カテゴリー:折々のメモ16
済州のお供え料理のピントクと京都の主婦の防寒対策1
先ずは、お断りとお詫びを少々。
2月末に慌ててアップした文章を読み直してみたところ、一部は意味不明だし、他の一部は書き足りていないことに気付いて、改稿が必須と判断して、それを実行しました。大筋は変わっていませんが、わが家の家庭料理のあたりはすっかり変わっています。
ピントクと済州の習俗の在日的様相
先日、たまたま同じ日に、二人の女性からラインで写真が届いた。ひとりは済州の知人で、彼女が作った名節のお供えのために作った「ピントク」という済州の伝統料理。もう一人は僕の大昔の教え子で、今では京都の古家で、持病を抱えて底冷えのする京都の冬を凌ぐために、自分一人で窓にビニールを貼った様子である。
どちらも日常生活を堅実に生きている様子が垣間見えて、爽やかな気分になった。そこで、そのついでに、理屈っぽくなりがちな僕の日常、そしてその反映でもあるブログの現状に風穴を開ける工夫の一つとして活用させていただくことにした。
そもそも、日常のこまごまとした生活とそれにまつわる雑感などを書きとめながら、それもまた糧にして、余生を楽しく生き抜こうというのが、ブログを始めるにあたっての初心だったのに、しだいに元の木阿弥になりがちで、そのあげくには追い詰められて二進も三進もいかない心境になったりもする。
そこで、心機一転のために、それぞれの写真をブログにアップしたらと思い立ち、許可を求めたところ、「下手なもので恥ずかしい」という点で、二人とも同じ返答だった。
そうなると、僕のお得意の屁理屈が静かにしているわけがない。下手というのは被写体自体の出来栄えとその写真の出来栄えのどちらなのか、或いはまたその両方のことなのだろうか。そんなことを考えるうちに、観光その他の商業的広告ではなくて、普段着の生活の様子をそのままに伝える際には、むしろ<下手さ>がかえって好都合ではないかと、改めてお願いして、不承不承ながらも了承を得たような感じだった。
そこで、それぞれの写真をアップして、それにまつわっての雑感や、いろいろな写真を折に触れて送ってくれて僕の生活を彩ってくれてきたお二人と僕との関係についても思い起こしながら、今後の僕の暮らしを立て直そうという魂胆なのである。
先ずは、済州の伝統料理ピントクのことである。

蕎麦粉の生地でチジミ(お好み焼き、或いは、クレープ)状のものを作り、小豆や大根の千切りなどの和え物を包みこんで生春巻きのようにして、旧正月や秋夕など名節の祭膳に供える。わが家の『済州語辞典』にはそう書いてある。20年ほど前に済州の従兄が、本籍地である済州についてあまりにも無知な僕に、少しでも勉強するようにとわざわざ買ってくれた辞書である。済州語と標準語の比較だけでなく、済州のどの地域でどのようなバリアントがあるかなども略記されていて、重宝している。
それはさておき、そのピントクらしいものを、在日済州人二世の僕も、幼い頃には、家で見かけたことがある。しかし、いつの間にかすっかり見かけなくなった。それにまた、食べた記憶が殆どない。口にあわなかったのだろうか。
そこで兄弟たちに尋ねてみたところ、3歳下の妹は見た記憶が微かにあるけど、食べた覚えがないと言う。他方、5歳下と8歳下の弟たちは、見た記憶がなさそうだった。
しかし、二人の弟がそのように見たことがないと言うのは、僕の記憶に反するわけでもない。僕もまだ幼い頃には見かけたが、長ずるにつれてみかけなくなったわけで、年齢差の大きい弟たちに記憶がないというのは、納得しやすい話であり、その記憶の断絶の中間地帯に3歳下の妹が位置している。
ピントクのみならず多様なことで、同じ家で同じ両親の下で暮らしてきたが、僕と妹や弟たちの体験やその記憶の間には、いろんな差異がある。僕ら5人兄弟の中には、兄とその2歳下の僕というグループ、その3歳下の妹、そしてその妹の3歳下と5歳下の弟たちといったように、3種類の体験と記憶の誤差が認められることが多いのである。
2歳年長の兄からははっきりとした返事がなかったので、断言はできないが、僕の記憶と妹の証言を合わせれば、わが家でもある時期までは、母の手製、或いは、生野の朝鮮市場で買ってきたピントクが、正月や秋夕といった名節のお供えに用いられていたようである。
それではどうして、その習慣がなくなったのだろうか。僕ら子どもが好んで食べてもらえなかったからか、或いは、入手が難しくなったからなのか。
僕の知識に限って言えば、両者共に可能性がある。母は僕ら子どもが喜んで食べそうなものなら、名節のお供えそれを欠かなかっただろう
その一方で、入手の困難の可能性に関して言えば、大阪ではそば粉の入手が難しかったのかもしれない。少なくとも僕は食料品店でそば粉を売っているのを見たことも聞いたこともないから、ついついそんな風にも考える。しかし、それなら、そば粉の代わりに小麦粉を用いればよさそうなもので、現に僕の記憶にある家のピントクは、写真のそれよりももっと白っぽく、そば粉だけで作ったものではなさそうだった。
しかし、大阪でそば粉の入手が難しかったというのは、あまり信憑性がない。母は僕らが大人になって以降に、そば粉でムク(プリンのような朝鮮料理、たれをつけて食べる。酒の肴として好きで、どんぐりを材料にしたものが人気がある)を作っていたこともあるから、そば粉の入手が難しかったから、ピントクがわが家から消えたという推察はあまり当てになりそうにない。
そもそもわが家では、法事や名節のお供え料理のうちでも餅類は、母が自ら作っていなかった。「シリットㇰ」と僕らが読んでいた、小豆が上に乗った平たい円盤状の餅の他にも、今では名前も忘れたが、4種類くらいの餅が法事のお供えに用意されていたが、それは猪飼野か森町(緑橋と森之宮の間)の朝鮮市場までわざわざ出向いて購入するか、或いは、その近隣に住む親戚のおばさんたちが買って前日か当日に買って持ってきてくれていた。しかし、それも次第に日本の餅にとって代わられた。
それどこから、母が大けがをして施設住まいになって以降は、その種の儀式(法事、名節)自体もわが家ですることはなくなり、兄の家で韓国風と日本風が半々ほどの祭膳を用意して、その写真を僕ら兄弟にラインで送ってくれる形での儀式もどきになった。
そうした変化にはコロナ禍も大いに関係しているのだが、それだけではない。両親がいなくなって、僕らはようやく長年の願望だったように、彼らの目、とりわけ伝統の束縛から解放されたわけである。
それはともかく、そんな現状の僕ら兄弟の情報では当てにならないからと、ラインを通じて、済州にルーツを持つ在日二世以降の人々などに質問してみた。すると、やはりいろんな話があって、なるほど在日の変貌の多様性が垣間見えるような気がしたし、実に意外なところから、実に意外で重要な情報が舞い込んできた。
在日ではないが、在日の人と何かと関係を持っている日本人の知人から、ピントクに関しての<灯台下暗し>的情報をいただいた。
彼女が料理を習っている在日の女性が、在日コリアンのディサービスとグループホームなどで料理を作っている方からの、生き生き情報を教えてくれた。
済州の離島の一つである牛島出身のその方は、自分でもピントクをよく作るが、その際に、そば粉だけでは千切れやすいなど不都合があるので、そば粉に小麦粉も混ぜた生地を使っていると言う。
それだけでも、僕の内心にあった謎の一部が解けた。済州から届いた写真はそば粉だけで作られていたからだろう。僕の記憶のそれよりはるかに黒っぽい。ところが、そば粉に小麦粉を混ぜるとずいぶんと白くなり、僕がまだ幼い頃にわが家で見かけたように記憶しているピントクに近く、わが家のそれも混合生地の可能性が高くなる。
情報はまだ続く。猪飼野などの在日、とりわけ在日済州人の集住地区では、ピントクが店頭で販売されている。
以上に加えて、済州の観光宣伝のネット情報では、済州の名産やおすすめ料理の先頭に、ピントクの写真が上がっていた。
ついでに付け加えれば、そこで上げられていた名産や名物料理は以下のとおりだった。
ピントク(千切り蒸し大根の蕎麦煎餅巻)、オメギ餅、アワビ粥、スズメダイのムルフェ(水刺身)、焼アマダイ、モムグㇰ(豚肉入り海藻スープ)、トムべゴギ、みかん、アワビキンパ、ポマルカルグックス(クボガイ入り汁麺)、太刀魚の塩焼き、黒豚、コギククス(豚肉麺)。カッコ内もそのネット記事のままである。
以上の料理の殆どは僕も食べたことがあるが、そのトップにあがっているピントクに限っては、先にも触れたことだが、食べたことがあるのか否か自分でも定かでない。
このようにピントクを通じて見えてきた僕の食習慣は、済州はもちろん、在日済州人一般と似ていることを今更ながらに痛感する。
済州にルーツを持つ在日二世の少なくとも僕にとっては、済州の伝統自体は遠くにあっても、在日済州人の幅広いゾーンの中には納まりながら、暮らしてきたし、今なおそうなのだと。
そうした現況は僕が選んだことでもあり、後悔などあるはずもない。しかし、僕とは済州との距離と近接性の両方を、改めて頭に刻んで、あまりに単純化した形での固定観念を持たないようにしたい。
済州に本籍があり、40歳を過ぎてようやく旅券の交付を受けて以降には、家庭の事情もあって、おそらくは100回以上は往来してきた僕だが、済州のことならなんでも知っている専門家などではとうていありえない。
僕は済州に本籍を持ってはいても、あくまで大阪で生まれ育ち暮らしてきた老人に過ぎないのだが、そのことを断じて恥ずかしくなんて思わないでいたい。
ところで、僕らがとりわけ幼い頃に食べていた料理、つまり済州で生まれ育って20歳前後に渡日して以来、約80年にわたって大阪で暮らし続け、一昨年に100歳で亡くなった母の料理については記憶が乏しいのだが、それは母のレシピ―が貧しかったからは必ずしもなかったからというわけでもなさそうである。
母は自分用、父用、そして僕ら子供用といったように、3種類の料理をいつも用意していた。自分用のものは至って単純、済州での女性の食習慣そのままのものらしかった。生ワカメや白菜その他の葉野菜を、生のままだが、たいていは茹でて、それでご飯と味噌や朝鮮風の醤油やニンニクを包み、おいしそうに食べたが、それを僕ら子どもに強制することはなかった。
父の晩酌の肴と食事の副菜は、済州のものと日本のものの両方だった。僕ら子ども用には、母が日本に来て習い覚えた日本の家庭料理風だった。特別なものはなかったが、母はそれを周囲の日本人や在日の二世の若い主婦や在日の親戚から学んで、自分なりの工夫を凝らしたから、レパートリーは十分だった。
経済的に困ると、日本風なのか朝鮮風なのか得体の知れないうどんで何日もしのいだ。お金がかからない料理で、わが家の貧しさを反映したものだった。
その代表が、母の手作りのうどんだった。小麦の生地をビール瓶で伸ばして生地をつくり、それを包丁で切って、大根の千切りと油揚げを具にして一緒に焚く。最初はそれなりにおいしいのだが、それが毎日続くと、うどんも具もすべて本来の形状を失い、どろどろに溶けてしまう。それこそが母の手作り料理のシンボルだった。
その後、経済的に余裕ができるにつれて、母は僕ら子どもが好む料理、必然的に日本の当時の家庭料理を学び、それを僕らに供した。すき焼きや多様ななべ物を僕らは好んだ。カレーその他、父は食べなかったのに、母はもっぱら僕らのためによく作ってくれた。バラ寿司や海苔巻きも、作る時にはすごく大量に作った。しかし、それを僕は母の手料理とは分類しなかった。それらは朝鮮や母といった徴がつかない普通(僕が最も理想としていたこと)の料理だったからだろう。
母の手料理の記憶が貧弱なのは、僕の記憶の問題も絡んでいそうである。記憶の奥底に沈んでしまったものを、探してつかみだす根気がないからだろう。本気で思い出して書くつもりにさえなれば、記憶の底から姿を現してくれるかもしれない。
済州や伝統などとは関係なく、何に由来するものであれ、そんなバイアスから解放されて、母が僕らのためにつくってくれた料理全般を母の手料理として思い出して、幸せなノスタルジーに浸ることも不可能ではないだろう。息長くやればという気持ちに、少しはなってきた。ピントクにまつわる今回の探索がその契機になってくれるかもしれない。
以上の多くは、以前に書いた以下の文章の問題意識の延長上にあるので、その拙文のタイトルを参考までに記す。
玄善允、2020:在日二世以降と「故郷・祖国」の伝統文化:済州の祝意広告と学校同窓会を事例に、朝鮮族研究学会誌第10号、39~64頁
最後に、写真を送ってくれたKUさんについて少々。
済州に行くたびに会うだけでなく、ラインを通じて、実に多くの情報を得るなど、お世話になっている。しかも、済州や大阪で会って、言葉を交わすたびに、済州のことを学ぶと同時に在日一般、特にその一員である僕についても考える機会になっている。
その一部として、折に触れて送ってもらう済州の写真なども、今後はこのブログで紹介・活用したいなどと、またしても自分勝手なことを目論んでいる。この場を借りて、予め、お礼かたがたお詫びもしておきたい。
尚、彼女の書物については以下の文章で詳しく書いているので、興味のある方はその旨を連絡していただければ、拙文をメール添付でお送りしたい。
「余生のとば口で遭遇した二巻のハングル文の書物―日本と韓国・朝鮮に関わる研究書『在日同胞』と『近代済州における日本人居留民の研究』-」、朝鮮族研究学会ニュースレター2023年9月
(2025年3月8日改稿。折々のメモ18、済州の名節のお供え料理であるピントクと京都の主婦の防寒対策2に続く)
済州のお供え料理のピントクと京都の主婦の防寒対策1
先ずは、お断りとお詫びを少々。
2月末に慌ててアップした文章を読み直してみたところ、一部は意味不明だし、他の一部は書き足りていないことに気付いて、改稿が必須と判断して、それを実行しました。大筋は変わっていませんが、わが家の家庭料理のあたりはすっかり変わっています。
ピントクと済州の習俗の在日的様相
先日、たまたま同じ日に、二人の女性からラインで写真が届いた。ひとりは済州の知人で、彼女が作った名節のお供えのために作った「ピントク」という済州の伝統料理。もう一人は僕の大昔の教え子で、今では京都の古家で、持病を抱えて底冷えのする京都の冬を凌ぐために、自分一人で窓にビニールを貼った様子である。
どちらも日常生活を堅実に生きている様子が垣間見えて、爽やかな気分になった。そこで、そのついでに、理屈っぽくなりがちな僕の日常、そしてその反映でもあるブログの現状に風穴を開ける工夫の一つとして活用させていただくことにした。
そもそも、日常のこまごまとした生活とそれにまつわる雑感などを書きとめながら、それもまた糧にして、余生を楽しく生き抜こうというのが、ブログを始めるにあたっての初心だったのに、しだいに元の木阿弥になりがちで、そのあげくには追い詰められて二進も三進もいかない心境になったりもする。
そこで、心機一転のために、それぞれの写真をブログにアップしたらと思い立ち、許可を求めたところ、「下手なもので恥ずかしい」という点で、二人とも同じ返答だった。
そうなると、僕のお得意の屁理屈が静かにしているわけがない。下手というのは被写体自体の出来栄えとその写真の出来栄えのどちらなのか、或いはまたその両方のことなのだろうか。そんなことを考えるうちに、観光その他の商業的広告ではなくて、普段着の生活の様子をそのままに伝える際には、むしろ<下手さ>がかえって好都合ではないかと、改めてお願いして、不承不承ながらも了承を得たような感じだった。
そこで、それぞれの写真をアップして、それにまつわっての雑感や、いろいろな写真を折に触れて送ってくれて僕の生活を彩ってくれてきたお二人と僕との関係についても思い起こしながら、今後の僕の暮らしを立て直そうという魂胆なのである。
先ずは、済州の伝統料理ピントクのことである。

蕎麦粉の生地でチジミ(お好み焼き、或いは、クレープ)状のものを作り、小豆や大根の千切りなどの和え物を包みこんで生春巻きのようにして、旧正月や秋夕など名節の祭膳に供える。わが家の『済州語辞典』にはそう書いてある。20年ほど前に済州の従兄が、本籍地である済州についてあまりにも無知な僕に、少しでも勉強するようにとわざわざ買ってくれた辞書である。済州語と標準語の比較だけでなく、済州のどの地域でどのようなバリアントがあるかなども略記されていて、重宝している。
それはさておき、そのピントクらしいものを、在日済州人二世の僕も、幼い頃には、家で見かけたことがある。しかし、いつの間にかすっかり見かけなくなった。それにまた、食べた記憶が殆どない。口にあわなかったのだろうか。
そこで兄弟たちに尋ねてみたところ、3歳下の妹は見た記憶が微かにあるけど、食べた覚えがないと言う。他方、5歳下と8歳下の弟たちは、見た記憶がなさそうだった。
しかし、二人の弟がそのように見たことがないと言うのは、僕の記憶に反するわけでもない。僕もまだ幼い頃には見かけたが、長ずるにつれてみかけなくなったわけで、年齢差の大きい弟たちに記憶がないというのは、納得しやすい話であり、その記憶の断絶の中間地帯に3歳下の妹が位置している。
ピントクのみならず多様なことで、同じ家で同じ両親の下で暮らしてきたが、僕と妹や弟たちの体験やその記憶の間には、いろんな差異がある。僕ら5人兄弟の中には、兄とその2歳下の僕というグループ、その3歳下の妹、そしてその妹の3歳下と5歳下の弟たちといったように、3種類の体験と記憶の誤差が認められることが多いのである。
2歳年長の兄からははっきりとした返事がなかったので、断言はできないが、僕の記憶と妹の証言を合わせれば、わが家でもある時期までは、母の手製、或いは、生野の朝鮮市場で買ってきたピントクが、正月や秋夕といった名節のお供えに用いられていたようである。
それではどうして、その習慣がなくなったのだろうか。僕ら子どもが好んで食べてもらえなかったからか、或いは、入手が難しくなったからなのか。
僕の知識に限って言えば、両者共に可能性がある。母は僕ら子どもが喜んで食べそうなものなら、名節のお供えそれを欠かなかっただろう
その一方で、入手の困難の可能性に関して言えば、大阪ではそば粉の入手が難しかったのかもしれない。少なくとも僕は食料品店でそば粉を売っているのを見たことも聞いたこともないから、ついついそんな風にも考える。しかし、それなら、そば粉の代わりに小麦粉を用いればよさそうなもので、現に僕の記憶にある家のピントクは、写真のそれよりももっと白っぽく、そば粉だけで作ったものではなさそうだった。
しかし、大阪でそば粉の入手が難しかったというのは、あまり信憑性がない。母は僕らが大人になって以降に、そば粉でムク(プリンのような朝鮮料理、たれをつけて食べる。酒の肴として好きで、どんぐりを材料にしたものが人気がある)を作っていたこともあるから、そば粉の入手が難しかったから、ピントクがわが家から消えたという推察はあまり当てになりそうにない。
そもそもわが家では、法事や名節のお供え料理のうちでも餅類は、母が自ら作っていなかった。「シリットㇰ」と僕らが読んでいた、小豆が上に乗った平たい円盤状の餅の他にも、今では名前も忘れたが、4種類くらいの餅が法事のお供えに用意されていたが、それは猪飼野か森町(緑橋と森之宮の間)の朝鮮市場までわざわざ出向いて購入するか、或いは、その近隣に住む親戚のおばさんたちが買って前日か当日に買って持ってきてくれていた。しかし、それも次第に日本の餅にとって代わられた。
それどこから、母が大けがをして施設住まいになって以降は、その種の儀式(法事、名節)自体もわが家ですることはなくなり、兄の家で韓国風と日本風が半々ほどの祭膳を用意して、その写真を僕ら兄弟にラインで送ってくれる形での儀式もどきになった。
そうした変化にはコロナ禍も大いに関係しているのだが、それだけではない。両親がいなくなって、僕らはようやく長年の願望だったように、彼らの目、とりわけ伝統の束縛から解放されたわけである。
それはともかく、そんな現状の僕ら兄弟の情報では当てにならないからと、ラインを通じて、済州にルーツを持つ在日二世以降の人々などに質問してみた。すると、やはりいろんな話があって、なるほど在日の変貌の多様性が垣間見えるような気がしたし、実に意外なところから、実に意外で重要な情報が舞い込んできた。
在日ではないが、在日の人と何かと関係を持っている日本人の知人から、ピントクに関しての<灯台下暗し>的情報をいただいた。
彼女が料理を習っている在日の女性が、在日コリアンのディサービスとグループホームなどで料理を作っている方からの、生き生き情報を教えてくれた。
済州の離島の一つである牛島出身のその方は、自分でもピントクをよく作るが、その際に、そば粉だけでは千切れやすいなど不都合があるので、そば粉に小麦粉も混ぜた生地を使っていると言う。
それだけでも、僕の内心にあった謎の一部が解けた。済州から届いた写真はそば粉だけで作られていたからだろう。僕の記憶のそれよりはるかに黒っぽい。ところが、そば粉に小麦粉を混ぜるとずいぶんと白くなり、僕がまだ幼い頃にわが家で見かけたように記憶しているピントクに近く、わが家のそれも混合生地の可能性が高くなる。
情報はまだ続く。猪飼野などの在日、とりわけ在日済州人の集住地区では、ピントクが店頭で販売されている。
以上に加えて、済州の観光宣伝のネット情報では、済州の名産やおすすめ料理の先頭に、ピントクの写真が上がっていた。
ついでに付け加えれば、そこで上げられていた名産や名物料理は以下のとおりだった。
ピントク(千切り蒸し大根の蕎麦煎餅巻)、オメギ餅、アワビ粥、スズメダイのムルフェ(水刺身)、焼アマダイ、モムグㇰ(豚肉入り海藻スープ)、トムべゴギ、みかん、アワビキンパ、ポマルカルグックス(クボガイ入り汁麺)、太刀魚の塩焼き、黒豚、コギククス(豚肉麺)。カッコ内もそのネット記事のままである。
以上の料理の殆どは僕も食べたことがあるが、そのトップにあがっているピントクに限っては、先にも触れたことだが、食べたことがあるのか否か自分でも定かでない。
このようにピントクを通じて見えてきた僕の食習慣は、済州はもちろん、在日済州人一般と似ていることを今更ながらに痛感する。
済州にルーツを持つ在日二世の少なくとも僕にとっては、済州の伝統自体は遠くにあっても、在日済州人の幅広いゾーンの中には納まりながら、暮らしてきたし、今なおそうなのだと。
そうした現況は僕が選んだことでもあり、後悔などあるはずもない。しかし、僕とは済州との距離と近接性の両方を、改めて頭に刻んで、あまりに単純化した形での固定観念を持たないようにしたい。
済州に本籍があり、40歳を過ぎてようやく旅券の交付を受けて以降には、家庭の事情もあって、おそらくは100回以上は往来してきた僕だが、済州のことならなんでも知っている専門家などではとうていありえない。
僕は済州に本籍を持ってはいても、あくまで大阪で生まれ育ち暮らしてきた老人に過ぎないのだが、そのことを断じて恥ずかしくなんて思わないでいたい。
ところで、僕らがとりわけ幼い頃に食べていた料理、つまり済州で生まれ育って20歳前後に渡日して以来、約80年にわたって大阪で暮らし続け、一昨年に100歳で亡くなった母の料理については記憶が乏しいのだが、それは母のレシピ―が貧しかったからは必ずしもなかったからというわけでもなさそうである。
母は自分用、父用、そして僕ら子供用といったように、3種類の料理をいつも用意していた。自分用のものは至って単純、済州での女性の食習慣そのままのものらしかった。生ワカメや白菜その他の葉野菜を、生のままだが、たいていは茹でて、それでご飯と味噌や朝鮮風の醤油やニンニクを包み、おいしそうに食べたが、それを僕ら子どもに強制することはなかった。
父の晩酌の肴と食事の副菜は、済州のものと日本のものの両方だった。僕ら子ども用には、母が日本に来て習い覚えた日本の家庭料理風だった。特別なものはなかったが、母はそれを周囲の日本人や在日の二世の若い主婦や在日の親戚から学んで、自分なりの工夫を凝らしたから、レパートリーは十分だった。
経済的に困ると、日本風なのか朝鮮風なのか得体の知れないうどんで何日もしのいだ。お金がかからない料理で、わが家の貧しさを反映したものだった。
その代表が、母の手作りのうどんだった。小麦の生地をビール瓶で伸ばして生地をつくり、それを包丁で切って、大根の千切りと油揚げを具にして一緒に焚く。最初はそれなりにおいしいのだが、それが毎日続くと、うどんも具もすべて本来の形状を失い、どろどろに溶けてしまう。それこそが母の手作り料理のシンボルだった。
その後、経済的に余裕ができるにつれて、母は僕ら子どもが好む料理、必然的に日本の当時の家庭料理を学び、それを僕らに供した。すき焼きや多様ななべ物を僕らは好んだ。カレーその他、父は食べなかったのに、母はもっぱら僕らのためによく作ってくれた。バラ寿司や海苔巻きも、作る時にはすごく大量に作った。しかし、それを僕は母の手料理とは分類しなかった。それらは朝鮮や母といった徴がつかない普通(僕が最も理想としていたこと)の料理だったからだろう。
母の手料理の記憶が貧弱なのは、僕の記憶の問題も絡んでいそうである。記憶の奥底に沈んでしまったものを、探してつかみだす根気がないからだろう。本気で思い出して書くつもりにさえなれば、記憶の底から姿を現してくれるかもしれない。
済州や伝統などとは関係なく、何に由来するものであれ、そんなバイアスから解放されて、母が僕らのためにつくってくれた料理全般を母の手料理として思い出して、幸せなノスタルジーに浸ることも不可能ではないだろう。息長くやればという気持ちに、少しはなってきた。ピントクにまつわる今回の探索がその契機になってくれるかもしれない。
以上の多くは、以前に書いた以下の文章の問題意識の延長上にあるので、その拙文のタイトルを参考までに記す。
玄善允、2020:在日二世以降と「故郷・祖国」の伝統文化:済州の祝意広告と学校同窓会を事例に、朝鮮族研究学会誌第10号、39~64頁
最後に、写真を送ってくれたKUさんについて少々。
済州に行くたびに会うだけでなく、ラインを通じて、実に多くの情報を得るなど、お世話になっている。しかも、済州や大阪で会って、言葉を交わすたびに、済州のことを学ぶと同時に在日一般、特にその一員である僕についても考える機会になっている。
その一部として、折に触れて送ってもらう済州の写真なども、今後はこのブログで紹介・活用したいなどと、またしても自分勝手なことを目論んでいる。この場を借りて、予め、お礼かたがたお詫びもしておきたい。
尚、彼女の書物については以下の文章で詳しく書いているので、興味のある方はその旨を連絡していただければ、拙文をメール添付でお送りしたい。
「余生のとば口で遭遇した二巻のハングル文の書物―日本と韓国・朝鮮に関わる研究書『在日同胞』と『近代済州における日本人居留民の研究』-」、朝鮮族研究学会ニュースレター2023年9月
(2025年3月8日改稿。折々のメモ18、済州の名節のお供え料理であるピントクと京都の主婦の防寒対策2に続く)