折々のメモ12
師走の済州旅行Ⅱ(2024年12月12日)
4.済州の二日目(12月12日)
午後の3時頃には長女が東京からソウル経由で済州空港に到着する。それまでは、相変わらず僕と妹の二人だけだが、その二人が朝から、昨夕に続いてまたしても失敗をしでかした。さすがに兄妹である。
朝の7時にロビーで待ち合わせて海岸に散歩に出たが、あまりの強風でまともに歩けそうになく、たちまちのうちに断念した。仕方なく、朝食をどうするか迷いながら、とりあえずホテルに戻りながら考えることにした。途中のコンビニで適当に見繕えばいいと。
そして、歩きながらも、昨夜は食べ過ぎたので、今度こそできる限り軽くと話し合っていた。ところが、僕の馴染みのクックス屋の前を過ぎてしばらくすると、あっさりとしたミョルチクックス(煮干し出汁のにゅう麺)の味の記憶に負けて引き返し店に入いり、すぐさまお目当てのそれを注文した。それでもその時点では、警戒心を失っていなかった。やがて、テーブルの上に置かれたどんぶりの量に、今さらのように圧倒されて、せめて半分は残さなくてはと、言葉を交わしあった。
しかし、食べ始めると止まらない。あげくはすっかり食べきってしまい、満腹で苦しい。昨夜に続いての失敗に自分でも呆れた。
ホテルに戻ってしばらくすると、胃腸のためには歩くのが一番と考え直した。海岸から東の方には、市民の憩いの場所として親しまれている沙羅峰が柔和な姿で佇んでいる。こんな時こそ、軽い山歩きを楽しまねばと思い立った。沙羅峰の向こうには、その昔、僕らのホテル界隈に多く暮らしていた植民者である日本人たちが<のこぎり山>と呼んで親しんでいた別刀峰もあり、その二つの峰をつなぐ散策路は<長寿の路>と命名され、海を見渡しながらの快適な山歩きが楽しめる。僕は済州に来るたびに、気分転換のために訪れるのが殆ど習慣化している。
そんなわけで勝手知った地元のつもりだったのに、いざその山頂に向かって歩き出すと道に迷ってばかりで、何度も通行人に尋ねたあげくにようやく山頂に辿り着いた。少し情けない思いをしながらの、一時間ほどの散策だった。
海側を見下ろすと、長期にわたって拡張工事が続いていた済州港の整備も一段落したらしく、フェリーや旅客船がのんびり停泊しており心が和む。
10年ほど前には、その港から快速船に乗って、済州と本土南端の港町である木浦の間に位置する楸子島に赴いたことがある。4・3時にわが一族のサバイバルにとって決定的な役割を果たした場所と聞いていたので、一度は訪ねて調査もどきも試してみたかった。
父のすぐ下の弟で父とは最も仲良かった叔父が、朝鮮人の若者を日本軍兵士に仕立て上げるための長期訓練の補助役として、その楸子島で勤務についたことがきっかけで、我が一族とその島との因縁が始まった。
その際に寝食の世話になった面長の家で、叔父は少し年下のその家の長女と恋仲になった。その後、自らも日本軍兵士として中国戦線に動員されて辛酸を舐めたが、辛うじて生き延びて復員すると、楸子島の恋人の家族を訪問した。
ところが、植民地からの解放と共に、日本人島司の誘いがあったから面長として赴任していた恋人の父は失職したので、その家族は故郷である慶尚南道に帰郷してしまっていた。そこで、その後を追ってようやく再会を果たすと、そのままその家族と暮らしながら将来の生きる道を模索しながら時を過ごしていた。しかし、戦地から無事に復員しながら帰郷して両親に挨拶を済ませないのはやはり親兄弟に申し訳ないことだと説得されて、ようやく帰郷した。
しかし、当時は既に、済州はきな臭く危険な土地になっていた。とりわけ、ふたりの弟がパルチザンのシンパとして山に入ってしまっていたので、一族は軍警に睨まれていた。そこでそんな家族を守るために、いわば人質として自分を差し出すつもりで、警察官募集に応募して採用された。
それはよかったが、済州本島で警察官をしていると、山に入った弟たちと敵味方で戦うことになりかねないので、勝手知った楸子島での勤務を希望して、幸いにも認められた。行政区画としては済州道の一部になっていた楸子島だが、4・3の嵐は、済州本島からはるか遠い離島の楸子島には及んでいなかった。しかも、それまでに培った人間関係のセーフティネットも大いに幸いして、4.3の渦中でパルチザンと軍警に挟まれて危機に曝されていた宗家の父子も、その島に身を寄せることで、辛うじて生きながらえることができた。
以上のことの多くは、僕の従兄の玄吉彦著『島の反乱』(拙訳、同時代社刊)を翻訳しながら、僕もようやく詳しく知った。その従兄は、僕とは違って4・3を子どもとして直接に体験したが、その本で詳述している内容の一部は、僕と同じく叔父が主な情報源と僕は推測している。
そんな事情もあって、晩年になって4・3真相究明運動に厳しく対峙する論陣を張るようになったせいで、活動家たちの悪罵にさらされるようになった従兄の議論は、少なくとも僕には納得できることが多い。それだけに、4.3の活動家たちから僕が敵視され、先の訳書を焚書にと叫んだらしい活動家のことも、けだし当然と納得できるの。しかしだからと言って、僕の4・3に対する向き合い方が変わるわけではない。
それにまた、4・3に関する考えた方が違うからと言って、殺しあうこともないし、憎みあうこともない。そんな資格は僕にはないと僕は常に自分に言い聞かしながら、そうした対立の根がどこにあるのかを探し求める努力を惜しまないでいようと考えている。
それはともかく、叔父の楸子島での平穏な勤務も長くは続かなかった。やがては済州本島へ転勤を発令されて、島民同士の生臭い殺し合いに関わらずにはおれなかった。中国戦線で日本軍兵士として数々の実践を経験した叔父だけに、パルチザン討伐隊での目覚ましい活躍を褒めたたえる賞状を叔父は大事に保管していて見せてくれた。
叔父はその後、定年退職まで警察官として第一線で働き、子ども6人の大家族の大黒柱として生きた。その叔父夫婦にとって、楸子島は青春の輝きが記憶として生き続けた土地だった。
そんな話を、僕は叔父が当時、滞在していた一番下の息子の家に呼ばれて、二日にわたって詳細に聞いた。だからこそ、その次に済州を訪問した際には、出発直前にぎっくり腰を発症した不自由な体でありながらも、楸子島まで足を伸ばした。そして役所その他、その昔、叔父が新兵訓練の補助役をしていた学校なども訪れて、インタビューも試みようとした。
済州から快速船で木浦まで3時間、その途中の大海に浮かび、釣りの名所として有名な楸子島までなら1時間で、ほぼ確実に船酔いに苦しむことになるだろうが、日帰りも可能である。しかも、暮らしやすいところとして韓国全土でも評判で、その島の唯一の公共交通機関であるバスの運転手は、「済州よりも天国に近い島」と、本土からそこに移り住んだ自分の選択の正しさを自慢していた。
その島の周辺で大量に釣りあげられる鰆のコース料理が済州で大いに人気を博して久しい。マグロのコース料理と比べるとはるかに値段が安いということもあるのだろう。
日本では瀬戸内海沿岸でなくては、鰆を刺身で食べそうにないが、済州ではすごく重宝されている。しかし、一人前としてはあまりにも量が多くて有難みが減るし、肉質が柔らかいので刺身としては頼りない。そもそも、いくらおいしくても、とりわけ刺身などは、一度に沢山だと体に良くなさそうに思えて、鰆に申し訳ないし、勿体ない。
ところで、楸子島の特殊性について少々。楸子島は行政区域としてはある時期から済州に属するようになったが、本来は陸地(本土)に属していた。したがって、文化的には本土(陸地)色が濃厚である。例えば、女性の荷物の運び方に、それが如実に表れる。荷物を運ぶ際に、頭上に載せて歩く女性の姿が、かつての韓国でも、そして日本でも在日集住地区ではよく見かけられたが、済州ではそんな姿を見かけることはない。火山島なのでいたるところに石や岩がごろごろと転がっており、頭に荷物を載せて歩くのは難しく危険だからである。
済州の女性は荷物を籠に入れて背負う。昔の済州の女性にとって、子どもの頃からの宿命的な家事労働の一つが、一日に何度も泉から水を家に運ぶことだったが、その際には水を甕に入れ、その甕をさらに籠に入れて背負って運び、家の大きな水専用の甕に入れて、飲料はもちろん、生活用水一般」とした。昔の日常生活は、そのように自然環境が今よりはるかに直接的で決定的な影響を及ぼしていた。水不足や塩不足もすべて火山島という生成の経緯に由来している。
済州市の僕らのホテルが位置する東門市場あたりから沙羅峰の頂上までは、もっぱら緩やかな登り坂であり、そんな坂を一時間も登ってきた僕らには、<長寿の路>を散策する余力など残っていなかった。
頂上付近で丁重に保存されている巫俗信仰の聖地(今ではその近くに建てられた立派な建物内でイベントが行われることが多い)周辺に腰を下ろして、沙羅峰とその周辺の建築物や記念塔の謂れや変遷などについての講釈を妹にし終えると、沙羅峰から下ることにした。その麓に位置し、済州では夙に有名な愚堂図書館と国立済州博物館の方に降りていった。しかし、前者は名前の謂れを説明するだけで済ませ、後者が真の目的地だった。
国立済州博物館には既に数えられないほど訪問したので、今や展示物にはあまり興味がなくなった。しかも数年前に、あることをきっかけにして、ますます興味を失くしてしまった。
博物館の展示物には基本的に、韓国語の他に英語と中国語と日本語の説明パネルがかつては添えてあった。それなのに、そのうちの日本語パネルだけが取り外されたことに納得できなかった。そうした措置には主に二つの理由がありそうに思えた。
一つは韓国と日本の政治的対立、もう一つは日本人観光客の著しい減少なのだが、その。両方に、僕は納得できない。
政治的対立があるからこそ、文化的な友好関係を維持する努力が必須である。文化や学術に関係する人びとには、そうした認識が求められるのではないか。
他方、済州への日本人観光客が大幅に減ったことは確かだが、その実態について考えれば、それはむしろいいことで、文化事業に関わる人々のやりがいが増したと考えるべきではないかと。
かつての日本からの観光客の多くは<妓生観光>を目的としており、博物館の展示などに興味を持つはずがなかった。女性とゴルフと料理、そして韓国人に対するかつての宗主国民としての傲慢さを、財力をバックに改めて発揮するために、個人ではなく、徒党をなして済州を貪欲に楽しんだ。
しかし、ここ最近の観光客はその種の男たちの集団旅行とはすっかり趣を異にして、主に韓国や済州の自然や文化を目的とした女性たちが主流である。そのような人々にこそ、済州の歴史や文化、そしてその体験の喜びを提供してこそ、博物館の存在価値がある。
そのように考える僕としては、文化事業に関わる公務員の思考の狭隘さとスパンの短さに、珍しく腹を立てた。それはおそらく、日本で生まれ育った僕だからこその不満、不信なのだろう。日本人その他の多様な人々に向けての、済州文化の発信に期待しているからこそである。
但し、その種の不満や不快感が後を引いて展示を見なくなった僕の方が感情的で短絡的であると指摘されでもしたら、返す言葉がない。加齢は、そんな形で僕の心身の硬直をもたらしているのだろう。そんなことにも注意して、この先をなんとか生き抜かねばならない。
話を戻そう。そんな博物館を僕が何故に訪問する気になったのかと言えば、そこで学芸士として勤務しているはずの知人に会えるかもと期待してのことだった。幸いに久しぶりに会えたら、妹を紹介しておきたかった。
済州往来を始めて以来、僕が親戚の中でも格別に親しく付き合ってきたのが、上でも触れた叔父の長男で、その従兄の奥さんの姪が、済州の伝統的衣装の修理や制作や研究を担当する学芸員として、国立済州博物館に勤務を始めて既に四半世紀になる。
初対面時には僕はまだ40歳代の半ばで何も知らない済州への訪問を始めたばかりで、彼女の方はソウルの大学を卒業して、将来の路を探しあぐねた挙句に帰郷したばかりの20歳代の初めで、とりあえずは叔母、つまり僕の従兄夫婦の店を手伝いながら、将来の方向を探っていた。
従兄は西帰浦の繁華街に所有する4階建てビルの最上階で暮らし、毎日朝から、奥さん手作りの弁当持参で、自分が創った森の中のアトリエに通い、森の世話と絵画の制作に終日、励んでいた。当然、まともな収入があるはずがなかった。
そこで自宅ビルの三階は歯科医に貸し、二階ではそれまで学校の教師をしていた奥さんがカフェを始めた。それは当時の西帰浦では目立っておしゃれだし落ち着けるカフェだったが、当時の地方都市・西帰浦ではさすがに高級すぎたのか、あまり商売にならず、やがては賃貸に出した。そして、一階でブティックを営んでいた従兄の長妹に代わって、奥さんがその高級ブティックの運営を始めた。
そんな従兄夫婦のカフェでも、それに引き続くブティックでも、先に触れた姪が甲斐甲斐しく働いており、時折、はるばる日本から韓国語もまともにできない中年男の僕が訪問すると、実に気持ちのよい応対をしてくれた。おかげで彼女は済州における僕のひと時のオアシスだった。
しかし、そのように僕にとっては好感度が際立っていた彼女だが、将来を巡っての鬱屈を垣間見せることもあり、そんなところも僕の共感を引き起こしたのかもしれない。
僕の済州滞在がいつでも甚だしくストレスフルだったこともあって、屈託と縁遠い人より、屈託を抱えながら健気に生きていそうな人の方に親しみを持つ心理状態だったのだろう。それに僕の関心は元来、屈託を抱えて生きる人の方に向かう傾向が強い。
そんな彼女もやがては、染色に興味を持つようになり、大学院に進学して衣装関係の歴史と修理や制作の技術も習得して、地元済州の国立博物館の学芸員の職に就いた。だから、その後には、僕が済州で博物館に立ち寄るたびに、受付で彼女を呼び出してもらって、仕事の邪魔にならないように気遣いに努めながら、近況その他のよもやま話を交わすのが常となった。しかも、博物館以外の場所でも遭遇することがあった。
彼女は先に触れた従兄、彼女からすれば叔母の夫である叔父、そしてその絵のファンで、博物館の休日などで暇があるとアトリエに通い、絵を描いている従兄の様子を見守ったり、その絵に関して意見を交わしたり、或いは、もっぱら読書したりで終日を過ごすことが多く、そんなところに偶々僕が訪ねることもあったからである。要するに、従兄とその絵画を媒介にして僕と彼女とは意思の疎通が成立していそうな信憑が、少なくとも僕には育っていた。
ところが、ここ数年に限っては、僕の足が博物館からすっかり遠のいていた。彼女が癌を患っているという話を従兄から聞いて以来のことであり、博物館、そして彼女を訪問するのが何だか怖くなってしまったせいである。
でも先般に従兄に会った際には、彼女がすっかり回復したような話を聞いていたし、僕も今後は済州訪問の機会があるかどうか自信がなくなっているので、これが最後の機会になるかもと大げさなことも考えて、敢えて訪問することにしたのである。
そして幸いなことに、彼女は相変わらず博物館に通うばかりか、これまでのどの時よりも健康で快活そうに見えた。
ちょうど昼休みで時間の余裕があるらしく、会うとすぐに、ゆっくり話ができるようにと、新築されたばかりの棟の地下の広い作業場に案内してくれた。そして彼女自らが淹れた本格的なコーヒーをご馳走になりながら、その間のいろんなことを、これまで以上に親密に話し合えた。彼女も僕も、それぞれの人生の峠を越えたからかもしれない。
昨年に人生最後のつもりで個展を開いた従兄の、その後のことについても話した。アトリエに大量に収蔵されている作品群をどうするかなど、従兄の今後についての話である。従兄は個展を終えてから、一気に老けこんだ気がすると彼女は心配していた。
しかし、それはかえっていいことではないかと、従兄と同世代の一員としての僕の感じ方を率直に述べた。そうした節目が人生には何度もあり、それは新たな生き方を模索し、心身を今後に準備するために必須の猶予期間と考えた方がいいと、言うのである。
それは僕が常々自分に言い聞かしていることでもある。従兄がこれまでに制作した大量の作品は、受け容れてくれるところがあれば寄贈するのもいいが、現在のアトリエをそのまま小さな展示館として、日時を限定すると共に、観覧希望者の都合に合わせた随時の開館も含めて、広く開放することも考えてはと、僕の夢のようなことも伝えた。
従兄が創りあげた森の中のアトリエにおいてこそ、その森を主に描いた従兄の作品の価値が高まるという、従来からの考えもあってのことである。
ともかく彼女は、何かと率直に話ができる従兄と僕とが、他の人に対しては言えないようなこともふくめて、率直に、そしてゆっくりと話しあってもらいたいと言う。その言葉がすごくありがたかった。
40歳代になって初めて会って以降、この30年以上にわたって、僕は従兄から多くを学ぶことで、少しは人間らしくなったという実感があるからでもある。
彼女も学芸員になって早や25年で、来年に定年退職を控え、今後の1年間は出勤しなくても自宅研修などの名目で基本給を支給される制度があるので、博物館で会えるのも今回が最後になるという。敢えて博物館に彼女を訪ねてよかったといまさらながらに思った。
因みに、その場には彼女の同僚で、彼女と同じく従兄の絵の大ファンという男性の学芸員も同席しており、その人とも少し言葉を交わせた。日本留学の経験もあって、日本出張もあるらしいので、日本で再会できるかもしれない。或いは、僕が改めて博物館に彼を訪ねて、時間に都合さえつけば酒友達になってもらう約束まで、無理やりに取り付けた。
彼からは博物館の業務として制作に携わった図録『最も身近な慰労-済州の童子石、そして(江原道)寧越の羅漢像』(国立済州博物館、2023年刊)を頂戴して、すぐさまパラパラめくっていると、エピローグの部分に、従兄の絵の写真が収まっていることに気付いた。なるほど、従兄の絵のファンに間違いないことを確認できた。
二人に別れを告げると、バスで終点の済州大学校に向かった。
先ずは、大学正門前にロータリを挟んで立ち並ぶ食堂街で、できるだけ胃腸に負担の少ないものをと、全国チェーンの「キンパㇷ゚(韓国風海苔巻き)天国」で純豆腐チゲを食べた。このチェーン店はいわゆる<粉もの屋>だが、ご飯ものも多様なうえにリーズナブルな価格、しかも、どの支店でも味に当たりはずれがないから、気軽に利用できる。味に深みが足りないという欠点は否めないが、軽食には十分である。
僕らが今回、入った店もわりと素朴な味で食べやすかったから、量が多すぎると思いながらも完食してしまった。どこまでも懲りずに食い意地が汚い老人なのである。
大学の正門を入ってすぐ左手の、上品な赤タイル張りの4階建ての建物内には、在日済州人センター、実践哲学センター、2階には済州大学博物館などが入っているが、僕らは今回、在日済州人センターの展示室だけに入った。そのセンターの立ち上げにあたって、成り行きで大きく関わって苦労すなど、想い出が多いところである。
創設時には、大阪の桜ノ宮の大川端にあった、主に済州出身の女性のシャーマニズム信仰の聖所・竜王宮が解体された際に確保したクッ(巫俗信仰の祭り)の用具などの保管場所に困ったあげくに、そのセンターに引き取ってもらうことになり、多額の運送費もセンター側の出費で送りだせてほっとしたことが、一番の思い出である。
その後も、教員向けの講演をする羽目になったり、拙著を寄贈するなど、相当に密接な関係を維持していた時期もある。
それでいながら、そのセンターとの関係は安定したものではなく、海を隔てた異文化で暮らしてきた人間同士、さらには、大学関係者という教育公務員と全く何の肩書もない私人である僕との意思疎通や利害関係の調整の難しさも痛感した。
それにその施設に関する事業が、<先ずはお金ありき>で始まったという事情も大きく関係していただろう。
大阪で手広く事業を展開している済州出身の在日一世が、企業活動からの引退記念として、故郷最大の教育機関である済州大学校に、私財から100億韓国円(当時の為替レートでは14億日本円)の寄付の意向を表明したことが始まりだった。大学校内に在日、とりわけ在日済州人に関連する研究機関と資料展示のための資料館を建設する資金に加えて、長いスパンで運営資金も捻出できるようにという趣旨だった。
寄付金の3割は建物の建築費その他の創設経費とし、残りは安全確実な投資の利子や配当でランニングコストをひねり出すというのだから、大学としては実に有難い話だった。当然、大学関係者は喜んだついでに、在日による済州のインフラその他に対する多大な貢献を改めて想起・記録するばかりか、日本で今なお苦労する済州人一世を済州に招待するといった企画まで、放送局など地元のメディアも巻き込んで大々的に展開された。
ところが、その事業の本丸と言うべき済州人センターの運営に関しては、当初は華々しかったが、寄付者と大学とのその後の意思疎通がうまくいかなかったのか、当初の目論見から外れていく印象が強かった。
さらには、2年ごとに代わる大学教員の管理職であるセンター長と、ずっと継続してその事業に関わり、その事業に生きがいを見出すようになった専任研究員との思惑の違いもあって、最初から垣間見られていた意思疎通の困難が、ついには裁判沙汰に至るなど、要らぬ労力とお金を費やした挙句に、本気で関わってきた人々に大きな精神的な傷をもたらした。
そんな事情もあって、本来的目的だった研究事業は殆ど開店休業状態に陥った気配まであり、僕など日本在住者との関係もすっかり疎遠になって久しい。
そんな経緯を知る僕としては、「なるべくしてそうなった」という苦い悔恨に苛まれながらも、その建物内にある大学博物館は今後もそれなりに活用価値のあるものとして活用されるだろうが、それ以外の施設は中身がない<箱物>になることを危惧するまでになってしまった。
但し、以上は関係が疎遠になって久しい僕のような無責任な立場の<外地>の人間の手前勝手な印象と想像にすぎない。今でもそこで地道に格闘している人がきっといるだろうから、そんな人たちには、申し訳ない放言なのである。
ところが、そんな僕でも展示室に一歩足を踏み入れると、さすがに懐かしい。折々に共に関わっていた人々の写真なども見ることができるし、展示物の説明パネルの原文とその翻訳作業に関わった僕としては、自分の能力不足その他の事情など複雑に絡み合った結果としての問題点がやたらと目につき、頬が火照るほどに恥ずかしくなるが、自分がそれなりに取り組んだ事業を再確認するなど感慨が深かった。
長女が空港に着く時間が近づいてきたので、ホテルに戻って待機することにした。携帯電話の国際ローミングをしていなかったので、ホテルの部屋のWi-Fiによるライン連絡が唯一の頼りといった具合で、通信連絡にはいたって不便なのである。それもこれも、僕のITリテラシーの低さが原因で、時代遅れを今更ながらに痛感させられる。
長女から予定通りに空港到着という連絡が届いたので、念のためにホテル横の東門橋まで迎えに出たところ、タクシーから彼女が降りてきた。僕なんかよりもよほどに旅慣れた余裕が感じられて頼もしい。
夕刻にはHAさんが車で迎えに来てくれて、旧知の済州大学の哲学教授で環境運動家でもあるYさんとの会食に向かった。
Yさんとは彼が済州大学校内の研究所の所長になった年の夏のことだった。当時の僕は毎年、夏と春の長期休暇を利用して、済州大学内の宿舎で暮らす便宜を与えてもらい、毎日、大学図書館や研究所に日参しながら、遅まきの<済州学事始め>に懸命だった。そんな僕を励ます他、多様な人々を紹介するなどサポートしてくれたのが、当時、助教だったHAさんであり、僕と研究所長のY教授との橋渡しもしてくれた。
それ以来、既に15年以上が経った。お二人共に酒を嗜まないので、本来ならが僕と付き合う重要な資格を欠いているにもかかわらず、すごく仲良く付き合い、互いに助け合うことも多かった。僕が済州を訪問して、お二人に会わないままに去るなんてことは殆どない。とりわけHAさんの場合は絶対にない。
そんなHAさんについては、このブログの拙文の随所で数多くふれてきたので、今回はもっぱらもう一人のYさんに限って少し立ち入ってみる。
済州でもかつては自然環境が最も良く保存されるなど、済州のナンバーワンを誇っていた江汀で生まれ育ったYさんの専門は環境哲学なのだが、それをより具体的に言えば、<済州学>の創始者である石宙明に関する研究が焦眉の課題であり、ここ10年以上にわたって、済州に石宙明資料館の建設運動を実に精力的に展開している。そしてその資料館の目玉になりうる資料の探索とその思わぬ成功が、僕とYさんの関係を一気に強固かつ濃密にした。
石宙明はY教授の奮闘もあって、済州では済州学の創始者として夙に有名になっているが、済州以外の韓国やかつての日本では、もっぱら蝶々博士として著名である。Y教授はその両面も網羅した全体像を明らかにしたうえで、石宙明の研究方法などをモデルとする環境哲学を企図している。そして、そのために必須の基礎資料として、植民地時代に日本で発行されていた蝶々に関する雑誌の探索を、全くの門外漢の僕に依頼したので、僕は驚き、当惑したのだが、よくよく考えてみると、Yさんにはそれほど、日本には縁故がなかったからなのだろうと考えて、できるだけのことをしてみようと僕は決心した。
しかし、後で振り返ってみたところ、何であれ強い想いを持った人に特有の、想いを実現するための鋭い勘を、Yさんが備えていたからこその、藁にも縋る想いに基づく僕への依頼だったことに気付いた。そして、同じようなことを、その先のYさんの生き方に触れるたびに、何度も思わせられた。
その勘が僕の強く刺激した結果として、僕のすぐ近くにも蝶々博士と呼ばれる人がいたことに、僕はようやく気付いた。高校時代の恩師で、僕が「含羞の人」とひそかに名付けていた方こそがその人で、僕はその恩師と特別に親しい高校同期の友人の助けも借りて、その先生に連絡を取り、ついにはその貴重な資料全巻を寄贈していただいて、それをすぐさま済州のY教授に送って感謝されるといった、当初は想像もできなかった幸運を経験した。
その経緯については、本ブログの「トモダチのトモダチはトモダチ」の連作で詳しく書いているので、関心のある方は是非とも参照していただくことにして、ここではその一部に限って、簡単に触れるにとどめたい。
石宙明は植民地期の朝鮮はもちろん、大日本帝国の版図全域を代表する蝶々博士だったが、植民地支配から解放されて以降に、済州に派遣されたごく短期間に、済州文化に興味を抱き、とりわけ、済州の言語を彼のお得意の蝶々研究の主流だった分類学(系統学)を援用して試すなどして、済州学の創始者と呼ばれるに値する貴重な成果を残した
彼のそうした済州学の基盤としての蝶々学に関する貴重資料の全巻を僕にとっての蝶々博士だった恩師から寄贈され、済州のYさんにお送りした。その後、Y教授はその資料全巻を会場に展示するなどもして、大々的なシンポジウムの開催に至り、近いうちに僕の恩師も済州に招待したいという意向だったが、ほどなくしてその含羞の人は亡くなり、それは実現しないままに終わったが、それ以来、僕ら二人の結びつきは一気に強まった。
僕が済州に行くたびにYさんの純真な笑顔と石宙明資料館の建設という、彼の長年の夢の実現に向けての尽力の詳細を話してもらう関係になった。
一度など、Yさんが調査現場で腰骨骨折という大けがをして長期入院の真っ最中、完全に寝たきりの状態だったのに、資料館建築の進捗状況を希望に満ちた表情で教えていただくこともあった。本人はそんな厳しい状態でも、話しているYさんと聞いている僕のどちらが患者なのか傍から見たら分からないほどで、こちらがむしろ励まされているような感じだった。
今回、僕が半年ぶりに済州を訪問することをHAさんから聞いたYさんは、ちょうど、自分が大学の定年退職を控えた最終講義の日に当たるので、その記念も兼ねて、僕と妹と長女の三人を夕食に招待してくださった。
料理はタイちり、ブリの刺身、ブリの釜焼きだったが、そのどれも絶品だった。その後に入ったお洒落なカフェの棗茶の素朴ながらも深い味わいもよかったが、Yさんと僕の冗談と本気とが入り混じった話術合戦もなかなかのものだったと自画自賛している。
僕とそれより7、8歳は歳下のYさんといったように老齢の二人のやりとりを聞きながら、妹も長女も退屈していそうな気配はまったくなかった。
僕ら日本から来た3人はマッコリを楽しんだ。他方、YさんとHAさんの二人は素面を押し通しながらだったが、実に楽しい会食だった。
済州の西端のモスルポでは毎年、ブリ祭りが開催され、そのメインイベントがブリの手づかみ体験であり、子どもたちは大喜びとのことだが、済州のブリは日本のブリほどには油濃さが気にならず、僕の好みにあって、おいしかった。日本の照り焼きのような味は愛量が何であれ、済州では経験した食べたことがない。ブリのカマ焼きは日本のそれと同じく塩焼きで、僕の舌にあった。済州の<ちり>については後に詳しく触れることにするが、日本のそれとはずいぶんと異なることだけをここでは強調しておきたい。
Yさんからは『済州島で出会った環境哲学』(尹龍澤著、済州大学校出版部、2023年刊)を頂戴した。せめてその序文だけでも近いうちに拙訳してブログに掲載することで、感謝の徴にしたい。
実は以前にも、彼の故郷である江汀に関しての、「江汀ナンバーワン」という冊子や、石宙明に関する資料集をいただいた際に、勉強がてらその翻訳を試みようと、著者である彼の意向を確認したところ、それは未完なので、近い将来に完成品が書けたら、その時にこそお願いしたいという返事をもらっていたので、今回はその約束の断片たりとも果たしたい。
彼が済州大学に就職し、学生と学びながら発見・追及してきた環境哲学と何かの大筋だけでも、日本の読者に伝えたいし、それ以上に僕自身が学びたい。彼のような純粋さを持ち合わせない僕なりの、彼の純粋さと忍耐といつまでも夢を失わない強靭な精神力に対する、ささやかな賛歌の序章になればと思っている。
(2024年12月29日12時、24日にアップしたのを一部修正のうえでの28日に再度アップしたが、またしても気になることがあったので、今回は3度目の正直?「師走の済州旅行Ⅲ」に続く)
師走の済州旅行Ⅱ(2024年12月12日)
4.済州の二日目(12月12日)
午後の3時頃には長女が東京からソウル経由で済州空港に到着する。それまでは、相変わらず僕と妹の二人だけだが、その二人が朝から、昨夕に続いてまたしても失敗をしでかした。さすがに兄妹である。
朝の7時にロビーで待ち合わせて海岸に散歩に出たが、あまりの強風でまともに歩けそうになく、たちまちのうちに断念した。仕方なく、朝食をどうするか迷いながら、とりあえずホテルに戻りながら考えることにした。途中のコンビニで適当に見繕えばいいと。
そして、歩きながらも、昨夜は食べ過ぎたので、今度こそできる限り軽くと話し合っていた。ところが、僕の馴染みのクックス屋の前を過ぎてしばらくすると、あっさりとしたミョルチクックス(煮干し出汁のにゅう麺)の味の記憶に負けて引き返し店に入いり、すぐさまお目当てのそれを注文した。それでもその時点では、警戒心を失っていなかった。やがて、テーブルの上に置かれたどんぶりの量に、今さらのように圧倒されて、せめて半分は残さなくてはと、言葉を交わしあった。
しかし、食べ始めると止まらない。あげくはすっかり食べきってしまい、満腹で苦しい。昨夜に続いての失敗に自分でも呆れた。
ホテルに戻ってしばらくすると、胃腸のためには歩くのが一番と考え直した。海岸から東の方には、市民の憩いの場所として親しまれている沙羅峰が柔和な姿で佇んでいる。こんな時こそ、軽い山歩きを楽しまねばと思い立った。沙羅峰の向こうには、その昔、僕らのホテル界隈に多く暮らしていた植民者である日本人たちが<のこぎり山>と呼んで親しんでいた別刀峰もあり、その二つの峰をつなぐ散策路は<長寿の路>と命名され、海を見渡しながらの快適な山歩きが楽しめる。僕は済州に来るたびに、気分転換のために訪れるのが殆ど習慣化している。
そんなわけで勝手知った地元のつもりだったのに、いざその山頂に向かって歩き出すと道に迷ってばかりで、何度も通行人に尋ねたあげくにようやく山頂に辿り着いた。少し情けない思いをしながらの、一時間ほどの散策だった。
海側を見下ろすと、長期にわたって拡張工事が続いていた済州港の整備も一段落したらしく、フェリーや旅客船がのんびり停泊しており心が和む。
10年ほど前には、その港から快速船に乗って、済州と本土南端の港町である木浦の間に位置する楸子島に赴いたことがある。4・3時にわが一族のサバイバルにとって決定的な役割を果たした場所と聞いていたので、一度は訪ねて調査もどきも試してみたかった。
父のすぐ下の弟で父とは最も仲良かった叔父が、朝鮮人の若者を日本軍兵士に仕立て上げるための長期訓練の補助役として、その楸子島で勤務についたことがきっかけで、我が一族とその島との因縁が始まった。
その際に寝食の世話になった面長の家で、叔父は少し年下のその家の長女と恋仲になった。その後、自らも日本軍兵士として中国戦線に動員されて辛酸を舐めたが、辛うじて生き延びて復員すると、楸子島の恋人の家族を訪問した。
ところが、植民地からの解放と共に、日本人島司の誘いがあったから面長として赴任していた恋人の父は失職したので、その家族は故郷である慶尚南道に帰郷してしまっていた。そこで、その後を追ってようやく再会を果たすと、そのままその家族と暮らしながら将来の生きる道を模索しながら時を過ごしていた。しかし、戦地から無事に復員しながら帰郷して両親に挨拶を済ませないのはやはり親兄弟に申し訳ないことだと説得されて、ようやく帰郷した。
しかし、当時は既に、済州はきな臭く危険な土地になっていた。とりわけ、ふたりの弟がパルチザンのシンパとして山に入ってしまっていたので、一族は軍警に睨まれていた。そこでそんな家族を守るために、いわば人質として自分を差し出すつもりで、警察官募集に応募して採用された。
それはよかったが、済州本島で警察官をしていると、山に入った弟たちと敵味方で戦うことになりかねないので、勝手知った楸子島での勤務を希望して、幸いにも認められた。行政区画としては済州道の一部になっていた楸子島だが、4・3の嵐は、済州本島からはるか遠い離島の楸子島には及んでいなかった。しかも、それまでに培った人間関係のセーフティネットも大いに幸いして、4.3の渦中でパルチザンと軍警に挟まれて危機に曝されていた宗家の父子も、その島に身を寄せることで、辛うじて生きながらえることができた。
以上のことの多くは、僕の従兄の玄吉彦著『島の反乱』(拙訳、同時代社刊)を翻訳しながら、僕もようやく詳しく知った。その従兄は、僕とは違って4・3を子どもとして直接に体験したが、その本で詳述している内容の一部は、僕と同じく叔父が主な情報源と僕は推測している。
そんな事情もあって、晩年になって4・3真相究明運動に厳しく対峙する論陣を張るようになったせいで、活動家たちの悪罵にさらされるようになった従兄の議論は、少なくとも僕には納得できることが多い。それだけに、4.3の活動家たちから僕が敵視され、先の訳書を焚書にと叫んだらしい活動家のことも、けだし当然と納得できるの。しかしだからと言って、僕の4・3に対する向き合い方が変わるわけではない。
それにまた、4・3に関する考えた方が違うからと言って、殺しあうこともないし、憎みあうこともない。そんな資格は僕にはないと僕は常に自分に言い聞かしながら、そうした対立の根がどこにあるのかを探し求める努力を惜しまないでいようと考えている。
それはともかく、叔父の楸子島での平穏な勤務も長くは続かなかった。やがては済州本島へ転勤を発令されて、島民同士の生臭い殺し合いに関わらずにはおれなかった。中国戦線で日本軍兵士として数々の実践を経験した叔父だけに、パルチザン討伐隊での目覚ましい活躍を褒めたたえる賞状を叔父は大事に保管していて見せてくれた。
叔父はその後、定年退職まで警察官として第一線で働き、子ども6人の大家族の大黒柱として生きた。その叔父夫婦にとって、楸子島は青春の輝きが記憶として生き続けた土地だった。
そんな話を、僕は叔父が当時、滞在していた一番下の息子の家に呼ばれて、二日にわたって詳細に聞いた。だからこそ、その次に済州を訪問した際には、出発直前にぎっくり腰を発症した不自由な体でありながらも、楸子島まで足を伸ばした。そして役所その他、その昔、叔父が新兵訓練の補助役をしていた学校なども訪れて、インタビューも試みようとした。
済州から快速船で木浦まで3時間、その途中の大海に浮かび、釣りの名所として有名な楸子島までなら1時間で、ほぼ確実に船酔いに苦しむことになるだろうが、日帰りも可能である。しかも、暮らしやすいところとして韓国全土でも評判で、その島の唯一の公共交通機関であるバスの運転手は、「済州よりも天国に近い島」と、本土からそこに移り住んだ自分の選択の正しさを自慢していた。
その島の周辺で大量に釣りあげられる鰆のコース料理が済州で大いに人気を博して久しい。マグロのコース料理と比べるとはるかに値段が安いということもあるのだろう。
日本では瀬戸内海沿岸でなくては、鰆を刺身で食べそうにないが、済州ではすごく重宝されている。しかし、一人前としてはあまりにも量が多くて有難みが減るし、肉質が柔らかいので刺身としては頼りない。そもそも、いくらおいしくても、とりわけ刺身などは、一度に沢山だと体に良くなさそうに思えて、鰆に申し訳ないし、勿体ない。
ところで、楸子島の特殊性について少々。楸子島は行政区域としてはある時期から済州に属するようになったが、本来は陸地(本土)に属していた。したがって、文化的には本土(陸地)色が濃厚である。例えば、女性の荷物の運び方に、それが如実に表れる。荷物を運ぶ際に、頭上に載せて歩く女性の姿が、かつての韓国でも、そして日本でも在日集住地区ではよく見かけられたが、済州ではそんな姿を見かけることはない。火山島なのでいたるところに石や岩がごろごろと転がっており、頭に荷物を載せて歩くのは難しく危険だからである。
済州の女性は荷物を籠に入れて背負う。昔の済州の女性にとって、子どもの頃からの宿命的な家事労働の一つが、一日に何度も泉から水を家に運ぶことだったが、その際には水を甕に入れ、その甕をさらに籠に入れて背負って運び、家の大きな水専用の甕に入れて、飲料はもちろん、生活用水一般」とした。昔の日常生活は、そのように自然環境が今よりはるかに直接的で決定的な影響を及ぼしていた。水不足や塩不足もすべて火山島という生成の経緯に由来している。
済州市の僕らのホテルが位置する東門市場あたりから沙羅峰の頂上までは、もっぱら緩やかな登り坂であり、そんな坂を一時間も登ってきた僕らには、<長寿の路>を散策する余力など残っていなかった。
頂上付近で丁重に保存されている巫俗信仰の聖地(今ではその近くに建てられた立派な建物内でイベントが行われることが多い)周辺に腰を下ろして、沙羅峰とその周辺の建築物や記念塔の謂れや変遷などについての講釈を妹にし終えると、沙羅峰から下ることにした。その麓に位置し、済州では夙に有名な愚堂図書館と国立済州博物館の方に降りていった。しかし、前者は名前の謂れを説明するだけで済ませ、後者が真の目的地だった。
国立済州博物館には既に数えられないほど訪問したので、今や展示物にはあまり興味がなくなった。しかも数年前に、あることをきっかけにして、ますます興味を失くしてしまった。
博物館の展示物には基本的に、韓国語の他に英語と中国語と日本語の説明パネルがかつては添えてあった。それなのに、そのうちの日本語パネルだけが取り外されたことに納得できなかった。そうした措置には主に二つの理由がありそうに思えた。
一つは韓国と日本の政治的対立、もう一つは日本人観光客の著しい減少なのだが、その。両方に、僕は納得できない。
政治的対立があるからこそ、文化的な友好関係を維持する努力が必須である。文化や学術に関係する人びとには、そうした認識が求められるのではないか。
他方、済州への日本人観光客が大幅に減ったことは確かだが、その実態について考えれば、それはむしろいいことで、文化事業に関わる人々のやりがいが増したと考えるべきではないかと。
かつての日本からの観光客の多くは<妓生観光>を目的としており、博物館の展示などに興味を持つはずがなかった。女性とゴルフと料理、そして韓国人に対するかつての宗主国民としての傲慢さを、財力をバックに改めて発揮するために、個人ではなく、徒党をなして済州を貪欲に楽しんだ。
しかし、ここ最近の観光客はその種の男たちの集団旅行とはすっかり趣を異にして、主に韓国や済州の自然や文化を目的とした女性たちが主流である。そのような人々にこそ、済州の歴史や文化、そしてその体験の喜びを提供してこそ、博物館の存在価値がある。
そのように考える僕としては、文化事業に関わる公務員の思考の狭隘さとスパンの短さに、珍しく腹を立てた。それはおそらく、日本で生まれ育った僕だからこその不満、不信なのだろう。日本人その他の多様な人々に向けての、済州文化の発信に期待しているからこそである。
但し、その種の不満や不快感が後を引いて展示を見なくなった僕の方が感情的で短絡的であると指摘されでもしたら、返す言葉がない。加齢は、そんな形で僕の心身の硬直をもたらしているのだろう。そんなことにも注意して、この先をなんとか生き抜かねばならない。
話を戻そう。そんな博物館を僕が何故に訪問する気になったのかと言えば、そこで学芸士として勤務しているはずの知人に会えるかもと期待してのことだった。幸いに久しぶりに会えたら、妹を紹介しておきたかった。
済州往来を始めて以来、僕が親戚の中でも格別に親しく付き合ってきたのが、上でも触れた叔父の長男で、その従兄の奥さんの姪が、済州の伝統的衣装の修理や制作や研究を担当する学芸員として、国立済州博物館に勤務を始めて既に四半世紀になる。
初対面時には僕はまだ40歳代の半ばで何も知らない済州への訪問を始めたばかりで、彼女の方はソウルの大学を卒業して、将来の路を探しあぐねた挙句に帰郷したばかりの20歳代の初めで、とりあえずは叔母、つまり僕の従兄夫婦の店を手伝いながら、将来の方向を探っていた。
従兄は西帰浦の繁華街に所有する4階建てビルの最上階で暮らし、毎日朝から、奥さん手作りの弁当持参で、自分が創った森の中のアトリエに通い、森の世話と絵画の制作に終日、励んでいた。当然、まともな収入があるはずがなかった。
そこで自宅ビルの三階は歯科医に貸し、二階ではそれまで学校の教師をしていた奥さんがカフェを始めた。それは当時の西帰浦では目立っておしゃれだし落ち着けるカフェだったが、当時の地方都市・西帰浦ではさすがに高級すぎたのか、あまり商売にならず、やがては賃貸に出した。そして、一階でブティックを営んでいた従兄の長妹に代わって、奥さんがその高級ブティックの運営を始めた。
そんな従兄夫婦のカフェでも、それに引き続くブティックでも、先に触れた姪が甲斐甲斐しく働いており、時折、はるばる日本から韓国語もまともにできない中年男の僕が訪問すると、実に気持ちのよい応対をしてくれた。おかげで彼女は済州における僕のひと時のオアシスだった。
しかし、そのように僕にとっては好感度が際立っていた彼女だが、将来を巡っての鬱屈を垣間見せることもあり、そんなところも僕の共感を引き起こしたのかもしれない。
僕の済州滞在がいつでも甚だしくストレスフルだったこともあって、屈託と縁遠い人より、屈託を抱えながら健気に生きていそうな人の方に親しみを持つ心理状態だったのだろう。それに僕の関心は元来、屈託を抱えて生きる人の方に向かう傾向が強い。
そんな彼女もやがては、染色に興味を持つようになり、大学院に進学して衣装関係の歴史と修理や制作の技術も習得して、地元済州の国立博物館の学芸員の職に就いた。だから、その後には、僕が済州で博物館に立ち寄るたびに、受付で彼女を呼び出してもらって、仕事の邪魔にならないように気遣いに努めながら、近況その他のよもやま話を交わすのが常となった。しかも、博物館以外の場所でも遭遇することがあった。
彼女は先に触れた従兄、彼女からすれば叔母の夫である叔父、そしてその絵のファンで、博物館の休日などで暇があるとアトリエに通い、絵を描いている従兄の様子を見守ったり、その絵に関して意見を交わしたり、或いは、もっぱら読書したりで終日を過ごすことが多く、そんなところに偶々僕が訪ねることもあったからである。要するに、従兄とその絵画を媒介にして僕と彼女とは意思の疎通が成立していそうな信憑が、少なくとも僕には育っていた。
ところが、ここ数年に限っては、僕の足が博物館からすっかり遠のいていた。彼女が癌を患っているという話を従兄から聞いて以来のことであり、博物館、そして彼女を訪問するのが何だか怖くなってしまったせいである。
でも先般に従兄に会った際には、彼女がすっかり回復したような話を聞いていたし、僕も今後は済州訪問の機会があるかどうか自信がなくなっているので、これが最後の機会になるかもと大げさなことも考えて、敢えて訪問することにしたのである。
そして幸いなことに、彼女は相変わらず博物館に通うばかりか、これまでのどの時よりも健康で快活そうに見えた。
ちょうど昼休みで時間の余裕があるらしく、会うとすぐに、ゆっくり話ができるようにと、新築されたばかりの棟の地下の広い作業場に案内してくれた。そして彼女自らが淹れた本格的なコーヒーをご馳走になりながら、その間のいろんなことを、これまで以上に親密に話し合えた。彼女も僕も、それぞれの人生の峠を越えたからかもしれない。
昨年に人生最後のつもりで個展を開いた従兄の、その後のことについても話した。アトリエに大量に収蔵されている作品群をどうするかなど、従兄の今後についての話である。従兄は個展を終えてから、一気に老けこんだ気がすると彼女は心配していた。
しかし、それはかえっていいことではないかと、従兄と同世代の一員としての僕の感じ方を率直に述べた。そうした節目が人生には何度もあり、それは新たな生き方を模索し、心身を今後に準備するために必須の猶予期間と考えた方がいいと、言うのである。
それは僕が常々自分に言い聞かしていることでもある。従兄がこれまでに制作した大量の作品は、受け容れてくれるところがあれば寄贈するのもいいが、現在のアトリエをそのまま小さな展示館として、日時を限定すると共に、観覧希望者の都合に合わせた随時の開館も含めて、広く開放することも考えてはと、僕の夢のようなことも伝えた。
従兄が創りあげた森の中のアトリエにおいてこそ、その森を主に描いた従兄の作品の価値が高まるという、従来からの考えもあってのことである。
ともかく彼女は、何かと率直に話ができる従兄と僕とが、他の人に対しては言えないようなこともふくめて、率直に、そしてゆっくりと話しあってもらいたいと言う。その言葉がすごくありがたかった。
40歳代になって初めて会って以降、この30年以上にわたって、僕は従兄から多くを学ぶことで、少しは人間らしくなったという実感があるからでもある。
彼女も学芸員になって早や25年で、来年に定年退職を控え、今後の1年間は出勤しなくても自宅研修などの名目で基本給を支給される制度があるので、博物館で会えるのも今回が最後になるという。敢えて博物館に彼女を訪ねてよかったといまさらながらに思った。
因みに、その場には彼女の同僚で、彼女と同じく従兄の絵の大ファンという男性の学芸員も同席しており、その人とも少し言葉を交わせた。日本留学の経験もあって、日本出張もあるらしいので、日本で再会できるかもしれない。或いは、僕が改めて博物館に彼を訪ねて、時間に都合さえつけば酒友達になってもらう約束まで、無理やりに取り付けた。
彼からは博物館の業務として制作に携わった図録『最も身近な慰労-済州の童子石、そして(江原道)寧越の羅漢像』(国立済州博物館、2023年刊)を頂戴して、すぐさまパラパラめくっていると、エピローグの部分に、従兄の絵の写真が収まっていることに気付いた。なるほど、従兄の絵のファンに間違いないことを確認できた。
二人に別れを告げると、バスで終点の済州大学校に向かった。
先ずは、大学正門前にロータリを挟んで立ち並ぶ食堂街で、できるだけ胃腸に負担の少ないものをと、全国チェーンの「キンパㇷ゚(韓国風海苔巻き)天国」で純豆腐チゲを食べた。このチェーン店はいわゆる<粉もの屋>だが、ご飯ものも多様なうえにリーズナブルな価格、しかも、どの支店でも味に当たりはずれがないから、気軽に利用できる。味に深みが足りないという欠点は否めないが、軽食には十分である。
僕らが今回、入った店もわりと素朴な味で食べやすかったから、量が多すぎると思いながらも完食してしまった。どこまでも懲りずに食い意地が汚い老人なのである。
大学の正門を入ってすぐ左手の、上品な赤タイル張りの4階建ての建物内には、在日済州人センター、実践哲学センター、2階には済州大学博物館などが入っているが、僕らは今回、在日済州人センターの展示室だけに入った。そのセンターの立ち上げにあたって、成り行きで大きく関わって苦労すなど、想い出が多いところである。
創設時には、大阪の桜ノ宮の大川端にあった、主に済州出身の女性のシャーマニズム信仰の聖所・竜王宮が解体された際に確保したクッ(巫俗信仰の祭り)の用具などの保管場所に困ったあげくに、そのセンターに引き取ってもらうことになり、多額の運送費もセンター側の出費で送りだせてほっとしたことが、一番の思い出である。
その後も、教員向けの講演をする羽目になったり、拙著を寄贈するなど、相当に密接な関係を維持していた時期もある。
それでいながら、そのセンターとの関係は安定したものではなく、海を隔てた異文化で暮らしてきた人間同士、さらには、大学関係者という教育公務員と全く何の肩書もない私人である僕との意思疎通や利害関係の調整の難しさも痛感した。
それにその施設に関する事業が、<先ずはお金ありき>で始まったという事情も大きく関係していただろう。
大阪で手広く事業を展開している済州出身の在日一世が、企業活動からの引退記念として、故郷最大の教育機関である済州大学校に、私財から100億韓国円(当時の為替レートでは14億日本円)の寄付の意向を表明したことが始まりだった。大学校内に在日、とりわけ在日済州人に関連する研究機関と資料展示のための資料館を建設する資金に加えて、長いスパンで運営資金も捻出できるようにという趣旨だった。
寄付金の3割は建物の建築費その他の創設経費とし、残りは安全確実な投資の利子や配当でランニングコストをひねり出すというのだから、大学としては実に有難い話だった。当然、大学関係者は喜んだついでに、在日による済州のインフラその他に対する多大な貢献を改めて想起・記録するばかりか、日本で今なお苦労する済州人一世を済州に招待するといった企画まで、放送局など地元のメディアも巻き込んで大々的に展開された。
ところが、その事業の本丸と言うべき済州人センターの運営に関しては、当初は華々しかったが、寄付者と大学とのその後の意思疎通がうまくいかなかったのか、当初の目論見から外れていく印象が強かった。
さらには、2年ごとに代わる大学教員の管理職であるセンター長と、ずっと継続してその事業に関わり、その事業に生きがいを見出すようになった専任研究員との思惑の違いもあって、最初から垣間見られていた意思疎通の困難が、ついには裁判沙汰に至るなど、要らぬ労力とお金を費やした挙句に、本気で関わってきた人々に大きな精神的な傷をもたらした。
そんな事情もあって、本来的目的だった研究事業は殆ど開店休業状態に陥った気配まであり、僕など日本在住者との関係もすっかり疎遠になって久しい。
そんな経緯を知る僕としては、「なるべくしてそうなった」という苦い悔恨に苛まれながらも、その建物内にある大学博物館は今後もそれなりに活用価値のあるものとして活用されるだろうが、それ以外の施設は中身がない<箱物>になることを危惧するまでになってしまった。
但し、以上は関係が疎遠になって久しい僕のような無責任な立場の<外地>の人間の手前勝手な印象と想像にすぎない。今でもそこで地道に格闘している人がきっといるだろうから、そんな人たちには、申し訳ない放言なのである。
ところが、そんな僕でも展示室に一歩足を踏み入れると、さすがに懐かしい。折々に共に関わっていた人々の写真なども見ることができるし、展示物の説明パネルの原文とその翻訳作業に関わった僕としては、自分の能力不足その他の事情など複雑に絡み合った結果としての問題点がやたらと目につき、頬が火照るほどに恥ずかしくなるが、自分がそれなりに取り組んだ事業を再確認するなど感慨が深かった。
長女が空港に着く時間が近づいてきたので、ホテルに戻って待機することにした。携帯電話の国際ローミングをしていなかったので、ホテルの部屋のWi-Fiによるライン連絡が唯一の頼りといった具合で、通信連絡にはいたって不便なのである。それもこれも、僕のITリテラシーの低さが原因で、時代遅れを今更ながらに痛感させられる。
長女から予定通りに空港到着という連絡が届いたので、念のためにホテル横の東門橋まで迎えに出たところ、タクシーから彼女が降りてきた。僕なんかよりもよほどに旅慣れた余裕が感じられて頼もしい。
夕刻にはHAさんが車で迎えに来てくれて、旧知の済州大学の哲学教授で環境運動家でもあるYさんとの会食に向かった。
Yさんとは彼が済州大学校内の研究所の所長になった年の夏のことだった。当時の僕は毎年、夏と春の長期休暇を利用して、済州大学内の宿舎で暮らす便宜を与えてもらい、毎日、大学図書館や研究所に日参しながら、遅まきの<済州学事始め>に懸命だった。そんな僕を励ます他、多様な人々を紹介するなどサポートしてくれたのが、当時、助教だったHAさんであり、僕と研究所長のY教授との橋渡しもしてくれた。
それ以来、既に15年以上が経った。お二人共に酒を嗜まないので、本来ならが僕と付き合う重要な資格を欠いているにもかかわらず、すごく仲良く付き合い、互いに助け合うことも多かった。僕が済州を訪問して、お二人に会わないままに去るなんてことは殆どない。とりわけHAさんの場合は絶対にない。
そんなHAさんについては、このブログの拙文の随所で数多くふれてきたので、今回はもっぱらもう一人のYさんに限って少し立ち入ってみる。
済州でもかつては自然環境が最も良く保存されるなど、済州のナンバーワンを誇っていた江汀で生まれ育ったYさんの専門は環境哲学なのだが、それをより具体的に言えば、<済州学>の創始者である石宙明に関する研究が焦眉の課題であり、ここ10年以上にわたって、済州に石宙明資料館の建設運動を実に精力的に展開している。そしてその資料館の目玉になりうる資料の探索とその思わぬ成功が、僕とYさんの関係を一気に強固かつ濃密にした。
石宙明はY教授の奮闘もあって、済州では済州学の創始者として夙に有名になっているが、済州以外の韓国やかつての日本では、もっぱら蝶々博士として著名である。Y教授はその両面も網羅した全体像を明らかにしたうえで、石宙明の研究方法などをモデルとする環境哲学を企図している。そして、そのために必須の基礎資料として、植民地時代に日本で発行されていた蝶々に関する雑誌の探索を、全くの門外漢の僕に依頼したので、僕は驚き、当惑したのだが、よくよく考えてみると、Yさんにはそれほど、日本には縁故がなかったからなのだろうと考えて、できるだけのことをしてみようと僕は決心した。
しかし、後で振り返ってみたところ、何であれ強い想いを持った人に特有の、想いを実現するための鋭い勘を、Yさんが備えていたからこその、藁にも縋る想いに基づく僕への依頼だったことに気付いた。そして、同じようなことを、その先のYさんの生き方に触れるたびに、何度も思わせられた。
その勘が僕の強く刺激した結果として、僕のすぐ近くにも蝶々博士と呼ばれる人がいたことに、僕はようやく気付いた。高校時代の恩師で、僕が「含羞の人」とひそかに名付けていた方こそがその人で、僕はその恩師と特別に親しい高校同期の友人の助けも借りて、その先生に連絡を取り、ついにはその貴重な資料全巻を寄贈していただいて、それをすぐさま済州のY教授に送って感謝されるといった、当初は想像もできなかった幸運を経験した。
その経緯については、本ブログの「トモダチのトモダチはトモダチ」の連作で詳しく書いているので、関心のある方は是非とも参照していただくことにして、ここではその一部に限って、簡単に触れるにとどめたい。
石宙明は植民地期の朝鮮はもちろん、大日本帝国の版図全域を代表する蝶々博士だったが、植民地支配から解放されて以降に、済州に派遣されたごく短期間に、済州文化に興味を抱き、とりわけ、済州の言語を彼のお得意の蝶々研究の主流だった分類学(系統学)を援用して試すなどして、済州学の創始者と呼ばれるに値する貴重な成果を残した
彼のそうした済州学の基盤としての蝶々学に関する貴重資料の全巻を僕にとっての蝶々博士だった恩師から寄贈され、済州のYさんにお送りした。その後、Y教授はその資料全巻を会場に展示するなどもして、大々的なシンポジウムの開催に至り、近いうちに僕の恩師も済州に招待したいという意向だったが、ほどなくしてその含羞の人は亡くなり、それは実現しないままに終わったが、それ以来、僕ら二人の結びつきは一気に強まった。
僕が済州に行くたびにYさんの純真な笑顔と石宙明資料館の建設という、彼の長年の夢の実現に向けての尽力の詳細を話してもらう関係になった。
一度など、Yさんが調査現場で腰骨骨折という大けがをして長期入院の真っ最中、完全に寝たきりの状態だったのに、資料館建築の進捗状況を希望に満ちた表情で教えていただくこともあった。本人はそんな厳しい状態でも、話しているYさんと聞いている僕のどちらが患者なのか傍から見たら分からないほどで、こちらがむしろ励まされているような感じだった。
今回、僕が半年ぶりに済州を訪問することをHAさんから聞いたYさんは、ちょうど、自分が大学の定年退職を控えた最終講義の日に当たるので、その記念も兼ねて、僕と妹と長女の三人を夕食に招待してくださった。
料理はタイちり、ブリの刺身、ブリの釜焼きだったが、そのどれも絶品だった。その後に入ったお洒落なカフェの棗茶の素朴ながらも深い味わいもよかったが、Yさんと僕の冗談と本気とが入り混じった話術合戦もなかなかのものだったと自画自賛している。
僕とそれより7、8歳は歳下のYさんといったように老齢の二人のやりとりを聞きながら、妹も長女も退屈していそうな気配はまったくなかった。
僕ら日本から来た3人はマッコリを楽しんだ。他方、YさんとHAさんの二人は素面を押し通しながらだったが、実に楽しい会食だった。
済州の西端のモスルポでは毎年、ブリ祭りが開催され、そのメインイベントがブリの手づかみ体験であり、子どもたちは大喜びとのことだが、済州のブリは日本のブリほどには油濃さが気にならず、僕の好みにあって、おいしかった。日本の照り焼きのような味は愛量が何であれ、済州では経験した食べたことがない。ブリのカマ焼きは日本のそれと同じく塩焼きで、僕の舌にあった。済州の<ちり>については後に詳しく触れることにするが、日本のそれとはずいぶんと異なることだけをここでは強調しておきたい。
Yさんからは『済州島で出会った環境哲学』(尹龍澤著、済州大学校出版部、2023年刊)を頂戴した。せめてその序文だけでも近いうちに拙訳してブログに掲載することで、感謝の徴にしたい。
実は以前にも、彼の故郷である江汀に関しての、「江汀ナンバーワン」という冊子や、石宙明に関する資料集をいただいた際に、勉強がてらその翻訳を試みようと、著者である彼の意向を確認したところ、それは未完なので、近い将来に完成品が書けたら、その時にこそお願いしたいという返事をもらっていたので、今回はその約束の断片たりとも果たしたい。
彼が済州大学に就職し、学生と学びながら発見・追及してきた環境哲学と何かの大筋だけでも、日本の読者に伝えたいし、それ以上に僕自身が学びたい。彼のような純粋さを持ち合わせない僕なりの、彼の純粋さと忍耐といつまでも夢を失わない強靭な精神力に対する、ささやかな賛歌の序章になればと思っている。
(2024年12月29日12時、24日にアップしたのを一部修正のうえでの28日に再度アップしたが、またしても気になることがあったので、今回は3度目の正直?「師走の済州旅行Ⅲ」に続く)