある。
 しかし、改めて言うまでもないのだが、塚崎さんの存命中には、準備や当日の案内のすべてにわたって、塚崎さんが八面六臂の活躍だったが、彼が亡くなってからはさすがに、彼の生前とは大きく変わった側面が浮かび上がってきている。
 その理由は、塚崎さん亡き後に遺された僕らの能力不足その他の事情によるのだが、それを否定的にではなく、むしろ肯定的に捉えて存分に楽しむことで、それを人生の糧にすることが僕らのFWの最大目標である。
 その意味でも、今回のFWは楽しく、頼もしく感じられたので、その側面について少し立ち入って記したい。

3.僕らのFWのヌーベルバーグ(フランス語であり英語ではニューウェイブ)
 前回の島本町周辺のFWは、島本町グループの主催で、僕らはあくまで協賛の資格で参加したことにも窺われるように、僕らのFWもかつての塚崎さんに「おんぶにだっこ」の状態から、役割分担その他、多元的傾向が運営の形に如実に表れた。
それに続く今回は、もっぱら僕らのグループによる運営だったが、その随所に発話者の多元化、集団的運営、あるいは、参加者全員による運営といった形が、なんとなく明確に感じられた。
 塚崎さんがコースを準備し、資料を印刷してきて配り、随所で説明し、歩きながらも関連の説明を怠らず、その間、参加者はひたすら塚崎さんの話を傾聴していたかつての様子とは大きく様変わりした。
 特に今回は、いろんな参加者が各所で随時かつ自発的に、その場所などにまつわる自分自身の経験や知見を語り、それが多様な参加者それぞれに固有のアンテナで受け止められた。そんなワイワイガヤガヤが、僕なんかには刺激的で、企画の世話役として大いにやり甲斐を感じるとともに、肩の荷が軽くなった。
 ガイド役の高野さんはひたすら控えめに、「僕は塚崎さんが作成された資料で言及されている場所にお連れするだけなので、その他のことはどうかご自分で資料を熟読願いたい」と言ってらしたが、そのおかげでかえって、参加者自らが発話しやすくなったのかもしれない。だとしたら、高野さんの教育的配慮はなかなかのものである。
 そもそも、FWの元来の大きな魅力の一つは、参加者同士の袖すり合わせながらの多声的交わりであると僕は固く信じているのだが、それがすごく自然に、まさに成り行きみたいに具現していた。
 いつもご一緒のKさんとNさんのお二人は、他のグループの主催によるFWに参加した際の記憶などを見事に活かして、「あれ、このあたりは???」などと呟きながら、いつの間にか僕らを先導して、僕らだけではついつい見逃しかねない場所や見どころを案内してくださった。
 いつもと同じように撮影役の金稔万さんは、普段の仕事場が築港沖の埋め立て地ということもあって、勝手知ったる我が家(地元)みたいなもので、築港周辺の、特に万博会場である夢洲がはらむ数々の問題の指摘に加えて、最近の輸出入の主要品目の変化などの現況についても話してくれた。その断片的なアクチュアリティが僕にはすごく面白かった。
 金稔万さんはその他、築港絡みの昔のフィルムなども所蔵しており、そこには1930年代に済州島から大阪築港に着いたり、そんな済州人に済州伝統の餅その他を売る女将さんたちの姿が映しだされているといったことも話してもらえた。
大阪で最初の市電がこの築港から現在の九条までの5キロ強の路線(1903年)で、当時は釣り客のために、釣り道具を置くための装置もついていたという高野さんの話がでたついでに、在日一世の時代のことを考える際には、彼らが最も利用した交通機関としての市電の重要性、そしてそれに則った動線などを前提とする必要があるなどと、前々からの持論を述べた。
 その大阪で初めての市電の路線は築港ができたからこそ敷設されたわけで、築港を通しての大阪における海外膨張(済州への直行便としての君が代丸)、あるいは、海外からの労働力導入その他の政治、資本の意向が如実に表れている。
 旧水上署の近辺では僕が、50年以上も前の学生時代に、親に言われて、明け方に済州から密航してきた親戚などを引き取るために車で築港周辺その他に出向いて、お金と交換で密航者を受けとったことなども話したし、済州島でインタビューした大阪や名古屋への密航経験者の話の一部も紹介したが、それはこのブログの<触れ合った人々>というカテゴリー内でも紹介している。
 疲れてきたので休息をとるためにカフェに入った。金稔万さんが普段、通勤のために早めにそのあたりに着いて、そのカフェ兼パン屋さんで朝食を摂ってから、改めて海底トンネルを通って築港の沖合にある仕事場に出かけるらしい。
 コーヒーが150円とすごく安価な割には、コーヒー大好きの僕が納得できる味だったし、自家製パンの品ぞろえと味の良さ、さらにはインテリアのシンプルさと清潔感など、掘り出し物の店を紹介してもらえたおかげで、菓子パン(今では死語ではないのかな)や飲み物を味わいながら、おしゃべりとくつろぎのひと時を過ごせた。
 ところで、FWではいつも感じることなのだが、ここでも歴史の移り変わりの、一見では意外なようだが、少し考えてみれば、どこにでも見られて、まるで必然みたいな権力と資本の結合の結果を、今さらながらに痛感する。だからこそ、そんな知見や体感を社会の動きを予見したり、日常生活を設計する際に活用できればと思いながらも、それがいかに困難なことかも思い知る。実に悲惨なことが誇りでもするかのように堂々と行われていた現場が、少し時代がづれると、現を忘れた人々が享楽に耽る場に、さらには聖なる衣を被せられて、祈りをささげるべき聖所とされる。 
 悲惨な処遇を恣に行っていた捕虜収容所が後にはテーマパークに、さらには、その跡地が神社にといった具合。
今では誰も気づかないようにひっそりと佇む日中友好の記念碑に対する扱い方を見ると、その碑を建てるために尽力された人々の無念さが偲ばれる。
 日本における1970年や80年代までの、近現代史のまっとうな復元のための努力が、その後の政治と資本と行政と市民たちの四位一体によって、いかに骨抜き、さらには台無しにされ、「美しい日本」を唱える人々がヒステリックに我が世の春を謳歌するようになったか、そんなことがトータルに一挙に展示される場ができればなどと、見果てぬ夢を抱いたりもするが、そんな夢自体が努力の放棄の自己弁護に成り下がってしまうことにも注意すべきだろう。
 FWは5時前に終わったが、生憎と二次会ができそうな唯一の場所である中華料理店が5時半にならないと入店はできないというので、いったんは解散して、半時間後に店内で集まることにした。
 雨足が強まってきて、どこにも行けそうにないので、僕らは高架の地下鉄の駅の構内で、しがない余生のお金の心配の話などで時間をつぶし、定刻に少し遅れて入店したら、すでにメンバー全員がそろっていた。
 広々として、いかにも中華料理店らしいインテリアの店なのに、閑古鳥が鳴いているというか、スタッフは母子だけで、客も僕ら12名だけだった。収容人数は40名から50名ほどの規模のようなのに、日曜日の夕刻でもそんな状態なら、経営は大丈夫かなと、僕らしい余計な心配もした。その心配には、味も期待しない方がよさそうという心配も絡んでいた。
 僕らの入店直後に、お助け人とした店に入って来たお母さんは、僕らと同じく高齢そうで、その上、体に何か支障でも抱えていそうな様子だったので、ビールや料理の配膳は無理ではないのかと心配しながら見ていたが、言動はいたってぶっきらぼうでも、それは不親切ということではない。そんな性分にすぎず、なかなか親切に対応してもらえたおかげで、料理とアルコールを   僕らは十分に堪能した。料理の味も心配していたほどにではなかった。
 それよりなにより、支払い額が意外な低額で、間違っているのでは心配したり、申し訳なかったり。
 こんな店がすたれていくのが、今の社会、あるいは、そんなすたれ方を、当事者が納得しているのかも。それはともかく、無事に全員が参加してのワイワイガヤガヤも、ついに終わった。
 その後も呑み助の僕は人をしつこく誘って、よそにまで足を延ばし、改めてしつこく飲んだが、それについてはここで報告の必要はないだろう。

4.後日譚
 翌日にはメールで、感想を寄せてくださった人もいる。その文面をすべて紹介したいところだが、了承を得ていないので、その一部を僕なりに分類して、記すにとどめる。
 まずは、参加者個々人が何を目的として参加なさったのか、その一端がうかがい知れるものとしては、次のようなメールをいただいた。
「祖父がこの築港を経て、渡日してきたのかと感慨が深かった」
 次いでは、歩きながら、あるいは、二次会で同席しながらの会話を通じてのエンパワーメントにとっての掛買いのない機会となったとのことである。
「話を交わしたどの方も、すごくエネルギッシュな方たちで、何か元気をいただいた」
 それぞれにいろんな困難を抱えながら、それでも敢えて、あるいは、そうだからこそ参加されて、達成感を伝えてくださる方もいた。
 終日のFWの半分ほどの行程だったけど、「自分自身の体調などを考えれば、これが限界なので、踏破できてよかった。」とおっしゃる。
 世代的偏りは毎度ながらの課題だが、そんな欠損というか、否定的なことよりも、自分たちがその時間を楽しむことの方が大事と考えて、今後もワイワイガヤガヤを続けていきたい。率直なご意見など、遠慮なくお寄せください。(完)


折々のメモ6(2024年5月12日)―老いのこぼれ話と歴史のFWにおける人の環―

2024-05-12 21:01:12 | 折々のメモ
折々のメモ6(2024年5月12日)―老いのこぼれ話と歴史のFWにおける人の環―

老いと誘い
 酒絡みの誘いがめっきり減ったので、僕自身が酒食を共にしながら何か議論でもしたくなると、こちらから強くお願いしないと、望みが叶わなくなった。
 もっとも、それは僕自身が招いた事態でもある。誘われてもお断りすることが、10年ほど前から目立って増えた。ただし、足を運ぶ労を億劫だったり、ましてや酒を厭ってのことで毛頭ない。もっぱら人間関係にまつわる躊躇いによるものだった。
僕とたまたま居合わせでもしたら気分を害する人がいるかもしれず、そのせいで僕自身が傷つきかねないなどと、懸念してのことだった。
 気心が知れた少人数の酒席ならそんな心配はない。しかし、事前には誰が参加するのか定かでない場合や、もっぱら義理による集まりの場合には、そんなことになる。この10年間にそんなことが目立って多くなるにつれて、そんな面倒くさい僕なんかには声をかけてくれなくなったのもしごく当然である。そんなわけなので、まさしく僕自身の不徳の致すところなのである。
 だから今や、青年期や壮年期にすごく親しくしていた人たちとはすっかり縁が切れたり、遠ざかったりした結果として、辛うじて残ったのは、老年期に差し掛かってから知り合い、ほどほどの距離を保つべく努めながら付き合ってきたおかげなのか、僕のような者でも受け入れてくれる限られた人たちとの酒席だけである。

宿痾の深酒
 そんなわけで、外で飲む機会がめっきり減っただけに、たまたまそんな機会があると、<思いっきり飲まないと損>などと、僕お得意の<口の卑しい貧乏人根性>が頭をもたげ、翌朝には宿酔の辛さに苦しみながらの後悔しきりとなる。
 宿痾を自覚していないはずがない僕だから、酒席に臨むときには、いくら長くても3時間以内と固く決心し、自分に何度も言い聞かせる。ところが、いざその制限時間になると、既にすっかり<できあがって>、同席の人たちが一刻も早く帰りたがっていることに気づきながらも、<もう一杯>などと執拗に引き止めたあげくに、またしても辛い朝を迎える。
 そんな馬鹿さ加減が僕の心身にもたらすダメージは、かつてのタバコを肴にウイスキーを呷っていた頃と比べればはるかに軽減されたが、その一方でさすがに歳を重ねたせいか、平常の心身に戻るには数日を要したりもするほどである。
 繰り返しになるが、今やそんな僕に鷹揚に付き合ってくれるのは、老年期のとば口で出会って以来、常変わることなく仲良くしてくれていた亡き塚崎昌之さん、そして彼との交遊の延長上で、亡くなった塚崎さんを偲ぶという口実もあって集うことが多いFW仲間たちだけである。

塚崎昌之さんの没後
 塚崎さんが亡くなってすでに半年を超えるが、彼の不在は今でも僕の生活のいろんな面に影響を及ぼし続けている。気楽に声をかければいつだって一緒に飲める相手を失った僕には、彼に代わるような人はいない。僕の実家と塚崎さんの住居が、地下鉄で一駅だから、ほとんど同じ町内の住民のようなもので、しかも、二人とも何よりも好きなのが、議論しながら酒を酌み交わすことだった。二人はその点においては間違いなく<馬が合った>。
 ところが、そうした酒と議論の二頭立てを除くと、この20年間にわたって二人をつなぎとめてきたものはいったい何だったのだろうか。彼の生前にはそんなことは自明のことと思っていたのだが、彼の没後には、そんな思い込みのしっぺ返しを受けているような気分である。塚崎観が大きく揺らぎ、それに共振するように僕の気持ちも大きく揺らぎ続けている。そんなわけだから、彼に対する別れの言葉も書けないでいる。
 彼について何が書けるか、何を書きたいのか、何を書くことが僕のような者に許されるのか。そんなことを何度も繰り返し考えてみるが、答えは出てこない。
 その他のことなら、そうした多様な自問が対立したり、ずれたりはあまりしないので、僕の思うままに書き流してきた。我ながら下手糞と呆れかえりながらも、それなりに努力したのだから、それ以上の出来栄えを望むのはむしろ贅沢なことではないかなどと、自分を宥めながら自己満足に耽ってきた。ところが、塚崎さんに対する別れの言葉に関しては、いくら試みても結局は頓挫、そんなことの繰り返しである。
 そんな状態だから、塚崎さんの喪失を埋め合わせようとあがいては、僕にとっての<塚崎問題>の底が知れる。彼のことを知っているつもりだったことが、傲慢の極みだったことを思い知らされるばかりなのである。
 先般の島本町のFW企画でもそうだった。彼の不在と彼が遺したことの大きさを改めて思い知らされながら、だからこそか、能天気に歩きながら、おしゃべりに励み、そして終わると、果てしなく管を巻いて痛飲した。
 そこで、その企画の準備に少し関わり当日も参加して、見たり聞いたり感じたりしゃべったりしたことなどを、脈絡などには拘泥することなく、覚書として残しておきたくなった。見果てぬ夢になりそうな塚崎さんへの別れの言葉の、当座しのぎにでもなってくれるかもしれないなどと・・・

塚崎さん没後のFWの真似事
 塚崎さん没後に、僕らは塚崎さんから手ほどきを受けたFWの一端なりとも反芻するために、その真似事を何度か試みた。
 まずは、塚崎さんの手持ちのFWコースではなかったが、塚崎さんと高野さんと僕の三人が一緒に歩いたことがあったので、そんな楽しさを追憶すると同時に、僕らなりの塚崎さんからの自立も目指して企画したFWもどきだった。
 宝塚までの六甲山縦走45㎞弱コースの西端起点でもある旗振山の山歩きと、その麓の谷底の街である塩屋商店街、さらにはジェームス山の歴史と現在をめぐるコースであり、かつて塚崎さんと一緒に済州FWを経験した人たちを中心に15名ほどが、最終の目的地である垂水の平磯埋め立て地内の渚の池にへとへとになってたどり着き、垂水界隈で昔から広く親しまれてきた寿司の名店「増田屋」で、寿司はもちろん海鮮料理とアルコールとおしゃべりをたっぷりと楽しみ、さらには僕を含めた三人は垂水の街で飲み続けた。
 次が、塚崎さんの最後の論文の対象だった新大阪近くの日の出地区や飛鳥地区、そして彼が最晩年に最も精力的に取り組んでいた大阪大空襲の朝鮮人被害者の墓などもある崇禅寺、さらには僕の実家がある東三国界隈のFWを、折からの寒風にめげることなく歩き通してから、これまた大いにおしゃべりを楽しみながら飲んだ。
 三回目が、塚崎さんに代わって案内役の大役を引き受ける羽目になって苦労している高野さんの導きで、枚方の御殿場などの火薬庫と私市一帯の朝鮮人労働者関連の跡地をめぐるFWであり、塚崎さんのパートナーである大田さんも初めて参加してくださった。
 4回目の今回が、島本町の塚崎さんと何かと因縁が深かったグループの皆さんに、企画立案、資料準備、当日の案内による4月18日(土)の島本町一帯のFWだった。
 まずはその準備段階の話である。
 今回のFWに関しては、僕ら「塚崎昌之さんの資料に導かれて、在阪朝鮮人の歴史を歩く」(発起人:石川亮太、高野昭雄、金稔万、玄善允、斎藤正樹)は協賛の形で関わることにして、その一員でもある斎藤正樹さんが中核メンバーとして活動されている「島本の戦争遺跡・記録を調べる会」の皆さんに、企画、準備、当日の案内その他を丸投げの形で主催していただいた。
 その準備の一環として、塚崎さんがFWの案内に際してはいつも重宝していた小道具の一つである大型シート(地図や写真その他を、A3の大型シートで作成したもので、FWのコースごとに塚崎さんはそれぞれ10枚以上を携帯し、それを提示しながら説明)を探し出すように斎藤さんから依頼された僕は、塚崎さんが遺された資料の活用法を検討中の東京の在日韓人歴史資料館の館長その他を案内して塚崎さん宅を訪問した際に、4室を埋める膨大な資料の山の中からなんとか見つけ出し、それを島本町グループの皆さんにお届けするついでに若干の打ち合わせも行った。
 島本町駅で落ち合った僕たちは、近くの「ふれあいセンター」という町民会館内のカフェで企画に関して懇談した。塚崎さんは生前に、その島本町で何度もFWの案内を行っており、島本町のグループは、FWの内容については十分に詳しく、過去の経験などを反芻するなどして、数人で分担して案内役をして下さるとのことだった。塚崎さんが作成された資料に導かれるだけでなく、彼の生前の人間関係などに関する貴重な遺産の助けも借りて、FWが継続されることが僕には喜ばしかった。 
 話を交わすうちに、そのグループには元教員や元公務員の方が多く、地域の自治会なども含めた広範な市民運動を担い、年齢的には僕(1950年生まれの73歳)と同年配らしかった。
 当日のFWでは島本町と山崎周辺の戦争や在日朝鮮人の歴史の痕跡をたどりながら新たな出会いも楽しめそうと、僕は期待を募らせた。
 当日の4月18日(土)には阪急水無瀬駅前で集合して、準備された2種類の資料を受け取った。
 一つはA4版で表紙を含めて20頁の「島本の戦争遺跡・記録を調べる会」の成り立ちと、塚崎さんと共同で着実に続行されてきた調査とFWに関する地図や写真も含めた詳細な資料だった。
 もう一つは、塚崎さんが島本町FWの為に作成されて活用していた「島本の楠公遺跡と朝鮮人の足跡をたどる」という、数年前に僕も参加した際に受け取ったFW資料のコピーだが、読みやすくするためにA3に拡大したものが、これまた20頁に及び、両方を合わせるとちょうど、40頁と大部なものになった。
 塚崎さんはFWの案内に際しては、すでに触れた大型シート、参加者に配布する大部な資料などをあらかじめ自分で準備して持参していたが、その重さや面倒を考えるだけで、僕は改めて圧倒されてしまった。
 それはともかく、出発に先立って主催者からの挨拶と当日の予定についての丁寧な説明があり、引き続いて協賛している僕らグループを代表する形で僕が、島本の皆さんに感謝の挨拶、そして塚崎さんが遺された資料の今後の活用法に関する諸種の企画の現況などにも触れた。
 そして出発となったが、FWコースは以下のとおりである(島本町グループ作成資料に則っている)。

水無瀬駅前にてご挨拶・「駅前周辺について」
↓(「楠公遺跡」を歩いて移動
史跡「櫻井ノ驛址」

「櫻井ノ驛射撃場」

ふれあいセンターにて昼食
3階の「第一会議室」にて交流会

ふれあいセンターから岩谷旧採石場へ移動

水無瀬川沿いに旧トロッコ道をたどる

西国街道から旧日紡山崎工場跡へ

旧「新京阪鉄道」(現在の阪急電鉄)の路線建設現場(国鉄との交差点)へ

阪急大山崎駅で解散

午前中は主に、戦時体制を草の根レベルから構築する政策の一環としての国民教化(忠君愛国のイデオロギーによる歴史の歪曲による神話化)、さらには、近年における戦前を踏襲するような官民一体の歴史の神話化の動向を、現地に残る建造物やその跡などで確認した。
 
 それに対して午後は、島本町地域における朝鮮人関連の歴史、例えば、朝鮮人を採石場の過酷な労働に導入し、そこで採った石材を淀川までは人力トロッコで、その後は淀川を活用した水上輸送で各地に、さらには劣悪な環境で若年労働者を酷使した紡織工場、昭和天皇即位大典のための突貫工事による鉄道建設のために多大な犠牲を強いられた朝鮮人労務者の痕跡など、現地を歩き丁寧な説明を受けながら確認した。
 午前と午後の合間の昼食後の交流会では、各人がどのような経緯や目的で参加したかなど個人的事情などを紹介しあって、多様な事情や目的で参加した人々同士の出会いの場としてのFWの意味も改めて痛感した。中でも特に印象深かったのは、高槻から参加したという90歳の女性の話だった。
「亡き夫が生前から、塚崎さんの話は尽きることがない歴史の宝庫だから、ぜひとも聞くようにと、しきりに言っていた。その夫が亡くなって以降に、塚崎さんのFWに極力、参加するように努めていたが、その塚崎さんが亡くなったと聞いて、彼のことを偲ぶためにも、自身の高齢や身体的条件などもあって、迷惑をおかけするかと懸念しながら参加したが、来てよかった」
 その方は都合5時間、12㎞、14000歩の全コースを、島本町方々が準備してくれた乗用車のサポートも受けながら、杖をついて踏破なさった。そんな姿に僕らも励まされ、またいつか、どこかのFWで再会することを期待した。そのためにも、僕ら自身の心身の調整と学習に励まねば、と自分に言い聞かせた。

前座と二次会、さらには三次会
 実は、春が待ちどおしかったこともあるし、心身の健康の維持のためにと、島本町FWのひと月前には、高槻から太閤道を経由して大山崎の山荘美術館へと、今回のコースと重なる行程を含むハイキングを企画した。そして、季節外れの雪がちらつく中を7人が、少しあえぎながらも山歩きを楽しんだ。頂上からは、僕がかつてサイクリングを楽しんだこともあって懐かしい三川(木津川、桂川、宇治川が合流して淀川になる)合流地周辺の美しい景色を遠望しながら下山し、若山神社に到着した時点で予定の時間からずいぶん遅れてしまったので、致し方なく最終の目的地だった山荘美術館の訪問はあきらめた。
 しかし、その代わりというわけはないのだが、神社の参詣道で猟師と猟犬に無残にしとめられ、血まみれで内臓までさらけ出した猪の姿の姿に遭遇したメンバーもいた。野生動物による農作物被害が多そうで、どこもかしも電流を流していそうな堅固な柵が張り巡らされていた。
 その後は、水無瀬駅のホーム下の小さな居酒屋に入って、元気な女将さんの手料理とおしゃべりを楽しませてもらい、その勢いで僕ともう一人だけは、高槻界隈でさらに深酒して、お決まりの後悔をした。その後日談が今回のFWの三次会とからむことになった。
 今回は、解散予定の3時をずいぶんと過ぎた4時頃になってようやく解散となったせいか、島本町の世話役の方の多くは、その間の資料その他の準備や当日の案内などでの疲労と気苦労が重なったのか、あっさりとお帰りになった。そして、残されたのは僕ら懲りない呑み助を中心にした7名だけだった。
 まだ明るい時間にお酒を飲ませてくれそうな店が周辺には見当たらなかったが、辛うじて和食のレストランが見つかったので、この際、味なんかどうでもよいからと、一日の達成感をかみしめながら飲んだ。それが済むと、3人はお帰りになり、案の定、僕を含むおしゃべりで呑み助の4人だけが、名残惜しいからと、酒とおしゃべりをさらに楽しむために、先日に楽しい時間を過ごさせてもらった駅のホーム下の店を目指したが、生憎と閉まっていた。
 そこで仕方なく、周辺を歩き回っているうちに、これまたすごく狭くて、女将が一人で切りもりしていそうな店が目に入ったのをこれ幸いと、中に入って女将さんと少し言葉を交わしてみたところ、居心地がよさそうだったので、しっかりと腰を落ち着けることにした。
 酒と肴の品定めを始めたところ、なんと最初に目指した店と同じシステムだった。肴としては作り置きの4品セットで一皿900円と値段まで同じで、お任せの肴の内容も、肴の種類は異なっても、味や分量などの味わう側からすれば遜色なかったので、ますますどっしり腰を下ろしたくなった。当然、酒とおしゃべりのピッチも上がった。そんな4人も時には言葉が途切れると、女将さん自身もそのわずかな隙に割って入って、話してくれたのが以下の二つのことだった。
 まずは、水無瀬駅周辺の一杯飲み屋事情。
 その界隈の一杯飲み屋としては、自分の店も含めて小さな店が4軒あって、そのうちの一軒だけは、まだ若い女性が切り盛りしているが、他の3軒はすべて自分と同じ年配の女将が一人、数人しか入れない小さな店で、ほとんど同じコンセプトで、なじみ客を相手に、なんとか商売を続けている。
 次いで、そんな店の一つとして、僕らが先般に立ち寄り、今回は残念ながら閉まっていた店の話になったのもごく自然な成り行きだった。
 ところが、その内容には僕は相当にショックを受けた。その店の女将さんが一人でいたときに脳溢血で倒れ、見つかったのは3時間後だった。発見がそのように遅すぎたせいで、そのまま意識不明の寝たきり状態と言うのである。
 言葉が出なかった。あんなに元気に僕らを適当にあしらって楽しませてくれていたのがまだひと月前のこと、不幸は遠い世界で起こるわけではないと身につまされた。
 僕の周囲では最近になってとみに、そんな話が多くなった。それだけに、自分の年齢や心身の状況をしっかり意識して、そのような突発的に思われそうな事態も覚悟して、毎日をすごさなくてはなるまい。そうしたからと言って、何かが変わるわけでもないだろうが、そんな覚悟が僕らの余生を少しでも、生き生きとしたものにしてくれるかもしれないなどと、望みをかけても、誰の迷惑にもなるまい。

酔ったついでの夢のような思いつき
 その店で僕ら4人は、よく飲みよく話しているうちに、同席していた一人に対して、いかにも酔ったあげくの無責任そうな思い付きが、僕の口から飛び出てしまった。
 僕の思いつきの宛先はNさんであり、その人とはコロナ禍の合間を縫って、結果的には塚崎さんに案内された最後のFWとなった「石切と生駒山麓の朝鮮寺」で初対面、帰路の途中の鶴橋での酒席で初めて言葉を交わした。その際の話の中で、在日沖縄人二世だけど一度も沖縄に行ったことがないと、ぼそぼそと語る表情と口ぶりに、僕が在日二世に関して持っている原イメージに似たものを感じて、興味を抱いたが、だからと言って話が盛り上がったわけではなかった。遠慮もあったのだろう。僕にはそんなところがある。興味を抱いた人には、すぐには近づかないで、自分と相手の双方の様子をじっくり見ることが多い。ついでの二度目は、僕の実家である東三国駅界隈のFWの際のことで、Nさんが我が家の家業であるコウバの見学にほかの見学者よりも強い関心を示していそうに思えた。さらには、そのNさんと親しく僕に対してもその人となりについて詳しく説明してくれるKさんの話によると、拙著『人生の同伴者―ある在日家族の精神史」を愛読しているということだったこともあいまって、強く記憶に残った。
 そして今回の島本町のFWが三回目の同行であり、二次会、三次会と、しこたま酒を飲んだあげくに口から出たのが、「一緒に沖縄に行きましょう!」という、自分でも本気かどうか定かでない言葉だった。
 その時、Nさんは一瞬、はっとしたように見えた。しかし、少し間をおいてから「それもいいですね。でも家内(あるいは、彼女、と言ったのかもしれない)がどう言うか?」と、まるで僕が言いそうな台詞を呟いた。それを見聞きして、僕の思いつきは一気に、本気のものになった。何としても実現しなければと。
 Nさんは沖縄をルーツとして、大阪堺の規模が小さな在日沖縄人コミュニティ内で生まれ育った。大学時代はある政治党派の一員となって懸命にその活動を展開し、卒業後にはその党派の専従活動家となって、長年にわたる地域密着の政治活動を継続した。そんな政治感覚、社会感覚を備え、しかも、同居していた祖母、その長男として在日沖縄人コミュニティの世話役をしていた父親を持ち、自らもそのコミュニティで培われた愛郷心を持ちながら、ルーツである沖縄現地に70年を超える人生において一度も行ったことがないという話。 
 そのすべてが、少なくともこの僕には、在日(朝鮮人)二世親の故郷や故国に対する屈折した感情、そして心理的な構え方とどこかしら似ているところがあるように思えた。そして、そんな人が沖縄を訪問したら、いったい何が起こるか。どのような変化が生じるのか、あるいは何も生じないのか、そんなことどもを自分の目で見ると同時に、インタビューなども繰り返し試みたくなったのである。
 どうして沖縄に行ったことがないのか、行こうとしなかったのかについて質問してみたところ、「何か自分のイメージが壊れはしまいかという惧れがあって」とその内実は定かではないが、なんとなく感覚的に分かった気になる回答が戻ってきた。そんな回答に、ある時期までの在日二世の一部にあったものと似た側面があるという確信のようなものも芽生えた。
 もっとも、実際に似ていようが似ていまいと、どうでもいいことなのだが、ともかく、Nさんに同行して、沖縄を旅してみたいと思うようになった。Nさんに無責任ながらも寄り添いながら、その人が体感するものを僕の目と耳と皮膚で感じながら、僕の韓国や済州との付き合い方と比べながら、僕自身の現在までの故郷や故国に対する感じ方の変化なども、再体験、あるいは、再検証してみたいと思うようになった。
 Nさんも酔った勢いもあっただろうが同意してくれて、自分の中で何が起きるかに対する期待や興味にも衝き動かされていそうだった。しかも、これまた酔いの勢いのせいか、その場に居合わせた4人がそろいもそろって「一緒に沖縄に」という話になった。
 僕はそのように記憶しているのだが、それが事実かどうか自信がない。以上は酔っぱらいの記憶に過ぎないし、素面の頭で考えると、それを実現するにはいろいろと障害が立ちはだかってきそうである。しかし、そんな障害を乗り越えようとする過程が、僕の余生の楽しみにもなってくれそうだし、Nさんにとってもそうではないかなどと、いかにも酔っ払い高齢者にふさわしい能天気な話なのである。しかし、どんなことでも気が向いたらそれを貪欲に活用して、弱った心身に刺激を与えて生き抜きたい。その意味では、僕のFWに対する態度や動機とも相当に重なっている。

この世への未練を断つ訓練も一つ一つ
 昨年の3月末で長年の非常勤稼業から追放・解放されることになった際には、さすがにいつだって未練たらしい僕にふさわしく、すごく不安になった。そこで、心理的な保険のようなつもりで、それまで40年以上も非常勤講師として通ってきた大学の市民サービスの一環としての、図書館の利用登録を行った。年間登録料の6000円(消費税を合わせると6600円)を支払い、顔写真を添付して申し込み、そのカードが郵送されてきた時には、何かしらほっとした。
 ところが、実際にはそれから一年間、その図書館を一度も利用しなかった。登録の際には、それまでも授業がてら大学の裏山のハイキングを楽しんできたことの延長線で、今後も、せめて月に一度は山歩きも兼ねて図書館と学生食堂に通い、老いぼれ学生の気分でも楽しむつもりだったが、ほんの一度たりともその計画を実現できなかった。 
 折しもその年の2月に母を100歳で亡くし、その母にまつわる手続その他で慌ただしかったので、仕方ないことと自分を宥めた。ところが、今年の3月末にはその登録も期限満了となるので、更新するかどうかと、またしてもずいぶんと迷った。そしてそのあげくに、手続きが面倒くさく感じられたこともあったが、それ以上に、自分の未練がましさから解放されることが大事と考えて、敢えて更新を断念した。何に対する未練なのか定かではないのだが、そんなものは今後の僕にとって無駄であるばかりか、わずかに残された可能性をむしろふさぐことになりかねない。だから、断ち切ることこそが、余生を積極的に生きることになるはずと、自分に言い聞かせた。
 ちょうど、その頃にパソコンがクラッシュして、これまでに蓄積してきた多くのデータを救出できなかったので慌てふためいたのだが、そのデータをこの先の僕の人生で活用できそうな見込みなどない限り、諦める方が精神衛生によいと考えたことと同じラインのことだろう。僕にしては潔いことであり、褒めるほどのことでなくても、悪くはないだろう。
 先に触れた母の死の残務処理は今でも完了していないが、いつかは終わるだろう。なんだって終わるだろう。だからといって放置するのではなく、自分の責任で終えるべく努力しなくてはなるまい。その為にも、得体が知れない何ものかに対する未練も、それが未練であることが確認できさえすれば、その未練を自分なりに吟味して断ち切ることくらいは、自分のイニシアチブで遂行したい。
 塚崎さんの遺志を継いだFWは、未練とは逆方向の可能性を包含していそうなので、ますます積極的に楽しみたい。

折々のメモ5(4月10日)-パソコンとの付き合い方ー

2024-04-11 09:58:43 | 折々のメモ
折々のメモ5(4月10日)ーパソコンとの付き合い方ー

 今さら言うことでもなさそうなのだが、老化にどのように対応するか、それを考え直さねばならないようなことが次々と起こり、その度に<あたふた>を繰り返している。
 例えば、最近での最大の事件が、パソコンのクラッシュである。
 数日前にパソコンがまったく動かなくなり、慌てて都心の大型電器店に駆け付けたところ、いろんな理由で修理は難しいし、パソコン内のデータの復旧もまたほとんど無理であることが判明してパニックに陥った。
その間の詳細をたどると、次の通りだった。
 そのパソコンを買った専門店で相談したところ、購入して4年なので、3年の保証期間は過ぎている。故障の具合をその店で調べるわけにはいかないので、ともかく、費用の自弁を覚悟して、製造メーカーに送って修理を依頼するしかない。ところが、修理の際にはパソコンを初期化することになるので、内部データはすべて消失する。したがってデータを救出するには、修理のためにメーカーに送るのに先立って、最も信頼されている東京の専門業者にパソコンを送ってデータの復旧を依頼しなくてはならない。どちらに関しても、その可否の予想はつかないし、修理費用が10万円を下ることはないだろう。しかも、二か所に次々にパソコンを送ることになるので、時間的には最低、ひと月くらい覚悟した方がよいと言うのである。
 パソコンがなければ何もできずに、ほとんどパソコンに支配された生活をしている僕としては、そんな悠長なことでは話にならない。そこで、前もって次善の策として想定していたように、別の大型電器店に向かった。そちらの店では、半年ほど前に妻が新しいパソコンを購入し、その際には、この先数年間のテクニカルサポートのサービス契約を結び、僕も家族として、そのサービスを受ける資格を与えられていたからである。
 案の定、そちらの店のテクニカルサポート部門の専門家の対応は、最初に行った店とはまったく違っていた。自分たちが修理をすることはできないが、問題のあらましを把握しないと対応ができないので、いったんこちらでパソコンを開いてから検討してみるので、少し時間をいただきたい、という。そこで、その店の近くの公園の椅子でコーヒーを飲みながら時間をつぶしていたところ、予想外に早く電話がかかってきたので、改めてその店に向かった。すると次のような話だった。
「熱のせいでバッテリーがすっかり波打ってしまっている状態です。実際に手で触ってみてください」と言われて、手を触れてみたところ、なるほどひどく波打っており、これではバッテリーがダメになっていることが素人の僕にも確認できた。
 職員は話をつづけた。こんな状態ではどこに持って行っても修理など望めないし、データ復旧に関しても無理と言う。それと言うのも、パソコンに暗号化キーが設定されていて、その復旧などできるわけがないらしい。
 ところが、どちらの話も僕には、本当のところ、よく分からない。まず、バッテリーが熱で波打ち状態になっているのは、いったい何故だろうか。僕がパソコンを何か高熱を発するものの近くで使用したりした覚えはないし、パソコンに以上に熱を出させてバッテリーを変形させるような使い方をした覚えもないのに、いったいどうしてそんなことになったのだろうか。
 ただし、そのバッテリーの件については、その場にたまたま居合わせた別の職員が、僕に小声で、「この機種はバッテリーの問題があるということをよく耳にします。つまり、ある程度の期間にわたって使用すると、バッテリーに支障が生じるという弱点を、製造段階から抱えていたのでしょう。ですから、寿命のようなものとでもみなして、今後の対処を考えた方がいいのでは」と言うのである。
 つまり、そのパソコンの修理などはあきらめて、新しいパソコンを購入するしかないというのである。それは営業上の戦術なのかもしれないが、僕はその店に行く前からすでに覚悟していたことだったから、それなりに納得した。そのうえ、修理する考えなどなかった。それと言うのも、パソコンなしに数日はもちろん、一日二日でも過ごすことなど考えられなくなっている僕だから。一日も早く新たなパソコンを入手して、作業が可能な状態にする必要がある。
 その他、スタッフたちの話を聞いていると、今や、「パソコンの寿命は5年」が常識らしく、僕のパソコンは購入してすでに4年になるから、人間の僕と同じように寿命に近づいており、クラッシュしても仕方ないことではないかと納得した。困ったときには、何であれ適当な口実を盾に自分を納得させながら、生き延びてきた僕の本領発揮だった。
 因みに、「暗号化キー」という言葉自体は、家のWi-Fiなどの関係で目や耳にしていたが、それが僕のパソコンに設定されているなんて初めて聞いた話である。そこで念のために、ネットでその用語について調べてみたのだが、分かったようで分からないのだが、そのせいでデータの復旧が不可能というのだから、どうして所有者の僕の知らないところで、そんな設定がなされていたのか、それについては納得できなかった。
 ところが、納得できないことなんか人生には山とあり、納得できないからと言って、それに中途半端にこだわって恨み節で憂さ晴らしばかりしていると、この先には何一つできそうもない。納得できないことでも、それが現実なら、それを前提に生きるしかない。そんなことを暮らしの知恵などと偉そうなことは言えないのだが、その種の考え方は僕が生きるにあたって必須のものであることは確かなことのようである。  
 スタッフの話では、それが設定されているおかげで、個人情報が洩れそうな心配なしにパソコンを不用品として処分することもできるので便利だから、そのように設定されているらしかった。しかし、僕としてはその暗号化キーのせいでデータ復旧ができないことに対する恨みもあって、新しく購入するパソコンには、その暗号化キーを設定しないように、お願いしておいた。
ともかく、「何が何だかわからないままに翻弄されている老いた僕」という事実だけは確認できたので、それをベースにして、気持ちを立て直すことにした。それくらいのことなら、パソコンなどのリテラシーを欠いた老人の僕でもできなくはないだろう。
 しかも、その暗号化キーをパソコンに設定するようになったのは、後に述べるように、バックアップがパソコン内部ではなくパソコンの外部でできるようになったからだろう。つまり、両者(クラウドによるバックアップと暗号化キーの設定)は連動していると考えるべきであり、実際にそうだとすれば、そのことをパソコンの初期設定の段階で、使用者がしっかり説明を受けて、そのパソコンのバックアップシステム、つまり、僕の場合ならワンドライブのアカウントの重要性を知ったうえで、パソコンの使用を始めなくてはならなかったことになる。それなのに、その点に関する僕のリテラシーと販売者の説明が不十分だったからこそ、いざ、パソコンに支障が生じると、慌てふためくことにならざるを得なかった。
 それはともかく、こんな時こそ、年齢相応の粘り腰の出番と考えた。クラッシュしたパソコンからのデータ復旧が無理であっても、それ以外にも、データの一部に過ぎなくても確保できる方法がありそうな気がしてきて、それにかすかな期待をかけることにした。
 その一つが、4年前まで使用していたパソコンが故障するまでのデータの、復旧の可能性である。
 今回クラッシュしたパソコンを4年前に購入した際には、それ以前の故障したパソコンのデータを業者の助けを借りて確保してもらった。そして、そのデータを新しく購入したパソコンに移行させるために用いたUSBメモリーを、僕はその業者から受け取って、大切に保管しているはずだった。したがって、その分だけでも(つまり、4年前までのデータの多く)無事に確保できているはずではないかと、思ったのである。
 ところが、そうは問屋が卸さなかった、新しいパソコンが届くとすぐに、そのUSBメモリーを差し込んでみたところ、うまく作動しなかった。何かの不具合が生じて、データの読み取りができず、淡い夢ははかなく終わった(ただし、これについては後日談があるので、後に紹介する)。
 そこで最後のあがきを試みた。細くて弱そうな頼みの綱が二つあった。一つはワン・ドライブという僕のパソコンのメーカーが採用しているバックアップ用のクラウドである。
 今回クラッシュしたパソコンでは、いつごろのことからか、あるいは、最初からそうだったのに、僕がそのことを知らなかっただけのことかもしれないのだが、僕がそのパソコンで作成したファイルは、自動的にワンドライブというその会社が用いているクラウドでバックアップされるようになった。したがって、そのワンドライブにアクセスさえできれば、そのパソコンで作成したファイルに限っては、ほかのどんなパソコンからでもアクセスできる。つまり、僕の立場から言うと、データの復旧が可能なはずなのである。だから、あくまで<ひそかに>だが、僕はそれに期待した。
 ただし、それはあくまで<ひそかに>であり、その文言は修辞などではなかった。僕自身の宿痾であるズボラな性格とパソコンに関するリテラシーの欠如とが重なって生じた問題のことを、僕はその時点ですでに察していたからである。
 それが何かといえば、そのワンドライブにアクセスするために必須の、僕のアカウントを僕自身が知らなかったことなのである。そうであれば、ワンドライブへのアクセスは必然的に不可能で、せっかくのワンドライブも宝の持ち腐れなのである。
しかし、幸いなことに、そのアカウントが、実は最後の段になって偶然に見つかって、クラッシュしたパソコンで作成したデータに関しては、復旧できるめどがついた。僕は大きな安堵のため息を吐いた。
 これまたその間の経緯について、相当に長くなるが書き留めておきたい。
 僕はこれまで、パソコンを新規に購入すると家に持ち帰り、初期設定などはすべて自力で行ってきた。それ自体は自慢できそうなことではなくて、むしろ当然のことだろうが、今回はそうではなかった。パソコンへの僕の対応のそうした変化について述べるための、前置きなのである。
 今までは自力でなんとか行っていた初期設定なのだが、その度にすごく緊張し、少なくとも一日がかりは覚悟して、取り組んだものだった、そして現に、途中では何度も壁にぶつかって、その度に途方に暮れそうになりながらも、意地になって取り組んでいるうちに、何が何だか分からないままに設定が完了するのが定番だった。
 その程度のこともできない者は、パソコンを利用する資格がないなどと、なけなしのプライドを賭けての作業だった。もちろん、経費の問題もあった。業者に初期設定を依頼するなど、無用な出費を避けたかったのも、いかにもケチな僕らしかった。
 そんな実情だったから、その際にはほとんど無意識ながら、言葉を変えると、少しは危惧しながら、後に問題が生じる種を蒔いていたのである。
 先に触れたワンドライブのアカウントすら知らなかったのも、初期設定の際の、もっぱら意地に突き動かされた<やぶれかぶれ>の必然的結果だった。
 ともかく、動きさえすれば当座は間に合う。後になって困ったことが生じれば、その時に対応すればよい、というように、なんだって問題を先送りするいかにも僕らしさの発揮だった。最低限のこととして、プリンターとの無線接続、契約済のセキュリティ設定、そしてメールの設定さえできれば、ひとまずは万歳!というわけで、その日の夕食の際には、ひそかに乾杯の言葉をつぶやいていた。つまりは、いつだって、冷や汗ものの作業だった。
 そのように、ごまかしだらけでパソコンを使ってきたわけだが、最近の携帯電話やパソコンの進化を見ると、これまでと同じようなやっつけ仕事では済まず、逆に迷路に入り込んで身動きできなくなりそうな予感が、今回のパソコンのクラッシュ以前に、僕の意識の中に兆していた。
 その最大の契機は、パソコンにまつわる妻のストレスと奔走の日々を傍で見ていたことである。買った時からすでに始まっていたパソコンの不具合に困り果てて、あちこちに電話で問い合わせて専門店を訪れて、保証期間だからと無償修理後にも状況は好転しないのでストレスを募らせるなど、すったもんだのあげくに新しいパソコンを買うことを強いられた妻、その窮状を見ながらも、僕は何一つとして役に立てなかった。
 そんな状況を半ば傍観者、半ば当事者として経験するうちに、僕はそうした事態に関して、それなりの警戒心を抱くようになった。僕のような人間は、今後、パソコンを便利な道具として使用できるのではなく、むしろそれに頼れば頼るほど、逆に翻弄され、威嚇されるようになっていくという、恐怖を伴う実感を持ったのである。
 だからこそ、妻が新しいパソコンを購入する際には同行して、最近のパソコン事情の一端なりとも把握しようと考えた。

 妻は今回、パソコンを従来の店で買うのは避けた。現品限りで大幅なディスカウントという触れ込みに乗せられたせいで、ひどい目にあったという実感があり、その後のアフターサービスにも不信感を抱いてのことだった。しかも、それまでの苦労がこりごりだったので、別の店で新規に購入の際には、初期設定サービスはもちろん、問題が生じれば電話サポートに加えて、技術者の出張サービスも含めたサービスの契約も結ぶことにしたのだが、同行していた僕も、それには全面的に賛同した。
 それと言うのも、担当者の話を聞いているうちに、今までのように安易に自力でパソコンを操ることができると考えてはならない。今後のパソコンの世界は、便利になればなるほど多くの問題を抱え込むことになりかねず、僕らには太刀打ちできそうにないことを思い知ったからである。幸いにも、妻が契約したサービスは、家族である僕もサービス対象含まれることになるので、僕ら夫婦も今後は、パソコンで苦しめられる心配を免れると安心した。
 そしてなるほど、妻はすごく長期にわたってのパソコンの不調で苦しんだことなど、今やすっかり過去のことになったような様子で、それだけでも大したことで、ありがたいことである。
 しかも、そのサービスが、本来は傍観者にすぎなかった僕を、大きな危機から、それも土壇場のぎりぎりで、救ってくれたのである。
 
 ことの発端は、実に些細なことだった。いちびりシェフである僕が夕食で試そうとして、料理のレシピを検索していた時に、<レシピの詳細>という文字をクリックしたところ、いきなり大音声の「あなたのパソコンは重大なウイルスに感染しています。直ちに、以下の番号に電話して、指示に従わないと、とんでもない被害をこうむることになります。急いで対処してください」との音声警告が始まり、それとともに、異常に切迫感のある救急車のサイレンのような音声が繰り返される。慌てふためいた僕が、それを止めようとして、あらゆることを試しても、まったく効果がない。恐怖が募ったあげくに、致し方なく指示に従って電話をしたところ、相当に訛りのある日本語で指示を下してきたのだが、電話の相手方の周囲でも同じような応対をしているスタッフの声が雑音のように聞こえてくることもあって、すごく怪しく感じた。それでも指示に従わないわけにもいかない気持ちに追いやられるなど、僕はすっかり相手の声とサイレンのような大きく威嚇的な音声に支配されていた。
 しかし、その段になって僕もようやく、パソコンから少し逃れて、落ち着きを取り戻さないと危険だと思いついて、自室から出て階下に降りて洗面所で顔を洗って、ため息をついた。そんな僕の異常な様子に気づいた妻が「どうしたん?」と聞くので、事情を説明したところ、妻は直ちに、「テクニカルサポートに電話してみたら」と電話番号とサポートサービスの僕を含めた我が家の会員番号をメモして僕に渡してくれた。その言葉を受けて、僕もそうした方がよさそうと、珍しく素直に妻の勧めに従って、テクニカルサポートに電話して、事情を説明してみた。
 すると、テクニカルサポートセンターの女性はゆったりとして、確信に満ちた声で、「落ち着いてください。お話を聞くと、それは典型的な詐欺のようです。そのタイプの詐欺が最近はすごく増えています。ともかく、今から申し上げる指示に従ってください」と言うので、その通りにした。
 まずは、パソコンのスイッチを10秒ほど長押ししたところ、まるで嘘のように、パソコンの電源が切れて、あの音声から解放された。そして、改めて、パソコンのスイッチを押して起動して、電話での指示に従った操作を続けても、先ほどまでのあの脅迫的な音声は姿を現さなくなった。僕のパソコン、そしてその所有者の僕は無事に救出された。
 そのおかげで、僕はぎりぎりのところで、詐欺被害にあわずに済んだ。もし、そのサービス契約と妻の機転がなかったら、僕はどれだけひどい損害を被ったか想像もつかない。そしてきっと、今なおその後遺症で苦しんでいたに違いない。その種の詐欺は、一回の被害額はそれごどでもないのだが、一度、その被害にあうと、その後、繰り返し、しかも、どんど額が膨らむ金額の被害を被ることになるのが一般的と言う。そして、被害者はすっかり怯えて、相手の言いなりになるという話である。
 そのようにして、僕はかろうじて難を免れた。気が付いてみると、全身が冷や汗だらけだった。その時に僕は、現代の携帯電話やパソコンを通じての詐欺にあわないでおれるのは、僕のように隙だらけの個人の注意や覚悟ではとうてい無理とい現実を痛感した。だからこそ、携帯やパソコンに関しては、無駄と思える費用を事前に支払っても、自分が少しでも気楽にそれらの便利な機器を利用しながら、不安や恐怖を覚えないための、必須の準備を整えておくしかないと思うようになったのである。
 これは僕にとっては致し方ない自己防衛策であり、恥ずかしがる必要など何一つないと自分を励ました。つまらない意地やプライドなんて、気持ちよく余生を過ごすこと以上の価値などない。
 そんな考えの延長上で、今回はパソコンを購入する際に、その初期設定についても全面的にサポートを受けることにした。その費用は会員特典で5割のディスカウントなので、経済的負担も予想していたほどではなかった。
 ついでだからと、パソコンに関して気になる事項をいくつもメモして、担当者が来るのを待ったが、その三日間の待機期間は、ずいぶんと久しぶりにパソコンから解放されたので、それを活用して、身の回りの整理と、パソコンとの関係なども含めた今後の生活についてもじっくり考えてみた。
 そしてそのついでに、前々から頂いたままだったいろんな知人の論文の抜き刷りを読んだり、昔から気になっていた韓国の詩人・金芝河に関しての、韓国と日本での現在の評価などに関する論文を読んだりもして、久しぶりに自分以外の人の文章を楽しめた。
 パニックに襲われて専門店に駆け付けて三日後には、技術者が我が家にやってきて、パソコンの初期設定をしてくれた。僕はその様子を見守り、それが終わると、僕自身の性格的欠陥などを前提にしての質問や要望などを伝えると、丁寧に教えてもらえた。
 そして最後の懸案が、ワンドライブの僕のアカウントだった。僕がこれまで電子機器を購入する際に使用していた個人情報をすべて書き出したメモを見せて、アカウントらしいものを選んでアクセスを試してもらったが、すべてダメだった。
 そこで、僕がパソコンも含めて僕がこれまでに使用してきた電子機器関連の書類その他をまとめておいた引き出しの書類をすべて床にぶちまけて、そこからアカウントらしきものを探そうと最後のあがきを試みた。そして、その書類の山の一番奥にあった小さな紙を、技術者は指して、「それかも知れませんよ」と言うので手渡した。すると彼は、二つ折りになったその紙片を彼は開いたところ、そこにある僕が手書きしていたアカウントとパスワードが、どうもそれらしいと言う。それに最後の望みをかけて彼に試してもらったところ、なんとワンドライブへのアクセスに成功した。ほとんど何もなかったデスクトップの画面が、僕のクラッシュしたパソコンのデスクトップと同じ画面になった。つまり、多量のファイルとフォルダーで画面全体が埋められ、他人が見たらおぞましいと驚くほどに乱雑な僕独特の画面が、一挙に姿を現した。
 僕は救われた。少なくとも僕が最後のライフワークと決めている三部作の草稿だけは確実に救出できた。
まだまだ話は続く。先に中途半端なままに途切れた話、つまり、4年前に新旧パソコンのデータ移行のために用いられたUSBメモリーの後日譚である。
 うまく作動しなかったそのUSBが何とかならないかと、それを携行して、テクニカルサポートのカウンターを訪問した。するとスタッフはすぐさま、店頭のパソコンにそれを挿入したところ、何の問題もなくデータが読めた。つまり、4年前までに蓄積していたパソコン内のデータの救出もできていることが判明したわけである。
 ところが、それで万々歳とは運ばなかった。帰宅して新しいパソコンに挿入してみると、やはり作動しない。パソコン内の何かが邪魔をしていそうなのである。その新しいパソコン内の何が問題なのか、次にはパソコンとUSBメモリー両方を持って、テクニカルサポートのお世話になるしかない。しかも、今や何も心配することなどない。4年前以前のデータはすでに一度はあきらめたものである。しかも、それを活用して僕が何か新しいことなど、余生でできそうにもないからである。それに店のパソコンで読み取れたのだから、僕のパソコンでも読み取れるはずである。
 これで今回のパソコン騒動も一件落着である。
 それに、今回の騒動は災難と言うよりも、僕にとって必要なアラームであり、実に良い経験になったとお得意の能天気!

折々のメモ4―ブログの記事のリストー

2024-03-24 07:58:22 | 折々のメモ
折々のメモ4―ブログの記事のリストー(2024年3月25日)

「折々のメモ3」で触れたように、僕のブログのこれまでの記事の履歴を確認して、新たな記事を書く際のリンク情報などの資料としたい。
 この5年ほど、恥も何もかもかなぐり捨てて、このブログに精力を費やしてきたことに、今さらながらに呆れるほどに大量の文章をアップしてきたこと。
 但し、納得できる文章を書いてきたというのではなく、ただただ焦って、ひたすら量を書いてきた。こんなことではダメと思いながらも、ほとんど惰性のように、或いは、強迫観念に追い立てられるようにして書いてアップしてきた。読者の皆さんには、なんとも申し訳ないことである。
 読者を頭に浮かべて対話する姿勢、そんな初心を失って、読者と自分の時間を奪い、両方の心身まで痛めつけているのではないか!
 そうなのである。明らかに初心を忘れている。そんなことを改めて痛感する。しかし、だからと言って、書いてきたものの一部であっても、少なからずの人々に読んで頂けたのだから、それを否定するなんて大それたことは、僕には断じてできないし、する気などない。いくら「ゴミの山」でも懸命に書いてきた。そのことだけは無理をしても自分に言い聞かせないと僕の身がもたない。
 そのうえで、今後は初心を常々反芻し、読者と自分を、そして言葉を慈しむ文章を書くように努めたい。
 以下では先ず、ブログのカテゴリーそれぞれについての簡略な説明を、次いでは、カテゴリーごとの記事数とそのタイトルとブログにアップした日付を記した。但し、その日付は必ずしも、その原稿を書いた日付ではない。はるか昔の文章に少し手を入れてアップしたものも少なからずある。例えば、「玄善允の落穂ひろい」は、昔、僕と妻が二人の関係を繋ぎとめるために、二人で発行していた雑誌「しましま模様」の僕個人としての続編のつもりで書いて知人たちにメールで送っていたものの一部なので、既に20年から30年も前のものである。

1.カテゴリー

@拙著関連:公刊した拙著に関連する記事。 
@韓国の小説の翻訳の試み:韓国で生まれ育って、数年前に亡くなった玄吉彦(僕の父の長兄の次男だから、僕の従兄)の小説の翻訳と、少し事情があって翻訳を試みたところ、予想外に面白くなってきたが、僕の韓国語運用能力と翻訳の能力では、到底,全部の翻訳は無理と断念せざるをえなかった金源一の長編小説『その父の息子』の一部の抄訳。
@玄善允の小説もどき:自伝的成長小説三部作のうち、一応は完成したつもりである第1部「ハマニ」と第2部「ちっちゃい兄ちゃん」であり、第三部は草稿レベルで放置したままで、それが日の目をみることはないだろう。
@済州の歴史と生活文化のフィールドワーク:僕の夢として企画案内を実現した2回にわたるフィールドワークの記録で、3回目も企画していたが、最後の段になって、コロナのせいで断念した。今年の夏にもリベンジを考えている。
@韓国の今:韓国在住の知人の研究業績の一部であり、特に関心を抱いたので著者の了解を得たうえで、翻訳を試した。
@老後の日常と雑多な関心;大阪から転居した塩屋の街とジェームス山のウオーキングコースなど。元来は三題噺として構想し、その第一題だけはなんとか完成してアップしたが、それ以降は草稿段階のままで放置してある。
@済州女性文化遺跡:「済州女性文化遺跡100」という写真入りのガイドブックの抄訳である。僕はその本で言及されている遺跡をタクシーの運転手さんの助けも借りて、7割くらいは訪問した。
@紀行;中国厦門の旅行記、ソウルや済州の滞在記。
@中高年の屈託と社会;中年の屈託をなんとか悦びに転化して生きようともがいた記録。 
@サイクリング:50歳代の10年間は、サイクリングのおかげでなんとか生き延びたという実感がある。僕のサイクリング賛歌。 
@済州一般:済州の現代写真集のキャプションの翻訳と付録としての済州の現代史年表の翻訳)が中心。
@在日;母の死にまつわる長編エッセイその他
@触れあった人々;主に韓国のタクシー運転手さんたちの話。
@在日韓国学生同盟:僕が学生時代に関わった在日の学生運動に関する極私的物語
@在日関連のフィールドワーク:昨年に亡くなった畏友・塚崎昌之さんの教えを受けて、その遺志を継いで続けるつもりの在日に関する日本でのフィールドワークなど。
@折々のメモ:2024年の新年を期して考えるに至った僕のブログの新機軸の記事など。
@玄善允の落穂ひろい:ブログ開設以前に書いていた文章に少しだけ手を入れてアップした。
@断捨離の過程でみつけた拙文

2.カテゴリーごとの記事のタイトルとアップした月日、そして記事数。

 但し、僕が手作業で確認した記事数とブログでカテゴリーごとに表示されている記事数の間に誤差がある。何故なのか、今後、ゆっくりと確認しながら、ブログに関する僕のリテラシーの向上にも努めたい。

@カテゴリー:拙著関連 記事数9
在日韓人歴史資料館のミニシンポジウム「在日の歴史を再考するー記憶と記録をみつめて」
日時:2023年7月22日(土)14時~17時30分
場所:韓国中央会館8F(在日韓人資料館本館)
玄善允の
「ひとりの在日二世が見てきた在日の世界」4,2023年7月25日
「ひとりの在日二世が見てきた在日の世界」3,2023年7月25日
「ひとりの在日二世が見てきた在日の世界」2,2023年7月25日
「ひとりの在日二世が見てきた在日の世界」1,2023年7月25日

連作エッセイ「金時鐘とは何者か」3,2022年10月26日
連作エッセイ「金時鐘とは何者か」2,2022年9月14日
連作エッセイ「金時鐘とは何者か」1,2022年9月14日

拙訳『済州歴史紀行』(李映権著)について、2019年1月14日
拙著『人生の同伴者、ある在日家族の精神史』について、2018年12月6日

@カテゴリー:韓国現代小説の翻訳の試み。記事数42
金源一著『息子の父』試訳 4,2018年7月1日
金源一著『息子の父』試訳 3,2018年7月1日
金源一著『息子の父』試訳 2,2018年7月1日
金源一著『息子の父』試訳 1,2018年7月1日

玄吉彦短編小説集
玄吉彦著『我が家を離れて』試訳4、2018年5月4日
玄吉彦著『我が家を離れて』試訳3、2018年5月4日
玄吉彦著『我が家を離れて』試訳2、2018年4月6日
玄吉彦著『我が家を離れて』試訳1、2018年5月2日

玄吉彦長編小説
玄吉彦著『身熱』試訳5,2020年10月20日
玄吉彦著『身熱』試訳4,2020年10月20日
玄吉彦著『身熱』試訳3,2020年10月20日
玄吉彦著『身熱』試訳2,2020年10月20日
玄吉彦著『身熱』試訳1,2020年10月20日

玄吉彦中編小説
玄吉彦著『深い寂漠の終わり』2、2020年10月19日
玄吉彦著『深い寂漠の終わり』12020年10月19日

玄吉彦中編小説
玄吉彦著『帰郷』2、2020年10月19日
玄吉彦著『帰郷』1、2020年10月19日

玄吉彦短編小説集
玄吉彦著『その島へは誰もが行けるわけではないのだろうか』7、2022年11月15日
玄吉彦著『その島へは誰もが行けるわけではないのだろうか』6、2022年11月15日
玄吉彦著『その島へは誰もが行けるわけではないのだろうか』5、2022年11月15日
玄吉彦著『その島へは誰もが行けるわけではないのだろうか』4、2022年11月15日
玄吉彦著『その島へは誰もが行けるわけではないのだろうか』3、2022年11月15日
玄吉彦著『その島へは誰もが行けるわけではないのだろうか』2、2022年11月15日
玄吉彦著『その島へは誰もが行けるわけではないのだろうか』1、2022年11月15日

玄吉彦大河小説、当初は6巻の構想だったが3巻までの刊行で終わった。
完成されなかった章の予定タイトルは、7章「一番鶏の鳴き声」、8章「北西風」、9章「忘れられた春」、10章「愛を求めて」、11章「真夏の叛乱」、12章「僻地の論理」、13章「風と炎」だった。
玄吉彦著『漢拏山』第二部第6章「共和国の夢」5-6、2021年9月26日
玄吉彦著『漢拏山』第二部第6章「共和国の夢」3-4、2021年9月26日
玄吉彦著『漢拏山』第二部第6章「共和国の夢」1-2、2021年9月26日
玄吉彦著『漢拏山』第二部第5章「新しい旗」1-3、2021年8月30日
玄吉彦著『漢拏山』第二部第4章「夢見る島」9、2021年8月30日
玄吉彦著『漢拏山』第二部第4章「夢見る島」7-8、2021年8月30日
玄吉彦著『漢拏山』第二部第4章「夢見る島」4-6、2021年8月30日
玄吉彦著『漢拏山』第二部第4章「夢見る島」1-3、2021年8月30日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第3章「1945年8月」7-8、2021年8月22日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第3章「1945年8月」5-6、2021年8月22日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第3章「1945年8月」3-4、2021年8月22日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第3章「1945年8月」1-2、2021年8月22日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第2章「烽火」4-7、2021年8月19日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第2章「烽火」1-3、2021年8月19日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第1章「風の岬」11-13、2021年8月19日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第1章「風の岬」7-10、2021年8月19日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第1章「風の岬」3-6、2021年8月19日
玄吉彦著『漢拏山』第一部第1章「風の岬」1-2、2021年8月19日

玄吉彦の児童小説である『戦争ごっこ』(岩波書店刊)の後日譚して書き継がれた2巻の児童小説。小中期の『戦争ごっこ』に続く『見知らぬ森への道』、さらにその後の『砂漠への道』で三部作が完結。
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳10、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳9、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳8、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳7、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳6、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳5、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳4、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳3、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳2、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説『見知らぬ森への道』試訳1、2020年10月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳10、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳9、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳8、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳7、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳6、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳5、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳4、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳2、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳1、2020年11月21日
玄吉彦著児童小説「砂漠への道」試訳10、2020年11月21日

@カテゴリー:玄善允の小説もどき。未完の第一部「ハマニ」と第二部「ちっちゃい兄ちゃん」、第三部は草稿段階のままに放置。記事数15

第二部「ちっちゃいにいちゃん」10、2022年11月15日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」9、2022年10月13日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」8、2022年8月25日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」7、2022年8月25日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」6、2022年8月18日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」5、2022年8月18日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」4、2022年7月31日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」3、2022年7月31日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」2、2022年7月31日
第二部「ちっちゃいにいちゃん」1、2022年7月31日
第一部「ハマニ」4、2022年1月14日
第一部「ハマニ」3、2022年1月14日
第一部「ハマニ」2、2022年1月14日
第一部「ハマニ」1、2022年1月14日
第一部「ハマニ」0、2022年1月14日

@カテゴリー:済州の歴史と生活文化のフィールドワーク。記事数8

第二回済州の歴史と生活文化のフィールドワークの記録4、2020年10月21日
第二回済州の歴史と生活文化のフィールドワークの記録3、2020年10月21日
第二回済州の歴史と生活文化のフィールドワークの記録2、2020年10月21日
第二回済州の歴史と生活文化のフィールドワークの記録1、2020年10月21日
第一回済州の歴史と生活文化のフィールドワークの記録4、2022年4月24日
第一回済州の歴史と生活文化のフィールドワークの記録3、2022年4月24日
第一回済州の歴史と生活文化のフィールドワークの記録2、2022年4月24日
第一回済州の歴史と生活文化のフィールドワークの記録1、2022年4月24日

@カテゴリー:韓国の今、翻訳もどきなど(仁川砲兵廠の青少年徴用)記事数6

李商衣著『日帝の強制動員と日本陸軍仁川砲兵廠への青少年徴用』の抄訳6、2022年4月15日
李商衣著『日帝の強制動員と日本陸軍仁川砲兵廠への青少年徴用』の抄訳5、2022年4月13日
李商衣著『日帝の強制動員と日本陸軍仁川砲兵廠への青少年徴用』の抄訳4、2022年3月23日
李商衣著『日帝の強制動員と日本陸軍仁川砲兵廠への青少年徴用』の抄訳3、2022年3月16日
李商衣著『日帝の強制動員と日本陸軍仁川砲兵廠への青少年徴用』の抄訳2、2022年2月27日
李商衣著『日帝の強制動員と日本陸軍仁川砲兵廠への青少年徴用』の抄訳1、2022年2月26日

@カテゴリー:老後の日常と雑多な関心 塩屋の街とジェームス山、ウオーキングコースや、僕がおおいに重宝した済州のガイドブックの抄訳。

余生の三題噺もどき6、2022年8月12日
余生の三題噺もどき5、2022年7月7日
余生の三題噺もどき4、2022年7月6日
余生の三題噺もどき3、2022年5月23日
余生の三題噺もどき2、2022年5月9日
余生の三題噺もどき1、2022年4月24日
老境に入った玄善允の夜の伴侶2、2022年3月23日
老境に入った玄善允の夜の伴侶1、2021年11月25日
『済州女性文化遺跡100』抄訳 9、2020年11月23日
『済州女性文化遺跡100』の抄訳8、2020年11月23日
『済州女性文化遺跡100』の抄訳7、2020年11月23日
『済州女性文化遺跡100』の抄訳6、2020年11月23日
『済州女性文化遺跡100』の抄訳5、2020年11月23日
『済州女性文化遺跡100』の抄訳4、2020年11月23日
『済州女性文化遺跡100』の抄訳3、2020年11月23日
『済州女性文化遺跡100』の抄訳2、2020年11月23日
『済州女性文化遺跡100』の抄訳1、2020年11月23日

@カテゴリー:紀行 (中国厦門の旅行記、ソウル、済州滞在記)、記事数15
2023年夏、ソウル・済州滞在記1、2024年2月12日
2023年夏、ソウル・済州滞在記2、2024年2月7日
厦門日誌5,2018年9月21日
厦門日誌4―2,2018年9月13日
厦門日誌4,2018年9月13日
厦門日誌3,2018年8月8日
厦門日誌2,2018年8月8日
厦門日誌1,2018年8月8日
2008年夏、ソウル滞在記3、2018年10月28日
2008年夏、ソウル滞在記2、2018年10月26日
2008年夏、ソウル滞在記1、2018年10月12日
2008年夏、済州旅行記3、2023年4月7日
2008年夏、済州旅行記2、2023年4月2日
2008年夏、済州旅行記1、2023年4月1日
北京のコリアンタウン・望京(ワンジン)2018年5月25日
2009年夏、ソウル3、2023年5月5日
2009年夏、ソウル2、2023年4月18日
2009年夏、ソウル1、2023年4月18日

@カテゴリー:中高年の屈託と社会 記事数9
初めての洋行に至るまで、2018年3月25日
スポーツの好き嫌い2,2018年3月25日
スポーツの好き嫌い1,2018年3月24日
市民社会と酔っ払いの夢、2018年3月23日
人質になっている気分、2018年3月23日
人生、山あり谷あり、2018年3月23日
事件の因果の探索、2018年3月23日
満員電車の災難2、2018年3月23日
満員電車の災難1、2018年3月23日

@カテゴリー:サイクリング 記事数4
サイクリングと弔い、2018年3月24日
中年の屈託と自転車、2018年3月24日
早朝自転車通勤とパスカル、2018年3月23日
再びの済州一周サイクリング、2018年3月23日

@カテゴリー:済州一般 23 
済州の詩人の作品拙訳2、2023年5月24日
済州の詩人の作品拙訳1、2023年5月24日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳16、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳15、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳14、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳13、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳12、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳11、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳10、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳9、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳8、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳7、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳6、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳5、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳4、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳3、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳2、2020年11月22日
『写真で見る済州の歴史』のキャプションの抄訳1、2020年11月22日

『写真で見る済州の歴史』の付録としての
済州現代史年表5,2020年11月2日
済州現代史年表4,2020年11月2日
済州現代史年表3,2020年11月2日
済州現代史年表2,2020年11月2日
済州現代史年表1,2020年11月2日

@カテゴリー:在日、記事数17
母の死13、2023年11月15日
母の死12、2023年10月31日
母の死11、2023年10月24日
母の死10、2023年10月3日
母の死9、2023年9月11日
母の死8、2023年8月21日
母の死7、2023年8月7日
母の死6、2023年7月31日
母の死5、2023年7月2日
母の死4、2023年6月26日
母の死3、2023年6月20日
母の死2、2023年6月20日
母の死1、2023年6月20日
亡き母(金順河)の作文、2023年2月20日
歌を聴いて泣けてくること3,2023年1月15日
歌を聴いて泣けてくること2,2023年1月8日母広い
歌を聴いて泣けてくること1,2023年1月8日

@カテゴリー:触れあった人々 (主に韓国のタクシー運転手さんたち)、記事数4
済州のタクシー運転手さん2、2018年12月8日
済州のタクシー運転手さん1、2018年12月7日
遅れること、弔うこと、上野瞭さん、2018年4月13日
常に現場で汗をかく、含羞の人、2018年3月25日 

@カテゴリー:在日韓国学生同盟、記事数9
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の1
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の2
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の3
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の4
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の5
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の6
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の7
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の8
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の9

@カテゴリー:在日関連のフィールドワーク、記事数2
フィールドワークについて改めて思うこと1,2023年11月18日
フィールドワークについて改めて思うこと2,2023年11月18日

@カテゴリー:折々のメモ、記事数5
新機軸
折々のメモ1
折々のメモ2
折々のメモ3
折々のメモ4

@カテゴリー:断捨離の過程でみつけた拙文、記事数1
断捨離の過程でみつけた書評もどきー鈴木道彦  2023年11月17日


 ともかく大量である。ゴミの山と言われても返す言葉がない。翻訳もほんとにバカみたいに懸命に励んだ結果である。そんなことをしているうちに、韓国語能力の低さに関わらず、小説ならば、あの長大で難解な金石範さんの『火山島』の韓国語訳全巻でも、主に通勤電車の中で立ち読みしできるようになった。その意味では満足すべきと思ったりもする。なんだって努力は自分にとっての気休めになる。
 その一方で、アップしたつもりなのに、今回の僕の探索では確認できなかった記事もある。例えば、中国延辺旅行記である。その一部はいろいろと事情があってアップできないのだが、最初の延辺訪問記は懸命に書いたこともあって、ブログを開始した際に、少しだけ手を入れてアップしたつもりだったのに、今回のチェックでは見つけられなかった。その事実が証するように、このリストは完ぺきとは程遠いのだが、僕自身としては、気持ちの整理になってよかった。その延辺訪問記については、元の原稿さえもパソコンの中には見つからない。なんたることか。
 以上のことについて、読者の皆さんはどうお思いなのか、お聞きしたいところなのだが、これまた押し売りのお邪魔虫に他ならない。しかし、何かの折にでも、ブログ内にそれが見つかったりでもしたら、そのカテゴリーとブログアップの日付を教えていただければ、僕としては過去を取り戻せたことになるので、おおいに助かります。何やかやと面倒ばかりおかけして誠に申し訳ありません。(2024年3月24日)

折々のメモ3 2024年3月21日

2024-03-22 11:03:04 | 折々のメモ
折々のメモ3 2024年3月21日

1.ブログでの連作エッセイの頓挫などについて
 これまでに僕はこのブログで、長編エッセイを連載するつもりでいたのに、そのうちの半ばが途中で頓挫したままである。そんなことをふと思った際に、直ちに頭に浮かんだのが以下である。
① 余生の三題噺もどき(カテゴリー:老後の日常と雑多な関心)
② 済州の詩人の作品の拙訳(カテゴリー:済州一般)
③ 金時鐘とは何者か(カテゴリー:拙著関連)
④ 歌を聴いて泣けてくることー(カテゴリー:在日)

 こんなざまは、まるで僕の人生の縮図にほかならず、一瞬、顔が火照った。計画性や一貫性を欠いて、行き当たりばったりで生きてきたことを端的に証している。
 しかし、そんなことを今更、後悔・懺悔しても仕方ない。もし、そんなことを気にしだしたら、同じように恥ずかしいことが次々に思い浮かんで、生きるのが嫌になってしまいかねない。
 それでも、時には思い出して、そのざまを確認すれば、何かが変わるきっかけになるかもしれない。うまく作用すれば、健忘症などによる自他に対する約束違反の一部くらいは、補いたいなどと思うようになるかもしれない。そして、それが実行に至れば、人生の負債のほんの一部なりとも清算できて、心身が軽くなるかもしれない。
 そもそも、容易に思い出せたのは、それほど過去のものではなく、気持ちのどこかに引っかかっていたからだろう。そこで、それらが頓挫した状況や、それについて現在はどのように考えているかをメモしておきたい。つまり、負債の清算をどうするかについての算段である。

① 三題噺とは<ウォーキング>、<猫の餌やり>、そして<フランス映画『仕立て屋の恋』>といったように、それぞれの間に何の関係もなさそうな三つの<お題>を、なんとかつなげて最後にオチをつけるといった、遊び感覚で始めた。そして、その時点ではそれなりの構想も、さらにはオチに至るまでのエスキスも用意していたのである。それなのに、実際にブログにアップできたのは、第一題の「ウォーキング」に留まった。それはもちろん、残念なことだったが、僕にはそれなりの達成感があった。
 僕ら夫婦がすっかり高齢になってから、敢えて転居した地域の歴史と現在と自分の人生の過去と現在を繋ぐための悪戦苦闘の果てに、塩屋の町とジェームス山、そして旧三洋電機の創業者一族である井植家にまつわる歴史が、今なお確実にこの地域に生きており、僕らはその歴史の展開の中で暮らし、そこで生を終えるだろうことを、それなりに実感しながら書ききったことでは、自分を褒めてやりたいと思えたからである。
だからこそ、その成果として、知人たちを誘って、その地域のフィールドワークを企画して、参加者の皆さんにもおおいに喜んでいただけた。
 そんな悦びを糧にして、またいつか、その先の草稿を、もっと気楽に書き直し、この地域で暮らす楽しみを満喫しながら、余生を過ごしたいと思っている。

② 僕には珍しく詩の翻訳の真似事とそれらの詩に関する大胆な解釈を明らかにできたので、その点では一応の目的は達した。それなのに、<頓挫!>と僕が考えているのは、次のような理由からである。実は、詩の翻訳とそれに関する僕なりの大胆な解釈は、あくまで前座に過ぎず、それに続いて展開するつもりだったポレミック(論争的)な文章を書ききれなかったからである。当初に構想していたテーマは相当に慎重に書かないと、要らぬ誤解を招きかねないと躊躇したあげくに、中断してしまったのである。近い将来に、<要らぬ誤解>を招かないように書ける自信が芽生えれば再挑戦したいところなのだが、当座はそんな自信はないので、ほとんど諦めている。

③ 拙著『金時鐘は在日をどう語ったか』で書き残したことを補うべく書き始めたが、あまりにも細部に拘り過ぎて右往左往したあげくに、断念に至った。そこで、それまでに書いた部分を大胆に整理・発展させる論文に改稿し、朝鮮史研究会関西支部の2024年1月の例会で口頭発表し、参考資料としてその論文も配布した。
 それが僕の人生で最後の研究発表のつもりだったので、それを終えて一段落したのだが、その配布文書をどのような形で公開するかを思案中である。なにしろA4で20枚に及ぶ長編なので、発表媒体を見つけるのは難しい。しかし、なんとかして印刷媒体で公表するつもりでいる。金時鐘さんに対しての負債の清算のつもりなので、しないで済ますわけにはいかない。そんなわけで、挫折した連載ブログを改めて書き継ぐような気持ちはない。ブログにアップした右往左往の文章も、僕に論文もどきを書かせたことで、その使命を十分に果たした。僕お得意の右往左往も無駄ではなかった、と自分を慰労している。

④ 「歌を聴いて泣けてくること」は、韓国のフォークソングのシンガーソングライターである鄭泰春と朴恩玉夫妻ばかりか、歌手や音楽について僕が初めて書いた文章であり、そのことだけでも僕にとっては記念碑的なものである。しかも、その二人の歌と僕を結び付けてくれると同時に、僕の韓国語能力の飛躍的な向上の契機をもたらしてくれた上の弟(6歳下の上の弟に加えて、8歳したの末弟が僕にはいる)への感謝の気持ちを、普段は言葉にできない代わりに、文章で明らかにできたので、それも僕にとっては有難かった。さらには、それも絡んで、僕の<禁じられた祖国>との和解の過程についても、その弟自身は気づいていなかったかもしれないが、大きな役割を果たしてくれた。そのことについても少し触れることができたので、いくら拙い文章にもそれなりの取り柄があると、今更ながらに思ったりもしている。そもそも、僕にとっての文章の意味は、まさにそこにあったことも再確認できた。つまり、僕は生きるためにものを書き始めたし、今でも、少しでもよく生きようとして、しつこく文章に関わっている。そんなことを再確認できた。
 その一方で、さらに書くつもりだった音楽とそれが揺れ動かす心身については、僕が最も苦手とするもののひとつという事情が根本的な障害となってのことか、やはり書けずに終わった。それに再挑戦する気持ちになればと思いはするが、そんな気持ちになれそうな見込みは生憎なことに、ない。それでも、見果てぬ夢として捨てるつもりはない。

 以上はあくまで僕の頭に直ちに浮かんだ挫折に関する報告に過ぎない。ブログに関しては、他にも約束して叶えられなかったことが数多くありそうなので、別の機会に改めて問題にするつもりである。
 その準備のために、次の「折々のメモ4」では、僕のブログの記事の総タイトルをリストアップするつもりで、既に準備中である。

2.以上とも関連することだが、ブログの改善策も少しは考えて、実験的に始めようと思っている。読者、つまり、その多くを占めるはずの知人や友人その他の皆さんに、気楽に読み流して頂けるように努力する義務が、書き手の僕にはあるはずだから。
 その一つが、前回の「折々のメモの2」で少し試してみたことだが、ブログ内に関係する記事がある場合、そのリンクの提示を丁寧に行うことである。そうすれば、重複の労を省けるし、読者にも大きな助けになるのではなかろうか。
 僕が書くことは、僕とその周囲の事ばかりなので、何を書いてもそれ以前に書いたこと密接に関連していることが多い。したがって、リンクを明示することで重複を避ければ、僕の冗長な文章も少しは軽いものになるだろう。
 写真のアップもしたほうがよさそうなのだが、あまり写真に頼るのもどうかという気持ちもあるので、必要最小限にとどめることにしたい。僕のブログの特色、つまり<愛想もなさ>を今後も維持するつもりなのである。
但し、数字、例えば、一日の歩数なども、携帯の万歩計を利用して、楽しみたい。その他、日常的に行っているストレッチなどについても、言葉で表現する訓練を遊び感覚で試してみたい。

3.この間にも、訃報があった。それがひとつもない月など殆どないような年齢になったから、致し方ないことなのだが、今回は、僕らよりも一世代以上も若い人のそれだから、やはり・・・。
 学生時代の心優しい後輩と僕の母方の従妹の夫婦の一人息子が、若くして病を患い二十年を越える闘病生活の果てに人生を終えた。その親御さん夫婦と亡き愛息の三人に、ご苦労様という言葉しか僕の頭には浮かばない。

4.旧友との数十年ぶりの一杯
 おそらくは僕の書き物を最も丁寧に読んで、丁寧に解釈する文章をいつも送ってくれる大学院時代の後輩と数十年ぶりに会って、これまた数十年間ぶりに足を踏み入れた天王寺の商店街の、初めての小さな居酒屋で愉しい時間を過ごした。
 拙著の解釈に正しいも間違いもないと、僕自身は思っている。読んで楽しんでもらえれば、どのような読み方でも、僕は基本的に受け容れる。その解釈が僕の意図したものと正反対であっても、ダメなどとは思わない。むしろ、そうした解釈の理由を考えてみることにしている。
 彼の特異性は、丁寧であること、そして、自分に不得意な部分を正直に認めて、自分に得意な領域に即し、彼自身の言葉で解釈し、率直な不満も含めての感想を、伝えてくれることである。
 それだけでも、僕としてはすごく有難い。そのうえ、僕はその他にも彼には借りを負っている。僕の方は、彼が近年に書いておくってくれる本などに対して、まともなコメントができなくて、後ろめたいのである。彼は高校時代からお母さんの影響なのか俳句を始め、大学では物理学を、その後に仏文に入り直し、フランス小説の研究を専門にするなどの、変わり者で、大学を定年退職してからは、その強みである物理学や俳句に関する長い経験を活かして、本を書いているので、僕にはそれを読むのは愉しくても、何一つまともな読後感を彼に伝えることなく、逃げて来たのである。繰り返しになるが、だから後ろめたい。ところが、それでもメールだけでも、言葉が通じることの喜びをいつも味わっていたのだが、数十年ぶりにあって、話を交わすと、その感がひとしおで、嬉しかった。
 因みに、彼の拙著『人生の同伴者』の読み方は次の通りだったと言う。
 1日に数ページだけ読んで、夕食の際に、まるで晩酌の肴のように、拙著のその日に読んだ部分に限っての「あらすじ」を奥方に話し、奥方からの質問に対して答える。その回答がうまくいかない時には、翌日に再読して、夕食時に奥方への解答に再挑戦。そんな読み方をしてもらえるなんて、なんと幸福な著者であるだろうか。
 ところが、この僕は、いつも自転車操業の小さな商店主のようなもので、量を少しでもこなすことだけを目標にして生きて来た。そんな自分のことが恥ずかしく、拙著に関する彼の読み方は、そんな僕の人生に対する最も厳しい批評でもあるように思えてくる。
 2人で話すうちに、彼と僕の二人にすごく優しくしてくれていた大学院の先輩に会いたいという話になった。そして翌日にその先輩に、これまた数十年ぶりに電話をしたところ、すっかり声が変わってはいたが、ともかく健在だった。
但し、半世紀前にお宅でお会いした奥方は亡くなってから、まだ一か月にもならないと言う。しかも、御当人自身も食道癌のステージ4から、ようやく生還したところらしい。
 それなのに、昨夕には彼の昔からの最大の趣味であるウエスタンバンドのコンサートで騒いだせいで、そんな変な声になってしまったらしい。
 亡くなった奥方は、長年の腎臓透析もダメになったので、夫である先輩が腎臓を提供して腎臓移植手術も行ったが、その後の長い闘病の果てに寿命を全うしたらしい。そんなことをすごく淡々と話しておられた。歌の好きな陽気な奥方だったことを僕も思いだした。
 ともかく、暖かくなったら、三人で会う約束をしたが、歩くのは苦手だし、食べ物はあまり食べられないので、僕が大学院時代に招かれたことのあるご自宅近くで、三人で軽く一杯しながら、遊ぼうという話になった。生きていることを、改めて感謝したくなった。有難いことである。(2024年3月22日)