折々のメモ2―、2024年3月10日
1.新年の誓いに対する裏切りの確認
新年を迎えるにあたって、僕自身にいくつかの約束、もしくは課題を設定したが、その一つが「折々のメモ」をできる限り気楽な短文に仕立てあげて、ブログにアップすることだった。
ところが、それから2か月以上も経ったのに、その約束がほとんど果たせていない。しかも、そのことに三日前になってようやく気付いて、健忘症のひどさに我ながら呆れてしまった。
その健忘症はもちろん、僕の記憶力の減退が一番の要因だろうが、それに加えて、僕の生活の落ち着きのなさも大いに関係していたようである。健忘症に気づいたのが、幾つかの急ぎの懸案も目途が立つようになった頃のことだからである。そこで、そのあたりのことも心覚えとして記することで、今後の僕の生活の指針にしたい。
2.亡き母の事業の跡継ぎ
昨年に母を亡くしてから、母が名義上の主だった実家の賃貸不動産の管理業務を、昨年の3月末で完全に無職となった僕が引き受けることになった。そして、その引継ぎの総まとめしての税金申告など、雑多な手続きが年度末を控えてようやく、なんとか終える見通しがついた。
母の遺産の相続などは、知人から強く勧められた司法書士に関係書類をすべて委ねてから既に半年にもなるのに終わっていない、しかし、それも3月末までには終了する見込みという連絡が、僕の再三の督促の果てにようやく届いたので、それを信じることにして、いったんは忘れることにした。それが空念仏にならないことをひたすら祈りながら、僕自身は自分ができることに専念するしかない。
3.ブログについて
僕はここ数年、終活のつもりで、身辺雑事を滅多やたらとを書いてブログにアップするだけでなく、随分と昔に書いた文章も改めて最低限の手直しをしたうえで、随分と遅ればせにブログに追加もしてきた。
僕の身の回りの書籍や資料などのすべては、僕が亡くなればすべて廃棄してもらって結構だが、誰の役にも立たなくても、迷惑にもならないだろうからち、ブログだけでも僕の生きた徴として残したいなどと未練たらしく考えてのことである。
ところが、他ならぬそのブログのシステムについては殆んど知らない。もっぱら文章を書いてはアップするだけといったように、必要最低限のことをひたすら繰り返してきた。
但し、週に一度はブログ運営会社からの情報が僕のメルアドに届く。その前の一週間内に何人が僕のブログにアクセスしたのか(UU、ユニークユーザー数つまり利用者数)、そしてその人たちが全体として何回アクセスしたのか(PV、ページヴュー数つまり閲覧数)が分かる。
それによると、僕のブログへのアクセスは、概ね一週間で約150UU、約250PVがこれまでの実績の平均だった。週による多少の高低はあるが、一週間に平均して、約150人が僕のブログにアクセスし、そのうちの半分くらいは複数回もしくは複数のタイトルにアクセスしているとのことなのである。
それはブログの読者として決して多い数ではないどころか、圧倒的に少ない方である。しかし、僕はその数を増やす工夫など何一つしてこなかった。写真を載せる方法も知らなかったからできなかったのである。2か月ほど前に、偶然に写真の載せ方が分かったので、少しだけ試してみたが、それっきりである。
したがって、僕のブログの最大の特徴は<芸がない>ことである。写真はなく、もっぱら長い文章の文字だけで埋められて、愛想のないこと!
しかも、その文章が、もっぱら自分とその周囲のことばかりだから、一般の人々の関心を引くなんて殆んど考えられない。それだけに、アクセス数がたとえいくら少数であっても、一定数が維持されているという事実に、むしろ僕は驚き、大いに感謝してきた。
ところが、先々週あたりから、異変が始まった。
この3週間に限っては、400UU、600PVとそれ以前の2倍以上で3倍に迫る場合もある。さらには、たった一日で150UU、250PVというこれまでには一週間のものだった数字が出現することもある。ただならない事態である。
そんな驚くべき事態なのに、僕はそのことをほんの数日前になってようやく知った。ブログに関するリテラシーが著しく低かったのに、何かをきっかけにして、そのリテラシーがほんの少しだけ向上したおかげである。リアルタイムアクセス数と言って、過去6時間以内に、何人がどのカテゴリーにアクセスしたのか、そして現時点で何名がアクセス中であるか、なども確認できる方法があることを知ったので、それを試してみて初めて知ったことなのである。
しかも、真夜中や夜明け前にアクセスしている人がいることも分かるようになったし、最もアクセス数が増えた日などには、「韓国の小説の翻訳」というカテゴリーへのアクセスが多いといった、僕は想像もしていなかったことも知って、大いに喜びもした。
そうした突然のしかも急激なアクセス数の増加その他の理由は全く分からない。したがって、一時的なのか今後も継続することなのかも分からないが、ともかく、ここ3週間は続いているので、その3週間という事実を手掛かりにして考えれば、心当たりが全くないわけでもない。
ちょうど3週間ほど前に、在日韓国学生同盟大阪についての極私的物語の連載を始めたので、それが理由なのかもしれないのである。しかし、落ち着いて考えてみると、それは相当に怪しい推論である。
それと言うのも、僕も一員であったその組織の関係者と僕との関係は、今やすっかり細くなってしまっているし、その人たちが僕のことばかりか僕の書くことに、共感してくれるとは、僕にも思えないからである。それに、それ以前の僕のブログの読者の中にその組織の関係者の占める率は低かったはずだし、この度、それについて書いたものをアップし始めることを、ごく一部の人たち(その研究をしていると聞いた人たち)以外には、僕から特に知らせたということもないからである。
それはともかく、アクセス数が増えたことについては、その理由が何であれ、書き手の僕としては有難いことである。いくら拙いものでも、多くの方に読んでもらえればそれに越したことはない。だから、当然にその異変を僕は喜んでいるのだが、しかし、読者の数はそれほど重要視しておらず、数がいくら少なくても、楽しみにしてくれる人、目くらいは通してあげようかと思ってくれる人が一人でもいれば、それで十分である。それを励みに少しでも<嘘の少ない文章>にする努力は続けたいと思っている。但し、読者に申し訳ないので、僕の癖である長いセンテンスをできるだけ短く、そして、一回にアップする文章の量もできるだけ短くすることくらいのことは心がけたいのだが、僕が既に書いた草稿の量と僕に残された時間などを考え合わせると、なかなかそうはいきそうになくて、申し訳ないと本気で思っている。
4.金時鐘さん、及び、その人とも関係する兵庫県の「一斉糾弾闘争」
2年前に刊行した拙著『金時鐘は「在日」をどう語ったか』の続編として、かねてからブログにアップするなど試行錯誤を重ねてきた文章を、ひとまず整理して、1月27日の朝鮮史研究会関西部会で口頭発表を済ませるなど、一段落した。そして、それを最後の機会として、僕の公的な場での<研究発表もどき>は終えることに決めていたから、少なくとも僕にとっては記念すべきものだった。
その発表の為に準備した長い論文もどき「金時鐘とは何者かの済州篇」をどのような形で公開するか、その媒体探しが課題として残っているが、とりあえずは、やれやれの気分である。
しかも、それと時を合わせるかのようにして、2年ほど前に開かれた「拙著に関するWEB書評の会」(文京洙氏企画・司会)における議論を僕の立場から整理した拙論が掲載される紀要が、ようやく刊行される運びとなった。立命館大学コリア研究センター紀要8号に掲載された「書評に応える、『金時鐘は在日をどう語ったか』」が、それである。岡﨑享子さんの拙著に対する書評とセットになっているので、合わせて読んでいただくことができれば、拙著も含めた金時鐘に関する僕のこれまでの議論の意味が少しはくっきりとして、理解も容易になるのではと期待している。
金時鐘さん関連の今後の僕の仕事としては、兵庫県の「一斉糾弾闘争」を一時はリードし、その後にも分裂を重ねながらも、継続して初志を貫徹すべく格闘している「むらぎも」グループについての、僕なりの見解を明らかにするという課題が残っている。
しかしその為には、半世紀以上に亘って刊行されてきた膨大な資料(「むらぎも通信」の全巻のディジタル版を読み込まねばばならず、それだけでも僕の力にあまる。現時点では1985年頃の35号までしか読了できていないくらいだが、今さら焦っても仕方がない。自分の能力その他の限界の自覚が僕には決定的に不足しているからこそ、これまでの生活に無用なひずみが生じ、周囲の人々に迷惑をかけてきた。そのことを再確認しながら、身丈にあった努力に徹するように心がけたい。
それにしても、「むらぎも通信」を読んでいると、人々の一念のすごさと、それを捻り潰そうとする権力の横暴の執拗さを、今更ながらに痛感する。そんな現実から目を背けて、美しい物語に酔い痴れているわけにはいかないと、つくづく思う。
5.塚崎さんについて
昨年9月に亡くなった塚崎さんとの20年に亘る交遊について書こうと何度も試みたが、うまくいかない。それはおそらく、彼の生前には安定しているつもりだった僕の塚崎観が、彼の死を契機に大きく揺れ動きだしたこと、さらには、僕の書き物が遺族その他の関係者を傷つけはしまいかとの懸念もあってのことだった。
しかし、先日に塚崎さんの人生の同行者だった大田季子さんにお会いした際に、そのことについて少しお話したところ、「何だって気にせずに、どしどし書いてください」との言葉を頂いたので、もう一度、腰を落ち着けて書いてみようと、自分を励ましている。
但し、これまた焦りは禁物で、書きながら彼との交遊を反復する悦びを、僕の余生の糧にするつもりで、くれぐれも少しずつと、自らに言い聞かせている。
因みに塚崎さんとも絡んで、最近に三つの出来事があったので、それをかいつまんで報告しておきたい。
一つは彼が遺した膨大な新聞写真のデータを、東京の在日韓人歴史資料館で保存・展示するほか、来年秋には特別展も開催するといった誠に喜ばしい企画があり、その準備が着々と進んでいる。
生前の塚崎さん自身が了承し、楽しみにもしていた企画であり、資料館館長はその為に何度も大阪に足を運び塚崎さんと僕と相談していたが、先日は報道写真の専門家も交えて僕も塚崎さん宅を訪問し、塚崎さんが愛用していたパソコン内に収納されている大量のデータの複写に、なんとか成功した。
その際には、塚崎さん宅の4室を埋め尽くす資料の山の中から、僕ら数人が企画して進めて「塚崎昌之さんの資料に導かれて、在阪朝鮮人の歴史を歩く」フィールドワークの継続にとって必須の資料や小道具なども見つけだして、その一部をいったん僕の実家に持ち帰った。その一部を早速、4月20日(土)に計画している三島地区のフィールドワークで活用することになる。ご期待のほどを。
塚崎さんの次女で、久しく沖縄に住み着いて平和ガイドの傍ら琉球大学の大学院で学徒動員兵士の研究中の大田光さんが、豊中など北大阪の教職員組合連合会の招きで2月11日に講演されると聞いて、ウトロの斉藤さん、映像作家の金稔万さんなどと一緒に参加して、その見事な講演に舌を巻いた。
150名ほどの聴衆もおそらく僕らと同じような感銘を受けたはずで、母親の大田季子さんも「塚崎の講演よりもはるかに良かった」といかにも長年連れ添ったパートナーらしい表現で評価し、満足のご様子だった。
10年以上も前の僕の沖縄初訪問の際に何かとお世話になっただけでなく、済州では父親の塚崎さんとその僚友である高野さん、さらには塚崎さんの旧友である漢拏日報の記者とも一緒に、豚の焼き肉を食べながら愉しい時を過ごしたこともあったが、その後の彼女の成長ぶりに驚く一方で、その柔らかな感性と物腰、そして口調には少しも変化が見られないことに、何故かしら心が温かくなって癒される気分だった。その個性を見失うことなく、しっかりと生かすような研究が、今後も継続することを願ってやまない。それを遠くから見つめることが、僕の余生の励みになるだろう。
ところで今回はこのブログには珍しく、写真を添えたのでそれについての説明も少々。
この塚崎さんと僕のツーショットは、後でも説明する企画「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク」の際に、参加者の多くが泊まっていた済州のホテル内の、無料のラウンジでの僕らの様子を収めた動画の一部であり、そのうちの塚崎氏の写真だけを、撮影者の金稔万さんは、塚崎氏の人生をテーマにした短いドキュメンタリーフィルムの冒頭に用いて、見事な効果を発揮している。その作品を見た際に僕は、その塚崎さんの横に僕自身が、それも普段は決して見せない満面の笑顔を浮かべながら座っていたなんて夢にも思っていなかった。後でそのことを、撮影者の金稔万さんから教えられて、すごく有難いことと感謝している。こんなに楽しそうな表情を僕がするなんて自分でも驚きである。
6.済州について
上で触れたこととも大いに関係するが、済州に関しては2019年と2020年に、僕がそれまで長年にわたって温めてきた「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク」を2回も実現し、その延長上では2021年には最後のつもりの3回目も企画して、参加者も確定するなど準備万端だったが、折からのコロナ禍のせいで、断念を余儀なくされた。
その2回目には、漢拏山の南側の海岸に位置する為美里という美しい村のお洒落なカフェで、知人のチョン・ドヨンさんの講演をみんなで拝聴した。その際に彼女は、参加者に新鮮で刺激的な話と清々しくてダイナミックな人柄で僕らに感銘を与えてくれた。(この講演その他、フィールドワークの全行程については、ブログの「済州の歴史と生活文化」というカテゴリー内に、僕の長い報告があるのでご参照のほどを)
そんなチョン・ドヨンさんが、ユネスコ世界文化遺産の2024年度の祝典の総監督に任命されたという、なんとも嬉しいニュースが届いた。
元来、彼女は済州の人ではなく、<陸地>で生まれ育ち、大学で演劇の演出を学び、その後、方向を少し変えて、様々なスタイルの公演の演出を専門とするようになった。そして、済州のオㇽレ(24に及ぶ多様に開発されたウォーキングコース)に並々ならない関心を抱いて、済州オㇽレの理事長に直接に手紙を送って、そのオㇽレにおける地元民による野外公演の演出の提案をしたところ認められて、済州にやってきた。
そして済州の歴史や文化の研究を地道に進めながら、済州オㇽレにおける多様な公演の新機軸を開拓した。その成功に力を得た彼女は、先にも触れた為美里という海岸村に事務所を構え、さらに本格的に済州の様々なイベントの演出を手掛けるようになった。
その中でも僕が最も魅力を覚えたのは、村おこしの一環として、村民の昔の生活の話を丁寧に聞き取り、それをベースにしたミュージカルのシナリオを自らが書いて、村民自身を役者として舞台に立てたミュージカル公演の実現だった。
その他、彼女は済州の4・3関連行事などの企画はもちろん、さらには<陸地>にも活躍の場を広げた。例えば、セウォル号の痛ましい海難事故と言う名の人災の追悼イベントの企画なども担当した。
そんな彼女が、済州のユネスコ世界文化遺産の今年で5回目になる記念的祝典の総監督に任命されたからには、喜ばないでおれるわけがない。
僕は両親が済州出身ではあっても、僕自身は生粋の在日であり、済州で生活したことがなく、自他ともに認める<外地人>である。だから、その事実を忘れることなく、済州についてもさらには韓国についても当事者として語ることを自らに禁じてきた。
それとは対照的に、チョン・ドヨンさんは元来が外地人であっても、済州に飛び込んでそこに暮し、今や済州の地元民と外地人の結節点のような役割を積極的に引き受け、済州に新たな刺激を与えると同時に、済州からも多くの恵みを得て雄々しく活躍している。そんな姿をモデルケースとして、あくまで外地人として、済州や韓国に関わりながら、余生を愉しく生きようと思っている。そのための新たな励ましを得た気分である。
因みに、ネットで目にした彼女の総監督任命に関する情報の一部は以下の通りなので。拙訳で紹介する。
2024年世界自然遺産祝典―済州火山島と溶岩洞窟―が今年の10月に開催される。5回目を迎えた今年は、文化・芸術企画者兼公演演出家のチョン・ドヨン氏を総監督に任命した。
済州世界遺産祝典は2020年から20022年までは国費事業としたが、昨年は地方費だけとなり、今年は国費と地方費を折半で投入する形で開催される。今回は中長期的観点から、「自主的な力量の確保と持続的拡散のための基盤整備を目標にして、総監督としてチョン・ドヨン氏を任命した。・・・
チョン・ドヨン総監督は、「世界遺産地域の住民たちの参与の機会を拡大して、祝典の代表的なプログラムとしての位置を確固とできるように努力したい。済州が世界遺産の価値を広く知らしめるプレミアム文化観光のブランドになることに寄与したい」と抱負を明らかにした。
7.太閤道の山歩きと大山崎山荘美術館の観覧で心身の健康を
久しぶりに、おそらくは30年ぶりの太閤道の山歩き、そしてまた、ほぼ20年ぶりの大山崎山荘美術館の観覧を、ある人の「気分転換に歩きませんか」という言葉に励まされて企画(3月9日土曜日)して呼びかけたところ、男女それぞれ3人ずつの6人が同行して山の空気を吸いながら楽しむことができた。
今回の参加者の全員が、2020年の第二回「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク参加者でもあったので、旧交を温める機会にもなった。3人が在日、3人が日本人で、済州フィールドワークと同じように出自その他、年齢、社会的ステイタス、さらには生まれ育った都市、現に暮している都市に至るまで、多様性が目立った特徴だった。
僕は呼びかけ人としての責任もあるので、集合時刻の1時間前には集合場所に到着し(中学時代の野球部での躾、つまり、集合時間の半時間前、但し、1年生はさらにその半時間前に集合という内規が、病的なものになったのが僕)、バス乗り場なども念のために確認してから、持参した書き物の草稿などを読みながら、皆さんの到着を待った。誰一人、遅れることなく、集まって頂いたので、すぐさまバス乗り場に直行したが、天候が不安だった。雪がちらつき、北風が冷たくて、前途について少し心配した。
バスで15分ほど、その間、お喋りに夢中で、運転手さんの厳しいお叱りを頂戴するなど、久しぶりの山歩きで浮かれている自分に気づかされた。運転手さん、そして同乗していたお客さんたちに申し訳ないことだった。遅ればせながようのら、ごめんなさい!
事前にネットで検索して、20枚近くの写真などの案内をプリントアウトしていたおかげで、一度も迷うことなく、コースをひたすら歩くことができた。停留所でバスを待つ間には少し天候の心配もしていたが、山に入ると、北風はほぼ完全に山が遮ってくれたので、ほとんど無風状態の中をあることができた。急な登坂もなくて、比較的に楽なコースだろう。山頂からは、淀川とその向こうの男山が、さらには、木津川と宇治川と桂川が合流する三川合流地点とそこから大きな淀川となって大阪湾まで下っていく起点の周辺が一望できた。その昔、そのあたりのサイクリングロードにすごくお世話になった記憶が蘇ってノスタルジーに浸ることもできて、感謝!(ブログのサイクリングのカテゴリーには、関連する文章がいくつかあるので、どうかご参照のほどを。中でも「早朝自転車通勤とパスカル」というタイトルの文章が三川合流や淀川、木津川の川と河川敷などの違いについて詳しく書いている)
ゴルフ場の真横を通りながら、昔のままで、全く変わっていないなあと少し興奮した。下りはなかなかの高低差があって、やはり杖があった方がよさそうだし、軽い山歩きでも靴はそれなりのものでないと、怪我をしかねないので要注意。若山神社に着いた時には、既に4時で、そこから山荘美術館までは1時間ほどかかりそうなので、断念した。
僕らの先頭を歩いていた元気印の二人は、神社の参詣道で、猪猟をしている現場に出くわしたらしい。猪の内臓まで露出していて、その横には顔中、血まみれの猟犬がいて、猟銃を下げた主人は二人の女性のことを考えて、脇にその猪を引きづっていたとか。
なるほど、そのあたりの森林、例えば、すごく見事な竹林などには、獣害被害防止のネットが張り巡らされているのも当然と思い知った。
山荘を断念したからには、後は、居酒屋を見つけるのが最大の問題。最寄りの島本駅周辺には何もなさそうで、仕方なく、さらに進んで水無瀬駅の周辺を目標にして下り坂を歩いて行くと、島本町役場にさしかかった。反核宣言などの看板も会って、その街で今もなお、そのようなスローガンのもとに頑張っているウトロの斉藤さんのことを頭に浮かべた。そのうちに、阪急の踏切を渡った際に、そこは塚崎さんのフィールドワークでいろいろと説明を受けた場所だったと、いきなり思い出した。そして踏切を渡ってからの街並みは、まさにあのフィールドワークで歩いた道であると確認しているうちに、そのフィールドワークで最も印象深かった公園にたどり着いた。「まさにここだった」と感慨が。
水無瀬駅の駅と線路の下にある小さな居酒屋「のんた」(小野さんがネットで検索してよさそうなのでと決めた)におそるおそる入った。まだ開店の5時にはなっていなかったが、入れてくれた。客は誰もおらず、カウンターの7席(補助椅子が2つくらいあったけど)だけで、飲み物2杯と料理5品のセットが1400円。どれも京都のおばんざいでおいしかったから、おおいにお勧めの店だけど、グループで押しかける際には、事前に予約しておかないと無理。
僕ら6人の後に、一人だけ、僕と同年配の男性客が入って来て、僕らよりも早く帰った。僕らはそのセット以外にも、次々と注文して大いに食べ、飲んで、お喋りした。興り深い話がいろいろと聞けて、知っているつもりでも実際に話を聞いてみないと分からないことを、今更ながらに痛感した。
結局は5時前に入って3時間ほど居座った。
しかも、僕と金稔万さんは高槻で阪急からJRへの乗り換える際に、今風のお洒落なたこ焼き屋で梯子酒。すっかり酔って実家にたどり着いたのは11時頃だった。
しかし、そのおかげで、僕には珍しく、午前9時頃まで爆睡だった。居酒屋の奥さん(一人で営業している年輩の女性に、そのように呼びかけたら、そんな呼び方をされたのは初めてと言われた。しかし、僕には他に適当な呼称が思い浮かばなかった、申し訳ない!「奥さん」はダメなのかな?スナックでもないのだから、「ママさん」とは僕は呼びにくい!)
実家から太閤道を経由して実家までの全道程の歩数は20149歩、歩行距離は14,9キロメートル、歩行時間は3時間33分、消費カロリーは454,2キロカロリー、脂肪燃焼量64,8グラム。以上が僕の携帯の情報で、こういうデータとも遊びながら、気楽に生きていきたい。。
7.終わりに
出来る限り短文にするという目標もしくは約束は、今回も果たせなかった。折々に簡略に書くことを怠ったせいで、書きたいことが一挙に多くなったという当然の結果である。日々のささやかで着実な努力の積み重ねが大事なことを、改めて肝に命じなくてはなるまい。我が家の雪柳もどんどん花開いており、春の到来はもうそこ
に来ている。(2024年3月10日16時)
1.新年の誓いに対する裏切りの確認
新年を迎えるにあたって、僕自身にいくつかの約束、もしくは課題を設定したが、その一つが「折々のメモ」をできる限り気楽な短文に仕立てあげて、ブログにアップすることだった。
ところが、それから2か月以上も経ったのに、その約束がほとんど果たせていない。しかも、そのことに三日前になってようやく気付いて、健忘症のひどさに我ながら呆れてしまった。
その健忘症はもちろん、僕の記憶力の減退が一番の要因だろうが、それに加えて、僕の生活の落ち着きのなさも大いに関係していたようである。健忘症に気づいたのが、幾つかの急ぎの懸案も目途が立つようになった頃のことだからである。そこで、そのあたりのことも心覚えとして記することで、今後の僕の生活の指針にしたい。
2.亡き母の事業の跡継ぎ
昨年に母を亡くしてから、母が名義上の主だった実家の賃貸不動産の管理業務を、昨年の3月末で完全に無職となった僕が引き受けることになった。そして、その引継ぎの総まとめしての税金申告など、雑多な手続きが年度末を控えてようやく、なんとか終える見通しがついた。
母の遺産の相続などは、知人から強く勧められた司法書士に関係書類をすべて委ねてから既に半年にもなるのに終わっていない、しかし、それも3月末までには終了する見込みという連絡が、僕の再三の督促の果てにようやく届いたので、それを信じることにして、いったんは忘れることにした。それが空念仏にならないことをひたすら祈りながら、僕自身は自分ができることに専念するしかない。
3.ブログについて
僕はここ数年、終活のつもりで、身辺雑事を滅多やたらとを書いてブログにアップするだけでなく、随分と昔に書いた文章も改めて最低限の手直しをしたうえで、随分と遅ればせにブログに追加もしてきた。
僕の身の回りの書籍や資料などのすべては、僕が亡くなればすべて廃棄してもらって結構だが、誰の役にも立たなくても、迷惑にもならないだろうからち、ブログだけでも僕の生きた徴として残したいなどと未練たらしく考えてのことである。
ところが、他ならぬそのブログのシステムについては殆んど知らない。もっぱら文章を書いてはアップするだけといったように、必要最低限のことをひたすら繰り返してきた。
但し、週に一度はブログ運営会社からの情報が僕のメルアドに届く。その前の一週間内に何人が僕のブログにアクセスしたのか(UU、ユニークユーザー数つまり利用者数)、そしてその人たちが全体として何回アクセスしたのか(PV、ページヴュー数つまり閲覧数)が分かる。
それによると、僕のブログへのアクセスは、概ね一週間で約150UU、約250PVがこれまでの実績の平均だった。週による多少の高低はあるが、一週間に平均して、約150人が僕のブログにアクセスし、そのうちの半分くらいは複数回もしくは複数のタイトルにアクセスしているとのことなのである。
それはブログの読者として決して多い数ではないどころか、圧倒的に少ない方である。しかし、僕はその数を増やす工夫など何一つしてこなかった。写真を載せる方法も知らなかったからできなかったのである。2か月ほど前に、偶然に写真の載せ方が分かったので、少しだけ試してみたが、それっきりである。
したがって、僕のブログの最大の特徴は<芸がない>ことである。写真はなく、もっぱら長い文章の文字だけで埋められて、愛想のないこと!
しかも、その文章が、もっぱら自分とその周囲のことばかりだから、一般の人々の関心を引くなんて殆んど考えられない。それだけに、アクセス数がたとえいくら少数であっても、一定数が維持されているという事実に、むしろ僕は驚き、大いに感謝してきた。
ところが、先々週あたりから、異変が始まった。
この3週間に限っては、400UU、600PVとそれ以前の2倍以上で3倍に迫る場合もある。さらには、たった一日で150UU、250PVというこれまでには一週間のものだった数字が出現することもある。ただならない事態である。
そんな驚くべき事態なのに、僕はそのことをほんの数日前になってようやく知った。ブログに関するリテラシーが著しく低かったのに、何かをきっかけにして、そのリテラシーがほんの少しだけ向上したおかげである。リアルタイムアクセス数と言って、過去6時間以内に、何人がどのカテゴリーにアクセスしたのか、そして現時点で何名がアクセス中であるか、なども確認できる方法があることを知ったので、それを試してみて初めて知ったことなのである。
しかも、真夜中や夜明け前にアクセスしている人がいることも分かるようになったし、最もアクセス数が増えた日などには、「韓国の小説の翻訳」というカテゴリーへのアクセスが多いといった、僕は想像もしていなかったことも知って、大いに喜びもした。
そうした突然のしかも急激なアクセス数の増加その他の理由は全く分からない。したがって、一時的なのか今後も継続することなのかも分からないが、ともかく、ここ3週間は続いているので、その3週間という事実を手掛かりにして考えれば、心当たりが全くないわけでもない。
ちょうど3週間ほど前に、在日韓国学生同盟大阪についての極私的物語の連載を始めたので、それが理由なのかもしれないのである。しかし、落ち着いて考えてみると、それは相当に怪しい推論である。
それと言うのも、僕も一員であったその組織の関係者と僕との関係は、今やすっかり細くなってしまっているし、その人たちが僕のことばかりか僕の書くことに、共感してくれるとは、僕にも思えないからである。それに、それ以前の僕のブログの読者の中にその組織の関係者の占める率は低かったはずだし、この度、それについて書いたものをアップし始めることを、ごく一部の人たち(その研究をしていると聞いた人たち)以外には、僕から特に知らせたということもないからである。
それはともかく、アクセス数が増えたことについては、その理由が何であれ、書き手の僕としては有難いことである。いくら拙いものでも、多くの方に読んでもらえればそれに越したことはない。だから、当然にその異変を僕は喜んでいるのだが、しかし、読者の数はそれほど重要視しておらず、数がいくら少なくても、楽しみにしてくれる人、目くらいは通してあげようかと思ってくれる人が一人でもいれば、それで十分である。それを励みに少しでも<嘘の少ない文章>にする努力は続けたいと思っている。但し、読者に申し訳ないので、僕の癖である長いセンテンスをできるだけ短く、そして、一回にアップする文章の量もできるだけ短くすることくらいのことは心がけたいのだが、僕が既に書いた草稿の量と僕に残された時間などを考え合わせると、なかなかそうはいきそうになくて、申し訳ないと本気で思っている。
4.金時鐘さん、及び、その人とも関係する兵庫県の「一斉糾弾闘争」
2年前に刊行した拙著『金時鐘は「在日」をどう語ったか』の続編として、かねてからブログにアップするなど試行錯誤を重ねてきた文章を、ひとまず整理して、1月27日の朝鮮史研究会関西部会で口頭発表を済ませるなど、一段落した。そして、それを最後の機会として、僕の公的な場での<研究発表もどき>は終えることに決めていたから、少なくとも僕にとっては記念すべきものだった。
その発表の為に準備した長い論文もどき「金時鐘とは何者かの済州篇」をどのような形で公開するか、その媒体探しが課題として残っているが、とりあえずは、やれやれの気分である。
しかも、それと時を合わせるかのようにして、2年ほど前に開かれた「拙著に関するWEB書評の会」(文京洙氏企画・司会)における議論を僕の立場から整理した拙論が掲載される紀要が、ようやく刊行される運びとなった。立命館大学コリア研究センター紀要8号に掲載された「書評に応える、『金時鐘は在日をどう語ったか』」が、それである。岡﨑享子さんの拙著に対する書評とセットになっているので、合わせて読んでいただくことができれば、拙著も含めた金時鐘に関する僕のこれまでの議論の意味が少しはくっきりとして、理解も容易になるのではと期待している。
金時鐘さん関連の今後の僕の仕事としては、兵庫県の「一斉糾弾闘争」を一時はリードし、その後にも分裂を重ねながらも、継続して初志を貫徹すべく格闘している「むらぎも」グループについての、僕なりの見解を明らかにするという課題が残っている。
しかしその為には、半世紀以上に亘って刊行されてきた膨大な資料(「むらぎも通信」の全巻のディジタル版を読み込まねばばならず、それだけでも僕の力にあまる。現時点では1985年頃の35号までしか読了できていないくらいだが、今さら焦っても仕方がない。自分の能力その他の限界の自覚が僕には決定的に不足しているからこそ、これまでの生活に無用なひずみが生じ、周囲の人々に迷惑をかけてきた。そのことを再確認しながら、身丈にあった努力に徹するように心がけたい。
それにしても、「むらぎも通信」を読んでいると、人々の一念のすごさと、それを捻り潰そうとする権力の横暴の執拗さを、今更ながらに痛感する。そんな現実から目を背けて、美しい物語に酔い痴れているわけにはいかないと、つくづく思う。
5.塚崎さんについて
昨年9月に亡くなった塚崎さんとの20年に亘る交遊について書こうと何度も試みたが、うまくいかない。それはおそらく、彼の生前には安定しているつもりだった僕の塚崎観が、彼の死を契機に大きく揺れ動きだしたこと、さらには、僕の書き物が遺族その他の関係者を傷つけはしまいかとの懸念もあってのことだった。
しかし、先日に塚崎さんの人生の同行者だった大田季子さんにお会いした際に、そのことについて少しお話したところ、「何だって気にせずに、どしどし書いてください」との言葉を頂いたので、もう一度、腰を落ち着けて書いてみようと、自分を励ましている。
但し、これまた焦りは禁物で、書きながら彼との交遊を反復する悦びを、僕の余生の糧にするつもりで、くれぐれも少しずつと、自らに言い聞かせている。
因みに塚崎さんとも絡んで、最近に三つの出来事があったので、それをかいつまんで報告しておきたい。
一つは彼が遺した膨大な新聞写真のデータを、東京の在日韓人歴史資料館で保存・展示するほか、来年秋には特別展も開催するといった誠に喜ばしい企画があり、その準備が着々と進んでいる。
生前の塚崎さん自身が了承し、楽しみにもしていた企画であり、資料館館長はその為に何度も大阪に足を運び塚崎さんと僕と相談していたが、先日は報道写真の専門家も交えて僕も塚崎さん宅を訪問し、塚崎さんが愛用していたパソコン内に収納されている大量のデータの複写に、なんとか成功した。
その際には、塚崎さん宅の4室を埋め尽くす資料の山の中から、僕ら数人が企画して進めて「塚崎昌之さんの資料に導かれて、在阪朝鮮人の歴史を歩く」フィールドワークの継続にとって必須の資料や小道具なども見つけだして、その一部をいったん僕の実家に持ち帰った。その一部を早速、4月20日(土)に計画している三島地区のフィールドワークで活用することになる。ご期待のほどを。
塚崎さんの次女で、久しく沖縄に住み着いて平和ガイドの傍ら琉球大学の大学院で学徒動員兵士の研究中の大田光さんが、豊中など北大阪の教職員組合連合会の招きで2月11日に講演されると聞いて、ウトロの斉藤さん、映像作家の金稔万さんなどと一緒に参加して、その見事な講演に舌を巻いた。
150名ほどの聴衆もおそらく僕らと同じような感銘を受けたはずで、母親の大田季子さんも「塚崎の講演よりもはるかに良かった」といかにも長年連れ添ったパートナーらしい表現で評価し、満足のご様子だった。
10年以上も前の僕の沖縄初訪問の際に何かとお世話になっただけでなく、済州では父親の塚崎さんとその僚友である高野さん、さらには塚崎さんの旧友である漢拏日報の記者とも一緒に、豚の焼き肉を食べながら愉しい時を過ごしたこともあったが、その後の彼女の成長ぶりに驚く一方で、その柔らかな感性と物腰、そして口調には少しも変化が見られないことに、何故かしら心が温かくなって癒される気分だった。その個性を見失うことなく、しっかりと生かすような研究が、今後も継続することを願ってやまない。それを遠くから見つめることが、僕の余生の励みになるだろう。
ところで今回はこのブログには珍しく、写真を添えたのでそれについての説明も少々。
この塚崎さんと僕のツーショットは、後でも説明する企画「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク」の際に、参加者の多くが泊まっていた済州のホテル内の、無料のラウンジでの僕らの様子を収めた動画の一部であり、そのうちの塚崎氏の写真だけを、撮影者の金稔万さんは、塚崎氏の人生をテーマにした短いドキュメンタリーフィルムの冒頭に用いて、見事な効果を発揮している。その作品を見た際に僕は、その塚崎さんの横に僕自身が、それも普段は決して見せない満面の笑顔を浮かべながら座っていたなんて夢にも思っていなかった。後でそのことを、撮影者の金稔万さんから教えられて、すごく有難いことと感謝している。こんなに楽しそうな表情を僕がするなんて自分でも驚きである。
6.済州について
上で触れたこととも大いに関係するが、済州に関しては2019年と2020年に、僕がそれまで長年にわたって温めてきた「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク」を2回も実現し、その延長上では2021年には最後のつもりの3回目も企画して、参加者も確定するなど準備万端だったが、折からのコロナ禍のせいで、断念を余儀なくされた。
その2回目には、漢拏山の南側の海岸に位置する為美里という美しい村のお洒落なカフェで、知人のチョン・ドヨンさんの講演をみんなで拝聴した。その際に彼女は、参加者に新鮮で刺激的な話と清々しくてダイナミックな人柄で僕らに感銘を与えてくれた。(この講演その他、フィールドワークの全行程については、ブログの「済州の歴史と生活文化」というカテゴリー内に、僕の長い報告があるのでご参照のほどを)
そんなチョン・ドヨンさんが、ユネスコ世界文化遺産の2024年度の祝典の総監督に任命されたという、なんとも嬉しいニュースが届いた。
元来、彼女は済州の人ではなく、<陸地>で生まれ育ち、大学で演劇の演出を学び、その後、方向を少し変えて、様々なスタイルの公演の演出を専門とするようになった。そして、済州のオㇽレ(24に及ぶ多様に開発されたウォーキングコース)に並々ならない関心を抱いて、済州オㇽレの理事長に直接に手紙を送って、そのオㇽレにおける地元民による野外公演の演出の提案をしたところ認められて、済州にやってきた。
そして済州の歴史や文化の研究を地道に進めながら、済州オㇽレにおける多様な公演の新機軸を開拓した。その成功に力を得た彼女は、先にも触れた為美里という海岸村に事務所を構え、さらに本格的に済州の様々なイベントの演出を手掛けるようになった。
その中でも僕が最も魅力を覚えたのは、村おこしの一環として、村民の昔の生活の話を丁寧に聞き取り、それをベースにしたミュージカルのシナリオを自らが書いて、村民自身を役者として舞台に立てたミュージカル公演の実現だった。
その他、彼女は済州の4・3関連行事などの企画はもちろん、さらには<陸地>にも活躍の場を広げた。例えば、セウォル号の痛ましい海難事故と言う名の人災の追悼イベントの企画なども担当した。
そんな彼女が、済州のユネスコ世界文化遺産の今年で5回目になる記念的祝典の総監督に任命されたからには、喜ばないでおれるわけがない。
僕は両親が済州出身ではあっても、僕自身は生粋の在日であり、済州で生活したことがなく、自他ともに認める<外地人>である。だから、その事実を忘れることなく、済州についてもさらには韓国についても当事者として語ることを自らに禁じてきた。
それとは対照的に、チョン・ドヨンさんは元来が外地人であっても、済州に飛び込んでそこに暮し、今や済州の地元民と外地人の結節点のような役割を積極的に引き受け、済州に新たな刺激を与えると同時に、済州からも多くの恵みを得て雄々しく活躍している。そんな姿をモデルケースとして、あくまで外地人として、済州や韓国に関わりながら、余生を愉しく生きようと思っている。そのための新たな励ましを得た気分である。
因みに、ネットで目にした彼女の総監督任命に関する情報の一部は以下の通りなので。拙訳で紹介する。
2024年世界自然遺産祝典―済州火山島と溶岩洞窟―が今年の10月に開催される。5回目を迎えた今年は、文化・芸術企画者兼公演演出家のチョン・ドヨン氏を総監督に任命した。
済州世界遺産祝典は2020年から20022年までは国費事業としたが、昨年は地方費だけとなり、今年は国費と地方費を折半で投入する形で開催される。今回は中長期的観点から、「自主的な力量の確保と持続的拡散のための基盤整備を目標にして、総監督としてチョン・ドヨン氏を任命した。・・・
チョン・ドヨン総監督は、「世界遺産地域の住民たちの参与の機会を拡大して、祝典の代表的なプログラムとしての位置を確固とできるように努力したい。済州が世界遺産の価値を広く知らしめるプレミアム文化観光のブランドになることに寄与したい」と抱負を明らかにした。
7.太閤道の山歩きと大山崎山荘美術館の観覧で心身の健康を
久しぶりに、おそらくは30年ぶりの太閤道の山歩き、そしてまた、ほぼ20年ぶりの大山崎山荘美術館の観覧を、ある人の「気分転換に歩きませんか」という言葉に励まされて企画(3月9日土曜日)して呼びかけたところ、男女それぞれ3人ずつの6人が同行して山の空気を吸いながら楽しむことができた。
今回の参加者の全員が、2020年の第二回「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク参加者でもあったので、旧交を温める機会にもなった。3人が在日、3人が日本人で、済州フィールドワークと同じように出自その他、年齢、社会的ステイタス、さらには生まれ育った都市、現に暮している都市に至るまで、多様性が目立った特徴だった。
僕は呼びかけ人としての責任もあるので、集合時刻の1時間前には集合場所に到着し(中学時代の野球部での躾、つまり、集合時間の半時間前、但し、1年生はさらにその半時間前に集合という内規が、病的なものになったのが僕)、バス乗り場なども念のために確認してから、持参した書き物の草稿などを読みながら、皆さんの到着を待った。誰一人、遅れることなく、集まって頂いたので、すぐさまバス乗り場に直行したが、天候が不安だった。雪がちらつき、北風が冷たくて、前途について少し心配した。
バスで15分ほど、その間、お喋りに夢中で、運転手さんの厳しいお叱りを頂戴するなど、久しぶりの山歩きで浮かれている自分に気づかされた。運転手さん、そして同乗していたお客さんたちに申し訳ないことだった。遅ればせながようのら、ごめんなさい!
事前にネットで検索して、20枚近くの写真などの案内をプリントアウトしていたおかげで、一度も迷うことなく、コースをひたすら歩くことができた。停留所でバスを待つ間には少し天候の心配もしていたが、山に入ると、北風はほぼ完全に山が遮ってくれたので、ほとんど無風状態の中をあることができた。急な登坂もなくて、比較的に楽なコースだろう。山頂からは、淀川とその向こうの男山が、さらには、木津川と宇治川と桂川が合流する三川合流地点とそこから大きな淀川となって大阪湾まで下っていく起点の周辺が一望できた。その昔、そのあたりのサイクリングロードにすごくお世話になった記憶が蘇ってノスタルジーに浸ることもできて、感謝!(ブログのサイクリングのカテゴリーには、関連する文章がいくつかあるので、どうかご参照のほどを。中でも「早朝自転車通勤とパスカル」というタイトルの文章が三川合流や淀川、木津川の川と河川敷などの違いについて詳しく書いている)
ゴルフ場の真横を通りながら、昔のままで、全く変わっていないなあと少し興奮した。下りはなかなかの高低差があって、やはり杖があった方がよさそうだし、軽い山歩きでも靴はそれなりのものでないと、怪我をしかねないので要注意。若山神社に着いた時には、既に4時で、そこから山荘美術館までは1時間ほどかかりそうなので、断念した。
僕らの先頭を歩いていた元気印の二人は、神社の参詣道で、猪猟をしている現場に出くわしたらしい。猪の内臓まで露出していて、その横には顔中、血まみれの猟犬がいて、猟銃を下げた主人は二人の女性のことを考えて、脇にその猪を引きづっていたとか。
なるほど、そのあたりの森林、例えば、すごく見事な竹林などには、獣害被害防止のネットが張り巡らされているのも当然と思い知った。
山荘を断念したからには、後は、居酒屋を見つけるのが最大の問題。最寄りの島本駅周辺には何もなさそうで、仕方なく、さらに進んで水無瀬駅の周辺を目標にして下り坂を歩いて行くと、島本町役場にさしかかった。反核宣言などの看板も会って、その街で今もなお、そのようなスローガンのもとに頑張っているウトロの斉藤さんのことを頭に浮かべた。そのうちに、阪急の踏切を渡った際に、そこは塚崎さんのフィールドワークでいろいろと説明を受けた場所だったと、いきなり思い出した。そして踏切を渡ってからの街並みは、まさにあのフィールドワークで歩いた道であると確認しているうちに、そのフィールドワークで最も印象深かった公園にたどり着いた。「まさにここだった」と感慨が。
水無瀬駅の駅と線路の下にある小さな居酒屋「のんた」(小野さんがネットで検索してよさそうなのでと決めた)におそるおそる入った。まだ開店の5時にはなっていなかったが、入れてくれた。客は誰もおらず、カウンターの7席(補助椅子が2つくらいあったけど)だけで、飲み物2杯と料理5品のセットが1400円。どれも京都のおばんざいでおいしかったから、おおいにお勧めの店だけど、グループで押しかける際には、事前に予約しておかないと無理。
僕ら6人の後に、一人だけ、僕と同年配の男性客が入って来て、僕らよりも早く帰った。僕らはそのセット以外にも、次々と注文して大いに食べ、飲んで、お喋りした。興り深い話がいろいろと聞けて、知っているつもりでも実際に話を聞いてみないと分からないことを、今更ながらに痛感した。
結局は5時前に入って3時間ほど居座った。
しかも、僕と金稔万さんは高槻で阪急からJRへの乗り換える際に、今風のお洒落なたこ焼き屋で梯子酒。すっかり酔って実家にたどり着いたのは11時頃だった。
しかし、そのおかげで、僕には珍しく、午前9時頃まで爆睡だった。居酒屋の奥さん(一人で営業している年輩の女性に、そのように呼びかけたら、そんな呼び方をされたのは初めてと言われた。しかし、僕には他に適当な呼称が思い浮かばなかった、申し訳ない!「奥さん」はダメなのかな?スナックでもないのだから、「ママさん」とは僕は呼びにくい!)
実家から太閤道を経由して実家までの全道程の歩数は20149歩、歩行距離は14,9キロメートル、歩行時間は3時間33分、消費カロリーは454,2キロカロリー、脂肪燃焼量64,8グラム。以上が僕の携帯の情報で、こういうデータとも遊びながら、気楽に生きていきたい。。
7.終わりに
出来る限り短文にするという目標もしくは約束は、今回も果たせなかった。折々に簡略に書くことを怠ったせいで、書きたいことが一挙に多くなったという当然の結果である。日々のささやかで着実な努力の積み重ねが大事なことを、改めて肝に命じなくてはなるまい。我が家の雪柳もどんどん花開いており、春の到来はもうそこ

