goo blog サービス終了のお知らせ 

玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

折々のメモ12 師走の済州旅行Ⅱ(2024年12月12日)

2024-12-29 11:42:31 | 折々のメモ
折々のメモ12
師走の済州旅行Ⅱ(2024年12月12日)

4.済州の二日目(12月12日)
 午後の3時頃には長女が東京からソウル経由で済州空港に到着する。それまでは、相変わらず僕と妹の二人だけだが、その二人が朝から、昨夕に続いてまたしても失敗をしでかした。さすがに兄妹である。
 朝の7時にロビーで待ち合わせて海岸に散歩に出たが、あまりの強風でまともに歩けそうになく、たちまちのうちに断念した。仕方なく、朝食をどうするか迷いながら、とりあえずホテルに戻りながら考えることにした。途中のコンビニで適当に見繕えばいいと。
そして、歩きながらも、昨夜は食べ過ぎたので、今度こそできる限り軽くと話し合っていた。ところが、僕の馴染みのクックス屋の前を過ぎてしばらくすると、あっさりとしたミョルチクックス(煮干し出汁のにゅう麺)の味の記憶に負けて引き返し店に入いり、すぐさまお目当てのそれを注文した。それでもその時点では、警戒心を失っていなかった。やがて、テーブルの上に置かれたどんぶりの量に、今さらのように圧倒されて、せめて半分は残さなくてはと、言葉を交わしあった。
 しかし、食べ始めると止まらない。あげくはすっかり食べきってしまい、満腹で苦しい。昨夜に続いての失敗に自分でも呆れた。
ホテルに戻ってしばらくすると、胃腸のためには歩くのが一番と考え直した。海岸から東の方には、市民の憩いの場所として親しまれている沙羅峰が柔和な姿で佇んでいる。こんな時こそ、軽い山歩きを楽しまねばと思い立った。沙羅峰の向こうには、その昔、僕らのホテル界隈に多く暮らしていた植民者である日本人たちが<のこぎり山>と呼んで親しんでいた別刀峰もあり、その二つの峰をつなぐ散策路は<長寿の路>と命名され、海を見渡しながらの快適な山歩きが楽しめる。僕は済州に来るたびに、気分転換のために訪れるのが殆ど習慣化している。
 そんなわけで勝手知った地元のつもりだったのに、いざその山頂に向かって歩き出すと道に迷ってばかりで、何度も通行人に尋ねたあげくにようやく山頂に辿り着いた。少し情けない思いをしながらの、一時間ほどの散策だった。
 海側を見下ろすと、長期にわたって拡張工事が続いていた済州港の整備も一段落したらしく、フェリーや旅客船がのんびり停泊しており心が和む。
 10年ほど前には、その港から快速船に乗って、済州と本土南端の港町である木浦の間に位置する楸子島に赴いたことがある。4・3時にわが一族のサバイバルにとって決定的な役割を果たした場所と聞いていたので、一度は訪ねて調査もどきも試してみたかった。
父のすぐ下の弟で父とは最も仲良かった叔父が、朝鮮人の若者を日本軍兵士に仕立て上げるための長期訓練の補助役として、その楸子島で勤務についたことがきっかけで、我が一族とその島との因縁が始まった。
その際に寝食の世話になった面長の家で、叔父は少し年下のその家の長女と恋仲になった。その後、自らも日本軍兵士として中国戦線に動員されて辛酸を舐めたが、辛うじて生き延びて復員すると、楸子島の恋人の家族を訪問した。
 ところが、植民地からの解放と共に、日本人島司の誘いがあったから面長として赴任していた恋人の父は失職したので、その家族は故郷である慶尚南道に帰郷してしまっていた。そこで、その後を追ってようやく再会を果たすと、そのままその家族と暮らしながら将来の生きる道を模索しながら時を過ごしていた。しかし、戦地から無事に復員しながら帰郷して両親に挨拶を済ませないのはやはり親兄弟に申し訳ないことだと説得されて、ようやく帰郷した。
 しかし、当時は既に、済州はきな臭く危険な土地になっていた。とりわけ、ふたりの弟がパルチザンのシンパとして山に入ってしまっていたので、一族は軍警に睨まれていた。そこでそんな家族を守るために、いわば人質として自分を差し出すつもりで、警察官募集に応募して採用された。
 それはよかったが、済州本島で警察官をしていると、山に入った弟たちと敵味方で戦うことになりかねないので、勝手知った楸子島での勤務を希望して、幸いにも認められた。行政区画としては済州道の一部になっていた楸子島だが、4・3の嵐は、済州本島からはるか遠い離島の楸子島には及んでいなかった。しかも、それまでに培った人間関係のセーフティネットも大いに幸いして、4.3の渦中でパルチザンと軍警に挟まれて危機に曝されていた宗家の父子も、その島に身を寄せることで、辛うじて生きながらえることができた。
 以上のことの多くは、僕の従兄の玄吉彦著『島の反乱』(拙訳、同時代社刊)を翻訳しながら、僕もようやく詳しく知った。その従兄は、僕とは違って4・3を子どもとして直接に体験したが、その本で詳述している内容の一部は、僕と同じく叔父が主な情報源と僕は推測している。
 そんな事情もあって、晩年になって4・3真相究明運動に厳しく対峙する論陣を張るようになったせいで、活動家たちの悪罵にさらされるようになった従兄の議論は、少なくとも僕には納得できることが多い。それだけに、4.3の活動家たちから僕が敵視され、先の訳書を焚書にと叫んだらしい活動家のことも、けだし当然と納得できるの。しかしだからと言って、僕の4・3に対する向き合い方が変わるわけではない。
 それにまた、4・3に関する考えた方が違うからと言って、殺しあうこともないし、憎みあうこともない。そんな資格は僕にはないと僕は常に自分に言い聞かしながら、そうした対立の根がどこにあるのかを探し求める努力を惜しまないでいようと考えている。
それはともかく、叔父の楸子島での平穏な勤務も長くは続かなかった。やがては済州本島へ転勤を発令されて、島民同士の生臭い殺し合いに関わらずにはおれなかった。中国戦線で日本軍兵士として数々の実践を経験した叔父だけに、パルチザン討伐隊での目覚ましい活躍を褒めたたえる賞状を叔父は大事に保管していて見せてくれた。
 叔父はその後、定年退職まで警察官として第一線で働き、子ども6人の大家族の大黒柱として生きた。その叔父夫婦にとって、楸子島は青春の輝きが記憶として生き続けた土地だった。
 そんな話を、僕は叔父が当時、滞在していた一番下の息子の家に呼ばれて、二日にわたって詳細に聞いた。だからこそ、その次に済州を訪問した際には、出発直前にぎっくり腰を発症した不自由な体でありながらも、楸子島まで足を伸ばした。そして役所その他、その昔、叔父が新兵訓練の補助役をしていた学校なども訪れて、インタビューも試みようとした。
 済州から快速船で木浦まで3時間、その途中の大海に浮かび、釣りの名所として有名な楸子島までなら1時間で、ほぼ確実に船酔いに苦しむことになるだろうが、日帰りも可能である。しかも、暮らしやすいところとして韓国全土でも評判で、その島の唯一の公共交通機関であるバスの運転手は、「済州よりも天国に近い島」と、本土からそこに移り住んだ自分の選択の正しさを自慢していた。
その島の周辺で大量に釣りあげられる鰆のコース料理が済州で大いに人気を博して久しい。マグロのコース料理と比べるとはるかに値段が安いということもあるのだろう。
 日本では瀬戸内海沿岸でなくては、鰆を刺身で食べそうにないが、済州ではすごく重宝されている。しかし、一人前としてはあまりにも量が多くて有難みが減るし、肉質が柔らかいので刺身としては頼りない。そもそも、いくらおいしくても、とりわけ刺身などは、一度に沢山だと体に良くなさそうに思えて、鰆に申し訳ないし、勿体ない。
 ところで、楸子島の特殊性について少々。楸子島は行政区域としてはある時期から済州に属するようになったが、本来は陸地(本土)に属していた。したがって、文化的には本土(陸地)色が濃厚である。例えば、女性の荷物の運び方に、それが如実に表れる。荷物を運ぶ際に、頭上に載せて歩く女性の姿が、かつての韓国でも、そして日本でも在日集住地区ではよく見かけられたが、済州ではそんな姿を見かけることはない。火山島なのでいたるところに石や岩がごろごろと転がっており、頭に荷物を載せて歩くのは難しく危険だからである。
 済州の女性は荷物を籠に入れて背負う。昔の済州の女性にとって、子どもの頃からの宿命的な家事労働の一つが、一日に何度も泉から水を家に運ぶことだったが、その際には水を甕に入れ、その甕をさらに籠に入れて背負って運び、家の大きな水専用の甕に入れて、飲料はもちろん、生活用水一般」とした。昔の日常生活は、そのように自然環境が今よりはるかに直接的で決定的な影響を及ぼしていた。水不足や塩不足もすべて火山島という生成の経緯に由来している。
 済州市の僕らのホテルが位置する東門市場あたりから沙羅峰の頂上までは、もっぱら緩やかな登り坂であり、そんな坂を一時間も登ってきた僕らには、<長寿の路>を散策する余力など残っていなかった。
 頂上付近で丁重に保存されている巫俗信仰の聖地(今ではその近くに建てられた立派な建物内でイベントが行われることが多い)周辺に腰を下ろして、沙羅峰とその周辺の建築物や記念塔の謂れや変遷などについての講釈を妹にし終えると、沙羅峰から下ることにした。その麓に位置し、済州では夙に有名な愚堂図書館と国立済州博物館の方に降りていった。しかし、前者は名前の謂れを説明するだけで済ませ、後者が真の目的地だった。
 国立済州博物館には既に数えられないほど訪問したので、今や展示物にはあまり興味がなくなった。しかも数年前に、あることをきっかけにして、ますます興味を失くしてしまった。
 博物館の展示物には基本的に、韓国語の他に英語と中国語と日本語の説明パネルがかつては添えてあった。それなのに、そのうちの日本語パネルだけが取り外されたことに納得できなかった。そうした措置には主に二つの理由がありそうに思えた。
 一つは韓国と日本の政治的対立、もう一つは日本人観光客の著しい減少なのだが、その。両方に、僕は納得できない。
政治的対立があるからこそ、文化的な友好関係を維持する努力が必須である。文化や学術に関係する人びとには、そうした認識が求められるのではないか。
 他方、済州への日本人観光客が大幅に減ったことは確かだが、その実態について考えれば、それはむしろいいことで、文化事業に関わる人々のやりがいが増したと考えるべきではないかと。
 かつての日本からの観光客の多くは<妓生観光>を目的としており、博物館の展示などに興味を持つはずがなかった。女性とゴルフと料理、そして韓国人に対するかつての宗主国民としての傲慢さを、財力をバックに改めて発揮するために、個人ではなく、徒党をなして済州を貪欲に楽しんだ。
 しかし、ここ最近の観光客はその種の男たちの集団旅行とはすっかり趣を異にして、主に韓国や済州の自然や文化を目的とした女性たちが主流である。そのような人々にこそ、済州の歴史や文化、そしてその体験の喜びを提供してこそ、博物館の存在価値がある。
そのように考える僕としては、文化事業に関わる公務員の思考の狭隘さとスパンの短さに、珍しく腹を立てた。それはおそらく、日本で生まれ育った僕だからこその不満、不信なのだろう。日本人その他の多様な人々に向けての、済州文化の発信に期待しているからこそである。
 但し、その種の不満や不快感が後を引いて展示を見なくなった僕の方が感情的で短絡的であると指摘されでもしたら、返す言葉がない。加齢は、そんな形で僕の心身の硬直をもたらしているのだろう。そんなことにも注意して、この先をなんとか生き抜かねばならない。
 話を戻そう。そんな博物館を僕が何故に訪問する気になったのかと言えば、そこで学芸士として勤務しているはずの知人に会えるかもと期待してのことだった。幸いに久しぶりに会えたら、妹を紹介しておきたかった。
 済州往来を始めて以来、僕が親戚の中でも格別に親しく付き合ってきたのが、上でも触れた叔父の長男で、その従兄の奥さんの姪が、済州の伝統的衣装の修理や制作や研究を担当する学芸員として、国立済州博物館に勤務を始めて既に四半世紀になる。
初対面時には僕はまだ40歳代の半ばで何も知らない済州への訪問を始めたばかりで、彼女の方はソウルの大学を卒業して、将来の路を探しあぐねた挙句に帰郷したばかりの20歳代の初めで、とりあえずは叔母、つまり僕の従兄夫婦の店を手伝いながら、将来の方向を探っていた。
 従兄は西帰浦の繁華街に所有する4階建てビルの最上階で暮らし、毎日朝から、奥さん手作りの弁当持参で、自分が創った森の中のアトリエに通い、森の世話と絵画の制作に終日、励んでいた。当然、まともな収入があるはずがなかった。
 そこで自宅ビルの三階は歯科医に貸し、二階ではそれまで学校の教師をしていた奥さんがカフェを始めた。それは当時の西帰浦では目立っておしゃれだし落ち着けるカフェだったが、当時の地方都市・西帰浦ではさすがに高級すぎたのか、あまり商売にならず、やがては賃貸に出した。そして、一階でブティックを営んでいた従兄の長妹に代わって、奥さんがその高級ブティックの運営を始めた。
 そんな従兄夫婦のカフェでも、それに引き続くブティックでも、先に触れた姪が甲斐甲斐しく働いており、時折、はるばる日本から韓国語もまともにできない中年男の僕が訪問すると、実に気持ちのよい応対をしてくれた。おかげで彼女は済州における僕のひと時のオアシスだった。
 しかし、そのように僕にとっては好感度が際立っていた彼女だが、将来を巡っての鬱屈を垣間見せることもあり、そんなところも僕の共感を引き起こしたのかもしれない。
 僕の済州滞在がいつでも甚だしくストレスフルだったこともあって、屈託と縁遠い人より、屈託を抱えながら健気に生きていそうな人の方に親しみを持つ心理状態だったのだろう。それに僕の関心は元来、屈託を抱えて生きる人の方に向かう傾向が強い。
 そんな彼女もやがては、染色に興味を持つようになり、大学院に進学して衣装関係の歴史と修理や制作の技術も習得して、地元済州の国立博物館の学芸員の職に就いた。だから、その後には、僕が済州で博物館に立ち寄るたびに、受付で彼女を呼び出してもらって、仕事の邪魔にならないように気遣いに努めながら、近況その他のよもやま話を交わすのが常となった。しかも、博物館以外の場所でも遭遇することがあった。
 彼女は先に触れた従兄、彼女からすれば叔母の夫である叔父、そしてその絵のファンで、博物館の休日などで暇があるとアトリエに通い、絵を描いている従兄の様子を見守ったり、その絵に関して意見を交わしたり、或いは、もっぱら読書したりで終日を過ごすことが多く、そんなところに偶々僕が訪ねることもあったからである。要するに、従兄とその絵画を媒介にして僕と彼女とは意思の疎通が成立していそうな信憑が、少なくとも僕には育っていた。
 ところが、ここ数年に限っては、僕の足が博物館からすっかり遠のいていた。彼女が癌を患っているという話を従兄から聞いて以来のことであり、博物館、そして彼女を訪問するのが何だか怖くなってしまったせいである。
 でも先般に従兄に会った際には、彼女がすっかり回復したような話を聞いていたし、僕も今後は済州訪問の機会があるかどうか自信がなくなっているので、これが最後の機会になるかもと大げさなことも考えて、敢えて訪問することにしたのである。
そして幸いなことに、彼女は相変わらず博物館に通うばかりか、これまでのどの時よりも健康で快活そうに見えた。
 ちょうど昼休みで時間の余裕があるらしく、会うとすぐに、ゆっくり話ができるようにと、新築されたばかりの棟の地下の広い作業場に案内してくれた。そして彼女自らが淹れた本格的なコーヒーをご馳走になりながら、その間のいろんなことを、これまで以上に親密に話し合えた。彼女も僕も、それぞれの人生の峠を越えたからかもしれない。
 昨年に人生最後のつもりで個展を開いた従兄の、その後のことについても話した。アトリエに大量に収蔵されている作品群をどうするかなど、従兄の今後についての話である。従兄は個展を終えてから、一気に老けこんだ気がすると彼女は心配していた。
 しかし、それはかえっていいことではないかと、従兄と同世代の一員としての僕の感じ方を率直に述べた。そうした節目が人生には何度もあり、それは新たな生き方を模索し、心身を今後に準備するために必須の猶予期間と考えた方がいいと、言うのである。
 それは僕が常々自分に言い聞かしていることでもある。従兄がこれまでに制作した大量の作品は、受け容れてくれるところがあれば寄贈するのもいいが、現在のアトリエをそのまま小さな展示館として、日時を限定すると共に、観覧希望者の都合に合わせた随時の開館も含めて、広く開放することも考えてはと、僕の夢のようなことも伝えた。
 従兄が創りあげた森の中のアトリエにおいてこそ、その森を主に描いた従兄の作品の価値が高まるという、従来からの考えもあってのことである。
 ともかく彼女は、何かと率直に話ができる従兄と僕とが、他の人に対しては言えないようなこともふくめて、率直に、そしてゆっくりと話しあってもらいたいと言う。その言葉がすごくありがたかった。
 40歳代になって初めて会って以降、この30年以上にわたって、僕は従兄から多くを学ぶことで、少しは人間らしくなったという実感があるからでもある。
 彼女も学芸員になって早や25年で、来年に定年退職を控え、今後の1年間は出勤しなくても自宅研修などの名目で基本給を支給される制度があるので、博物館で会えるのも今回が最後になるという。敢えて博物館に彼女を訪ねてよかったといまさらながらに思った。
因みに、その場には彼女の同僚で、彼女と同じく従兄の絵の大ファンという男性の学芸員も同席しており、その人とも少し言葉を交わせた。日本留学の経験もあって、日本出張もあるらしいので、日本で再会できるかもしれない。或いは、僕が改めて博物館に彼を訪ねて、時間に都合さえつけば酒友達になってもらう約束まで、無理やりに取り付けた。
 彼からは博物館の業務として制作に携わった図録『最も身近な慰労-済州の童子石、そして(江原道)寧越の羅漢像』(国立済州博物館、2023年刊)を頂戴して、すぐさまパラパラめくっていると、エピローグの部分に、従兄の絵の写真が収まっていることに気付いた。なるほど、従兄の絵のファンに間違いないことを確認できた。
 二人に別れを告げると、バスで終点の済州大学校に向かった。
 先ずは、大学正門前にロータリを挟んで立ち並ぶ食堂街で、できるだけ胃腸に負担の少ないものをと、全国チェーンの「キンパㇷ゚(韓国風海苔巻き)天国」で純豆腐チゲを食べた。このチェーン店はいわゆる<粉もの屋>だが、ご飯ものも多様なうえにリーズナブルな価格、しかも、どの支店でも味に当たりはずれがないから、気軽に利用できる。味に深みが足りないという欠点は否めないが、軽食には十分である。
 僕らが今回、入った店もわりと素朴な味で食べやすかったから、量が多すぎると思いながらも完食してしまった。どこまでも懲りずに食い意地が汚い老人なのである。
 大学の正門を入ってすぐ左手の、上品な赤タイル張りの4階建ての建物内には、在日済州人センター、実践哲学センター、2階には済州大学博物館などが入っているが、僕らは今回、在日済州人センターの展示室だけに入った。そのセンターの立ち上げにあたって、成り行きで大きく関わって苦労すなど、想い出が多いところである。
 創設時には、大阪の桜ノ宮の大川端にあった、主に済州出身の女性のシャーマニズム信仰の聖所・竜王宮が解体された際に確保したクッ(巫俗信仰の祭り)の用具などの保管場所に困ったあげくに、そのセンターに引き取ってもらうことになり、多額の運送費もセンター側の出費で送りだせてほっとしたことが、一番の思い出である。
 その後も、教員向けの講演をする羽目になったり、拙著を寄贈するなど、相当に密接な関係を維持していた時期もある。
 それでいながら、そのセンターとの関係は安定したものではなく、海を隔てた異文化で暮らしてきた人間同士、さらには、大学関係者という教育公務員と全く何の肩書もない私人である僕との意思疎通や利害関係の調整の難しさも痛感した。
 それにその施設に関する事業が、<先ずはお金ありき>で始まったという事情も大きく関係していただろう。
 大阪で手広く事業を展開している済州出身の在日一世が、企業活動からの引退記念として、故郷最大の教育機関である済州大学校に、私財から100億韓国円(当時の為替レートでは14億日本円)の寄付の意向を表明したことが始まりだった。大学校内に在日、とりわけ在日済州人に関連する研究機関と資料展示のための資料館を建設する資金に加えて、長いスパンで運営資金も捻出できるようにという趣旨だった。
 寄付金の3割は建物の建築費その他の創設経費とし、残りは安全確実な投資の利子や配当でランニングコストをひねり出すというのだから、大学としては実に有難い話だった。当然、大学関係者は喜んだついでに、在日による済州のインフラその他に対する多大な貢献を改めて想起・記録するばかりか、日本で今なお苦労する済州人一世を済州に招待するといった企画まで、放送局など地元のメディアも巻き込んで大々的に展開された。
 ところが、その事業の本丸と言うべき済州人センターの運営に関しては、当初は華々しかったが、寄付者と大学とのその後の意思疎通がうまくいかなかったのか、当初の目論見から外れていく印象が強かった。
 さらには、2年ごとに代わる大学教員の管理職であるセンター長と、ずっと継続してその事業に関わり、その事業に生きがいを見出すようになった専任研究員との思惑の違いもあって、最初から垣間見られていた意思疎通の困難が、ついには裁判沙汰に至るなど、要らぬ労力とお金を費やした挙句に、本気で関わってきた人々に大きな精神的な傷をもたらした。
 そんな事情もあって、本来的目的だった研究事業は殆ど開店休業状態に陥った気配まであり、僕など日本在住者との関係もすっかり疎遠になって久しい。
 そんな経緯を知る僕としては、「なるべくしてそうなった」という苦い悔恨に苛まれながらも、その建物内にある大学博物館は今後もそれなりに活用価値のあるものとして活用されるだろうが、それ以外の施設は中身がない<箱物>になることを危惧するまでになってしまった。
 但し、以上は関係が疎遠になって久しい僕のような無責任な立場の<外地>の人間の手前勝手な印象と想像にすぎない。今でもそこで地道に格闘している人がきっといるだろうから、そんな人たちには、申し訳ない放言なのである。
 ところが、そんな僕でも展示室に一歩足を踏み入れると、さすがに懐かしい。折々に共に関わっていた人々の写真なども見ることができるし、展示物の説明パネルの原文とその翻訳作業に関わった僕としては、自分の能力不足その他の事情など複雑に絡み合った結果としての問題点がやたらと目につき、頬が火照るほどに恥ずかしくなるが、自分がそれなりに取り組んだ事業を再確認するなど感慨が深かった。
 長女が空港に着く時間が近づいてきたので、ホテルに戻って待機することにした。携帯電話の国際ローミングをしていなかったので、ホテルの部屋のWi-Fiによるライン連絡が唯一の頼りといった具合で、通信連絡にはいたって不便なのである。それもこれも、僕のITリテラシーの低さが原因で、時代遅れを今更ながらに痛感させられる。
 長女から予定通りに空港到着という連絡が届いたので、念のためにホテル横の東門橋まで迎えに出たところ、タクシーから彼女が降りてきた。僕なんかよりもよほどに旅慣れた余裕が感じられて頼もしい。
夕刻にはHAさんが車で迎えに来てくれて、旧知の済州大学の哲学教授で環境運動家でもあるYさんとの会食に向かった。
 Yさんとは彼が済州大学校内の研究所の所長になった年の夏のことだった。当時の僕は毎年、夏と春の長期休暇を利用して、済州大学内の宿舎で暮らす便宜を与えてもらい、毎日、大学図書館や研究所に日参しながら、遅まきの<済州学事始め>に懸命だった。そんな僕を励ます他、多様な人々を紹介するなどサポートしてくれたのが、当時、助教だったHAさんであり、僕と研究所長のY教授との橋渡しもしてくれた。
 それ以来、既に15年以上が経った。お二人共に酒を嗜まないので、本来ならが僕と付き合う重要な資格を欠いているにもかかわらず、すごく仲良く付き合い、互いに助け合うことも多かった。僕が済州を訪問して、お二人に会わないままに去るなんてことは殆どない。とりわけHAさんの場合は絶対にない。
 そんなHAさんについては、このブログの拙文の随所で数多くふれてきたので、今回はもっぱらもう一人のYさんに限って少し立ち入ってみる。
 済州でもかつては自然環境が最も良く保存されるなど、済州のナンバーワンを誇っていた江汀で生まれ育ったYさんの専門は環境哲学なのだが、それをより具体的に言えば、<済州学>の創始者である石宙明に関する研究が焦眉の課題であり、ここ10年以上にわたって、済州に石宙明資料館の建設運動を実に精力的に展開している。そしてその資料館の目玉になりうる資料の探索とその思わぬ成功が、僕とYさんの関係を一気に強固かつ濃密にした。
 石宙明はY教授の奮闘もあって、済州では済州学の創始者として夙に有名になっているが、済州以外の韓国やかつての日本では、もっぱら蝶々博士として著名である。Y教授はその両面も網羅した全体像を明らかにしたうえで、石宙明の研究方法などをモデルとする環境哲学を企図している。そして、そのために必須の基礎資料として、植民地時代に日本で発行されていた蝶々に関する雑誌の探索を、全くの門外漢の僕に依頼したので、僕は驚き、当惑したのだが、よくよく考えてみると、Yさんにはそれほど、日本には縁故がなかったからなのだろうと考えて、できるだけのことをしてみようと僕は決心した。
 しかし、後で振り返ってみたところ、何であれ強い想いを持った人に特有の、想いを実現するための鋭い勘を、Yさんが備えていたからこその、藁にも縋る想いに基づく僕への依頼だったことに気付いた。そして、同じようなことを、その先のYさんの生き方に触れるたびに、何度も思わせられた。
 その勘が僕の強く刺激した結果として、僕のすぐ近くにも蝶々博士と呼ばれる人がいたことに、僕はようやく気付いた。高校時代の恩師で、僕が「含羞の人」とひそかに名付けていた方こそがその人で、僕はその恩師と特別に親しい高校同期の友人の助けも借りて、その先生に連絡を取り、ついにはその貴重な資料全巻を寄贈していただいて、それをすぐさま済州のY教授に送って感謝されるといった、当初は想像もできなかった幸運を経験した。
 その経緯については、本ブログの「トモダチのトモダチはトモダチ」の連作で詳しく書いているので、関心のある方は是非とも参照していただくことにして、ここではその一部に限って、簡単に触れるにとどめたい。
 石宙明は植民地期の朝鮮はもちろん、大日本帝国の版図全域を代表する蝶々博士だったが、植民地支配から解放されて以降に、済州に派遣されたごく短期間に、済州文化に興味を抱き、とりわけ、済州の言語を彼のお得意の蝶々研究の主流だった分類学(系統学)を援用して試すなどして、済州学の創始者と呼ばれるに値する貴重な成果を残した
 彼のそうした済州学の基盤としての蝶々学に関する貴重資料の全巻を僕にとっての蝶々博士だった恩師から寄贈され、済州のYさんにお送りした。その後、Y教授はその資料全巻を会場に展示するなどもして、大々的なシンポジウムの開催に至り、近いうちに僕の恩師も済州に招待したいという意向だったが、ほどなくしてその含羞の人は亡くなり、それは実現しないままに終わったが、それ以来、僕ら二人の結びつきは一気に強まった。
 僕が済州に行くたびにYさんの純真な笑顔と石宙明資料館の建設という、彼の長年の夢の実現に向けての尽力の詳細を話してもらう関係になった。
 一度など、Yさんが調査現場で腰骨骨折という大けがをして長期入院の真っ最中、完全に寝たきりの状態だったのに、資料館建築の進捗状況を希望に満ちた表情で教えていただくこともあった。本人はそんな厳しい状態でも、話しているYさんと聞いている僕のどちらが患者なのか傍から見たら分からないほどで、こちらがむしろ励まされているような感じだった。
 今回、僕が半年ぶりに済州を訪問することをHAさんから聞いたYさんは、ちょうど、自分が大学の定年退職を控えた最終講義の日に当たるので、その記念も兼ねて、僕と妹と長女の三人を夕食に招待してくださった。
 料理はタイちり、ブリの刺身、ブリの釜焼きだったが、そのどれも絶品だった。その後に入ったお洒落なカフェの棗茶の素朴ながらも深い味わいもよかったが、Yさんと僕の冗談と本気とが入り混じった話術合戦もなかなかのものだったと自画自賛している。
 僕とそれより7、8歳は歳下のYさんといったように老齢の二人のやりとりを聞きながら、妹も長女も退屈していそうな気配はまったくなかった。
 僕ら日本から来た3人はマッコリを楽しんだ。他方、YさんとHAさんの二人は素面を押し通しながらだったが、実に楽しい会食だった。
 済州の西端のモスルポでは毎年、ブリ祭りが開催され、そのメインイベントがブリの手づかみ体験であり、子どもたちは大喜びとのことだが、済州のブリは日本のブリほどには油濃さが気にならず、僕の好みにあって、おいしかった。日本の照り焼きのような味は愛量が何であれ、済州では経験した食べたことがない。ブリのカマ焼きは日本のそれと同じく塩焼きで、僕の舌にあった。済州の<ちり>については後に詳しく触れることにするが、日本のそれとはずいぶんと異なることだけをここでは強調しておきたい。
 Yさんからは『済州島で出会った環境哲学』(尹龍澤著、済州大学校出版部、2023年刊)を頂戴した。せめてその序文だけでも近いうちに拙訳してブログに掲載することで、感謝の徴にしたい。
 実は以前にも、彼の故郷である江汀に関しての、「江汀ナンバーワン」という冊子や、石宙明に関する資料集をいただいた際に、勉強がてらその翻訳を試みようと、著者である彼の意向を確認したところ、それは未完なので、近い将来に完成品が書けたら、その時にこそお願いしたいという返事をもらっていたので、今回はその約束の断片たりとも果たしたい。
 彼が済州大学に就職し、学生と学びながら発見・追及してきた環境哲学と何かの大筋だけでも、日本の読者に伝えたいし、それ以上に僕自身が学びたい。彼のような純粋さを持ち合わせない僕なりの、彼の純粋さと忍耐といつまでも夢を失わない強靭な精神力に対する、ささやかな賛歌の序章になればと思っている。
(2024年12月29日12時、24日にアップしたのを一部修正のうえでの28日に再度アップしたが、またしても気になることがあったので、今回は3度目の正直?「師走の済州旅行Ⅲ」に続く)

折々のメモ11 師走の済州旅行1(2024年12月11日~12日)

2024-12-19 14:43:25 | 折々のメモ
折々のメモ11
師走の済州旅行1(2024年12月11日~12日)

1.出発まで(~12月11日朝)
 半年ぶりに両親の故郷であり、僕らの本籍地である済州に、妹と二人だけでは生まれて初めて、しかも東京在住の長女が現地で合流する約束なので、二重の楽しみに年甲斐もなく胸を膨らましていた。或いは、歳をとったからこその感傷だろうか。
 ところが、その一週間ほど前に、ベッドでユーチューブを聞いていると、韓国からの速報が飛び込んできた。非常戒厳の発令というあまりにも意外なことに驚き、夜を徹して韓国情報にかじりつくことになった。恐怖と怒りがこみ上げる一方で、そんな暴挙を阻止しようとする国民、とりわけ若者たちの果敢な行動力に感動して涙を流すなど、まさしく一喜一憂、その繰り返しだった。
 そのうちに、一週間先に迫った韓国旅行は、取りやめなくてはならないのではと考えるに至った。僕が帰宅するまでのほぼ一週間にわたって、自宅でひとり残される妻が僕たちのことでじりじりと心配するだろうし、大騒乱が生じかねないソウルから程遠い済州に限る僕と妹はともかく、東京からソウルを経由して済州に、しかも、帰路にはソウルで二日の滞在まで予定している長女の安全が大いに気になった。そんな心配と迷い、そしてそれに付随する様々な煩悶が尽きることなく、まったく寝付けなかった。
 翌朝になっても興奮は冷めやらず、韓国情報を懸命に追いながら、長女に旅に関する不安や迷いを伝えるメイルを送ったところ、定期的に仕事でソウル出張を繰り返している彼女の方はさすがに、殆ど気にしていない様子で、かえって励まされた。そしてそのついでに、「老いては子に従え」というわけか、旅の中止という選択肢は殆ど消えた。但し、済州の知人たちとの連絡を絶やさず状況を注視しながら、出発の前日まで最終決定を引き延ばすことにした。そして、その前日になると、最悪の事態は避けられそうだったので、予定通りに旅立つことにした。
 出発当日は毎度のことだが、普段よりずいぶんと早く起きて、すぐさま荷物の最終点検を行った。特に旅券と在留カード、そして済州で処理する用件に必須の書類など、先日来、確認を繰り返していたものを、改めてチェックした。
 次いでは、毎朝の日課であるゴミ出しである。ごみ集積場へごみを出すのは朝6時以降と決められているので、その時刻まで待って集積場に<プラごみ>などを運んだ。また、それとは別に、宅配を頻繁に活用するにつれてやたらと増えた段ボール、少しづつ進めている断捨離で、とめどなく増える資料や書籍など紙類の資源ごみは、紐で厳重に巻いて家の前に重ねた。
 少しは何かを口に入れることができそうな感じになってきたので、朝食となった。いつものように、庭のハーブを摘んで散らした野菜サラダと冷凍庫に小分けしてあるご飯、そして残り物の味噌汁を、ゆっくりを心掛けて食べて、コーヒーで締めた。
 最後は、二階の僕の部屋の脇にある僕専用トイレの便器の掃除を終えると、何もすることがなくなった。出発までには時間の余裕が十分にあったが、家でじっとしているよりも家を出てしまった方が気楽だからと、出かけることに決めた。
 玄関で靴を履いていると、妻が二階の寝室から下りてきて、見送ってくれた。
 最寄り駅までの10分余りの大半は、我が家が位置する丘からの下り坂である。僕らが煩悩坂と呼んでいる下りの一部は108段もある階段になっているので、そこだけはキャリーバッグを抱えないといけない。それが少し面倒であること以外は、いたって徒歩には楽な行程である。ところが、この朝は、キャリーバッグのガラガラという音がやたらと大きく聞こえて、沿道の民家に迷惑をかけるのではと、すごく気になった。しかし、そんな心配は敢えて振り切って、キャリーバーグを引きずりながら足早に駅に向かった。
 さすがに7時台ともなると、随分と長らくご無沙汰だった通勤ラッシュである。キャリーバッグを引きづって満員電車に乗るのは申し訳ないし、すっかり隠退老人となった自分のことを改めて思い知るなど、ぼんやり感慨にふけるうちに、三ノ宮駅に到着した。
下車して1分ほどの駅前にリムジン乗り場がある。出発したばかりのリムジンの後ろ姿を見ながら、20分間隔で来るはずの次の便を待つ列の先頭に立った。 
 いきなり煙草の臭いが鼻をついた。今時、公共の場所で煙草を吸う人がいるのかと周囲を見まわしたところ、20mほど離れた道端で、中年男性が煙草を吸っている。それだけの距離で、これほどはっきりと煙草の臭いがするものなのかと少し意外で、その喫煙者がやけに<いじけて><汚く>見えて、それがかつての自分の姿だと、数年前にようやく禁煙に成功した自分の幸運を想った
 煙草の臭いが嫌というわけではない。むしろ懐かしく感じる時もあるくらいだが、煙草の臭いがすると殆ど反射的に、目が<犯人捜し>をしている。喫煙者のことを批判・非難するつもりはないし、そんな資格など僕にはない。なにしろ、以前は寿司屋なんかでも、しかも煙草を吸わない知人と同席なのに、迷惑をかけていることに気付かずに、或いは、そのように意識的に思い込んで、煙草を立て続けに吸っていた自分の姿を思い浮べると、顔が火照ってくる。
 人間はいつだって何かに縛られている。それも自分自身がそのように仕向けていることが多い。喫煙その他の悪癖がその典型だろう。酒なしでは夕食が咽喉を通らず、胃が受け付けないと思い込んで、晩酌をやめられない僕こそ、まさしく酒に束縛されて生きている。そんなことを考えるだけでも、たばこ中毒だった過去の自分と今の自分にはあまり変わりなどない。初老になって体と気力と欲望が萎えたおかげもあって禁煙に成功したが、その程度のことなら、自家製の束縛のほんの一部から脱したに過ぎない。 
 若かりし頃に愛読し、処女作の一節などは暗唱までしていた作家アルベール・カミュなのだが、彼の『ペスト』における「人間はだれだって自分の中にペスト菌を持っている」といった、たえざる自己懐疑を勧めるメッセージを、今も時々思い出す。自己を正義と過信すること自体がペスト菌である。正義を求めることが悪であるはずはないが、その過程にあっても自己懐疑が必須である。懐疑が他者に対する寛容を、さらに自己に対する寛容も可能にする。 
 今回の旅もいろんなことに縛られて生きてきた自分を確認し、そこから少しでも解放される道筋を探すための旅である。そして、その延長上で、僕がこれまでに日本はもちろん、40歳以降に済州で行ってきたことを、長女や妹に垣間見てもらって、その一部なりとも引き継いでもらえればといった願いもあった。そんな手前勝手な思いや理屈自体が僕の自縄自縛の生き方を露呈しているのだろうが。

2.旅立ち(12月11日午前)
 リムジンの三宮から関空へは、ひたすら湾岸の高架道路を走る。それが分かっていたのでリムジンに乗りこむとすぐさま、海が見えやすい右側の窓際の席に腰を下ろした。
 その後の1時間足らず、僕の目はもっぱら、朝日に照らされた海に向き、随所で窓越しに海の姿を携帯で撮った。ところが、途中からは湾岸に立ち並ぶ大工場と倉庫やクレーンに視界を遮ぎられ、海は時折、顔を覗かすだけとなったが、そんな<ちゃち>な海の欠片の光景でも、目に入ると嬉しくなる。
 海を見つけていたせいか、いつもと比べるとずいぶんと早く関空に着いた印象だった。8時20分に乗車して1時間足らずだった。すぐさまTWAY航空のカウンターに向かうと、既に客が行列をなしていた。出発時間の2時間前にならないとチェックインできないはずなのにと、怪訝に思って行列をなした人々の前のカウンター上の行き先表示を見ると、大邱と仁川行だけで、済州行きはチェックインが始まっていなかった。
 妹とは10時に待ち合わせしていて、まだ時間の余裕があるので、混雑する客たちからは少し距離をとって、そんな人々の様子を眺めることにした。
 さすがに日本人と韓国人(そしてもちろん、在日も少なからずいるだろう)が多数派のようだが、予想以上に中国系が多そうに見えた。その中で最も地味に見えるのが日本人と在日、次いでは韓国人で、中国系のとりわけ若者の服装と挙動が目立って派手に見えた。遊び心というか、流行の勢いというか、傍若無人とでもいうか、ともかく、驚く衣装が目立った。そして、それは旅行先の済州でも変わらなかった。
 因みに、以前は在日と日本人とをすごく容易に区別できた。ところが今では、近くに寄って、その人たちが交わす言葉を聞かないと区別が難しくなった。
 妹は結婚以来、30年以上も住み慣れた東京から、3か月ほど前に転居した琵琶湖畔のマンションから、JRの<はるか>で約束の時間よりも少し早くやってきた。新居からの関空の利用は初めてなので、少し心配していたが、大津あたりからJRの<はるか>を利用すれば、料金は少し嵩むが、早くて快適だったらしい。
 フライトのチェックインを済ますと、直ちに出国手続きに入ったが、すべてが実にスムーズに進行した。手荷物からパソコンを出すように求められなかったのは、今回が初めてである。しかし、そこから搭乗ゲートまでがは、半年前とは様子がすっかり変わって、面食らった。
 コロナ禍を間に挟んでの、この5年間の関空構内の変化にはいつも驚かされてきた。コロナの防疫体制以外の多様な変化で一貫するのは、、免税店その他のショップによる利益増大に向けて、何もかもが整備されていそうなことである。空港内店舗のテナントの増収を目指す空間利用が露骨である。高価な免税品売り場が目立って拡充され、顧客の便宜よりも、もっぱらテナント料増収を目的としての施設整備がなされてきた。
 実に些細な例を出すと、済州行きTWAYの乗り場である5番搭乗ゲート近くに、昔からある小さなショップ自体には何の変化もないのぬ、そのうどんの味と価格には呆れた。街の立ち食い店ならせいぜい400円から450円で食べられそうな天ぷらうどんが、なんと1000円を超え、その味も考え合わせるとぼったくりのように感じられる。
 出国手続きを終えて以降は、客の選択肢はひどく制限されるから、店側、さらに言えば、関空会社のやりたい放題で、テナント料が高くなると、自動的に、店舗側としても商品価格を上げざるを得なくなるのだろう。
 そんな風潮はもちろん関空だけのことではない。僕にとって最も印象的なのは、JRの駅構内の店の変化である。新大阪駅や大阪駅構内の食堂が、ここ10年で恐ろしく高くなる一方で、味は反比例して不味くなった。新大阪駅構内の、B級グルメで有名だったし、僕も大ファンだった「浪花うどん」までもが姿を消し、やたらと高い全国チェーンのラーメンやうどん屋がひしめき、どの店も混雑しているので、落ち着いて食べられるわけがない。
 このように、言っても詮無いこと、つまり、愚痴を垂れ流すのが、隠退老人の得意技であり、僕はまさしく偏屈な隠退老人になり果てた。

3.済州第一夜(12月11日の午後以降)
 空港のタクシー乗り場は、コロナ禍下にあって海外に行けない国内客が殺到した結果として、すっかりバブル化して以来、しばらくは継続して価格の高止まりとレンタカーや観光バスやタクシーの確保の困難が続いていた。それと比べれば、今回は少し落ち着いている様子だったが、それでもやはりコロナ以前よりも混んでいそうだったので、タクシーは諦めて、市内バスでホテルに向かうことにした。15分足らずの観徳亭で下車し、そこからは済州唯一の地下商店街を通って東門ロータリーの地下から地上にあがった。
 宿舎は数年前に知人の紹介もあって、「済州の生活文化と歴史のフィールドワーク」の第一回目の際に団体で利用させてもらって以来、すっかり僕の定宿になった大同ホテルである。「ひょっとして北朝鮮の平壌を流れる大同江に因んだ命名でしょうか?」と尋ねたところ、「たしかにそうでも、その大同江と特別な縁があっての命名ではない」とのことだった。  
 創業は1970年頃、当時の写真がホテル内に掲示されている。当時の朴正熙大統領の肝いりもあって、済州島が全島を挙げて観光を中軸産業とする方向に舵を切った頃に創業したわけで、それから既に半世紀が経過している。今でも時折、創業者であるご夫婦の姿も見かけるが、経営自体はその娘さんが引き継いでいる。
 <済州の明洞>(<どこどこ銀座>といった命名と同じ)とも呼ばれた<七星通り>に面し、済州の台所である東門市場と済州の一大水源であった山地川、さらには、島外との物流と交通の要所である山地港、しかも、かつては済州の政治、行政、警察の中心で、今なお観光名所として欠かせない観徳亭に近接する地の利を活用しての創業だったのだろう。
 ロビーでチェックインの手続きをしていると、経営を引き継ぐと同時に、美術専攻の履歴を活かして、ホテルの一角でギャラリーも運営している創業者夫婦の娘さんが現れて挨拶を交わした。
 彼女には以前に、拙著の一部を寄贈して、それがギャラリーの本棚に並んでいる。ある時、その本棚を見ていると、今は殆ど痕跡がなくなってしまった済州城のかつての実態が分かる写真集が目に入って感激したことがある。早速、数多くの写真をカメラに収めて、目に焼き付けた。その他、済州現代における伝統継承に関するアンケート調査にも協力していただくなど、実に多様な形でお世話になってきた。
 部屋に入ったとたんに懐かしく、気分が和らいだ。何よりも広い。シングル1泊5500韓国円(現在のレートなら6000日本円ほどの低価格で、特に3階の部屋の場合は、窓の外に大きなテラスがあり、そこでも外気に触れながら寛げる。バスタブや水回りも普通よりも大きく清潔感がある。2か月ほど前に出張で泊まった札幌のアパホテルはまるで牢獄だったが、その半分以下の価格で広さは2倍以上である。ラウンジに備え付けられた電子レンジ、トースター、コーヒーメーカー、食器などを活用すれば、市場で買ってきたもので、十分にくつろぎながらの食事、さらには団体の宴会も可能である。現に僕らはフィールドワークの際には、そこで遅くまで飲みながら談論を楽しんだ。
 各自の部屋で荷物整理が終えると、二人で整備がしだいに進んですっかり装いが代わった山地川沿いの落ち着いた公園を散策して、心身と肌に済州の空気をなじませてホテルに戻ると、旧知のKUさんが約束していた時間きっかりに、ホテルに来てくれていた。
そこで車はホテルの駐車場に置いて、3人で近くの金万徳記念館の横にある、昔風の藁ぶきの家屋(その昔、金万徳が財を成すきっかけとなった客主、つまり旅館と食堂を兼ねた店を再現した建物)の一角にある食堂に入った。
 上でも触れた「済州の生活文化と歴史のフィールドワーク」の2回目の最終日には、そこで昼食を楽しんだことがあり、その時には、次は是非とも夕食もと、願っていた。前回はなにしろ昼食だったから、海鮮チジミとモンクック(済州の伝統の宴会などで供されるスープ、豚肉の出し汁に海藻)と済州の生マッコリをほんの少しだけ味わっただけだが、今回は夕食だからと、定食2人前(豚肉がたくさん入った野菜炒め、焼サバ、みそ汁、ご飯、その他の副菜)に加えて、すごい量の海鮮チジミ、どんぐりのムックの和え物、そしてマッコリを、失礼になるからあまり残さないようにと懸命に食べ、飲んだ。そのあげくには、マッコリは1本では足りずに、2本をほとんど僕一人で飲みほしてしまった。そのせいで、ついつい、胃腸に多大な負担をかけることに。初日に、このような馬鹿をするのがすっかり癖になって、毎回、苦しみながら後悔するが、改善の見込みはない。
 ともかく、3人で大いに話した。妹とUKさんは初対面だったが、どちらも初対面などとは思えないほどに気楽に話し、満足の様子だったので、僕も嬉しかった。
 UKさんはその日が冬の長期休暇前の最終授業日で、翌日からは本土(陸地、ユㇰチと呼ぶ)への旅行の予定だったから、ぎりぎりに会えてよかった、と言ってくれた。
 因みに、彼女はいつでも意外なこと、面白いことを言ってくれるので、大いに励まされるのだが、今回も僕のブログに関して、他の人なら誰も言いそうにないことを言ってくれた。
 玄さんのブログには殆ど写真がなくて、そんなブログは今時珍しい。普通は写真を説明するためにだけ文章があるといった感じだから、むしろ希少価値があって注目を集めるかもしれない、と言うのである。僕にはそんな意図などなくて、読者にとっては面倒極まりない稚拙な文章を長々と書いているだけなのは、それしかできないからである。
 当初は、写真の載せ方すら知らなかったが、その後に、写真のアップの仕方を教えてもらって、少し試してみたが、それは気まぐれに過ぎず、長くは続かなかった。
 そもそも、僕にとってのブログは、読者はもちろん想定しているが、しかし、読者が中心なのではない。むしろ、僕自身の自対自の対話を、読者の目も意識しながら文章で展開することで、自己に関する認識を深めることが最大の目的であり、まさに<自己中>の骨頂なのである。
 書くことは自分が少しでも納得して生きるための<方便>であり、そんな方便を辛うじて見つけ出せたからこそ、40歳代の生きがたさを克服できたし、それから30年以上にわたって書くことを糧として生きてきた感がある。
 ブログの文章は僕にとって、生きるための糧であり、だれの役にも立たなくても、僕の役には立ってきた実感があるので、今後もそれに頼って生きるつもりである。
 従って、KUさんの言い方は必ずしも僕の意図を言い当てているわけではないが、そのように言ってくれる人がいること自体は、なんともありがたいことである。(2024年12月19日15時 アップの直後に一部修正して再アップした。折々のメモ11、「師走の済州旅行Ⅱ」に続く)

折々のメモ10、朝鮮通信使関連と川口居留地など

2024-12-06 08:44:30 | 折々のメモ
折々のメモ10
アップした一日経過すると、大事なことを書き忘れていたことに気づき、修正を加えたものが、以下の通りです。いつもがさつなミスばかりで、恐縮です。

「塚崎昌之さんの資料に導かれて、在阪朝鮮人の歴史を歩く」
第7回『朝鮮通信使の跡地・大阪の「近代」化と川口居留地・松島遊郭と第一次大阪大空襲』

はじめに
 今回は塚崎さん資料の一部として、「コース概要のワードファイル」が残されていたので、それをペーストしたうえで、各訪問地概要の後に、【  】の形で、僕のコメントを書き足す形での報告とする。
 塚崎昌之さんの生前にその概要の説明を公開する許しを得たわけではないので、迷ったが、塚崎さんは自らFWガイドをする際には、このようなコース概要を含んで、毎回、量的には約20倍の新聞資料を基本とした資料を参加者全員に配布していた。そして僕が知る限りでも今回のコースは既に最低2回は、本人がガイドをしていた。したがって、既に多くの人が目を通し、それに学びながら街歩きを楽しんだものなので、その公開の許可を得たのと同じものとして、利用させていただくことにした。
 参加を希望しながらも、多様な理由でそれができなかった人々も、その概要を読めば、一緒にFWを楽しんでもらえそうなので、塚崎さんの遺志に叶うことになるとも考えた。記して、塚崎さんに重ねての感謝の気持ちを表したい。

1.集合日時と場所:2024年12月1日(日)13時。JR西九条駅改札。

2.参加者:姓名は省いて、男女や年齢層と民族や国籍や出身地などを指標として記す。ジェンダーその他のバイアスの危惧もあって、この種の情報を公開するのは慎むべきかと躊躇った。しかし、僕のような旧時代の思考の持ち主には、この種の情報があった方が、街歩きの様子が想像しやすくて重宝するという個人的事情を根拠にして、事前に参加者の許可を得ないままで申し訳ないのだが、今回は僕の責任で記すことにした。
 参加予定者は14名だったが、体調不良で1名の欠席だったので13名が参加した。但し、そのうち1名は所用のせいで、途中の安治川沿岸で無事に合流できた。
 男女別では、女性が5名、男性が8名。世代別では、正確さに自信はないが、僕の見当で言うと、50歳代、60歳代、70歳代のそれぞれが4名ずつ、そして、30歳代が1名。エスニシティとしては、日本人が9名、但し、そのうちの一人はルーツである沖縄に行ったことのない在日沖縄人二世、その他、在日朝鮮人二世が3名、中国朝鮮族が1名だった。

3.天候は晴れ、風もなく、この季節にしては理想的な街歩きの天候で、ここ半年のFWでは、雨の心配がなかったのは珍しい気がした。

4.コースの概要
 上でも記したが、以下は塚崎さんが遺してくれたコース概要説明のファイルをペーストしたが、各項目の概要説明(塚崎文)の後の【 】で挟んだ部分が、僕らの当日その他の印象や記憶に基づくメモです。

① 安治川トンネル 
 1935(昭和10)年に安治川の河底を自動車と人間が通るためのトンネル工事が計画されたが、技術的困難・資材不足から1944(昭和19)年9月15日にやっと開通した。深さ17m、全長80mに及ぶ。自動車もエレベーターで河底まで降ろすという珍しいものであった。車道は1975(昭和50)年に閉鎖となったが、歩道は現在も1日6000人が利用している。
 大阪港へ連行された中国人強制連行者もここを通って就労場所へと向かわされた。大阪港周辺が昔の様子を残さない現在、当時の大阪の風景を思い出すことができる唯一の施設である。

【僕はこの地下通路を通過するは今回が3回目である。前の2回は20年以上も前で、一回は徒歩で、二回目はサイクリングで「大阪の渡し船めぐり」だったからか、その2回と今回では印象がすごく違った。僕の記憶の問題なのか、或いは、その間にこの地域の景観が大きく変化したのだろうか。サイクリングの時は、さすがに、自転車と共にエレベーターに乗って地下に降りて、川の下を通過して、改めてエレベーターで上昇して地上に出るなんて初めてのことだったし、自転車に乗って次々と渡し船を巡るのは、楽しく、大阪の湾岸近くの川の光景も刺激的だった。他方、或いは安治川べりを歩いた時には、宮本輝の小説で映画にもなった『泥の河』のイメージに影響されて、安治川べりの暗い雰囲気だけが記憶に強く残ったが、今回は天候が良かったせいか、むしろ明るさとかつての栄光の痕跡を通して過去を見る感じが強かった】。

② 富島地区
1684年(元禄期)から、河村瑞賢による4年をかけた安治川開削によって誕生した。明治期には大阪商船の本社などが置かれ、大阪の玄関として繁栄した。1903(明治36)年、築港の完成とともに寂れていったが、戦前は四国・九州への旅客船が発着したほか、多くの煉瓦造りの倉庫が置かれた。最後まで残っていた三井倉庫も2014年にその姿を消した。
 また、富島の一角には1878(明治11)年完成の富島天主堂があったが、1945(昭和20)年6月の空襲で消失した。

【上に記されているように、過去を窺わせるものはほとんどなかったが、冨島天主堂の碑が、今ではカトリック系の幼稚園のすごくお洒落な建物の柵内に発見したし、その柵の基石部分が、かつての天主堂のそれのような、古い赤レンガだった。歴史を知ってみると、その現代的な建物の何とも言えない品格のようなものも、納得できそうに思えてきた。】

③ 大阪開港の地
 1867(慶応3)年の大阪開港とともに、運上所(1872年に大阪税関と改称)が置かれ、明治期の重要人物である陸奥宗光が会計官権判事、五代友厚が外国官権判事を務めた。1920(大正9)年に大阪税関は築港に移転し、出張所が置かれていたが、2008年に閉鎖された。1870(明治3)年には、大阪―神戸間を結ぶ電信が設けられ、電信局も置かれた。

【開港地と電信の碑、そして明治天皇に関わる碑が沿岸に建てられていた。】

④ 雑喉場市場跡、江之子島周辺
 江戸時代、大坂は「天下の台所」と呼ばれていたが、それを支えたのが、堂島米市場、天満青物市場、雑喉場魚市場の三大市場であった。雑喉場魚市場は百間堀川の東側にあり、昭和初期まで活気のある市場を形成した。1931(昭和6)年に中央卸売市場が完成し、市場はそちらに移転した。戦後、百間堀川も埋め立てられ、往時の繁栄を偲ばせるものはない。
 川口居留地と木津川をはさんで、向かい合わせになる江之子島には、明治・大正期に大阪府庁があった。府庁舎は1874(明治7)年に完成。居留地側に門を開いた正面玄関には4本の円柱が並び、屋上のドームには大時計がある洋風煉瓦作りの庁舎であった。その豪壮さから「江之子島政府」とも呼ばれた。1926(大正15)年、中央区の現庁舎に移転した。
その北隣には、1899(明治32)年から大阪市庁(1889年に大阪市が成立・10年間は府庁内に市庁があった)が置かれたが1912(明治45)年、堂島庁舎に移転した。

【上で記された過去を偲べるものは、僕自身には何もなかった。しかし、落語家の<ざこば>という名代に関係する場所に来たのかというどうでもよさそうな感慨もあったし、江の子島なんて地名も初めて目にするものだったし、地元の人にとっては過去の記憶とか伝承が残っていそうな気もした。それはここだけのことではないだろうが、周辺の橋などには過去についての碑が随所にあって、その説明や写真や絵などで、過去が少しは偲べる。やはり、そうした記念モニュメントにはそれなりの意味があると再確認させられた。】

⑤ 西洋人の町・川口居留地
 1867年末(太陽暦1868年正月)に、大阪が開市・開港した。翌1868(明治元)年7月、約4万5千㎡が欧米人向けの居留地として売り出された。馬車道と人道が分けられ、ユーカリなどの街路樹も植えられた。商館にはベランダや鎧戸つき硝子窓が設けられ、テニスコートを備えたものもあったという。1873(明治6)年には、対岸の野田との間に船が通れるように橋の中央が跳ね上がるモダンな安治川橋も造られた。
 しかし、河口から5キロも入り、大型船が接岸できないため、商人たちは次第に神戸に去っていった。その後には、キリスト教布教を目指す宣教師たちが入り、教会・学校・病院等が建設された。現在、1920(大正9)年に建設された川口基督教会の礼拝堂が残る。信愛女学院・大阪女学院・平安女学院・プール女学院などの大阪・京都の代表的なミッション・スクールがここから生まれた。1899(明治32)年には居留地が廃止され、その後は日本の船・貿易会社の建物や現存している6階建ての住友倉庫などが建てられた。

【居留地は今でも広大な空き地を確認できたが、これも早晩、民間に売り飛ばされるのではないかと心配になった。その日か翌日のテレビで、大阪の都心の小学校などの悲惨な状況、つまり、学校の統廃合で余った学校跡地をマンションなどに売り払ったが、その跡地に立ったタワーマンションに住み始めた若夫婦の子どもの数がすごく増えて、残された学校がただでさえ狭い校庭に校舎を次々と建てることを余儀なくされた結果、校庭が殆どなくなった。そこで、学校から片道20分を越えたところまで移動しないと体育の授業ができなくなっていると言う。その問題が今後20年以上も解決の目途が立っていないらしく、維新の都市行政、公共財産の売り飛ばしなどの<改革><予算カット政策>の矛盾がそこまで露呈しているのに、それが大問題にならないなんて・・・安治川橋その他に、いろいろと碑が立っているし、とりわけ川口教会は今でも実に優雅な姿で建っており魅力的だった。】

⑥ 中国人の町・本田(ほんでん)雑居地
 大阪開港とともに、広東・福建出身者が来日し、砂糖・米を商ったり、欧米人の賄い人として日常生活の面倒を見た。欧米人対象のクリーニング屋やパン・牛乳屋、ラムネ屋、豚肉屋などを最初に経営したのも彼らである。欧米商人の神戸移住とともに、彼らも神戸へ移っていった。その後は、次第に華中出身者が増え、日常生活品を売捌く行商人などとして活動した。
日清戦争後、大阪での紡績業の発展とともに、綿布を取引する華北からの来阪者が増える。その貿易商機関として、1895(明治28)年に大阪中華北幇公所が設けられる。彼らの多くは行棧(ハンサン)という商取引のための独特の寄宿舎に居住した。最盛期には1700名以上の中国人が居住していた。
 それとともに、大規模な本格派の北京料理屋が何店も開業した。中国人だけではなく、日本人の接待にも多く利用された。また、川口小学校には中国人生徒が学び、隣接地には中国人児童専用の北幇公所附設振華小学校が設けられた。
 戦時中、日本に残った中国人やその子どもは、日本への「忠誠」を誓うために、靖国神社・伊勢神宮・橿原神宮参拝など、様々なパフォーマンスを行わされた。本田地域は3月13日の空襲で壊滅。現在の三大中華街である横浜・神戸・長崎とは異なり、戦後は昔の繁栄が戻ることはなかった。

【何代も続く北京料理店があって、レトロ趣味の流行もあって人気らしい。小学校の名前その他で過去が少しは偲べそう。】

⑦ 旧松島遊郭跡
 大阪開港とともに、居留地隣接地の開発と大阪市内の散娼整理、外国人による風紀犯罪防止などの理由をつけ、戎島(戎は外国人の蔑称ということから松島に改称)に遊廓建設が始まった。1869(明治2)年には松鶴楼と呼ばれる洋風3階建ての建物が作られ、大阪名物となった。大阪府が外国人客を招くために作り、業者に貸与したものである。
大阪府の強引な指導で、遊廓の営業は軌道に乗り始めたかのように見えた。ところが、1872(明治5)年のマリア・ルーズ号事件から芸娼妓解放令が出されたこと、地理的な不利から一時沈滞した。その危機も1877(明治10)年の西南戦争で一掃、戦争景気に沸きかえった。この頃は年端のいかない13、14歳の子どもまで使用されていた。
その後は順調に「発展」をとげ、大阪一の遊郭として、1927年には貸し座敷約260軒、娼妓3700人、遊客数も1日平均5600人を数えた。
 日中全面戦争の開始とともに、娼妓たちにも国防献金・橿原神宮建設への勤労奉仕・ラジオ体操の励行などが課されるようになる。しかし、戦争末期も営業は続けられ、松島遊廓が壊滅する1945(昭和20)年の3月13日の第一次大阪大空襲のときも、180軒1300人が営業していたといわれる。空襲により娼妓たちもかなりの犠牲者がでたようであるが詳細はわからない。あでやかな着物で木津川に飛び込み、果てた者もいた。一部の娼妓が竹林寺に無縁仏として葬られている。

【今回、特には何も確認できなかった。】

⑧ 朝鮮通信使の跡地
江戸時代、日朝間の「信頼を通わす」ための朝鮮通信使の来日は12回に及んだ。瀬戸内海から大阪までは通信使の6隻の船をはじめ各藩の随行船等で300隻以上を数えたといわれる。500名に及ぶ通信使一行は、初期は川口の北端(現在の住友倉庫付近)にあった舟番所で川御座船に乗り換え、難波橋から大阪の街中に入り、西本願寺(津村別院・北御堂)に逗留。大阪の文化人たちとの交流を行った。
 大阪から淀までは豪華絢爛な川御座船、御楼船など150隻の船が淀川をさかのぼり、一大絵巻を現出した。その光景を一目見ようと多くの人たちが見学につめかけた。また、船を川上に引き上げるために、近隣の住民が動員された。
 竹林寺には、1764年の宝暦の通信使の随員として来日しながら、病気のため竹林寺で死亡した金漢重(キムハンジュン)の墓がある。また、同じ一行で来日し、西本願寺で通訳に殺された崔天淙(チェチョンジョン)の位牌もある。この殺人事件は、事件3年後の1767年には「世話料理鱸包丁」、1789年には「漢人韓文手管始」として芝居で上演された。
 松島遊廓の跡地にあたる松島公園の敷地には、「九条島と朝鮮通信使」の碑が建てられ、日本人の暖かい配慮の中で息をひきとった金漢重の辞世の歌や、死をいたんだ当時の竹林寺の住職の歌などが刻まれている。

【通信使については、何よりも川が残っていることで、少しは過去を偲べるし、竹林寺の通信使の墓の存在が大きい。竹林寺は、狭い空間に墓碑の満員御礼状態だったが、朝鮮通信使関連の訪問者が定期的にいるのか、丁重な案内板などもあった。松島公園の碑は子どもの悪戯なのか、ひどく傷つけられていた。】

⑨ 第一次大阪大空襲と西区
1945(昭和20)年3月13日から14日にかけての第一次大阪大空襲は、B29・274機の編隊が1773トン、30万発に近い焼夷弾を投下した。13万戸以上が焼失、4000人以上が死亡したが、犠牲となった地域の多くは一般住民の住む地域であった。西区西部もほとんど燃え尽きたが、現在、空襲の傷跡が残るところは茨住吉神社の焼楠、竹林寺の焼地蔵などわずかである。
【特に記せそうなことは何もなかった。】

⑩ 現松島新地と九条新道
 松島遊廓の発展とともに、1897(明治30)年、九条新道が花園橋と源兵衛渡を結んで作られ、1903(明治36)年には花園橋―築港間5kmに最初の大阪市電が創業した。花園橋周辺は西の心斎橋とも言われ、大阪一の繁華街となっていく。しかし、その繁栄も空襲で灰燼と帰した。
 1946(昭和21)年8月、九条新道周辺の地主が九条復興のためと、復活を模索していた松島遊廓の九条誘致を計画。1947(昭和22)年夏に「二十軒」が営業を開始する。1956(昭和31)年には業者157軒、接待婦820人を数え、飛田に次ぐ赤線地帯となっていく。同年5月21日に公布された売春防止法の影響で大打撃を受けたが、1958(昭和33)年に料理組合として「再出発」した。現在、料亭・待合が100軒近くある。

【「松島運営組合」などの看板が掲げられたストリートとその周辺の店の雰囲気には、さすが、といったものがあって、僕ら、特に女性が近寄るのは憚られる感じだった。道路を隔てたところに位置し、廃墟みたいに見えるラーメン屋とこれまた店じまいしていそうな
Tricolore(トリコロール)とフランス語でお洒落に記された喫茶店、その二つの古ぼけているだけに粋な風情を醸し出している店舗に興味をそそられた。打ち上げは<草鍋>という野菜主体の料理が売り物で、皆さんはおいしいと喜んで食べていらしたが、僕は胃腸の状態が悪くて、殆ど食べられなかったし、おしゃべりとアルコールに入れ込んでしまった。しかし、それは毎度のことなので、特に書くことでもない。】

【総評:時間的に余裕があったので、山本珈琲というコーヒー豆を焙煎して喫茶店などに供給する会社として、僕のような素人でも名前くらいは知っていた会社の直営店があって、今時、スペースに無理がなくて寛げる空間がありがたく、それぞれに座った仲間たちが、話の花を咲かしていそうで、よかった。
 酒席での話などすっかり忘れてしまうので、酒気のない場所や街歩きしながらの雑談のほうが記憶に残る。今回は朝鮮人の歴史の痕跡というより、大阪の街の近現代史の痕跡を訪ねることが主テーマのFWだったが、それはそれなりの魅力があるなあと、改めて思ったし、それもこれも塚崎さんの懸命な研究やFWの積み重ねの成果のおかげである。改めて感謝したかった。次回は新年を迎えて以降になるが、その一番手としては、近場の街歩きを検討中です。請う、ご期待のほどを!
 追伸1:居留地の跡の川べりで生コン労組本部の建物に遭遇した。その労組は、生コン労働者の権利のために戦闘的に戦って、生コン労働者の激烈な支持を得ていたのだが、資本と行政と、とりわけ、警察の厳しい弾圧を食らい。その隙に力を握った資本が、折からの万博で生コンの値を釣り上げて、その利益の一部を万博推進の党派に寄付していることが話題になったのは、まだそれほど過去のことではない。その痛めつけられた生コン労組の建物を持て、まだ頑張っているのだと、少しは励まされる気がした。
 追伸2:打ち上げの店の売りとなっている草鍋について。僕らの仲間の一員がかつては大阪市役所のエンジニアで、その先輩筋ではその草鍋がすごく人気だったのに、まだぺいぺいの時代だったから、一度も食べる機会がなかったのに、それから30年以上も経って、ようやく食べることができ、その味が期待以上だからと、すごく喜んでいるのを見て、僕も嬉しくなってきた。店名は忘れたが、若い店主の応対の切れが良くて、僕は好きなタイプの店だったから、いつかまた訪問したくなった。】


折々のメモ9 第6回「故塚崎昌之さんの資料に導かれて、在阪朝鮮人の歴史を歩く」(仮称)報告

2024-11-02 10:35:02 | 折々のメモ
折々のメモ9
第6回「故塚崎昌之さんの資料に導かれて、在阪朝鮮人の歴史を歩く」(仮称)報告
                                  文責:玄善允
 標記について、世話役の一人として、しかしながら、あくまで個人的覚書としてなどと、相変わらず中途半端な立場ですが、とりあえずの報告です。
 内容に関して、読者の皆さん、とりわけ、今回のFWの参加者の皆さんからの異論や訂正や助言をいただけたら、それを反映した版を作成するつもりでいますので、忌憚のないご意見をよろしくお願いします。現場を歩きながらのワイワイガヤガヤなど、相互扶助、相互批判が僕らの強みであり、楽しみです。

A:概況

テーマ:大正区・消えた朝鮮人の足跡
日時:2024年10月27日13時JR大正駅集合

参加者;参加予定者は12名だったが、当日になって体調不良などで4名から欠席の連絡をいただいた。その他に、途中までの参加という限定付きの申し込みで、実際にもそのようになさったのが1名。したがって参加者は8名だが、最後まで一緒だったのは7名。

初参加の方はひとりもおらず、全員がこれまでに参加したことがある人たちで、そのうちの6名は済州FWにも参加した人たちだった。

個々にいろんな事情があって、仕事の都合で日曜日だけ、体力その他の問題があって、行程のアップダウンや距離などで難易度高くなれば参加が難しい方も今回はそうした不安はなさそうなので、久しぶりの参加という方もいらっしゃいました。今後も、そうした多様な参加者の多様な事情にも配慮して、企画を立て、できる限り多くの方の欲求を満たしながらの現場歩きを楽しみたいものだと、改めて思いました。

コース;僕らが全面的に依拠している故塚崎昌之さんによって作成された資料(以下、塚崎資料)では、下記のコースが設定されていましたが、今回はいくつかの点で、それとは異同がありました。

訪問順序が違ったり、時間その他の事情などで省いたりした場所があります。或いは実際には訪れたのに、僕個人がうっかりして、そのことに気づかなかったり、塚崎資料で言及されている場所なのかどうかの確認ができなかった場合もあります。

そんな点に関しては、塚崎さんが存命だったならばなどとついつい考えがちですが、<たられば>の未練がましさとはきっぱりと縁を切って、塚崎さんへの依存から少しでも抜け出して、自分たちにできる範囲で、自分たちのやり方で続けようというのが、本シリーズ企画の当初からの申し合わせでした。そして、実際にそのように努めてきたし、今後もそのラインであまり無理がないような形で努力したいと思っています。

上で触れた塚崎資料に記載されたFWコースは以下のとおりです。
① 大正駅集合→(バス)→②大運橋・大阪初の飛行場だった木津川飛行場跡を望む。→③南恩加島十六地蔵モニュメント→④屠場・塵芥焼却場の横に作られた木津川隣保館跡→⑤朝鮮人強制連行者が働かされた日本製鉄大阪工場(現大阪製鉄)→⑥第一次世界大戦時ドイツ兵俘虜収容所跡→⑦落合上渡船乗船→⑧「船囲い場」跡地→⑨戦時中の金星丸爆発事件現場→⑩朝鮮通信使と難波島→⑪日本での紡績業発祥地・大阪紡績三軒家工場跡→⑫大正駅周辺の朝鮮通信使跡地(岩崎橋公園・大正橋公園)→大正駅

 他の参加者の場合はどうなのか定かでないが、僕自身は⑦から⑫は訪問を確認できなかった。中でも⑧、⑨、⑩、⑫は、朝鮮通信使に僕があまり関心を持っていないという個人的事情もあってのことだったが、⑪は今回の行程からは抜けていたのかもしれない。その他、④については、それらしきところに遭遇したが、それが塚崎資料で言及されているものなのかどうか定かでなかった。それでも、僕にはすごく印象深かったので、後に詳しく触れる。
 今回はタイトルも如実に示しているように、消えてしまった朝鮮人の痕跡を少しでも見つけ出して、確認することが目標だったので、それが難しいことは端から予想されていた。
 それでは、何故に<消えた>かについては、主な理由が二つある。一つは、行政など公的な歴史記述が、朝鮮人の歴史とその痕跡をすべてなかったものにする立場を一貫してきたからだろう。
 もう一つは、その後に地域を襲った大阪大空襲や解放直後の祖国帰還その他に加えて、国策的重(化学)工業の大企業その他が、朝鮮人強制連行者や朝鮮人労働者の名簿を、証拠隠滅のために消却してしまったのか、或いは、隠蔽し続けてきたのかは明らかでないが、ともかく殆ど残っていないために、歴史記述に大きな空白が生じていることである。要するに人為的なものである可能性が高く、そうした傾向は今後もさらに進むことが予想される。
 それだけに、僕らのようなささやかなFWでも、そうした潮流に<抗して>、という意味を帯びる。当人の僕たちが意識しなくても、おのずとそういう性格を帯びることになる。
他方、銘板などモニュメントがあったとしても、それは日本人にとって美しい記憶だけを、或いは、美しく粉飾を施した物語を国民に刷り込むために、行政や民間の総意で<創作>されたものという側面が否めない。
 もっぱら国民教化のための<集合的記憶>として残したいものだけが、或いはそれに抗して辛うじて残されたものが、モニュメント形で確認できる。それだけに、それらのモニュメントの裏に隠蔽された歴史(モニュメントを残した主体とその経緯)に思いを巡らせるつもりがなければ、FWも偏向した歴史的虚構の片棒を担ぐことになりかねない。 
 例えば、外国人俘虜に対する日本軍や日本人の美談に限ってメディも話題にするが、その問題性には気づかないどころか、知らないし、気づこうとする気持ちもない。そうしたことの問題性を明らかにすることが歴史家の仕事だろうし、例えば、塚崎資料はそうした実態を厳しく批判している。
 FWは主体的に歴史に関わろうとする営みなので、痕跡が見つからなければ、それは自分の目や知識やそれらの総体としての<勘>の欠如や不足のせいだろうと自省する契機になりうる。いつかは痕跡が見えてきたり、想像できるようになるかもしれないと、かすかな期待を更新しながら、またいつか誰かと、或いは一人で歩いてみればよい。その時には、新たな何かが浮かび上がってくるかもしれない。FWは一回限りではなく、繰り返すことによってますます意義を募らせる。

 予定の集合場所に参加予定者全員が集まったことを確認した時点で、世話人としての役割の半分は終わったも同然と、一息ついた。今回は遅刻者が一人もいなくて気をもまずに済んだ。しかも、屋外のイベントではいつでも大きな心配の種になる天気も、なんとか持ちそうだったので、お天道様に感謝した。無宗教で敬虔さとも、生臭い現生御利益などを願う心性とも程遠い僕には珍しいことである。ともかく、ようやくFWが始まった。
 先ずは、駅前に掲示してあった地図板を前にして、いつもガイド役を引き受けてくださる高野昭雄さんによる、地域の地理とその日のコースについての概略的説明を受けて、直ちにバスに乗りこんだ。目的地は僕らのFWの始発点である。
 それから約3時間後の16時半頃には、なんとなく沖縄の気配がするし、沖縄出身らしいおっちゃんたちの姿がちらほら見える商店街を、買い食いなども楽しみながら通り過ぎた。そして、その外れの、先ほどまでお祭りでもしていたらしい公園の前の、沖縄料理が売り物の食堂に入った。
 店の主人夫婦は、いきなり舞い込んできた僕ら一行の次々の注文に慌ただしいせいで不機嫌になったのか、「さっきまで祭りの団体客で忙しかったから」などと少し不愛想に思えたが、やがては、素朴でけれんみのない応対をしてくれるようになった。ミミンガー、ソーキそば、チャンプルーなど沖縄料理を味わいながら、無事にFWを終えたことを祝った。
 ひたすら泡盛を飲み続けて、ひどく酔っぱらう者もいたが、そんな酒癖を癒す薬など、あるはずがないので、致し方ない。
 2時間足らずで打ち上げを終えて、バスや車で大正駅に向かった。5人はそのまま帰路につき、残された僕ら2人は駅周辺で延々と飲み続けた。そのせいで、帰路の電車では大変な混雑に巻き込まれて今浦島の気分になったし、毎度のことながら、翌日は宿酔いで終日、苦しんだ。

B:塚崎資料とFWをあわせて考えたこと
1. 大正区と朝鮮人の関係の特殊性。
 戦前戦中では大正区は東成区に次いで朝鮮人の居住率が高かった。それに西成区と東淀川区もあわせた4つの区が、大阪における朝鮮人4大集住地だった。それにも関らず、大正区の公的な歴史では、その事実に関する言及は皆無で、そのせいもあってか、一般にもその事実が殆ど知られていない。その著しいアンバランスは、日本における朝鮮人に関する一般的状況でもあるが、大正区はその最たるものである。
 ドイツ人俘虜収容所に関しても、その実態は知らされておらず、人々は興味を示さない。ほんの一部の情報として、美談に限って語られても、その処遇のひどい実態は黙殺されてきた。しかし、そうした西欧人俘虜の場合は、まだ恵まれている。アジア人とりわけ、中国人や朝鮮人に対する処遇はさらにひどい。日本の西欧観、アジア人観、そして日本人観の三位一体が孕む問題性は日本近現代の問題の中核にある。
 塚崎さんの言動や研究には、そうした日本の公私にわたる歴史認識の歪さに対しての、歴史家、教育者、そして市民としての怒りが一貫しているが、今回の塚崎資料では、それがひときわ色濃い。

2. 大都市の沿岸地域
 僕のこれまでの見聞の限りでは、堺市、西成区、大正区、西淀川区、尼崎市、川崎市、広島市などの湾岸地帯には、重工業、重化学工業の大工場が密集するが、とりわけ大正区はもっぱらそのためにだけ発展してきたような雰囲気がある。それだけに、日本近代の富国強兵政策の最前線として、ダークヒストリーが数多く秘められている。
 今回の最初の訪問地となった木津川沿岸に位置する中山製鋼所の周辺では、そうした地域的特性に圧倒された。木津川の渡船場は今でもそれなりの落ち着いた情緒があるが、その地帯にはかつて、あまりに高い煙突が林立するので、せっかく造成した木津川飛行場の飛行機の発着が危険で、事故が頻出した。その結果として、後発の伊丹飛行場などに役割を譲って廃止された。そんな木津川飛行場の盛衰の歴史がすんなり納得できる大工場地帯である。

 中山製鋼所の頑丈に閉じられた正門から中を覗き見ると、一見して創業者らしい人物の銅像があり、僕らの一行の誰かが、軍服を纏いサーベルを持っていると言った。そこで、念のために、携帯で写真を撮って、それを拡大してみると、軍服ではなく国民服で、サーベルではなく杖であることが判明した。しかし、そもそも国民服は軍服に似せて作られたもので、軍民が一体だった軍国主義時代の重工業の大工場のトップともなれば、軍人と似たようなものだったはずで、軍服やサーベルと見誤ったこと自体は、それほどたいした問題ではない。

 しかも、現場をいろんな人と一緒に歩くということは、そうしたことにこそ面白みがある。ワイワイガヤガヤ、ほんの思いつきでも言葉にしてみて、自分でその思いつきについて再考する。或いは、同行者がそれについて、自分の知見や経験に基づく意見を述べるのを聞きながら、思い込みを修正するなどもしながら、現実に対して複眼的にアプローチする。その先に真実があるかどうかは分からないが、間違いもまたFWの楽しみの一つである。僕はそのように考えるからこそ、いつもFWを心待ちにしている。
 それはともかく、第一次大戦時のドイツ軍俘虜に対する過酷な処遇、朝鮮人の強制連行その他が、行政の公式の地域史の記述から完全に抹消されることによって、二重の犯罪的行為が継続されている。現場にはそんな重層的な歴史が深く刻印されているはずなのだが、それを読み解いて、私たちが受け継ぐ歴史とするのは難しい。しかし、その方向での努力はいつの時代にも少数の誰かによって担われてきた。僕らもその一翼を担えたらいいが、そんな大層なことばかり考えていると、足が重くなりすぎるから、ともかく、いろんなことを考えながら、おしゃべりも、歩きも楽しむことが僕らのFWの大原則である。
 以下の個別的な記述も以上のような視点を参考に理解していただければ幸いである。


3. 不法占拠を盾にして住居から立ち退かされた困窮朝鮮人向けの低家賃住宅?
 次の目的地に向けて歩いているうちに、(財)内鮮協和会(大阪府、朝鮮総督府、一般の寄付)によって、貧困朝鮮人のために建てられた隣保館と公共住宅の名残ではないかと思える建物群に遭遇した。1列が15軒ほどの長屋が4列、2列ずつ向かい合っている様子が、なんだか懐かしく、その一方では異様な感じだった。
 懐かしく感じたのは昔、僕らの界隈でも同じようなものを見かけた残像なのか、或いは、偶然に目にした界隈の雰囲気が僕に掻き立てたノスタルジーが創りあげた虚像なのか定かではないが、ともかく、不思議な感じだった。今の僕らが生きているのとは異なる時代の世界が突如として出現した感じとでも言えばよいか。特に目を惹いたのが。各戸の前に立てつけられた物干し。
僕は直ちに、それだけの長屋群を建造したのは、民間ではなく、公共機関ではないかと思った。そして、塚崎資料で写真付きで言及されている、不法占拠を盾にして住居から追い出された困窮朝鮮人を救うために、協和会が造り低家賃で貸した住宅の名残ではないかと考えた。
 しかし、それが正しい推察かどうかは分からない。むしろ、せっかくのFWに来たからには、何か<獲物>(目立った成果)を見つけ出したいという、浅ましい下心の産物なのかもしれない。

 そもそも、塚崎資料によれば1929年に建造されたとされる木造家屋群が、今も生活できる形で残っているとは、考えにくい。それに資料にある写真と似ていそうで似ていないところもある。それでも十分以上の歳月を感じさせるし、既に誰も住んでいない家もあったし、屋根の瓦が落ちてきそうで危険な家もあった。
 塚崎資料では、建造当時は5棟74戸、一軒が6畳一間で押し入れ付きとされ、ガラス窓もある写真が掲載されているが、家の軒前に物干し設備が建付けられた長屋群が、果たして、それなのかどうか、確かなことは分からない。
 塚崎資料ではさらに、その周辺には1943年当時、朝鮮人人口が約1350名、その多くが慶尚南道出身で、大阪大空襲によってほぼ壊滅したと記されているから、それが今も残っているはずがなく・・・
 因みに、そこから少し離れたところでは、民団大正支部の標識のある建物を見かけたが、その玄関前には雑草が繁茂しており、使われなくなって久しそうだった。民団の支部や分団だった建物が空き家や廃墟と化しているのは、大正区に限られたことではなく、日本のいたるところで生じていそうだが、その実態をどこかで調査しているのだろうか。民団本部にでも問い合わせてみようと思った。一世が懸命に寄付して、同胞同士の集まりの場として重宝されていた数多くの空間の現在は?

4. 強制連行者の労働実態の公的資料の消失(もしくは隠蔽)
 周辺の大工場では強制連行者が相当数、働かされていたはずだが、殆ど資料がないという。その理由は、火災や空襲その他のせいだけではなく、人為的なもの、つまり、システマチックにその種の、国民教化には具合が悪い資料を会社や軍部が隠匿、廃棄した結果なのかもしれない。
それについて、塚崎資料ではおおむね、次のように記述されている。
 大阪では強制連行者が2万人と推測されるが、名簿が発見されているのは、2事業所240名分だけで、その一つが、日本製鉄大阪工場(現大阪製鉄)である。多くの大手の重工業、重化学工業の工場が集中する大正区には・・1943年1月の大正警察署作成の地図や各社の社史、証言などから、朝鮮人強制連行・・・大正区で1500名~2000名と推察される・・・

5. 朝鮮通信使関連
 朝鮮通信使にまつわる歴史の痕跡を訪問できなかったのは、時間の余裕など諸種の事情があったが、後で考えると、今回の企画の大きな問題点だった。
 日本と朝鮮の歴史の暗部を強調する一方で、近代以前の日朝の対等な関係を示す代表的な事例である朝鮮通信使の痕跡を再確認しなかったせいで、今回は一面的なFWになったという問題がある。
 しかし、どんなことであれ、一回ですべてなどと、完璧を望むのは、ないものねだりで、かえって、良くない。問題点を確認して、次回に活かすように努力すればよい。FWは一回だけで十分ではない。繰り返せば、その度に新しい発見がある。多様な人と多様なFWを楽しめる。因みに、僕が塚崎さんと一緒に歩いたコースのうちでは、大阪城と砲兵工廠、真田山の陸軍墓地、生駒山麓の朝鮮寺、そして僕が生まれ育った新大阪、淡路、東三国界隈のコースなどは、塚崎さんがまだ存命中に、それぞれ数回のFWを行った。
 その他、塚崎さんの生前と没後に跨って複数回、同行したコースもある。その度に同行するメンバーが異なるなど、多様な条件によって印象が変わり、深まりもした。それこそ実地に足を運ぶことの楽しみの一つである。

C.次いでは、塚崎資料からは離れて、僕個人の問題として痛感したことなどを、心覚えとして記しておきたい。

6.生粋の大阪人というフィクショナルな自画像
 僕は大阪生まれの大阪育ちで、65歳までは、4年間だけは例外的に大阪府の南地域だったが、それ以外はずっと北大阪および北摂で暮らしてきた。しかも、若かりし頃に、大阪を生涯にわたって離れられそうにないからと(つまり、離れたかったのに、そうはいかなかったから)居直って、大阪弁を意識的に使うようにもなった。その結果、学生さんたちからは「パリパリの大阪のおっちゃん」と呼ばれるほどに、生粋の大阪人間を自称してきた。
 ところが、僕が言う大阪とは、実は北大阪の一部に過ぎず、大阪駅界隈を特例的に含むが、基本的には淀川の北の地域(旧東淀川区、吹田市、豊中市)だった。
 つまり、僕は「大大阪」の人間ではなく、その一部に過ぎない「小北大阪」の人間だった。そんなことにようやく気づいたのは中年以降のことであり、とりわけ、10年ほど前に西神戸に転居して以降にはそれを痛感した。
 僕は阪神間の阪急電車沿線と北大阪とに育てられた人間である。塚崎資料でFWを始めることで、そうした僕の大阪認識の変化も促進された。
 このFW企画の予行演習として2023年9月に西神戸の旗振山と塩屋、ジェームス山、正式の第1回が2023年10月の新大阪、淡路、東三国、第2回目が2023年10月の枚方禁野火薬庫・私市、3回目が2024年4月の島本町・山崎、第4回目が2024年5月の築港、第5回目が2024年6月の天王寺界隈、そして6回目が今回の大正区といった具合に、エリアが北大阪から北河内や北摂、次いでは、大大阪の南部や大阪湾側へと広がるうちに。僕の<小北大阪人間>的特徴を痛感するようになった。
 ついでに付け加えれば、FW間の間隔が長すぎた時には、その狭間を埋めるために、2024年の3月に有志だけで太閤道の山歩きも行った。

7. 大阪の湾岸地域に対する僕の限られた知見や経験。
 僕は大阪湾岸地域に足を伸ばしたことがあまりなかったせいで、その地域に関してはまともな知識などないまま、74年の人生を過ごしてきた。
 例外的にそちらに足を伸ばして場合をメモしておく。
 高校時代には野球部の恒例の定期戦で何度か港区の弁天町駅に近い市岡高校に行ったことがある。
 大阪ドームにも一度だけ野球の観戦に行った。それ以外では、大阪湾地域の渡船めぐりも兼ねたサイクリングの際に、UFJで働く欧米人と渡船で乗り合わせて、その地域の地理に僕がひどく疎いことに気づかされるほどに、その地域は僕の死角になっていた。
 その他、安治川を歩いた時には、宮本輝の『泥の河』の背景を少しは実感したが、だからと言って、その地域を僕が生まれ育った小北大阪と結び合わせることはなかった。僕の経験とは異なる大阪が現に存在することを、かすかに意識しただけだった。
 それだけに今回、これまでにも名前だけで知っていた湾岸地域の地名の場所に足を運ぶことで、僕は知らなかったが、その地域もまた、僕が暮らしてきた大阪の一部であることを実感した。
 例えば、姫島、南恩加島、泉尾(元阪神の田尾の出身地としてのみ知っていた)などが、僕の生きてきた人生や地域との関係で、ぼんやりながら位置を占めてきた。
 大正区の巨大な朝鮮人部落だった馬小屋と呼ばれていた地域、そして小林部落に関する回顧談を読んだのは既に20年くらい前のことだったが、その当時には、その朝鮮部落の人々が、どうして炭焼きなどで辛うじて生計を立てていたのか、その背景なども全く分からなかったが、今回ようやく、その理由が少しは分かるような気がした。
 そうした大都会の片隅における炭焼きに関する謎が解けたことだけでも、今回のFWは僕にとって大きな収穫だった。その他、大正区は、僕が少しは知っている西成の津守などとも、東淀川区と隣接する西淀川区などの幼少年時代から僕が聞き知った土地などともいろんな意味でつながることも、ようやく分かった。
 僕は大阪に関してひどく無知だったし、今後も死ぬまで無知のままに留まるだろう。だからこそ、またいつか、今回にも解けなかった謎の一部なりとも、塚崎資料と今回のFWの経験をベースにした街歩きを楽しみながら、解きたくなってきた。

8. 見世物としての俘虜―人間動物園や万博と軌を一にした国民教化のイベントー
 塚崎さんは日清戦争における清国人俘虜(敗残兵)の惨めな姿を、日本政府と軍部が日本国民に見世物として曝すことを意識的に行っていたことに早くから着目、生涯のテーマにしていた。そのことに関して僕の記憶に残っていることがある。
 既に15年ほど前のことである。
 大阪駅での清国人俘虜の悲惨な絵を黒田清輝が描いている。塚崎さんはその絵にずっと昔から関心を抱いていたらしく、その写真を僕に示して、その絵が所蔵されているフランスの国立図書館所蔵の情報収集を僕に依頼した。僕は頭をひねった結果、当時、パリに留学していた仏文研究者の知人に頼むことにした。国立図書館に出向いて、可能な限りの情報を集めて送ってもらった。そしてその結果を塚崎さんに伝えると同時に、その絵が新聞に掲載された際のキャプション(仏文)の拙訳もお渡した。
 それがきっかけとなって、僕は塚崎さんの関心の広がりの一端を知ることになった。日本が日清、日露、第一次大戦における戦争俘虜たちの、いかにも敗残兵らしく惨めな姿を、見世物として国民の目に晒すと同時に、黒田の絵も含めたメディアを通じて日本国民の目に焼き付けることで、戦勝国として、欧米に匹敵する国そして国民である日本(人)の自画像の形成を促した。つまり、欧米に対する日本(人)の劣等感が転移したものとしての、アジアと日本の関係に関しての、日本政府と軍部が望むイメージを、システマティックに広報していたと言うのである。
 大正区のドイツ人俘虜収容所を廃止し、その俘虜たちを広島の似島に移送する際にも、収容所から徒歩行進させて周辺住民や野次馬に彼らの生身の姿をさらしたことも、塚崎資料では厳しく指摘されている。
 しかも、屋外におけるパレードのような俘虜の見世物化は、屋内における博覧会での人種や国民の序列化と軌を一にしている。

 沖縄出身の人々が多い大正区でのFWだったからこそ、僕はそのことになんとなく気づくことになった。帰宅すると直ちに、ネットで「人間動物園」を検索したところ、すぐさま東京新聞の以下の記事がヒットした。

東京新聞の2023年12月17日付 「万博が抱え込む黒歴史「人間動物園」・・・120年前の大阪で起こった「事件」と2025年の大阪万博の相似形とは」(木原育子署名記事)
 その記事では例えば、次のような指摘をしている。
 琉球民族や北海道のアイヌ民族、台湾の生蕃(せいばん)、インド部族のバルガリーなどを「7種の土人」として、生身の人間を「展示」し、解説者がムチで指し示しながら紹介し、「性質が荒々しいので笑ったりしないように」との立て札もあったという。

 その記事には記述されていないが、僕はその文章の後に、大日本帝国が植民地化に成功した台湾(人)総体と朝鮮(人)もまた、その延長上には含意されていたと思う。
 そうした人種や国籍を序列化する人種差別意識を公然と明らかにするばかりか、むしろそのようなイベントを勝ち誇ったかのように行う発想は、当時の西欧帝国主義が先導する万国博覧会にもあった。そして、それに学んだ後発の帝国主義国家日本は、大阪における内国勧業博覧会の「人類館」で、その物まねをいかにも日本的に実践したわけである。120年前のことなのだが、それと現在の日本そして大阪の中心的な思潮はそれとほとんど変わりはなさそうである。
人類館は屋内イベントであるのに対して、それとペアになった屋外イベントとして、外国人俘虜の姿を路上や駅その他で晒しものにする路上パレードのような仕掛けがあった。
 折しも、大正区もその一つである大阪湾岸地区の近海の埋め立て地で来年に開催が予定されている万博、それを推進する政治家、経済人の基本的発想は、人種差別を体制の権力強化のシンボルとして活用した大日本帝国のそれと軌を一にしていることに、大正区の現場を仲間と一緒に歩くことで、思い至ったわけである。

9. 今浦島としての僕の恐怖
 そんなことを漠然とイメージしながら、夜遅くになってようやく帰路についた僕は、大阪環状線の内回り線で停車した車両に殺到してくる若者を中心とする大群衆にもまれながら、<気づき>の一環としての<今浦島的恐怖感>に襲われた。
 梯子酒のせいで、9時を過ぎていた帰路の環状線内回り線の込み具合に僕はまず驚いた。僕はここ数年、混雑に対する嫌悪感が募り、人混みが予想される場所は避けて暮らしてきた。もちろん、満員電車もその一つである。そんなことができるようになったのも、高齢者になったからで、それだけに群衆に対する違和感も強い。
 しかも、僕は昔から、大阪の環状線でも内回りには殆ど乗ったことがなかった。既に述べたことと重なるが、外回りの京橋、大阪城公園、鶴橋、桃谷はある程度、知っているつもりだが、内回り、つまり大阪湾側の地域は僕の死角のようなものだった。それだけに、日曜日の夜遅くに群衆が殺到するなんて思いもせず、不意を衝かれたこともある。
 よくよく考えてみると、既に20年30年来、環状線の内回りには観光スポットや大イベント会場が多くつくられて、特に若い人たちが押し寄せていそうなことは、メディア情報で少しは知っていた。しかし、実際にその大波に遭遇すると、衝撃で、恐怖感まで覚えた。
 大阪ドームやUSJのイベントの帰り客とバッティングしたからにすぎないのだろうが、日曜日の夜遅くに、これほどの人ごみに遭遇するなんて。今後は気を付けて、そんな波にもまれないように気を付けないといけないと自戒した。
 しかし、そうした享楽を求める若い群衆と、すっかり年を取った軟弱になった僕らのFWの対比、それこそが、僕らが置かれた現実である。そのことを肝に銘じながら、その群衆とその背後にある「美しい国民という虚像」と享楽への執着の病的なものと共生しなくてはならないのだから、その為には何が必要かも考えなくてはなるまい。何の役にも立ちそうにない愚痴めいた話になったが、仕方ない。柔軟にしつこく、身を守りながら、少しでも納得して暮らすように、自分に言い聞かすしかない。そのためにも、僕には楽しいFWが必須である。今後ともどうかよろしくお願いしたい。(2024年11月1日)



折々のメモ8 夕陽丘・天王寺周辺のFW(2024年6月15日)

2024-06-23 10:16:43 | 折々のメモ
折々のメモ8
夕陽丘・天王寺周辺のFW(2024年6月15日)

 大阪地下鉄谷町線四天王寺・夕陽丘駅南改札に14時集合。(南口改札という正式名称はないと、改札係の職員は冷たく言い放っていた。何か僕が迷惑でもかけたみたいな感じだった)

コース(以下のコースの要所の説明は、塚崎さんの作成資料に基づくが、あくまで筆者による抜粋である)
① 寿法寺;アナーキストとして水平社とも連携するなど差別反対と在日朝鮮人の生活向上のために、朝鮮文化の紹介などに尽力しながら、1930年代には4回も総選挙に出馬した李善洪の墓がある。
② 関帝廟;江戸時代には黄檗宗の寺だったが、1883年には中国人貿易商が中国風に改築し、今でも華中出身者の信仰の場となっている。
③ 四天王寺;593年に聖徳太子が創建、大陸からの使者に対する迎賓館の役割を果たしていた。一時はさかんに話題になっていた「四天王寺ワッソ」のワッソは、朝鮮語の「来た」の意味である。
④ 大原社会問題研究所跡;倉敷紡績の大原孫三郎が1919年に創立して、1937年には東京へ移転し、現在はその資料は法政大学に寄贈されている。
⑤ 勝鬘院、大江神社;勝鬘院の旧国宝の多宝塔は大阪最古の木造建造物。大江神社の狛犬には焼けた痕跡がある。<蛤御門の変>で戦死した長州藩士を祀る招魂社があった。
⑥ 軍艦アパート跡:1930年~33年にかけて、関一市長が、下寺町と日東町のスラムを整理して、3箇所に改良住宅を建設し、その形から軍艦アパートと呼ばれたが、比較的に差別がなかったのか、朝鮮人も多く居住した。2008年には老朽化のために、すべて取り壊された。
⑦ 木本凡人宅=青十字社跡:大正中期に天王寺の住友別荘の解放運動を独力ではじめ、天王寺公園の建設の端緒となった。戦争を示す赤十字ではなく、平和を示す青十字社を名乗って、薬種業を営みながら、数々の差別撤廃運動に尽くした。部落解放の水平社と朝鮮の衡平社の関係も仲介した。①の李善洪とも協力しあった。
⑧ 一心寺:大阪府「満蒙開拓団」の慰霊碑
⑨ 統国寺;1970年に朝鮮人民族寺院となったが、それ以前から朝鮮とは縁の深い寺院であった。
⑩ 大阪市立美術館:1936年完成。戦時中は軍が接収し、第三高射師団司令部を置いた。屋上には高射砲機関砲が据え付けられていた。
⑪ 天王寺動物園の動物慰霊碑:上野動物園での猛獣殺害が伝えられた翌日の1943年9月4日から翌44年3月15日にかけて、天王寺動物園でも10種26頭の猛獣が殺害された。軍の命令という説もあるが、それは虚報である。戦争への準備として、一死報国の覚悟をこどもたちにも促すという発想の上野動物園の殺害と同じことだったのだろう。動物慰霊碑には、その際に殺害された動物たちも祀られている。

1.はじめに
 僕は大阪生まれの大阪育ち、生粋の大阪っ子であることをまるで自慢でもするかのように自称してきた。ところが、今から考えてみると、その<大阪>とは、大阪市北端の、淀川と神崎川に挟まれた小さな地域に過ぎなかった。そんなことに気づかないほど、大阪について知ることが少なかった僕が、<大阪っ子>を自称していたなんて、恥ずかしくて、呆れかえるほどである。
 そんなわけだから、<塚崎さんの資料に導かれて在版朝鮮人の歴史をたどるフィールドワーク>は、僕が殆ど意識しないままに、それだけに一層と深刻な死角になっていた朝鮮半島と大・大阪との関係史、さらには、その現状とを同時に発見する最後(僕の年齢を考えるたらの話)の機会という意味で、興味津々の半日もしくは一日である
 当然、それが待ち遠しく、期待が膨らむ。そして、天候その他の条件が許してくれて、実際に歩いていると興奮もする。足に始まって疲れが全身に染み渡った頃には、この歳になってようやく少しは学べたと達成感もひとしおである。お待ちかねの酒席での、興奮と喜びを肴のアルコールのピッチと量は半端でない。翌朝には二日酔いに苦しみながらの性懲りない後悔と反省もどきが延々と続く。しかし、今回の酔い方はましなほうだった。男女3人づつ6人の中でも、3人の女性たちの、酒にあおられた気炎のおかげで、僕の酒の勢いも少しおとなしくなったのだろう。
 ともかく、そんな二日酔いのぼんやりした頭で、かつての僕の<北大阪っ子ぶり>のせいりを思い返してみた。

2.大・大阪っ子気取りが、実は、極小な北・大阪っ子にすぎなかった僕
 僕は大阪市東淀川区に生まれ育ち、後に分区された片割れの淀川区での生活も合わせれば27年間もそこに暮らし続けた。その間に通った小、中、高校もその東淀川区と淀川区にあった。
 当時は不思議だったことなのだが、家と同じく淀川区にあった高校に国鉄で通学すると次のようになった。自宅から7分の淀川区内(分区されて以降は、二つの区の境界になった)の東淀川駅で乗車して、同じ淀川区内の新大阪駅を通過してすぐに淀川を越えて大淀区に、その大淀区には国鉄の駅がなかったので素通りし、北区の大阪駅を経由して、またもや淀川を越えて(東)淀川区と西淀川区の境界にあった塚本駅へ。そこで下車して淀川区内の高校まで徒歩で10分弱だった。2回も淀川を越えるのが、昔は謎だったのに、その謎を解くといったことを一度も考えないほどに、僕はどこかが抜けた子供だったのだが、それは今も変わらない。
 それはともかく、自宅から10分強で駅がある阪急電車を利用すれば、阪急宝塚線の三国駅で乗車して一駅で阪急線では梅田駅並みに大きなターミナル駅である十三駅で下車して、徒歩で10分足らずで高校の通用門に到着だが、その場合には、淀川を一度も越えなかった。つまり、一度も淀川区内を出なかった。自転車通学も同じで、一度も淀川を越えずに、15分くらいで高校に到着した。
 大学は淀川区でも大阪市でもなかったが、大阪の北摂地域であることには変わりなく、阪急三国駅から北へ20分ほどの電車通学、あるいは、家業の手伝いの為に、車で朝の配達を終えてから、そのまま大学に向かう場合には、新設されたばかりの新御堂筋から中央環状線上で車を走らせて15分ほどで大学に着いた。要するに、大学時代も僕の北大阪っ子ぶりにほとんど変化がなかった。
 その間に遊ぶのは、家の周辺か十三か梅田の阪急系のコマ劇場(名画座など映画館がいっぱい)界隈、曽根崎商店街、阪急東通り商店街といったように、北摂地域を鉄道、商業、消費文化で支配する阪急の商圏と文化圏の域から離れることが殆どなかった。
 その後には数年間だけ、大阪市の南の境界である大和川を越えるばかりか、堺市の南のはずれに広がる泉北ニュータウンの、そのまたはずれで暮らし、大和川沿いにあった大学の大学院に通ったが、そうした大阪の南部地域になじむ時間と経済と心身の余裕などまったくなかった。
 夫婦ともに大学院に通いながらの、アルバイトを掛け持ちしながらの子育てに忙殺されるうちに、二人の娘の保育所と学童保育の取り組みが少しはまともな自治体を探したところ、革新統一戦線の牙城としての市政が続いていた吹田市に勝るところはなさそうだったので、吹田市内の万博公園近く、つまり北摂地域に舞い戻って約30年を暮らした。その吹田は僕が生まれ育った大阪市淀川区とは神崎川を間に挟んだ隣接地域であり、僕らの小学校以来の生活圏でもあったし、淀川区以上に北大阪的な郊外都市だった。北大阪的と言うのは、転勤サラリーマンが多く、多様な地方語と東京を中心とする標準日本語が入り混じった独特な大阪弁が一般的な都市と言う意味で、大阪の都心、とりわけ<ミナミ>や河内の人が話す大阪弁とは同じ地方ごとはとうてい思えない言語圏であるという意味である、但し、同じ吹田市でも地域によって、多様である。

3.縁の下の力持ちだった塚崎さんの苦労
 その吹田市は亡き塚崎さんが長年にわたって暮らしてきたところでもあり、僕の実家からは徒歩圏ということもあって、彼が亡くなる直前まで、僕らはその界隈で酒を酌み交わしたが、彼は元来、東京生まれの東京育ちで、カラオケの十八番が神楽坂音頭だったことでも窺えるように、靖国神社に近い芸者街で家業はそんな花街を客とする炭家さんだったらしい。
 つまり、大阪とは何の縁もなかった塚崎さんだが、さすがに研究者と教育者としての自覚に基づいた歴史研究者として自らの人生を律してきた。
 僕のように自分のことばかり考えながら、狭い世界に生きようと心に決めてきた人間と真逆で、塚崎さんは元来の自分の生育環境ではない大阪の歴史はもちろん、その地理についても、まるで生き字引のように、貪欲なまでに詳しい。しかも、机上の空論とは正反対で、いつもどこでも、自らの足を駆使して、人と会い、話を聞き、資料を渉猟したうえで、またしても歩いて確認といったことの果てのない繰り返し。そうしてようやくFWのコース設定と資料準備、晴れて実に多様な人々を案内しての解説、そしてお酒を酌み交わしながらの尽きることのない談論。
 そんなことを、<大阪っ子>にこだわり、そこに閉じこもってきた自分の生き方と対照しながら、あれこれと考えることが、余生を生きる糧になってくれそうだからと、僕らなりの拙いFWを今か今かと待っている。
 ところで、塚崎さんのFWで誰もが驚くのは資料の詳細さ、それにつれての量の多さだろう。
 どのコースもA4で20頁を超え、主に昔の新聞資料で構成された資料が準備される。彼が亡きあと、僕らはそれをB5に縮小スキャンした電子ファイルを、参加希望者個々人にメール添付で事前に送付しているので、その重さなど意識しないで済むが、生前の塚崎さんはそれを参加者分に少し余分な量を印刷して持参して、集合場所で配布していた。印刷の手間はもちろん、それをどこで印刷していたのか知らないが、それを自宅に持ち帰り、FWンp当日に、それを持ってくるのも大変だったはずである。
 そればかりか、塚崎さんはFWの要所で立ち止まり、参加者全員の集合を待って、見どころについて詳しく説明する際に重宝する小道具として、誰もが見えるように、紙芝居のように大きくて頑丈な紙の資料を10枚ほど用意していた。それもまた相当な重さで、さすがに、いつまでも若くて<肉体派>を誇り、そのせいで命を短くしてしまった塚崎さんならではのものだった。
 そんな大小さまざまな面倒、つまり塚崎さんにとっての負担の大きさに、僕がようやく気づいたのは、彼が亡くなって以降のことである。それを思うと、つくづく情けなくなる。

4.塚崎さんのテーマとそれが招いた苦難ー共生―
 ところで、今回のコースで改めて塚崎さんの関心の所在がどこにあったか、その特徴のいくつかを再確認できた。その一つが、日本人の個々人もしくは集団にもあった在日朝鮮人との共生の努力を、歴史的事実として書きとめ、それを自らが引き継ごうとする意志の再確認だろう。
 上で記したコース番号で言えば、④、⑥、⑦、⑨がそれにあたる。
例えば、⑥のスラム街を立て替えて、その形から<軍艦アパート>と呼ばれるようになった改良アパートには、日本人だけでなく、朝鮮人も少なからず居住していたこと。⑦の木本凡人は、水平社と朝鮮の衡平社を結ぶなど部落解放運動その他の社会運動のいたるところで在日朝鮮人の活動家たちとも協力して、その自立のために尽くしたこと。⑨の在日でも総連系と見なされている仏教寺院・統国寺には、新喜にあったガラス工場で働いていた朝鮮人労働者たちが、工場主の鬼城繁太郎の朝鮮人や水平社の運動への貢献・寄与などの恩に報いるために建てた「不忘恩碑」があること。その寺にはまた、戦時中などに岡山で亡くなり、引き取り手が分からない朝鮮人76名の遺骨が安置され、1990年には岡山の倉敷中央高校生の調査で、強制連行者2名の身許が判明し、韓国の遺族に引き渡されたという事実の確認もその一環。
 日本人側のそうした努力をことさらに云々するのは、要らぬ誤解を招来しかねない。現にそのような非難は在日や日本の研究者に確実にあって、そのことで塚崎さんは苦しんでいたと僕は思っている。面と向かって、塚崎さんを批判する人もいたし、何も言わずに塚崎さんの努力を一貫して黙殺するような人もいる。その主の根強い潮流と、どのように対するか、それに塚崎さんは終生、心を砕いていたように思う。
 それはともかくとして、日本人の側の共生の努力と対をなすのが、在日朝鮮人の側における共生への努力の確認である。今回で言えば、特に①がそれにあたる。
 朝鮮人のみならず被差別部落に関する差別撤廃運動に献身し、後には、朝鮮人の社会的位置と生活の向上に向けて、朝鮮文化の紹介なども精力的に行いながら、総選挙に4回も出馬して落選を繰り返しても、執拗に運動を継続した李善洪の墓が寿法寺にある。
 ところが、その墓地をいくら探しても、僕たちだけでは見つけられず、お寺の関係者に尋ねたところ、最近はその墓を訪れる人はいなくなって、僕らはずいぶんと久しぶりの訪問者とのことだったが、予想していたよりも立派な墓碑で、その裏には日本人の夫人や娘さんの名前も刻まれていた。
 李善洪のような立場や運動は、往々にして親日派と規定され、厳しい批判され貶められがちである。だからこそ、研究者が恐れて近づきそうにないそんな<危険領域>にも、塚崎さんは敢えて踏み込んだ。それだけに誤解を受けることも多かった。数多くの罵倒に近い言葉を投げつけられたらしい。しかし、自分の調査の結果として、彼はそこで踏みとどまった。
 ②と③も、諸民族その他、多様な差異を抱えて、ついつい差別の対象になりかねない人々同士の<共生>というテーマが招き寄せる訪問場所である。②は残念ながら、門が閉まっていて中に入れなかった。
 それほど大規模なものではなかったが、廟にしては清潔感があった。中に入れず、無人だったからそんな印象だったのかもしれない。僕が中国や台湾で見学した廟の賑わいとはまるで異なった印象で肩透かしを食らった感じだが、決して悪印象はなかった。
 なにしろ大阪では上流のイメージがやたらと強い上町台地だから、華僑の裕福な人たちが因縁を持っていても不思議でもなんでもない。とりわけ僕なんかは、上町台地とくれば、すぐに谷崎の『細雪』を思い出すという個人的な性癖もあって、上町台地は大阪の高級住宅地という固定観念が現場を見る目を曇らせる。警戒しなくてはなるまい。
 他方の③は久しぶりに訪問して、その広大さと訪問者の多さに、今さらながらに驚いた。最後にそこを訪れて既に30年以上も経っている。上町台地の寺や神社で、以前に訪問したことがあるのはこの四天王寺だけである。すべて富裕層の世界だからという先入観で避けてきたから、実際には何も見たことがないと言った方がよさそうなほどである。
 しかも、その近くには、かつては法務局があって、再入国許可の手続きなどの際の、いやな経験もあって、印象が良くないという個人的、あるいは。在日外国人特有の事情もある。
 ともかく、今回は四天王寺の規模と参詣者の多様性と数の多さを実感した。中国系らしい老婦人とその息子らしい二人連れが、「お祓いを受けに来た」と語るのを聞いて、宗教というのはいつだってすごいなあ、と思った。宗教心が皆無な僕だから、そのように大げさに思うのかもしれない。

5.僕の、あるいは、北大阪っ子の大阪その他に関する無知
 今回のFWで僕にとって最も印象的だったのは一心寺である。
 在日は日本のことは何でも知っているという人もいるが、在日二世である僕は、日本のことをある程度は分かっているつもりだが、その一方で、よく知らないし、分からないことがたくさんあると、常々痛感する。取り立てて、特別なことではないのだが、そんな自覚がある。
 僕は家日本人と家庭生活を共にしたことが殆どないからだし、日本人が内輪で、つまり家庭に関することがらで、どのような常識を持っているかを知らない。それでも大きな支障なく生きてこられたが、知らないことがわんさとあることは間違いない。
例えば、お寺関係を筆頭として冠婚葬祭については、特によく知らない。その種のことに関して、僕以上に無知な日本人も多くいるだろうが、僕くらいの世代で家庭生活をそれなりに営んできた日本人からすれば、一般的な常識と言われそうなことを、知らないことがわんさと僕にはある。
 一心寺もその一つである。宗派を問わず遺骨を受け入れてもらえるお寺という話を初めて聞いたのは、まだ数年前のことだった。おそらくは、コロナ禍に関連する話の一環だったはずである。しかし、その話を自分と関連することとして記憶したわけではなく、なるほどと思ったに過ぎない。
 ところが、今回のFWでは僕も含めて6人の参加者のうちの幾人かが、一心寺や四天王寺に近い親戚を納骨していそうな話で、僕はやはり日本人一般の常識とは少しずれていうそうに思った。そうした家族の内輪の宗教や伝統的な習俗に関しては、やはり在日の僕には死角が大きいのだろう。だからどうだというわけではないのだが、僕はいつでもその種の無知に過敏になりがちである。それを確認しているに過ぎない。
 もう一つ、その一心寺での今回の見どころは、大阪府「満蒙開拓団・青少年「義勇軍」の慰霊碑だったが、それについて塚崎資料は次のように記している。

・・・開拓団は戦争遂行に不必要なために整理が勧められていた中小商工業者が主な送り出し対象になり、2030人を数えた。農業経験が殆どない者が殆どであり、短期間の訓練こそ受けたが、「満州」の生活は厳しいものであった。青少年義勇軍は、14歳から19歳の青少年であり、多くは教員に説得された「家庭的にしんどい子ども」や「ごんた」であり、2125名が送出された。結局、両方合わせて、約半分の約2000名が死亡・未帰還であった。・・・

 僕などは満蒙など植民地へ送り出す開拓農民は、もっぱら日本でも僻地の人々に限られるとなぜかしら思い込んでいた。しかし、行政は地域的な僻地に限らず、先進的な都会の中にある<僻地>も確実に把握して、それを活用することを本領とする。そんな政治や行政の価値観のニヒリズムの恐ろしさを、改めて痛感した。
 常識なんかでは、現実を知ったり、理解したりできない。とりわけ「政治(被抑圧者を作り出す社会システム、といった意味で使っている)にはなんだってあり」ということを、今からでも覚悟して、残りの人生を生きばねならない、と改めて自分に言い聞かせた。

 僕の無知の話、或いは、僕の北大阪っ子ぶりに関連しては、統国寺の裏側からその一端を見た見事な庭園が、住友別荘であることなど、南大阪の住民なら常識のようなことも僕は知らなかったことに気づいた。
 しかも、ネットで検索してみたところ、日本のあちこちに住友別荘のようなところがあって、地域の高級な名所として人気を集めていることなども初めて知った。
 昔の財閥はなるほど、現代にも確実にそれなりの存在感を発揮しているわけであるが、そう言えば、責任主体がまったく訳が分からない万博の名目上の責任者も、住友系の大立者だった。
 世間知らずの延長で言えば、週末土曜日の夕刻だったから特別なのかもしれないが、天王寺、四天王寺界隈の飲食店がこれほど賑わっていて、集客力があることも初めて知って驚いた。但し、それは僕が歳をとるにつれて、混雑が極端に苦手になって、人が集中しそうな時と場所は避けて生きてきたせいなのかもしれない。
 今や僕はどこへ行ってもお上りさんであり、すごく疲れるから、くれぐれも、事前にある程度の情報を仕入れて動かないといけないなあとの、大きな警告を今後に生かしていかねば、なのも楽しめなくなりそうである。
今後もお気楽にお付き合いのほどをよろしくお願いします。