goo blog サービス終了のお知らせ 

玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

折々のメモ16 済州のお供え料理のピントクと京都の主婦の防寒対策1

2025-03-10 09:10:22 | 折々のメモ
カテゴリー:折々のメモ16

済州のお供え料理のピントクと京都の主婦の防寒対策1

先ずは、お断りとお詫びを少々。
2月末に慌ててアップした文章を読み直してみたところ、一部は意味不明だし、他の一部は書き足りていないことに気付いて、改稿が必須と判断して、それを実行しました。大筋は変わっていませんが、わが家の家庭料理のあたりはすっかり変わっています。

ピントクと済州の習俗の在日的様相
 先日、たまたま同じ日に、二人の女性からラインで写真が届いた。ひとりは済州の知人で、彼女が作った名節のお供えのために作った「ピントク」という済州の伝統料理。もう一人は僕の大昔の教え子で、今では京都の古家で、持病を抱えて底冷えのする京都の冬を凌ぐために、自分一人で窓にビニールを貼った様子である。
 どちらも日常生活を堅実に生きている様子が垣間見えて、爽やかな気分になった。そこで、そのついでに、理屈っぽくなりがちな僕の日常、そしてその反映でもあるブログの現状に風穴を開ける工夫の一つとして活用させていただくことにした。
 そもそも、日常のこまごまとした生活とそれにまつわる雑感などを書きとめながら、それもまた糧にして、余生を楽しく生き抜こうというのが、ブログを始めるにあたっての初心だったのに、しだいに元の木阿弥になりがちで、そのあげくには追い詰められて二進も三進もいかない心境になったりもする。
 そこで、心機一転のために、それぞれの写真をブログにアップしたらと思い立ち、許可を求めたところ、「下手なもので恥ずかしい」という点で、二人とも同じ返答だった。
 そうなると、僕のお得意の屁理屈が静かにしているわけがない。下手というのは被写体自体の出来栄えとその写真の出来栄えのどちらなのか、或いはまたその両方のことなのだろうか。そんなことを考えるうちに、観光その他の商業的広告ではなくて、普段着の生活の様子をそのままに伝える際には、むしろ<下手さ>がかえって好都合ではないかと、改めてお願いして、不承不承ながらも了承を得たような感じだった。
 そこで、それぞれの写真をアップして、それにまつわっての雑感や、いろいろな写真を折に触れて送ってくれて僕の生活を彩ってくれてきたお二人と僕との関係についても思い起こしながら、今後の僕の暮らしを立て直そうという魂胆なのである。
先ずは、済州の伝統料理ピントクのことである。



蕎麦粉の生地でチジミ(お好み焼き、或いは、クレープ)状のものを作り、小豆や大根の千切りなどの和え物を包みこんで生春巻きのようにして、旧正月や秋夕など名節の祭膳に供える。わが家の『済州語辞典』にはそう書いてある。20年ほど前に済州の従兄が、本籍地である済州についてあまりにも無知な僕に、少しでも勉強するようにとわざわざ買ってくれた辞書である。済州語と標準語の比較だけでなく、済州のどの地域でどのようなバリアントがあるかなども略記されていて、重宝している。
 それはさておき、そのピントクらしいものを、在日済州人二世の僕も、幼い頃には、家で見かけたことがある。しかし、いつの間にかすっかり見かけなくなった。それにまた、食べた記憶が殆どない。口にあわなかったのだろうか。
 そこで兄弟たちに尋ねてみたところ、3歳下の妹は見た記憶が微かにあるけど、食べた覚えがないと言う。他方、5歳下と8歳下の弟たちは、見た記憶がなさそうだった。
 しかし、二人の弟がそのように見たことがないと言うのは、僕の記憶に反するわけでもない。僕もまだ幼い頃には見かけたが、長ずるにつれてみかけなくなったわけで、年齢差の大きい弟たちに記憶がないというのは、納得しやすい話であり、その記憶の断絶の中間地帯に3歳下の妹が位置している。
 ピントクのみならず多様なことで、同じ家で同じ両親の下で暮らしてきたが、僕と妹や弟たちの体験やその記憶の間には、いろんな差異がある。僕ら5人兄弟の中には、兄とその2歳下の僕というグループ、その3歳下の妹、そしてその妹の3歳下と5歳下の弟たちといったように、3種類の体験と記憶の誤差が認められることが多いのである。
 2歳年長の兄からははっきりとした返事がなかったので、断言はできないが、僕の記憶と妹の証言を合わせれば、わが家でもある時期までは、母の手製、或いは、生野の朝鮮市場で買ってきたピントクが、正月や秋夕といった名節のお供えに用いられていたようである。
 それではどうして、その習慣がなくなったのだろうか。僕ら子どもが好んで食べてもらえなかったからか、或いは、入手が難しくなったからなのか。
 僕の知識に限って言えば、両者共に可能性がある。母は僕ら子どもが喜んで食べそうなものなら、名節のお供えそれを欠かなかっただろう
 その一方で、入手の困難の可能性に関して言えば、大阪ではそば粉の入手が難しかったのかもしれない。少なくとも僕は食料品店でそば粉を売っているのを見たことも聞いたこともないから、ついついそんな風にも考える。しかし、それなら、そば粉の代わりに小麦粉を用いればよさそうなもので、現に僕の記憶にある家のピントクは、写真のそれよりももっと白っぽく、そば粉だけで作ったものではなさそうだった。
 しかし、大阪でそば粉の入手が難しかったというのは、あまり信憑性がない。母は僕らが大人になって以降に、そば粉でムク(プリンのような朝鮮料理、たれをつけて食べる。酒の肴として好きで、どんぐりを材料にしたものが人気がある)を作っていたこともあるから、そば粉の入手が難しかったから、ピントクがわが家から消えたという推察はあまり当てになりそうにない。
 そもそもわが家では、法事や名節のお供え料理のうちでも餅類は、母が自ら作っていなかった。「シリットㇰ」と僕らが読んでいた、小豆が上に乗った平たい円盤状の餅の他にも、今では名前も忘れたが、4種類くらいの餅が法事のお供えに用意されていたが、それは猪飼野か森町(緑橋と森之宮の間)の朝鮮市場までわざわざ出向いて購入するか、或いは、その近隣に住む親戚のおばさんたちが買って前日か当日に買って持ってきてくれていた。しかし、それも次第に日本の餅にとって代わられた。
 それどこから、母が大けがをして施設住まいになって以降は、その種の儀式(法事、名節)自体もわが家ですることはなくなり、兄の家で韓国風と日本風が半々ほどの祭膳を用意して、その写真を僕ら兄弟にラインで送ってくれる形での儀式もどきになった。
 そうした変化にはコロナ禍も大いに関係しているのだが、それだけではない。両親がいなくなって、僕らはようやく長年の願望だったように、彼らの目、とりわけ伝統の束縛から解放されたわけである。
 それはともかく、そんな現状の僕ら兄弟の情報では当てにならないからと、ラインを通じて、済州にルーツを持つ在日二世以降の人々などに質問してみた。すると、やはりいろんな話があって、なるほど在日の変貌の多様性が垣間見えるような気がしたし、実に意外なところから、実に意外で重要な情報が舞い込んできた。
 在日ではないが、在日の人と何かと関係を持っている日本人の知人から、ピントクに関しての<灯台下暗し>的情報をいただいた。
彼女が料理を習っている在日の女性が、在日コリアンのディサービスとグループホームなどで料理を作っている方からの、生き生き情報を教えてくれた。
 済州の離島の一つである牛島出身のその方は、自分でもピントクをよく作るが、その際に、そば粉だけでは千切れやすいなど不都合があるので、そば粉に小麦粉も混ぜた生地を使っていると言う。
 それだけでも、僕の内心にあった謎の一部が解けた。済州から届いた写真はそば粉だけで作られていたからだろう。僕の記憶のそれよりはるかに黒っぽい。ところが、そば粉に小麦粉を混ぜるとずいぶんと白くなり、僕がまだ幼い頃にわが家で見かけたように記憶しているピントクに近く、わが家のそれも混合生地の可能性が高くなる。
 情報はまだ続く。猪飼野などの在日、とりわけ在日済州人の集住地区では、ピントクが店頭で販売されている。
以上に加えて、済州の観光宣伝のネット情報では、済州の名産やおすすめ料理の先頭に、ピントクの写真が上がっていた。
 ついでに付け加えれば、そこで上げられていた名産や名物料理は以下のとおりだった。
ピントク(千切り蒸し大根の蕎麦煎餅巻)、オメギ餅、アワビ粥、スズメダイのムルフェ(水刺身)、焼アマダイ、モムグㇰ(豚肉入り海藻スープ)、トムべゴギ、みかん、アワビキンパ、ポマルカルグックス(クボガイ入り汁麺)、太刀魚の塩焼き、黒豚、コギククス(豚肉麺)。カッコ内もそのネット記事のままである。
 
 以上の料理の殆どは僕も食べたことがあるが、そのトップにあがっているピントクに限っては、先にも触れたことだが、食べたことがあるのか否か自分でも定かでない。
 このようにピントクを通じて見えてきた僕の食習慣は、済州はもちろん、在日済州人一般と似ていることを今更ながらに痛感する。
済州にルーツを持つ在日二世の少なくとも僕にとっては、済州の伝統自体は遠くにあっても、在日済州人の幅広いゾーンの中には納まりながら、暮らしてきたし、今なおそうなのだと。
 そうした現況は僕が選んだことでもあり、後悔などあるはずもない。しかし、僕とは済州との距離と近接性の両方を、改めて頭に刻んで、あまりに単純化した形での固定観念を持たないようにしたい。
 済州に本籍があり、40歳を過ぎてようやく旅券の交付を受けて以降には、家庭の事情もあって、おそらくは100回以上は往来してきた僕だが、済州のことならなんでも知っている専門家などではとうていありえない。
僕は済州に本籍を持ってはいても、あくまで大阪で生まれ育ち暮らしてきた老人に過ぎないのだが、そのことを断じて恥ずかしくなんて思わないでいたい。
 ところで、僕らがとりわけ幼い頃に食べていた料理、つまり済州で生まれ育って20歳前後に渡日して以来、約80年にわたって大阪で暮らし続け、一昨年に100歳で亡くなった母の料理については記憶が乏しいのだが、それは母のレシピ―が貧しかったからは必ずしもなかったからというわけでもなさそうである。
 母は自分用、父用、そして僕ら子供用といったように、3種類の料理をいつも用意していた。自分用のものは至って単純、済州での女性の食習慣そのままのものらしかった。生ワカメや白菜その他の葉野菜を、生のままだが、たいていは茹でて、それでご飯と味噌や朝鮮風の醤油やニンニクを包み、おいしそうに食べたが、それを僕ら子どもに強制することはなかった。
 父の晩酌の肴と食事の副菜は、済州のものと日本のものの両方だった。僕ら子ども用には、母が日本に来て習い覚えた日本の家庭料理風だった。特別なものはなかったが、母はそれを周囲の日本人や在日の二世の若い主婦や在日の親戚から学んで、自分なりの工夫を凝らしたから、レパートリーは十分だった。
 経済的に困ると、日本風なのか朝鮮風なのか得体の知れないうどんで何日もしのいだ。お金がかからない料理で、わが家の貧しさを反映したものだった。
 その代表が、母の手作りのうどんだった。小麦の生地をビール瓶で伸ばして生地をつくり、それを包丁で切って、大根の千切りと油揚げを具にして一緒に焚く。最初はそれなりにおいしいのだが、それが毎日続くと、うどんも具もすべて本来の形状を失い、どろどろに溶けてしまう。それこそが母の手作り料理のシンボルだった。
 その後、経済的に余裕ができるにつれて、母は僕ら子どもが好む料理、必然的に日本の当時の家庭料理を学び、それを僕らに供した。すき焼きや多様ななべ物を僕らは好んだ。カレーその他、父は食べなかったのに、母はもっぱら僕らのためによく作ってくれた。バラ寿司や海苔巻きも、作る時にはすごく大量に作った。しかし、それを僕は母の手料理とは分類しなかった。それらは朝鮮や母といった徴がつかない普通(僕が最も理想としていたこと)の料理だったからだろう。
 母の手料理の記憶が貧弱なのは、僕の記憶の問題も絡んでいそうである。記憶の奥底に沈んでしまったものを、探してつかみだす根気がないからだろう。本気で思い出して書くつもりにさえなれば、記憶の底から姿を現してくれるかもしれない。
 済州や伝統などとは関係なく、何に由来するものであれ、そんなバイアスから解放されて、母が僕らのためにつくってくれた料理全般を母の手料理として思い出して、幸せなノスタルジーに浸ることも不可能ではないだろう。息長くやればという気持ちに、少しはなってきた。ピントクにまつわる今回の探索がその契機になってくれるかもしれない。
 以上の多くは、以前に書いた以下の文章の問題意識の延長上にあるので、その拙文のタイトルを参考までに記す。
玄善允、2020:在日二世以降と「故郷・祖国」の伝統文化:済州の祝意広告と学校同窓会を事例に、朝鮮族研究学会誌第10号、39~64頁

 最後に、写真を送ってくれたKUさんについて少々。
 済州に行くたびに会うだけでなく、ラインを通じて、実に多くの情報を得るなど、お世話になっている。しかも、済州や大阪で会って、言葉を交わすたびに、済州のことを学ぶと同時に在日一般、特にその一員である僕についても考える機会になっている。
その一部として、折に触れて送ってもらう済州の写真なども、今後はこのブログで紹介・活用したいなどと、またしても自分勝手なことを目論んでいる。この場を借りて、予め、お礼かたがたお詫びもしておきたい。
 尚、彼女の書物については以下の文章で詳しく書いているので、興味のある方はその旨を連絡していただければ、拙文をメール添付でお送りしたい。

「余生のとば口で遭遇した二巻のハングル文の書物―日本と韓国・朝鮮に関わる研究書『在日同胞』と『近代済州における日本人居留民の研究』-」、朝鮮族研究学会ニュースレター2023年9月

(2025年3月8日改稿。折々のメモ18、済州の名節のお供え料理であるピントクと京都の主婦の防寒対策2に続く)

折々のメモ17 南信州・阿智の満蒙開拓平和記念館への旅(1)

2025-03-05 10:11:37 | 折々のメモ
折々のメモ17

南信州・阿智の満蒙開拓平和記念館への旅(1)

1.はじめに(満蒙開拓平和記念館)
 2月22日~25日まで、前々から是非ともと願っていた東の方の二つの施設を訪問し、それら施設でもその後も、ずいぶんと多くの多様で好印象の人々と会って話を聞くなど、3泊4日の慌ただしい旅だった。慌ただしさをイメージしていただくために辿った場所をメモすれば、以下のようになる。南信州・阿智村と飯田市、東京東村山市界隈、荻窪駅周辺の特に星乃珈琲店、水道橋の書店街と出版社街、二子玉川駅周辺のヤングカップルの群れで埋まったショッピングセンター、新宿の紀伊国屋書店周辺、品川シーサイド駅周辺のウルトラモダンな高層建築地区、麻生十番界隈、東京駅八重洲北地下街のこれまた星乃珈琲店、名古屋駅近くの名鉄ビル界隈。
それも当初は、科学研究費に基づく出張としては<人生最後>のつもりだったから、少し無理して日程を詰め込んだが、いざその予定が確定したとたんに、状況認識の誤差の調整の必要が生じて、今度は西方面の広島、宇部、そして下関への科研出張の可能性を探ることになって、急遽してその準備に取り掛かったところ、トントン拍子にアポイントなどの肉付けが進んだから、引っ込みがつかなくなった。明日から、それを実行に移すことになった。
 従って、結果的には西の旅に科研出張としては人生最後という<称号>を譲る羽目になり、終えたばかりの東の旅は、人生で最後から二番目の科研出張に<格下げ>となった。しかし、そもそも順番など戯れに過ぎないし、終えたばかりの東への旅は、期待を超える経験と大いに満足だったし、そのおかげもあって、これまで自分を縛ってきたあることから解放された気分になるなど、得難いものだった。
 そこで、それに続く西への旅に出かける前に、終わったばかりの東の旅に関するメモの一部なりとも認めておきたくなった。
そのすべてを短時間で書けそうにはないので、その第一弾の今回は、その旅を企てるに至った過程と準備など、及び、初日の足取りや感想だけの報告にして、その翌日以降の東京と名古屋での出来事は、それとは切り離して何度かに分けてブログにアップしたい。

 さて、満蒙開拓平和記念館への道のりの予定は次のとおりだった。
 22日早朝6時半に西神戸の高台にある自宅を出発して、バスとJRの在来線、さらには神戸の地下鉄を乗り継いで新神戸に到着、そこからは、新幹線に乗り換えて名古屋へ。さらには名鉄の高速バスターミナルまで急ぎ足で歩いて高速バスに乗りこみ、2時間のバスの旅で、高速道路の阿智サービスエリアで下車した。そこから目的の満蒙開拓平和記念館までは徒歩で半時間で到着するというのが、当初の予定だった。しかし、実際には、最後の部分だけは、予定の徒歩ではなく、タクシーにせざるを得なかった。
何故かは、以下の前史で詳しく書くことにするが、そこにはいかにも僕らしい、<馬鹿げた心配症>という病が関係しており、それを書かない旅の報告など、僕としては嘘八百のような気がするので、ここでは敢えて、それを包み隠さず、しつこく告白しておきたい。読者にとってはどうでもよさそうなことだろうが、書き手の僕としては、いくら読者に迷惑がられても、書いておかないと気がすまないことなので、どうかご容赦のほどを。

2.南信州に旅立つまでの前史
 先ずは、今回の旅に先立つ私的事情や、今回の旅の目的地と僕の馴れ初めなどについて詳細に述べておきたい。
 すっかり歳をとったからではなく、僕は生来、他人から見ればなんとも些末な心配ごとで頭を悩ますことを、まるで生きがいのようにして生きてきた。その影響は僕の宿痾の胃腸病になった。それだけに、望んでのことなどではありえない。ところが何とも奇妙なことに、<それあるからこその僕>といったように、まるでそれが僕のアイデンティティの重要な一部になり、最近はますますそれを痛感するので、今さら否定しようとも思わない。
 そんな情けない姿が、まさしく僕の現実であり、それを省いては僕の人生の諸事の説明がつかない。そんな実感が僕には確実にある。
 とりわけ、日常のルーティンから離れることが予定に上ると、さらには、実際に家を離れると、普段に増して心配症がひどくなって、それを忘れるためなのか、或いは、日常的に自分で自分を束縛している状態からの解放を喜んでのことか、ついつい深酒になって、その後の旅の間中、胃腸の変調に悩まされる。そんな状態が長く続くと、せっかく帰宅しても、しばらくは、その旅の変調を引きずり、一般で言う<旅の疲れ>からすっかり解放されるには、相当に多くの日時を要する。
 そんなわけで、旅の間に費やすエネルギーの半分以上は、既に出発以前に費消され、旅の過程の僕は、元気そうに見えても、胃腸の変調を筆頭に、まるで夢うつつの状態に近くて、まともなことなど何一つできない。
 旧知の人々と会って楽しく話しこんでいても、実は頭脳はまともに機能していない。その最たる証拠が、日常的に慣れ親しんだ固有名詞、とりわけ人名が僕の頭から吹っ飛んでしまっている。
 今回の旅もそうだった。誰かと話をしているうちに、その話を分かりやすくするためには必須の人名が出てこない。歴史的人物の場合もあるし、個人的な知己その他の場合もある。だから、そんな夢現状態の僕の旅について書ける大半は、現地に至るまでの前史を書くことに等しい。旅に関して僕が書けそうなことの多くは、実際にその旅の現場に赴くまでの準備を含めた前史というわけである。今回はとりわけそうで、そんな自分の現実を再確認する機会となった。

3.満蒙地区への僕の馴れ初め
 満蒙開拓平和資料館の存在については、その開館(2013年)の前後から、書籍その他で見聞きしていた。
 そのさらに10年以上も前から、つまり今からだと20年近く前から、日本の植民地支配期におけるアジア各地の教育に関する共同研究に参加していたという偶然もあった。自分が特に積極的に研究の労を取らなくても、共同研究者たちから実に多様な情報が入って来た。何しろ10人を超える多様な専門領域のメンバーの集まりであり、合宿研究会や現地への出張など、その他、互いの研究成果に関する相互的なチェックの際には、それほど意識しないうちに、耳学問として、満蒙に関する常識のようなものが、形作られた。
 その延長上で、かつての満蒙地区に他ならない中国東北部に集住する中国朝鮮族に関する共同研究にも長らく関わった。文献資料や書物はもちろん、在日の朝鮮族研究者その他のインタビュー、さらには現在の中国朝鮮族の最大の集住地である延吉とその周辺、さらには北京の朝鮮族タウンなど訪問の機会も多くあり、現地を歩き、生活ぶりを見ながら、話も聞いた。
 しかし、その当時の僕の関心は、中国東北部で生まれ育った朝鮮族の若者たち、つまり移民二世三世の国家意識や民族意識の実態であり、<満蒙>の歴史プロパーの研究者からすれば、周辺的なテーマを追っていたので、日本の満蒙開拓団に対する関心がさらに募ることにはならなかった。
 以上の研究関連とは別に、もっぱら大学の業務としても、それよりさらに10年も前から、つまり今からだと四半世紀以上も前から、中国・北京や東北の大都市である瀋陽や延吉その他の中国東北部、つまりかつての満州地域の大都市を訪問して、国際学術会議の準備や運営その他に関わる経験も重ねたが、その場合でも特に満蒙と呼ばれる地域の植民地期の歴史の実態を自ら積極的に学ぶことはなかった。
 それでも、そんな経験の中で、長野県が日本の植民地(満蒙)への送り出しが極めて多く、その後も、その悲惨な経験の延長上で生きている人々が多いことくらいは、あくまで断片的だが、知識としては知っていた。しかし、だからと言って、阿智村に創立された満蒙開拓平和記念館を訪問する動機には至らなかった。
 おそらくは僕の関心の動き方の特性が関係していたのだろう。僕のそれは、学問や社会問題といった正統的なラインに沿った情報や知識によって刺激を受けて、発動する類のものではなさそうなのである。それにまた、南信州へのアクセスの問題もあったし、それとも絡むが、僕のその地域に関する知識の絶対的不足の問題もあった。南信州地域は僕にとって死角だった。

4.死角のひとつだった南信州(飯田市や阿智村など)
 信州となれば、何よりも夏の合宿(学生時代に関係していた団体の全国的交流と研修と娯楽、大学時代には毎年、都合4回、3泊4日のバス旅行だった)に始まり、その後は、高校時代の悪友たちに仕込まれたスキーと麻雀の旅だった。旅の目的がスキーなのか、徹マンなのか分からなくなるような旅を、何度も行った。そんな場合には北陸周りの鉄道の利用が一般的だった。
 新婚時代には妊婦の妻の気分転換のために、経済的にも時間的にも無理をして、山中の国民宿舎へ避暑に行き、折からの水不足で風呂にも入れないので、急遽、最寄りの山裾の浅間温泉まで退散して、美ヶ原を散策したこともある。
 子供が生まれてからは、僕の運転で信州へのスキー旅行が恒例となった。しかし、それも子どもが中学生になると殆どしなくなった。経済生活と子育てに追われて、そんな余裕がなくなった。それに僕の自動車の運転に対する恐怖症がどんどんひどくなったこともある。車でとりわけ、高速道を走ることに対する恐怖感は、たぶん、誰にも理解されないだろう。生来の臆病もあるが、それだけではないかもしれない。文明の進歩、そしてそれにまつわる交通機関のスピードに僕が耐えられなくなったのではないだろうか。車の運転だけでなく、長距離のバス旅行は可能な限り、忌避するようになった。そんな僕が信州へのスキーバスを喜んで利用するわけもない。

5.南信州・飯田市と阿智村へのもっぱら私的な関心の動き方
 そんな僕なのに、今から6年ほど前のこと、高校を卒業以来、信州に住み着いた高校時代の友人を訪ねて、長野市を訪問することがあった。
 それは殆ど20年ぶりの信州への旅だった。名古屋で新幹線を降りて中央線に乗り越えて、初めて見るような気がした谷底の光景に驚きながらの長野駅までの旅だった。考えてみると、僕はその中央線沿線がそんなに険しい地形であることをその時に始めて知ったような気がした。つまり、僕は老年に差し掛かるまで、南信州のことは知識としても体験としてもまっさらだったわけである。死角と呼ぶのにふさわしい。
 ところが、そうした研究などとは直接に関係のない実に意外なところから、記念館が位置する阿智村やその近隣の飯田地域への関心が刺激されることになった。主に二つの契機があった。
 僕の高校時代の友人K君が大学進学にあたって信州を選び、その後、紆余曲折はあったが、長野市に根を下ろして、既に半世紀以上になる。ちょうど、高校の同期の卒業生の間で、卒業50周年を祝って同期会を、K君が白馬で経営するホテルで開催すると共に、卒業50周年記念誌を発行する話が持ち上がり、K君の強い慫慂に応えて、拙文を投稿したことがあり、そんなことも契機になって、彼に会いたくなり、長野市を訪れたのが、10年ほど前のことで、K君の伴侶も交えて、楽しく信州の美味に加えて、なんと富山からの新鮮な魚介類などを肴に、痛飲した。
 そして、その話の合間に、その伴侶が飯田出身であること、さらには、ここでは詳しく述べないが、彼女の生い立ちに絡んで、僕の興味を引く話を聞いた。それによって、それまではまったく死角だった南信州に対する僕のアンテナが始動を開始した。
それまでの僕の信州経験は、白馬地域などの山岳地帯が中心で、それ以外でも松本以北に限られていた。僕の頭の中でその松本以南の南信州がそれにふさわしい場所を占めたことは一度もなかった。
 しかも僕は研究などより、個人の生活とその歴史などにまつわる事柄に関心を抱く傾向が強いからこそ、そんな酒の上での話に、自分とつながる何かを嗅ぎとったのだろう。そして、飯田など南信州、とりわけ満蒙開拓平和記念館を是非とも訪れてみたいと思う気持ちが膨らんでいった。
 ところが、まだ思いつき段階だった希望を実行に移す機会に恵まれないまま、無為なまま歳月は過ぎ去った。
 研究出張も、ある時期までは韓国や中国や台湾など海外が中心だった。しかし、ある時期からは中国に行けなくなったという個人的事情も絡んで、海外出張もふくめての僕の旅は、もっぱら韓国、とりわけ、僕の本籍がある済州が主になり、日本国内の旅も、本州以外の沖縄や九州や北海道などが多くなり、日本列島の臍をまるで避けて生きているような恰好だった。
 ところが、昨年、東京での会議で同席した初対面のTさんから、海外からの留学生の研修旅行を、毎年、飯田地域と満蒙開拓平和記念館を中心に行っているという話を聞き、さらには、その報告文まで頂戴した。直ちにそれを読んで、強く興味を刺激された。僕でもまだ少し足が動くうちに、その地域、とりわけ、記念館を訪問したいと、本気で思うようになった。直接には、それが今回の旅のきっかけだった。

6.アキレス腱からの解放の契機
 ところが、僕にはアキレス腱が沢山あって、その一つが先にも触れた、バス旅行どころか、車の高速道路の走行に対する異常なほどの恐怖心である。若かりし頃は、免許証を失効した社長などの代理運転手のアルバイトや、家のコウバの仕事でトラックを毎日、運転していた者としては、すごく不思議に思われたりもするが、その頃に1日に3回も事故やトラブルに巻き込まれたことがトラウマになっているのだろうか。ともかく、どこへ行く場合にもバス旅行は避けたいし、可能なら避ける。もし要望を聞いてもらえる場合には、タクシー運転手に山道や高速道路は避けて迂回するように頼む。路線バスも山道ではない迂回路線を選んだりと、なかなか面倒なことなのだが、恐怖感とは比較にならない。
 そんな僕だから、飯田を含む南信州へのアクセスも、最初は主に鉄道だけを検索して、その経路の面倒さに怖じ気づいたが、既に74歳、この機会を逃したら、二度と行けなくなりそうだからと、覚悟を決めた結果、ようやくバス便の検索も行った。さらには、バス会社に細かな問い合わせの電話連絡を試みて、ネットでは僕の死角になっていた便利なコースの情報も教えられた。
 今回に採用した経路はその電話で教えられたものであり、その情報があったからこそ、僕の記念館訪問の旅の可能性が大きく開けた。
 次いでは、直接に記念館にも電話して、サービスステーションからのアクセスについて尋ねたところ、徒歩でも無理ではないが、それよりもサービスステーションでバスを降りたら、タクシー会社に電話してタクシーを呼ぶ方が無難と勧められ、ついでにタクシー会社の電話番号も教えてもらった。さすがにリンゴの地方で、タクシー会社の名前がアップルキャブとお洒落だったのを喜んだ。それでようやく決行の決心が固まった。
 直ちに、飯田の中心地のホテルもネットで探して、手ごろな価格のホテルを予約した。朝食付きで8500円たらずだった。
その後は、今回の特に東京滞在中に会っておきたい人々へ、アポイントに関する連絡を繰り返した。会いたいと念じていたのは約10名、幸いにも順々に僕の空き時間と先方の都合との調整がついて、日程に無為な隙間などない旅程になった。
そうして初めて、普段から何かと懸念が多い体調の準備の方に気持ちが向かった。そのとたんに、僕お得意の心配症が本格的に始まった。

7.具体的な障害の数々
 天気予報では、まるで僕の旅の日程に合わせたみたいに、今冬最大の寒波の襲来の予報で、新幹線やバス便の心配に加えて、健康保持のために普段のルーティンとしている朝の散歩とストレッチ、そして昼間の長めの散策や山歩きが、旅先ではままならなくなることなども、心配の種になった。そこで、せめて出発前に、予め埋め合わせをしておかねばと、余計なことまで考えた。
 出発の一週間前のことだった。雨天が続いた後に寒波が襲来するという予報を受けて、それまでに山歩きをするつもりでいた。その日は幸いに気候も穏やかそうだった。早朝にはごみ出しもかねて、近隣の散歩と公園でのいつものストレッチを順調に終えた。朝食後、2時間ほどのデスクワークも順調にこなせたので、山歩きに出かけることにした。
 ところが、左膝がなんだかおかしい。しかし、段からその程度の膝の変調があっても、歩いているうちに嘘のように消えてしまう経験があったので、あまり心配しなかった。この程度のことで怖じ気づけば、この先、まともな余生を送れなくなると、自分を叱咤して出かけることにした。
 しかし、膝痛に配慮して、ゆっくり歩くように努めても痛みは取れるどころか、むしろひどくなる気配だった。上りはまだしも、下りに入ると、膝の痛みに対する不安が高じた。家にたどり着いた時には、これは拙いと実感した。そこで、馴染みの鍼灸院に電話して予約を取った。その後、出発の前日までの一週間、毎日、鍼灸治療を受けた。
 鍼灸治療は健康保険の枠外なのか、毎回2200円の出費だったが、値段なんてどうでもよかった。ともかく出発して、予定した行程を大過なくこなすことが、僕の焦眉の目標となった。鍼灸治療は少しは効果があったが、完治は望むべくもなく、足を引きずり、キャリーバックも引きずる二重苦が旅の間も、その後の今も続いており、明日から始まる西への旅でも変わりそうにない。痛みを忘れないで、二重の怪我だけは避けないと、大変なことになりかねない。
 ところで、その膝痛ははたして自然で気まぐれな変調だったのかと改めて考えた。
 週に2、3回、往復2時間ほどの低山の山歩きが、早朝の軽い散歩と公園でのストレッチと二人三脚で、僕の心身を支えてくれている。そんな実感を大切にしているので、決しておろそかにできないと自分に強く言い聞かしているからこそ、その日も痛みを意識しながらも、山歩きを決行したのだが、その痛みの原因は何だったのかを、じっくりその朝の自分の動線などと絡めて、考え直してみた。
自宅界隈の散歩と公園でのストレッチの時には、まったく異常がなかった。だから、ほんの一時的な不調に過ぎず、歩いているうちに、痛みは消えてくれるものと信じていたのだ、そうはいかなかった。やがては、ついに原因らしいことが分かった。
 出張を終えてから実家で予定している実家の売買契約の書類がその朝に届いた。そして、集配人は、料金不足なので、80円を受領しないと渡せないというので、僕は慌てて、二階の自室に戻り、小銭を取り出して、階段を走り下りて、玄関口でスリッパを履いて、ドアーを開けて、80円を渡して、大部な契約書類をようやく無事に受け取った。
 その行ったり来たりの間に、その時には慌てていたので気づかなかったが、膝を痛めたに違いない。そしてそうした小さな失敗は僕の宿痾のようなもので、妻の小言の主要なテーマである。
 僕は宅配の方や郵便局の集配人だけでなく、セールスでわが家を人が訪れると、待たすことにすごく罪悪感があるのか、いつも急いで、二階の自室から飛ぶようにして玄関口に駆け付ける。インターフォンが一階だけでなく、二階の僕の自室の外側にもあるから、そのインターフォンで先ずは対応して、ゆっくりと歩いて下りればいいようなものなのに、それができない。近年の宅配の労働者の過剰労働に対する申し訳なさを少しでも軽減したくて、そんなことが、習い性になっている。妻はそんな僕をいつも叱るが、その悪癖はおそらく、僕が幼い頃から、父のコウバで肉体労働に勤しみ、長じて後には得意先への配達の仕事をしていたという経験に根差した、心理に根を持っているのだが、だからと言って、そのことで僕が労働者の味方になれるほど、この世の中は甘いはずもない。今後は、なんとか自分の心身を守りながら、日常の細かな動作を気持ちよく行う必要があり、それを僕は自分に懸命に言い聞かせている。

8.自分なりに必死の旅立ち
 家の中では、妻の小言を免れたいからと、膝の不調を懸命に隠し続けた結果なのか、幸いにも妻には気づかれなかった。しかし、それがかえって心配の種になった。彼女自身の体調が悪すぎて、僕のぎこちなく不審な動きに気づかないのではないかと。
もしそうだとすれば、そんな妻を放置して、あちこちうろつきまわる僕は伴侶の風上にもおけないと、申し訳ない気持ちにもなった。しかし、今さら、旅を取りやめにするわけにはいかない。
 そんなことをすれば、敗北感に打ちのめされかねない。それが最終的に旅を敢行するに至った最大の理由だった。
 寒波で新幹線が琵琶湖周辺から岐阜あたりで徐行したあげくに大幅に遅延することを危惧していたが、幸いにも新幹線の遅延は10分ほどで済んだ。下車すると直ちに名鉄のバスターミナルへと急いだ。しかし、膝が痛む左足を引き、キャリーバックまで引きずって歩くのは骨が折れた。
 途中で念のために、前を歩く若い女性の二人連れに確認したところ、彼女たちも同じところに行くところと言うので、安心してその後に続いた。
 新幹線の遅延の危惧もあって、バス便の座席確保の予約もしないでいたので、直近の便に乗車できるか心配していた。一台を逃すと、次便は1時間後になるなど、大きな時間のロスになる。しかし、窓口の女性職員は、何度も予約状況を確認したうえで、5分後に発車するバスで一つだけ席が残っていると言いながら、微笑みを向けてくれたので、ようやく安心した。2時間のバスの旅である。
道路の積雪や凍結など道路事情を心配していたが、さすがに重要な交通機関なので、見事に整備されている様子だった。途中で渋滞になり、何か事故でも起こったのかと心配したが、5分ほどするとスムーズに車が流れ出し、ほぼ定刻通りに阿知のサービスステーションに到達した。こんな寒波でも、バス旅行は思っていたほど危険どころかむしろ快適だったし。満員のバス内でも騒音など不快なことは何もなかった。バス内にはトイレもあって、その種の心配も免れる。今後は高速バスを利用しての旅も安心して気軽にできそうなのでうれしかった。長年のバス旅行に対するアレルギーから解放されたわけであり、有難かった。
 サービスステーション内のコンビニの女性に、満蒙開拓平和記念館へは、徒歩でも可能か尋ねた。すると、彼女も、そしてその横にいた若い女店員もすぐさま声を揃えて、「そんなことをする人は地元の人にはいませんよ。無理なんかしないで、タクシーを呼んだ方がいい」と、強く傷有に加えて年寄りの冷や水の馬鹿さ加減を指摘してくれた。素直に従わないわけにいかない。先に触れたアップルキャブに電話したところ、5分後にはタクシーが着いた。
 初老にさしかかった年配の女性運転手が、何かと親切そうなので、気楽によもやま話をしているうちに、記念館前に到着した。料金1200円で、やはり楽で速かったので、アドバイスに従ってよかったと心底、思った。(折々のメモ17

【折々のメモ18 南信州・阿智の満蒙開拓平和記念館への旅(2)に続く】

折々のメモ15 師走の済州旅行Ⅴ、帰阪後の実家滞在などエピローグ

2025-01-08 10:48:03 | 折々のメモ
折々のメモ15
師走の済州旅行Ⅴ、帰阪後の実家滞在とエピローグ

9.エピローグ(12月16日の夜~18日)
 関空に到着したが、先日からの咽喉の痛みが少し悪化してきた気配もあったので、しばらくは、実家で用事を片付けながら、過ごすことにした。
 実家でひとり暮らす弟には、リムジンに乗った時点で、実家で2.3泊してから自宅に戻る予定と、ラインで連絡した。ところが、そのラインを弟が見ていなかったので、僕が実家の玄関の鍵を開けて入っていったら、びっくりしていた。いつも自分の都合で勝手なことばかりの兄で、要らぬ心配をかけて申し訳ないと、今さらながらに思った。
 そんな突然の僕の来訪だから、夕食の用意はないと、弟がごく当然のことを言うので、外食することにした。
 胃腸の調子が良くないので、軽く気楽に飲みながら肴をつまむ程度が良いかと、実家から徒歩1分の、亡くなった塚崎さんも含めて僕らの飲み仲間がよく利用する小さな居酒屋に向かった。
玄関の戸を開けると、ほぼ満員だったが、カウンターに一人分の空席があったので、助かった。そこに座って、先ずはアルコールはと考えていると、ちょうど目の前に<魚酒>と書かれた陶器が目に入ったので、それを頼んだ。
 フグのヒレではないが、他の魚のヒレを材料にしたヒレ酒らしく、口に含むと全身にそのヒレと酒の香りが染み入った。良い出だしだと嬉しかった。肴には、鯵のタタキを頼んだ。
 30歳代半ばくらいのご主人と目が合って、「玄さんがおひとりというのは、初めてですね」と言われて、少し意外だった。彼がそんな言葉をかけてくるのは初めてだったし、一人では初めてというのも、なるほどそうだったか、と自分でも意外に思えたからである。通い始めて既に6,7年になるはずで、その間はいつも誰かと一緒で、奥の小さな座敷を予約したうえで、利用していたこと、その他には知人と二人で入ったのが2、3回くらい、なるほど一人は初めてだと気づいた。そして、そんなことを正確に、しかも、僕の姓まで覚えているのは、さすがに居酒屋の主人と、改めてその店とご主人に好感を抱いた。
 まだ若いご夫婦がすごく丁寧に料理して出してくれるなど、甲斐甲斐しく働く姿が爽やかだからと、贔屓にしてきた。その間には、予約の電話、料理などの注文、お勘定の精算などで、いつも奥の座敷に座って、奥さんとはいろいろとやり取りをしても、カウンター内で、料理を作るのに忙しいご主人とは、そんな機会が全くなかった。
 そんな事情が相まって、口数の少ない職人気質と思い込んでいたが、そうでもないことに、ようやく気づいた。但し、僕とは違って、余計なことなど言わないが、状況はいつでも正確に把握していることが推察できて、それも嬉しかった。
 今回は、カウンターに座って、料理に忙しいご主人と対面したが、なるほど初めてと改めて思った。
 <魚酒>に継酒を2回も追加して、結局は日本酒を3杯も飲んだ頃には、他の客は退散して、少し暇になったからか、無口とばかり思い込んでいた主人が、何かと話しかけてくれるようになった。僕の実家はすぐ近くでも、自宅は塩屋であることも彼は分かっているらしく、ジェームス山や外国人居住地、井植記念館の広大で淡路島をも降ろす絶景の話なども、話題になった。
 彼氏は登山もするらしく、僕の自宅からの最寄りの旗振山を始点とする六甲縦走登山にも2回も挑戦したことがあるとのことで、すっかり歳をとった僕には無理でも、なんだか嬉しくなってきた。
 飲みすぎはダメだからと、アルコールの締めとしてはビールを頼んだ。鯵のタタキの後には、肴に何を頼んだのか覚えていないが、最後は<冷たい稲庭うどん>で締めたことは確実に覚えている。
 気持ちのよいほろ酔い気分で実家に戻って、日本に戻ってきたという実感がじわじわと心身にしみ込んできて、気持ちが落ち着いた。爆睡だった。そして翌日には実家の用事を少し片づけてから、ようやくこのメモを書き始めた。その後、ちまちまと二週間もかけて、前回までの4回分をブログにアップした。
 最後に、半年ぶりの済州旅行について、或いは、その過程で特に感じたり考えたことを、何の脈絡もなしに、それぞれに独立したメモを箇条書きの形で心覚えとしたい。
 但し、以下で書くことは、取り立てて目新しいことではなく、随分と以前から気になっていたことや、済州や韓国などに関しての、実に雑多で散漫なことであることを予め了解してお読みいただきたい。

① 道路事情(島の変化の一端)
 僕の今回の旅で、済州の変化を象徴したのが、道路事情である。街がどんどん山側に移動している。しかも、以前は島の中央の漢拏山を横断する5・16道路その他の横断道路の整備が進んでいたが、最近目立つのはむしろ、島の東西を走る縦断道路で、しかも、それが山腹側で進んでいる。そしてそれと同時に、中高層のアパート団地も山腹の標高が高い地域に移動し、その地域の住民の中高級化が進んでいる。そこに住む中上流層の人々が好む山腹の高層アパートの建設に伴って、お洒落なカフェや食堂などがその周辺に驚くほどに増えた。しかも、島の縦断に要する時間もどんどん短縮されている。
 植民地期以前には、済州の市街地は主に中山間地域、つまり高台にあったが、それが植民地期には、植民地収奪とその輸送にとってより便利な海岸地域に移動した。そして、解放以後もその流れが続いていたが、世紀の変わり目あたりからは、人口密度が高く、何かとごみごみした印象が強くなった海岸地域から、空気も良く、涼しく、開放的な中山間地域の衛星都市(郊外都市)化が進むといったように、先祖返りのような趨勢になった。この先もその趨勢は加速しそうな気配だが、その結果として。従来の良好な自然・生活環境が維持されるなんてことがありうるだろうか。

② 旅行客の様子
 中国人の団体観光客の姿をすっかり見かけなくなった。これは日本でも同じである。中国人総体の海外旅行慣れが進んだこともその原因の一つだろう。今や個人や家族単位で、携帯を頼りに、どこでも自分で探して動く。そんな携帯リテラシーが、すっかり歳老いた僕なんかとは比べ物にならないほどに進んでいる。その種の変化が比較的に鈍いと言われる日本人でもそうだから、そのはるか前方を疾走する韓国や中国の、とりわけ若者と僕らとの文化的断絶は目も当てられないほどである。
 そうした現実に怯えることなく、長年の知恵?と年相応の落ち着き?を失うことなく、或いは、それだけを頼りにして、我が道を歩めるか。難しいことだろうが、そんな事態を楽しむつもりで生きていくしかない。

③ ポスト4・3運動
 今回の旅行と直接に関係はないが、済州関連で昨夏以来、気になっていることとして、4・3犠牲者の国家補償のことがあるので、それについて書いておく。ポスト4・3としての、4・3犠牲者補償の対象に、僕ら兄弟も含まれていることを親戚から教えられて、当惑したのが、昨年の夏のことだった。
 4・3の真相究明運動などには背を向けてきた僕(ら)が、その運動の成果の一環でもあるはずの被害者補償の対象になるなんて、理に適っているのか、と不思議だった。しかし、父の二人の弟が軍警によって殺されたり、行方不明のままであるのは事実だから、僕らは間違いなく4・3犠牲者の直系親族であり、法的に補償を受ける資格がある。しかし、だからと言って、僕らがその資格を主張することは正しいことなのだろうか。
 どうするか。或いはどうなるか。とりあえずは兄弟の中には異論を唱える者がいなかったので、補償申請の手続きは行った。そして、半年以内に調査結果の連絡があるらしい。
 その結果を受けて、個々が、或いは、兄弟その他が一緒に、4・3と自分との関係を捉え直して、その責任の引き受け方を考えることになるのだが、はたして・・・

④ ユーチューブ漬け
 今回の旅の前もその最中も、そしてその後もずっと、非常戒厳や大統領弾劾の影響もあって、すっかりユーチューブ漬けになっている。しかも実は、その少し前から、僕のユーチューブ漬けは始まっていた。
 きっかけは、金ミンギさんの死だった。「朝露」の作者で韓国のシンガーソングライターの先陣を切り、後年には舞台演出家として、多くの優れた役者や歌手や公演企画者を輩出してきた金ミンギさんの死をきっかけに、僕はユーチューブに積極的に身をさらすようになった。無知の深刻さをとことん痛感しながら、それでも大いに力づけられた。「美しい人」、そんなレッテルを彼自身が最も嫌がるだろうが、だからこそ、僕は彼を美しい人だと思うようになった。その意味では、ユーチューブに大いに感謝した。
 ところが、その先がまずかった。日本の兵庫県知事にまつわる騒動に絡んでは、雑多でけたたましい人たちの不愉快極まりないユーチューブに、うんざりしながら目と耳が釘付けになった。
 さらには、韓国の戒厳である。済州旅行を挟んで、すっかりユーチューブの戒厳、弾劾、拘束云々に漬物にされてしまった。
 そうした自分のことをしっかり見直して付き合い方を考えないと、自分が壊れてしまいそうな危機感がある。その影響力に抵抗することは、決して容易なことではなさそうだが、「知らぬ存ぜぬ」とはいくまい。俗世間を馬鹿にして、それと縁を切って生きるつもりなど僕には全くなく、むしろ、その俗世間の真っただ中で生きてきたし、今後もそのことに変わりはないのだが、もう少しだけ、節度を保ちたい。他者を否定するにも節度を弁え、非難や罵倒で、自分の残り少ない日常を汚したくない。
 情報の氾濫、それももっぱら攻撃的な嘘と悪罵がはびこる世界の中で、僕らは生きており、今後もそれがますます深刻になりそうな雲行きであることを、覚悟して生きねばなるまいと、旅をしながらしきりに考えていた。
 
⑤ 韓江の文章と小説
 前々から気になっていた韓江の小説をいくつか、適当に買っておいて欲しいと、済州のHAさんに依頼していた。そしてお会いした際に、以下の4巻、『白いもの』、『少年が来る』、『菜食主義者』、『別れは告げない』を受け取った。
 そのうちで、特に選んだわけではないのだが、最後に挙げた『別れは告げない』を読み始めた。それが最新作との触れ込みだったが、だからと言ってそれを選んだわけでもない。
 僕は元来、評判になった本に飛びつくタイプの人間ではない。映画なども評判になったら、当分は見ない、といったように妙に臍曲がりなだけで、小説なども然りというだけのことである。
韓江については、数年前に『菜食主義者』の翻訳本を購入し、少し読んでみたが、自分がその種の小説を読み進める心身の状態ではないと判断して、読むのを先延ばしにした。そんな韓江さんがノーベル賞を受賞したという。そのニュースに触れた際には、その人気のせいで、へそ曲がりの僕には、彼女の小説を本気で読む機会がなくなったと諦めたほどである。
 ところが、よくよく考えると、ほとぼりが済むのを待って、おもむろに彼女の小説を楽しむなどと悠長なことを言っておれる立場に、僕はいないという、僕にとっては自明すぎる事実を思い出した。とりあえずの目標にしていた父の寿命だった77歳まで、僕に残された時間はもはや3年しかなくなった。
 それにまた、何か新たな刺激でもなければ、僕の書き物のひどい停滞状態を変えることができそうにない。そのように考え直して、韓江さんの小説がそのきっかけになるかもと、急遽、済州のHAさんに、韓江さんの小説の原書を数冊、なんでもいいから入手してくれるように依頼したのである。訳書よりも原書の方が、言語的障壁があるからこそ刺激になるなどと、いかにも僕らしく変なことを考えたのである。
 金石範さんの『火山島』全編なども、僕は日本語の原書よりも、その翻訳である韓国語版の方が、読みやすかったという奇妙な印象が僕の記憶に強くあって、それが作用したのかもしれない。
 そして、ともかく、旅先のホテルでベッドに横たわって、ぼつぼつ読み始めたのだが、久しぶりに韓国語の文章、とりわけ小説の文章を読むということもあって、ついつい辞書に頼りたくなってしまう。しかし、それは自らに禁じたし、老眼の苦しむ僕には辞書を引くのは面倒すぎる。さらに言えば、僕が小説を開くのはもっぱらベッドの中か、交通機関で移動中かのどちらかに限られており、物理的に辞書なんか活用できるわけがない。
 そこで、僕の中に眠ったり死にかけている能力を再活性化しながら、小説を読むことを楽しめるかどうか、それを韓江の小説で試すことにした。
 駄文を書くために頭を捻って、すっかり疲れてからベッドに横たわっての読書なので、遅々として進まないが、それでもいいと居直っている。楽しむための読書だから、時には音読したり、既に読んだ部分に戻って読み直したりもする。
 この先、そんな方法がいつまで続くか分からないが、僕にとっての楽しい読書にするという決意が支えである。既に記したように、当面は辞書の助けを借りるつもりはないが、やがていったん読了してからは、机に向かって姿勢を正し、辞書も使って学生気分で再読することもあるかもしれない。たぶん、そうするだろう。そうすることで、小説の楽しさが倍加すると期待もしているからである。
 昔、すっかり引き込まれて楽しく読んでいた申京淑の小説のことがしきりに頭に浮かぶ。或いは。フランス語で読んだチェコの作家であるミラン・クンデラの小説のことなども。
 作品が、或いは、文体が似ているというわけではない。作品に対する僕の構え方が似ているのだろう。小説を楽しむという構え、小説から学ぶなんて余計なことは考えないで、自分の中で眠ってしまっている多様な能力、そして楽しく生きたいという欲望を引き出しながら、作品と対面・格闘する覚悟が同じなのだろう。
 ところが、実に困ったことになった。韓江の文章を読むにつけ、文章を書くことが恥ずかしくなってきたのである。対象に対する粘着力、それでいて、見事に節度を保っているからクリアーで濃密な描写に、ほとほと感心し、それと比べれば、僕のヤクザな書き物など文章などと呼べそうになくて、情けなくなった。 
 ところが翌日になると、そもそも、そんな贅沢なことを言える資格など、僕にはなかったことを思いだした。そんなことは予め承知の上で、それでも書きたいと思ったからこそ、書いてきた。そんな僕にとっては自明のことを再確認して、自分にできることを納得できるまで続けるしかない。要するに、初心に戻った。
 自分の書き物の拙劣さも含めた限界を認めて、それでも書くのだと覚悟を決めて、滞っていた大量の草稿の推敲を、またしてもちまちまと再開した。

⑥ 旅のお土産
 僕は誰かに贈り物をしたり、お土産物を買ったりがすごく苦手で、苦手だから、稀にしても喜ばれないし、かえって嫌がられるという印象が強いから、ますますしなくなった。そんな僕が今回は気まぐれで、或いは、成り行きでお土産というより、自分が食べるために買って家に持ち帰ったが、結局は破棄する羽目になった、僕お得意の失敗話を最後に。
 14日の夕食のために、HAさんが連れて行ってくれたカルグックス屋さんで、お店の奥さんの手作りの太刀魚とスズメダイの塩辛が珍しかったので、済州の味の記念にと購入した。しかし、ほんの見本程度の小さな瓶詰めで3500韓国円、日本円だと300円程度のものにとどめた。その10倍くらいの瓶詰めもあったのに、何かしら警戒心が働いたのだろう。
 日本の自宅の食卓でその蓋を開けたところ、強烈な臭いがプンと漂って、それに驚いてしまった僕はすぐさま密封してしまい込んだ。妻は、「自分は食べられないけど、せっかくだから食べたらいいのに」と言ってくれたが、またしても僕の失敗と後悔した。
 僕はキムチも日本では、とりわけ自宅では殆ど食べない。妻はほんの少量、ひとかけらかふたかけらを、時々食べるが、僕は何故かしら食べたいと思わない。
 韓国では人並みにキムチがないと食事が進まない僕なのに、日本に戻ると、食べたい気がしないのである。土地の何かが影響しているのだろうか。おいしくも思えない。漬物なら。きゅうりや大根などの日本風の浅漬けのほうが断然、お気に入りである。年中、いつでも飽きずに食べる。
 それにまた、塩辛も日本のものは好物なのに、韓国のそれは、キムチ以上の文化的落差を感じるのか、抵抗感が並みではない。翌日には早速、その中身を下水に流して、容器の瓶を何度も洗って、臭いが感じられないようにしてから、資源ごみとして出した。僕の根深い何かが作用しているのだろうか。奇妙だし、困ったものである。
イワシ汁
 ゴマダレ鶏肉入りカルグックス張利錫さんの代表作
(2025年1月4日、このシリーズは今回で終了です。ありがとうございました。)


折々のメモ14、師走の済州旅行Ⅳ(2024年12月14日~16日)

2025-01-05 11:19:15 | 折々のメモ
折々のメモ14、師走の済州旅行Ⅳ(2024年12月14日~16日)

6.済州の4日目(2024年12月14日)
 この朝も3人で散歩の帰りにコンビニで、お気に入りのカップヌードルを買い、姪が母親と二人で家の果樹園で育てた新種のミカン(デコポンに似た漢拏ボンの改良種で、新鮮な味)、そしてコーヒーで軽く済ませた。少し休んでから、3人で連れ立って、昔の済州のすべてを決める役所だった観徳亭を訪問した。
 入場券売り場で、「無料の年齢(65歳以上の高齢者)か」と尋ねられたので、「そうです」と答えたところ、身分証明証の提示を求められたが、旅券を持ち歩いてはいないと答えると、「それならだめじゃない」と、馬鹿にしたように邪険な言い方をされて気にさわったが、仕方ないと苦笑いした。その程度のお金まで節約しようとこちらから特に頼んだわけでもないのにと、少し不快だった。
 済州も昔と比べれば、接客態度はずいぶんと改善されたというのが、僕の印象なのだが。相変わらずそうでもないことが目立つ。しかし、それはやはり総体的には改善されたからかえって目立って感じるのだろうと、納得した。
 観徳亭には李映権著『済州歴史紀行』の翻訳にあたっての調査なども含めて、20回以上は訪問しているので、今回は特に何かを目的とした訪問ではなかった。少しは3人で観光気分に浸りたいし、誰と同行するかで、印象が変わりそうな気もしたからである。妹は3回目か4回目、長女は初めてと言っていたが、二人ともにそれなりに楽しんでいそうで、僕もなんだか嬉しくなってきた。それぞれが自分勝手に、ゆっくりと見学した。
 天気も悪くなく、適度な寒さで、これこそ冬の観光日和で何よりだった。長女は早めに空港に着いて、ゆっくりと昼食を済ましてから飛行機に搭乗するからと、タクシーで空港に向かった。
残された妹と僕は、昼食をどうしようかと考えて、すぐさま思い浮かんだのが、いつも胃腸に問題を感じると、癒しを求めて赴く店だった。チョル麺(僕はその店で30回は食事をしたが、その店の<売り>であるその麺は一度も試したことがなく、どんなものか正確には知らない)と牡蠣のクッパ或いは<ヘジャングㇰ>とでは、汁とメシの内容自体は全く同じだが、前者はご飯と汁が同じ容器に混ざった状態であるのに対し、後者はご飯と汁が別々の容器で供されることが異なっている。因みに、二日酔いなどの時に、胃腸を洗ってくれると言われるへジャングㇰは、臭いなどを気にする人にはお勧めできないが、僕はわりと好きだし、この店では気になる臭いなどは全くなくて、誰でも嫌がることなどなさそうな店なので、二人ともに後者のへジャングッㇰを注文した。
 味はこれまでと少しも変わっていなかった。おいしい店なのに、満員状態になっていることなど一度も見たことがないのが不思議なのだが、そのおかげで静かで清潔感のある広々とした空間で、ゆっくりと料理を味わえる。僕にとっては、味だけでなく、雰囲気が重要なのである。歳をとったせいだろうか。
 いつも相手をしてくれるのは、30歳代半ばの息子さんで、彼はいつも変わらず、地味な服装、地味な言葉遣いで、少し言葉を交わしても、妙な馴れ馴れしさなど微塵もなく、節度を弁えている。
 但し、今回は料理にほんの少しだけ変化があった。へジャングに生卵が落とされていなくて、それが少し物足りなかった。しかし、この種の料理には珍しいニラが、牡蠣とスープと見事に調和していることには何ら変わりなく、十分に満足した。牡蠣の剥き身が10個以上も入っていて、それを堪能しながら、二人とも完食した。
 午後は少し休息をとってから、久しぶりに市街地から遠く離れた山中の済州道立美術館までタクシーを飛ばした。常設展示室にはその美術館の最大の<売り>の張利錫画伯の作品が所せましと並んでいる。かつては、それぞれの作品の横に、僕とHAさんが協力して作成した日本語の説明パネルが掲げてあったのに、それがすっかり姿を消していて、少しがっかりした。日本からの観光客が見込めなくなったせいだろうか。ともかく、歳月の流れの速さを今更ながらに痛感した。
 それでも、韓国のゴーギャンと呼ばれもする張利錫さんの作品群はさすがの力感で僕を圧倒した。それに加えて、2024年済州ビエンナーレに参加した十数か国の多様なジャンルの作家たちの作品の一部が特別展示されていて、その多様性とそれぞれの独自性には目を瞠った。
とりわけ、環境悪化の被害をまともに被る渡り鳥を独特な手法で描いた作品の数々、中でも目に包帯を巻かれた渡り鳥の異様な姿に、僕の目はくぎ付けになった。
 それぞれの作家の創作過程と自分の創作活動についての語りを収めたビデオ映像が繰り返し流されており、各人各様の魅力が誰にでもよく分かりそうな工夫だった。
 その他、済州の民具の研究と収集で名高い高寛敏さんの、多様で大量の<ばぐに(籠)>の展示にも驚かされた。コツコツと長年にわたってひとつのことに打ち込むことの偉大さと美しさを目の当たりにした。
 僕みたいな朴念仁ほど、時にはこのような作品群に接して、すっかり鈍麻して硬直した心身に強烈な刺激を与える必要がある。そんなことをしきりに思いながら、美術館の中をさまよっていた。
 夕食はまたしてもHAさんの案内で、観徳亭に向かって左の、若者が列をなしている餃子屋の、そのまた左隣の「トゥルケ(ごま)タㇰ(鶏)カルグッㇰス(手打ちうどん)」が売り物の食堂に入った。
 名物料理を注文して待つ間に、テーブル上に並んだ前菜類のなかでも、麦飯を生昆布にのせて、自家製の太刀魚とスズメダイの塩辛、さらにはキムチなども合わせて包んで口に入れるように勧められた。昔、母がワカメや茹でた白菜その他を大きく広げて、ご飯と味噌を包んで食べていたことを思いだしながら試してみて、昆布よりもワカメの方があっていそうな気がしたが、それは口に出さなかった。
 やがてお目当てのカルグックス(手打ちの温麺)がやってきた。夏の冷たいコン(豆、トウモロコシ)グックスの色を少し濃くして粘り気のありそうな、ゴマダレみたい味と外見のスープに、腰がありながらも実に滑らかな舌触りの手打ちうどん、そして鶏肉を茹でたものを割いてア治療に入っている。
 毎度のことだが、一見して多すぎるので、半分も食べられそうになかったが、残すわけにもいかないのではと気を遣いながら、箸をつけると止まらなくなった。間にマッコリを挟んで休憩しながらだが、結局は兄妹ともに完食した。HAさんだけはさすがに賢明に、半分ほど残していた。その生き上手の欠片でもものにしないと、この先が案じられる。
 60歳代半ばくらいの女主人の、愛想が悪そうな辛目の言葉遣いの随所から優しい心根がにじみ出てきて、それこそまさに済州の女性の本質だと、昔、わが家の近くに住んでいた父の叔母で、僕らがハマニと呼んでいた老婆の意固地さと表裏一体の孤独感の切実さを想ったが、この店の主人はあのハマニの孤独感とは正反対に陽気な女丈夫だった。
もっと胃腸を整えて再訪しようと、自分に言い聞かせた。

7.済州の5日目(12月15日)
 韓国情勢の急変もあって、出発以前からの心労と到着してからの様々な緊張、そしてそうだからこそかえって陥ってしまう暴飲暴食で、胃腸が悲鳴を上げていた。そのうえ、そうだからこその不安定な睡眠も加わって、ベッド上ではついついユーチューブに頼るという悪循環。そこから逃れられない。
 そのユーチューブ地獄では、見えること、聞こえることの大半が、大統領とその妻に関するとんでもない話である。心配したり腹を立てたりと、一週間ほど前に、韓国通の人でも予想外の戒厳の速報に触れた夜と、殆ど同じ興奮状態に陥って一夜を過ごした。そのせいで、夜が明けても、心身ともにひどい倦怠感で、とうてい起きられない。旅先でも日課と固く決めていた朝の散歩も諦めた。
 さらには、せめて午前中だけでも完全休養と決め、妹にもラインでそのように伝えた。そのおかげで妹も、僕のお節介な講釈の連続から少しは解放され、自分なりの街歩きを楽しめるに違いない。
 ベッドに戻り、半睡状態ながらも、またしてもユーチューブ三昧で午前中を過ごした。大統領夫人に関する疑惑のことごとくに相当に確実な根拠があり、韓国社会はもちろん、現代世界が孕む問題が見事に集約された存在のように感じられてきた。それだけに、そのすべてを白日の下に曝しての、厳しい調査が実現することを願った。そうでなければ、今回の大騒動も左右間の、そして与野党間の権力闘争に矮小化されて消費され、何度も繰り返されるうちに、とんでもない異変となって、人々を脅かしかねない。
 大統領夫人の幼い頃から現在まで、何度も繰り返されてきた整形手術や改名や履歴の改ざんが相まっての大加工を如実に示す数多くの写真と物語、そこに投影された韓国はもちろん世界の歪みと闇、その当事者はもちろん、その人たちに利用されたり利用するなどして生きてきた人々が織り成す社会のメカニズムを解明するのは、一筋縄のことではないだろう。しかし、それこそが民主化の根幹であると、僕にしては珍しく興奮しながら、それが無事に遂行されることを祈った。
 韓流ドラマはその社会とそこに生きる人々の現実に根差した<創りもの>だが、決して<紛いもの>ではない。そんなことを、今さらながらに痛感した。ありがたい休息の時間だった。
 昼は部屋で、またしてもカップヌードルと姪からもらったミカンで済ませたが、さすがに終日、部屋に閉じこもっていると、閉塞感に苦しみそうなので、外に出て、近くの地下街などを歩いてみた。
 観光シーズンではないからか、或いは、コロナ禍で、国外に出られない内国人がせめてもの観光気分を味わおうと、済州に殺到して生じたバブル現象の反動で、済州の景気はあまりよくないらしく、週末なのに地下街も人が少なかった。
 そのように歩きながらも、僕はさすがに食い意地がはった老人で、酷使して弱った胃腸をか抱える僕らに相応しい夕食を物色することにした。ところが、意外なことに、週末は定休日の店が多くて、適当な店が見当たらない。仕方なくホテル近くまで戻ってきたところ、ホテルの数軒隣の食堂で、ポマルという小さな巻貝のお粥とアワビのお粥という済州の二大名物料理が揃っていそうだったので、それを夕食候補の一番に決めた。
 夕食にしては遅めになって、その店に入ったところ、日曜日のそんな時刻で、客がいないので早じまいしようとしていたのか、3人の中高齢の男2人と女1人がテーブルを囲んで談笑していた。ぼくはてっきり、その人たち全員が店の人のように思いこんだ。つまり、客は僕ら二人だけと早とちりしたのである。
 そのうちの女性は僕らの座ったテーブルにやってきて、注文を聞くと直ちに炊事場に入った。もう一人の男性はどこに行ったのか、僕の視野から消えてしまっていたので、背を僕らに向けてテレビを見ていた男性に、マッコリをお願いしますと声をかけた。
 すると、その男性が当惑していそうに見えたので、ようやく店の人ではないことに気づき、申し訳ありません、と改めて声をかけた。するとその人は、「気にすることはないですよ。僕は店主夫婦の仲間で、店の一員のようなものだから」とマッコリとそれを飲む容器を二つ持ってきて、僕らのテーブルに置き、名刺を差し出した。
 「海の風」(パダエパラム)と、その漢字語である「海風」(ヘプン)という、二種類の歌手名のほかに、肩書として「済州歌手協会員」と記されており、彼はその店に飾られた多くの大きな写真を指差した。そこには先ほどまで、店の女主人と一緒に座っていた男性と炊事場に行った女主人が着飾って歌っている姿が大写しされていたので、僕もようやく合点がいった。
 その店の主人夫婦とその仲間であるセミプロ歌手の3人がその場にいたわけである。そう言えば、5カ月前にそのホテルに泊まった時にはその横の橋上広場で、その人たちが大掛かりなストリートコンサートをしていたことを思いだした。
 僕にマッコリを持ってきてくれた男性は、ユーチュウブでも発信しているし、その店の横の東門橋でよくイベントを行っていると言うのを聞いて、僕もそのイベントを知っていると対応した。その時の記憶では、アマチュアのレベルとはとうてい思えなくて、驚嘆したことを話した。
相手も「そう言えば、一番前までやってきて、熱心に聞いてくれていましたね」と言うので、なるほど話がうまくつながるものだと面白くなってきたからか、その「海風」という芸名で思い出したことを彼に話した。
 50歳代の10年間にわたって、僕を生かしてくれた済州サイクリングで、西帰浦港近くを通った際に、ふと見かけて入った海鮮食堂が、まさにその「海風」という屋号だった。
 注文した太刀魚のスープを給仕してくれた30歳代前半と見える女主人に話しかけたところ、学生時代に日本の大阪に留学していたと言う。卒業して済州に戻って結婚、その店を始めたと言うのである。
 歌手の海風さんは、その海風という食堂のことは知らないけれど、自分も若い頃には日本にいたと、日本経験のことを話し出し、お得意の日本語をいくつか披露してくれた。
 その頃になって、注文した二種類のお粥が届いたので、話は中断して食べ始めると、その海風さんは姿を消した。
 その二種類のお粥について言うと、名物に美味いものなしといった言葉もあるが、僕らが食べたお粥はなかなかの味で、心身に優しくて有難かったが、ポマルのお粥の方は半分くらい残し、包んでもらって、翌朝の食事に充てることにした。
 こうして無事に、しかも気持ちよく夕食を終えたつもりだったが、その店でもあのタクシーの運転手と同じように、勘定をだまされた気がした。
 値段を聞かずに5万円(すべて韓国円表示)を渡すと、お釣りをくれた。僕はまたしても、その金額も確認しないでポケットに突っ込み、部屋に戻ってから何気なく確認すると、4千円しかなかった。
 お粥はどちらも15000円と書いてあったから、それぞれひとつずつの計2杯で3万円、それに加えて済州生マッコリはたいていの食堂で3000円程度だから、合計で3万3千円となり、お釣りは1万7千円のはずなのに、僕が確認できたのは、というより、お釣りを受け取って入れたズボンのポケットには4千円しかなかったわけで、その差額の1万3千円はどこに消えたのか。僕の幻か。
 客に愛想が良く見えた女主人が、いたずらをたくらんだのか。或いは、僕の方で何かが起こったのだろうか。
 タクシーの話とほぼ同じミスをまたしてもしでかしたのだから、何もかもすべて、僕が悪い。値段を聞いてからお金を出して、お釣りをその場で確認していたら、そんな疑心の生じるはずがなかった。僕の風采や下手な韓国語、そして兄妹が交し合う日本語など、隙だらけだったから、客が少なくて困っていた商売人の心の中に、ついつい邪な気持ちを誘い出したのかもしれない。
要するに、僕が一人前の大人らしくなかったせいで、女主人は咄嗟にそんな悪さを考え付いたのではないか。或いは、すべては僕の錯覚に基づいた誤解なのかもしれない。そして、もしそうならば、僕はとんでもないことを書いていることになる。
 というわけで、すべて僕が悪い。僕がきちんとさえしていれば、そのようなことにはならなかった。そのことを肝に銘じて、今後は誰に対しても、そしていつでも、もう少しまともな対応をするように努めよう。
 済州で受けた無言のアラームメッセージを、活かすも殺すも今後の僕の注意力に、さらには、当たり前の考え方と振舞ができるかどうかにかかっている。

8.済州の最終日(12月16日)
 午前中にもう一度、今後の為にも、そして、疑問点などを整理するためにと、銀行に赴いた。すると、僕ら以外に在日の人たちが既に何人も待っていた。そして、僕らの後にも数組が続々とやってきた。そのせいもあって、ずいぶんと時間がかかったが、なんとか用事を終えたので、その近くにある、かの有名な三姓穴を実に久しぶりに訪問してみた。
 昔はそこが海辺と漢拏山、そして万杖窟などと並んで済州の主たる観光地だったからこそ、その近くには済州KALホテル(かつては西帰浦KALと双璧だった)が聳え建っていたが、そのランドマークも既に営業をやめて、再開発事業を待っている。観光客が大挙してそのホテルや三姓穴を訪れる時代ではなくなって久しい
 それでも鬱蒼と高くそびえる海松の森はなかなかに厳粛な雰囲気を湛えている。僕の従兄で小説家だった故玄吉彦の青少年小説では、そこから徒歩圏内にあった五賢壇にあった五賢中高の生徒たちの、個人対個人、或いは、集団対集団の果し合いなどの場所として、その森が格好の場所としてよく登場する。そんなことを妹に説明しながら歩き回っていると、その従兄の人生と小説のことを次々と思いだした。
 そこから僕らのホテルまでは下り坂だったから意外と元気な足取りだからと、今回は一度も行けなかった済州の伝統スープの店(観徳亭のすぐ近くだけで、大きな道路に面していないので探しにくい)に行ってみたところ、10人くらいが店の前でたむろして待っていた。それでも時間の余裕があるからと、待っていると10分くらいで入れた。太刀魚汁もいいけど、そこでは鰯汁が一番かと、二人ともそれを注文した。実に素朴で純な味、汁を飲みだすとやめられず、最後の一滴まで飲み尽くした。まさに済州特級の素朴な味わい。
 荷物を預けていたホテルに戻って、タクシーで空港へ。運転手さんに僕としてはたっぷりのチップをはずんで、最後は気持ちよく済州に別れを告げた。


漢拏山の西帰浦側の山腹に位置する墓地内の両親の墓からの西帰浦の海
(2024年12月30日、折々のメモ15「師走の済州旅行Ⅴ」に続く)

折々のメモ13 師走の済州旅行Ⅲ (2024年12月13日)

2025-01-04 13:34:52 | 折々のメモ
折々のメモ13
師走の済州旅行Ⅲ (2024年12月13日)

前置きの前置き
 なんとか年が明けるまでに、師走の済州旅行に関するメモをすべてアップするつもりだったが、なかなかうまくいかなかったので、正月1日から早々に書き継いで、やっとアップできると思ったとたんに、このブログにアクセスができなくなって、パニックになって、それが1日、2日と続くと、二度とアクセスできないのではないか。しかも、既にアップした文章の原ファイルをパソコンの故障ですっかり失くしてしまったものが多かったからか、ブログ自体がなくなれば、僕が書いた文章どころか、僕が書いたという事実さえも歴史から消え去りかねないと、本気で心配していた。その一方で、ともかく、最後まで書ききろうと今朝(4日)も励みながら、敢えて改めてアクセスを試みたところ、最初は不安定だったが、ついにアクセスに成功。助かった。本気でバックアップを取らないと同じようなことになりかねないと、自分に言い聞かせるが、はたして・・・

本当の前置き
 二重の意味で、このシリーズの山になる12月13 日の僕の行動について書いたはずの文章が、すっぽりと消えてしまった。その事実に昨日になってようやく気づいて狼狽えた。何しろA4で6頁半もの長い文章である。しかし、すぐさまその理由の推測がついた。
 既に前回の「師走の済州旅行Ⅱ」も、アップした直後に書き換えて再度アップといった不格好なことを立て続けに2回も繰り返していたのが、まぎれもない前兆だった。何かがしっくりしないなど、落ち着かない心理状態だった
 今回の旅の主たるいくつかの用事が、旅の3日目の13日に集中し、それについて書いた「師走の済州旅行Ⅲ」こそは、このシリーズの山場であり、そのようなものとして書くつもりだった。それだけに肩に力が入いりすぎたのだろう。書き進めるのに大いに難渋した。しかも、あまり書きたくないし、だからこそうまく書けないことや書いては拙いことも含まれるなど、匙加減も難しかった。 
 いかに嫌な経験でも、納得がいくようにさえ書ければ、昇華されてカタルシスを経験できる。ところが、その反対に、いくら書き直してみても自分で納得できない文章しか書けないものだから、すっかりうんざりして、気もそぞろになっていた。
 要するに、ミスが起こって当然の心理状態に僕自身が落ち込んでいた。不満がまったく拭えないのに、そのままアップするしかないと諦めていた文章を、自分で無意識裡に消去してしまったらしい。
 しかし、すんなりと諦めるわけにはいかない。いくら不出来なものでも、さんざん苦労した結果だから、未練たらしくもなる。そこで、本シリーズでアップ済みの文章の中に、消えてしまった文章の一部くらいは紛れ込んでいるかもしれない可能性も考えて、読み直してみた。ところが、やはり無駄骨だった。既にアップした拙文には、消えた文章の断片すらみつからなかった。
しかし、それは全くの無駄な努力ではなかった。予想以上に数々の反省点が見つかった。
 例えば、前回の「師走の済州旅行Ⅱ」は実に多岐にわたり、とりわけ、時系列自体が複雑で多様な経験を多く含んで構成されて、読者にとっては読みにくいだろうに、少しでも読みやすくなるような工夫、例えば、小見出しによる整理と読み方の誘導などの配慮がすっかりおろそかになるなど、きわめて不親切だった。
 それだけに、近い将来に気持ちと時間の余裕が生じたら、せめてそうした配慮だけでも徹底する形で改稿して、再アップするのが、書き手としての僕の義務だと、自分に言い聞かせる機会になった。
 しかし、いつになったら実現するか定かではない、そんな夢のようなレベルのこととは別に、差し当たって僕が最低限になすべきことは、消えた文章を復元することである。
 それを書いたのはほんの数日前、そして、そこで書かれていること自体も10日ほど前のことだけに、消えた文章で僕が何を書いていたかが、うろ覚えであっても、ある程度は記憶に残っている。したがって、時間と気持ちを投入する労を厭わなければ、消えたものに似た文章を書くことが、さほど難しくない。しかも、既に書いたものを、新たな気分で書き直すつもりで挑戦すれば、よりまともな形で復活を果たすかもしれない。
 しかし、今の僕にはそんな時間と気持ちの余裕がない。寿命も想定して、できる限り早期の刊行を目指して、人生最後のつもりで完成を急いでいる著書の草稿の推敲作業がひどく滞っているからである。
 それにも関わらず、まだ記憶に新しいうちでないと書けなくなりそうだからと、先般の旅行についての覚書を優先しているのも、僕が自分自身に許せるぎりぎりの猶予なのである。
 そこで改めて、消えた原稿の断片が残っている可能性に賭けて、机の上や周辺に積み重なった書籍や書類の山を探ってみたところ、幸いなことに、推敲用にプリントアウトしていた草稿が見つかり、「助かった」と安どのため息を吐いた。
 その結果、草稿を参考に再入力したうえで、修正を施せば済むことになった。皆さんに今回、読んでいただく「師走の済州旅行Ⅲ」は、そのようにして復元されたものであり、安堵の勢いを借りて、恥ずかしいほど大げさに言えば、死産に近い状態から復活した(僕の)嬰児のようなものなのです。

5.済州の3日目(2024年12月13日)
 今回の旅の主目的である4つの用事が集中し、それぞれを滞りなくこなし、午後の5時までには、すべてを終えなくてはならない。時間的にも気持ちの上でも相当にタイトになることを、旅の計画を立てながら、済州現地の人々や妹や長女と調整を繰り返していた時点から既に、覚悟していたことだった。
 ところが、そのように大事なことを控えた時ほど、最も避けるべきことを自分に言い聞かしながらも、ついつい馬鹿なことをしてしまう。それが幼い頃からの僕の大きな欠点と自覚しているから、逆に、それが強迫観念となったのか、今回もまた・・・
 現地での初日の11日の夕食時には、おしゃべりに夢中で飲みすぎ・食べすぎた結果、ただでさえ弱い胃腸の変調をきたしてしまった。それどころか、翌日もまた、成り行きに加えて、生来の酒好きが僕に同じことを反復させた。その結果、三日目の最も大事なこの日は朝から、胃腸の調子がひどくて、タクシーで移動中に便意でも催したらと心配が募った。それだけに、朝食は控えめにと自分に言い聞かせた。
 そこで朝の散歩の帰りにコンビニで買った、僕が味も量もお気に入りの小さな<カップラーメン>という商品名の春雨スープで、朝食を済ますことにした。ホテル内の自由に使えるラウンジにそれを持ち込んでゆっくりと胃に流し、緊張する心身をほぐすために、ラウンジに備え付けのコーヒーメーカーでコーヒー(コーヒー豆を挽いたものをペースト状になったものをコーヒーメーカーにセットしてボタンを押すと、やがては豊潤な香りが立ちこめてできあがる)を、妹とおしゃべりもしながら、ゆっくりと味わった。すると、期待通りに便意を催したので、トイレで用を足して用意が整った。
 ところが、そんなことをしているうちに、出発予定の時刻をずいぶんと過ぎてしまっていることに気付いて慌てた。
 そして、その時になってようやく、前日に用意しておくべきことを忘れていたことに気付いた。その日の最初の用事は、両親の墓参なので、前日にホテル前の行きつけの花屋で供花を買っておくつもりだった。ところが、会食の誘いで出かけてしまったせいで、すっかり忘れてしまっていた。
 しかも、肝腎の当日の朝も、花屋の開店を待つような時間の余裕などないなど、出発以前にひどいしくじりの繰り返しで、前途に霧が立ち込めた。そして、そんな気分が後を引いた。
 因みに、その日の用件と目的地は、先ずは済州市から漢拏山を南に越えた西帰浦市の山腹にある両親の墓参、次いでは、姪が勤務する西帰浦の金融関係の本店で諸種の手続き、さらには、その近辺に住む従兄夫婦から前々から約束していた会食、以上で西帰浦市での用事は終わると、今度は南から北へ漢拏山を越えて済州市に戻り、父の生前から長年にわたって関係が続いてきた都市銀行に立ち寄って、これまた様々な手続きと今後の相談、それを銀行の営業時間内に終えねばならなかった。その日は金曜日だったから、翌日は週末の休日で、長女はソウルに旅立つので、なんとしてもその日に終えねばならなかった。
 以上が今回の旅の最大の用件であることから窺えるように、僕の旅、とりわけその半ば以上を占める済州の僕の旅は、物見遊山でも研究調査でもなく、ほとんど常に僕の一族、そして僕と妻とで築いてきた傷だらけの核家族の生活と切り離せない。研究調査もどきや観光は、そうした生活に関わる用件に、刺身のつまみたいに付け加わるにすぎない。要するに、僕の済州旅行は僕を束縛してきた宿命の根幹であり、その象徴だからこそ、それについてはついつい、長々と書いて親切で優しい読者を困惑、そして呆れさせる。
 それはともかく、出発を急がねばならなかった。
 最寄りの東門橋のタクシー乗り場で客待ちしていたタクシーの運転手に、行先について説明したうえで、不都合はないか尋ねたところ、OKとの返事をもらって、そのまま乗り込んだ。普通なら、所要時間と距離を想定し、費用について約束を交わすのに、気が急いていたので、それを省略したままに乗り込んで、「何はともあれ、後は運転手に任せればいい」と無責任で能天気なことで済ませてしまった。 
 ところが、しばらくすると、そのタクシーは僕が想定していた経路と異なるコースを走っていることに気付いた。そのコースだと、随分と遠回りだし、時間もかかりすぎる。とりわけ、時間のことが心配になった。そこで、「どうしてこんな道を?!」と運転手に尋ねたところ、「近道の5・16道路は雪が降ると面倒だから避けて」、とまるでなんでもなさそうな答えが返ってきた。それならその旨を予め僕ら客に告げて、許しを得るべきなのに、と怪訝に思ったが、敢えてそのことは言わなかった。
 運転者が避けた5・16道路は、僕自身も苦手で、時間に余裕がある時なら、むしろこちらから、その道は避けて別の路をと注文を付けるところだったからである。
 そんな僕でも、その日は時間の余裕がないから、そんな注文をしなかった。それに、天気も運転手が匂わせるほど悪そうではなかった。その上、運転手の口調から、僕らが在日だと見当をつけて、「悪さ」をしているのではと疑ったのだが、それでも、途中で余計なことを言ったあげくに、もめごとにでもなれば、こちらの方が困る。そう考えて、思いとどまった。
 それにしても、運転手はいかにものんびりと、何やかやと話しかけて、前方をしっかり確認すること怠る様子なので、事故の危険と時間の遅れの危惧で苛々していた。
 しかも、乗り込む際に、「トンネコの南国禅院」と目的地を正確に告げた際には、その場所を正確に承知していそうな口ぶりだったのに、トンネコに着くと、その寺院自体には行ったことがなさそうな言動に変わったので、僕はすっかり呆れてしまった。しかし、幸いなことに、道路脇の随所にその寺院への案内標示があって助かった。その後は、運転手が何も知らないことを前提にして、その寺の門の位置、さらには、境内での墓地の位置など、逐一、説明した結果、なんとか墓地に着いたと思って下車し、待っておくように指示したが、今度は僕がよほど慌てていたせいか、上下二か所ある墓地のどちらに両親の墓があるかを間違ったせいで、坂を徒歩で上ってようやく、墓前にたどり着いた。
 妹は亡くなった母が用意していた線香その他を持参して、それに火を灯すなどきちんと拝礼の形を取ろうとしていたが、風のせいか、或いは、線香が古くてすっかりしけてしまっているのか、点火に手間取るなど、何をするにしても思わぬ時間がかかった。
 僕はひたすら気が急いて、実にいい加減な拝礼で済ましながら、「いつもこんなことばかり」と両親に申し訳ない気持ちになった。そして弁解として、「いつかは、時間など気にしないで、半日くらいはそこで過ごすつもりで来る」なんてことを、墓の中の両親に約束して、もっぱら先を急いだ。
 発車する前に、姪と連絡を取ろうと携帯を見たところ、姪からの着信履歴に気付き、姪も時間の遅れを気にしていると思うと、ますます気が急いて、両親の墓地を出発するところだと伝えた。
 しかし、それからも、予想外に手間取った。西帰浦の市街地の中心にある有名な広場の近くに位置する金融機関と運転手に告げておいたので、運転手はてっきりその正確な位置を把握しているものと思い込んでいたが、そのあたりに近寄ると、このあたりのはずなどと繰り返し頼りないことを言いながら、車で周辺をうろうろするばかりなので、僕はその運転手には見切りをつけた。下車して歩いて見つける方が早いし確実だから降ろしてもらいたいと告げた。ところが、彼は用事がすべて終わるまで待つ、と言う。済州市に戻るまで僕らを乗せて帰るのが、最も楽だし収入になるから、そのようにすることに決めてかかっていた。そこでそうはさせまいと、「何時になるか分からないし、ここが終わっても別件の用事があるので待機は不要」と突っぱねた。それでも、彼は引き下がらない。「何時まででも待つ」とまたしても言い張るので、相手にしないことに決めた。どこでもいいから車を停めるように求めて、料金を尋ねた。
 メーターは6万円前後であることを確認していたが、待機時間の経費も付加すべきと思ったからである。すると、運転手は7万円と言うので、5万円札を2枚渡した。すると彼はそれを受け取って、何かと手間取りながらも、ようやくポケットから札を取り出し、僕に差し出した。僕の方が急いでそれを受け取り、その金額の確認もせずに、ポケットに入れて、ともかく直ちに下車した。関わり合いのなるのがうんざりだったし、やはり気が急いていた。
 タクシーが発車してからようやく、念のためにと先ほどポケットに入れた札を取り出してみたところ、2枚しかなかった。案の定、と思った。彼は料金として結局は8万円も受け取ったわけである。メーターと比べると2万も余計に、そして彼が口頭で僕に伝えた料金だと比べると1万円分を自分勝手に加算したわけである。
 不快だったが、旅行者、とりわけ、済州にルーツを持つ在外済州人二世の僕は、そんな<仕打ち>を受け入れるしかないと、自らに言い聞かせてのことである。それをどのように書けば読者に理解してもらえるか。僕の文章にはそうした心理を正確に伝える力がなくて情けない。
ともかく、メーターよりは2万韓国円、つまり、2千日本円程度をチップ代わりに、同郷人の誼として奪われた。
 しつこくなるが、寂しく情けないことだった。それと言うのも、僕が最初から毅然としてビジネスライクに交渉・合意のうえでタクシーに乗り込むという、自分で決めた原則に従わず、隙だらけの対応で済ませた安易さが招き寄せた事態だから、僕の責任である。そのように考えて、これまでもやり過ごしてきたし、今後もそのような局面が繰り返されるに違いない。正しいこととは思えないが、繰り返しの結論になるが、仕方ない。
 ところで、僕の亡父の姉の孫である姪は、高校卒業後にその金融機関に入って早や40年以上で、来年には定年を迎える。その間には、僕の父に始まり、父が亡くなってからは、その父を引き継いで僕が子どもを代表して、その姪の業績に少しでも貢献できるようにと努協力してきたが、そんな彼女も来年には定年を迎える。そして、既にご登場願った博物館の学芸士と同じように、一年間の在宅勤務の権利を得ることになったので、これまでに管理を任してきたことなどの整理のために駆け付けた。
 定年を数年先に控えた3年ほど前に支店長になった彼女の、長年にわたる配下の女子職員たちに、てきぱきと要領よく指示を与え、それを彼女自身が逐一確認したうえで、僕ら兄妹にその結果の書類を渡してくれた。そんな仕事ぶりのおかげもあって、予想外の短時間で用件がすべて完了した。当初から想定していたように、昼前には片付いて安心した。
 次は従兄夫婦との会食である。姪に頼んで、従兄に連絡してもらい、従兄に指定された会食場所に、姪の車で駆け付けた。
 済州を訪問する度に従兄とはたとえ短時間でも会って話を交わすようにしてきたが、その妻である義従姉とは、ずいぶんと長く会っていなかった。僕が西帰浦を訪れるたびに、食事に招かれても、何かと用事を抱えた僕なので、あまり自由が利かずに、断わることを余儀なくされてきた。
 そこで、今回は何が何でもと、繰り返しての念を押されての招待だったので、僕の方も喜んで受けた。従兄も僕と同年齢の彼女も僕も、ずいぶんと歳をとって、この先に再会する機会も多くはないという見通しもあった。しかも今回は、珍しいことに妹、そしてその夫婦とは数十年ぶりの長女も同伴していたので、格好の機会になった。成り行きで姪も急遽、同席することになったのが、済州独特と僕が思いこんでいる<フグ鍋>の専門店だった。
 済州のフグ鍋も昔とは違って、今では二種類がある。一つが従来からのメウンタン(辛み鍋のことで、赤くて辛い)、もう一つはおそらく日本からの客が多かった済州らしく、その影響も受けて工夫されたちり鍋(辛くはないが、独特の深みのある白い出汁)である。
 今回は6人なので、その両方を3人前ずつ注文して、各人が好みに合わせて片方、もしくは両方を味わえるようにした。その他に、フグとトラジ(桔梗の根)の天ぷらも注文してくれたが、その中にはフグの白子の天ぷらも含まれており、噛まずにすむ柔らかな食べ物が大好きな僕としては大喜びだった。白子はもちろん、それと食感が似ている鮟鱇の肝も、僕の好物である。フグのから揚げは日本でも何度も食べたことがあるが、天ぷらは初めての気がしたが、白子の天ぷらは確実に初体験で、すっかりファンになったが、日本では高価すぎて、手が届かないだろう。
 白子のみならず、日本ではフグ自体、そしてもちろんフグ鍋(てっちり)も高級イメージが強く、韓国でもソウルなどなら同じ事情らしく、7,8年前にソウル在住の母方の従弟夫婦に招待されて、市庁近くの高級感のあるフグ専門店でご馳走してもらったフグのフルコースは殆ど日本のそれと同じだった。すごく高かったに違いないが、その従弟は僕の親戚の中では際立って成功者なので、遠慮せずにご馳走になった。
 しかし、少なくとも済州のフグ鍋その他のフグ料理は、それほどの高級感はなく、庶民の味の印象があるからこそ、僕はますます済州のフグ鍋のファンになった。
 何が違うのかと言えば、先ずはフグの種類が異なっていそうである。済州のそれは日本で重宝される高価なトラフグではなさそうだが、それでも僕には十分以上においしい。しかも、その他の具も違う。済州のフグ鍋に欠かせない他の具、例えば野菜の代表はミナリ(セリ)であり、それとだし汁(辛み鍋でもちり鍋ではまったく同じというわけではないが、味の深みという点では匹敵する)との相性が抜群のように感じられる。その他の具としては、今回の店ではモヤシがあったが、僕などには、それは余計もののように思えた。しかし、韓国ではモヤシは実に多様な料理で必須のアイテムになっていそうなので、韓国で生まれ育った人なら、モヤシが入っていたほうがおいしいと言う人が多いのだろう。
 因みに、僕の済州のフグ鍋贔屓(辛み鍋でもちり鍋でも変わらず)には、僕の本籍地が済州であることは関係していないと僕は思っているが、僕の父のフグ鍋贔屓の残響が、僕のその鍋に対する感じ方に大きく影響を与えているというのは十分にありそうな話である。
 母の懇請を受けて、済州での一族の懸案の解決のために、僕が両親と済州への同行を繰り返すようになった当初には、問題解決の糸口すら見つからず、3人それぞれが別のことを考えながらも、途方に暮れていることに関しては同じという状態が続いた。そんな冬のある夕刻のこと、父は僕と母に、フグを食べに行こうと声をかけて、さっさと歩き出したので、僕らも懸命にその後を追った。父はいつもそうだった。どこかに一緒に出掛けても、自分が先頭を切るのはいいのだが、後に続く者を振り返ることもなく、ひたすら足を運ぶ。その愛想のなさ、或いは、配慮のなさには、いつも呆れていた。しかし、歳をとってようやく気付いたのが、父のそんな悪癖がそのまま僕にも伝わっていることで、そのことを思うと、顔が火照る。
 それはともかく、当時の僕は、前を歩く父と後ろからとぼとぼついてくる母の中間に位置して、三人がばらばらにならないようにと懸命だった。
 父が向かったのは、高台に広がる市街地から海辺の方に向かって坂道を下った先にある西帰浦港の周辺に立ち並ぶ食堂街の端の店で、父と店の人たちの様子からは、父がすっかり常連のように見えた。
 窓から港が見下ろせる座敷に座って、僕は済州のフグ鍋を初めて味わった。でも、その味の記憶はあまりない。僕の関心はもっぱら両親の様子に集中していた。
 父はまずビール、次いでは済州の焼酎ブランドの<漢拏山>を飲みながら、済州のフグのメウンタン(辛み鍋)を、実においしそうに食べながら、時折、思い出したように母と僕に笑顔を向けた。母はそんな父の幸福そうな様子に呆れながらも、それなりに満足していそうに見えたので安心した。母としては言いたいことが山のようにあっても、ついさっきまで途方にくれていた親子3人が、ほんの束の間であっても、熱々の辛い鍋に舌鼓を打ちながら、辛いことを忘れている、或いは、その<ふり>で協力しあっているからには、それ以上に何も望まないといった心境だったのだろう。父は時折、僕にも焼酎を注いで飲むように勧めてくれた。済州のフグのメウンタン(辛み鍋)の辛さ、<漢拏山>の甘さがその情景と共に、僕の胃と心に染み渡った。
 それと同時に、僕は<父の子供としては不埒>なことに想像を巡らしていた。父が好物のおいしいフグ鍋を味わえるその店の常連であるからには、僕と母の目が届かなかった頃には、つまり、母が父の済州での父の不行状に絶望して済州への同行を拒んでいた頃には、おそらくわが家の問題の源になっていた済州の女性を連れて、父はその店に通っていたに違いない。そしてもちろん、母もまたそれくらいのことは十二分に察しながら、敢えて知らぬふりをして、ともかく親子三人が食卓を囲んでいることに甘んじているのだと確信していた。ともかく、夫婦(あるいは男女)関係の複雑さと微妙さ、そしてもちろん愛憎、さらには助け合いや寛容といったことを、僕はもっぱら何よりも両親の関係の幅の広さ、奥深さをつぶさに見ることで学んできた。
 因みに父と一緒に味わったフグ鍋はメウンタン(辛み鍋)だったが、その後に僕が父とは別に済州の親戚と食堂で食べるようになったのは、むしろフグのチリ鍋だった。日本で生まれ育った僕のことだから、ちり鍋の方が口にあうだろうと親戚たちが察した結果なのだろう。その結果、僕は済州でのフグ鍋としては、赤いメウンタンよりも白いちり鍋に馴染み、それこそ僕の済州における三大好物の汁物のひとつになった。フグのちり鍋、太刀魚汁、そして、イワシ汁である。
因みに、韓国庶民の中華としては双璧であるジャジャン麺とチャンポンにも、辛さで有名な赤いのとは別に白いチャンポンがあることを知ったのは、10年ほど前のことだった。ソウルのホテルの近くの中華屋で、<牡蠣入りの白いチャンポン>という表示が壁にかかっていたが、胃の調子が悪くて、赤くて辛いチャンポンは避けたいと思っていた僕は、救いの神としてそれを注文したところ、いたく感動した。
 白いチャンポンは済州のチリ鍋とよく似た色と味なのだが、韓国のチャンポンに相応しく、牡蠣などの具がたっぷりで、出汁の深く潤いのある味に感動した。
 旅行社に依頼して3泊したホテルが、日中は寒すぎて、室内で取り組むデスクワークにも難儀して苛だっていたので、白いチャンポンの温かくて深い味わいのスープと牡蠣の身には本当に心身を慰められた。
 その後は、韓国で中華屋に入ると、メニューに二種類のチャンポンがあるかどうか確認するようになったが、どこでもあるわけでもなさそうで少し落胆していたが、済州の海辺の町の塔洞で、たまたま入った中華屋にそれがあるのを見て喜んだ。ちり鍋の味に似た白いチャンポンの味を一度でも味わえば、韓国のチャンポンの味に関する辛いという固定観念は修正を余儀なくされる。
 それはともかく、改めて韓国の<ちり鍋>の話に戻る。
 フグ鍋に限らず、韓国で<ちり鍋>と呼ばれるものは、どれでも出汁の味がしっかりしているので、野菜などの具はポン酢などタレをつけないで食べるが、売りものの具であるフグその他の魚介類の身は、ポン酢とは違って少し甘みのある醤油系のタレをつけて食べる。「タㇰ(鶏)ハンマリ(一羽)」という商標で一時は大流行した鳥鍋と似た食べ方であり、日本のちり鍋とは異なっている。
 これまたついでに言えば、韓国では刺身も焼き肉などと同じように、荏胡麻の葉など野菜の葉で包んで、キムチや鰯の塩辛その他の薬味も添えて食べる。ウナギやアナゴや鴨の焼き物も、豚の焼き肉などと同じようにして食べる。そのおかげで味が中和されるなど健康にもよさそうで、ついつい食べすぎてしまうことが多い。ウナギなどもそうした食べ方に馴染むと、日本流のウナギのかば焼きなどは食べられなくなってしまう。僕は元来がウナギのかば焼きを好まないから、そのように思うだけかもしれないが・・・
 話を西帰浦のフグ鍋店に戻すと、そこでの会食は従兄の招待のはずだったが、僕らを車で案内してくれた姪が、従兄夫婦から僕らの接待の権利を譲り受けたらしく、おいしい食事とその楽しい時間に関して、僕らは従兄夫婦と姪の両方に心から感謝したい気持ちになった。
 僕らは遅くならないうちに済州市に戻って残りの用件も終えねばならないので、バスかタクシーのどちらにしようかと迷っていたが、姪が僕らを済州市まで車で送ると言う。迷惑をかけてしまうが、車中では必須の用件からは解放されて、身近な話ができそうに思ったので、有難く受け入れた。
 姪はごく自然な様子で5・16道路を通って済州市の中心にある銀行まで送ってくれたので、午前中のタクシー運転手が弁解に用いた道路事情などには、やはり何一つ問題がなかったことを確認しながら、快適なドライブを楽しめた。しかも、それに要した時間はほんの30分ほどだったから、まさに時間と料金稼ぎのペテン運転手だったわけである。既に済んだことだが、例のタクシー運転手に対する僕の見方の正確さが確認できて、納得した。
 それはさておいて、姪とは主に二つの話をした。一つは彼女の一人娘のことである。数年前に、姪にしてはすごく珍しく、彼女の家族の話をしてくれた。しかも、いつも控え目な彼女には似合いそうにない自慢話だった。
 娘さんが<カイスト>という韓国で有数の理科系の高等教育機関に合格したと言うのである。少し面映ゆそうな様子で、姪とは30年を越える付き合いで初めての表情だったので、すごく嬉しかった。その教育機関のステイタスがどのようなものであれ、そんなことは何の関係もなく、娘の母親である姪が、そんなことを僕に話してくれたこと自体が嬉しかった。そこで、その次に会った際には、僕の兄妹弟5人の気持ちだからと、その娘さんへの入学祝を姪に渡すと、彼女はすごく恐縮しながらも、大いに喜んでくれた。そして、すぐさまその娘さんに電話して、事情を説明してから、僕に受話器を回してくれた。
 その結果、僕は全く想定外なことに、拙い韓国語ながらも、歳の功、或いは、年寄りの恥知らずの結果とでも言うのか、冗談も交えてずいぶんと長く、互いに笑いながら言葉を交わした。僕からすれば孫の代にあたる、会ったこともない女子大生との電話を通しての遭遇を楽しんだわけである。
 今回、姪はその娘が量子力学専攻の大学院に進み、アメリカやヨーロッパや日本の学会などでの論文発表で忙しいという近況を話してくれた。その量子力学がどんなものなのか僕に分かるはずもないが、まだ修士課程の学生の身で、そんな機会まで与えられるなんて、不思議だったから、少し立ち入った質問をしたところ、姪はその事情を詳しく話してくれた。
 実は大学院に進むかどうかに関しては、当人はすごく迷っていた。周囲の学生たちが自分よりも優秀に見えて、そんな学生たちと競うのは難しいと予想していたからである。しかし、自分の得意なこと、楽しいことはそれしかないので、どうすればいいか、珍しく母親に相談した。その際に姪は次のように答えた。自分に合っていること、自分が好きなことをすればいい。結果などその時にならないと分からないし、そんなことを気にしていると、何一つできるはずがない。
 要するに、姪は娘に大学院進学を勧め、娘もそれに従った。するとおかしなもので、ライバルと目していた学生の多くが、将来の生活の安定を考えて、医学部への編入の路を選んだ結果、彼女の専門領域の学生が一挙に減り、教授は残った数少ない学生の一人である彼女に期待をかけ、厳しく指導すると同時に、いろんな機会を与えてくれるようになったと言うのである。
 その他の学生生活全般についても、姪は話してくれた。他の学生はたいていがカイストへの入学時点でワンルームマンションなどを借りて校外で暮らすのに、その娘は珍しく寮に入り、食事などはすべて学校の食堂で済ますなど、甚だ経済的な生活を自ら望み、それを続けている。そんなわけで、四六時中、学内の生活なのだが、本人は十分に満足していると言うのである。
 その話を聞いて、その娘と数年前に電話で話した際の、声は幼そうでも、率直でしっかりした言葉つきを思い出し、僕は改めて感動した。
 この先、その物理学徒である大学院生と会えるかどうかは分からないが、そんなことはどうでも良い。そんな存在が気持ちの上だけでも身近にいるという事実、それだけでも僕の余生にとって励みになる。
 姪と車中で交わしたもう一つの話題は、彼女の祖父にまつわることだった。
 僕の父が植民地期の1940年頃に済州から釜山を経由して日本の大阪に渡った際に、最も頼りにしていたのが、大阪の淀川の南側の豊崎で暮らしていた父の姉夫婦、そして、同じく淀川沿いながらも先の豊崎とは反対の北側で、僕ら兄弟が後に生まれ育つことになる地域でひとり暮らしをしていた祖父の妹(父の叔母)だった。
 その中でもとりわけ、父の姉の夫は協和会の世話役などをしていたおかげで、住む家や働き場所の斡旋の他、日本定住にとって決定的な助けを受けた。
 ところが、その後の戦争末期の大阪大空襲で義兄が亡くなったので、父の姉は残された二人のまだ幼い息子二人を連れて済州に戻ることを余儀なくされ、その後も長らく赤貧の暮らしを続けた。
 そんな姉の家族のことを父は生涯にわたって気にかけ、姉の二人の息子に援助を惜しまず、その延長上で、下の息子の長女である姪と僕との密接な関係も始まり、これまで数十年、変わらず続いてきた。
 その父の義兄の死に関して、なんと、僕の中年以降の人生に重要な役割を果たしてくれた塚崎さんが絡んでくる。塚崎さんが晩年に最も熱心に研究と運動を並行していたのが、大阪大空襲における朝鮮人被害者に関わることだった。被害者の可能性がある人がいたら姓名と死亡時の状況などを教えて欲しいと、僕もことあるごとに頼まれていた。
 僕はふと、その姪の祖父にあたる人物、つまり、父の義兄のことが頭に浮かんだので、済州を訪問した際に、姪に彼女の祖父のことを質問したことがある。しかし、その当時は、姪は祖父について何も知らないに等しいと答えた。
 祖父は大阪から済州に戻ってきた際には、既に体に大きな支障があったせいで、ほどなくして亡くなった、とだけ聞いたことがあると言うのだった。
 しかし、その程度のわずかな情報でも、僕が聞いていた話と重なる部分とずれる部分があり、それを確認するためには、除籍謄本などを調べれば良く、彼女の祖父が大阪大空襲の被害者というのはほぼ確実そうで、大阪で亡くなったのか、或いは、被害を受けて労働生活ができなくなったので、致し方なく家族ともども故郷・済州に戻り、ほどなくして亡くなったのか、そのどちらが正しいのかも、除籍謄本で確認できる。機会があればそれを調べてほしい、と姪に依頼するなど、その話に関しても、一歩前進した。既に塚崎さんは亡くなったが、その仲間を承知しているので、遅まきながらも塚崎さんに与えられた宿題も解決するかもしれない。
 姪の車で馴染みの銀行に着いたところ、既に20年近くも付き合いが続いている行員が待機してくれていた。おかげで、予想以上に短時間で、主な用件は片付き、その日に予定していたことはすべて、無事に終えることができた。
 しかし、長期間にわたって何かと助けてくれたその行員が、年末には退職するという話を聞いて、ショックだった。彼のように在日の事情に通じ、しかも、困っている在日の顧客の為なら、なんでもやろうとするような、破格の姿勢の行員がいなくなると、在日の済州人で済州に今でも大小の資産その他の関係を維持している人たちは、どうなるか心配になった。
 在日一世の退場が始まって久しいが、その後を受けた二世の退場も加速度的に進行しており、僕ら兄弟もその一部である。その後の世代と済州との関係は、かつてのような骨肉の争いの色合いはすっかり薄くなったが、それでも媒介者の助力のおかげで、辛うじて維持されてきた。それが終焉に近づいてきたわけだが、それがスムーズに、しかも、将来に光が射すような形で進んで欲しいと、切実に願う心境になった。
 しかし、その種のことについては、またいつか、どこかで詳しく書いてみることにしよう。
ホテルに戻って、少し休んでから夕食に出かけることにした。済州に来て、名物の黒豚を一度も食べないで帰るわけにはいくまいからと、ホテルの近くにある有名な済州黒豚通りの馴染みの店に決めた。
 昼食のフグ鍋その他が、胃の中に残ったままの感じで、食欲がなかったので、心して量を抑えて、炭火の豚の焼き肉は、ひとりにつき一人前に限り、マッコリとビールをそれぞれ一本だけ飲みながら、今回もしつこく完食した。
 用事がすべて終わった安心感もあってか、心身の疲れが一気に出てきそうな予感のままにベッドに入った。
(2025年1月1日完。折々のメモ14,師走の済州旅行Ⅳ に続く)