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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の8

2024-03-08 10:58:54 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の8
3節 大学とのしくじりの出会いの2

クラス討論

 相当に脱線してしまったが、先に触れたクラス討論の話に戻る。
 新入生のクラス討論会でその趣旨に応じて議論に関わろうとしなかったのは、必ずしも僕だけではなかった。口を開こうとしない学生が、僕の他にも何人かいた。見るからに口数が少なく、人前で何かを主張するのが苦手そうな者もいた。話の流れにうまく乗れなくて、成り行きで黙り続けることになっていそうな学生もいた。他方で、僕と同じように、意図的に非協調的態度に徹していそうな学生が、僕以外にも一人だけいた。但し、その学生が僕と同じような理由で沈黙に徹していたのかどうかは分からない。僕はその学生とその後も一度も話を交わしたことがないどころか、彼が誰かと話す姿を見かけた記憶もないからである。
 他方、教員と相談した上で、その会を企画・主導している学生たち、さらには、それに積極的に協力する一姿勢を示す学生たちは、互いに親しい関係になっていそうだった。大学キャンパス周辺の下宿や寮などで暮らし始めた縁で、日常的な付き合いが頻繁だったり、そもそも出身地方や予備校が同じだったり、さらには、大学の上級生や政治的セクトなどの多様な人脈もあってのことのように、僕には感じられた。
 そんな学生たちは、叛乱学生に対してある程度のシンパシーを共有していそうだったが、それがあまりに露骨になって、その他の学生一般から反発を食らうことのないように、気遣いを怠らず、独断的運営という印象はなかった。その他、僕がそのクラス会の運営に関して、不快になる理由はなかった。
 それなのに僕は、その場から浮きあがっている実感が否みがたかった。そのせいで、黙りこんでいるうちに、ますます違和感が募るといった悪循環にはまり込んだ。まさに自縄自縛だった。
 大学側が想定していそうな、機動隊の助けも借りての大学によるロックアウトの延長上での<正常化>という方向性を、僕は支持していた。しかし、それは大学や学問や学生の社会的役割に照らして、それが正しいと考えてのことでは必ずしもなかった。何がどうであれ、授業が始まって欲しい。そうでない限り、僕はコウバの仕事から逃れられない。つまり、もっぱら個人的事情に基づく実際的な願望だった。そして、そのことは僕自身も十分に承知していた。だから、公的に云々できる立場ではなく、ただの我儘のように、僕自身が思っていたからである。だからこそ、黙り込むしかなかった。
 しかし、ひたすら黙り込んで、周囲の学生たちが、僕から見ても正論のように聞こえることを主張することに対して、嫉妬が頭をもたげ、そのあげくには、鬱憤を募らすことになった。
 そして、その種の<いたたまれなさ>には、日本人学生と僕たち在日との先験的な非対称性といった、体感が関わっていた。したがって、僕が何と言おうと、周囲の学生に話が通じるわけがないのだから、黙り続けるしかなく、そのこと自体がすごく不快だった。
 因みに、日本人と僕との非対称性といった信憑は、体験に基づく感覚としては随分と幼い頃から既に僕の中にあり、それが大学合格以来の同胞学生との接触を通じて、民族主義的な論理によって補強されつつあった。
例えば、次のような理屈だった。
 何かと正しそうなことを言う学生たちが、僕のような在日の学生その他が、これまでに、そして今も、さらにはこの先も、直面することを避けられない多様な差別に対して、どのような立場で、どのように実際的な行動ができるのかについて、僕は甚だ否定的な見方をしていた。学生時代はともかく、社会に出て以降にも反差別の立場を堅持するなど、被差別者に身を寄せて生きる覚悟はないと、僕はそれまでの18年の在日的経験と、同胞の先輩学生たちの議論も重ね合わせて、考えていた。それだけに、大学生としての正しい道を説く学生たちに反発していたのである。しかし、それはあくまで、声にならない叫びにすぎず、それを内心で繰り返しながら、心の中で深まる一方の孤独感を宥めていた。
 叛乱学生に対する僕のそうした相当に頑なな姿勢は、先にも触れたことだが、必ずしも大学にまつわる状況、そして僕とコウバの関係だけに由来したものではなかった。僕の生来の融和的で体制順応的な心理的傾向、それに加えて、小商人の子倅的生活感覚、さらには中学以来の野球部的メンタリティなどが絡みあった結果としての僕の信憑であり、態度決定だった。しかし、それでもやはり状況、とりわけ当時の政治、資本、そして社会の結束をバックにしたメディアの大攻勢の影響が大きかったことは否定できない。
 とりわけ、1月初旬の東大の安田講堂攻防戦の延々としたテレビ実況にかじりついた経験が、僕のそうした心的傾向と大学受験にまつわる不安とも相まって、僕をますます硬直させた。
「国家や社会や世間のことなど何一つ知らないまま、革命ごっこに興じる甘えん坊学生」といった、叛乱学生やそのシンパに対するメディアの攻撃的な報道が、僕の頭や心に刻みこまれた。さらには、大学合格後のいつ終わるか分からない宙ぶらりん状態に由来する不安とコウバの苦行などが相まって、叛乱学生に対する僕の態度はすっかり否定的になって、時にはヒステリー的様相を帯びた。さらにまた、先にも触れたように、僕の在日的民族意識の芽生えもその触媒として作用したのだろう。
 それにしても、今から改めて考えると、不思議なことの一つが、僕の造反学生に対する考え方や態度の急変である。高校二年時に担任の<赤フン>を筆頭に、叛乱学生への共感をことあるごとに、多様な形で明らかにしていた教員たちの影響をまともに受け始めて、叛乱学生に対して僕が育んでいたシンパシーは、一体どこに消えてしまったのだろうか。
 少なくとも、僕の志望学部や学科の選択には、高校の造反教員たちの影響がはっきりと作用していた。「国家や社会にとって<役立たず>の学問こそ、お前たちの道」と焚きつけられて、それこそが将来的に就職の可能性を夢見ることができない在日的条件に合致しているよう思えたからこそ、それが僕の逃げ道、或いは、解放の道のように思って、僕はそれまでには殆んど想像もしていなかったのに、いきなり仏文科を選ぶようになった
 ところが、そんな僕がそれとほとんど同時期に、叛乱学生に対して完全に背を向けるようになった。
<世間知らずの甘ちゃん学生>という叛乱学生に対する官製イメージのメディアを通しての大々的な拡散が、将来不安を無理やり抑圧しようと努めていた僕にフィットして、次のような日本の政府や社会に対する、殆んど哀願のような思考や感情や態度が生成を始めたのだろう。
「僕にも日本人学生と同じ土俵で勝負させてほしい。そうしてこそ、僕に根深く巣食っている民族的コンプレックスの転倒も可能かもしれない。建前としての機会の平等を活用して、大学でそれなりの能力を育くみ、その能力を認められて・・・それには大学が正常化して・・・」
 世の中には何の役にも立たず、僕自身の就職などにも役立たない学科を選んでおきながら、大学が正常化することをひたすら願うあたかも口実のようにして、叛乱学生に対する否定的立場を強固にしながら、内心では日本の政府や社会に対して、哀願でもするようなことになっていたわけである。なんとも情けない話なのである。
 だからこそ、広大な緑地の野外での3時間に及ぶクラス討論会で、僕は苦虫をかみつぶした表情のまま、ひたすら黙り込むことで、討論に同調することを拒否する気持ちを表明していた。
 そんなことなら、そんな会など端から参加しなければいいようなものを、そんな潔い態度もとれなかった。たとえいかに考え方が自分と相いれない個人や集団であっても、その尻尾にしがみついていたいといった奴隷根性、もしくは<小商人根性>のようなものを、僕は随分と幼い頃から身に着けていたのだろう。学友たちとの初めての顔合わせの機会であったクラス討論は、僕の大学生活の晴れがましい門出などにはならなかった。それどころか、その延長上では、授業が始まっても、大学生活に馴染めそうな見通しなど立たなかった。

掛け違いの連続の大学(生)との接触

 クラス討論からおよそ一月後には、撤去が予定されていた都心の旧工学部キャンパスで、新入生に限って授業が実施されたが、そこでも大学生活に希望を持てそうなことは何一つなく、むしろ、前途多難を改めて痛感するだけだった。
 その授業は、大学が正常に機能しているという、言わばアリバイ証明として、大学当局が新入生とメディアと文部省向けに行ったショーに過ぎなかった。
 教師たちは見るからに浮足立っていて、学生に気持ちが向かっていそうにはとうてい思われなかった。フランス語の授業も、基礎知識など何一つ持たない僕のような能天気な学生には、まったく理解できるはずもない内容で、しかも、何故かしらいたずらに先を急いでいた。そのせいで、僕はフランス語に対する苦手意識を植え付けられて、その後遺症もあって、フランス語・文学専攻の学生でありながら、一貫してフランス語に苦しむことになった。しかも、その臨時の授業はたった二週間であえなく打ち切られ、その先の見通しがますます暗くなった。
 初夏を迎える頃になると、コウバの仕事がますます僕の心身にきつくなった。何よりもコウバ内の高温多湿に僕の軟な心身が耐えられなくなった。
 そんな頃に、2年間の教養課程とその後の2年間の専門学部を合わせて、少なくとも4年間を過ごすことになる大学キャンパスへの立ち入り禁止が解除されたという知らせが、大学から郵送されてきた。そこで、コウバの苦行から逃れるためにも、大学からの呼び出しという口実で、父から半日の休暇の許可を得て、キャンパスに赴いた。
 丘の上にあるキャンパスまでの長い坂道を上るだけですっかり息が上がり、体力のひどい衰えを感じさせられた。コウバの仕事は長時間の単純な軽労働で、終日、殆んど椅子に座っての作業なので、デスクワークと変わらない。それもあって、前年の高校三年生の夏休みの一か月余りの韓国での野球遠征以来、まともに体を動かすことなど一度もなかった。そのせいで、特に下半身の衰えに驚かされた。
 近い将来の解体を計画しているらしい古校舎を先頭にして、その他の新しい校舎など、教養部の授業が為されるという校舎群を順々に見て回ったが、合格発表以来、初めての大学キャンパス訪問なのに、感激のようなことなど、なにひとつなかった。ひとりで閑散として薄暗い校舎内を歩き回っているうちに、むなしくなった。そしてそのあげくには息苦しくなってきた。
 そんな鬱々とした気分と体調から逃れるために、とりあえずは広い空間に出て深呼吸でもと、屋外に飛び出した。そして、キャンパスをできるだけ見渡せそうな場所に出た。地盤が5m以上も落ちているグランドが一望できるところに出た。
 少し高台になって展望が効くところに立ってグランド全体を見降ろすと、向こう側の隅で数人が、下半身は野球のユニフォームだが上半身はアンダーシャツだけの中途半端な格好で、バットとグラブを持って練習の真似事でもしていそうな光景が目に入った。人数やその運動のけだるさから見れば、本格的な練習ではなさそうなので、気楽に見物でもしようかとそちらに向かうことにした。
 しかし、さすがに僕は元野球部員なので、いろんな運動部員が正式なものではなくても、それなりに練習しているグランド内に立ち入るのは失礼になりかねないと、一応の気遣いは怠らない。
 グランド全体を取り囲む階段状の斜面を通り、しかも、あまり近づいては、練習の邪魔になりかねないからと、適当な距離を置いて、階段の上に腰を降ろした。そしておもむろに、野球部員たちの様子を見守り始めた。特に何かの目的があったわけではない。ともかく、息がつまるので、何も考えずに、学生の体の動きで僕の内心の何かをほぐしたかっただけである。10分以上も経ってからのことだった。
 僕の様子が眼にとまったらしく、野球選手たちの中でも最も上級生らしい人物がゆっくり近づいてきた。しかし、彼もまた僕から10mくらいのところで立ち止まった。そして、笑顔を作って声をかけてきた。
 その話の内容は、すごく丁重でフレンドリーな言葉による入部の勧誘だった。それなのに、「そんな気などまったくありません。暇つぶしで、ぼんやりとみていただけです」といった、にべもない言葉が僕の口から飛び出してしまったのである。先方はさすがに当惑し、一瞬は憮然とした表情を浮かべたが、それをなんとか抑えて、ゆっくりと背を向けて立ち去った。
 それを見ながら、僕は内心で「よりによって、非常時の大学で、悠長に野球なんか」などと、その野球部の人たちに難癖をつけ、それがひどく自分勝手な言い分であることを承知していたからこそ、自分のそんな失礼な言いぐさを切りにして、「野球とも金輪際、きっぱり、おさらば!」と、自分に言い聞かせた。ところが、そんな自分勝手な理屈自体がまた、すごくおかしな話であることに、直ちに思い至った。
 僕は高校三年の夏に、同じような決心をしていたのである。
 高校の生徒や教員たちが貸し切りバスをチャーターして大挙、応援に来てくれる恒例の定期戦で、中盤まで同点でしのぎを削っているところにリリーフとして登板、打席の、その日に2打数2安打と活躍していた相手チームの主将に対して、インハイの直球で勝負のつもりが、その頭にボールをまともに命中させてしまった。彼は転倒したまま動かず、すぐに救急車で病院へ運ばれた。
 そんなことがあった後も、僕はほとんど茫然自失ながらも投げ続け、気が付いてみると、敗戦はしたものの、最後まで投げ切った。
 そして、その事件のショックは、いったん意識の奥底に浸透し、じっくりと熟成した後になって、ようやくトラウマとして<発症>する。
 定期戦の直後の地方大会、さらには韓国への一か月にわたる野球遠征を終えて以後になって、新チームのフリーバッティングで投げようとしたところ、いきなり恐怖に襲われるようになった。右バッターのインサイド、左バッターのインサイドには、まったくボールを投げられないのである。自分が投げるボールが自分が意図した方向に行くという確信が持てずに、すっかり怯えに支配されて、ボールが投げられなくなったのである。そのようにして、野球がまともにはできなくなったからと、僕は野球との決別を自らに誓ったのである。
 それだけに、大学の野球部の上級生に対する僕の態度や理屈は、理不尽きわまるものだった。おそらくは、大学には入ったものの、その後の生活が思い通りにならないからと、その憂さ晴らしを見ず知らずの他人にぶちまけたのだろう。それだけでも、情けなく恥ずかしいことだったが、さらには、その際の自分に対する弁解が、もっとひどかった。
 中学以来の長年の馴染の野球部なのだから、その程度の失礼は許されるのではないか、と内心で呟いていたのである。
どこまでも自分のことを甘やかす心理的慣習が、まるで何かの代償のようにして、自分の中で居座ってしまったらしい。
以上のように、幾重にも捻じれた自分勝手な屈託を抱えていた僕でも、少しは関われそうなことと言えば、飽くことなく誘いかけてくる学内外の<同胞学生>が説き続ける「民族的自覚の獲得のために闘い」だけのような気がした。しかも、熱心に誘うオルグの要請に応えて、繁華街の喫茶店にせっせと足を運ぶのは、コウバの苦行から逃れるための格好の口実にもなるのだから、僕にとってはまさに一石二鳥だった。(ある在日の青春の9に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の7

2024-03-06 17:39:38 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の7

3節 大学とのしくじりの出会いの1

吉本新喜劇ばりのドタバタ悲喜劇

<同胞>学生との接触以外で、僕をコウバからほんの一時でも解放してくれたのは、大学の新入生向けの散発的な催しだった。先ずは入学式があり、次いで身体及び運動能力測定、そして、学生がそのイベントに便乗して、担任教員も交え企画されたクラス討論会もあった。  
 さらには、ほんの短期に過ぎなかったが、授業の真似事もあったが、そのようなイベントの度に、僕の大学に対するなけなしの幻想は、次々に崩れていった。
 その筆頭が新入生にとっての晴れの儀式である入学式だった。
 その時期の大学主催のイベントはすべて、僕らが本来的に通うはずのキャンパス以外の場所で行われた。叛乱学生に封鎖されていた大学キャンパスは、機動隊が学生を武力で追い出して以降は機動隊の管理下に入いり、学生の立ち入りは原則的に禁止されていた。
 そのために、入学式は大阪の都心に位置する大学本部に近く、僕が入試合格直後に扁桃腺の手術で入院していた病院からも、徒歩圏内にある厚生年金会館で行われた。
後で知ったことだが、大学本部には大阪にゆかりがある日本有数の大企業から寄贈され、その会社の名前が付いた立派な大講堂があった。
 そんな立派な会議場施設が大学本部の構内にあるのに、わざわざ学外の会場を選んだのは、何よりも警護に最適な構造の施設だったことだろう。それと関連して、大学自治といった既に破綻が明白だった建前が、心理的束縛として機能していたので、大学施設よりも学外施設の方が責任を問われる心配なく、警察権力に頼れたからだろう。
 その入学式に参加した僕は、自分の大学生活を象徴するような、滑稽ながらも深刻な<闘争現場>に遭遇した。
 見るからに立派なその会館では、正面の広い階段を上った2階に正面玄関があるのだが、当日は完全密閉されており、館内に入場するには、建物の右横側の半地下にある狭い通用口を通るしかなかった。しかも、完全武装の機動隊に守られた教職員たちが、二列の人間の壁で狭い通路をつくって、その狭い空間に列をなして順番に通用口に入っていくように指示された。
 その物々しさと窮屈さには僕もさすがに緊張した。しかも、こそこそとまるで身を隠すかのように狭い通用口に入っていくのは、窮屈で不愉快であるだけでなく、自分がひどく滑稽なことをしているような気もした。
 通用口が狭い上に、そこから入る新入生の身元確認のために、受験証か身分証明証を確認して入場を認め、諸種の配布書類の配布などの手続きも煩雑なせいで、なかなか前に進まず、窮屈な行列での長時間の立ちん坊を強いられる。そんなこんなでうんざりしていた僕の耳に、突如として奇声が、次いでは怒号が飛び込んできた。反射的にそちらに目を向けたところ、その声の主たちが必死の形相で走ってくる姿が目に飛び込んできた。
 僕らを包囲する人間の壁としての教職員たちの肩越しに、少し距離を置いた二つの集団の、個々人の形相までが大写しになってきた。
 前方を走るのは10人ばかりの背広姿の主に中年男たちが、「暴力はやめろ!」などと切れ切れに叫びながらも、逃げるのに懸命だった。その集団から10mほど遅れて、覆面とヘルメット姿で手に棍棒などを持っていることから、叛乱学生であることが歴然とした集団は、「逃げるな、卑怯者、教師失格の右翼反動!」などと叫び続け、両集団共に、僕らが左側に狭く列をなす7、8m幅の道の中央を、瞬く間に駆け抜けていった。
 そんな光景に呆気に取られているうちに、二つの集団は遥かかなたへ姿を消して、しばらくは静寂が戻った。やれやれと改めて入場の順番を待ち始めたところ、またしても、例の集団がさっきは消えた方角から、こちらに向かって猛然と駆け寄ってきた。しかも今度は、形勢が逆転し、追いかけていたヘルメットグループが懸命に声をあげながら逃げ、逃げていたグループが機動隊員に守られながら追いかけていた。その必死の形相や手足の動きが滑稽なあまり、思わず笑いたくなるほどだった。
 そしてふと、数年前の中学二年生の夏休みに、野球部の練習を終えて校舎の陰で灼熱の陽光から身を隠しながら休息していた時に、たまたま目撃することになった追走劇のことを思い出した。
 僕らの中学の教師たち(秩序の確立を最優先していた校長が、そのために特別に導入した強圧的な二人の教師)と、民族学校の生徒や僕らの中学の在日と日本人の<悪仲間>の連合軍(そのほとんどが僕と親しかった)、その両者のドタバタ悲喜劇のことである。あの時も途中から、急遽、パトカーで駆け付けた警官たちが教員たちに加勢した途端に、攻守が約転するなど、まったく同じ展開だった(三部作の第一部である「小中学篇」で詳述している)。
 まるでそっくり同じことが、5年後の大学新入生になった僕の眼前で展開していた。それも晴れの入学式の会場近くでのことだったから、その先に待ち受けているはずの大学生活への期待が膨らむはずもない。それが僕の大学生活を象徴するものになりそうな予感にうんざりしながら、壁となっている教職員に急かされるままに、従順な子羊のように通用口の暗い穴の中に入って行った。
 いかにも儀式ばった入学式の進行を見ながら、大学生活も中学の頃と同じように多様な暴力に怯えながらのドタバタ悲喜劇になるのかと落胆する一方で、その程度のことなら、既に中学時代にたっぷりと経験済みだから、なんとかやっていけるかもと、大学生活を甘く見るようになったかもしれない。
 ともかく、すごくむなしく、その先に続くはずの4年間の大学生活の空虚さを、まだ始まってもいない時点で、眼前に突きつけられた思いだった。
 そもそも、たいして勉学意欲があったわけでもない僕の、大学へのなけなしの期待など一気に吹っ飛んでしまい、白けた気分だった。
 そのせいなのか、ものものしい警備に囲まれてようやく会場に入ってからの儀式のことなど何一つ記憶にない。但し、その入場と退場の際に今後の予定や提出書類なども含めた大量の書類を受け取ったことは鮮明に覚えている。その書類の山が、僕と大学を辛うじて繋ぐ絆に思えたからだろう。

新入生の身体検査とクラス会

 入学式から二、三週間後には、広大な緑地公園で新入生の身体・運動能力測定の案内を届き、義務的なものらしかったので参加した。新入生の中には僕の高校の先輩や同期生も相当数が(例年、新入生総数約2000名のうちの約100名が僕らの高校から入学)参加していたはずだが、何故かしら、知った顔はまったく見かけなかった。そのせいで言葉を交わす相手もなくて寂しかったせいで、大学生にもなって、どうしてそんな検査の必要があるのかと、自分勝手な不満が心の中で渦巻いていた。そして、そんな心理の影響もあって、何かと不愉快なことが多かった。
 例えば、高校や予備校などで顔見知りだったらしく、現役の新入生よりは年長であることを笠に着たグループの傍若無人な振る舞いが、ただでさえ不機だった僕の癇に障った。そんな内心が僕の表情や挙動に現れていたからか、その悪ふざけグループが、僕にこれ見よがしの挑発を繰り返したので、一触即発の状態になった。
 さすがに多勢に無勢だからと、なんとか自分を抑えて、やり過ごしたが、よもや大学生になってまで、そんな幼稚で馬鹿げたことに巻き込まれるなんてと、殺伐とした気持ちになってきた。先般の入学式の騒動では、僕はあくまで傍観者にすぎなかったが、今回は、下手をすれば当事者として、馬鹿げた騒ぎに巻き込まれかねなかったので、その後も気持ちは晴れなかった。
 ところで、そのように新入生が義務的に参加する公式行事の機会を利用して、その終了後に僕らのクラスに限っては、級友の初顔合わせと討論会の企画の案内も受けていた。
 文学部の定員80名を出席簿順に機械的に二分割し、一学年が二クラス構成となっていた。僕の姓名である玄善允(ゲン・ヨシミツというフリガナ)はアカサタナ順では前半なので、僕は一組の所属になっており、その1組の有志たちが担任教員と相談したうえでの、あくまで自主的企画とのことだった。
 野外の芝生広場で円座になって、担任の挨拶を皮切りに、学生個々の自己紹介、そしてクラス討論が始まった。クラスの総数40名の半分以上の25名くらいは参加していたように記憶している。
 それこそは、僕にとって自分が入った大学の学生、それも日常的に触れ合う文学部の級友との初対面であり、大学生活の真の始まりだった。ところが、僕はその場の雰囲気に最後まで溶け込めず、自ら進んで違和感を募らせる態度に終始した。
人見知りは生来のものだが、午前の身体測定の際に挑発してきた学生グループに対する不快感がしつこく後を引いて、いたずらに警戒心を募らせていたことも作用していたのだろう。
 午後のクラス会の場には、午前のように悪ずれした学生など一人もおらず、僕の過剰な警戒心は肩透かしを食らった格好だった。それなのに、不快感と警戒心の名残なのか、僕は頑なに、心も口も開かなかった。
 因みに、僕は文学部の同期生たちに関して、その時も、そしてその後も、一度も悪い印象を持たなかった。それなのに、そ の学生たちと一緒に学生生活を送ったといった感じを殆んど持てなかったのは、その出会いの失敗の延長上での、惰性のようなものだった。
 それでは、その出会いにどうして失敗したのだろうか。それが今でも、自分でも納得のいくように説明できない。敵意や悪意など、僕にも、そして僕の周囲の日本人学生たちにも、なかったはずなのに・・・
 因みに、僕らのクラスの担任教員はクラス会の冒頭で、日本近代史の教員と自己紹介したうえで、大学の状況説明と自分の立場や見解を静かな声で淡々と話した。
 その様子からは、腰が低くて紳士的で、悪印象など抱く理由などなかった。それにまた、僕は幼い頃から歴史が大好きで、得意科目の一つでもあったのに、その教師に対しては何故かしらシンパシーを持てなかった。歴史、とりわけ日本史に対する関心を失ってしまっていたからだろうか。或いは、その教授のいかにも良識的な紳士ぶりに対する僕独特の違和感、さらには拒否感のせいだったのかもしれない。自宅待機のせいでコウバ労働を強いられている僕の状況に関する責任をすべて、担任であるからには僕に最も身近な教員だからと、無理やりにおっかぶせることで、うっぷん晴らしをするような心理状態に陥っていたのかもしれない。
 自分の心理的傾向を顧みれば、その可能性も十二分にある。上品な人は自分の内輪の人ではないといった、奇妙そうだが、実は在日その他、一般に下層に押し込められて育った者たちが幅広く共有していそうなコンプレックス、それを僕は確実に抱えていたからである。
 もしそう下解釈が正しければ、僕の担任教員と級友たちに対する違和感、そして僕の頑なな態度とが、同じ根を持っていたのではなかろうか。この日本社会では殆んど先験的に安定した恵まれた条件を備え、まっとうな理屈を誰憚ることなく表明できるマジョリティ、その中でもほどほどのエリートとして人生を歩むことを許されている人々、それに対する、僕の言葉にはなりにくい<やっかみ>、それと一体になった<憤懣>のようなものが・・・
 そこまで考えが至ると、その種の僕の反応は、必ずしも、日本人だけに対するものに限られていなかったことが分かってくる。

脱線―<東京のサンチュン>と<東京のおじさん>

 拙著『在日の言葉』は、僕の幼少年期を彩った<在日的言語>に関する経験に焦点を当てて、エスニックマイノリティの子どもの意識形成の過程に迫ろうとしたものだが、その中に、<おじさん>と<サンチュン>という日本語と朝鮮語(とりわけ済州語)でよく似た意味を持つ言葉を、僕が幼い頃から使い分けしていたことなどを記述している。それを簡略に言えば、次の通りである。
 僕はある人物に対して、<東京のおじさん>と<東京のサンチュン>の二つの呼称を、僕のその人に対する折々の距離感の微妙な変化に応じて使い分けていた。そして、その人のことを<おじさん>と呼ぶ際の僕の意識・感情・そして状況が、大学一年時の担任教員に対する僕の態度とその基盤になっていた意識や感情と似ているように思えるのである。
 その人は僕の父と同じ齢の従兄で、僕にとって父方の在日として、最も近親だった<ハマニ>の一人息子だったので、僕からすればサンチュン(元来は目上の三親等のことであり、元来の標準語ではサㇺチョㇺ、済州語ではサㇺチュン、在日済州人の世界ではサンチュンと発音される。ところが、実際の済州では三親等に限られず、男女を問わず、場合によっては血縁関係がなくても、相当に広範囲に使用されていた。しかも、今では、テレビの影響もあってか、そうした緩く広い語法が韓国全土にも広まると同時に、発音も元来の済州語の発音が一般的になっている)と呼ぶのがふさわしい人だった。
 ところが、僕らの在日の親族では唯一の<インテリ>かつ<紳士>であるばかりか、夫人が日本人であり、更には、東京に居住していることなどもあって、僕ら大阪の済州人コミュニティの人々と比べれば、全くの別格で<雲の上の人>のように、僕などは仰ぎ見ていた。それだけに、自分の身内に含んで、気安く<サンチュン>などと呼ぶのは、その人に対して失礼であるばかりか、その人を仰ぎ見ている自分の気持ちにもそぐわないので、まるで嘘をついているような後ろめたさが伴う。そこで、少し改まって他人行儀で、尊敬と距離感を込めて、<東京のおじさん>と呼ぶ場合も少なくなかった。そうした呼称は実はその他にも理由があった。その人の日本人の夫人のことは、まさか<東京の女のサンチュン>などとは、端から僕らには言いにくいので、<東京のおばさん>と呼ぶのが普通だったこともあり、その延長でその夫であるおじさんのことも、ごく自然に<東京のおじさん>と呼ぶようにもなった。
 その一方で、そのおじさんの母親である老婆(ハマニと僕らは呼んでいた)が大阪の我が家のすぐ近くに独り住まいしており、毎日、我が家を訪れては食事も一緒にすることが多くて、まるで僕らの祖母のように日常的に親しく付き合い(いつも小言ばかり言われていた)、しかも、そのおじさん自身も一年のうち2、3カ月はその母親の家で過ごしながら、政治活動の傍ら、小説や論説などの執筆も行い、ハマニと同じくすっかり我が家の身内として、それも我が家の両親が最も頼りにする相談役として、親しく我が家に出入りもしていたので、やはり自分の身内(朝鮮人としての近親)として<サンチュン>と呼ぶほうが相応しいと思い直して、<東京のサンチュン>呼ぶようになって、そのことで大いに満足するというようなこともあった。
 その<おじさん>は、幼い頃(5歳頃)に僕がハマニ(おじさんの母)と一緒に、そのおじさんの東京の家で長期にわたって滞在した頃にちょうど、僕の<知的芽生え>が始まり、そのことにおじさんが誰にまして逸早く気づき、僕のことを高く評価したことも契機になって、その後の僕の学校や教育に関するアドバイザーのような役回りを引き受けるようになった。僕の両親はコウバの仕事で忙しいばかりか、二人とも学校経験がなかったので、我が家の子どもの学校や教育などに関しては、おじさんに全面的に頼るしかなかったからでもある。
 そんなことが伏線になって、僕が6年生の半ば頃に、その<東京のサンチュン>はいきなり僕に、国立の教育大学付属中学の受験を勧め、両親もすぐさま同意したせいで、僕は一般の受験生の常識からすれば殆んど手遅れの時期になって、中国受験の勉強を慌ただしく始める羽目になった。
 そもそも僕には、小学校や地域の友達と離れて、遠くの学校に電車通学するつもりなどまったくなかった。ところが、<おじさん>と両親が既定事項としてそのように僕に言い渡すし、東京のおじさん肝入りの話だから、尊敬するおじさんに認められた誇らしさが、僕の子どもらしい本音を完全に圧倒した。
 そして、おじさんの勧めに従って、中学受験の専門家のアドバイスも受け、その人が指定した参考書と問題集を買いそろえて、僕は自分なりに受験勉強の計画を立てた。そうなると、僕はすっかりゲーム感覚になって、自分が決めた計画を完遂することが、当面の生きがいとなった。遊ぶ時間がなくなるのは困ったことだったが、半年足らずと当初から定まった期間だけのことだから、禁欲的になって精を出すことは、むしろ僕自身に対する大きな励ましともなった。僕はむしろ楽しみながら、そのだしぬけの受験勉強に取り組んだ。
 そして、一次の筆記試験には合格し、二次次試験に出向いたところ、試験に先立って、その受験先の中学の校長先生が一次試験の合格者、つまり二次試験の受験者全員と同伴していた父兄たちを運動場に整列させて、長々と演説をぶった。
「一次試験の倍率は5倍と厳しいものでしたが、一次試験の合否発表の結果としての、二次試験の受験者の倍率は、2倍以下にまで絞られました。ですから、皆さんの学力は、同じ学年の大阪の小学生の上位数パーセント内に位置していることが証明されたのです。残念なことに定員が決まっているので、二次試験で不合格になる人も少なからでてきますが、それは決して能力の優劣の結果ではなく、運不運のようなものにすぎないのです。皆さんは、二次試験の結果などとは関係なく、今の時点から既に、自信と誇りを確固と持って、今後に進むことになる中学での生活を送ることを楽しみにしながら、今日の二次試験は気楽に楽しんでください」と慰労、激励を行った。
 その演説の「気楽に」という言葉とは裏腹に、実際の面接試験は予想をはるかに越えて厳しいものだった。僕ら受験生は、それぞれに専門が決められた面接を行う6か所の教室を順々に巡らされた。一人ずつの場合もあれば、受験生が複数、同時に面接会場に入って、討論を求められることもあった。そして最後を飾ったのが、父兄同伴の面接で、それは通常の教室ではなく、ソファが並んだ応接室のような部屋だった。
 最初に僕が入ったのは、算数が専門の教室で、そこには一人ずつ入場し、既に終わった一次の筆記試験の算数の問題の一つについて、僕が解答したのとは異なる解答法の有無を尋ねられ、「ある」と答えたところ、その新たな解答法を口頭で説明するように求められた。次の教室は、専門名は今や忘れてしまったが、4名の受験生が同時に同じ教室に入らされて、それぞれが好きな野球のチーム名とその理由を述べるように求められ、それに続いては、4人が互いに自分が応援するチームと一緒にそこに入った受験生の応援するチームを批判するなど、応援の弁論を競うといったディベート形式、つまり応援合戦の真似事をさせられた。
 その他に理科もあったし国語も、さらには社会の面接会場もあった。そして最後が、父兄同伴の面接であり、そこだけは他と異なり、ソファに座って待ち構えていた校長以下数名の幹部教員に迎え入れられて、その人たちと向かい合って、僕は<東京のおじさん>と並んでソファに座った。そして、質疑応答となったのだが、その父兄同伴の面接に、おじさんが父の代わりに参加したことが、僕には納得がいかなかった。
 僕の両親には学校経験がなく、対応できないからと父が尻込みしたので、仕方ないことだと思いながらも、<おじさん>に父の代わりをしてもらうのは、嘘を吐くことになるのではと、僕は思った。
 やむを得ない事情で仕方なくの代役であることを、おじさんは試験官に正直に伝えたのだが、その事情というのは、本当に事情とは異なった。それが僕は嫌だった。父に申し訳ないことだとも思った。父は学校の経験はなくても、美しい漢字を書いたし、素面でいる時は、すごくきちんとしたことを話すなど、どこに出ても恥ずかしくない人と、僕なりに誇りに思っていた。だから、どうしてそんなことに、というのが、両親やおじさんに対する僕の内心の恨み節だった。
 その面接からの帰路に、おじさんは僕に「今日は幾つもしくじってしまったね」と言った。そして、その「幾つものしくじり」について細かく説明してくれたうえで、合格の可能性はないと断定した。
 先ずは、その日に僕が受験票を携帯するのを忘れたことを、おじさんは不合格の理由の先頭に挙げた。おじさんは「よしみっちゃん(僕の呼称)はその時点で受験資格を失ったも同然だった」。しかも、父兄同伴の面接でも、僕は試験官の質問を聞き違えたのか、頓珍漢な返答をしていたと言い、「どうしたんだい、緊張のせいかな?」と、いかにも落胆した様子だった。
 数日後の合格発表の結果は、おじさんの言った通りに不合格だった。しかし、僕は正直なところ、ほっとした。これからも小学校や界隈の友人たちと同じ中学校に通えるのだから、僕にはかえって良かった。
 それにまた、先にも述べたことだが、たとえ僕がすごく尊敬するおじさんであっても、父親の代理としておじさんに面接に同行してもらうなど、まるで嘘の延長上で、中学生活を送りたくなかった。だからと言って、僕にはおじさんを恨む資格などあるわけがないことも分かっていた。おじさんはあくまで、僕に良かれと思ってのことであり、そんなことが分からない僕ではなかった。
 だからこそ、その後も学校関係ではおじさんのお世話になった。例えば、地元の中学に進学した際の在校生との対面式で、新入生代表として挨拶する役目を課せられたので、僕はおじさんの全面的な助けを借りて、そのあいさつ文を作成するなど、おじさんが僕の学校・教育の導き手であることに変わりはなかった。
 その一方で、中学受験というおじさんの提案が破綻したことを、僕は心底、喜んでいたし、その受験勉強といういわば先行勉強をしていたから、中学一年と二年の途中くらいまでは、中学で習う内容がすごく易しく感じるなど、中学生活で優位性を確保しながら気楽にスタートできたから、僕は野球部の練習やコウバの仕事などのハンディなど気にならずに学業をこなすことができた。それこそが、おじさんの失敗に終わった提案の、有難い副産物だった。しかも、受験勉強というものに対するアレルギーなどは全くなく、むしろ、その種のゲーム感覚の勉強に関する自信も得た。結果は不合格でも一次の筆記試験に合格した成功体験は、その後の僕の高校受験、さらには、大学受験の際にも、物心両面で、大きなアドバンテージとして生きることになった。それぞれの受験勉強をしていた時にも、僕はそのように考えていたはずである。それは知的能力とは別種の、一種のゲーム感覚、そして、僕の野球体験などと同じような、瞬間的な対応能力や勘の問題であると、僕はその当時も今も信じている。新たなことや深いことなどをじっくり考えるのは僕は苦手で、そんな能力は僕にはない。決して褒められたことではないのだが、そのことについても僕には自信がある。
 それはさておいて、東京のおじさんは小説を書きながら、朝鮮の統一運動にも専心しながら、人生を送っていた。逆に言えば、生涯にわたってお金を稼ぐ人、稼げる人ではなく、それだけに僕の両親のことを、越境移住の労働者として、さらには町工場の経営者として、そして同年齢の従弟とその妻として、その勤勉さを尊敬し、僕ら子どもにもそのことを、折に触れて力説していた。
「お父さん、お母さんは、本当に立派な人なんだよ」と。さらには、その延長上で、「将来はお父さん、お母さんの努力の結実を継承して、コウバをもっと立派な企業にするように頑張るんだ」と、それとなく僕の職業選択、さらには、それに先立つ大学での専攻についても、おじさんの想定、もしくは希望のラインを僕に対して、それとなく明らかにした。そして、付け加えるのだった。「文学部はダメだよ。もし、文学が好きなら、他の学部に入っても、文学の勉強ができないわけではないから」と。
 おじさんが生涯をかけた文筆活動や統一運動、その両方において、おじさんは失意の晩年を送っていた。しかも、経済的には夫人、さらには、若くして子供二人を抱えた寡婦として、貧しいながらも一人息子であるおじさんの家族への経済的援助を惜しまなかった老母(ハマニ)のおかげで、なんとか二人の子供を育てあげることができた。
 そんな自分のことを考えるにつけ、経済的自立がどれほど大事かということを骨身にしみていたのだろう。だからこその、「文学部は避けるように」という僕に対する助言だったのだろう。
 おじさんのそんな忠告に、僕は殆んど無意識ながらに反発して、文学部を選んだのかもしれない。そもそも僕は文学少年などではなかったし、文学部に入って何をするかなど、何ひとつ考えてもいなかった。
 しかし、敢えて言うならば、在日の問題について少しは考え、身にしみついた民族的コンプレックスから解放される糸口をつかめたらという、かすかな期待くらいだけが、辛うじて僕が文学部を選んだ際に持ち合わせていた希望だった。
大学に合格した年の秋に、在日の学生運動の全国集会に参加するために上京した際に、病で倒れたと聞いていたおじさんを訪れたところ、おじさんは病床で「文学部だってね?」と、信じられないほど力のない声で言った。その生気を欠いた声で、おじさんの死期が近いと感じた僕はすっかり狼狽して、その他に何を話したのかまったく記憶にない。そもそも、それ以外には殆んど言葉を交わさなかったに違いない。
 それからほどなくして、おじさんは亡くなった。おじさんが務めていた新聞社では、新聞の創刊以来の編集長として、おじさんの逝去を伝え、その業績を称えていた。しかし、実際には、既にその2、3年ほど前から、おじさんはその新聞社の方向性にすっかり絶望していたし、それと同時に肝硬変で入退院を繰り返していたから、実際には辞職していたも同然だったと、僕は思っている。

文学部の学生―女子学生(他者)の目の遍在
 
 クラス会から半年以上も経ってようやく、大学の授業が本来のキャンパスで本格的に始まり、それ以降の教養部に在籍時(通常は2年だが、僕らの場合は12月から翌々年の3月までの16カ月足らず)には、僕が所属する文学部以外の学部の学生たち、例えば文系では法学部や経済学部、さらには、保健体育などの特殊な科目では、理系の学部(工学部、理学部、基礎工学部、歯学部、薬学部、医学部)の学生も一緒に授業を受けることがあった。そしてそんな際に強く感じたことなのだが、文学部の男子学生はそれ以外の学部の学生たちと比べて、はるかに気まじめで誠実に見えた。
 そのことを特に痛感したのが、学年末の試験時だった。半年以上も遅れて学期が始まったせいで、翌年の4月までのたった5カ月で一年間の授業を一応は終えたことにして、上級学年に送り込むために慌ただしく行われた学年末試験なので、その多くはレポート形式でお茶を濁していた。ところが、保健体育の筆記試験などは、全学部の受講生を大教室に集めて一斉の筆記試験だった。その方がレポートよりも教師は採点が楽だから、そうなったのだろう。
 ともかくその際に、他学部の学生、もちろん圧倒的な多数派である男子学生たちは集団的に堂々とカンニングをしていたのに対し、僕が見た限りでは、文学部の学生は誰一人として、そんな大勢に与しなかった。
 試験監督をしているはずの教員も、その役目を放棄するばかりか、むしろカンニングを促していると思われかねない態度だったから、僕がカンニングの誘惑に負けずに済ませることができたのは、文学部の学生たちの糞真面目さのおかげだった。
 それはただの<やせ我慢>だったかもしれない。しかし、造反有理、権威の崩壊、権威と体制の打倒が叫ばれる中で、そんな理屈や運動に同調しているわけでもないのに、自分に都合のいいことでさえあれば、何だって悪乗りいて恥じない学生個々人及び集団が、まるで英雄気取りで不正かつ不快なことをする中にあって、文学部の学生たちの不器用さ、気真面目さが、すごく貴重なものに思われた。そして、そんな彼らに対する僕の好感度はとみに高まった。
 試験以外でも、文学部だけの授業と他学部の学生とが交じり合った授業の雰囲気は際立って異なった。複数学部の混合の授業では、私語なども含めて教室全体がなにかとざわついて落ち着かなかった。他学部の男子学生の中には、「文学部の<女子>狙い」といったことを、これ見よがしに広言する者もいた。そんな<ガサツで失礼>な学生たちと比べて、文学部の男子学生の控えめな、しかし、プライドのようなことも関係しそうな何かに、僕は共感し、それがやがては信頼感にもなっていった。
 それなのに、そんな文学部を含めた学生総体に対する、当初からの得体のしれない僕の距離感はその後も続いた。それは僕の頑なさも要因だったが、日本人学生の方でも、特に叛乱学生やそのシンパらしい学生たちは特に、在日の僕にどのように対処していいのか、とまどっていそうな気配もあって、双方ともに自然な付き合いができなかった。
 但し、政治色がなく、ノンポリを自認する学生の幾人かとは、互いに差しさわりがない気楽な付き合いが、少しはできるようになった。互いに相手の懐に一歩も踏み込まない黙契でも交わしたかのように、それなりの距離を保った関係だった。連絡を取り合って学外で遊ぶようなことは一度もなかった。酒を酌み交わすこともなかった。たまたま同じ学校の同じ学部の授業で居合わせたので互いが便利というだけの関係の、実に淡い付き合いだった。その結果、教養部から専門の文学部に上がり、専攻が異なるので授業でも合わなくなると、すっかり疎遠になった。就職に有利だからと、専門学部に上がる際に、法学部に転部した者もいたので、そんな学生とは、卒業後どころか、在学中にも顔を合わせることがなくなった。
他方の文学部の同期の学生も、卒業後に何らかの繋がりを維持した者は稀な例外を除いて殆んどいない。
 但し、同じ仏文専攻で、僕が大学の在日サークルで知り合った学生と、その学生とが同じ高校の出身者であることが分かったので、卒業後の正月に神戸で3人が落ち合って酒を飲む機会を持ったことはある。
 その他では、卒業後30年以上も経ってから、同期の同窓会の案内を受けた時には、何故かしら、すごく懐かしい気持ちになって参加した。あの懐かしさは一体、何だったのだろうか。懐かしいことなど何ひとつなかったはずなのに。文学部の同期生で電話番号を交換している者すらいなかった。
 そしてその同期会をきっかけにして、岸和田に住む同期生から「だんじり祭り」に招待されたので、特等席で練り回しなどの祭りの花を観覧してから、その同期生のお宅で酒食をご馳走してもらったことはある。それが僕の文学部の同期生との関係のほぼすべてである。

中学野球部伝統のマッチョ的心性の根深さと女子学生

 それはともかく、先にも少し触れたことだが、所属学部による男子学生の挙動の差異には、個々の学生の性格などが関係していただろうが、それに加えて、個々人が帰属していると自認している集団の性格も、多分に影響を与えていそうだった。
 大学を構成する二けたに及ぶ学部の中で、文学部(確かではないが、薬学部もそれに近かったかもしれない)に限っては、女子学生と男子学生がほぼ同数で、女子学生などほんの数えるほどしかいないその他の学部とは比較にならないほどに、女子学生の<眼ざし>と存在感を、男子学生が日常的に意識する傾向があったように思う。
 つまり、男子学生の挙動は女子学生という<他者の目>の遍在を前提にした結果、女子学生と男子学生で構成される文学部学生総体における、それなりに<バランス>がとれた常識のようなものが、学生個々や集団の少なくとも大学関連の時空での挙動に歯止めをかけていたように思える。男女の性役割の差異はそれなりにあっても、それが差別の領域に達することは、少なくとも文学部の学生間では相対的に少なかったのではなかろうか。
 他方、その他の学部では数的にも、そしてそれに伴う声の大きさや、男中心の古典的な常識のようなものが、大手を奮う雰囲気だったのではなかろうか。女子学生がいても、圧倒的に男子学生たちが内面化した社会的規範(男女の性役割に関する旧態依然の常識)に基づく集団的圧力によって、少数者である女子学生の存在、そしてその目や声はかき消されていた。僕から見て、そんな感じがしたというだけのことであることを忘れずに、このあたりは特に読んでいただきたい。
 多くの学部の学生(もちろん、男子学生の多く)においては、男性単一の視点、単一の常識という<いびつ>な規範が、誇らしげに大手を振り、その<いびつさ>を、女子も含む学生集団のアイデンティティに仕立て上げてしまったような気配があった。
 当時の僕でも漠然とながらも、その程度のことは感知していたように思う。ところが、そうした少しはまともな感触もしくは状況認識を、さらに掘り下げて自己省察する努力をした形跡は、少なくとも僕にはない。
 僕が身に着けていた生き方の中核には、男性中心主義がでんと居座り、その自覚がないからこそ、それを自ら強化しつつあることなんて、自認できるはずもなかった。そのようなマッチョ性の一部を嫌悪しながらも、それと同時に、それを自らが内面化していることに対する認識の甘さのせいで、むしろ、それに執着する傾向が強かった。
 僕は中学以来の野球部気質、或いは、その集団的体質、その一部に限っては嫌悪しながらも、その一方で自分の思考、感情、そして挙動の大きな問題点として、それが自分を支配していることに目を背けるばかりか、それをより強固にしていた。その結果として、男性中心主義の<いびつさ>を身上とするばかりか、それを他者に強制するような集団的習性も温存・強化した。
 大学入学以後、同胞集団の影響もあって<民族に目覚め>、植民地主義の残滓に対して批判的な民族運動に関わるようになったつもりだったが、自分も含めてその種の運動自体に深く根付いたマッチョ的心性に、むしろ依拠することで、植民地主義と同根の精神構造や心性を価値化して恥じなかった。
 <恥の共同体>とでも呼べそうな集団的思考や情動や行動のスタイルがある。恥ずかしい秘密を共有し、その後ろめたさをむしろ一体化、そして他者に対する一致協力した権力、暴力の源泉にする共同体のことである。
それは普段は潜在し、隠然としたものに留まるが、その一部でも露呈して批判にさらされそうになると、俄然、本質的な暴力性、攻撃性を発揮する。
 その最も端的な例が、強制的に犯罪的行為に加担することを余儀なくされた兵士たちのそれだろうが、政治的党派であれ犯罪集団であれ、或いは会社その他のごく一般的かつ日常的な集団であれ、その種の弊を全的に免れている集団など、世界のどこにもなさそうなほどに遍在する。僕から見てすごく仲が良さそうだった文学部の男女の学生間でさえも、お互いに姓を呼び捨てにしあう姿など、僕はお目にかかったことがない。
 基本は男子学生の方は親しい女子学生に姓の呼び捨て、他方、女子学生はその男子学生のことを某君と呼ぶのが普通だった。
 そのことを確認するだけで、僕が男女間の関係その他で高く評価していた文学部の学生たちでさえも、そして、すごく親しく同じグループに属して仲間と見えた男女の学生間にも、平等な関係など成立していなかったことが窺える。根は深い。(ある在日の青春の8に続く)


ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の6

2024-02-28 14:20:04 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の6

2節 (苦行に対する)助け舟としての同胞との接触
 
 いつまで続くか分からない自宅待機で宙ぶらりん状態、その無為の時間を当人は嫌々ながらに埋め尽くされることになった、コウバでの単純肉体軽労働。そんな毎日にうんざりしていた僕に、大学の<同胞学生>を名乗る人たちから、次々と電話がかかってきて、会うことになった。そしてそのうちに分かってきたことが次のような事柄だった
 僕が入学した大学には在日関連の学生サークルが3つあい、そのうちの「北」の立場に立つのが「朝鮮文化研究会」(朝文研)、チョウブンケン、チョムニョン)、次いで「南」の側に立つのが韓国歴史研究会(韓歴研、カンレキケン、ハニョギョン)、そしてその中間に位置するのが韓国文化研究会(韓文研、カンブンケン、ハンムニョン)と、三つ巴でしのぎを削っていたのは数年前までのことで、その真ん中に位置するサークルからは一度も連絡がなかった。既に開店休業状態らしい。
 因みに上の説明で用いた北の立場と南の立場の中の立場という言葉については、もう少し立ち入った説明が必須だろう。両者で必ずしも同じ意味ではなく、甚だ大きな意味の偏差がありそうだった。
 北の立場の方は、言葉通りに受け取って差し支えがない。北の国家的主張とその歴史的正統性を全面的に認めて、支持するのはもちろん、その指導に従って南北統一を実現しようとする立場であった。その意味では、そこに参加する人たち相互においても、個々の内部においても矛盾のようなものはあまりない。少なくとも、当人はそのように考えているか、或いは、そのふりをしているかのどちらかである。
 他方の南の立場の方は、朝鮮半島の南半部に建国された国家の歴史的正統性を必ずしも認めるわけでもないし、その主張を支持するわけでもなさそうな話だった。しかし、とりあえずはその体制内に身を置いて、その懐で南の立場にある諸組織、団体と連携し、いつの日か、国家体制を内部から変えていき、南北統一の条件をその内部から創り出そうというのが、その学生組織の理屈のようだった。したがって、南の立場を全面的に支持する諸組織や国家にとっては、まるで<獅子身中の虫>のような立場でもあった。要するに、南の立場とは、一枚岩とは程遠く、その内部の諸組織の相互間でも、それぞれの組織の構成員同士間でも、はてまた各人の内部においても、その矛盾や緊張をどのように考えるのかについて、実に幅広く多様な考えがあり、一言で言えば、バラバラだった。
 表向きは南の体制内でそれなりに従順を装いながらも、心の中は全くそうではない人も少なからず、とりわけ、青年、学生の団体は、そうした面従腹背の代表的な存在だった。このあたりは、説明が相当に難しいので、ここではこれ以上立ち入らないが、そのあたりのことを少しは念頭において、これ以降の記述をご理解いただければ幸いです。
 さて、大学内の民族サークルの話だった。先にも触れたように、名前としては3つのサークルがあったのだが、実際には、左右(北と南)の二つの学内サークルと、その延長上の二つの学外組織(在日韓国学生同盟と在日朝鮮人留学生同盟)の学生もしくは元学生が、我が家に次々と電話してきて、僕の前に姿を現すようになったのである。
 因みに、<次々と電話>などの言い方は、誇張と思われるかもしれないが、当事者だった僕にすれば、そうでもなかった。大学内の同じサークルに属する複数の人たちから、さらには同じ人物から何度も連絡が入いることもあった。連絡を受けて会ってからも、間を置かず、またしても連絡が来て、またしても会いに行くことも多くあった。
 見知らない人たちからの立て続けの電話など、それまでに経験したことがなかった僕としては、期待と恐れなど両面的な緊張を強いられ、実際以上に頻繁に電話がかかってきたという印象を持ったのだろう。
 当時は、今ほど電話が頻繁に用いられていなかった。電話によるセールスその他のいわゆる迷惑電話などは、まだそれほどにはなかった時代で、着信音が鳴っても、警戒して受話器を取らないなんてことは考えられなかった。それに高校生同士が気軽に電話をかけあうなんてことも、それほど一般的なことではなかった。中高生くらいなら、電話は少し改まった交信道具の感じだった。少なくとも僕はそうだったので、友人間で何の用もないのに長電話など、一度も経験がない。
だから、大学合格後に頻繁に電話がかかってきて、アポイントを求められるたびに、「怖さ」のような感じもあったし、それと同時に、大人になった晴れがましさのような感じもあったし、両方が絡み合っての「怖いもの見たさ」の心理も働く。それに相手は、大学の上級生だから、大学生活の情報に飢えていた当時の僕としては、その後の4年間に関する情報源になるといった期待もあった。さらには、<同胞>などといった自分とは無縁と思いこんでいた言葉が、俄然、身近にある現実的で重みのあるものとして感じられるようにもなってきた。
 <同胞(トンポ)>は聞き慣れない言葉ではなかった。幼い頃から僕の家庭やその周辺、つまり在日の地域社会では、大人たちが日常的に使っていたからである。時には<トンポ>、時には、<どうほう>と発音と別の発音、つまり民族語と日本語が併用されていたが、どちらにしても深い気持ちが込められていた。そんなことが、僕ら子どもにでも分かった。
ところが、僕のように二世で、日本の学校教育の枠内で成長していた者にとっては、その言葉に対する感じ方は相当に微妙だった。敢えて言えば、一世や、二世でも民族組織の活動家とその周辺の人々とは正反対だった。その言葉にむしろ疎外されているような、だからこそ押しつけがましく、抵抗感があった。
 したがって、同胞だから親近感を抱くよりは、むしろ警戒心が生じ、おのずと距離を置くように努める。但し、そうした心理や挙動が、実は特別な関心の証拠でもあるといった見方もできるかもしれない。
 ともかく、愛憎とまでは言えなくとも、それを少し薄めた二律背反の情動が蠢く。心の中でそれとなく魅かれるベクトルと距離を置こうとするベクトルとが拮抗し、場合に応じて、どちらかが他方を凌ぐ。そんな綱引きが始まり、その緊張で疲れるので、綱引きを避けるためにも、端から距離を置く。そのような心理機制が成長するにつれて強くなる。
 そんな二世の一人である僕などは、地域社会では殆んど「ばれている」のに、自分自身としては、在日であることを隠して日本社会に埋もれて生きているつもりだった。その結果、同じ在日だからという理由で親しく付き合うはずなどなかった。むしろ互いに素知らぬ振りを決め込んで、よそよそしい間柄に留まるように努めた
 以上が、少なくとも高校卒業までに、<同胞>という言葉に対する僕の反応の基本スタイルだった。
 ところが、大学入学を契機として、それまでとは少し異なるベクトルの模索が始まった。大学に入る目的の中には、そうした<同胞>との関係の改変への期待が萌芽状態ながらも含まれていた。自分が抱えている民族的コンプレックスを強く自覚していたからこそ、せめて大学生のうちに、その圧迫・束縛から解放されるかもしれないといったかすかな希望。そこにこそ、僕の人生で最後の猶予期間としての大学生活の意味があった。
 そんなわけだから、同胞の先輩学生からの誘いは、面倒に思えることが時にはあったとしても、実はそれを待ち受けているというのが本音に近く、よほどの不都合でもなければ、面談の誘いを断ることはなかった。ましてや、通話を拒否したのは一度もなかった。
 そんな誘いも回を重ねて慣れるにつれて、自分に値打ちをつけようとしてか、「しぶしぶ」を装うこともあったし、民族云々の執拗な押し付け、例えば、僕の逡巡や迷いを無視した強引な誘いには、反発が強まることもあった。しかし、それよりはやはり、何かを求める気持ちの方が勝って、約束の場所にいそいそと出かけるのが常だった。
 他方、僕が大学生活で日常的に接することになるはずの人たち、つまり文学部の学生たち、さらには、大学総体の日本人の学生たちとの関係にはまったく進展がなかった。そもそも、接点がなく、自分が文学部の学生といった認識、それどころか、その大学の学生という自覚を育くむ機会にも恵まれず、その手立てを自分から探し出す努力もしなかった。
 入試以降の10カ月に及ぶ自宅待機生活は、その他の様々な事情や経験とも絡んで、僕の大学生活そのものにおける没主体性や受動性を決定づけた。その後の僕の大学生活は、待機期間にすっかり癖がついてしまった<同胞>学生との関係が継続して中心となったままで、その後もそれがすべてといった歪なことになったのである。(ある在日の青春の7に続く)


ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の5

2024-02-27 15:56:51 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の5

第二章 長い長い宙ぶらりん生活 

1節 大学に入学したつもりが、町工場の見習い
2節 同胞を名乗る上級生たちの襲来
3節 大学との接触のしくじり

1節 大学に入学したつもりが、町工場の見習い 
 僕は1969年3月に大学入試に合格したものの、折からの<大学紛争>のあおりをくらって、授業のめどが立たないどころか、大学構内に入ることすら許されない状態が長く続いた。
 ところで、僕が<大学紛争>という用語を用いていることに留意していただきたい。僕には<大学闘争>という言葉が備えていそうな、主体的意識・感覚は、自宅待機の時期はもちろん、そしてその後も、殆んどもったことがないし、持つ資格もない。授業が始まり、学生運動シンパの同級生などと少しは触れ合ううちに、多少のシンパシーを持つようにはなったが、それはあくまで、以前と比べればといった相対的な変化に過ぎなかった。
 それ以前、特に自宅待機の頃には、<紛争>が一刻も早く解決・処理されて欲しいと願うばかりだった。要するに、当事者意識などはなく、むしろ被害者意識で凝り固まり、内心では叛乱学生に敵対していたし、クラス討論などの機会があれば、それが噴出した。ところが、そうした形で自分の気持ちを表明したり、文革に<かぶれてしまった教員>(当人の自己紹介)の、準備してきた原稿を読み上げて、それを書き取るように求めるなんとも古風な授業で、自らの厳しい自己変革の過程についての話なども聞くうちに、そんな<右翼反動>そのものの姿勢や考え方にも少しは変化が生じないわけがなかった。
 それはさておいて、時間を少し戻してみると、大学に合格して以来の自宅待機の時期に話を戻すと、自宅待機は予め期間が定まっていたわけではなく、早期解決の希望的観測が何度も裏切られたあげくに12月初旬まで続いた。僕らは入学が決まって以来、8カ月に及ぶ宙ぶらりん生活を強いられたわけである。その間には、取り壊しが予定されていた都心に位置する旧工学部校舎で、授業もどきの試みもあったが、教員たちが<心ここにあらず>で浮足立っており、学生が授業に打ち込む気持ちになるはずもなく、たった二週間で打ち切りとなった。
 そもそも、入学試験も入学式も、大学キャンパスとは別の場所を借りて行われたし、その後も永らく大学構内への立ち入りが禁止もしくは制限されていたせいで、入学したはずの大学や学生への愛着など育つはずもなく、中途半端な気持ちで、時間と体を持て余さざるをえなかった。しかも、僕の場合は、気持ちはともかく、暇と体を持て余せる境遇ではなかった。
 僕はまだ小学校の3,4年生の頃から、我が家のコウバにとって有用な労働力だった。繁忙期はもちろん、納品した製品が不良品として大量に返品されてきたりでもすると、それを選別して再納品を急がねばならず、臨時で多くの人手が必要となる。そんな場合に、人件費が不要なうえに、コウバの都合次第で動員可能な下働き要員として格好なのが、経営者の家族にほかならず、僕もその一人だった。
 それもあって、僕は学校の春夏の長期休暇が特に怖かった。但し、クラブ活動も学校行事の一環であり、自分たちには行きたくても行けなかった学校だからか、学校を非常に有難がる僕の両親は、学校を口実にすれば、コウバの仕事を強いることはなく鷹揚だった。だから、<野球部の練習や試合>はコウバの仕事からの逃避の格好の口実になっていた。
 ところが、大学に合格しても学校に足を踏み入れることさえできない僕の状況は、コウバにとってなんとも便利なもので、僕はそれまで以上に便利な労働力として、当然のこととして毎日駆り出され、僕がそれを拒否することなどできるはずもなかった。
 兄弟の中でも僕はとりわけ、幼い頃から最も頻繁にコウバに駆り出されてきた。そんな<僻み>が僕にはあった。例えば、コウバの仕事以外でも、父は兄に対するよりもはるかに僕に厳しかった。僕には朝寝など断じて許さず、声を張り上げた。しかし、兄にはそんなことなど決してなかった。僕の記憶、もしくは心象としてはそうなのである。お金にあまり関心のなさそうな兄よりも、小金に執着する僕の方が零細町工場の跡継ぎに相応しいとでも考えて、厳しく鍛えあげようとしていたのかもしれない。
 ともかく、そんな事情もあって、いつ終わるか定かでない長期の自宅待機を強いられた僕は、コウバの都合に支配され、その隙間を窺いながら、在日の大学新入生に特有の経験を重ねることになる。在日的民族主義の洗礼を受けて、それとの対応に苦慮するのである。
 そして、その後は民族主義の洗礼をどのようにして受け止めるか、それが僕にとっての学生生活のみならず僕の人生における大問題となる。それだけに、新入生の僕にとって最も肝心な大学生活、とりわけ、そこで毎日を一緒に過ごす学生や教員たちとの接触・交流をないがしろにすることになった。僕は大学生活に馴染む以前に、コウバの仕事とそれからの逃避も兼ねての民族主義との対応が、僕の大学生活の主軸になった。

 僕らの年度の新入生えも、僕なんかとはまったく異なって、変則的で曖昧模糊とした自宅待機の状況に主体的に対応し、その後の準備を着々と進めていた新入生も少なからずいた。そんなことも、僕はずっと後になって気づく始末で、当時はそんなことなどまったく知らなかったし、想像もしていなかった。
 造反学生である上級生たちのイニシアチブ、或いはまた、新入生グループからの要望なども受けて、大学院生や若手の研究員や教員たちによる自主講座が盛んになされていたらしい。大学論、状況論、未解放部落や在日に対する差別問題、その他ではフランス語、ドイツ語、中国語など外国語の手ほどきまで着実な勉強と人間関係の構築が進み、その延長上で大学闘争もしくは大学卒業後に様々な分野の研究者志望者になる新入生も育っていたらしい。
 ところが、そんな情報ネットワークから外れているせいで、学校情報に疎い新入生もたくさんおり、その中には、入学はしたものの殆んど一年近くも放置されたせいで、大学との接点を持てないままに、大学が正常化への道を高速で走りだしても、それまでの惰性で大学に姿を現さないままに消えてしまう新入生もいた。
 その他、東大入試がなかったために、当座の策として僕らの大学に入ったものの、その待機期間という名の空白期を利用して、翌年には本来の志望大学の受験を目指して勉強に励み、希望を叶えた学生もいた。或いは、大学院進学に際して、更にはもっと後に教員として、当初からの憧れだった大学所属になるといった形で、大学入試で叶えられなかった夢を随分と遅ればせに叶えた者もいる。
 僕は自分が合格した大学に馴染めなかった新入生の一人にほかならなかった。姿を消すには至らなかったが、大学に愛着を持ち、そこに自分の居場所を見出すことなどできなかった。それでも、その後の数年間に亘って、なんとなく学生として過ごし、そのあげくには、そんなつもりなどすっかり失ってしまっていたのに、思わぬ人々の勧めやアドバイスや協力などもあって、卒業に漕ぎつけるという、それこそ中途半端のパレードのような学生に終始することになった。
 しかし、その一方では、母の合格プレゼントとしての扁桃腺の手術を終えて、コウバの仕事に復帰してしばらくすると、大学の先輩<同胞>と名乗る人たちが、続々と電話で僕との面談の約束を求めたり、前触れもなく我が家にやって来たりするようになり、その対応に大わらわとなった。
 それは一義的には、学内の<民族サークル>への勧誘であり、その一環として<民族的生き方>についての熱い説法を僕に浴びせかけた。両親は大学関連の用事を口実にすれば、よほどの不都合さえなければ、コウバの仕事から抜けることを許してくれたので、それを勿怪の幸いに、コウバの仕事から抜け出すチャンスとして、僕はそんな電話や来訪を、腰を引きながらも心待ちにするようになった。
 しかも、最初は受け身一方だったが、やがては押したり引いたりの攻防に励むことが、僕に許される唯一の精神活動のようになった。
 連日の長時間の単純労働にうんざりした僕なのに、様々な在日グループからの「求愛」を受けて、苦行としてのコウバの時間とそうした熱烈な求愛を受けている時間との甚だしい落差に困惑しながらも、新しい世界が僕の前に開けてくるかのような期待感も募り、コウバで機械の前で機械に操られている間も、その世界が僕に開示する情報や刺激が僕の頭を占めるようになる。

 そこで、以下では僕の当時の形而上の問題と見事なまでに好対照ながら、常にそれにつきまとっていた形而下のコウバでの苦行について話すことにする。
 そのコウバについては、拙著『ある在日家族の精神史』その他、この三部作の第一部でも相当に詳しく記述しているのだが、当時の僕の民族主義との出会いの環境を少しでもよく理解していただくためにも、敢えて重複を厭うことなく、詳細に記述しておきたいのである。

 我が家の家業は合成樹脂加工(プラスチック)製品加工の零細下請け・孫請け町工場(家内コウバ)だった。その業種も時代によって設備や作業内容、さらには人員などが大きく変化するが、本文では1960年代以降の技術革新によるインジェクション(射出成型の自動機械)の時代に焦点をあてて記述する。それは僕の小学校高学年以降に相当する。

 当時の我が家のコウバでは、父と数人の職人、そしてその下働きとして母、そして当時でも既に相当の高齢だった母の叔母(僕の母方の祖母の末妹)、そして時には近隣のおばさんや我が家の子どもたちが、狭くて日当たりが悪く、化学薬品の粉塵と臭気の中で働いていた。
 職人という呼称は、それよりもずっと以前の、熟練を要する上に相当に激しい肉体労働が必須の出来高払いなので、各人が少しでもよい稼ぎを目指して懸命に励まざるを得なかった時代のものである。そんな労働に対する尊称であり、当人からすればプライドも込められた呼称だった。
 ところが、僕が大学に入った頃には、機械化が飛躍的に進んだ自動射出成型機が主流となって、熟練などまったく不要な単純軽労働に変わった。そして、それにふさわしく安価な時間給となり、個々がよりよく稼ぐために励むこと自体が殆んど無駄で、ひたすら機械に奉仕する(或いは機械の奴隷)だけの職種に変化していた。
 それなのに、かつてのプライドが込められた呼称が踏襲されていたのは、働くにはそれなりの自負も必要だからと、従来と同じ呼称が永らく使い続けられたのだろう。なるほど、機械一台を相手にするので、まるでその機械を操る主人だから職人というわけで、その他は下働きということで、それなりに建前上の格差が生じて、少しは対面も保つことができた。

 僕の父などは、<親方>に成りあがってからも、職人が食事している間などは、穴埋めとして機械を相手にすることも多かったが、その際には、少しでも機械の回転を速めて経済効率をあげる努力を怠らなかったが、それは単に経済的利益だけの為ではなくて、父なりの職人としてのプライドといった気配があった。だからその倅として、そんな父に対する尊敬も込めて、ここでもその職人という呼称を踏襲する。それに従業員という総称では、業務内容の区別が表現できない。
 この業種のコウバは一般に、高価な機械をメーカーから購入する際に2年(24回)ないしは3年(36回)の手形いよって一括で支払い、その間には毎月その金額を銀行口座に入れて償却し続けることが必須だったので、注文の請負単価の高低をほとんど無視しても、注文を取ってひたすら機械を稼働させ続けねばならない。したがって、昼夜の12時間2交代制で、機械を一瞬も寝かすことなく、終日の稼働が一般的で常識だった。
 我が家のコウバももちろん、当初はそうだった。しかし、やがては近隣住民の騒音に関する苦情や抗議や操業妨害などもあって、防音壁の建築に加えて、朝の8時から夜の10時までの14時間に稼働時間を限定することで、辛うじて妥協が成立した。その後は、その14時間に限って、5台の機械が稼働するようになった。
 その場合、一台の機械を一日中、一人の職人が担当するのは、いくら何でも長時間過ぎるので、定時(8時から6時まで)に限って一人の職人が、そして残りの4時間(6時から10時まで)はアルバイトか経営者の家族などが担当する。
その場合、機械は14時間ぶっ続けに稼働するが、職人には昼食と夕食時にそれぞれ45分間の休憩があり、その休憩時間も含めて14時間の長時間労働だった。
 但し、誰もがそれほどきつく、そのわりには封入が少ない仕事に就こうとするはずがない。高齢や病弱その他で、体力的にきつい肉体労働は無理で、低賃金の軽労働を補うために長時間労働も辞さない人たち、或いは、そのほかに特殊な事情、例えば、密航者など就業条件の選択の余地がないような人が、主に我が家のコウバには従事していた。それでも14時間はやはり無理といった場合には、事情に応じて労働時間を調整した。定時は朝の8時から夕刻6時まで、その後の超過労働は残業扱いであり、その手当てはもちろん給料に上乗せされた。
 機械をいったん止めると、再稼働するには機械本体とそれに設置する金型を十分に温めるために、1時間ほどの時間を要する。しかも、労働効率、言い換えると経済効率のためには、終日にわたって機械を止めないことが望ましい。そこで、職人が昼休みや夕食休みで機械から離れる間は、我が家の家族その他、パートの従業員が機械の<お守り>をしなくてはならなかった。そのためにスタッフの細かで臨機応変の調整が必要で、同じコウバに働いていても、昼食や夕食時に、談笑しながら食事を楽しむなんてことも殆んどあり得なかった。
 父は深酒で朝帰りしても、朝7時までには、ひとりで工場に入って、機械の稼働の準備をする。つまり、各機械の電源をオンにして機械本体を温めると同時に、それら機械のそれぞれに設置してある金型を温めるために、点火したガスバーナーの火を金型に当てて固定するなどの作業などを済ませ、8時前後に各機械の担当の職人が出勤すると、バトンタッチして、自分は下請けや孫請け仕事の発注を受けた得意先に、最初は大型自転車、次いではバイク、更には小型トラックや四輪乗用車で納品などに向かう。そして帰ってくると、いったん帰宅して朝食、二日酔い覚ましに、生の牛肉やアジや烏賊を具にして、唐辛子と酢を利かせた冷製スープを母に造ってもらって、それを向かい酒としてのビールなどと一緒に一気に飲み食いして、大量の汗と共に体からアルコールを追い出す。そして吹き出で汗でべとべとになった下着を着替え体をしっかり拭ってから、布団にもぐりこんで1,2時間程度の仮眠をとる。そして、少し元気を回復してから、改めてコウバに向かう。
母は朝の片付けや洗濯などの家事を終えると直ちに工場に向かい、コウバ内の整理整頓や、誰もが嫌がって素知らぬふりを決め込みがちな雑多な仕事に、まるで意地になったように取り組む。そして、子供の僕らもまた、小学生の頃から様々な下働きに駆り出されたのだが、それは概ね次のような作業だった。
 初歩段階としては、納品する製品の数量の確認であり、100まで数字を数えることさえできれば、誰でも可能な作業である。次いでは、得意先からの返品の山から、ほんの一部に過ぎない不良品をより分けて、それ以外は改めて納品するための選別作業である。不良品と言っても、その多くは機能的問題などなく、製造過程で埃やごみなどが原料に紛れ込んだせいで、完成品にもその埃やごみがかすかに付着して見えたりと、外見だけが問題になる場合が圧倒的多数である。目に見えるか見えないか判断に困るほどの軽微なゴミや埃を見つけ出す作業なので、相当な視力と注意力が必要である。そうした不良状態があることを前提にして検査してやっと気づく程度のものに過ぎないからである。高齢者では難しく、子どもに打ってつけである。
 不況になると、不良品検査が格段と厳しくなって、返品が増える。元受け会社はそうした形で生産調整も兼ねるわけである。製品を返品された下請け側は、その検査と再納品に大変な神経と労力を払う割には、実際の儲けは殆んどならないので、砂を噛むように味気なく、まさに苦行である。
 さらにその上位レベルの作業が、ボール盤(金属や樹脂、木材などの素材に 穴をあけたり、掘り広げたりするための工作機械で、本体には、回転するチャックにドリルやリーマ、ホールカッターなどの切削工具を装着して上下させる機能と、テーブルやクランプなどの加工物を固定するための機能がある)によるプラスチック製品の穴あけ作業なのだが、それについては後に詳しく触れることにする。
 この種のコウバで一般に、<男の一人前>の仕事と見なされるのは、機械に張り付いた職人が担当する仕事なのだが、その職人の中でも、機械に設置する金型(製品ごとに特注で造られる)の交換までできる職人はごく限られ、我が家のコウバでは父とその右腕で、実際には父以上にその種の知識と技能を持った親戚(母の随分と歳下の従弟)で、僕らがSサンチュンとかS兄ちゃんと呼んでいた人だけだった。
 我が家のコウバは古長屋の先ずは1軒、ついで隣のもう1軒と最終的には2軒分を先ずは賃貸、そして後には買い取って(但し、土地は借地で今なおその権利関係をめぐってすこぶる複雑なままでその処理に難渋している)内部の造作をすっかり取り払って土間にしたうえで、長さが約5メートル、高さが約1、5メートル、幅が約1メートルの機械を5台も所狭しと設置してある。機械はほぼ自動で、そこに各製品のためにそれぞれ注文して造られた大小の金型をレールチェーンなどを使って取り付け、その金型に機械本体から固形原料を熱で溶かして流し込んで製品ができる。したがって機械自体が常に高熱を発し、職人もしくはその穴埋め役は、その熱を体全体にまともに受ける。
 その熱だけでコウバ内は冬場でも寒さをしのげるほどで、逆に冬以外はコウバ内は常に高温で、特に夏場などは大変な高温となる。しかも、天井をすっかり取りはらてあるので屋根裏がそのままに露出しており、外気の暑さがそのまま屋内に浸透する。狭い空間内には不良品を粉砕して新しい原料と混ぜた再生原料のせいで目に見えない粉塵が舞うなど、空気もいたって悪い。
 少しでも原料費を浮かそうとして、母が少しでも暇ができると、その誰もが嫌がる作業に没頭する。不良品を断裁機にかけて、ひどい騒音と粉塵をまき散らしながら、再生原料を造りだす。その結果、母の顔は原料の赤や黒や褐色で染まっている。そんなコウバ内に居続けると、汗腺に原料の粉末がしみついて詰まってくるからか、汗も出てこなくなる。母はそのせいで心臓がすっかり硬化して、手の施しようがない職業病で苦しんでいた。誰もが扇風機が送って来る生温かい風を受けながら、頭に浮かぶのは、そこから逃げだすという見果てぬ夢くらいのもので、それ以外は、思考停止が必須である。 
 ところが、そんな環境でも密航者は、貴重な日本語の勉強の時間として有効に使う。ラジオから流れて来る日本語をひたすら反復するといった誠に実践的な会話練習の時間で、教室で教科書や辞書を通して学ぶよりも、はるかに自然で流暢な日本語を話せるようになる。語学の会話の独習には、非常に有効な方法であり、それに熱中していると長時間労働も少しは耐えられる。
 但し、この種の記述をあまり単純に受け取られると、誤解が生じかねない。とても過ア国だからと、同情さえも買いかねない。
 機械の前でずっと座ったまま、腕だけの単調作業では時間がますます長く感じられるので、気分転換のために座ったり立ったり、屈伸運動なども時には織り込みながら、規則的に安全装置のドアを開き、機械が自動的に製造する製品を金型から取り出し、改めてその安全ドアを閉めると、機械が自動的に同じ工程を再開するといった単純作業の、ふたすらな反復で誰にでもできそうである。
 製品によっては、出来上がったばかりの時点で、ハサミなどを用いて少しだけ手を加えたり、製品を取り出すたびに金型の内部に小さな金具を設置して、出来上がった製品に内蔵されるよういするなどの細かな作業もあるが、それもさほど難しいものではなく、全体として単純で単調な軽作業であることに変わりはなかった。
 終日、ラジオがかかっているが、それを意識するのは日本語の学習が必須な密航者くらいであり、僕などは時折、そこから流れて来る流行歌を口ずさんだりはしたが、不思議なほどに曲も歌詞も覚えられなかった。よほどに音痴だからだろう。機械の前にいる限り、あんとも単調な時間が、僕の気持ちとは正反対に、なかなか進んでくれないので、時間がおそろしく緩慢に流れる。
 後にアルベールカミュの文章の中で、生きている時間を最も長く使う方法あ、歯の治療のために歯科医院の待合室で待つことであるという一節に遭遇した際には、我が家のコウバでインジェクション(機械の名前)の仕事をするのと同じじゃないかと、苦笑いしたこともある。
 ところが、僕は何と言っても「コウバの大将の跡取り候補」の大学生なので、さすがに特別扱いである。職人さんたちのように14時間に亘る長時間労働は基本的に免れて、せいぜい10時間くらいでお役御免と解放された。そしてそのことを僕も、そして周りの人たちも特別なこととは思っていないように、当時の僕は思いこんでいた。しかし、本当にそうだっただろうか。少しでも常識があれば、そんな調子のいい思いこみはできなかったはずである。僕はまさに、コウバの主人の能天気な息子であり、暇を持て余して不満を膨らませる大学生という特権的な存在だった。
 僕はやがては納品その他の外回りの仕事もできるようにと、車の免許を取るために自動車学校にも通い、その時間は仕事を免れるので、喜びながら跡継ぎ候補の資格を揃えていった。
 但し、金型交換という機械と金型に関する十分な知識と技術と腕力が必須の作業は、教えられもしなかった。父が僕にはそんなことをする資格などまだないと見なされていたのだろうか。或いは、僕にはまだ危険だからと心配してのことだったのかもしれない。要するに、半人前扱いだったわけである。
 それにまた、コウバでの缶詰状態にも、先に触れた自動車学校通いのように、息継ぎの余裕を与えられていた。それに何と言っても現役の大学生という<結構な身分>え、両親ともに僕が学校の用事を口実にすると、あっさりと、時にはまるで喜んでいるかのように、コウバから解放してくれた。
 その度に、いくら行きたくても学校に通えなかった両親の世代の在日にとって、学校というものがどれほどに格別な意味を持っているのかを痛感するだけでなく、そうした悲しく悔しい事情があったからこそ、僕が享受できる特別待遇に感謝もした。しかし、そのことで両親の気持ちに本気で思いをはせるようなことなどするはずもなく、ひたすらその特権を享受して喜んでいた。
 因みに、僕がビールの味を本当に分かるようになった気がしたのは、その宙ぶらりんの自宅待機期間の、コウバから解放されてからの自宅への帰路の立ち飲み屋でのことだった。
 常に蒸し暑く息苦しいコウバから解放されると、その足で僕が向かうのは、コウバから自宅への帰路にある酒屋の立ち飲みカウンターだった。暖簾をくぐってカウンターの前に陣取ると、すぐさま生ビールの大ジョッキを注文する。そして、いかにも柔らかそうなフォームが分厚く蓋のようになった大ジョッキが目の前に置かれると、すぐさま口元でたっぷりとした泡の感触を楽しみながら、ジョッキのビールを一気に飲みこむ。口がしびれそうになるほど冷たく苦い液体が喉元を通り過ぎ、アルコールが全身にしみわたる陶酔感で、もう一歩も動きたくなくなる。体内にビールが入ってきているのに、僕の感覚では、むしろビールの中に全身を浸している。そんな錯覚に陥るほどだった。注文した枝豆を齧りながら、まさに幸福感に浸る。それからようやく、まだ残っているビールを、今度はじっくり味わうために、意識的にゆっくり少しずつ飲み干す。
 しかし、だからと言って、その幸福感をもたらすのに一役買ったコウバの労働に対して、僕が大きな価値を見出すなんてことはなかった。至福の時間はそれとして、コウバの苦行からの解放を求める気持ちは、それとは比較にならないほど切実だった。そして、その願望が叶えられるには、大学の授業が始まらなくてはならず、その見込みが何度も先送りされるので、やがては永遠にそれが続きそうに思えてくるのだった。
 そんな僕のところに、僕が合格した大学の「同胞」を名乗る上級生から、次々に電話がかかってきた。そして時には、何の前触れもなく、いきなり夕食後の時間帯に我が家に訪ねてくることもあった。そしてその同胞学生たちは、僕に<同胞>の意味、<同胞学生として何をすべきか>を熱心に説くと共に、既にコウバの苦行のせいもあって習い覚え始めていた酒の味を、僕に叩き込んだ。僕は酒と民族主義的高揚という<二重の酔いと、それに伴う苦い快楽>を糧に、コウバでの夢のない労働に耐えていた。 
 大学の待機期間に僕が置かれていた状況は、日本の友人たちから見ればレアケースだっただろうから、そんな状況に僕が置かれていることを彼らが知ったら、同情を買ったかもしれない。ところが、在日、それも大阪の在日の大学生の場合は、職種は少し異なってはいても、僕とよく似た境遇の学生がごろごろと転がっていた。同胞学生集団との付き合いが深まるにつれて、僕は在日にあっては自分は決してレアケースでないことを痛感するようになった。そして、同病相哀れむような気持ちも相当に絡んだ同胞感情、その快さを経験するうちに、ついにはそれに浸るようになった。
 つまり、在日的民族主義の理屈よりも、家庭環境その他の与件とそれに伴う経験と心情の類似性の発見の方が、僕が在日の学内サークルや学外組織の活動にのめりこんでいく契機となった。逆に言えば、そんな一体感を共有できそうにない在日に対しては、同胞感情などは全く育たず、スローガンの共通性や習い覚えた論理などは、相互を結びつける絆として機能することはなかった。しかし、境遇の共通性を実感すると、その種の論理はおのずと光り輝いてくるといった按配だった。その程度の薄っぺらな絆でも、全人的共感のように僕に錯覚させたのは、青春期特有なのかどうか、広い意味での<酔い>だった。
 新入生歓迎会はもちろん、その他、あらゆるイベントを口実にしての<ただ酒>をしこたま飲んでは酔いつぶれることを繰り返すうちに、酒の酔いの楽しさと苦しさから離れられなくなった。そして、それがその後の僕の人生そのものになる。
 その<酔い>はもちろん、酒に限られたものではなく、人との関係や心情、そして理論がもたらす<酔い>でもあった。
 酒に酔うことのうれしさと辛さ、それと民族的覚醒という通過儀礼の苦みと高揚感と解放感、さらには機械に支配されながらの現代的奴隷労働である長時間労働の希望のなさ(徒労感)、そうしたものの絡み合いが、大学入試以降の僕の宙ぶらりん生活におけるもっとも重要な経験となった。(ある在日の青春の6に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の4

2024-02-25 17:13:11 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の4

第一章第3節 家における<次男>の大学受験の位置 
家庭事情
受験会場と合格発表会場
母の合格祝いプロジェクト

家庭事情
 我が家では僕の大学入試のことなど、まったく気にしていそうになかった。ひょっとしたら、気にかけながらも、顔や言葉に出さないように気を遣っていたのかもしれない。或いは、僕のことだから、自分でなんとかやるだろうと、親は安心していたのかもしれない。しかし、その他にもいろんな心配事があり、それと比べれば次男坊の大学受験など、小さな心配ごとの一つに過ぎなかったのではないか。或いは、心配を隠すのにその種の心配を活用している側面も、両親にはあったという言い方もできるだろう。両親ともにそんな性格だった。ともかく、他の心配事とは何かといえば、祖先祭祀である。
 朝鮮人一般が非常に重要視する伝統的な儒教的祭祀が、我が家では国公立大学一期校の入試時期にあたっており、僕の入試の年にはその初日の前日の真夜中に、厳粛な祖父母の意忌日の儀式が行われた。祖父の命日に合わせて、祖母のそれも同時に行っていたわけである。 
 僕ら子供が一度も会ったことがないまま亡くなった祖父の祭祀は、父の長兄が故郷の済州で執り行っていたので、三男えある父が異郷の日本で別途に行う必要などないどころか、そんな資格もなかったはずなのに、若くして両親と別れて以来、一度も故郷に帰って両親と再会する機会がなかった父にとって、それはすごく大事な儀式だった。
 そしてその間に、父の母(僕らの祖母)は4・3時にパルチザンに竹槍で無残に殺されたが、その当時は、日韓の往来などまったく無理だったし、父も生活に追われて、祖母の死に目に会えなかったことも、致し方ないと観念していたのだろう。
 ところが、済州社会も少しは落ち着いてからの、祖父(実父)の死に目を看取ることができなかったことが、父には悔しかったらしく、済州の長兄に頼み込んだあげくに、済州での祭祀に合わせて日本でもそれを行う許しを得た。そして親戚縁者や同郷の知人なども沢山集まり、賑やかに儀式を執り行うようになった。したがって、その祭祀は両親にとって、5人もいる子どものうちの一人、それも次男ごときの大学受験とは比較にならないほど重要なものだった。
 そんな<生憎そうな>事情も、受験生である僕の精神的負担を軽減し、入試合格の一役を買ってくれたような気がする。
 翌日に試験を控えた僕でさえも、夜中になってやっと始まる拝礼の儀式に参加して、それが無事に終わるまでは、夕食も部屋の片隅で供え物の残りものなどで掻き込まねばならなかったので、さすがに僕としては、亡き祖父や両親を少しは恨みに思いもした。しかし、実はそのおかげで、受験前夜の緊張も紛れ、翌日の試験に好影響をもたらしたのかもしれないのである。
 その他にも、本来はマイナスになりそうなことが、僕の受験に関しては幸いしたと思ええそうなことがいろいろとあった。入試会場がその一つだった。 

入試会場と合格発表会場
 僕が受験した大学の文学部の入試会場は、晴れて合格の暁に通うことになる大学キャンパスではなかった。大学キャンパスはロックアウト状態になっていたので、全く別の場所の小さな私立女子大学の校舎を試験場として借りて入試が実施された。したがって、その前日に会場見学に訪れた際には、肩透かしを食らった気分だった。そして、そそくさと帰宅すると、祭祀の準備で家の中は手伝いのおばさんたちや客たちで、何かと慌ただしく、自分の居場所もないほどで、寛げないままに待ちに待った真夜中になって、ようやく儀式が始まり全員の拝礼が終わってから、全員でお供えを共に食べ終わるまで、試験に備えて緊張するはずもなかった。
 文学部の定員は一学年で80名、受験者は400名前後と、大学入試としては随分と小規模なものだった。したがって小さな大学の校舎の一部だけで十分どころか、受験生がポツンポツンとまばらに見える程度で、なんとも寒々とした雰囲気だった。
 しかも、先にも触れたように、数学以外ではどの科目の試験問題も手に負えそうにないものなど殆どなかった。試験に解答を書き込みながら、その程度の試験問題なら、たとえ一年浪人して、改めて受験勉強に勤しんでも、今より良い点数などとれそうには思えなかった。逆に言えば、現役でも十分に対応できるレベルに思えたから、そお程度の試験に落ちでもしたら、この先の一年はまったくの無駄な努力になりかねず、馬鹿げていると思った。だから、よもやそんなことにはなるまいと、ずいぶんと気楽に問題に取り組めた。
 したがって、数学以外は制限時間の半分くらいで解答をほぼ書き終えて、残った時間は時間を持て余しながらも、答案を早々と提出して出ていく程度の度胸もなかった。いかにも、僕らしい小心者のやりそうなことである。右に倣えが僕の基本的な行動様式だった。
 そうした潔さの欠如からも分かるように、実は試験の出来具合にそれほどに手ごたえがあったというのでもなかった。先にも触れたように、この程度の難易度の試験に落ちるようなら、いくら勉強したとしても永遠に合格などできないのではといった、漠然とした不安に苛まれてもいた。
 他方、合格発表の会場は入学したら通うことになるはずの大学キャンパス内の総合図書館横に位置する文学部棟の前だった。僕はその時になって生まれて初めて、受験大学の文学部が位置するキャッパス構内に足を踏み入れた。それとは別に都心にあった大学本部に限っては、願書を提出するために行ったことがあるが、そこは僕にとっての大学という印象ではなく、ただの役所の建物のようにしか感じられなかった。
 合格発表の日の朝には、そろそろ出かけようかと準備にとりかかっていたところ、父がいきなり玄関に姿を現した。いつもと同じように朝早くからコウバで仕事に勤しんでいたはずなのに、まるで事前に僕と約束でもしていたかのように、「さあ、行こ!」と僕に声をかけた。
 高校の合格発表の時と同じだった。事前にそんなことを話題にするどころか、試験のことを気にかけている気配もなく、その前夜も、父の姿は家の中には見当たらず、どこかで酒を飲んで遅く帰宅した父だった。
 但し、高校入試の合格発表時との違いが一つだけあった。高校の合格発表時にはコウバの納品用のバイクの荷台に跨って高校に行ったが、それから3年の間に我が家はそのバイクの他に小型トラックとセダンの乗用車を所有するようになっていたので、そのセダンの乗用車の助手席に乗せてもらって大学に向かった。
 自宅から20分ばかりで、広い自動車専用道路に面する大学の立派な自動車専用門をくぐり、学内でも人通りが目立って少ない区域を選んで、道路わきに駐車した。下車すると、父はすぐさま急ぎ足で歩き出したので、僕は面食らった。
先にも書いたように、僕はその大学構内に入るのは初めてなので、広くて大きな校舎が立ち並ぶ構内のどこに文学部があるかなんて知るよしもなかった。その点では父も僕と同じはずなのに、父はいかにも自信たっぷりに、しかも随分と速足で、僕の方を見向きもせずにどんどん進んでいく。僕は慌ててその父の後を追った。
 そして、ふと思った。父は事前にそこに出向いて予め場所を確認していたのかもしれない。父の歩きぶりを見ると、そうとしか思えなかった。
 途中で、僕が卒業した高校のバレーボール部の一学年上の主将だった人に出会った。背が高く、独特の歩き方をする人なので、すぐにその人だと分かった。彼は僕を見て、いかにも作り笑いを浮かべながら、大きな声で呼びかけてきた。
「俺は経済学部やったけど、また落ちてしもた!しょうないわ。ほんで、何学部や?」と、照れ隠しもあってのことだろうが、周囲の誰もが振り返るような高くてはっきりした声だった。随分と前を歩いていた父も思わず振り向いて、僕を見た。
 運動部同士で顔見知りだったし、何かの折に言葉を交わしたことくらいはあったが、気楽に言葉を交わしあう間柄ではなかった。それに、相手は高校を卒業して一年も経っていたから、顔を会わせるのも随分と久しぶりだった。それだけに、その人の挙動に僕は少なからず当惑して、返す言葉に窮した。そのあげくに、「文学部・・・」となんともぶっきらぼうに、それでもなんとか笑顔をつくって返答した。
 その人は「ほな、頑張れな!」と、励ましの言葉を残して去った。僕は一瞬、何を頑張るのかと不思議な気がしたが、彼としてはそれしか言葉が思いつかなかったのだろうと思い直して、自分も同じ羽目になるのではと不安が高じてきた。だからこそ、一気に足を速めて父に追いついた。
 父は「誰や?」と尋ねてきたので、「高校の先輩」とこれまたなんともぶっきらぼうに答えた。
 文学部前に着いた。父は既に掲示してあった合格者番号の中に、すぐさま僕の受験番号を見つけだして、なんともあっさりと「あった」と声をあげながら僕の方を向いた。そしてすぐさま、「さあ、帰ろ」と言葉を継いだ。
 僕はしかし、それ(合格)がすぐには信じられなくて、カバンに入れていた受験票を取り出し、掲示されている合格者番号との照合を二度三度と繰り返した。そんな僕を父は呆れたような顔つきで見つめていた。僕は父のその様子を見て、父の方は僕の受験番号を覚えていたことに気づいた。当事者の僕が覚えていなかったのに・・・
 家の近くまで来ると、父は僕を車から下ろして、コウバに向かった。そして、いつもと同じように、夜中になって帰宅した。普段と比べものにならないほど上機嫌そうに酔っぱらっての帰宅だった。
 息子の合格祝いを自分に対する口実として、誰に気兼ねすることもないから普段よりもおいしい酒を、息子自慢を肴に飲んでいたのだろう。

母の合格祝いプロジェクト
 その日の夕食の場には、父はもちろんいなかった。そのことで母は少し愚痴を洩らしながらも、すぐに顔つきを改めて、「おめでとう」とそれまでには聞いたことがないような改まった言葉つきで、お祝いを言ってくれた。僕もそうだったが、母も少し面映ゆそうで、顔がほんのり紅潮していた。しかも母はさらに言葉を継いで、僕に二つの提案を切り出した。
 一つは僕の扁桃腺の切除手術だった。ずいぶんと前からひそかに計画していたようだった。既に病院も決めているとのことだったが、健康保険が効かない病院らしく、費用が随分と高くつきそうなのに、その上、一人部屋と言うので、僕は驚いた。
 そもそも、母がそんな病院を知っていることが不思議だったし、扁桃腺の手術なんて、それまで一度も本気で話題になったことなどなかった。
 幼いころから僕がよく熱を出し、慢性扁桃腺炎と診断されるたびに、母はいかにも困った顔つきだった。だから、ずいぶんと前から母お得意の在日済州人一世の女性ネットワークで情報を仕入れて、機会を窺っていたのだろう。断われるはずなどなかった。
 ともかく、手術のための入院が丸々一週間だった。医師の態度がやけに横柄で、麻酔をしているのに手術中もすごく痛くて、術後には微熱が続き、痛みもなかなかおさまらず、まともに何も食べられない状態だったこともあって、「やぶ医者にぼられたのではないか」などと、母に申し訳ない気持ちの一方で、読み書きができない母が、知人たちの生半可な入れ知恵で騙されたのではないかと思うと不憫で、腹立たしかった。そしてもちろん、そんな医者を母に紹介した<無知な>母の知人たち、つまり済州出身の在日一世のおばさんたちにも、僕には珍しいことに腹を立てた。八つ当たりであることは承知しながらも、それで痛みをこらえようとしていたのだろう。
液体を飲み込むのも痛かった。医者が勧めるように、アイスクリームをゆっくり舐めていると、微熱と痛みが和らぎそうなので、ひたすらアイスクリームを待ち望みながらの入院生活だった。文庫本を幾つか持ち込んでいたのに、その一週間、本もまともに読めなかった。
 僕は元来、心身ともに丈夫な方ではなく、胃腸の不調は幼い頃からの早食いと野球部絡みの早食い習慣でさらに悪化した持病であり、それから半世紀経った今でもほとんど定期的に変調をきたす。特に強度の精神的ストレスや深酒が続くと、数日のタイムラグの後に、胃のむかつきや圧迫感や膨満感、そして全身の倦怠感がひどくなる。その症状がいったん始まると、投薬を始めても一、二か月間は症状が収まらない。
 それでいながら、僕が病気や怪我で病院に入院したのは、その扁桃腺切除が生涯で初めてのことで、それ以後も、少なくとも日本では、一度もない。例外は中国厦門に中国語の一か月の短期語学研修を受けていた頃のことで、下痢と発熱で感染症を疑われて、隔離病棟で一週間、辛い時間を過ごした。その際のことは僕のブログの「紀行」というカテゴリーの「厦門日誌」で詳細に書いている。
 扁桃腺の切除手術に加えて母のもう一つの提案は、どこか繁華街に一緒に出かけて、少し高級な洋装店でお洒落な春用ジャンパーを買うことだった。
 中学校に入るまでは、年末になると新年の晴れ着を買うために、大阪梅田の阪神百貨店裏(通称、阪神裏)の繊維問屋街に、母と同行するのが慣例だった。しかし、中学入学以後には、母と連れ立って服を買いに出かけたのは、一回だけだった。高校三年の夏に、急に決まった在日僑胞高校野球団の一員としての韓国遠征の為に、慌ただしく一緒に大阪梅田に出かけた。その際の買い物に関して、母はデパートにこだわったが、僕は自分には贅沢過ぎると頑なに拒否して、妥協の産物として、阪急東商店街にあった服飾スーパーで、いかにも安物のズボンや夏のスポーツシャツを数点だけ買ったが、それ以来のことだった。
 しかも、今回は意外なことに、買い物は十三で、と言いだした。母と一緒に僕の高校の近くにある十三の商店街にまで赴いたのは、生涯で唯一、その時だけだった。
 母がジャンパーを買ってくれたのは、十三商店街の入り口にあった、小さいがとてもお洒落なブティックだった。僕は母と一緒にそんな高級感のある洋装店に入ったのは、その時が初めてだった。その後でも、僕の結婚式を控えての買い物の時だけだった。だから僕としては相当に緊張を要した買い物だった。明るい黄色を基調にしたお洒落で季節感のある春用ジャンパーをショーウインドーで見た母はそれがすぐに気に入って、僕に勧め、僕もそれが気に入ったので、すぐさまそれに決まった。表裏共用の、いわゆるリバーシブルで、表も裏も同じく黄色を基調にしながらも、模様や配色がそれぞれに特色があって、僕に異論があるはずもなかった。
 因みにその店は、高校の同級生の女子の親御さんが経営していたブティックで、場所柄、西洋タバコなども品ぞろえが豊富で、よく売れることで有名な煙草屋も兼ねていた。後に僕の同級生の女子がその店を継ぐようになってからは、僕は十三に行くと必ず立ち寄って、ひとしきりお喋りを楽しんでから、お気に入りの銘柄の煙草をワンカートン買って帰路につくようになるのだが、それは僕らが既に40歳代も後半になって、高校の同期会が頻繁に開催されていた頃に急速に親しくなって以降のこといすぎず、高校時代もその後も、彼女と口をきいたのは一回だけだった。彼女は僕らの野球部の部室の隣に部室があった剣道部のマネージァーをしていて、クラブ間の事務的な連絡がその際の話の内容だった。どうしてそんな些細なことまで覚えているのか不思議なほどだが、僕は彼女に淡い好意でも抱いていたのかもしれない。
 母子ともに気に入ったジャンパーを買いおえると、母が永らく胸の中で温めていた次男の「大学合格祝い」プロジェクトも無事に終わった。しかし、僕は当時、母の気持ちが殆んど分かっていなかったことに、今になってようやく気づいて、申し訳なさで顔を赤らめる。
 僕と同行した十三での買い物は、母にとって精一杯の喜びの表現だったのに、僕はそんな母に感謝の気持ちはあったのに、むしろ有難迷惑のような態度に終始した。せめてもの感謝の気持ちとして、母にさらに喜んでもらえるような心遣いくらいはすべきだったのに、それが僕にはできなかった。そんな恩知らずな性根は、母だけでなく誰に対してもよく似たところがあって、その後もまったく改善された気配すらない。
 そうした無神経な僕の挙動には、自己防御の側面もあったのかもしれない。母の親切はもちろん有難いのだが、ほどほどにしてもらわないと、僕を拘束する口実にされかねないと過剰に警戒していたのだろう。だからこそ、買い物に同行する際にも、母への感謝よりもむしろ、母に付き合ってやっていると、恩着せがましい気持ちの方が強くなって、予定のジャンパーに加えて、さらに何かを買ってやるなどと言われないように、腰が引けるどころか、迷惑なことでもされているように、邪険な態度まで示すことになった。
 そんな性分が70歳を過ぎても殆んど変わらず、若かりし頃の忘恩の振る舞いや自分の防衛反応といった頑なな側面に、今更ながらに気づいては、なんともひどい息子だったし、今なおそうであることが、恥ずかしく申し訳なくなり、顔が火照ってくる。(ある在日の青春の5に続く)