ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の8
3節 大学とのしくじりの出会いの2
クラス討論
相当に脱線してしまったが、先に触れたクラス討論の話に戻る。
新入生のクラス討論会でその趣旨に応じて議論に関わろうとしなかったのは、必ずしも僕だけではなかった。口を開こうとしない学生が、僕の他にも何人かいた。見るからに口数が少なく、人前で何かを主張するのが苦手そうな者もいた。話の流れにうまく乗れなくて、成り行きで黙り続けることになっていそうな学生もいた。他方で、僕と同じように、意図的に非協調的態度に徹していそうな学生が、僕以外にも一人だけいた。但し、その学生が僕と同じような理由で沈黙に徹していたのかどうかは分からない。僕はその学生とその後も一度も話を交わしたことがないどころか、彼が誰かと話す姿を見かけた記憶もないからである。
他方、教員と相談した上で、その会を企画・主導している学生たち、さらには、それに積極的に協力する一姿勢を示す学生たちは、互いに親しい関係になっていそうだった。大学キャンパス周辺の下宿や寮などで暮らし始めた縁で、日常的な付き合いが頻繁だったり、そもそも出身地方や予備校が同じだったり、さらには、大学の上級生や政治的セクトなどの多様な人脈もあってのことのように、僕には感じられた。
そんな学生たちは、叛乱学生に対してある程度のシンパシーを共有していそうだったが、それがあまりに露骨になって、その他の学生一般から反発を食らうことのないように、気遣いを怠らず、独断的運営という印象はなかった。その他、僕がそのクラス会の運営に関して、不快になる理由はなかった。
それなのに僕は、その場から浮きあがっている実感が否みがたかった。そのせいで、黙りこんでいるうちに、ますます違和感が募るといった悪循環にはまり込んだ。まさに自縄自縛だった。
大学側が想定していそうな、機動隊の助けも借りての大学によるロックアウトの延長上での<正常化>という方向性を、僕は支持していた。しかし、それは大学や学問や学生の社会的役割に照らして、それが正しいと考えてのことでは必ずしもなかった。何がどうであれ、授業が始まって欲しい。そうでない限り、僕はコウバの仕事から逃れられない。つまり、もっぱら個人的事情に基づく実際的な願望だった。そして、そのことは僕自身も十分に承知していた。だから、公的に云々できる立場ではなく、ただの我儘のように、僕自身が思っていたからである。だからこそ、黙り込むしかなかった。
しかし、ひたすら黙り込んで、周囲の学生たちが、僕から見ても正論のように聞こえることを主張することに対して、嫉妬が頭をもたげ、そのあげくには、鬱憤を募らすことになった。
そして、その種の<いたたまれなさ>には、日本人学生と僕たち在日との先験的な非対称性といった、体感が関わっていた。したがって、僕が何と言おうと、周囲の学生に話が通じるわけがないのだから、黙り続けるしかなく、そのこと自体がすごく不快だった。
因みに、日本人と僕との非対称性といった信憑は、体験に基づく感覚としては随分と幼い頃から既に僕の中にあり、それが大学合格以来の同胞学生との接触を通じて、民族主義的な論理によって補強されつつあった。
例えば、次のような理屈だった。
何かと正しそうなことを言う学生たちが、僕のような在日の学生その他が、これまでに、そして今も、さらにはこの先も、直面することを避けられない多様な差別に対して、どのような立場で、どのように実際的な行動ができるのかについて、僕は甚だ否定的な見方をしていた。学生時代はともかく、社会に出て以降にも反差別の立場を堅持するなど、被差別者に身を寄せて生きる覚悟はないと、僕はそれまでの18年の在日的経験と、同胞の先輩学生たちの議論も重ね合わせて、考えていた。それだけに、大学生としての正しい道を説く学生たちに反発していたのである。しかし、それはあくまで、声にならない叫びにすぎず、それを内心で繰り返しながら、心の中で深まる一方の孤独感を宥めていた。
叛乱学生に対する僕のそうした相当に頑なな姿勢は、先にも触れたことだが、必ずしも大学にまつわる状況、そして僕とコウバの関係だけに由来したものではなかった。僕の生来の融和的で体制順応的な心理的傾向、それに加えて、小商人の子倅的生活感覚、さらには中学以来の野球部的メンタリティなどが絡みあった結果としての僕の信憑であり、態度決定だった。しかし、それでもやはり状況、とりわけ当時の政治、資本、そして社会の結束をバックにしたメディアの大攻勢の影響が大きかったことは否定できない。
とりわけ、1月初旬の東大の安田講堂攻防戦の延々としたテレビ実況にかじりついた経験が、僕のそうした心的傾向と大学受験にまつわる不安とも相まって、僕をますます硬直させた。
「国家や社会や世間のことなど何一つ知らないまま、革命ごっこに興じる甘えん坊学生」といった、叛乱学生やそのシンパに対するメディアの攻撃的な報道が、僕の頭や心に刻みこまれた。さらには、大学合格後のいつ終わるか分からない宙ぶらりん状態に由来する不安とコウバの苦行などが相まって、叛乱学生に対する僕の態度はすっかり否定的になって、時にはヒステリー的様相を帯びた。さらにまた、先にも触れたように、僕の在日的民族意識の芽生えもその触媒として作用したのだろう。
それにしても、今から改めて考えると、不思議なことの一つが、僕の造反学生に対する考え方や態度の急変である。高校二年時に担任の<赤フン>を筆頭に、叛乱学生への共感をことあるごとに、多様な形で明らかにしていた教員たちの影響をまともに受け始めて、叛乱学生に対して僕が育んでいたシンパシーは、一体どこに消えてしまったのだろうか。
少なくとも、僕の志望学部や学科の選択には、高校の造反教員たちの影響がはっきりと作用していた。「国家や社会にとって<役立たず>の学問こそ、お前たちの道」と焚きつけられて、それこそが将来的に就職の可能性を夢見ることができない在日的条件に合致しているよう思えたからこそ、それが僕の逃げ道、或いは、解放の道のように思って、僕はそれまでには殆んど想像もしていなかったのに、いきなり仏文科を選ぶようになった
ところが、そんな僕がそれとほとんど同時期に、叛乱学生に対して完全に背を向けるようになった。
<世間知らずの甘ちゃん学生>という叛乱学生に対する官製イメージのメディアを通しての大々的な拡散が、将来不安を無理やり抑圧しようと努めていた僕にフィットして、次のような日本の政府や社会に対する、殆んど哀願のような思考や感情や態度が生成を始めたのだろう。
「僕にも日本人学生と同じ土俵で勝負させてほしい。そうしてこそ、僕に根深く巣食っている民族的コンプレックスの転倒も可能かもしれない。建前としての機会の平等を活用して、大学でそれなりの能力を育くみ、その能力を認められて・・・それには大学が正常化して・・・」
世の中には何の役にも立たず、僕自身の就職などにも役立たない学科を選んでおきながら、大学が正常化することをひたすら願うあたかも口実のようにして、叛乱学生に対する否定的立場を強固にしながら、内心では日本の政府や社会に対して、哀願でもするようなことになっていたわけである。なんとも情けない話なのである。
だからこそ、広大な緑地の野外での3時間に及ぶクラス討論会で、僕は苦虫をかみつぶした表情のまま、ひたすら黙り込むことで、討論に同調することを拒否する気持ちを表明していた。
そんなことなら、そんな会など端から参加しなければいいようなものを、そんな潔い態度もとれなかった。たとえいかに考え方が自分と相いれない個人や集団であっても、その尻尾にしがみついていたいといった奴隷根性、もしくは<小商人根性>のようなものを、僕は随分と幼い頃から身に着けていたのだろう。学友たちとの初めての顔合わせの機会であったクラス討論は、僕の大学生活の晴れがましい門出などにはならなかった。それどころか、その延長上では、授業が始まっても、大学生活に馴染めそうな見通しなど立たなかった。
掛け違いの連続の大学(生)との接触
クラス討論からおよそ一月後には、撤去が予定されていた都心の旧工学部キャンパスで、新入生に限って授業が実施されたが、そこでも大学生活に希望を持てそうなことは何一つなく、むしろ、前途多難を改めて痛感するだけだった。
その授業は、大学が正常に機能しているという、言わばアリバイ証明として、大学当局が新入生とメディアと文部省向けに行ったショーに過ぎなかった。
教師たちは見るからに浮足立っていて、学生に気持ちが向かっていそうにはとうてい思われなかった。フランス語の授業も、基礎知識など何一つ持たない僕のような能天気な学生には、まったく理解できるはずもない内容で、しかも、何故かしらいたずらに先を急いでいた。そのせいで、僕はフランス語に対する苦手意識を植え付けられて、その後遺症もあって、フランス語・文学専攻の学生でありながら、一貫してフランス語に苦しむことになった。しかも、その臨時の授業はたった二週間であえなく打ち切られ、その先の見通しがますます暗くなった。
初夏を迎える頃になると、コウバの仕事がますます僕の心身にきつくなった。何よりもコウバ内の高温多湿に僕の軟な心身が耐えられなくなった。
そんな頃に、2年間の教養課程とその後の2年間の専門学部を合わせて、少なくとも4年間を過ごすことになる大学キャンパスへの立ち入り禁止が解除されたという知らせが、大学から郵送されてきた。そこで、コウバの苦行から逃れるためにも、大学からの呼び出しという口実で、父から半日の休暇の許可を得て、キャンパスに赴いた。
丘の上にあるキャンパスまでの長い坂道を上るだけですっかり息が上がり、体力のひどい衰えを感じさせられた。コウバの仕事は長時間の単純な軽労働で、終日、殆んど椅子に座っての作業なので、デスクワークと変わらない。それもあって、前年の高校三年生の夏休みの一か月余りの韓国での野球遠征以来、まともに体を動かすことなど一度もなかった。そのせいで、特に下半身の衰えに驚かされた。
近い将来の解体を計画しているらしい古校舎を先頭にして、その他の新しい校舎など、教養部の授業が為されるという校舎群を順々に見て回ったが、合格発表以来、初めての大学キャンパス訪問なのに、感激のようなことなど、なにひとつなかった。ひとりで閑散として薄暗い校舎内を歩き回っているうちに、むなしくなった。そしてそのあげくには息苦しくなってきた。
そんな鬱々とした気分と体調から逃れるために、とりあえずは広い空間に出て深呼吸でもと、屋外に飛び出した。そして、キャンパスをできるだけ見渡せそうな場所に出た。地盤が5m以上も落ちているグランドが一望できるところに出た。
少し高台になって展望が効くところに立ってグランド全体を見降ろすと、向こう側の隅で数人が、下半身は野球のユニフォームだが上半身はアンダーシャツだけの中途半端な格好で、バットとグラブを持って練習の真似事でもしていそうな光景が目に入った。人数やその運動のけだるさから見れば、本格的な練習ではなさそうなので、気楽に見物でもしようかとそちらに向かうことにした。
しかし、さすがに僕は元野球部員なので、いろんな運動部員が正式なものではなくても、それなりに練習しているグランド内に立ち入るのは失礼になりかねないと、一応の気遣いは怠らない。
グランド全体を取り囲む階段状の斜面を通り、しかも、あまり近づいては、練習の邪魔になりかねないからと、適当な距離を置いて、階段の上に腰を降ろした。そしておもむろに、野球部員たちの様子を見守り始めた。特に何かの目的があったわけではない。ともかく、息がつまるので、何も考えずに、学生の体の動きで僕の内心の何かをほぐしたかっただけである。10分以上も経ってからのことだった。
僕の様子が眼にとまったらしく、野球選手たちの中でも最も上級生らしい人物がゆっくり近づいてきた。しかし、彼もまた僕から10mくらいのところで立ち止まった。そして、笑顔を作って声をかけてきた。
その話の内容は、すごく丁重でフレンドリーな言葉による入部の勧誘だった。それなのに、「そんな気などまったくありません。暇つぶしで、ぼんやりとみていただけです」といった、にべもない言葉が僕の口から飛び出してしまったのである。先方はさすがに当惑し、一瞬は憮然とした表情を浮かべたが、それをなんとか抑えて、ゆっくりと背を向けて立ち去った。
それを見ながら、僕は内心で「よりによって、非常時の大学で、悠長に野球なんか」などと、その野球部の人たちに難癖をつけ、それがひどく自分勝手な言い分であることを承知していたからこそ、自分のそんな失礼な言いぐさを切りにして、「野球とも金輪際、きっぱり、おさらば!」と、自分に言い聞かせた。ところが、そんな自分勝手な理屈自体がまた、すごくおかしな話であることに、直ちに思い至った。
僕は高校三年の夏に、同じような決心をしていたのである。
高校の生徒や教員たちが貸し切りバスをチャーターして大挙、応援に来てくれる恒例の定期戦で、中盤まで同点でしのぎを削っているところにリリーフとして登板、打席の、その日に2打数2安打と活躍していた相手チームの主将に対して、インハイの直球で勝負のつもりが、その頭にボールをまともに命中させてしまった。彼は転倒したまま動かず、すぐに救急車で病院へ運ばれた。
そんなことがあった後も、僕はほとんど茫然自失ながらも投げ続け、気が付いてみると、敗戦はしたものの、最後まで投げ切った。
そして、その事件のショックは、いったん意識の奥底に浸透し、じっくりと熟成した後になって、ようやくトラウマとして<発症>する。
定期戦の直後の地方大会、さらには韓国への一か月にわたる野球遠征を終えて以後になって、新チームのフリーバッティングで投げようとしたところ、いきなり恐怖に襲われるようになった。右バッターのインサイド、左バッターのインサイドには、まったくボールを投げられないのである。自分が投げるボールが自分が意図した方向に行くという確信が持てずに、すっかり怯えに支配されて、ボールが投げられなくなったのである。そのようにして、野球がまともにはできなくなったからと、僕は野球との決別を自らに誓ったのである。
それだけに、大学の野球部の上級生に対する僕の態度や理屈は、理不尽きわまるものだった。おそらくは、大学には入ったものの、その後の生活が思い通りにならないからと、その憂さ晴らしを見ず知らずの他人にぶちまけたのだろう。それだけでも、情けなく恥ずかしいことだったが、さらには、その際の自分に対する弁解が、もっとひどかった。
中学以来の長年の馴染の野球部なのだから、その程度の失礼は許されるのではないか、と内心で呟いていたのである。
どこまでも自分のことを甘やかす心理的慣習が、まるで何かの代償のようにして、自分の中で居座ってしまったらしい。
以上のように、幾重にも捻じれた自分勝手な屈託を抱えていた僕でも、少しは関われそうなことと言えば、飽くことなく誘いかけてくる学内外の<同胞学生>が説き続ける「民族的自覚の獲得のために闘い」だけのような気がした。しかも、熱心に誘うオルグの要請に応えて、繁華街の喫茶店にせっせと足を運ぶのは、コウバの苦行から逃れるための格好の口実にもなるのだから、僕にとってはまさに一石二鳥だった。(ある在日の青春の9に続く)
3節 大学とのしくじりの出会いの2
クラス討論
相当に脱線してしまったが、先に触れたクラス討論の話に戻る。
新入生のクラス討論会でその趣旨に応じて議論に関わろうとしなかったのは、必ずしも僕だけではなかった。口を開こうとしない学生が、僕の他にも何人かいた。見るからに口数が少なく、人前で何かを主張するのが苦手そうな者もいた。話の流れにうまく乗れなくて、成り行きで黙り続けることになっていそうな学生もいた。他方で、僕と同じように、意図的に非協調的態度に徹していそうな学生が、僕以外にも一人だけいた。但し、その学生が僕と同じような理由で沈黙に徹していたのかどうかは分からない。僕はその学生とその後も一度も話を交わしたことがないどころか、彼が誰かと話す姿を見かけた記憶もないからである。
他方、教員と相談した上で、その会を企画・主導している学生たち、さらには、それに積極的に協力する一姿勢を示す学生たちは、互いに親しい関係になっていそうだった。大学キャンパス周辺の下宿や寮などで暮らし始めた縁で、日常的な付き合いが頻繁だったり、そもそも出身地方や予備校が同じだったり、さらには、大学の上級生や政治的セクトなどの多様な人脈もあってのことのように、僕には感じられた。
そんな学生たちは、叛乱学生に対してある程度のシンパシーを共有していそうだったが、それがあまりに露骨になって、その他の学生一般から反発を食らうことのないように、気遣いを怠らず、独断的運営という印象はなかった。その他、僕がそのクラス会の運営に関して、不快になる理由はなかった。
それなのに僕は、その場から浮きあがっている実感が否みがたかった。そのせいで、黙りこんでいるうちに、ますます違和感が募るといった悪循環にはまり込んだ。まさに自縄自縛だった。
大学側が想定していそうな、機動隊の助けも借りての大学によるロックアウトの延長上での<正常化>という方向性を、僕は支持していた。しかし、それは大学や学問や学生の社会的役割に照らして、それが正しいと考えてのことでは必ずしもなかった。何がどうであれ、授業が始まって欲しい。そうでない限り、僕はコウバの仕事から逃れられない。つまり、もっぱら個人的事情に基づく実際的な願望だった。そして、そのことは僕自身も十分に承知していた。だから、公的に云々できる立場ではなく、ただの我儘のように、僕自身が思っていたからである。だからこそ、黙り込むしかなかった。
しかし、ひたすら黙り込んで、周囲の学生たちが、僕から見ても正論のように聞こえることを主張することに対して、嫉妬が頭をもたげ、そのあげくには、鬱憤を募らすことになった。
そして、その種の<いたたまれなさ>には、日本人学生と僕たち在日との先験的な非対称性といった、体感が関わっていた。したがって、僕が何と言おうと、周囲の学生に話が通じるわけがないのだから、黙り続けるしかなく、そのこと自体がすごく不快だった。
因みに、日本人と僕との非対称性といった信憑は、体験に基づく感覚としては随分と幼い頃から既に僕の中にあり、それが大学合格以来の同胞学生との接触を通じて、民族主義的な論理によって補強されつつあった。
例えば、次のような理屈だった。
何かと正しそうなことを言う学生たちが、僕のような在日の学生その他が、これまでに、そして今も、さらにはこの先も、直面することを避けられない多様な差別に対して、どのような立場で、どのように実際的な行動ができるのかについて、僕は甚だ否定的な見方をしていた。学生時代はともかく、社会に出て以降にも反差別の立場を堅持するなど、被差別者に身を寄せて生きる覚悟はないと、僕はそれまでの18年の在日的経験と、同胞の先輩学生たちの議論も重ね合わせて、考えていた。それだけに、大学生としての正しい道を説く学生たちに反発していたのである。しかし、それはあくまで、声にならない叫びにすぎず、それを内心で繰り返しながら、心の中で深まる一方の孤独感を宥めていた。
叛乱学生に対する僕のそうした相当に頑なな姿勢は、先にも触れたことだが、必ずしも大学にまつわる状況、そして僕とコウバの関係だけに由来したものではなかった。僕の生来の融和的で体制順応的な心理的傾向、それに加えて、小商人の子倅的生活感覚、さらには中学以来の野球部的メンタリティなどが絡みあった結果としての僕の信憑であり、態度決定だった。しかし、それでもやはり状況、とりわけ当時の政治、資本、そして社会の結束をバックにしたメディアの大攻勢の影響が大きかったことは否定できない。
とりわけ、1月初旬の東大の安田講堂攻防戦の延々としたテレビ実況にかじりついた経験が、僕のそうした心的傾向と大学受験にまつわる不安とも相まって、僕をますます硬直させた。
「国家や社会や世間のことなど何一つ知らないまま、革命ごっこに興じる甘えん坊学生」といった、叛乱学生やそのシンパに対するメディアの攻撃的な報道が、僕の頭や心に刻みこまれた。さらには、大学合格後のいつ終わるか分からない宙ぶらりん状態に由来する不安とコウバの苦行などが相まって、叛乱学生に対する僕の態度はすっかり否定的になって、時にはヒステリー的様相を帯びた。さらにまた、先にも触れたように、僕の在日的民族意識の芽生えもその触媒として作用したのだろう。
それにしても、今から改めて考えると、不思議なことの一つが、僕の造反学生に対する考え方や態度の急変である。高校二年時に担任の<赤フン>を筆頭に、叛乱学生への共感をことあるごとに、多様な形で明らかにしていた教員たちの影響をまともに受け始めて、叛乱学生に対して僕が育んでいたシンパシーは、一体どこに消えてしまったのだろうか。
少なくとも、僕の志望学部や学科の選択には、高校の造反教員たちの影響がはっきりと作用していた。「国家や社会にとって<役立たず>の学問こそ、お前たちの道」と焚きつけられて、それこそが将来的に就職の可能性を夢見ることができない在日的条件に合致しているよう思えたからこそ、それが僕の逃げ道、或いは、解放の道のように思って、僕はそれまでには殆んど想像もしていなかったのに、いきなり仏文科を選ぶようになった
ところが、そんな僕がそれとほとんど同時期に、叛乱学生に対して完全に背を向けるようになった。
<世間知らずの甘ちゃん学生>という叛乱学生に対する官製イメージのメディアを通しての大々的な拡散が、将来不安を無理やり抑圧しようと努めていた僕にフィットして、次のような日本の政府や社会に対する、殆んど哀願のような思考や感情や態度が生成を始めたのだろう。
「僕にも日本人学生と同じ土俵で勝負させてほしい。そうしてこそ、僕に根深く巣食っている民族的コンプレックスの転倒も可能かもしれない。建前としての機会の平等を活用して、大学でそれなりの能力を育くみ、その能力を認められて・・・それには大学が正常化して・・・」
世の中には何の役にも立たず、僕自身の就職などにも役立たない学科を選んでおきながら、大学が正常化することをひたすら願うあたかも口実のようにして、叛乱学生に対する否定的立場を強固にしながら、内心では日本の政府や社会に対して、哀願でもするようなことになっていたわけである。なんとも情けない話なのである。
だからこそ、広大な緑地の野外での3時間に及ぶクラス討論会で、僕は苦虫をかみつぶした表情のまま、ひたすら黙り込むことで、討論に同調することを拒否する気持ちを表明していた。
そんなことなら、そんな会など端から参加しなければいいようなものを、そんな潔い態度もとれなかった。たとえいかに考え方が自分と相いれない個人や集団であっても、その尻尾にしがみついていたいといった奴隷根性、もしくは<小商人根性>のようなものを、僕は随分と幼い頃から身に着けていたのだろう。学友たちとの初めての顔合わせの機会であったクラス討論は、僕の大学生活の晴れがましい門出などにはならなかった。それどころか、その延長上では、授業が始まっても、大学生活に馴染めそうな見通しなど立たなかった。
掛け違いの連続の大学(生)との接触
クラス討論からおよそ一月後には、撤去が予定されていた都心の旧工学部キャンパスで、新入生に限って授業が実施されたが、そこでも大学生活に希望を持てそうなことは何一つなく、むしろ、前途多難を改めて痛感するだけだった。
その授業は、大学が正常に機能しているという、言わばアリバイ証明として、大学当局が新入生とメディアと文部省向けに行ったショーに過ぎなかった。
教師たちは見るからに浮足立っていて、学生に気持ちが向かっていそうにはとうてい思われなかった。フランス語の授業も、基礎知識など何一つ持たない僕のような能天気な学生には、まったく理解できるはずもない内容で、しかも、何故かしらいたずらに先を急いでいた。そのせいで、僕はフランス語に対する苦手意識を植え付けられて、その後遺症もあって、フランス語・文学専攻の学生でありながら、一貫してフランス語に苦しむことになった。しかも、その臨時の授業はたった二週間であえなく打ち切られ、その先の見通しがますます暗くなった。
初夏を迎える頃になると、コウバの仕事がますます僕の心身にきつくなった。何よりもコウバ内の高温多湿に僕の軟な心身が耐えられなくなった。
そんな頃に、2年間の教養課程とその後の2年間の専門学部を合わせて、少なくとも4年間を過ごすことになる大学キャンパスへの立ち入り禁止が解除されたという知らせが、大学から郵送されてきた。そこで、コウバの苦行から逃れるためにも、大学からの呼び出しという口実で、父から半日の休暇の許可を得て、キャンパスに赴いた。
丘の上にあるキャンパスまでの長い坂道を上るだけですっかり息が上がり、体力のひどい衰えを感じさせられた。コウバの仕事は長時間の単純な軽労働で、終日、殆んど椅子に座っての作業なので、デスクワークと変わらない。それもあって、前年の高校三年生の夏休みの一か月余りの韓国での野球遠征以来、まともに体を動かすことなど一度もなかった。そのせいで、特に下半身の衰えに驚かされた。
近い将来の解体を計画しているらしい古校舎を先頭にして、その他の新しい校舎など、教養部の授業が為されるという校舎群を順々に見て回ったが、合格発表以来、初めての大学キャンパス訪問なのに、感激のようなことなど、なにひとつなかった。ひとりで閑散として薄暗い校舎内を歩き回っているうちに、むなしくなった。そしてそのあげくには息苦しくなってきた。
そんな鬱々とした気分と体調から逃れるために、とりあえずは広い空間に出て深呼吸でもと、屋外に飛び出した。そして、キャンパスをできるだけ見渡せそうな場所に出た。地盤が5m以上も落ちているグランドが一望できるところに出た。
少し高台になって展望が効くところに立ってグランド全体を見降ろすと、向こう側の隅で数人が、下半身は野球のユニフォームだが上半身はアンダーシャツだけの中途半端な格好で、バットとグラブを持って練習の真似事でもしていそうな光景が目に入った。人数やその運動のけだるさから見れば、本格的な練習ではなさそうなので、気楽に見物でもしようかとそちらに向かうことにした。
しかし、さすがに僕は元野球部員なので、いろんな運動部員が正式なものではなくても、それなりに練習しているグランド内に立ち入るのは失礼になりかねないと、一応の気遣いは怠らない。
グランド全体を取り囲む階段状の斜面を通り、しかも、あまり近づいては、練習の邪魔になりかねないからと、適当な距離を置いて、階段の上に腰を降ろした。そしておもむろに、野球部員たちの様子を見守り始めた。特に何かの目的があったわけではない。ともかく、息がつまるので、何も考えずに、学生の体の動きで僕の内心の何かをほぐしたかっただけである。10分以上も経ってからのことだった。
僕の様子が眼にとまったらしく、野球選手たちの中でも最も上級生らしい人物がゆっくり近づいてきた。しかし、彼もまた僕から10mくらいのところで立ち止まった。そして、笑顔を作って声をかけてきた。
その話の内容は、すごく丁重でフレンドリーな言葉による入部の勧誘だった。それなのに、「そんな気などまったくありません。暇つぶしで、ぼんやりとみていただけです」といった、にべもない言葉が僕の口から飛び出してしまったのである。先方はさすがに当惑し、一瞬は憮然とした表情を浮かべたが、それをなんとか抑えて、ゆっくりと背を向けて立ち去った。
それを見ながら、僕は内心で「よりによって、非常時の大学で、悠長に野球なんか」などと、その野球部の人たちに難癖をつけ、それがひどく自分勝手な言い分であることを承知していたからこそ、自分のそんな失礼な言いぐさを切りにして、「野球とも金輪際、きっぱり、おさらば!」と、自分に言い聞かせた。ところが、そんな自分勝手な理屈自体がまた、すごくおかしな話であることに、直ちに思い至った。
僕は高校三年の夏に、同じような決心をしていたのである。
高校の生徒や教員たちが貸し切りバスをチャーターして大挙、応援に来てくれる恒例の定期戦で、中盤まで同点でしのぎを削っているところにリリーフとして登板、打席の、その日に2打数2安打と活躍していた相手チームの主将に対して、インハイの直球で勝負のつもりが、その頭にボールをまともに命中させてしまった。彼は転倒したまま動かず、すぐに救急車で病院へ運ばれた。
そんなことがあった後も、僕はほとんど茫然自失ながらも投げ続け、気が付いてみると、敗戦はしたものの、最後まで投げ切った。
そして、その事件のショックは、いったん意識の奥底に浸透し、じっくりと熟成した後になって、ようやくトラウマとして<発症>する。
定期戦の直後の地方大会、さらには韓国への一か月にわたる野球遠征を終えて以後になって、新チームのフリーバッティングで投げようとしたところ、いきなり恐怖に襲われるようになった。右バッターのインサイド、左バッターのインサイドには、まったくボールを投げられないのである。自分が投げるボールが自分が意図した方向に行くという確信が持てずに、すっかり怯えに支配されて、ボールが投げられなくなったのである。そのようにして、野球がまともにはできなくなったからと、僕は野球との決別を自らに誓ったのである。
それだけに、大学の野球部の上級生に対する僕の態度や理屈は、理不尽きわまるものだった。おそらくは、大学には入ったものの、その後の生活が思い通りにならないからと、その憂さ晴らしを見ず知らずの他人にぶちまけたのだろう。それだけでも、情けなく恥ずかしいことだったが、さらには、その際の自分に対する弁解が、もっとひどかった。
中学以来の長年の馴染の野球部なのだから、その程度の失礼は許されるのではないか、と内心で呟いていたのである。
どこまでも自分のことを甘やかす心理的慣習が、まるで何かの代償のようにして、自分の中で居座ってしまったらしい。
以上のように、幾重にも捻じれた自分勝手な屈託を抱えていた僕でも、少しは関われそうなことと言えば、飽くことなく誘いかけてくる学内外の<同胞学生>が説き続ける「民族的自覚の獲得のために闘い」だけのような気がした。しかも、熱心に誘うオルグの要請に応えて、繁華街の喫茶店にせっせと足を運ぶのは、コウバの苦行から逃れるための格好の口実にもなるのだから、僕にとってはまさに一石二鳥だった。(ある在日の青春の9に続く)