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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

折々のメモ2―、2024年3月10日

2024-03-12 10:52:39 | 折々のメモ
折々のメモ2―、2024年3月10日

1.新年の誓いに対する裏切りの確認
 新年を迎えるにあたって、僕自身にいくつかの約束、もしくは課題を設定したが、その一つが「折々のメモ」をできる限り気楽な短文に仕立てあげて、ブログにアップすることだった。
 ところが、それから2か月以上も経ったのに、その約束がほとんど果たせていない。しかも、そのことに三日前になってようやく気付いて、健忘症のひどさに我ながら呆れてしまった。
 その健忘症はもちろん、僕の記憶力の減退が一番の要因だろうが、それに加えて、僕の生活の落ち着きのなさも大いに関係していたようである。健忘症に気づいたのが、幾つかの急ぎの懸案も目途が立つようになった頃のことだからである。そこで、そのあたりのことも心覚えとして記することで、今後の僕の生活の指針にしたい。

2.亡き母の事業の跡継ぎ
 昨年に母を亡くしてから、母が名義上の主だった実家の賃貸不動産の管理業務を、昨年の3月末で完全に無職となった僕が引き受けることになった。そして、その引継ぎの総まとめしての税金申告など、雑多な手続きが年度末を控えてようやく、なんとか終える見通しがついた。
 母の遺産の相続などは、知人から強く勧められた司法書士に関係書類をすべて委ねてから既に半年にもなるのに終わっていない、しかし、それも3月末までには終了する見込みという連絡が、僕の再三の督促の果てにようやく届いたので、それを信じることにして、いったんは忘れることにした。それが空念仏にならないことをひたすら祈りながら、僕自身は自分ができることに専念するしかない。
 
3.ブログについて
 僕はここ数年、終活のつもりで、身辺雑事を滅多やたらとを書いてブログにアップするだけでなく、随分と昔に書いた文章も改めて最低限の手直しをしたうえで、随分と遅ればせにブログに追加もしてきた。
 僕の身の回りの書籍や資料などのすべては、僕が亡くなればすべて廃棄してもらって結構だが、誰の役にも立たなくても、迷惑にもならないだろうからち、ブログだけでも僕の生きた徴として残したいなどと未練たらしく考えてのことである。
 ところが、他ならぬそのブログのシステムについては殆んど知らない。もっぱら文章を書いてはアップするだけといったように、必要最低限のことをひたすら繰り返してきた。
 但し、週に一度はブログ運営会社からの情報が僕のメルアドに届く。その前の一週間内に何人が僕のブログにアクセスしたのか(UU、ユニークユーザー数つまり利用者数)、そしてその人たちが全体として何回アクセスしたのか(PV、ページヴュー数つまり閲覧数)が分かる。
 それによると、僕のブログへのアクセスは、概ね一週間で約150UU、約250PVがこれまでの実績の平均だった。週による多少の高低はあるが、一週間に平均して、約150人が僕のブログにアクセスし、そのうちの半分くらいは複数回もしくは複数のタイトルにアクセスしているとのことなのである。
 それはブログの読者として決して多い数ではないどころか、圧倒的に少ない方である。しかし、僕はその数を増やす工夫など何一つしてこなかった。写真を載せる方法も知らなかったからできなかったのである。2か月ほど前に、偶然に写真の載せ方が分かったので、少しだけ試してみたが、それっきりである。
 したがって、僕のブログの最大の特徴は<芸がない>ことである。写真はなく、もっぱら長い文章の文字だけで埋められて、愛想のないこと!
 しかも、その文章が、もっぱら自分とその周囲のことばかりだから、一般の人々の関心を引くなんて殆んど考えられない。それだけに、アクセス数がたとえいくら少数であっても、一定数が維持されているという事実に、むしろ僕は驚き、大いに感謝してきた。
 ところが、先々週あたりから、異変が始まった。
この3週間に限っては、400UU、600PVとそれ以前の2倍以上で3倍に迫る場合もある。さらには、たった一日で150UU、250PVというこれまでには一週間のものだった数字が出現することもある。ただならない事態である。
 そんな驚くべき事態なのに、僕はそのことをほんの数日前になってようやく知った。ブログに関するリテラシーが著しく低かったのに、何かをきっかけにして、そのリテラシーがほんの少しだけ向上したおかげである。リアルタイムアクセス数と言って、過去6時間以内に、何人がどのカテゴリーにアクセスしたのか、そして現時点で何名がアクセス中であるか、なども確認できる方法があることを知ったので、それを試してみて初めて知ったことなのである。
 しかも、真夜中や夜明け前にアクセスしている人がいることも分かるようになったし、最もアクセス数が増えた日などには、「韓国の小説の翻訳」というカテゴリーへのアクセスが多いといった、僕は想像もしていなかったことも知って、大いに喜びもした。
 そうした突然のしかも急激なアクセス数の増加その他の理由は全く分からない。したがって、一時的なのか今後も継続することなのかも分からないが、ともかく、ここ3週間は続いているので、その3週間という事実を手掛かりにして考えれば、心当たりが全くないわけでもない。
 ちょうど3週間ほど前に、在日韓国学生同盟大阪についての極私的物語の連載を始めたので、それが理由なのかもしれないのである。しかし、落ち着いて考えてみると、それは相当に怪しい推論である。
 それと言うのも、僕も一員であったその組織の関係者と僕との関係は、今やすっかり細くなってしまっているし、その人たちが僕のことばかりか僕の書くことに、共感してくれるとは、僕にも思えないからである。それに、それ以前の僕のブログの読者の中にその組織の関係者の占める率は低かったはずだし、この度、それについて書いたものをアップし始めることを、ごく一部の人たち(その研究をしていると聞いた人たち)以外には、僕から特に知らせたということもないからである。
 それはともかく、アクセス数が増えたことについては、その理由が何であれ、書き手の僕としては有難いことである。いくら拙いものでも、多くの方に読んでもらえればそれに越したことはない。だから、当然にその異変を僕は喜んでいるのだが、しかし、読者の数はそれほど重要視しておらず、数がいくら少なくても、楽しみにしてくれる人、目くらいは通してあげようかと思ってくれる人が一人でもいれば、それで十分である。それを励みに少しでも<嘘の少ない文章>にする努力は続けたいと思っている。但し、読者に申し訳ないので、僕の癖である長いセンテンスをできるだけ短く、そして、一回にアップする文章の量もできるだけ短くすることくらいのことは心がけたいのだが、僕が既に書いた草稿の量と僕に残された時間などを考え合わせると、なかなかそうはいきそうになくて、申し訳ないと本気で思っている。

4.金時鐘さん、及び、その人とも関係する兵庫県の「一斉糾弾闘争」
 2年前に刊行した拙著『金時鐘は「在日」をどう語ったか』の続編として、かねてからブログにアップするなど試行錯誤を重ねてきた文章を、ひとまず整理して、1月27日の朝鮮史研究会関西部会で口頭発表を済ませるなど、一段落した。そして、それを最後の機会として、僕の公的な場での<研究発表もどき>は終えることに決めていたから、少なくとも僕にとっては記念すべきものだった。
 その発表の為に準備した長い論文もどき「金時鐘とは何者かの済州篇」をどのような形で公開するか、その媒体探しが課題として残っているが、とりあえずは、やれやれの気分である。
 しかも、それと時を合わせるかのようにして、2年ほど前に開かれた「拙著に関するWEB書評の会」(文京洙氏企画・司会)における議論を僕の立場から整理した拙論が掲載される紀要が、ようやく刊行される運びとなった。立命館大学コリア研究センター紀要8号に掲載された「書評に応える、『金時鐘は在日をどう語ったか』」が、それである。岡﨑享子さんの拙著に対する書評とセットになっているので、合わせて読んでいただくことができれば、拙著も含めた金時鐘に関する僕のこれまでの議論の意味が少しはくっきりとして、理解も容易になるのではと期待している。
 金時鐘さん関連の今後の僕の仕事としては、兵庫県の「一斉糾弾闘争」を一時はリードし、その後にも分裂を重ねながらも、継続して初志を貫徹すべく格闘している「むらぎも」グループについての、僕なりの見解を明らかにするという課題が残っている。
 しかしその為には、半世紀以上に亘って刊行されてきた膨大な資料(「むらぎも通信」の全巻のディジタル版を読み込まねばばならず、それだけでも僕の力にあまる。現時点では1985年頃の35号までしか読了できていないくらいだが、今さら焦っても仕方がない。自分の能力その他の限界の自覚が僕には決定的に不足しているからこそ、これまでの生活に無用なひずみが生じ、周囲の人々に迷惑をかけてきた。そのことを再確認しながら、身丈にあった努力に徹するように心がけたい。
それにしても、「むらぎも通信」を読んでいると、人々の一念のすごさと、それを捻り潰そうとする権力の横暴の執拗さを、今更ながらに痛感する。そんな現実から目を背けて、美しい物語に酔い痴れているわけにはいかないと、つくづく思う。

5.塚崎さんについて
 昨年9月に亡くなった塚崎さんとの20年に亘る交遊について書こうと何度も試みたが、うまくいかない。それはおそらく、彼の生前には安定しているつもりだった僕の塚崎観が、彼の死を契機に大きく揺れ動きだしたこと、さらには、僕の書き物が遺族その他の関係者を傷つけはしまいかとの懸念もあってのことだった。
 しかし、先日に塚崎さんの人生の同行者だった大田季子さんにお会いした際に、そのことについて少しお話したところ、「何だって気にせずに、どしどし書いてください」との言葉を頂いたので、もう一度、腰を落ち着けて書いてみようと、自分を励ましている。
 但し、これまた焦りは禁物で、書きながら彼との交遊を反復する悦びを、僕の余生の糧にするつもりで、くれぐれも少しずつと、自らに言い聞かせている。
 因みに塚崎さんとも絡んで、最近に三つの出来事があったので、それをかいつまんで報告しておきたい。
 一つは彼が遺した膨大な新聞写真のデータを、東京の在日韓人歴史資料館で保存・展示するほか、来年秋には特別展も開催するといった誠に喜ばしい企画があり、その準備が着々と進んでいる。
 生前の塚崎さん自身が了承し、楽しみにもしていた企画であり、資料館館長はその為に何度も大阪に足を運び塚崎さんと僕と相談していたが、先日は報道写真の専門家も交えて僕も塚崎さん宅を訪問し、塚崎さんが愛用していたパソコン内に収納されている大量のデータの複写に、なんとか成功した。
 その際には、塚崎さん宅の4室を埋め尽くす資料の山の中から、僕ら数人が企画して進めて「塚崎昌之さんの資料に導かれて、在阪朝鮮人の歴史を歩く」フィールドワークの継続にとって必須の資料や小道具なども見つけだして、その一部をいったん僕の実家に持ち帰った。その一部を早速、4月20日(土)に計画している三島地区のフィールドワークで活用することになる。ご期待のほどを。
 塚崎さんの次女で、久しく沖縄に住み着いて平和ガイドの傍ら琉球大学の大学院で学徒動員兵士の研究中の大田光さんが、豊中など北大阪の教職員組合連合会の招きで2月11日に講演されると聞いて、ウトロの斉藤さん、映像作家の金稔万さんなどと一緒に参加して、その見事な講演に舌を巻いた。
 150名ほどの聴衆もおそらく僕らと同じような感銘を受けたはずで、母親の大田季子さんも「塚崎の講演よりもはるかに良かった」といかにも長年連れ添ったパートナーらしい表現で評価し、満足のご様子だった。
 10年以上も前の僕の沖縄初訪問の際に何かとお世話になっただけでなく、済州では父親の塚崎さんとその僚友である高野さん、さらには塚崎さんの旧友である漢拏日報の記者とも一緒に、豚の焼き肉を食べながら愉しい時を過ごしたこともあったが、その後の彼女の成長ぶりに驚く一方で、その柔らかな感性と物腰、そして口調には少しも変化が見られないことに、何故かしら心が温かくなって癒される気分だった。その個性を見失うことなく、しっかりと生かすような研究が、今後も継続することを願ってやまない。それを遠くから見つめることが、僕の余生の励みになるだろう。
 ところで今回はこのブログには珍しく、写真を添えたのでそれについての説明も少々。
 この塚崎さんと僕のツーショットは、後でも説明する企画「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク」の際に、参加者の多くが泊まっていた済州のホテル内の、無料のラウンジでの僕らの様子を収めた動画の一部であり、そのうちの塚崎氏の写真だけを、撮影者の金稔万さんは、塚崎氏の人生をテーマにした短いドキュメンタリーフィルムの冒頭に用いて、見事な効果を発揮している。その作品を見た際に僕は、その塚崎さんの横に僕自身が、それも普段は決して見せない満面の笑顔を浮かべながら座っていたなんて夢にも思っていなかった。後でそのことを、撮影者の金稔万さんから教えられて、すごく有難いことと感謝している。こんなに楽しそうな表情を僕がするなんて自分でも驚きである。

6.済州について
 上で触れたこととも大いに関係するが、済州に関しては2019年と2020年に、僕がそれまで長年にわたって温めてきた「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク」を2回も実現し、その延長上では2021年には最後のつもりの3回目も企画して、参加者も確定するなど準備万端だったが、折からのコロナ禍のせいで、断念を余儀なくされた。
 その2回目には、漢拏山の南側の海岸に位置する為美里という美しい村のお洒落なカフェで、知人のチョン・ドヨンさんの講演をみんなで拝聴した。その際に彼女は、参加者に新鮮で刺激的な話と清々しくてダイナミックな人柄で僕らに感銘を与えてくれた。(この講演その他、フィールドワークの全行程については、ブログの「済州の歴史と生活文化」というカテゴリー内に、僕の長い報告があるのでご参照のほどを)
 そんなチョン・ドヨンさんが、ユネスコ世界文化遺産の2024年度の祝典の総監督に任命されたという、なんとも嬉しいニュースが届いた。
 元来、彼女は済州の人ではなく、<陸地>で生まれ育ち、大学で演劇の演出を学び、その後、方向を少し変えて、様々なスタイルの公演の演出を専門とするようになった。そして、済州のオㇽレ(24に及ぶ多様に開発されたウォーキングコース)に並々ならない関心を抱いて、済州オㇽレの理事長に直接に手紙を送って、そのオㇽレにおける地元民による野外公演の演出の提案をしたところ認められて、済州にやってきた。
 そして済州の歴史や文化の研究を地道に進めながら、済州オㇽレにおける多様な公演の新機軸を開拓した。その成功に力を得た彼女は、先にも触れた為美里という海岸村に事務所を構え、さらに本格的に済州の様々なイベントの演出を手掛けるようになった。
 その中でも僕が最も魅力を覚えたのは、村おこしの一環として、村民の昔の生活の話を丁寧に聞き取り、それをベースにしたミュージカルのシナリオを自らが書いて、村民自身を役者として舞台に立てたミュージカル公演の実現だった。
その他、彼女は済州の4・3関連行事などの企画はもちろん、さらには<陸地>にも活躍の場を広げた。例えば、セウォル号の痛ましい海難事故と言う名の人災の追悼イベントの企画なども担当した。
 そんな彼女が、済州のユネスコ世界文化遺産の今年で5回目になる記念的祝典の総監督に任命されたからには、喜ばないでおれるわけがない。
 僕は両親が済州出身ではあっても、僕自身は生粋の在日であり、済州で生活したことがなく、自他ともに認める<外地人>である。だから、その事実を忘れることなく、済州についてもさらには韓国についても当事者として語ることを自らに禁じてきた。
 それとは対照的に、チョン・ドヨンさんは元来が外地人であっても、済州に飛び込んでそこに暮し、今や済州の地元民と外地人の結節点のような役割を積極的に引き受け、済州に新たな刺激を与えると同時に、済州からも多くの恵みを得て雄々しく活躍している。そんな姿をモデルケースとして、あくまで外地人として、済州や韓国に関わりながら、余生を愉しく生きようと思っている。そのための新たな励ましを得た気分である。
 因みに、ネットで目にした彼女の総監督任命に関する情報の一部は以下の通りなので。拙訳で紹介する。

 2024年世界自然遺産祝典―済州火山島と溶岩洞窟―が今年の10月に開催される。5回目を迎えた今年は、文化・芸術企画者兼公演演出家のチョン・ドヨン氏を総監督に任命した。
 済州世界遺産祝典は2020年から20022年までは国費事業としたが、昨年は地方費だけとなり、今年は国費と地方費を折半で投入する形で開催される。今回は中長期的観点から、「自主的な力量の確保と持続的拡散のための基盤整備を目標にして、総監督としてチョン・ドヨン氏を任命した。・・・
 チョン・ドヨン総監督は、「世界遺産地域の住民たちの参与の機会を拡大して、祝典の代表的なプログラムとしての位置を確固とできるように努力したい。済州が世界遺産の価値を広く知らしめるプレミアム文化観光のブランドになることに寄与したい」と抱負を明らかにした。

7.太閤道の山歩きと大山崎山荘美術館の観覧で心身の健康を
 久しぶりに、おそらくは30年ぶりの太閤道の山歩き、そしてまた、ほぼ20年ぶりの大山崎山荘美術館の観覧を、ある人の「気分転換に歩きませんか」という言葉に励まされて企画(3月9日土曜日)して呼びかけたところ、男女それぞれ3人ずつの6人が同行して山の空気を吸いながら楽しむことができた。
 今回の参加者の全員が、2020年の第二回「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク参加者でもあったので、旧交を温める機会にもなった。3人が在日、3人が日本人で、済州フィールドワークと同じように出自その他、年齢、社会的ステイタス、さらには生まれ育った都市、現に暮している都市に至るまで、多様性が目立った特徴だった。
 僕は呼びかけ人としての責任もあるので、集合時刻の1時間前には集合場所に到着し(中学時代の野球部での躾、つまり、集合時間の半時間前、但し、1年生はさらにその半時間前に集合という内規が、病的なものになったのが僕)、バス乗り場なども念のために確認してから、持参した書き物の草稿などを読みながら、皆さんの到着を待った。誰一人、遅れることなく、集まって頂いたので、すぐさまバス乗り場に直行したが、天候が不安だった。雪がちらつき、北風が冷たくて、前途について少し心配した。
 バスで15分ほど、その間、お喋りに夢中で、運転手さんの厳しいお叱りを頂戴するなど、久しぶりの山歩きで浮かれている自分に気づかされた。運転手さん、そして同乗していたお客さんたちに申し訳ないことだった。遅ればせながようのら、ごめんなさい!
 事前にネットで検索して、20枚近くの写真などの案内をプリントアウトしていたおかげで、一度も迷うことなく、コースをひたすら歩くことができた。停留所でバスを待つ間には少し天候の心配もしていたが、山に入ると、北風はほぼ完全に山が遮ってくれたので、ほとんど無風状態の中をあることができた。急な登坂もなくて、比較的に楽なコースだろう。山頂からは、淀川とその向こうの男山が、さらには、木津川と宇治川と桂川が合流する三川合流地点とそこから大きな淀川となって大阪湾まで下っていく起点の周辺が一望できた。その昔、そのあたりのサイクリングロードにすごくお世話になった記憶が蘇ってノスタルジーに浸ることもできて、感謝!(ブログのサイクリングのカテゴリーには、関連する文章がいくつかあるので、どうかご参照のほどを。中でも「早朝自転車通勤とパスカル」というタイトルの文章が三川合流や淀川、木津川の川と河川敷などの違いについて詳しく書いている)
 ゴルフ場の真横を通りながら、昔のままで、全く変わっていないなあと少し興奮した。下りはなかなかの高低差があって、やはり杖があった方がよさそうだし、軽い山歩きでも靴はそれなりのものでないと、怪我をしかねないので要注意。若山神社に着いた時には、既に4時で、そこから山荘美術館までは1時間ほどかかりそうなので、断念した。
 僕らの先頭を歩いていた元気印の二人は、神社の参詣道で、猪猟をしている現場に出くわしたらしい。猪の内臓まで露出していて、その横には顔中、血まみれの猟犬がいて、猟銃を下げた主人は二人の女性のことを考えて、脇にその猪を引きづっていたとか。
 なるほど、そのあたりの森林、例えば、すごく見事な竹林などには、獣害被害防止のネットが張り巡らされているのも当然と思い知った。
 山荘を断念したからには、後は、居酒屋を見つけるのが最大の問題。最寄りの島本駅周辺には何もなさそうで、仕方なく、さらに進んで水無瀬駅の周辺を目標にして下り坂を歩いて行くと、島本町役場にさしかかった。反核宣言などの看板も会って、その街で今もなお、そのようなスローガンのもとに頑張っているウトロの斉藤さんのことを頭に浮かべた。そのうちに、阪急の踏切を渡った際に、そこは塚崎さんのフィールドワークでいろいろと説明を受けた場所だったと、いきなり思い出した。そして踏切を渡ってからの街並みは、まさにあのフィールドワークで歩いた道であると確認しているうちに、そのフィールドワークで最も印象深かった公園にたどり着いた。「まさにここだった」と感慨が。
 水無瀬駅の駅と線路の下にある小さな居酒屋「のんた」(小野さんがネットで検索してよさそうなのでと決めた)におそるおそる入った。まだ開店の5時にはなっていなかったが、入れてくれた。客は誰もおらず、カウンターの7席(補助椅子が2つくらいあったけど)だけで、飲み物2杯と料理5品のセットが1400円。どれも京都のおばんざいでおいしかったから、おおいにお勧めの店だけど、グループで押しかける際には、事前に予約しておかないと無理。
 僕ら6人の後に、一人だけ、僕と同年配の男性客が入って来て、僕らよりも早く帰った。僕らはそのセット以外にも、次々と注文して大いに食べ、飲んで、お喋りした。興り深い話がいろいろと聞けて、知っているつもりでも実際に話を聞いてみないと分からないことを、今更ながらに痛感した。
結局は5時前に入って3時間ほど居座った。
 しかも、僕と金稔万さんは高槻で阪急からJRへの乗り換える際に、今風のお洒落なたこ焼き屋で梯子酒。すっかり酔って実家にたどり着いたのは11時頃だった。
 しかし、そのおかげで、僕には珍しく、午前9時頃まで爆睡だった。居酒屋の奥さん(一人で営業している年輩の女性に、そのように呼びかけたら、そんな呼び方をされたのは初めてと言われた。しかし、僕には他に適当な呼称が思い浮かばなかった、申し訳ない!「奥さん」はダメなのかな?スナックでもないのだから、「ママさん」とは僕は呼びにくい!)
実家から太閤道を経由して実家までの全道程の歩数は20149歩、歩行距離は14,9キロメートル、歩行時間は3時間33分、消費カロリーは454,2キロカロリー、脂肪燃焼量64,8グラム。以上が僕の携帯の情報で、こういうデータとも遊びながら、気楽に生きていきたい。。

7.終わりに
 出来る限り短文にするという目標もしくは約束は、今回も果たせなかった。折々に簡略に書くことを怠ったせいで、書きたいことが一挙に多くなったという当然の結果である。日々のささやかで着実な努力の積み重ねが大事なことを、改めて肝に命じなくてはなるまい。我が家の雪柳もどんどん花開いており、春の到来はもうそこに来ている。(2024年3月10日16時)

「折々のメモ」正1―新年一月の約束違反―

2024-02-01 16:02:06 | 折々のメモ
「折々のメモ」正1―新年一月の約束違反―

 母の喪を口実に年賀の挨拶をしない代わりに、昨年のまとめと新年を迎えるにあたっての抱負などを書いてブログにアップした。そして、その際の自分や読者のみなさんへの約束が、「折々のメモ」というジャンルを創設して、できるだけ短文で、日々の雑事をメモすることだった。ところが、既に一月が過ぎて2月になっているのに、その後、一度もアップしていなかったことに気づいて大慌て。釈明方々、「折々のメモ」の正式の第一弾をアップする。

 さて、そのジャンルの創設時に自分に課したことを列挙してみる。
1.ジャンル名は「折々のメモ」。
2.原則として、長く書かない。頻度を多くする。但し、日記ではなく、週に一回くらいで十分だし、その内容はその間の7日分でもいいし1日分でもかまわない。
3.日々の生活の食事、散歩、ストレッチ、その他、あらゆる雑事の中で、変わったことがあれば、例えば、妻から注意や叱責を受けたことなど、その他、体調、医者通い。。酒量、飲み方。種類などの健康に関することも。
4.人とのやりとりも、メールの送受信もメモ程度に短く。特に気になったニュースやテレビ番組やネットフリックスやユーチューブその他についても、あくまで心覚えとして。

 以上の自分に対する約束まですっかり忘れていたことを確認しながら、第一回を始めたい。机の前の窓越しに、僕の山歩きの友である旗振山の頂上が少しガスで煙って見える。雨が上がったばかりなので、「今日は無理だろうから、明日にでもおいで!」と呼んでくれている。家から往復2時間足らずで、僕の心身の健康を辛うじて支えてくれている山歩き!
 標高60mの我が家から、僕ら夫婦が煩悩の坂と呼んでいる108段の階段とその倍くらいの長さの坂を下りて、標高3mくらいの谷に蹲る塩屋の商店街を横断して、六甲縦走路の西の起点になっている登山口から標高230m程の頂上まで、時には手作りの弁当持参の時もある。
 このひと月のことで特に記憶に残っているものを列挙してみる。
 相変わらず、塩屋の自宅と大阪の実家との二重生活である。環境の大きな違いと生活の仕方の違いなどの刺激が僕を支えてくれているのかもしれない。昨日も実家から自宅への帰路の電車で既に、一週間(その間には懸案の学会発表の準備と発表、そしてその後の酒席もあった)の疲れが一気に出てきたらしく、生あくびの連発。今朝の起床も珍しく8時を過ぎた。少しは休めたのだろう。自宅というものの有難さに今更ながらに感謝する。今のところ、、平均して半々くらいの割合になっているが、今後は状況に合わせて、その割合には多少の変化があるだろうが、ともかく二重生活の好さを堪能しながら、機能的に暮して行くことになるだろう。
 さて、新年1月27日には、朝鮮史研究会関西部会の月例の研究会で、「金時鐘の<自分・在日語り>の済州篇」と題する研究もどきの発表で、対面やリモートで、旧交を温めると同時に、新たな出会いもあった。これが最後の公的な場という心づもりだったので、無事に終わってやれやれである。
 自分なりにできることは精一杯やったので、今後はいろんな方のいろんな意見をしっかり聞いたうえで、考え直したり発展させることを余生の糧のひとつにしたい。
 因みに、その研究会の会場が位置する中津までは、実家から徒歩で十三大橋を渡るなどして一時間ほどかけた。十三界隈は僕が通った高校のあるところで、そこから中津、梅田方面へ向かう十三大橋は若かりし頃の思い出がいっぱいで、今回もその橋の上から撮った淀川周辺の写真は、他人には何の変哲もない景色だろうが、僕には郷愁が詰まっている。
その3日前には、知り合って20年近くも親しく研究関連で付き合っている東京在住のYSさんの依頼を受けて、新大阪駅周辺と東三国界隈のフィールドワークの案内をした。フィールドワークの案内も、人数が少なければ、さすがに濃密になったのか、或いは、YSさんの準備(関連資料の事前の熟読その他)と終わってからの熱心な復習のおかげで、その後に届いたメールでのやりとりがこの僕にも大きな刺激になった。フィールドワークのガイドの醍醐味の一つだろう。
但し、僕にとってのフィールドワークのお師匠さんであった故塚崎昌之さんに、そんな醍醐味を味わってもらえたのかどうか、遅まきながらも、弟子として恥ずかしく申し訳なくなる。
 ところで、その日の夕刻には、済州から生野区の在日集住地区の在日一世の言語とライフヒストリーの調査で滞在中の旧知のPKさん、そして先に触れた塚崎さんと僕などの気の置けない仲間の一人で映像作家のIKさんも合流し、僕のお気に入りの小さな居酒屋で、おおいに楽しんだ。当然、随分と深酒になってしまったが、ずっとしゃべり続けていたおかげなのか、二日酔いもたいしたことなく、これまた有難いことだった。
 新年から、小中高とずっと同じ学校だっただけでなく、中高時代には野球部でもずっと一緒だった友人からのラインのメッセージの影響を受けて僕もその気になって、小中時代の同窓会の開催を思い立って、今でも連絡がとれる友人たちに声をかけて、実現の可能性を探っている。
 その過程では、すごく久しぶりに女子とも通話する機会があり、その延長上では女子の二人を仲介をするようなことにもなって、すごく喜ばれた。この先、少しでも輪を広げて、人数が少なくても、人生で最後の、或いは、最後へのきっかけになりそうな会を、僕らの年齢も考えるなど少し暖かくなってから、実現したいと思っている。
僕らの小学校は僕が3年生にあがる4月から、人口増大、生徒数増大の波を受けて、二つに分割された。しかし、その二つの小学校の卒業生が進む中学校は同じだったので、中学校で改めて再会ということになった。もちろん、その間にそれぞれの小学校に転入した生徒もある程度はいたのだが、小学校時代の友人と中学校時代の友人という区別はすごく曖昧である。だからこその小中学校時代の同窓会、もしくは友人の集まりと言うのである。
 10年以上も前に、2回ほどその地域の、同窓生が営む焼き肉屋、次いでは割烹料理店で、、どちらも20名そこそこながらも楽しかった。しかし、それなのにその後には一度もお声がかからなかったのか、僕には分からない。ということは、僕はその企画の準備にはあまり関わらず、もっぱら愉しさだけを享受したということだったのだろう。だからこそ、今度は、そのお返しとしても、少しは尽力しなくてはならないという気持ちもある。
 それとの関連で、ひとりの女子に電話が通じた際に、彼女が「私はもうすっかりおばあちゃんになって、人前にはちょっと・・・」という言葉を聞いて、僕は少し気持ちが萎えた。それなのに、それからほどなくして、わりと頻繁にラインでやり取りしている高校時代の女子に、僕もまた「老人の僕が云々」などと書いたところ、「そんな言い方、私は受け入れらない」とはっきりとした返信をもらって、はっとした。そしてすぐさま、お詫びのラインを送った。妻に叱咤される以外に、そのように率直に言ってもらえるのは、それほどなくて、それだけに僕にとっては実に有難い率直なアドバイスになった。
 自分ではいろんな含みをもたせたつもりで、ついつい使ってしまう言葉としての「自分は老人、じいちゃん、ばあちゃんだから・・・」は、よほど気を付けないと、相手の気分を悪くしかねないことであることを、改めて思い知った。特に異性に対しては、たとえ自分のこととしても、その種の言葉を使うのは避けないといけないと。
 随分と以前のことだが、母にもそんなことを言われたことまで思い出した。「お前は母親の前でそんなことを言うのが、どれだけ拙いことなのかも、その歳になってもまだわかっていないのか」と母は本気で僕に怒っていた。その種の気遣いもできなければ、は大人になんかなれない。そんな者が、たとえ謙遜その他のつもりであったとしても、老人になれるはずもない。心しないといけない。それくらいの努力は、僕の余生にとって必須と自分に言い聞かせているが、はたして、そんなことをいつまで記憶できるか、はなはだ心もとない。しかし、記憶はできなくても何度も同じ恥を反復し、その度ごとに、改めて自分に言い聞かすことくらいはできるかもしれない。
 季節柄、風邪をひくのが怖くて、ついつい山歩きを諦めてしまって気がつくと、週に一回も、或いは、二週に一回も足を伸ばせないことがある。汗をかいた後の、急速な冷えに耐えられない体なのである。しかし、そのような受け身の姿勢はあらゆることに影響してしまい、ついつい心身の深い呼吸や休息をとる機会を逸してしまう。
 自宅にいる時は山歩きか、外国人住宅地沿いの「エキゾチックな坂道」を歩きながら小鳥たちの喧しいくらいの囀りや、平磯の埋め立て地内にある渚の池での鯉たちの口を大きく開きながらの餌の催促や、渡り鳥たちの元気な姿を、実家にいる時には神崎川の渡り鳥たちの日向ぼっこなどに慰労され、更には励まされながら、スローであっても、少しは生き生きとした毎日を送りたい。(2024年2月1日)



玄善允のブログの新カテゴリー「折々のメモ」の試験版に次いでのご挨拶ー2024年1月6日

2024-01-06 09:46:30 | 折々のメモ
玄善允のブログの新カテゴリーの試験版に次いでのご挨拶ー2024年1月6日

1.ものぐさ老人なのに<メール魔>

 年末までに年賀状を出さなくなって、どれほど経っただろうか。それさえも今となっては定かでない。いつからか、メールで年賀状に換えるようになった。しかし、その時点から、それまで年賀状を交換していた人の半分以上には、誠に申し訳ないことに、年賀状を送らなくなった。
 それでも新年に年賀状が届いた人のメールアドレスが分かっている場合には、メールで礼状を兼ねた挨拶を、メールアドレスが分からない人には、手書きで年賀状を送っていた。
 そんなスタイルが今でも辛うじて続いているのだが、新年早々の年賀状に対する葉書の礼状は今や10人に満たなくなった。
 何かはっきりしたきっかけがあってのことではない。何かにつけてだらしない僕に相応しく、なし崩しだった。しかし、なし崩しというのは、時代の風潮の後を追って、ということの別の言い方であるのが一般的だろう。E―mailを常用するうちにそうなった。時候の挨拶その他もたいていは、それで済ますようになると、文字を書くこと自体が億劫になった。
 それに僕はそもそも、歳暮やお中元その他の季節折々の習慣がなかった。知人宅を訪問する際に、お土産を持って行くなんてことも殆んどない。旅行に行ってお土産を買って帰るようなことも、これまたない。主義主張があってのことでもあるが、やはりそれ以上に、面倒くさいからであり、何もしないことが習慣になっている。その延長で、この歳になっても、常識的な儀礼すらまともにできない。正しく、ものぐさ老人である。
 ところが、そんな老人が今やすっかり「書き魔」、さらには「メール魔」になってしまい、長文の、それも大量の添付ファイル付きのメールを送り付けては、知人・友人たちを困らせている。そんなわけだから、その上、季節の挨拶で迷惑をかけるわけにはいかないと自制しているのだと、誠に自分勝手な弁解も用意している。

2.喪中を逆手にとった新年に関する思い付きーブログでカテゴリー「折々のメモ」の創設を―

 ところが、今年に限っては、その数少ない年賀状も出してはならない立場になった。母が昨年の2月中旬に100歳で亡くなり、その子供である僕は喪に服して、年賀状を出さなくてもいいどころか、出してはいけないことになっている?
そんな場合、喪中につき云々と、お断りの葉書を年末までに送るのが常識のようなので、僕もその真似をと考えたが、さすがにものぐさ老人の僕は、それも面倒だからと断念した。そのついでに少し考えることもあったので、一年を振り返る文章でもブログにアップして、正月三が日を過ぎてから、ショートメッセージでその旨を伝えれば、迷惑をかけなくても済むのでは、というわけである。
 そしてそれを契機に、今後は「折々の覚書」のようなものを、ブログに継続的にアップしようと考えた。文章を書き出すと、ついつい長くなりがちな僕なので、新年の新機軸として短文を原則として掲げれば、持続できるかもしれない。頻度も自分の折々の都合に合わせてゆるやかにすることで、負担にならないようにする。いつも自分をがんじがらめにしがちなので、「その反対をめざそう」と自分に言い聞かせる。
 そんなことを思いついたのは、やはり老化が深刻になって、今や後がないなどと切羽詰まった気分になったからである。今や新しいことに挑戦して自分を奮い立たせるなんて難しい。そこで、どれほど続くか心もとないが、折々のささやかな出来事を反芻し、そこから少しでも喜びのネタを引き出し、それを二倍三倍にして楽しもうという魂胆である。
因みに、先行き短いという感じは、知人・友人が立て続けに亡くなったせいもある。
 先ずは、母が2月に先頭を切るようにして亡くなった。しかも、その翌月の2023年3月末をもってして、長年の非常勤稼業から追放された。大学院時代から始まって半世紀にわたってしがみつき、辛うじて続いてきたフリーランサー生活、それが終わったのだから、僕にとっては母の死に匹敵する大変化である。
 だからと言って、名残惜しかったわけでもない。学生さんの相手をする気力の減退を深刻に自覚していたので、もっと早く辞めてもよかったのに、と後悔もした。それでいながら未練たらしくしがみついていたのは、もっぱら変化に対する怯えのせいだったのだろう。それに、三文教師でも学生さんたちに相手をしてもらいながら、なんとか生きてきたという実感もあって、教師根性がすっかりしみついてしまっていた。
 ところが、その教師としての人間関係は、僕の現在の生活には殆んど関与していない。懸命に勉強したつもりの仏文学なのに、その関係者で音信が続いている人などごくわずかである。そしてその希少なる人物から、拙著や拙文に対するいかにも仏文研究で鍛錬した批評を頂けると、それだけでも仏文に馴染んだ甲斐があると思えるが、それ以外では、僕と仏文研究者や仏語教師との関係はなんともお寒いものである。
 但し、先にも触れたことだが、生計を立てるためだけの三文講師稼業といえども、学生たちとの付き合いは僕に救いだった。能天気そうでいながらも何かと悩みを抱え、はるかに年長の僕の相手をしてくれた学生さんたち、そして卒業後の元教え子の皆さんとのつかず離れずの付き合いは、僕の老後の大きな支えであり慰めの一つである。だから、そんな教員生活から追放されたからと、「せいせいした」なんて思うわけがない。
 ところで、三文講師稼業が終わったからと言って、毎日が日曜日などと気楽なことを嘯いておれる立場に僕はない。幸いにも経済的には、娘二人は独立して久しく、老夫婦二人くらいなら、両親の遺産その他で、余生を賄える計算も立つようになった。しかし、その遺産の一部は、放っておいても懐に舞い込んでくるような代物ではない。僕ら兄弟は、それを維持管理する責任がある。
 母が長年にわたって名目上の事業者だった古い賃貸マンションの管理などは、僕はそれまでの黒衣役から表舞台に立たざるを得なくなった。兄弟たちはみんな現役で働き続けており、時間その他の余裕があるのは、無職になった僕だけで、長年の黒衣経験もあるから、僕が続けるのが自然である。将来のいつか、兄弟か、その後続世代の誰かが交代してくれるまでは続けていくしかない。ところが、視力を筆頭に、単純な計算や漢字などもやたらとミスが目立つなど、実務能力を著しく失くしてしまった僕にとってはすごく難儀なのである。そこで、いろんな人の助けを借りて、老人力(何があっても当然と考えてめげない力)を発揮するしかない。苦手とか嫌とか、我儘など言っておれないし、それはこれまでの僕の人生の原則だったので、それをひたすら続けるだけのことである。
 そんなわけで、実家での細々として用件が多くて、そこで寝泊まりする方が便利な場合が多いので、自宅とは別に実家も拠点にしての生活を当面は続けるしかない。
 自宅と実家の生活環境の差異が甚だしくて、往復する度に適応に難儀する。しかし、その分だけ、適応の努力の必要が老体に刺激となって、老化を少しは抑制してくれるかもしれないと期待もする。その延長上では、老いてからの二重   
生活で短い余生を二倍に楽しめるかもなどと、お得意の馬鹿なことを考える。
 それにそもそも、僕に時間の、そしてもちろん、精神的な余裕がないのは、環境のせいなどではなくて、むしろすっかり宿痾となってしまった「書き魔」のせいなのである。
 いつだって、何の役にもたたないことを書くことに追われている。誰も読みそうにない文章で悪戦苦闘の繰り返しだから、まさに独り相撲!誰かに文句など言えるはずもない。これから始めることに決めた「折々の覚書」も、自分が自分に課したものだから、自分で自分の首を絞めることになりかねない。そんな僕が愚痴でも垂らしたら、それこそ愚の骨頂である。

3.去った人々

 それはさておき、今年は母を筆頭にいろんな人を亡くした。その筆頭として挙げるべきは、年下の畏友だった塚崎昌之さんである。9月中旬に亡くなって以来、その喪失感はしぶとい。なかなか埋まりそうにない。もし彼がいなかったら、この20年間の僕の生活は、はるかにやせ細ったものになっていただろう。そんな交遊について思い起こしながら、心からの別れの挨拶でもできるように、正直だと自分でも納得できそうなことを書き継いで、それをブログにアップするなどもして対話を続けたい。ところが、いざ書き始めてみると、驚くほどに書き進めない。彼のことならある程度は分かっているつもりだった。ところが、いざ先立たれてみると、分かってなどいなかったことがたくさんある。次々と疑問が沸いてきて、それに対する解答が何種類も、それも矛盾した形でせり上がってきて、収拾がつかない。亡くなった人を送る文章などこれが最後にしたいと思って、力が入りすぎるのかもしれない。或いは、母の死について半年以上も書き続けたせいで、その疲れが後を引いているのだろうか。
 彼の生前に、飲みながら延々としゃべり続けた現場を再現するつもりで書くだけのことだと思いながらも、なかなかうまくいかない。しかし、そのように書きあぐねているうちに、「塚崎流ダンディズム」をキーワードにしてはと、ヒントめいたことが浮かんできた。究極的にはそのキーワードに収斂していくように、書きながら考える。或いは、考えながら書いていこう。そして、その種のやり方こそが、僕のいつもの書き方であったことを、今更ながらに思い出した。
 塚崎さん絡みではそのほかに、「塚崎昌之さんの資料に導かれて在阪朝鮮人の歴史を歩く」(仮称)といった連続企画を生前の仲間数人が発起人となって立ちあげた。そして早速、既に3回、但し、一回目は準備練習という位置づけだったが、ともかく開催して好評だった。その調子で今後も続けたいのだが、参加者の大半が高年齢であるという実情なので、あまり寒い時期は避けたほうがよいだろうからと、次回は4月になりそうである。
 亡くなった人で言えば、先日にはネットで徐京植君の訃報が目に飛び込んできた。友人などとは呼びにくいが、18歳で初めて激烈で名調子の演説を聞いて以来、ずっと気になる存在だった。
 その頃だったか、或いは、少し後のことだったか、「高校三年の時に、京都から東京の予備校の夏期講習を受ける為に上京したが、有名なシャンソニエである『銀巴里』に日参するだけで、受験勉強なんかまったくできなかった」といった話を、謙遜なのか、自慢なのか、話すのを聞いて、「僕らとは生きて来た世界がまるっきり違う。在日もいろいろだ」などと驚かされた。彼はさらに「大阪の猪飼野などの本場で生まれ育った在日には勝てない」なんてことも言っていたので、猪飼野ではないが、同じく大阪の在日集住地域で生まれ育った僕の癇に障ったのか、記憶に鮮明である。
それから数年後にも酒席を共にしたが、その時には、その間にお兄さんたちのことでとんでもない苦労を重ねたせいか、表情や言葉に重みがつき、厭世的な雰囲気も漂わせていた。その後には会う機会がなかったが、彼の文章を読むたびに、僕とは相いれないことを確認するばかりで寂しかった。しかし、彼は彼の道を歩んでいくしかないだろうし、僕は僕の道を探し出すしかないと思っていた。それでも、彼のことを思うたびに、自分の軟弱さを痛感させられながら、だからと言って、その僕が大きく変わることはないだろうとの諦念をかみしめていた。
 彼も含めてその兄弟の多くがそれぞれにカリスマ的存在であることなども、地味が持ち味の僕ら兄弟とは正反対であることを痛感し、そのたびにそれでいいのだと自分に言い聞かせながら生きてきた。
「いつでも僕なんかよりはずっと先を突っ走り、亡くなるのも早かったなあ。それだけに大変だっただろう。ご苦労様!」というのが僕の掛け値なしの気持ちである。僕の方はできようことなら、まだまだこちらの世界にしつこく居座って、余生をほどほどに楽しみたいところだが、それが許されるかどうか・・・
 大学の在日サークルで一年だけ上だった金秀男さんも亡くなった。コロナ禍以前の5,6年間ほどには、東京に行く度に、彼の勤務先である韓国YMCAを訪問して、いろいろと話を聞かせてもらい、酒席を共にすることもあった。一度などはご夫妻にご馳走になったこともあるが、その度に、なんとなく話があわない感じがして寂しかった。彼の方も同じ気持ちだったのではなかろうか。
 在日のキリスト教会のコミュニティで育って来た人に特有の何かを感じて、それが僕の鼻についたのだろうか。信仰か何かよくは分からないが、そういう存在の核のようなものに従って生きてきた人特有の安定感、自信のようなものが、僕の自信のなさを刺激したのかもしれない。学生時代には聞いたこともない「シャローム」と挨拶されるたびに、落ち着かない気分にもなった。昔、学生時代に朝鮮総連系の学生たちに「トンム」と呼ばれるたびに抵抗感を覚えたが、それと似たことだったのか。こちらの許可や同意もなく、そんな呼称や挨拶を向けられるのは気持ちよくないといった、僕の偏屈さのせいだったのか。挨拶や相手に対する呼称は、それを発する人の主体性に任せるしかないことだが、僕の違和感と言うより抵抗感は、いったい何に由来していたのだろうか。
 ともかく、秀男さんは僕とは違って、酒を飲んで荒れたりすることがない人だった。少なくとも僕はそんな姿を見たことがない。そんなことに、今になって気づいた。酔った姿を見たことがないようでは本当の友達ではないなどと思っているわけではない。しかし、秀男さんは僕にとっては大学の先輩だったから、先輩としての役割を守ろうとしていたせいかもしれない。ギターを片手に韓国の歌を教えていただいた。大学のグリークラブ仕込みの美声と声量で、韓国の抵抗歌として有名な「鳳仙花」や「カゴッパ」を朗々と歌う姿が目に焼き付いている。僕は自他ともに認めるひどい音痴だから、その輝きはひとしおだった。
 因みに、先輩後輩というのは、個と個の対面関係の邪魔をしているように思えて、僕はすごく苦手だし嫌いな関係であり言葉だと、今更ながらに思う。願わくば、僕のことを先輩などと呼ばないでと、何度お願いしても聞いてくれない人がいて、そのせいで絶交に至った場合もある。なんとも、情けなく寂しいことである。いい加減にそんな関係から解放してもらいたいと思うけれど、先方にも言い分があるのだろうから、僕が勝手なことばかり主張するわけにはいかないのだが・・・「先生」という呼称の方はなにしろ長年の職業病みたいなものだからと、まだ少しは許せるが、それでも願い下げにしたいと、心底、思っている。

 高校時代の学友三人の訃報も少しの間隔をあけて届いた。すべてラグビー部員で、そのラグビー部の同期生たちは、高校三年生で自死したラグビー仲間NA君に対する痛切な記憶もあいまって、卒業して半世紀を経ても固い絆で結ばれているらしい。他方の僕は野球部だったし、ラグビー部同士の固い絆とは無関係だったが、それとは別の繋がりでNA君のことを気にかけてきたこともあって、ラグビー部の同期生たちの訃報が僕まで届いたのだろう。
 ここではその三人について述べる用意はないのだが、僕がずっと気がかりだったNA君のことだけ、少し触れてみる。
既に55年も前に自分で命を絶ったNA君のことを、今でも僕が気にしていることを、未公刊の僕の長編エッセイの草稿で知ったAR君(彼もまたラグビー部だった)が、二月ほど前にいきなり、僕も含めて3名の高校時代の友人を誘って、彼の運転で山間にあるNA君の墓に連れて行ってくれた。AR君がいなければ、この先に二度と探し当てることなでできそうにない墓地の一隅の、NA君のお姉さんが、嫁ぎ先の家族墓にNA君の納骨もしたらしいのだが、その墓を見てもNA君がそこで永眠していることなど誰にも分かるはずがない。
 その墓を見るうちに、長年にわたって僕に憑りついていたNA君にまつわる雑念が煙のように空に向かって飛んでいきそうな気がした。
 そしてその帰路には、AR君のお勧めの寿司屋で、寿司と刺身を肴に、おおいに笑いながら、おおいに飲んだ。そしてその翌日からは、NA君の死の事情などがあれほど気になって、つい最近まで、彼の家があったあたりを何度も歩き回っていた僕なのに、そんなことが嘘だったみたいに、すっかり気にならなくなった。感じ方が変わったと言うべきだろうか。NA君の死を惜しむ気持ちは消えて、彼なりに人生を全うしたのだと、気持ちよく別れを告げることができたのだろう。
 おかしなものである。彼がそこで永眠している証拠など何一つ見当たらない墓を見ながら、諸行無常みたいなことを思ったのかもしれない。いきなり声をかけてくれたAR君には、本当に感謝しなくてはならない。他にも感謝すべきことは山とあるのだが、今回は特にそうだった。なにしろ50年来の気がかりを一気に解消してくれたのだから。
その他にも亡くなった人がいる。すぐに思い浮かぶのが、母の末妹であり、母の死の1か月くらい後に韓国ソウルで、コロナ禍で亡くなったと言う。8月にソウルでその叔母の二人の娘(僕からすれば母方の従妹)と会食して、叔母の死の経 緯など直接に話を聞き、慰労の言葉を伝えることができたので、僕としてはよかった。

4.活動―講演、書き物、学会発表その他―

 韓国へは4月に済州へ、8月にはソウルと済州に行った。4月は母の納骨のために兄弟全員で赴いて、済州の漢拏山の中腹にある仏教寺の墓地で納骨式を行い、そこに参列してくれた父方と母方の親族一同に挨拶もできた。それで母の死にまつわる最大の儀式が終わり、少しは肩の荷が下りた(ブログで「母の死」と題して半年以上にわたって書き継いだ。母の死後には、母の夜間中学時代の作文も見つかったので、それもブログに別途にアップした)。
 もう一回は、ソウルと済州で知人や親戚を訪ねた。その様子についてメモした文章があるので、「2023年8月・ソウルと済州」と題して少し手を加えて、ブログにアップする予定なのだが、その一部だけでも、ここで触れておきたい。
ソウルでは携帯電話のノウハウを駆使できないと、とりわけ、国際ローミングなどの手続きなどをきちんとして使えるようにしておかないと、今や全くの「お上り老人」になって、右も左も分からなくて途方にくれかねない。そんなことを、これまで以上に痛感した。老化とITに関するリテラシーが、今後の僕の海外への旅の実りを大きく左右しそうなのである。
 わざわざ旅行社に依頼して予約したホテルだったのに、そのひどさにはうんざりした。今後は、アクセスが良くて過ごしやすいホテルでないと、すっかり高齢者になった僕などは、快適な滞在が難しいことを思い知らされた。済州には常宿にしているホテルがあるので不都合などないのだが、ソウルのような大都市(その意味では東京も似たようなもの)はすごく面倒に感じるようになった。
 それでも今回は随分と年下のOHさんと二人でソウルの街を歩き回り、博物館を梯子できたことが良い思い出になった。感謝!
 済州ではまたしても酒まみれとなった。広島で在日とフェミニズムに関する資料室を開設した高雄さんと安さんのお二人とは、同じホテルで宿泊し、おしゃべりを楽しみながら共有スペースでしこたま飲んだ。そこに済州在住の金恩希さんも合流して、運転手役まで引き受けてくださったので、僕も含めた4人で僕の従兄が創った森とその中のアトリエを訪問して、従兄独特のパステル画の技法についての話を聞いて、ご自身もパステル画をなさる高雄さんは感激していらした。因みに、高雄さんは最近、同人誌「あいだ」6号を発刊し、まとまった部数を送ってくださった。日本のフェミニズムと在日女性との関係について連載されており、僕は大いに刺激を受けながら注目している。
 年末になっても、二月に亡くなった母の行政的な手続き終わっていないこともあって、何かと落ち着かないが、既に触れたように、母の死に関して長々と書いてブログにアップしたのでやれやれである。A4で100枚を越える大長編でよれよれになりながら、ともかく終えた。
 その他、相続の手続きの経費を軽減するために、両親の大部な除籍謄本の翻訳を僕自らが行った。韓国の行政文書を初めて大量に、そしてきちんと読む過程で、我が一族のいろんなことを知るなど、刺激的だった。そうか、そうだったのか、などと発見も多かった。その一方で、70歳を過ぎるまで知らなかった不明を恥じた。

 朝鮮族研究学会全国大会では、数年前の調査の遅まきの報告を行ったが、その準備には随分と苦労した。何度も書き直し、最終的には最も力を入れた部分(全体の半分以上)を削除することで、少しは論文らしい工夫を凝らした報告だった。それだけに悔いも多い。しかも、それを研究雑誌などに投稿するには、またしても古びた僕の脳のエンジンのまき直しをしなくてはならないので、腰が引ける。しかし、それ以外の何らかの形で、例えば、削除前の草稿をブログにアップしてはどうかなどと思ったりもしている。ところが、研究目的であることを前提にしての調査の結果を、ブログといった私的な媒体で発表するのは、約束違反で拙いのではないかなどと、考えあぐねている。何をしても中途半端な僕が絡むと、何だってややこしくなる。仕方ないか。

 ところで、先にも触れた塚崎昌之さんと一緒に、東京の在日韓人歴史資料館で講演を含むシンポジウムを行ったのが7月末だった。その翌日には彼に案内してもらって、彼の生まれ育った神楽坂や靖国神社などを歩いているうちに、彼の体調の深刻さを、今更ながらに痛感し、すぐにでも病院での検査を強く勧めたが、彼は耳を貸さなかった。その後、随分してから、既にどうにもならない状態になって、彼もようやく重い腰を上げて、病院に駆け付けた。そしてすぐに入院したが、9月の半ばにあえなく亡くなった。
 彼の知人の多くにとっては寝耳に水の訃報だっただろうが、彼の異変に既に1年以上も前から気づいていた僕などは、力づくでも病院に連れて行かなかったのは、明らかな怠慢だった。そんな友人しか傍にいなかった彼の不幸であり、運命だったなどと、適当なことは言えそうにない。
 それはともかく、東京での講演に際しては、A3用紙で30枚を越える長い文章を事前に配布しており、その配布文書もブログにアップした。
 それとは別に、在日韓人歴史資料館に行けば、その講演会の映像をすべて見ることができるようになるらしい。僕は自分自身の映像を送ってもらったので、それを見て、恥ずかしい気持ちだったが、僕の子どもたちもいつかその気になりさえすれば、僕のそんな恥ずかしい姿を見ることはできるので、親ばかな僕としては有難いことである。
その他、資料館では塚崎さんの特別なコーナーも創設して、植民地期の在日に関する報道写真資料(塚崎さんがデータベースを構築)を公開する計画を立てておられる。その企画が無事に実行に移されたら、僕のような者にもお手伝いする機会があるかもしれず、これまた有難いことである。

 朝鮮族研究学会のニュースレターに、「老化と日本疲れの果てに出会った束の間のオアシスー『在日同胞』と『近代済州における日本人居留民の研究』というハングル版の研究書-」というエッセイを投稿した。二つの韓国の学術書のうちの前者は僕が知人から借りて、メモを取りながら急いで読んだものなので、いつかは自分で入手してじっくり読んで、批評的な書評でも試みたいと思っている。後者は一部の抄訳を試みてブログに掲載を目論んだが、諸事情でそれは断念したが、いつか全体の翻訳をめざしている。翻訳してようやく分かることが多々ありそうで、楽しみにしている。宿題が次々と出てくる。

 先にも触れたことだが、塚崎さんの遺志を受け継いで、塚崎さん作成の資料の助けを借りて、FW企画を継続していくことになり、今年は正式には2回、前座のような試験的実施も含めて3回、実行した結果、なかなかに好評だった。
先ず、準備運動としての試みが「旗振山、ジェームス山、そして平磯埋立地」。次いで、」正式の第一回が、「枚方の軍需工場と私市のいろいろ」そして昨年最後の第二回が「新大阪駅界隈、日之出、飛鳥地区、崇禅寺、淡路、東三国駅界隈」だった。
 それぞれについては参加者などに事後報告を作成してお送りしたが、その際には、参加者名は英文イニシャル表記にするなど、個人情報の守秘に神経を用いた。3回目の午前の案内をしてくれた宋実成さんとは久しぶりに会って嬉しかった。彼はひとりでなかなか面白そうなことを行っており、少しでも力になりたいのだが、果たして何ができるか。彼が発行しているソンジャーナルというお手製の刊行物、なかなか面白い。

 FW全般についての僕自身の経験や思いつきを、川崎で在日に関する活動に勤しむ知人から頂いたマップを頼りにして行ったので、その報告を「川崎桜本一人歩き」と題してブログにアップした。ついでだからと、それまでのいろんなFWや一人歩きの経験もそこに盛り込んで書いてみた。
 韓国の群山では観光バスでの集団のFWで、いろいろと愉しい出会いもあった。他方の日本国内では、東京の三河島、広島、下関、高松などの僕の一人歩きについて書いた。

 2023年の年末になって、半ばあきらめていた拙稿の刊行の目途がついて、ホッとしている。2年ほど前にある大学のある研究所の紀要に投稿した「玄善允著『金時鐘は「在日」をどう語ったか』に関する報告」の初校が年末に送られてきた。諸事情で刊行が二度も延期された結果、殆んど諦めかけていただけに嬉しかった。
 金時鐘に関する拙著の刊行を受けて、長年の親交がある文京洙さんのご厚意で開催された拙著のWEB書評の会における、岡崎享子さんの書評、それに対する僕の応答、その両方が合わせて刊行される。送られてきた初校に、全体の体裁などについての提案も含んだ朱を入れて送り返して、やれやれである。刊行は遅くても年度末、つまり2024年3月末までには刊行されそうで、何かと心労が多かったはずの関係者の皆さんに改めて感謝したい。
 
 上掲の金時鐘に関する拙著の刊行以後には、その副産物がいろいろあったが、その一つが以下である。
ハンセン氏病に関しての遅まきの勉強をするようになった。どちらも、神戸の一斉糾弾闘争の延長上の二つの系統の運動体のおかげである。
 一つは『むらぎも』という40年以上続く雑誌を中核にした運動体の人々から、さんざん探しても見つからなかった『むらぎも』全巻のデータを頂けるようになった。しかも、インタビューも実現した。そしてその後にその人たちから届くようになった諸種の印刷物を通して、ハンセン氏病関連の闘いについても少しは知るようになり、ハンセン氏病に関する闘いの歴史をなかったものにするような行政と日本財団(旧笹川財団)の癒着と暗躍も知らされ、日本は戦後処理に完全に失敗したことを再確認させられた。つまり、ハンセン氏病の問題は日本の植民地統治の問題と同根であるという常識を、僕も遅ればせながら、自分のものにし始めた。
 一斉糾弾闘争の延長上ではあるが、上記の運動体とは別系統の運動体からも、ハンセン氏病関連の運動に関する情報が入って来た。とりわけ、旧知の川口祥子さんの紹介もあって、WEB講演会などで、ハンセン氏病関連の現段階の焦点などについて勉強させていただいた。
 その他、川口祥子さんの『小鹿島・賤国への旅』という翻訳書のお手伝いを少しだけ行い、その延長上で韓国の小説家である李清俊の小 説の訳書『あなたたちの国』(姜信子訳)もお借りして読んで、いろいろと考えさせられることがあったが、それについては別途にじっくり考えて書くつもりなので、宿題としておきたい。
 翻訳書と原書、体験に関するノンフィクションと他人の体験をベースにした創作との差異、さらには小説とそれを原作とした映画との関係などについての、僕の個人的経験とそれについての僕の雑感を書きたいのである。

5.新年の予定

 既に触れたことだが、ブログに「折々のメモ」というカテゴリーを創設して、身辺雑記をできるだけ短文で、週に1回くらいの頻度でアップするのが新年の決意である。

 1月24日には東京在住の知人を案内して、僕が生まれ育ち、拙著『人生の同伴者』で詳細に描いた東三国界隈を歩く約束である。ついでなので、東京からおいでになる知人の意向を確認して、了解を取り付けることができたら、参加希望者を募ろうかと考えている。

 1月27日には朝鮮史研究会関西支部の月例の研究会(対面とzoomの両形式らしい)で、「金時鐘とは何者かー<自分・在日語りの済州篇」と題した口頭発表をする。既にブログで長々と書いてきたことを整理して発表の予定である。歴史研究者の皆さんの顰蹙を買いそうな内容になりそうだが仕方ない。学会発表としては僕の生涯で最後のものにするつもりである。関心のある方は、WEB参加で気楽にどうぞ。

 金稔万さんが青丘文庫の月例研究会の一環で上映するために、塚崎昌之さんのドキュメンタリーの製作を始めているので、それにできる限り協力しながら、既に触れたように、僕も塚崎さんとの交遊についての文章を書き継ぐつもりである。僕にとって今年で最も大事な作業になるだろう。

 3月末までには済州へ行きたいところだが、実現するかどうか。コロナのせいで延期を余儀なくされた第3回目の済州歴史と生活文化のFWに再チャレンジしたいところだが、少しは済州の観光バス料金や航空券などに関する情報を集めてから、いろんな方に打診するつもりである。しかし、それが無理な場合は、個人で一週間ほどの予定で済州に行き、これまでにできなかったことをやろうと思っている。ソウルは僕には大都会過ぎて、荷が重くなった。

 塚崎さんの遺志を継ぐFW企画は4月に、京都と大阪の間の大山崎界隈に関して、ウトロの運動で有名な斉藤さんを中心にしたグループが企画してくれることになっている。それが本年の第1回目となる。詳細が決まり次第、参加者を募りますので、奮ってご参加のほどを。

 小中学校時代の同窓会を開きたいという声があったので、いろいろと関係者に打診しながら準備を進めようと思っている。これも暖かくなってからがいいかなとやれないかと。
 20年ほど前に2回ほど行ったことがあるが、既に僕らも73歳と高齢者なので、その間に亡くなった人も多いだろう。したがって小規模になっても仕方ないし、これが最後になるかもしれないからこそ、なんとか実現できたらと思っている。そこでは僕は自分のことをどんな名前で紹介することになるかな?  (2024年1月6日)

新機軸テスト(亡き母とのツーショット)

2024-01-02 09:46:19 | 折々のメモ
 新年の第一便です。
 昨年の2月に母が永眠したので、喪中というわけで、新年のあいさつは控えますが、それに代えてのご挨拶です。

 数年前、既に10年になるでしょうか。在日三世の若い女性と知り合いになって、彼女が就職した韓国のニュース専門チャンネルの取材陣が、母のインタビューの為に6人も僕の実家にやってきて、インタビューをする様子を映像に収めたことがあります。
 僕はそのクルーと母の通訳のような役回りで同席していたのだが、写真を撮るので、笑ってくださいと何度も督促されて、辛うじて二人が微笑んでいる瞬間を写真家が撮って、記念に送ってくれたのが以下の写真である。その映像はもちろん、韓国のテレビで放映されて、その映像はDVDで、そしてこの写真も送って頂きました。
 母子が笑顔どころか、母子のツーショット自体が皆無なので、僕にとっては唯一の貴重な写真です。
 母と父が済州のミカン園で幸福を装っている?写真は僕ら子どもにとっても幸福なものなので、実家の母の遺影の横に拡大して掲げてあります。





 新年を契機に、今後は折に触れて、できるだけ短文のメモをブログにアップすることを新年の抱負と決め、さらに可能な限り、新機軸として写真も載せて、読まなくても、楽に見れるようにとの工夫のつもり。今回はその試験版です。
今年もどうかよろしく。

 自分ではたいしたことが出来そうもないので、反響に耳を傾けながら、人生を豊かにしたいものです。
 この写真のブログへのアップの仕方も、正月なので帰省してくれている東京在住の長女の力を借りてのことで、長年の宿願が10分で。持つべきものは娘?かな。

  2023年1月2日、今年の一回目の旗振山の山歩きに出かける直前に!

行ってきます。妻と長女は山歩きはきついから、散策に留めるとのことですが、僕もあまり負担にならないように、スロースロー!