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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の13

2024-04-28 16:28:45 | 在日韓国学生同盟
ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の13

第三章 第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の3

1)旧高射砲台上で暮らす民族主義的活動家に垣間見えた政治的人間像
2)政治的人間の政治的工作―人脈づくりとオルグの一石二鳥としてのアルバイト斡旋ー
3)留学同の合宿学習会からの遁走―朝文研、留学同との中途半端な蜜月の終わりー

1)旧高射砲台上で暮らす民族主義的活動家に垣間見えた政治的人間像
 実質的にはコウバの跡継ぎ見習いながらも、名目上は大学一年生の生活をしていた頃に、家とコウバの近くの路上で、既にご登場いただいた朝文研の<大ボス>と家の近くでばったり出会った。苦手とするタイプの人物だったので、僕の方は当惑するだけだったが、相手の方は不思議なことに、満面に笑みを浮かべてすごく親しそうに話しかけてきた。そのうちに相手のペースにすっかり乗せられ、気が付いてみると、そこから徒歩圏内に位置するというその人の住居まで同行する羽目になった。
 案内されたのは、我が家から10分足らずの国鉄駅からさらに10分ほど歩いたところにある古ぼけた二階家で、建物外に敷設された階段を上ると、踊り場の横に安普請そうな玄関があり、そこを入ると10畳ほどの畳部屋と、その隅には炊事場も見えた。自炊しながらの一人暮らしと言う。
 他方、階下は階上の安普請の小屋とはずいぶんと雰囲気が異なり、ずいぶんと頑丈そうな分厚い鉄筋コンクリートの壁と骨格がむき出しになっているなど、まるで要塞である。僕には特に話題がなかったので、その異様な外観は格好の話題になるかと思いついて、それについて尋ねてみた。すると案の定、待ってましたとばかりに自慢気に話してもらえたのが、その建物の次のような来歴だった。
 その建物は、戦時中にその地域の数か所に設置されていた対空高射砲台であり、砲弾にも耐えられそうな分厚い鉄筋コンクリートの構造物の上に高射砲が据え付けられていたが。戦争が終わると直ちに、高射砲は撤去され、後にとり残された構造物は民間に払い下げられた。それを入手した人は、何もなくなった屋上にバラック小屋を建て増して、炊事場とトイレ、そして屋外からの階段も設置することで、階下とは独立して暮らせるようにして賃貸できるようにした。他方、階下はその頑丈な壁などの構造物はすべてそのままで、その内部をいくつかの部屋などに区切るなど手を入れて大家の家族が暮らしている。
 <朝文研の大ボス>が賃借しているその二階の小屋は、高級感とは程遠くても、プライバシーはほぼ完全に守られ、学生の一人暮らしには贅沢なほど広いだけでなく、東側と南側に大きな窓もあるので日当たりも申し分なく、賃貸価格も割安らしく、貧乏学生の住いとして理想的だった。
 それでも、建物の来歴や構造が風変わりだから、実際には何かと不具合、不都合が生じはしないかと懸念していたが、暮らしはじめたところ、移転した大学キャンパスへのアクセスも申し分なく、予想以上に快適で大いに満足しているとのことだった。
その部屋に入ったとたんに目に飛び込んできたのは、壁にかかった北の国家指導者の大きな肖像写真(画?)で、さすがになどと感心したが、その下方にあった机の横の本棚の質素さには驚いた。書籍数が少ないこともそうだが、書籍のジャンルの偏り方が、理系の学生だからそんなものなのかなと思いながらも、少なからず驚いた。
 その人の専門分野の英文と和文の研究書がいくつか、次いでは、北朝鮮やその系列の在日の組織傘下の出版社刊行のハングルと日本語のプロパガンダ的な書籍が目立った。その他では、黒表紙の世界革命文学全集の類が10巻ほどが目を引いた。趣味や遊びやエロっぽそうな雑誌や書籍など、若者らしく浅薄な生活を想わせそうなものは、何一つ見えず、整理整頓も行き届いていた。
 本棚のそんな外観は、その大ボスの生き方をそっくり映し出していそうだった。
 その人のことについては、上級生たちから噂話として聞いていたが、その日に当人から聞いた内容も総合すると、おおむね次のようなことらしかった。
 その人は工学部の博士課程の学生で博士学位の取得を目指して研究している。学部生を中心にした学内の民族サークルはとっくに卒業したが、在日の北系の科学者組織では今なお精力的に活動しており、それとの関連もあって、学部生対象の学外組織としての留学同にも隠然たる影響力を保持している。
 学部生の頃には留学同の執行部の一員として敏腕を云々されていたこともあるし、それ以前の高校時代にも、在籍する府立高校の生徒自治会ばかりか、北系の民族学校の学生リーダーたちとも連携して、大阪府下はもちろん京阪神の様々な日本人の高校の学生組織とも提携するなど(ただし、本人は「操縦」していたと言っていた)、在日の高校生の<政治>活動家として、日本人高校生の活動家の間ではつとに有名だったという。
 それまでにはほんの2,3回しか会ったことがなかった僕なのだが、その際のいかにも押しが強そうな印象が後を引いて、すごい苦手意識があったし、その人は僕のそんな気持ちも察しているものと思いこんでいた。それと言うのも、その人の自慢の一つが、人の気持ちを読み取って操縦することであると、自らが自慢気に言っていたからである。
 そんな二人なのに、路上でたまたま出くわした僕を自分の住いに誘ったこと、しかも、そんな人の誘いをすんなりと僕が受け入れたこと、そのどちらもがすごく意外なことだった。
 それはともかく、彼自身の来歴とその思考方法とが、彼の部屋の本棚の様子と、あまりにも直結していそうなことが面白いし、僕の今後の方向性についても示唆がありそうなので、訪問してよかったと思った。
 その本棚を見る限り、学生その他のオルグなど民族グループを組織すると同時に、そのシンパとして日本の学生組織を操縦したりする種本として役立ちそうなもの以外のものは殆どなく、そんなものしか読まない<政治的人間>は、自分のそうした文化的貧困には気づかないままに、その事態をむしろ自慢することで空白を埋めることになりそうに思えるなど、僕の野次馬根性をいたく刺激しもした。
 本棚に僕が見た<寂しさ>と表裏一体になっているのが、先に触れた北の指導者の肖像写真に対する尊崇、さらには、机上の家族写真に象徴される情愛の純一さということになりそうな気がした。
 そこに写るすごく肉付きの良さそうな体つきと屈託の影もない笑顔から、両親とその娘と息子らしい4人が、その部屋で暮らす大ボスの肉親であることは一目瞭然で、その娘と息子こそは、大ボスの弟妹で、妹は小学生くらい、弟はもっと幼く、学齢期以前のように見えた。
 当人の説明によると、彼が高校一年時に、つまり、すでに10年以上も前に、自分を大阪にひとり残して、家族全員が「祖国に帰還した。自分も博士の学位さえ取得すれば、その家族を追って祖国に帰り、祖国の建設に貢献する」と言うのだった。
両親ともに北系組織の熱烈な活動家で、長男は日本の先端的工業技術の知識を身に着けて祖国に持ち帰り、民族幹部として祖国発展に尽くせるようにようにと日本に残し、その他の家族は一刻も早く祖国のために全身全霊で尽くすために逸早く馳せ参じた。
 考え方と生き方の厳しさと立派さには、誰だって感銘を受けそうに思えたが、その僕自身は寒々とした気分になった。英雄譚や感動話などは眉唾物と見なして距離を置くといった生来の天邪鬼も作用してのことだろうが、それだけではなかった。
 日々の暮らしの中で見聞してきた<祖国帰還者>の、日本での生き様と帰還後の動静に関しての、なにしろまだ子供なので限られたものにすぎなかったが、それなりに信憑性を備えていそうな情報を考え合わせると、感動などするはずもなかった。
 しかも、小学の6年生時に、正しい民族教育を受けていると賞賛・自慢される民族学校の生徒たちから、正々堂々の一対一の果し合いという名目ながらも、実質的には10対1の集団リンチのような仕打ちを被り、その一団が凱歌を挙げ、嘲笑しながら去っていく後姿を見ながら、ようやく孤独に号泣した経験を忘れられない僕からすれば、北の国家やその在日組織の美しい話など信じられるわけがなかった。
 そもそも自分で実際に見たり聞いたり感じたりしたことに何よりも信を置くといった実感信仰の気味がある僕は、そうした心理的傾向と密接につながる価値観においても、自分と家族の安泰と平穏が何にもまして優先し、普遍的とされる正義や真理などには憧れはしても、あくまで憧れに過ぎないといったように、冷めて白けた感触が常に付きまとう。
 だからこそ、その<大ボス>の家族の愛国的で献身的な物語も、僕がその大ボスをますます敬して遠ざける根拠にはなっても、その人と僕との距離を縮めるようには作用するはずがなかった。むしろ、なんとしても距離を保持することを、改めて自分に言い聞かせた。
 その人と同じ世界では暮らせないし、暮らしたいとも思わなかった。もし下手をしてそんなことにでもなれば、僕のようなタイプの人間は大怪我をさせられる。そんな確信があった。
 要するに、僕なりにその人の世界観の輪郭をある程度は推察していた。その人にとっては、善悪に明白な区別があって、悪を打倒するために役立つか否かが、生き方の絶対的指標として揺らぐことなく、しかも、自分が常に善の側にいるという絶対的信憑を持っているから、僕お得意の自己懐疑など、つけ入る隙もない。そんな世界観や人間観は、僕が最も苦手とするニヒリズムの極致と感じられた。
 しかし、その一方では、「何もかも違いすぎる」ことがあまりにも明白なので、自分でも不思議なほどに気楽だった。相手も僕のそんな内心を見通していたのか、或いは、組織能力と説得力に過大な自信を持っているからか、僕程度の小生意気な青二才など簡単に丸め込んで配下に仕立て上げることができるとでも考えていたのだろうか、僕にとって実にありがたい話を持ち出してきた。

2)政治的人間の政治的工作―人脈づくりとオルグの一石二鳥としてのアルバイト斡旋ー
 旧高射砲台上の貸間と我が家との中間に位置する駅前で、同窓の大先輩が薬局を経営しており、その長男で中学生の家庭教師のアルバイトの話を持ち掛けられたのである。その大先輩も僕ら二人と同じく在日二世だが、僕よりは二回り以上も、大ボスと比べても一回り以上の年配で、将来的には長男を薬剤師にして薬局を継がせたいと考えて、その第一段階として長男の高校進学のための家庭教師を探しているというのである。
 何かの会合で会った際に、その大先輩から家庭教師にふさわしい学生を紹介してくれるようにと依頼された大ボスは、その日に僕とその地域の路上で出会ったとたんに、僕なら家も近くて何かと便利で打ってつけ、と思いついたと言う。
 僕は幼い頃から家業を手伝ってきたが、そのようにいくら家業を手伝っても、父から報酬などもらった試しなどなかった。ただし、コウバの急ぎの仕事で、職人がみんな帰ってから、家族総出で夜遅くまで精を出さざるを得ない場合に限って、出前で「うどんや中華そば」をコウバで手を休めながら振舞ってもらえるのが、僕らの手伝いの駄賃代わりで、大いに喜んだものだった。
 日々の小遣いとしては母から月ぎめで定額をもらっていたが、それはコウバの手伝いとは無関係というのが暗黙ながらも原則になっていて、育ててもらっている僕ら子供が、家業の手伝いで報酬を要求するなんて、我が家の親子関係からは想像もできなかった。
 だから当然、大学入学が決まって以来、毎日、朝から晩までコウバで働いても、報酬などもらったことがなく、高校時代よりは少し上乗せした月ぎめの小遣いで、あらゆる出費を賄わねばならない僕は小遣いにひっ迫していた。
 そんなわけで、まとまった現金収入になるアルバイトが喉から手が出るほど欲しかった僕は、勿怪の幸いと、直ちに快諾した。すると大ボスは、とりあえず僕のことを先方に伝えて約束を取り付けてから、二人でその家を訪問することにしようと提案した。
 約束の日時に駅横の、通称<開かずの踏切>で落ち合って薬局に出向くと、経営者の大先輩夫婦から大いに歓迎してもらった。そして、教えることになる中学生とも話を交わし、早速、翌週から教え始めることになった。
 その後で、大先輩と大ボスと僕の三人はお茶を飲みながら雑談を交わしたところ、薬局の大先輩は仲介者である大ボスが所属する北系の組織とは無縁で、むしろ南系の在日組織傘下の商工会で活動していると言う。僕は、はたと父のことを思い出して、その名を口にすると、大先輩は、「なるほど、あの玄さんの息子さんなのか?」と尋ねてきたので、その<あの玄さん>という人物の氏名を確認したうえで、「確かに僕の父です」と答えると、大先輩の表情が瞬く間にほころんで、「奇遇やなあ。お父さんとはすごく親しく付き合わせてもらってるんだ。そうなのか、それはよかった」と、僕を信頼してもよいという確証を得た様子だった。
 後になって考えてみたところ、薬局の大先輩は僕を仲介した大ボスについては、組織はもちろん、それと連動する思想的差異なども絡んで、警戒心をぬぐえないでいたのに、その人の紹介による家庭教師候補の僕が、その人と商工会で一緒に活動するなど親しくしている地元の人物の息子であることが分かって、すっかり安心できたので、仲介者の大ボスのことなど殆ど気にならなくなって、その大ボスとは距離をとりながら、気楽に付き合えるようになったはずである。その後、二人は共同して、大学の南北合同の同窓会を立ち上げることに尽力したらしく、それは大ボスの全方位外交の成果と思って、僕はなるほどと感心した。 しかし僕自身はその同窓会には一度も参加したことがない。その理由の一つは次のようなことだった
 その家庭教師を斡旋してもらったことで、紹介者である大ボスに関する僕の認識は深まって、それ以前から漠然とながらも芽生えていた警戒心がより明確になった。その人は所属組織とは関係なく、どんな相手でも躊躇いなく近づいて、ごく自然に関係を深める。それが生来のものなのか、それとも、特定の目的、例えば、政治目的のためなのかは定かではないが、ともかく、それを駆使することによってこそ、オーガナイザーとしての資質や能力を高く評価されるばかりか、自認もしていた。彼の住いを訪問して、そのいかにも柔軟な外見の裏にある厳しい内面、あるいは、何にもまして(ただし、家族は別)政治的目的を優先するニヒリズムを垣間見たつもりだった僕は、ますます警戒心を募らせて、その人が関係しそうなイベントへの参加は避けるようになった。
 それはともかく、そのようにして始めた家庭教師は、週に2時間が2回で報酬が月額1万円、当時の相場は8千円以下という噂を聞いていたので、相当な好条件だった。
 因みに、それは僕にとって人生で初の家庭教師ではなかった。中学二年時に、両親が同業で同郷だからと格別に親しくしていたご夫婦の、特にその夫人からしきりに頼まれて、末息子の家庭教師として、月額3000円と中学生にとっては多額の報酬を受け取り、その一部を貯めて、長年の念願だったギターやクラブ活動の野球の道具を買うなど、僕の中学生活を彩る物品を賄った。
その他にも、現金収入になりそうなら、実に多様なアルバイトもした。小学校時代にはほんの2か月に過ぎなかったが、朝夕の新聞配達もしたし、春、冬の休暇中でクラブ活動の妨げにならない範囲では酒屋の配達、正月近くになると餅屋の配達もした。中学生になると、クラブ活動がない日曜日は、朝早くから弁当持参で山中のゴルフ場に向かい、終日、ゴルフのキャディで中学生にしては高額の報酬を受け取るなど、小遣いに不自由することはあまりなかった。
 そんな経験があったからこそ、かえって小遣い不足には我慢ならない。だからこそ、節約に励で急な必要に備えるなど、お金はいつも僕にとって重要な関心事だった。
 それはさておき、既に触れたような経緯と因縁が重なって、薬局のご夫婦からもすごく親切にしてもらえたし、ずいぶんと久しぶりに、小遣いに不自由しなくなった。そのおかげで、夕方にコウバからの仕事帰りには、酒屋の立ち飲みカウンターでの生ビール、さらには夜に手持無沙汰にでもなると、ふらりと立ち飲み屋に一人で通うなど、すっかりいっぱしの酒飲みにもなった。
 しかも、僕のように幼い頃から小金大好きだった子供のなれの果てにとって、お金への執着にはキリがなくて、柳の下の二匹目の泥鰌を探すようになったあげくには、とんでもない困難を背負いこむことになるのだが、それについては後に詳述することにして、朝文研と留学同との曖昧ながらの蜜月の果ての決裂について語らねばならない。一年生時の夏のことだった。

3)留学同の合宿学習会からの遁走―朝文研、留学同との中途半端な蜜月の終わりー
 学内、学外の上級生や専従活動家のオルグを受けるうちに、僕は韓文研への親近感は強まる一方で、朝文研とは関係を続けられそうにないと思うようになった。それなのに、焦ることはなく、もう少し様子を見てから結論を、などと先延ばしにして、朝文研の集まりにも誘われて都合がつきさえすれば参加していた。
 そもそも、どんな集まりであれ、酒が絡む気配が少しでもありそうなら、いつでも参加に努め、自分勝手な酒の予想が外れた場合には、大いに落胆しながら寂しく帰路につくといった体たらく。酔いの楽しさと、それがもたらす緊張からの解放、そして集団的な一体感に僕は引き寄せられていたわけである。
 しかし、それは必ずしも手放しのものではなく、抵抗感もいろいろあった。特に朝文研と留学同の場合がそうだった。
美しく正しそうな論理、判で押したように誰もが同じような語彙、リズム、口調の三位一体、さらには、まるで外交辞令のような祖国とその指導者への謝辞や賞賛、そうしたものに対する違和感、拒否感が募って、将来的にもそれを拭い去って馴染めるなんて思えなくなっていた。それなのに、親切な言葉や、柔軟な対応には、情にほだされるのか、ついついどっちつかずの対応になってしまい、しきりに誘われたあげくに、留学同の合宿学習会にも参加することになった。
 それを契機に僕の最終的な態度決定もするつもりもあってのことだったが、それはやはり自己合理化の理屈にすぎず、執拗な誘いに、優柔不断の僕が押し切られたというのが正直なところだった。
 場所は京都の郊外に位置する留学同の寄宿舎だった。そこには普段は、京阪神の大学に通う留学同の学生たちが共同で生活しているが、夏季休暇中には寮生の一部が帰省や、留学同の日本各地での地域活動などで、宿舎を留守にするので、その空きベッドなどに加えて、大会議場や学習室などを活用しての、大学新入生のほかに、留学同の上級生でその寄宿舎で生活する学生もサポーターとチューターとして参加していた。そして、学習会の講師としてはある程度の年配の留学同の専従活動家に加えて、上部団体である総連や兄弟組織である青年同盟の専従たちだった。
 留学同の施設は初訪問だった。留学同や朝文研の関係者と会うのはいつも喫茶店や料理屋や所属大学内など、いわばオープンな場所に限られていた。僕が意識的にそうしていたのかもしれない。さすがに警戒心があったのだろう。それが今回は、留学同組織の根城ともいうべき施設での、それも寝食を共にしての学習会だけに、怖いもの見たさの野次馬根性もあったに違いなく、確かに怖かったからだろう。僕なりの安全弁を用意しようと画策した。
 韓学同の行事で知り合って以来、性格も考え方も正反対なのに、格別に気があった他大学の新入生がいて、その友人と相談して、「見物がてら」などと無責任そうな照れ隠しも用意しながら、一緒に参加することにしたのである。
 しかし、そんな軽口の一方で、口には出さなくても、二人ともそれなりの真剣さを持ち合わせているという信憑もあった。その組織に対して拭えない違和感や不快感、そして拒絶感の根源が何かを整理して、自分で納得できる理屈と形で別れを告げる契機にしたい。それが二人の暗黙の了解事項のつもりだった。
 二人とも留学同の関係者から誘われる一方で、特別に警戒されていそうな気配もあったので、そんな二人が連れ立っての参加はやはり拙いだろうと、別々に時間もずらして、その合宿場所に向かった。
 電車を乗り継ぐなど、初めての地域ということもあって、相当に緊張しながら目的の駅で降り、徒歩で寄宿舎に着いた。その敷地は思いのほか広くて、樹木などの植栽もあり、落ち着いた雰囲気で、一隅には小さな池もあった。
 後で聞いた説明によると、その池は初期の寄宿生たちが、朝鮮半島をなぞって作ったもので、愛国精神が込められたものだと言う。その寄宿舎では一泊する間に、そのたぐいの話を山と聞いて、何もかもに、北の指導者と党、そして在日の先人たちの血と汗と愛情が込められているという話が付きまとった。学習とはそのことを体感し、自分の心身に刻み込むことのようだった。
クリーム色の瀟洒な建物が、鉄筋の三階建てか四階建てだったが、今では記憶がおぼろになってしまったが、ともかく、その寄宿舎中央の玄関を入って、参加手続きを行った。学習資料などを受け取り、割り当てられたドミトリーには学生チューター(そ この寮生のうちでも指導者グループ)の案内で向かった。
 ドミトリーのドアを入ると、左右に二段ベッドがあり、さらに奥の窓側には、机も左右に二つずつ据え付けられ、その他に個人の身の回り品を置くスペースもあり、4人共用で、寝ることも勉強も可能である。しかも、そんなドミトリーとは別に、寄宿生全員が共用する学習室にも案内を受けたが、そこでは同じドミトリーの学生の迷惑など気にせずに時間制限なく勉強できる。
その他、シャワー室、講義を受ける大会議室も下見して、滞在中の規則などについても、案内係の学生から詳細な説明を受けた。
 最後に、朝、昼、夕の三度の食事をする食堂にも案内してもらった。案内係の学生は、普段からその施設で寄宿生活しており、食事も含めた寮費が格安なので、最低限の出費で良好な環境で学生生活を送れているが、それも祖国の指導者を筆頭に、在日の関係者の愛情の賜物で、とりわけ、食堂の賄いどで献身してもらっている女性同盟の「お母さんたち」の気遣いの行き届いた親切には常々、感謝の気持ちしていると、繰り返して言っていた。
 ちょうど、食器洗いに勤しんでいた中年の女性たちは、自分の子供や弟を相手にするように、寮生の世話を焼いてくれるらしく、たまたまそこに来た僕らにも、実に気さくに声をかけてくれた。ファミリー国家の庇護を受けたファミリー組織、そしてファミリー共同体の情愛に満ちた教育と生活の空間というわけだが、僕は相変わらず警戒心が勝って、計算されたショーの臭みを感じ取ってしまい、そのことで申し訳なく思ったりするなど、内心で自分の気持ちの処理に困っていた。そんな記憶も残っている。
 開講式の時間が近づいたので、ガイダンスと開講式の会場とされた大会議室に向かった。前方中央の教卓の横には主催者である留学同の関係者と講師陣が陣取り、それと対面する形で、僕ら一般参加者とチューター役やサポーター役の寄宿生が、組み立て式の机の前のパイプ椅子に座っていた。
 但し、実はこのあたりは、うろ覚えの断片的な記憶に基づいた記述なので、あくまでそのことを前提にして読んでいただきたい。そのうえで、明らかな間違った記述に関する指摘やお叱りは、ありがたたく拝聴して訂正に努めるつもりだが、それについてはあらかじめお断りして、ご寛恕のほどをお願いしておきたい。
 学習会の主たる会場は大会議室だったが、夕食後のグループ別の討論では、約10人単位が円座になって、寄宿生のチューターの先導で行われた記憶があるのだが、それはいったいどこで行ったのか、記憶がない。その一方で、僕が組み込まれたグループのチューター役が、受付時に親切に対応してくれた、いかにも優等生で生真面目で親切そうな寄宿生だったが、その討論で僕に相当に警戒感をもって過敏に対応する気配があった。それも僕がその合宿からの予定よりも早い離脱の要因の一つだったかもしれない。招かれざる客の自覚とでもいうか。長居をしているわけにはいかないし、長くいても、何の収穫も得られないと悟った結果だった。
 大会議室での学習会の開講式では、厳粛な表情と立ち居振る舞いの中年から老年の年配の講師陣、そしてそれと対面して、数十名の僕ら学生たちがパイプ椅子で座っていた。それについては確かな記憶があり、それだけの人数を収容してもまだ余裕があるほどに広い会議室だった。その会議室を中心として、その日の午後全部、そして翌日の午前の半ばまで、僕ら二人は辛うじて、何の事故も起こさずに講義を受けたが、内心では我慢ならなくなって、翌日の午前の講義の合間に遁走することにした。
 したがって、その他の参加者のその後のことなどは全く知らない。その合宿がそもそも何泊の予定だったのかも、今では定かではないのだが、せいぜい、1泊か2泊の予定だったのだろう。それ以上に長い予定だったなら、僕らにはとうてい無理だからと、端から参加しなかったに違いない。結果的には、辛うじて一泊だけはしたものの、その後が続かなかったから、僕ら二人はやはり、留学同の人たちが僕らに押した烙印だろう<ひどい新入生>だったことを認めないわけにもいくまい。
 因みにその寄宿舎も北の共和国から在日に対する親心で送られてきた教育に関する財政援助のおかげで建てられたという、なんとも美しく有難い話をその合宿に参加している間にも何度も聞かされたが、僕はその時点で既に、そんな話は眉唾ものと思っていた。
 それくらいの補助金なら、在日が北に送った膨大な寄付その他とは比較にならず、在日の膨大な寄付の一部をそのように親心などという言葉の包装紙にくるみ立派な熨斗まで付けて還流させたものに過ぎないと考えて、その種のお涙頂戴式の愛の物語をあざ笑うくらいだったから、そんな生意気で不埒な若者に講義をしていた方々にとっても災難だったろう。しかし、他方の僕らも、退屈極まりない講義を、黙って拝聴していたのだから、お互い様ではなかろうか。
 僕がその一泊の合宿学習会に耐えられなかったのは、実に多岐にわたる理由によるが、その一つが既に相当に自堕落になっていた僕自身の生活習慣だったことは疑いを容れない。 
 大学生ながら、コウバの仕事を手伝っているからと、僕は仕事帰りには立ち飲みで生ビールを一杯、あるいは、夕食時には父と御相伴しての晩酌の習慣などもすっかり身に着けていた。それだけに、その合宿ではアルコールが飲めそうにないことが、参加以前から不安で不満だった。
 <神聖な学習合宿>に参加する身でありながら、そんな<つまらない>心配をしているほどだったから、端から参加資格を欠いていたわけである。そんな僕が、厳しく美しく正しい北の路線と歴史認識の押し付け的講義に興味を持つはずも、理解できるはずもなかった。
 本当に恐ろしく退屈で苦痛だった。だからこそ、そんな内容を真理のご託宣のように話し続ける相当の年配の人たちの挙動が、いくら仕事でも、そして、真実でも、なんとも不思議だから、せめてその謎の一端なりとも見つけ出そうと観察に努めたが、発見など何一つなく、むしろ,嫌悪感が募るだけだった。
 初日の午後の、最初のプログラムで既にうんざりしていた僕だから、夕食後にも討論が続き、そんな場で、<民族心>を獲得、もしくは回復する過程の感動話をいかにも真剣に語る参加者にも我慢ならなかった。それなのに、その学生たちの中には、就寝時間にも、昼間の講義で学んだ内容をより深く理解するために、自習室で勉学に励むという殊勝な学生もいたらしい。
僕はもちろん、そんなことをするはずもなく、グループ討論が終わると、さっさとシャワーを浴びて、指定されたドミトリーに戻ると、何一つすることなどなく、たまらなく帰りたくなった。
 就寝に先立って、二人で相談して参加しながらも別のドミトリーを割り当てられた友人と、廊下ですれ違った際に、「そろそろ限界やけど、どうするかは明日の朝に決めよう」とささやきあったが、その余韻なのか、かなか寝付けなかった。脱走したら、ここの人たちどのように対応するのだろうか・・・
 翌朝は早朝から、部屋のスピーカーその他、あちこちから、<人民体操>が始まるので、直ちに屋上に集合という大音声の指示が轟き亘った。昨夜はうまく寝付けなかったこともあって、だるい体に鞭打ち、寝ぼけ眼をこすりながら屋上に出た。連れの友人を探したが、見当たらなかった。やがて、マイクからの元気溌剌な指示に従って<人民体操>が始まったので、まったくやる気が出ないままに、だらだらと体操もどきを行ったが、恐ろしく扱った。それが終わると、一階の食堂で朝食をとった。何を食べても味がしなかった。その後に、またもや大会議室での学習会が待っていた。そこへ行く途中で、連れの友人と連絡を取って、午前の一時間半の講義を最後として、脱出することで合意した。しかし、無断でそうするのは逃げたことになるので失礼だからと、それは避けるという点で意見が一致した。どのように非難されても、きちんと宣告してから、立ち去ることにした。
一時間半の講義は前日にも増して退屈で、ずっと辛抱との戦いだった。それが終わり次第、僕らはそれぞれが自分のドミトリーに足早に戻って荷物をまとめ、連れだって一階の責任者の部屋に赴いて面会を求めた。そして、「突然のことで申し訳ありませんが、すぐに帰宅しなくてはならなくなりました」と、一方的に告げた。先方も既にその気配を感じ取っていたのか、厳しい目つきで睨みつけ、「民族主体性が云々・・・」と、僕らの学習態度、生活態度に関する非難が続いた。その中には、参加以前から、やはり僕らは目をつけられて、警戒の対象だったことも、暗に告げられたが、僕らにはそんなことに耳を貸す余裕などなくて、相手の非難など完全に無視して、外にとび出た。
 追いかけられるのではと心配していたが、そんな気配はなかった。それでも、門を出てから最寄り駅まで、振り返る時間も惜しんで、速足で懸命に歩いた。駅前の喫茶店に入いり、背後や周辺を見回して、追手が見当たらないことを確認して、ようやく一息ついた。
 さて、どうしようかと思案したが、あてなど何ひとつなかった。確かなことは、そのまま帰宅する気にはなれないことだった。興奮というか、緊張が続いていた。
 そこで、映画でも見て時間を潰し、夕刻になってから、韓学同の上級生と会って、酒でも飲みながら話してみるということで話はまとまった。
 僕ら二人とも特別に信頼していた僕の大学の三年生に電話して、夕刻に会う約束を取り付けてから、電車で梅田に出て、映画館受付で、時間表を確認した。お目当ての映画の開始時間に合わせるために、時間つぶしも兼ねて、またしても喫茶店で軽く昼食をとってから映画を見た。何の映画だったかは、まったく記憶にない。興奮が収まっていなかったのだろう。映画が終わると、上級生との約束の場所に赴いて、3人でしこたま酒を飲み、山のようにたまっていた一日半のストレスを吐き出しては酒で洗い流した。
 それ以来、留学同はもちろん、学内サークルの朝文研からも誘いがこなくなったので、助かった。僕らは札付きの反動分子、さらにはスパイとでも呼ばれていたのだろうが、そんなことはどうでもよかった。それにしても、僕らを警戒していながら、なぜ、彼らはそんな僕らを誘ったのだろうか。合宿で鍛え上げれば、何か良い効果でもあるものと信じてのことだったのだろうか。或いは、ひたすら参加人数を確保して、成功を喜ぶためだったのだろうか。彼らはどのように後始末したのだろうか。
 
 以上の記述はすべて僕と友人の若かりし時代の、北系の組織から見ての<不純分子>としての、その組織や人々に関する否定的心証を、断片的な記憶に基づいて構成したものにすぎず、それがそのまま客観的真実だったなどと主張できるものではない。要するに、甚だ一面的な極私的な過去の記述である。そのことを、改めて強調しておきたい。
 僕は当時も今も、権威主義的に見えること、形式的に見えることを拒否することに、過敏にこだわっていた。しかし、だからと言って、僕が権威主義と無縁だったとは言えそうにない。
 僕が暮らしていた当時の日本社会において、僕の周囲の身近に感じる個人や集団で、最も権威主義的に僕を圧迫してくるような感触があるからこそ、僕が懸命に忌避し、拒否したいと思っていたのが、留学同であり朝文研であったというに過ぎない。それ以上に権威主義的な個人や団体はいくらでもあったが、それは僕とは無縁のものと思い込んでいたというだけのことなのである。
 僕の青春について記述する際には、僕に見えたもの、それをベースにして感じたことなどをないがしろにするわけにはいかなかった。しかし、ここで僕が否定的に記述していそうに映る方々から見たら、僕の方こそが、日本の時代的風潮に深刻な影響を受けて、それを浅薄に真似るがあまり、放縦に陥っては、神聖な民族運動を汚す輩と見えたことだろうし、そのような見方を僕としても否定するわけにはいかない。
 どこかの時点でのボタンの掛け違い、あるいは、すれ違いのようなことが、そのまま現在まで持ち越されてきたようで、なんとも残念なことだったし、今でもそうなのだが、それでも少しは触れ合った同時代の人々に対して、僕なりの尊敬の気持ちなどを、いつかしっかりと表明できるようになることを、僕なりに心の底から願っている。
 忌憚のないご批判を心から待ち望んでいる。(ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の14に続く)


ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の12

2024-04-19 18:18:38 | 在日韓国学生同盟
ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の12

第三章
第4節の2 民族集団という<想像の共同体>への参入まで―民族と酒の重層的陶酔―1の続き

民族サークル間の鞘当ての2―

 韓歴研の研究会の集合場所に指定された工学部の旧キャンパスの食堂に赴いたところ、偶然に朝文研の<大ボス>とその<腰巾着>と遭遇して、不愉快なことになったことについては、前回に詳しく書いた。ところが、不愉快はそれで終わったのではなく、その後に控えた本来の目的である研究会では、ショッキングで、僕にとって事件と呼ぶのがふさわしい出来事に遭遇した。同じ大学の上級生で、すでに活動実態がなくなっていた<韓文研>の一匹狼的な活動家が闖入して、混乱を引き起こしたのである。
 そして、そのような学内サークル同士の軋轢・争闘の現場に居合わせたことで僕に生じた心理的混乱が直接的な契機となって、僕はその後に韓歴研の活動に本気で関わるといった奇妙な展開になった。
 実は、その心理的混乱は、僕個人ばかりか我が家の政治的立場とも絡んでおり、僕の大学入学以降の民族的活動などが、僕自身ばかりか僕の家庭や一族の事情にも関係していたことを象徴する事件でもあった。
 そこで、前回に引き続いて今回も、僕にとって楽しくないどころか、むしろ甚だ気まずかった体験を語る。その日には続けて二つも、民族に関する僕の大学生活の方向性に大きな影響を及ぼす出来事に遭遇した。
 研究会に前触れもなく突如として現れるなり、絶叫的な演説で混乱を引き起こしたのは、一時は北系の朝文研はもちろん、南系の韓歴研とも激しく争っていたが、僕らが入学した頃には殆んど形骸化していた韓文研(韓国文化研究会)の5年生(一年の留年を経ていた)の古強者であった。
 その人は、僕はそれまでに一度も会ったことがなかったし、その後にも二度と会うことなどなかったが、見るからに学生活動家めいた風采と顔つきばかりか、悲壮感と攻撃的な身動きが際立った人物だった。
 「韓国現代情勢研究会」と銘打って韓歴研が主催したイベントには、新入生歓迎会などですでに顔を合わせていた上級生や新入生のほかに、それまでには会ったことがなくて、もっぱら話にだけ聞いていた上級生の姿も、ちらほら見えた。それに加えて、学外組織である韓学同の役職者である他大学の学生も幾人か参加していた。
 そんなところへ、先にも触れたように、在日の学生運動家としては甚だ異様な風采と殺気だった顔つきの人物が、ずかずかと入って来たので、参加者の多くは唖然として、やがてざわつきだした。しかし、その人物はそんな事態を十二分に予想し、むしろそうした混乱を引き起こすことを目的としていたらしく、会場の混乱には無視を決め込み、教室前の教卓の前に着くと素早く振り返って、参加者に向かって大声で演説を始めた。
 しかし、あまりに早口で何を言っているのか意味不明で、参加者、とりわけ僕ら新入生はもっぱら唖然と眺めていた。他方の主催者である韓歴研の上級生たちはさすがに、研究会に対する意図的な妨害行為として放置するわけにはいかず、演説の制止とその人物の排除のために動き出し、まずは警告を発した。
「他サークルの代表である先輩には発言の資格などありません。この研究会の妨害は、いくら先輩であっても許せません。話したいことがあるなら、主催者である我々の許可を得たうえで行うか、あるいはまた、自分たちで別に研究会を組織して、正々堂々と主張を述べるべきです」などと口々に叫びながら、にじり寄っていった。それでも、演説は止むどころか、ますます声を高めた絶叫が続いた。
 しかし、大音声にも関らず、あまりにも早口なので、何を言っているのやら定かでなく、耳が痛いだけだった。そこで懸命に耳を澄ましてみると、おおむね次のような内容だった。
「この研究会の案内では、韓国情勢に関心を持つ本学学生への呼びかけとなっている。本学の学生であり、しかも、正式な学内サークルとしての韓国文化研究会の責任者である自分には、十二分に参加資格、そして発言の権利がある。それにまた、参加者の顔ぶれから、本学とは無関係な学生の参加も許容しているのだから、主催者自身が趣旨に反しているではないか」と、主催者である韓歴研のダブルスタンダードを指摘しながら、ますます殺気立って充血した目つきで主催者と参加者を睨み回して威嚇した。
 そのように言われてみれば、僕ら新入生でもなるほどと思える話だった。ところが、当時の僕の理解では、その研究会には建前とへ別に、二つの目的もしくは事情があった。一つは、韓歴研と韓学同の立場に関わっている。韓学同は民団の傘下にあり、民団は本国政権への従属が深刻で、韓学同その他の民団の傘下団体が、本国政権に対する批判的言動をすることには、いたって過敏に反応、介入していた。そんな事情から、韓学同は韓国の軍事独裁体制に対する批判的な議論を公にすることを慎んで、民団の弾圧を避けねばならない。そこで形式的には民団とは何の関係もない大学内サークルである韓歴研を隠れ蓑としており、それはあくまで苦肉の策であり、建前と本音のずれや矛盾が不可避だった。闖入者は韓文研の責任者であると自ら名乗っているからには、その間の事情にも十分に通じており、そこを衝いてきたわけである。
 もう一つは、韓歴研が韓国の政治社会状況についての議論の場を企てたのは、そうした主題に関する議論を深めることももちろん目的の一つではあったが、それ以上に、広報も兼ねた新入生教育が最重要な目的であり、研究会がたとえ公開の形をとっていても、実際には内輪向けのイベントの色合いが強かった。そうした内情もほとんど公然の秘密、あるいは、暗黙の了解事項であり、僕ら新入生でもその程度の推察をつけたうえで参加していたから、大学の民族サークルや学外組織を少しでも経験したことのある人には、常識に属することだった。そうした常識からすれば、闖入者の理屈は、もっぱら<為にする建前の議論>にすぎず、自分の組織の存在のアピールも兼ねての、他サークルのイベントに対する破壊工作を目的としていることは歴然としていた。
それだけに、その闖入者自身も妨害行為に対する抵抗や反撃などは端から覚悟してのことだったにちがいないが、たとえそうであっても、実際に多勢に無勢の状況で絶叫を続けてもほとんど意味がないことは歴然としており、徒労を痛感していたにちがいない。
 それでも僕などは、そんな状況にもかかわらず、原稿もなしに叫び続ける姿を見るうちに、喉がよく保つものだなどと、なんとも場違いな感心をする一方で、すぐ近くから響きわたる絶叫のせいで、耳と頭が痛くなってきたし、おそらくは僕だけのことだろうが、心まで重く、そして痛くなってきた。その理由は後で詳しく述べる。
 韓歴研の上級生たちも、ついには我慢できなくなったのか、闖入者との距離を縮めだすと、相手もさすがに危機感を抱いたのか、絶叫が止んだ。そして、大きく息をして身構えたうえで、「本学の学生の自由で真摯な討論を阻止するのは、学生の自由と権利の侵害であり、民主主義に反している」と、一語一語、誰にでもわかりそうな口調に変わった。ところが、僕ら新入生を除いた参加者全員のブーイングが始まると、諦めたのか、「民族の真正なる歴史に対する裏切り者、極右団体・民団の手先である韓学同の、そのまた手先の韓歴研を断固、糾弾する。歴史がお前たちに鉄槌を下ろす日も近いぞ!」と、早口の捨て台詞を残して、取り巻く上級生たちの間をすり抜けて会場から去った。
 その後は気まずい沈黙が続いたが、やがて落ち着きが戻り、「やれやれ、嵐も過ぎてくれたなあ」と誰かの軽口調の声を潮に研究会が始まった。
 まずは韓歴研の幹事長の開会宣言、次いでは、来賓として韓学同大阪本部委員長の挨拶、そして、新入生である僕ら三人の簡単な紹介が続き、韓歴研の2年生による基調報告が始まった。
韓歴研の幹事長の挨拶では、先ほどの闖入者についての釈明もあった。その人は僕らの大学の四年生、実際には一年の留年を経験した五年生で、すでにほとんど活動実態がなくなった韓文研の生き残りとして、稀なことだが韓歴研のイベントに姿を現れたりして妨害することもあったが、今回はあまりに久しぶりのことで、すっかり不意を突かれて申し訳なかったが、今後については何ひとつ心配に及ばない。韓文研と言っても、今や実質的にはその人だけであり、当人が卒業してしまえば自動的に消滅することになる。そういう事情もあって、焦ってのことだろう。そんな説明に会場から乾いた笑い声も聞こえた。
 そのように研究会は少し遅れたが、まるで何事もなかったかのように、ほぼ予定通りに運ぶことになった。
 ところが、僕は会場が落ち着くのと反比例するように、心の落ち着きをなくしていた。基調講演や、それを受けての質疑応答や討論にも、ほとんど上の空で、そのあげくには、その場にいたたまれなくなった。
 まずは、同胞学生間の三つ巴の関係の厳しさにショックを受けた。食堂で会った朝文研の大ボスと腰巾着そして韓歴研の上級生たちとの<つばぜり合い>だけだったなら、北と南の対立に由来するものであり、僕が生まれてからずっと目や耳にしてきた構図は何一つ変わらず、既視感もあり、今さら驚くほどのことでもなかった。
 ところが、研究会での出来事は、どちらも<南>系の二つの学生サークルの対立であり、しかも、絶叫と罵倒の形で憎悪がむき出しになって繰り広げられる様子を肉眼で見て、声を聴いたことで、民族にまつわる三つ巴の厳しい関係が僕の大学生活に及ぼす大きく黒い雲が思いやられた。
 しかも、研究会の場で対立した二つのグループは、元来は仲間同士だったこともあって、よけいに激しい愛憎が絡み合っていそうに思えて、そんな憎悪の坩堝の中で、自分の進む道を模索し、さらには選ぶことの難しさを、今更ながらに痛感した。
 しかし、これまたその程度のことなら、最大の問題自体が僕の内側に食い込んでおらず、あくまで外部状況として受け止めて、それを客観的に把握すべく努めたうえで、主体的に選択すればよいだろうし、それは僕の民族にまつわる成長の一段階になりそうだった。
 ところが、そうした複雑な関係が、僕や僕の家族の内部にすでに深く食い込んでしまっていそうなことに、僕は研究会での上の空の心理状態の中で思い至り、慌てた。
 闖入者は韓文研の責任者を名乗っていたからには、統一朝鮮新聞系の組織である韓国民族自主統一同盟(韓民自統)の青年組織である韓国民族自主統一青年同盟(韓民自青)のメンバーでもある。そのように推察、あるいは確信したのは、そこに居合わせた参加者の中ではそれほど多くはなく、とりわけ新入生の中では、おそらく僕だけだった。
 それは、我が家がその新聞社およびその系列の政治組織と密接な関係にあったからである。僕らの五親等の伯父(父の叔母の一人息子)が、創立メンバーであると同時に創立時から一貫して編集長を務めていたのが統一朝鮮新聞であり、伯父はその新聞に数々のペンネームを用いて、小説、翻訳、韓国の現代情勢など、実に多様な記事を書くなどして活躍していた。さらには、その政治運動組織の関西における組織化の先頭に立つために、一年の半分ほどは大阪に滞在して我が家にも足しげく訪れた。学校経験のない僕らの両親から絶大な信頼を受けて、わが一族の在日では唯一のインテリとして、僕ら兄弟の教育全般に関する貴重な相談役にもなっていた。
 僕らが<東京の伯父さん>と呼んでいたその人は、親族であるばかりか、同年齢で政治的な考え方も近そうで、個人的な相互信頼の関係も深かった父は、その伯父さんはもちろん、その伯父さんが献身する新聞とその組織を物心両面で支援し、組織に加入もしていた。
 そんな事情を僕らはまだ子供のころから、つまり1960年頃の僕がまだ小学校の4年時の頃から、子供にしては相当に詳しく知っていた。

 1960年の3月に僕らの父は、1940年ごろに親兄弟を済州に残して渡日して以来で初めての故郷訪問に、長年の懸命の奔走のあげくに旅だった。ところが、その済州滞在中に、韓国全土を揺るがす4・19学生革命が勃発した余波を受けてのことか、予定の時期になっても音沙汰もないまま帰宅しなかったので、父が伯父との縁の延長上での、反政府的な新聞や組織との関係が災いして、面倒なことになっているのではないかと、母や東京の伯父たちが、すごく心配していた。そんな様子を見ていた僕らも、子供なりに大いに心配していた。
 伯父は家庭は東京にあったが、一年の半分くらいは我が家からすぐ近くに住む父の叔母で、その伯父の実母でもあり、僕らが幼い頃からハマニ(おばあちゃん)と呼んで日常的に同じ家族のように暮らして人の家に滞在しながら、活発な活動を展開していた。
 そんな経緯もあって、僕ら子供も含めた我が家の一同は、その組織や新聞社がどういうものかを、子供にしてはずいぶんと詳しく知っていたし、両親の伯父に対する絶大な信頼の影響も受けて、伯父はもちろん、その新聞社と組織の活動にもなんとなく共感していた。
 それだけに、そんな組織の一員であるはずの上級生が、眼前で絶叫するなどして<孤独な醜態>をさらす現場に遭遇して、すこぶる厄介な心理的葛藤に追いやられていたのである。 
 それなりに自分の意思で参加した韓歴研の研究会で、主催者である学内サークルと伯父が育てた組織の一員との厳しい敵対関係の現場に遭遇して、僕はすごく辛く、そして悲しく、内心は大きく揺れ動いていた。
 僕は大学に入学して以降に、韓歴研のオルグを受けた際には、できるだけ正直に接しようとして、さらには、在日事情について一般の新入生よりも情報通であることを誇示したいという客気も相まって、高校三年時の夏の一か月にわたる韓国滞在の経験に加えて、統一朝鮮新聞やその政治運動組織と我が家の関係などについても、相当に詳しく打ち明けていた。 
 つまり、僕は新入生ながらも、そのサークルと敵対関係にある統一朝鮮新聞系の色が濃い存在であることを告白していたわけで、韓歴研の上級生たちは僕に対して一定の警戒心を持っても不思議ではなかった。
 したがって、その闖入者にも僕が研究会の情報を知らせたからこその妨害行動だったのではといった疑いを、韓歴研の上級生が持っているかもしれないと、僕は次第に心配にもなっていたのである。例え、僕が何らかの悪意などはなくても、未必の故意のようなこととして、情報をもらした、と疑われても仕方がないのではないか。要するに、僕は<スパイ>の疑いをかけられているかもしれないと。
 そんなことまで考えるうちに、同胞であることやその同胞内の多様な党派の複雑な敵対関係の坩堝に追い込まれた感じがして、僕はいたたまれなくなったのである。
 僕は机の上に広げたペンや資料その他をすべて鞄に収めて、無言のままに席から立ち、まるでさっきの闖入者と同じく、逃げるようにその研究会の会場を後にした。
 上級生たちは僕の意外な行動に、一瞬は茫然としている気配がしたが、いくら何でも僕のそんな行動で研究会を中断するわけにもいかないのか、特に目立った動きはなさそうだった。しかし、やがては追いかけて来るのではないかと思って、僕は振り返りもせずに、ひたすら前方を見つめて、逃げ足を速めた。
 学校の門を出たとたんに、不覚にも嗚咽が始まり、止まらなくなった。そんな姿を誰にも見られたくなかった。誰もいそうにないところを求めて、ひたすら走った。そして、ようやく、人の目がなさそうな場所が見つかったので立ち止まった。そして、壁際にうずくまって、嗚咽に身を任し、存分に涙を流した。
 韓歴研主催の研究会に突然と現れて、妨害しようとした闖入者の行動に、僕が一枚かんでいるという疑いを、僕の事情を知っていた人なら、きっと持ったはずで、そのうえ、僕がその現場から逃げ去るようなことをしでかしたからには、僕が自分の<暗躍>に対する自責の念に堪えかねての行動だったと見なされたとしても、致し方ない。
 僕はそんなことまで考えたからこそ、「僕には何一つ疚しいことなどありません」と潔白の弁明もしくは証明、そして幼稚で泣き虫の新入生の汚名は晴らせなくとも、一刻も早く忘れてもらうために、以前にまして積極的に韓歴研の活動に邁進することになった。
 そして、そんな馬鹿げた帳尻合わせでも、僕にとっては通過儀礼になったのだろう。僕はその後、韓歴研や韓学同の行事に誘われると、最初は面映ゆさをぬぐえなかったが、そのうちには、まるで何事もなかったかのように、ごく自然に韓歴研と韓学同の活動と酒席を楽しむようになった。
 上級生も同期の学生たちも、あの研究会に参加していた人のうちの誰一人も、僕にとって恥ずかしい遁走のことを蒸し返さないので、大いに助かったし、ありがたかった。
 因みに、僕にはそのように、何か心理的な弱みが生じるとか、その反対に相手が僕に弱みを見せたりした場合にも、それを相殺してなかったことにするためなのか、相手に対する過剰サービスに努めるといった、奇妙な心理的詐術を、誰よりも自分自身に弄する習慣もしくは癖があり、その場合もその一つだったのだろう。
 この種のバランス感覚と言うか、むしろ全くの独り相撲めいた心理劇、それが僕の生来の融和的メンタリティに深く関係していそうで、<バランスを過剰に求める強迫観念!>などと命名して、僕特有の在日二世的病などと自己診断しているのだが、こんな告白は満場の嘲笑を覚悟しなくてはならないのだが、僕のこの韓学同大阪物語もその症状の一つのような気がする。

道草2-大学内の同胞学生の選別とリクルートの方法―
 ところで、学内の民族サークルや学外の民族組織が、大学の<同胞>新入生の氏名と連絡先などの情報をどのようにして入手し、それをリクルートやオルグ活動に活用できたのか、今のように個人情報の秘匿など、ほとんど考慮されていなかった当時の状況を紹介しておきたい。
 僕が入学した年度の僕の大学では、全学部の新入生総数の約2000名のうち、あくまで僕が知る限りなのだが(つまり、サークルの先輩たちが把握した限りということになるが)、約10名だったらしい。それは入学者総数における割合では約0,5パーセント、日本の人口が約1億人で在日人口が50万から60万人と言われていた時代なので、その割合とほぼ同じ割合だった。
 先にも触れたが、当時は個人情報の秘匿など殆んど問題にされないどころか、在日のサークルが学生部などに在日の新入生に関する情報の開示を依頼、もしくは要求すれば、たとえ新入生の名前や住所や電話番号に至るまでの詳細は難しくても、どの学部に何名、全体で何名くらいの情報なら教えてもらえた。もし、そんな便宜も図ってくれなければ、大学による在日サークルへの弾圧などと問題視して、他の日本人サークルや学生運動のセクトにも協力を求めれば、その程度の情報は入手できた。
 しかし、入学者数だけの情報では、在日の新入生個々人にアクセスできない。姓名や連絡先に関する情報が必須である。現に僕は大学の誰にも受験大学も合格大学も教えていなかったのに、僕の家には大学の在日サークルのメンバーから電話がかかってきたし、事前連絡もなしに、我が家を訪問してくることもあったのだが、その人たちはいったいどのようにして、新入生のオルグに必須の個々人の氏名と住所と電話番号などの基本情報を入手していたのだろうか。
 最も一般的なのは、在日サークルが、新聞で発表される個々の大学の合格者名簿から在日の確率が高そうな姓、つまり漢字一字の姓を探し出そうと努めてみる。しかし、在日の大学合格者の氏名が民族名の漢字表記となっているとは限らず、漢字二字の日本的名前(通名)を名乗っている方がむしろ多い。そんな場合には、その通名から民族名を推察したり、ファーストネーム(名前)も合わせて、在日特有の経験値や勘を働かせて狙いをつける。次いでは、その民族名と通名らしい姓名の学生の出身校(新聞社の大学合格者リストは高校別になっている)に問い合わせて、電話番号と住所の情報を確保する。しかし、それだけでは、その学生が本当に在日の学生であることが証明されるわけではないのだが、とりあえず「当たって砕けろ」式で、その番号に電話をかけて推察の正誤を確認する。
 しかし、相手がすんなりと、正誤なども含めて正しいことを教えてくれるとは限らない。自分は正真正銘の日本人なのに、在日ではないかなどと嫌疑をかけられるなんて心外で不愉快きわまるなどと抗議も受けかねない。それでも、それはやはり必須の過程なので、その労を厭うわけにはいかない。
 その他にも、自分が卒業した高校ルート、友人親戚絡みその他の口コミなどもある。そして、むしろそんな場合のほうが、既にその情報の紹介者がいるので、新入生の当人にアクセスするのも容易な場合が少なくなかった。
 因みに僕が高校三年の夏に、韓国の新聞社の招待で、在日僑胞高校野球選手団の一員として韓国で一か月余りにわたって韓国の高校チームとの親善試合に明け暮れた際にも、その在日の高校生チームの選手を確保するために、同じような方法が用いられた。
 まずは、各地方大会の甲子園大会予選に先立って、主催の朝日新聞社が紙上で各チームの選手名簿を発表するので、それに基づいて、在日の可能性が高い選手の姓名(通名でも推察が可能な場合が多い)を見つけると、その高校に電話して在日か否かを確認する。そして、在日と判明すると、電話番号を尋ね、本人に直接に電話して、改めてその真偽を確認したうえで参加を要請する。その際の<誘い文句>は、旅費滞在費は無料で、予定終了後には故郷(本籍地)までの旅費の支給などもある。パスポートは特別に、臨時旅券の早急の取得が可能といった具合に、何一つとして損などなく、しかも、瞼の祖国の訪問がいとも簡単に実現するのだから、断るなんて考えられないといった具合だった、
 ともかく、そんな方法で、一週間足らずのうちに20名内外の在日の高校球児を確保していたのである。在日は通名を見るだけで、在日かどうかを見分けることができる場合が多い。その種の勘に関しては、相当に鋭いものがあった。
 ところが、個人情報の秘匿の原則が社会に相当にいきわたった現在では、以上のような手法は通用するわけがなく、下手をすれば不法行為と批判されかねない。
 したがって、たとえ大学内の在日サークルが現在まで存続していたとしても、そのようなリクルート方式は無理だったろうし、個々の大学にそのリストを要請しても、応じてもらえる可能性は今や皆無だったろう。

道草の3―在日の大学志願者の学部選好の変化―
 ついでに、在日の大学進学にあたっての学部や学科などの選好の変遷も紹介しておきたい。それによって、在日の若者の進学のみならず、就職もしくは職業選択の状況、もしくはその期待の地平の変遷も垣間見えそうである。しかし、ここでも僕の狭い経験の情報に限られることをお断りしておかねばならない。
 僕の入学年度では、学部としては理科系(工学部)が7人、文系は文学部の僕と先にも触れた経済学部生1名に加えて、一度も顔をあわせたことはないのだが、父親が大阪の在日財界人として著名な人の長男で、母親が日本人なので、出生時からその母親の籍、つまり日本籍の学生が法学部にいたという。だから、その学生まで数に入れると、理系対文系の比率は7対3になるが、その程度でも、文系が例年よりも増えたという話だった。要するに、在日の大学生は理系志望者が圧倒的に多数派だった。ついでに性別は、その年の在日の新入生はすべてが男子で、女子は皆無だった。
 因みに僕が知る限りでは、僕の上級生の文系の在学生は2年上の文学部に1名、1年上に経済学部に1名だった。したがって、それらの学年では理系対文系の比率は9対1くらいだったらしいので、それと比べれば僕らの学年は文系が増えたというのも、なるほどということになる。
 そうした極端な偏向状況は、在日は卒業しても日本の一般の会社への就職が難しいが、工学部などの技術系ならば<手に技術を>を持てるので、贅沢さえ言わなければ就職も出来るだろうという理屈に基づいて工学部偏重だった。
 ところが、その工学部を卒業しても、やはり就職は難しく、また、たとえ就職しても、その後の昇進などはやはり困難で、昇進できたとしても、国籍変更(つまり帰化)を必須条件とされたりもして、在日にとって工学部が将来にとって有利という話も、実は絵にかいた餅のようなものであることが次第に明らかになった。そこで、個人事業主として生計が立てられる専門技術が有利というわけで、工学部よりもはるかに狭い門だった医学部、或いは、次善の策として歯学部や薬学部などの医歯薬系の志望者が増える趨勢だった。
 しかも、他の様々な学部を卒業してようやく、就職の段になって、あるいは、実際に就職してようやく現実の本当の厳しさに直面した結果、医学部や歯学部や薬学部を再受験する傾向が強くなってもいた。僕の知人などは教育産業で成功してお金の心配などない状態で中年を迎えながら、医者のステイタスに対する未練を断ち切れずに、なんども医学部の受験に挑戦していた大先輩もいて、その意地と言うかなんというか、僕なんかは、すごく悲しくみじめにも思ったものだった。
 ところで、その一方では、在日企業も少しは成長してきて、大卒の在日を受け入れることもできるようになったので、自分の家にある程度の資産があれば、それを基盤に特殊な技術や能力を武器に起業、もしくは成長に挑戦しようというわけで、実業のための法学、経済などを志望する在日の野心的な若者も少しは増えていた。
 その後には既に右肩上がりだった医学系がさらに飛躍的に伸び、僕の3年下の新入生の場合には、14名の新入生のうちの10名が、当時すでにその大学でとびぬけて最難関と言われていた医学部に合格し、しかもその中には、入試の成績が全学で一番だった在日の新入生も含まれていた。
 その後には、大学に併設されていた医療短期大学部が大学本体に編入され、さらには、医学部本体に編入された結果、在日学生の数、特に女子学生が目立って増える。
 その他、既に触れたことだが、他学部を卒業後に、医学部でなくてはその後の人生が難しいと観念した在日の学士たちが、医学部を再受験して医者を目指す流れまで大きくなっていった。
但し、そのような潮流は、必ずしも在日に限られた現象ではなく、日本人でも、企業戦士になることを忌避する性向を持っていたり、過去の学生運動その他で経歴に傷を負った卒業生の中で特に増えていく。大学紛争を経験した学生たちの理想から現実への妥協、もしくは避難の傾向も関係していたのだろう。
 他方では、僕が大学を卒業して数年後には、一人の在日青年の蛮勇が弁護士の国籍条項という鉄壁を突き破り、在日も弁護士になれるように制度改正が為された。すると、それまでの<手に職>という理屈に基づく理系偏重とは打って変わって、在日の若者が文系というか、実学としての法学部に殺到するようになった。
 朝鮮大学校という日本の文科省が大学一般として認めない在日の教育機関を卒業した学生たちもまた弁護士になるために、日本の一般の大学のロースクールを経由して法曹界で活躍するケースも激増して、今や在日の弁護士の花盛り!
 以上が在日の大学学部志望の一般的傾向の概略なのだが、次回では改めて僕の新入生時代の話に戻る予定である。(ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の13に続く)


ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の11

2024-04-07 07:28:56 | 在日韓国学生同盟
ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の11
本文
第三章
第4節の1 民族集団という<想像の共同体>への参入まで―民族と酒の重層的陶酔―

お詫びと訂正
 前回の記述に重大な間違いがあったので、まずはそのことをお詫びするとともに、事情を説明・訂正したい。
 その間違いなるものが、ものを書く際に殆んど不可避とも思える誤記とか記憶違いのレベルの問題ではなく、過去の体験の記述に際しての姿勢など、根本的なレベルに関わっているので、なおざりにするわけにはいかない。
 このエッセイ全般において、書き手を常に待ち構える物語化や自己正当化の欲望や誘惑は断つことを、自分に言い聞かせながら書いているつもりである。ところが、その悪しき惰性のバリエーションの一つである「安易な単純化」の陥穽にすっぽりと落ち込んでしまったのである。しかもさらにひどいことに、書きながらそのことに気づかなかったわけでもなかった。何か変なことをしていることに自分でも気づきながらも、立ち止まって考え直す余裕がないままに看過してしまった。
 そうした事情もあるからこそ、単純ミスなどとは片付けられない。散文的な現実をそのまま散文的に書くことを謡ったノンフィクションとしては、自己矛盾の謗りを免れない。
 以下では、もっと具体的に筆者のミスについて記す。
 学内の民族サークルとして並び立つ韓歴研と朝文研については、その同質性と異質性を浮かび上がらせるべく努めた。そして、同質性として、各種イベントの時期や運営の仕方、プログラム、更には、二次会、三次会など、とりわけ酒席での様態などを書きならべた。ところが、その記述の源になっている記憶の信憑性には幾つものネックがあった。
 大学入学以降の僕の生活における韓歴研と朝文研の比重は、入学後2,3か月後までに限れば、あまり大きな違いはなかった。ただし、その時期でさえも、僕は次第に朝文研とは距離を置くようになり、夏になってのある事件を契機にほぼ完全に関係を断つに至った。その後も、朝文研からは折に触れて統一戦線の呼びかけ程度は続いたが、関係が深まる可能性はほぼないことを前提にしての形式的な接触に留まった。
 それなのに、僕は韓歴研や韓学同との密着度を深めていく過程における経験の一部をそのまま、入学初期の朝文研の人々との関係にオーバーラップして記述するといった、事実に大きく悖る<作文>をしてしまった。
 それはおそらく、僕が記述した二次会や三次会の場に居合わせた人々の顔や表情や仕種などの個別性、具体性を思い浮かべながら記述するという、ごく当然の手続き、あるいは、僕のこの種の文章を書く際に依拠してきた原則に則りさえすれば、容易に避けることができる過誤だった。だからこそ、<安易な単純化>と言うのである。
 韓歴研の上級生と朝文研のそれとでは、ステイタスや年齢層が微妙に、時には大きく異なっていた。僕が韓歴研で最も頻繁に接触したのは、同じ大学のサークルの1年か2年上の上級生だった。他方、朝文研では、一年上では誰ひとりも記憶にない。2年上にはひとりだけの記憶があるが、新入生歓迎会のようなイベントではなるほど顔合わせくらいはしたが、それ以外で対面したのは1回だけで、酒を交わすような場ではなかった。さらには3年上、つまり4年生もいなかった。それ以外では、既に触れたように、我が家まで押しかけてきた4年上で、医学部の5年生の女子学生と理学部数学科の5年生(一年の留年を経ていたような気がする)、、基礎工学部の修士課程の二年生(5年上)、そして、すぐ後に登場していただくことになる、工学部の修士課程2年生(5年上)と博士課程の2年生(8年上)だけだった。それ以外では、学外組織の留学同の委員長と副委員長などの、既に学籍などなさそうな専従活動家たちからもオルグを受けたが、どう見ても学生などとは思えない風采で、年齢は30歳代の半ばだったはずである。そんな人と酒を一緒に飲む気には、いくら僕でもありえなかったし、先方も僕にそんな誘いかけなどはしなかった。組織的規律が厳しかったのかもしれない。
 要するに、入学初期に朝文研やその学外組織のメンバーのうちで僕が会って話をした人々は、一生懸命に学業に励んで、ゆくゆくは学位を取り、民族幹部として祖国に帰国して祖国建設に尽くすことを建前上の目的にしていた研究者志望者群だけだった。そんな人たちが、日常的な学内サークル活動などに時間を費やす余裕などなかっただろう。彼ら彼女らは、上部組織の決定による何かのキャンペーンの指令に基づき、韓歴研メンバーへの情宣活動として声をかけるだけで、数年も年下であるばかりか、それほど親しくもない新入生の僕と酒席を共にして、議論するなんてこともあり得なかった。
 前回の記事で、朝文研系統の学内サークルや学外組織のイベントの二次会、三次会として酒席を共にすることで、少しは本音の話もできたように書いたのは、完全に間違いであり、訂正・削除すべきものである。遠くない将来に全面的に改稿を行うつもりだが、今回は既にアップ済みなので、当座のこととしてそれを据え置いて、お詫びかたがた、このような形で訂正するにとどめたい。
 その時期以降の僕の大学での民族的なサークル活動に関しては、朝文研の活動そのものに関する記述はほとんどないはずなので、前回のようなミスは必然的に少なくなるだろう。しかし、安易な記述姿勢に関する厳しい自己チェックを欠くと、随所で落し穴が待ちうけていることを肝に銘じながら、この先も書き継いでいきたい。
 因みに、以上のような僕のミスは、学内サークルの朝文研と韓歴研、さらに学外組織の留学同と韓学同の、民族的学生運動その他、政治、組織などに関する考え方や行動スタイルの根本的な差異とも密接に関連しているので、今後も繰り返し論じることになるだろう。そこで僕がとりあえず最も気を付けるべきは、自分が知らないことを分かったふりして書き流したりすることを、断じてしないように気を付けることである。
 前回の記事におけるミスに関するお詫びと訂正は、ひとまずここまでにして、先に進みたい。学内サークルと学外組織の選択に関する僕の逡巡を含めての過程を、詳しく辿ることにする。

所属する民族サークルや組織の選択をめぐっての逡巡

 いつまでも相対立する二つのサークルと組織に対して、どっちつかずのままではおれず、いつかは、選択の迷いをあまり長く引きずることなく、所属先を決めなくてはならない。それがわかっているのに、それがなかなかできない。決断できたつもりになっても、いざ誘われると断れない。既に2,3か月にわたって受けたオルグ活動を通しての、親しみと裏腹の申し訳なさもある。断るのは忍びない。徐々に距離をおけば、こちらの気持ちを察してもらえるのではと、相手に下駄を預けるなど、お得意の優柔不断を決め込もうとするのだが、何かにかこつけての勧誘は途切れない。しかも、その誘いに酒席でも絡んでいそうとなれば、ますます断れない。酒そのものが目当てというわけではなくて、酒の酔いも加勢してのつかの間の一体感、その誘惑が強い磁力を発揮する。先方もそんなことは百も承知ということなのか、それとなくそんな気配を示しているように、こちらが勝手に誤解する。酒になのか、その一体感なのか、ともかくすでに魅せられているのである。民族に。
 当初は僕と同じように、両方のサークルのどちらにも顔を出していた新入生の幾人かも、落ち着き先を決めそうな気配もあった。
 久しぶりに、少しは義理を果たそうと朝文研の集まりに参加したところ、以前には僕以上にどっちつかずに見えていた新入生二人が、「しっかり勉強して、博士の学位をとった暁には、祖国に帰り民族幹部の自覚に基づいて奉仕したい」と宣言するのを耳にして驚いた。羨ましくもあり、自分の優柔不断が疎ましくなった。しかし、その一方で、僕は彼らのようには決してなれないだろうと、改めて、自分の<生き方>を意識した。
 因みに、その二人の新入生の明快な態度決定、言い換えれば、期待される民族主義者、愛国者を衒う新入生の姿を見たのは、朝文研だけのことではなかった。韓歴研の新入生歓迎会で初対面だった新入生も、自己紹介を兼ねた挨拶で、「韓国に初めて行った時には涙が出て止まらなかった、僕には民族の血が流れていることをいまさらながらに実感した」などと感激の面持ちで語り、上級生たちもいかにも満足そうに拍手喝采していた。他方の僕は、もちろん鼻白んだ。しかし、その場の雰囲気を慮って、内心を面に出さないように努めた。
 高校三年時の一か月を越える韓国滞在時のカルチャーショック、特に韓国の風土と社会と人々に僕自身が拒否されたといった被害妄想めいた記憶もあって、在日二、三世が韓国体験を感激の面持ちで話すような場面に立ち会うと、僕は激しい違和感のあげくに、憤怒まで込み上げてくる。<祖国>や<親の故郷>に対する感じ方など各人各様であって当然なのに、なんとも困った青二才になってしまった自分自身に、手を焼いていた。
 そんな僕の<天邪鬼>は、あの青春時代から既に半世紀も経て70歳代になった今でも、あまり変わっていそうにない。<へそ曲がり>、<皮肉れ者>、その他の実に多様な否定的呼称のすべてに、自分が当てはまると自認しないわけにはいかない。
因みに、そのような<祖国>に対する血統的帰属を前提にした感動物語を、新入生歓迎会で堂々と披歴した新入生は、しかし、或いは、そうだからこそか、その後の学部生時代には南北の民族サークルの集まりに一度も姿を現さなかった。
 ただし、それから随分と後になって、僕がオーバードクターだった頃に、したがって大学に入学して8年ぐらい後になって、偶然に再会した。在日研究者の集まりに執拗に誘われて、致し方なく参加したところ、その同期生の姿を目にして、何かしら気まずい思いだったが、相手は僕のことなど記憶にもなさそうな様子だった。ともかく、僕は関わり合いにならずに済むように、会場の隅に腰を下ろして、会の進行を見ていた。
 彼は相変わらず見事なまでに快活で、韓国や自分の研究について語り、上の空の僕にも、断片的ながらも耳に届いていたが、彼の話は僕とは別世界のことのようにしか聞こえなかった。
 それからほどなくして、彼が大学の専任教員になったという噂を聞いた際には、「さすが、なるほど」とすんなりと納得した。大学入学の時点で既に相当に明確な将来設計を描き、そのための準備を着々と重ねていたのだろう。
 大学で勉強などする気などなくても、予定通りのように大学生活を十分にエンジョイし、その後にはこれまた予定通りに、大会社に就職して企業戦士になった人々も、先の彼とは正反対に学生像のように見えるかもしれないが、実は同じように多数派を構成するのだろう。
 人生における大学の位置づけとそれと密接に関連した人生設計を、自分のものとしている人々が、在日か日本人かを問わず、学生の中には相当の比率で存在しているのだろう。
 そんな大多数と比べれば、大学生活の具体的なイメージも持たず、学生生活にもなじめないままに、漠然と「在日」というアイデンティティについて頭を悩ましながら、右往左往していた僕などは、やはり少数派だったのだろう。
 しかしながら、よくよく考えてみると、不器用そのものの大学生だった僕もまた、我が家の右肩あがりの経済力の向上と両親の常に変わらない勤勉と寛容のおかげで、酒と人間、そして実に雑多な書物にまみれて、毎日が二日酔いのような彷徨を続けることができたのだろう。
 したがって、大学生の多数派か少数派かを問わず、1960年代以降の日本の高度経済成長の落とし子という点では、何ら変わることなどなかったのだろう。

民族サークル同士の鞘当て1―民族(我々)という万能の印籠― 

 僕はやがて、複数の民族的学生運動の系列のうちで、学内サークルとしては韓歴研、その延長上で学外の大学サークル連合組織である韓学同大阪の活動に参加するようになる。つまり、ついには選択に至ったのだが、その選択に直接的に影響を及ぼした出来事をいくつか紹介したい。
 但し、それらの出来事はなるほど、僕と様々な学生グループとの関係の一面を象徴するエピソードなのだが、実はそんな事件がなかったとしても、結果はあまり変わらなかったのかもしれない。つまり、僕の選択はある特定の具体的な出来事に直接に関係すると言うよりも、長期の些細な日常の積み重ねのうちに、僕の心身の深い所で醸成されていた信憑に基づくものだったような気がする。そしてそれは大学入学以後のことだけではなく、幼い頃以降の20年近い僕の生活と学校経験の総和という側面が強い。
 その選択は、「なんとなく」ではあるが、その実、「それしかない」選択だったと、今の僕なら考える。それは客観的正しさとは必ずしも一致するわけではなくても、僕の生き方総体に間違いなく密接に関係していそうなのである。
 それはともかく、それらの出来事によって、民族について語ったり、それに基づいて行動することに随伴する危険な一面、さらには、二つのサークルを構成する人びとの思考や言動に殆ど体質化した差異なども、目撃・体験するなどもするうちに覚悟も固まっていった。
 先ずは、学内サークル同士の微妙な<さや当て>のエピソードを紹介する。<同胞>とか、<同窓>とかの同質性もどきを盾にして、心情の一体化を強制し拘束する。そんな<集団的枠組み>を、<政治的に活用>する権威主義的体質と志向性、それをまざまざと見せつけられて、僕はその種のものに対する嫌悪感と警戒心を募らせる。
 臨時にほんの二週間に限って授業を受けたことがある旧工学部のキャンパスでの、韓歴研の研究会に誘われた。そして喜んで参加するつもりで、集合場所の旧い学生食堂で待っていると、背後から僕の名前を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、工学部の博士課程の<大先輩>だった。朝文研とその上部組織である留学同の伝説的な<大ボス>と噂されているなんてことは、その時には知らなくて、その時点では戸惑うばかりだった。それでも知らないふりをするわけにもいかないので、簡単に挨拶はした。すると、その人は僕のことをまるで旧知の後輩のように、実に親しげに話し始めた。
 その<大先輩>とは学内サークルの歓迎会はもちろん、その他にも一度だけ出会って、ほんの少しだけど言葉を交わしたことがあったのだが、その際に僕が言ったことを実に詳しく覚えているので、最初は驚いた。しかし、そのあとの口ぶりからは、自分の記憶力を自慢するためにそんな話をしている気配があまりにも露骨なので呆れたが、致し方なく聞き役に回った。するとそんな僕の受け身の態度をいいことに、その人は僕にはどうでも良いことを止めどなく話し続けるので、すっかり白けた気分だった。
 早口ではなくてゆったりとした口調と顔つきと態度には、僕などには決して真似できない貫禄があって感心したが、話の内容がつまらないことばかりと思いながらも、話の腰を折るわけにもいかなかった。
 その一方で約束していた韓歴研の先輩のことが気がかりで、その先輩の言っていることなど、ほとんど耳に入らなくなってきた。
 そんなところに、韓歴研の2年生二人と、3年生一人の3人が、既に僕も顔見知りの新入生二人と連れ立って、食堂に入って来る姿が目に入った。彼らは、僕とその大先輩の姿を目にとめた瞬間、困った顔つきだったが、僕と同じく知らない振りをするわけにもいかなくて、近寄ってきて、不承不承ながら年長者を立てる挨拶をした。
 その時に、まるでタイミングを測っていたかのように、その大先輩の<腰巾着>と渾名される(これまた後に知った渾名)修士課程2年の先輩まで姿を現して、異常に疳高い声で、「せっかくの機会やから、同じ大学の先輩後輩として、組織を越えて話し合おうやないか」と、まるで既定事項のような言い方で、韓歴研の人たちの表情を窺った。
 僕らが韓歴研の学習会のために集まっていることをあらかじめ承知の上での言動のようだった。しかし、韓歴研のリーダー格の三年生はさすがに、そんな言い分に押し切られる軟(ヤワ)な活動家ではなかった。
 「先輩たちとお話しできるのはありがたいことですが、今日は我々のサークルの学習会がありますので」と少し緊張気味ながらも、一歩も譲る気持ちはないことを明確に表明した。ところが、大ボスは厳しく、その言葉がまだ終わらないうちに口を挟んだ。
「そんな小さなことばかり言うてるから、あかんのや。同じ大学の同胞がせっかく集まった機会も活用できへんのは、料簡が狭すぎるし、活動家失敗やで。とんでもない話や!」と、高圧的だった。しかも、<腰巾着>も待ってましたとばかりに、お得意のキンキンと耳に痛い声で言い募った。
「同胞愛がなかったらあかんのや。組織が違うから言うて、縄張り争いみたいなことばっかりしてるから、我が民族はこんなざまなんや。せっかくの大先輩の配慮も分からんと・・・」
 韓歴研の3人の先輩たちはすでに目に見えるほどに顔をこわばらせて、「ご立派な話ですが、僕らには通りません。以前から企画・準備してきた学習会にわざわざ新入生も来てくれたのに、それを台なしにするような話は、まったく受け入れられません。妨害行為じゃないですか。先輩たちには申し訳ありませんが、またの機会によろしく」と一歩も引かなかった。
 <大ボス>は、「お前らは本当に・・・まだ若いのに、そんなこと言うてたら、歴史に置いてけぼりをくらうぞ。その挙句に、歴史に反逆することになるんや。歴史がそれを証明しているやないか、そんなことも知らんのか。まあ、いつかは気づくやろが、歴史の勉強を本気でし直さなあかんなあ。新入生たちにはちょっと可哀そうやけど、またの機会もあるやろ」と、なんとも意外なことに、あっさりと引き下がった。そして、韓歴研の上級生の言葉も待たずに、すっと立ち上がり、貫禄をこれ見よがしに誇示するためか、普段よりもゆっくりとした足取りで去って行った。しかし、その背中には内心の腹立ちがそっくりそのままに現れていたので、僕は思わず笑いそうになった。<腰巾着>も予想外の展開に、一瞬、きょとんとしていたが、遅まきに状況を把握できたのか、駆け足で<大先輩>の後を追った。それで一件落着となった 
 韓歴研の先輩たちは、「いつもあんなことばっかりや。自分たちに都合のいい時だけ、同胞、祖国、団結、統一や。しかも、そんな時に限って、先輩とか後輩とか、年長を笠に着て」と、よほど我慢ならなかったのだろうか、ひとしきり愚痴の花が咲いた。僕ら新入生はその言い分をすっかり納得した。
 そんな風に、一見は正しそうな言葉、情理にあっていそうな言葉も、もっぱら自分の都合のためにだけ用いると、ひどく抑圧的な理屈になる。そんなことくらいのことは、誰にでもわかりそうなのに、そんなことをして恥じない人たちが、僕ら新入生に教えを施そうとする同胞にも少なくないという現実を、まざまざと見せつけられて、今後は気を付けなくてはと思った。
 しかし、その時から現在まで50年以上にわたって、その種のことを実に多様な局面、多様な場所で、繰り返し経験することを余儀なくされてきた。その結果として、その種のことに対する嫌悪感が心の奥の痣として真っ黒に固まってしまっている。
 しかも、それ以上に重大なことは、自分自身がその嫌悪すべき対象から免れていないことなのである。そんなことも、当時すでに、感じていた。
 ここでは朝文研の一部の人たちの否定的な側面として取り上げていることだが、それは、決してその人たちの専売特許ではない。在日の、そして日本の社会の、さらには世界の至る所で、古来から殆んど変わりなく使い古されてきた思考と行動スタイルだろう。
 だからこそ、僕自身もそんな言動に対する嫌悪を募らせる一方で、場合によっては効果を発するその種の挙動を習い覚え、やがては、それとよく似た理屈や言動を身に着けて実践しながらも、そのことを恥じることのない感受性まで身に着けてきたのかもしれない。

 ところで、そのように競い合っていた二つのサークルなのだが、その競合は必ずしも、正面切っての対立といった形をとらなかった。少なくとも僕は、両者が真っ向から非難を欧州して対立するような現場に立ち会ったことなど殆んどない。本来的には対立していたとしても、だからと言って真っ向から争ったりはしない。相互了解、紳士協定のようなものが、少なくとも僕らが大学に入学した時代には定着していたのだろう。
 僕らの大学では、韓歴研(他大学の場合は、たいてい韓文研と称した)、そして韓学同は、既に朝文研や留学同で活動している(あるいは、そのように推察される)学生に対しては、自分たちの方に鞍替えするような働きかけは決してしなかった。朝文研や留学同もまた、既に韓歴研や韓学同へ参加することを決めた学生には、そのような働きかけを正面切ってはしなかった。両者には非難合戦のようなことはなかった。相互としては、朝文研や留学同による韓歴研や韓学同に対する統一戦線への呼びかけはあったが、それに留まっていた。他方、韓歴研や韓学同からは、そのような働きかけさえもなかった。それほどの余裕もなかった。そうした両者の非対称性はおそらく非常に重要なことなのだが、それについてはまた後に詳しく述べることになるだろう。
 統一戦線の呼びかけのようなレベルに至らなくても、朝文研や留学同関係者のよる同胞学生に対する働きかけがそれなりに行われていた。
 例えば、主に理系の場合だが、そして理科系が当時の僕らの大学の同胞学生の8割以上を占めていて、それらの学生同士の個別的な関係、例えば、専門領域のつながりを活用しての関係づくりは続いていた。例えば、同じ学部とか、学部は違っても共に学べる領域があれば、その学習会(高等数学や理論物理など)といった形で、定期的に接触する場を確保して継続的な働きかけがなされていた。
 ただし、その種の研究会を実際に行っていた人々が、政治的意図を何よりも優先していたわけでもなかろう。同郷で同学の先輩・後輩としての集まりというごく自然な動機のほうが強い場合が多かったのかもしれない。僕自身はそんな学習会に参加したことなど一度もないので、勝手なことをいうのは許されないだろう。
 その種の、純粋な学問研究の会のほかに、朝鮮半島の政治情勢に応じて、自分たちが主導する統一戦線への参加の呼び掛けは、ほとんど年中行事的に行われた。
 そして、そんな呼びかけに賛同しない韓歴研所属の学生には、「歴史の審判に耐えられる研究生活、そして民族的活動」といった理屈を差し出して、非難するのが常套だった。
 そんな場合に、前面に出てくるのは、すでに触れたことだが、現役の教養部生や学部生ではなくて、もっと年長の大人たちだったので、その大人たちについてもう少し詳しく説明しておく必要がある。ここからは道草のような話が続くことになる。

道草の1―学内に滞留する研究者たち―

 韓歴研や韓学同で活動する学生に対して統一戦線への協力、参加を呼び掛ける攻勢がなされる度に、普段はお目にかかる機会など殆どない学内の大先輩、例えば、大学院生や研究生、さらには、技官その他の職員、教員が、急遽、しかも、大量に姿を現して、年長者の威信を盾にして、まだ教養部生、或いはせいぜい学部生に過ぎない僕ら韓歴研のメンバーに対する工作が展開された。
 当時は、そのような年輩の院生、研究生、技官、助手その他の人々が、僕らの大学の特に理系には多かった。というよりも、文系にはその種の人など一人もおらず、理系一色だった。
 そしてその大半は、他大学を卒業後に、大学院から、或いは、一二年の研究生生活を経由して僕らの大学の大学院に入学した人々だった。さらに、その人々の少なからずは、在日が北の政府の支援も受けて設立運営していると言われた在日の最高教育研究機関である朝鮮大学校の卒業生だった。
 在日の朝鮮大学校は文部省によって日本の正式な教育機関として認定されず排除されていたので、そこを卒業しても日本社会ではなんの資格にもならない。そこで、日本の<一流大学>の大学院の研究生もしくは大学院生、さらには研究員として在籍しながら、博士の学位取得を目指す。そして、無事にそれを取得してからも、その大学の職員や教員、もしくは研究員などの資格で研究室に在籍し続けることが多かった。就職口がなかったからである。
 それらの人々は元来、博士学位を取得すれば、北に<帰って>民族幹部として祖国の発展に寄与するという触れ込みで、教授たちもそうした目的と展望を前提に自分の研究室に在籍することを許していた。つまり、学位を授与しても、日本人研究者とは違って、就職の世話の必要などなく、感謝の気持ちを胸に<祖国>に帰国するという触れ込みだからこそ受け容れ、学位授与に際しても、ハードルを低くするなど便宜供与もなされていたと言う。
 教授としては、朝鮮人に対する日本人としての民族的責任を少しは果たして、日本と朝鮮半島の橋渡しをしていると、善意の自己証明にもなるからと、いたって鷹揚に学生を受け入れ、そうした善意を誇ってもいたようである。
 教授に相当な権限があった期限付きの研究員としての採用なども、それら院生や研究員その他が北へ帰国することを前提としての措置だった。指導教授としては、日本人の研究者に学位を授与すれば、その後には会社や研究機関への就職を斡旋する責任もしくは義務などで負担が重くなりがちだが、朝鮮人の場合はあくまで期限付きで、やがては<北へ帰国>するまでに限ってなど、条件付きの身分保障をしていたわけである。しかし、その人たちの殆どが、その後には、当初の触れ込みとは違って<北への帰国>を果たさなかった。その結果、そのような中途半端な職責のポストドクターが大学の研究室に滞留していた。
 朝文研の現役の学生の背後には、そうした相当に厚みのある年長集団が控えていた。それに対し、韓歴研のOBには大学院生は殆どいなかった。例えいたとしても、修士課程までに留まり、その後にも研究を継続するのは経済事情その他が許さないという事情の他に、たとえ学位を取得しても、就職に関する民族差別の壁が甚だ高く、その先の展望がほとんど開けなかった。そこで研究継続を断念し、在日系の中小企業に就職したり、教育産業(つまりは学習塾の経営や予備校の講師)に従事したり、まったく別分野の資格試験、例えば、当時でも国家試験の受験資格が認められていた税理士、公認会計士、司法書士、その他、不動産関連の資格の取得のために各種学校に通ったり、独学で励んだ末に、個人事務所を開設する。あるいは、家業や妻の実家の家業である零細企業や水商売(焼き肉屋、風俗業その他)を継ぐしかなかった。
 朝文研のOBにも、そのような人が少なからずいたが、割合からすれば、朝文研のOBには祖国のために学問を収めて、民族幹部として祖国に貢献するという建前で、研究活動を継続する人たちが、韓歴研のOBと比べるとはるかに多かった。
 そしてそうした苦学を周囲の誰かが、例えば、家族が、或いは、その将来を買った妻の家族が、そしてもちろん、妻が支えた。
 民族幹部として、更には、<博士様>として尊敬される地位につくことを期待するなど、将来の名誉の<青田買い>、或いは、朝鮮半島において伝統的に<学のある人物>としての在日社会的評価を買ってのことだった。
 それに対し、南系の学生の場合には、そのような可能性が殆んどなかった。当時の韓国の政治社会状況では、南に<帰って>、学界や経済界や政界に貢献するという考え方は、少なくとも、韓歴研などの在日の学生運動の志向性にはほとんどなかったように僕は思っていた。もし、敢えてそんなことを行えば、体制に屈服・妥協した転向者などと、かつての仲間から指弾されかねなかった。
 そんなわけなので、例えそのような人が先輩の中にいたとしても、僕らのように大学の民族サークルに集う学生のロールモデルとなることは殆んどなかった。そもそも、<転向者の成り上がり>であるそうした人物の情報が、学内サークルや学外組織の学生に伝わってくることなど殆んどなかった。
 二つの大学内サークルには二つの意味で大きな非対称性があった。一つは構成員のそれである。南の方は学生だけ、それも教養部もしくは専門学部生だけの集団であるのに対し、北の方は、大学院生その他の年輩の学生や教職員、そして教養部生と専門学部生で、年齢的に大きな幅を備えると同時に、数的にも圧倒的多数を誇っていた。
 また、そのサークルの運営に関しても、韓歴研は学外組織の方針がそれなりの影響を及ぼすが、それ以上に、各大学のサークルの主体性が尊重されていた。しかも、その学外組織である韓学同はその上部団体である民団に監視・統制されながらも、そうした統制の網の目から逃れたり、それに逆らっての活動を旨としていた。
 それに対し、朝文研は学外組織の執行部の方針を全面的に受け容れて、ひたすらそれを実践するので、その内部に葛藤など基本的にありえなかった。或いは、たとえあったとしても、ないものとされていた。少なくとも僕はその内部における葛藤など、リアルタイムでは聞いたことがなく、はるかに事後的に噂として聞いたに過ぎない。一枚岩が大原則の組織体系を誇っていたのだから、それも当然のことだろう。
 韓歴研と韓学同、さらにはその組織が傘下団体として属している民団との関係には絶えず大きな矛盾・葛藤があったのに対し、北のほうは、そのすべてにおいて、矛盾葛藤など皆無の一枚岩を誇っていた。
 そんなわけなので、教養部と専門学部生にしかメンバーの資格がない韓歴研からすれば、朝文研の大学院生その他の<大人たち>の登場は、それだけで、先輩後輩という上下関係、その土台とでも言うべき儒教的、或いは、封建的秩序を盾にしての、彼らの言うところの祖国の方針、在日の大組織、その傘下の学外学生組織、そして学内のサークルといった指示系統による<正しい運動>の押し付けのように感じられた。そんな<大人たち>の内心などは僕ら子供のような学生には皆目分からなかったが、少なくとも僕らには、彼らは常に民族的正義の側に自分たちがいるという建前もしくは自信を前面に押し出して、強圧的に対応してくるとしか思えなかった。
 そして、その種の基本的姿勢が例えば、呼称としての<トンム>を、相手の意向や都合を無視して執拗に用いるところに象徴的に表れているように、僕などは感じていた。
 僕は先輩、後輩といった言葉や関係を中学の野球部時代に徹底的に叩き込まれた反動なのか、さらには、高校時代の野球部にはそれが殆んどなかったことに勇気を得てか、しだいにその種の言葉やそれに基づく人間関係に嫌悪感を募らせるようになっていた。そして、その延長上では、先輩後輩などの言葉や関係を掲げて近寄って来る人々には、何らかの底意があるものとして警戒し、遠ざけるようになった。それも<先輩たち>だけではなくて、むしろ<後輩さま>たちに、大学卒業後の僕などは警戒を募らせるようになった。<後輩さま>たちの慇懃無礼の裏にある「人を馬鹿にしたニヒリズム」の臭いを感じて、それをひどく嫌悪するようになった。
 しかしながら、一度、習い覚えたその種の関係の意識は、その後も長く僕の意識の奥底に残留し、今なお僕のどこかに居座っていそうな気配もある。その毒素を完全に中和して無化するのは至難の業と、70歳を越えた今でも痛感する。
 大学入学以後の民族運動との接触に始まる僕の民族主義的意識は、中学時代に心身に叩き込まれた長幼の階層意識とも繋がる規範意識に抗しながら、その一方で、自分の中に残存したそれをついつい活用してしまう無意識的な言動との<つばぜり合い>の過程だったような気までするほどなのである。(ある在日の青春の12、第三章の第4節の2、に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の10

2024-03-29 09:49:12 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の10
第三章 同胞集団との関係の進展 

3節 組織化の階梯―学内の民族サークルから学外の民族組織へー

学内の民族サークルの新入生歓迎会

 初対面から始まり、要員が時には交代しながらの新入生への短期集中的なオルグ活動が一段落すると、その成果を確認し、さらに確固なものにするために、新入生歓迎会という酒食を伴うイベントが控えている。新入生とサークルの現役メンバー(教養部と専門学部の学生)、そして卒業生や大学院生などのOB、その他の関係者まで一堂に会する。学内サークルの年中行事としては最大のものである。
 新入生は、学内で拮抗・対峙する二つのサークルが、まるで示し合わせたように同時期に開く宴会に次々に招待され、およそ1,2週間の間隔で続けて2回も民族料理と酒と余興の接待を受ける。
 但し、その二つの宴会の時期が近接していたのは、その主催者である二つのサークルが示し合わせていたからではなく、両サークルのそのイベントに関する目的や事情が大同小異だったことの必然的帰結だった。両者の日程が鉢合わせしたりでもすれば、新入生が困り、両者の参加者が少なくなる。そんな事態を避けた結果だった。そのためには、例えば新入生をオルグする際に、もう一つのサークルからの歓迎会の誘いなどのことも、それとなく探ったりもしての、日時と場所の決定だったのだろう。
 因みに、<事情や目的>とは次のようなことである。勧誘活動が一段落しても、鉄は熱いうちに鍛えなくてはならない。少しでも間隔を置くと、それまでの懸命なオルグで火がついた気持ちも冷え込んでしまいかねない。しかも、学内サークルのオルグは暗に学外組織のオルグも兼ねており、一般に新入生は、学内はともかく学外組織ともなると政治的活動に対する警戒心が強くなって腰が引けがちなので、そんな警戒心に邪魔をされないように、できるだけ急いで、学内サークルと学外組織とが一体として活動することの必然性を、当然のこととして新入生に納得させて、その両者の活動への参加の確約を取り付けなくてはならない。
 そのためにも、時機を逸すことなく、精一杯に多くの新入生を集めると同時に、OBその他の関係者にも数多く参加してもらい、ご祝儀としてのカンパも多く集める必要がある。そうしてこそ、サークルとその現役メンバーの経済的負担も軽減される。
 そうした実際的な理由もあって、名の通った大型のエスニック料理店などは、経費の問題もあって避けたほうが無難である。新入生はあくまでお客扱いで、その飲食の費用も現役のメンバーが引き受けねばならないので、カンパの集金の努力が、サークルとそのメンバー個々の懐具合にとっても重要である。そればかりか、カンパの合計額はサークルの活動実態に対する上部組織その他の関係者の、学内サークルに対する活動評価の反映でもある。
 しかも、それは単なる宴会ではない。新入生に他では味わいにくいディープなエスニック料理の穴場を披露して、本物の民族的味覚はもちろん、同胞と酒などを交わしながらの一体感を媒介にして、活動への積極的参加を促す絶好の機会である。
 酒の酔いと民族グループと出会いの酔いが相乗した興奮によって、新入生の心底に眠る民族意識を呼び覚まし、さらには火をつける場なのである。さらには、その宴会の充実度と満足度が、関係者のカンパ額に直接に影響を及ぼしかねないのだから、会場選択はおろそこないできず、神経も遣う。
 在日の重要な生業の一つとして広く知られていたホルモン焼屋(牛や豚の贓物の焼き物や生ものが売り物)が前身だが、1960年代の末には無煙ロースターが開発されて一気に女性層にも食い込む一方で、先祖返りというわけか、七輪の炭火焼なども脚光を浴びるなど、在日だけではなく「焼き肉店」として日本人一般に顧客層を急拡大するブームに乗って、在日のエスニック料理の大型店が続々と都心に繁華街に開店して人気を博していた。
 ところが、大学の民族サークルの新入生歓迎会では、その種の有名大型店はどちらかと言えば、避けられた。経費が高くつき、手が届きにくかった。
 しかも、経済的理由だけではなかった。先にも触れたように、日本人の舌や情緒にあわせて清潔感のある雰囲気ややたらと甘ったるい味などではなく、辛さもそれなりで、雰囲気も「在日の玄人好み」の穴場が選好された。民族サークルや組織ならではの、古くて民族臭が漂い、以前の場末のホルモン焼屋の雰囲気が保持されている店が、在日二世三世の若者にとっての民族主義への接近のイニシエーションの場として最適だった。
 そのために、サークルのメンバーの親戚や知人、さらには学外組織その他の人脈なども頼って、メニューはもちろん、ディスカウントその他の無理な注文に関しても少しは融通が利き、在日のディープで伝統的なエスニック料理店が選ばれた。さらには、政治的な要素も条件の一つだった。
 在日の焼き肉店のそれぞれが朝鮮半島の分断・対立する二つの国家、そしてその延長上の在日の二大組織のどちらに所属もしくはシンパであるか、それが一見して分かる場合とそうでない場合とがあった。一見して分かるとは、店名やその店の調度品その他から察しが付く場合である。
 そんな外面的要素では判別がつかなくても、サークルやそれと繋がる学外組織の人脈などを通じて入手された情報などで、在日の有名な焼き肉店のそれぞれの政治的傾向については、ある程度の推察がつくようなことを、上級生たちは消息通を誇るように話していた。
 したがって、僕らの大学の韓歴研が、北系と見なされる焼き肉店をわざわざ選んで宴会をするなんてことは避けられた。後でどこからかクレームが、さらには政治的偏向、逸脱を非難されかねなかった。
 それと言うのも、学内の民族サークルは学外からは独立したものではなくて、大学横断的な学生組織と密接な関係を保つどころか、その下部組織としての性格も備えているのがむしろ一般的で、その学生組織もまた在日の二大組織の一方の傘下団体、つまり下部団体であるといったように、在日社会における左右のピラミッド構成の組織系列の最下部に組み入れられていたからである。
 但し、そうしたサークル名を掲げての宴会ではなく、学生個々人やそのグループがエスニック料理店で飲食を楽しむような場合には、その店の政治的色合いなど気にすることは殆んどなかった。例えば、水冷麺などは元来、朝鮮半島北半部の地域の名物料理であり、それを売り物にする料理店もたいていが北系と見なされていただけに、料理店の政治的傾向などを気にしたら、韓歴研のメンバーは味に定評のある「元祖平壌冷麺」などは味わえなくなりかねなかった。
在日においても南北対立は深刻とは言っても、在日の僕ら二世三世ともなると、在日内部における政治的対立に影響されて、何であれ窮屈な配慮をしながら生活していたわけではなかった。
 僕が新入生として参加した歓迎宴会は、二つのサークル共に場末の長屋の一軒の、本来は民家であり、実際には住居も兼ねていそうな小さな焼き肉店の二階が会場だった。
 一階は厨房とカウンター、そして若干のテーブル席か小さな座敷だけで、ミシミシときしむ古階段を上がっていくと、普段はその店の家族の居住空間らしく、二つか三つの部屋が襖や障子戸で仕切られている。しかし、まとまった人数の予約が入った場合には、その仕切りの襖や障子戸などをすべて取り払って、一つの大きな宴会場に仕立てあげ、そこに折り畳みの座卓を組み立て、炭火が燃える七輪を幾つか運び込んで、牛肉や贓物の生ものや焼き物、そして野菜のナムルと数種類の自家製のキムチなどを供していた。料理の締めはクッパ(汁飯)かビビンパ(五目野菜の和え物飯)で、当時でも大型の焼き肉店なら供されていた水冷麺などは、場末の焼き肉屋ではあまり供されていなかった。
 二階は元来、寝食もなされる居住空間で、それに必須の調度品も備えているが、宴会の際には、その前に屏風、或いは、その上に大きな風呂敷などもかぶせて隠してある。しかし、それだけで居住空間の雰囲気まで消え去るわけもない。それだけに、改まった店と言うよりも私宅での宴会のような親近感もあって、気楽な同胞仲間の集まりに相応しい雰囲気も醸し出される。
 その反面、特に女子学生には、トイレが不便だったのではなかろうか。わざわざ階段をミシミシと音を立てながら下りて、一階の隅にあり、たいした清潔感は望めそうにない<昔風の便所>だったので、落ち着いて用を足せなかったのではなかろうか。
 尤も、そんな感じ方は、現今の実に快適なトイレ事情と比較して昔の一部を取り上げての心象に過ぎず、翌々考えてみれば、僕らの世代の、とりわけ在日の場合は、男女を問わずその程度のことなら、自宅で慣れていたので、気にならなかったのかもしれない。
 朝文研の宴会は、国鉄環状線の桃谷駅から徒歩10分ほどの路地裏、他方の韓歴研は京橋駅の裏手の黒い水が流れる川べりの路地にあった。どちらもその周辺に店などは殆どなくて、もっぱら古長屋が並び、街路灯もあまりなくて暗かった記憶がある。
 そのどちらの店にも、僕は再訪したことがない。地理が不確かで自分一人では覚束なかったこともあるし、わざわざその店に行きたいとも思わなかったからだろう。ともかく、その宴会の際にも、最寄り駅で先輩たちと落ちあって連れて行ってもらったはずである。
 その店を選んだ先輩たちにしても、その店の常連と言うほどではなさそうだったから、サークルの誰かの人脈で見つけたのだろう。「だれだれの何々の店」というように、何重にも縁が介在しているような話だった。しかし、それが一体「誰の何であるか」などは、新入生の僕に分かるはずもなかった。
 宴会の時期と会場だけでなく、式次第もほぼ同じだった。
 先ずは学内サークルの代表の開会と新入生歓迎の挨拶、次いでは、来賓(その学内サークルと繋がる学外組織の委員長クラスなど)の挨拶、次いでは、卒業生の中の最年長者など長老格の人による祝辞と乾杯の音頭の順番になると、近くに座っている者同士が慌てて、互いのグラスにビールを注ぎあうなどして、全員が声を合わせ、杯を掲げて乾杯(コンペ)或いは祝杯(チュッペ)、或いは「~の為に(~ウィハヨ)」!
 その後はしばしの自由な懇談で、新入生もビールで舌を湿らした結果なのぁ、口が随分と開くようになった頃には、全員の自己紹介と歌など得意芸の披露が始まる。
 歌は僕ら新入生でも知っているアリランやトラジなど朝鮮の代表的な民謡、植民地時代の抗日的解釈に都合のよさそうな歌詞の歌曲といったところまでは、どちらのサークルも驚くほどによく似ていたが、その後は、選曲も場の雰囲気も大きく変わってくる。
 朝文研は、それまでのいわば前座のような曲に続いては、さすがに<北>の歌、特に金日成元帥を称える歌や、「統一列車は走る」といった政治的プロパガンダの見事に店舗が良く誰もが一緒に歌いたくなるような歌が続き、誰かがそれ歌い始めると、一挙に一体感が強まったのか、だれもかれも先を競うように同じ類の歌が、そして、それに和しての参加者たちの大合唱がとどろきわたった。
 他方の韓歴研は、韓国の運動圏の学生たちがデモや集会などで団結を誇り、心理的な一体感を確認するような抵抗歌や、現代韓国のやたらとリズム感がある流行歌などだったが、僕ら新入生にはハングルの歌詞の内容や性格などを説明されても、そんな講釈のせいで間延びした感じが否めなく、やはり最も盛り上がったのは、当時は誰でも知っていたジョーン・バエズの「我々は勝利する」といったプロテストソングや、フォークルが歌って人気だった南北統一を祈る「イムジン河」などが歌われた時で、そんな時はやはり自ずと合唱になった。
 そのような自己紹介を交えての十八番の披露が一周りした後では、特に芸達者な定評がある人に、歌や踊りを求める声が高まる。そしてそれを待ってましたとばかりに、名前を連呼された当人がおもむろに立ち上がり、少しは謙遜の言葉を前置きに、実は自信満々の名人芸を披露する。すると、それが終わるか終わらないかのうちに、「アンコール」の掛け声が手拍子と共に始まり、別の歌を熱唱すると、またもやアンコールの掛け声といった具合。その後も幾人かの独演会が続くうちに、参加者たちの酒のピッチに加速度がつき、トイレに立つ者が続き、特に新入生の中に酔いつぶれそうな者までひとりふたりと出てきて、その中には僕もいる。
 そんな頃合いを見計らって閉会の宣言がなされ、名残惜しそうに宴会場を後にするのだが、それで終わりではなくて、まるで予め決まっていたように小グループに分かれて、喫茶店や居酒屋になだれ込む。
 言い忘れていたが、実は二つの宴会の参加メンバーには、一見すれば誰にでも推察がつきそうな違いがあった。
朝文研は学部生だけでなく相当な年輩の人たち、例えば大学院生、研究生、技官といった人たち、さらには本部(学外組織)の委員長や副委員長と呼ばれて、学生とはとうてい見えない壮年の人たちもいた。
 他方の韓歴研は、ほぼ僕らの大学の学部生に限られ、それ以外には、委員長や副委員長と呼ばれる学外組織の代表、そして1,2名の大学院生に限られていた。
 したがって、平均年齢も朝文研が圧倒的に高く、そのステイタスも多様だった。朝鮮大学校その他を卒業後に僕らの大学の大学院に入って、博士学位の取得をめざしたり、既にその博士学位を得ながらも、研究職その他の就職先が見つからないので、研究生や技官などのステイタスで研究室に留まって研究を継続している人たちである。
 しかも、使用言語の違いも目立った。朝文研のイベントに参加していた人々の中でとりわけ年輩の人々は、民族語の演説に慣れていそうで、挨拶も先ずは民族語で話し始め、その後に「新入生のために申し上げありませんが、今回は特別に」と断りを入れてから、日本語にチェンジした。
 韓歴研の先輩や学外組織の役職者も似たようなことをしたが、肝腎の民族語の発音や演説の拙さが、僕ら新入生にも分かるほどだから、言語のチェンジが取ってつけたようで、少し滑稽にも聞こえた。
 僕個人に限って言えば、その種の宴会での展開は、ほぼ同じだった。最初は猫を被っておとなしくしているが、アルコールを勧められると断るどころか、自分の許容量を弁えずに、注がれるとすぐさま、粋がって飲み干してしまう。すると案の定、「すごいなあ。新入生で既にこれだけの飲みっぷりを見ると、将来はすごい大物に!」などとおだてられ、すっかりその気になって杯を重ねるうちに、緊張などすっかり緩み、最初の猫かぶりの反動も重なって、調子に乗って余計なことを話し始める。そのうちに、頭も体も自分のものでなくなり、駄弁も抑えが効かないどころか、呂律までおかしくなる。トイレに立つと足元がふらふらと危しく、なんとか用だけは済ますが、その場でそのまま沈没しそうになる。
 そんな展開が、僕のその後に続く酒癖の基本形となって今の僕がいる。しかし、僕はその酒と酔いに任せた駄弁のおかげもあって、たいした趣味道楽など持たない人生でも、それなりに楽しみながら生きてこれた。そんなことをとことん承知しているので、酒に対しても、誰かに対しても、、ましてや社会に対して、文句など言えるわけがない。
 新入生の参加者についても、少し説明しておきたい。新入生の参加者はどちらも、ほぼ同じ顔ぶれ、そしてほぼ同じ人数だった。在日の新入生の総数は12名か13名とのことだった。その1名の差は、母親が日本人で、その母親の籍に入っている大阪の在日では著名な商工人の父親の息子らしく、その息子のことを在日の範疇に入れると13名、在日でないと見なせば12名になるからとのことだった。どちらのサークルの歓迎会にも、そのうちの半分足らずの5,6名が参加し、そのうちの1ないし2名を除く4ないし5名は同一メンバーだった。
 因みに、片方の宴会にしか参加していなかった1ないし2名と言うのは、後で知ったことだが、親の政治的立場が明確で、子どもがそれと敵対しそうな在日組織の行事に参加することを断じて許さないという明確な事情があってのことらしい。その他、どちらにも参加しなかった6ないし7名は、民族組織との関係を拒否していたわけだが、その後においても僕はその人たち、つまり、同胞新入生の約半数とは一度も顔を合わせたことがない。
 両方の宴会に参加した4ないし5名は、子どもの自由裁量が可能なほどに親が寛容か、或いは、親がそんなことには関心が薄い家庭の子供だった。或いはまた、子どもが自分の行動について、逐一、親に報告しなくても済む家庭環境にあった学生であり、だからこそ、両方のサークルの上級生の話をよく聞いたうえで、どちらかに所属するかしないかを決めようなどと、僕ともよく似た考えをしていたのだろう。
 そのように、民族に関する家庭環境や当人の考え方がよく似ていたからなのか、僕を含めた3人はその後、共に韓歴研を選んで卒業まで親しく付き合い、卒業後も中年に至るまで、定期的に会っては酒を酌み交わした。しかも、50歳になったのを契機に、酒以外でも同じ趣味で人生を一緒に楽しもうと相談した結果、スポーツサイクルとヘルメットなどを揃えてサイクリングを始め、定期的に日本国内の随所のツーリングはもちろん、自転車を携行して韓国の済州島や巨済島の一周サイクリングなども恒例にするようになるなど、他人が羨む親密で良好な関係を継続する。
 ところが、そんな理想的な人間関係も歳月には勝てないということなのか、一人は50歳代の半ばで突然に亡くなった。生まれてこの方の家庭の複雑な問題をようやくすべて解決して、新たな人生を始めるために、新しい家に転居したのとほぼ同時に別荘まで購入し、その庭造りに熱中していた最中に、あまりの張り切りと慣れない肉体労働の重なりが祟ったのか、心不全で急死した。
 もう一人は、その突然死した友人の欠落を埋めようとして残された二人(僕とその人物)が密接な関係になりすぎたのが仇になったのか、60歳になる直前に絶交するに至った。と言うよりも、その友人が僕との関係を一方的かつ突然に断って、既に15年になる。それこそまさに、僕の不徳の致すところなのだが、僕としてはその責任探しなどで心理的な隘路に入るよりも、もっぱらその間の友情に感謝することに決めて、その後の15年を生きてきた。それが可能だったのも、僕よりも年少の、在日や日本人の新たな友人たちのおかげであり、今なおその人たちに支えられて生きているというのが、日々の実感である。捨てる神あれば拾う神もある。なんとも有難いことである。

国民性(民族性)論に対する警戒―歌が上手なのは朝鮮民族だからなのかー

 民族サークルの新入生歓迎会という名の宴会での主な余興は、何と言っても歌だった。その歌唱力と声量なども、二つのサークルの人々は、甲乙つけがたいほどに見事だったので、新入生の僕などは、「朝鮮人はどうしてこれほど歌が上手なのか。芸達者なのか!」とため息を吐きながら、驚いてばかりだった。僕らは大学に入って初めて、地縁血縁の民族集団とは別の、組織集団、或いは、イデオロギー集団としての民族集団と出会ったわけである。。
 そうは言っても、宴会芸について考える際に、暗黙の裡に比較対象としている日本人の大学サークルの宴会などには、実は僕など一度も参加したことがないのだから、比較などできるわけがないので、なんともおかしな話である。なるほどそうなのだが、比較などとは関係なく、僕が民族サークルの宴会で<同胞>の歌や踊りや演説の巧みさに舌を巻いたことは事実であり、南北のどちらの宴会もその点ではまったく変わりがなかった。
 それ以来、既に半世紀も経た現在に至るまで、在日の歌唱力、表現力に関する印象はまったく変わらないどころか、<韓流>の熱風も受けて、今や在日のみならず国家や民族単位で、すっかり確信に変わった。
 「歌をそんなに上手に歌えるなんて、どれほど気持ちいいことか!」と自分の音痴ぶりを嫌というほど弁えていた僕だから、余計にそのように思ったのだろう。
 それはともかく、朝鮮人はどうして歌がすごく上手なのだろうか。民族語の特性(母音子音の多様性、リエゾンのような音の連鎖システムなど)、騎馬民族特有のリズム感、<showing,見せること、語ること>、つまり表現力が重要な位置を占める文化・社会の性格、さらには、喜怒哀楽を吐き出さずにはとうてい堪えきれない悲劇の連続だった歴史的事情など、実に多様な説がある。ところが、そのどれも帯に短し襷に短しの感が残るので、とりあえずは、それらを総合した<民族的特性>とでも呼ぶしかなさそうである。
 僕個人は、そうした民族性論や国民性論は、個々人の本源的な自由を否定しそうな趣があるので、頑として受け入れるつもりなどなかった。ところが、歳をとるにつれて、そんな議論も一定の留保を付けるならば、受け入れてもいいかなと思うようになってきた。
 民族性論(国民性論)に頼ると、あらゆる人間集団における例外や少数派に対する寛容の精神を失いかねないので、あくまで、例外や少数派に関しての留保を失わないという条件付きで、僕も受け容れるようになったのである。
 要するに、韓国・朝鮮人には歌が上手な人が多い、というような言い方なら、僕はそれを支持する。
 それと言うのも、生憎なことに、僕が生まれて永らく最も身近な韓国朝鮮人だった僕の両親や兄弟たちは、必ずしもそうした朝鮮人の一般的タイプに属しそうにないからである。そこで、ついでだから、僕の家族の歌唱力にも少し踏み込んでみる。
 僕は生まれてこの方、父や母が鼻歌を歌う姿なんて見たこともない。少なくとも僕の記憶ではそうである。だからなのか、歌や踊りと父や母をつなげて考えることなどできない。それどころか、陽気な父の姿も、酒に酔っている時以外には、あまり記憶にない。僕が生まれ育った家庭には音楽が流れているようなことは殆んどなかったし、陽気な笑顔や笑い声もどちらかと言えば少なかった。
 しかし、誤解のないように付け加えておくべきなのは、僕の父は在日一世の一般的イメージとなっていそうな、何かにつけて荒れる暴君などではなかった。言葉数は少ないが、子どもはその父に愛されているという実感が何故かしら、あったのである。だから、我が家は音楽や言葉がないと困るような家庭ではなかったという事実を述べているに過ぎないのである。母もまた、あまり余計なことは言わなかった。愚痴はもちろん、稀にはヒステリックになることはあっても、それほど頻繁ではなかったし、いつも鼻歌を歌っているようなこともなかった、というだけのことである。
 ところが、僕が小学校の3,4年生の頃のこと、当時は我が家のコウバの給料日などには殆んど恒例となっていた、我が家でのトンチャン宴会(ホルモン、贓物を七輪で焼きながら、ワイワイガヤガヤと酒食とお喋りを楽しむ)の場で、参加していたコウバの職人やその家族が興に乗ったあげくに、父に繰り返し、何か歌ってくれるように求めたところ、父はついに応じた。そして、おそらくは韓国の民謡なのだろうが、それを独特の節回しで見事に歌いきったので、僕ら子どもは驚いたことがある。
 父は普段は聞かないような独特な高い声で、実に魅力的で愉快な歌声を披露して、一同は拍手喝采だったので、僕は父のことをすっかり見直した。但し、その後にはそんな場面に二度と出くわしたことがないので、父の宴会芸も、僕らが驚いたあの曲だけだったのかもしれない。
 兄弟の中では何かにつけて、父の血を受け継いでいそうな兄もまた、歌が上手だった。
 僕らが小中時代に人気を集めていた若手歌手三羽烏の一人の西郷輝彦と兄とは、身長や体重も含めた外見がすごく似ていただけでなく、西郷のヒットソングは兄の十八番にもなっていた。その兄が我が家での宴会の時に、大人たちのしきりの要望を受けて、十八番の歌を披露して、喝采を浴びたのである。したがって、兄は朝鮮人の民族的伝統を父経由で引きついでいるのだろう。
 ところがそれ以外の家族、例えば母は、僕らに歌や踊りを聞かせたり見せたりしたことは一度もなく、僕は母の子守歌すら聞いたことがない。ましてや流行歌や民謡なんて、韓国のそれも日本のそれも聞いた覚えがない。どちらかと言えば控えめな性格、目立つのを嫌がる性格も関係していたのだろうが、歌が上手に歌える自信でもあったら、母もきっと僕らにそれを聞かせてくれていただろうから、歌は苦手だったのだろう。
 兄弟の中で母の血を濃く受け継いでいそうな、兄を除いた僕ら兄弟たちの、歌ったり踊ったりする姿も僕は見たことがない。みんな揃って、その種のことには自信がなかったからだろう。
 その中でも僕の音痴ぶりは、在日二世の友人の奥さんで、かつては日本の小学校の教師だった日本人女性に、「あなたの歌を聴くと、日本の学校教育における歌唱指導の決定的な欠陥がよく分かる」などと真顔で言われたことがあるくらいで、推して知るべしである。
 そんな経験的信憑も絡んで、朝鮮人は一般的に歌が上手であるという言い方は、間違いではないのだろうが、だからと言って、「一般的に」という留保の文言を決して忘れずに、限定的に使わないと、とんでもなく抑圧的な議論になると僕は警戒する。
 民族的特性などという言葉は、「その民族のだれにでも一律に当てはまるものではないという前提条件を肝に命じながら使うべし」といったように、柔軟性を伴わなければ、あらゆる集団におけるマイノリティに対して、抑圧的もしくは排他的で硬直した思考をもたらしかねない。愚の骨頂かもしれないが、そのことを歌が恐ろしいまでに下手な朝鮮人である僕の存在が証明していると、僕としては主張したくなる。

学外の民族的学生組織の新入生歓迎ハイキング

 学内サークルの行事も、歓迎会を終えると一段落して、次には学外組織、つまり各大学の民族サークルの上部組織でもある大学横断的な学生組織が主催する新入生歓迎ハイキングが待ち構えている。
 案内通りに弁当持参で指定された駅に集合すると、上級生が用意した歌集などの資料配布を受けて、連れ立って電車に乗り込む。郊外の山裾の駅に着くと、ハイキングの開始である。しかし、なにしろ新入生の参加者の殆どが互いに初対面なので、雑談を楽しみながらの山歩きとはいかない。黙々と山道の登坂を続けるうちに、どうしてこれほど面白くもないし、疲れるイベントに参加したのかと、後悔したりもする。
 そんな新入生の気持ちを察して、上級生が分担して、離れ離れでつまらなさそうに歩く新入生に近づき、何かと話しかける。そのうちに新入生の口も少しは軽くなる。そうなると、折からの薫風の爽やかさと陽光などの自然の恵みも感じられて、身も心も軽くなって、ハイキング気分にもなってくる。初対面の決り悪さもある程度はほどけて、互いに簡単な自己紹介などを交えて、言葉を交わしながら歩くようになる。
 最終目的地となっている眺望が開けた広場に到着すると、芝生上で円座になって、上級生の指導と歌集の助けも借りて、朝鮮の民謡その他の歌などの練習もする。歌集のハングルの歌詞にはカタカナのフリガナと日本語訳が付されているので、決して難しくはない。
 いかにも歌が得意そうな上級生が携行してきたギターで、流行の日本語や英語のフォークソングの弾き語りでも始めると、新入生たちも自然とそれに和したりする。
 そのおかげで随分と寛いだ雰囲気になると、全員の自己紹介が始まる。自己紹介がてらに、何か一言、例えばその行事に参加した気持ちなども付け加えるように求められる。しかし、新入生の殆どは、大学名、自分の名前、居住地くらいで。お茶を濁す。
 以上は、僕が参加した二つの学外組織の歓迎ハイキングの前半までの様子を総合した記述である。それと言うのも、二つの経験の具体的な展開については、ほとんど区別できないほどに記憶が曖昧だからである。
但し、両者には次のような差異があったことも、記憶に残っている。
 学内サークルとは違って学外組織ともなると、新入生は政治的色合いに対する警戒感が強まるのか、韓学同の行事では、僕の大学の新入生は僕以外には誰も参加していなかった。だから、サークルの歓迎会で顔見知りになった新入生もてっきり来るものと思い込んでいたからこそ気楽に参加していた僕は、肩透かしを食らった気分だった。
 他方、留学同のハイキングでは、同じ大学の朝文研のサークルの歓迎会に参加していた新入生が二人も参加して、随分とはっきりと今後はその活動に積極的に参加する意思を表明するので、僕は少し驚いたが、その二人共に、家が朝鮮総連のわりと熱心な組織員であると、サークルの宴会時に聞いていたことを思い出して、なるほどと納得した。
 さて、その後の昼食などに関しては、どちらの組織も次のように、ほぼ同じような展開だった。
各自が持参した弁当箱を開くと、女子の上級生が予め準備してきたキムチやキンバップ(朝鮮風海苔巻き)やナムル(野菜の和え物)などを、全員に回し、個々人も自分の弁当のおかずなどを近くの参加者に分け合ったりもして、同胞の若者の集いの雰囲気が強まる。
 食事が終わると、しばしの自由時間であり、既に言葉を少しは交わして気が合った者同士は周辺を散策するなど親交を深めるなどして、予定時間になると、改めて全員が集まって円座して討論となった。
 大学合格後にオルグの先輩たちと会うたびに繰り返されてきた議論を、今度は新入生だけで話しあうように、上級生はもっぱら見守り役に徹する格好である。
 テーマは、在日の学生の民族的生き方とは何か、それについての高校までと大学入学後における考え方の変化、そして、今後、どのように大学生活を送り、その生活において民族組織との関係をどのように考えるか、等だった。
しかし、いざ話し合いが始まっても、本音というよりも建前的な話が多く、他方では、そうしたきれいごとに反発して、少し悪ぶるような議論もあったが、それもやはり型通りで、特に興味をそそられる議論は殆んどなかった。
 建前的と言うのは、例えば、自分の<血>に誇りを持って、民族のために何かをするために頑張りたいといった類のものであり、僕などは鼻白んだ。
 その種の建前的な話に反発するかのように、民族なんて自分にはどうでもよくて、誘われたので参加はしたが、今後どうするかは分からない、といった話で、その場を指導する上級生たちには当惑する気配も否めなかった。
 僕はむしろそうした本音をさらけ出すような議論の方に好感を持ったが、だからと言って、それに同意するつもりはなかった。僕にもその種のことを言いたい気持ちがなくはなかったが、それは既に上級生たちと個別に会った際に、何度も話してきたことだった。そして、上級生との議論の延長上でその種のイベントへに参加することを決めていた。つまり、その時点では既に、何らかの形で民族的な運動に関わることを決めており、この段階に至ってもなお<民族>に背を向けたり、そこから逃げだそうとするなら、大学に入った甲斐がない。そんな少し切羽詰まった考えに立って、大学生活を組み立てるつもりでいた。
 ところが、どのようにすれば<民族>の問題を自分の中に取り込んだ大学生活にすることができるのか、その具体的な方法が曖昧なものにとどまっていた。判断基準になる知識や経験が必須で、そのためにも誘われるままに、どんなイベントでも参加していたのだった。

学外組織の新入生歓迎の文化祭的イベントなどと二次会

 運動の次は文化というわけなのか、ハイキングを終えて1,2週間後には、これまた二つの学外組織による文化祭的な歓迎会があった。しかし、僕自身は何故かしら、韓学同のそれには参加したが、留学同のその種の行事の記憶がまったくない。理由は分からないが、留学同のその種のイベントには参加しなかったからだろう。
 したがって、以下ではもっぱら韓学同の文化祭的新入生歓迎会のことだけを記述する。
それは韓学同の上部団体である民団大阪地方本部の建物内の広い講堂で行われた。韓学同の事務所もその建物の二階端にある一室であり、そこからだと階段を下りて、すぐのところにある広くて天井の高い空間だった。僕が卒業した歴史のあるすごく旧い小学校のシンボルとなっていた旧くて立派な講堂と、構造や広さや古臭さが実によく似ていた。
前方には大きな舞台があり、それと向かい合って広い観客席がある。但し、その観客席にはふだんは何もなく、行事の性格に応じて、片隅にうずたかく積まれたパイプ椅子を並べて観客席にするようになっていた。
 普段は、職員その他が昼休みなどの自由時間に軽い運動、例えば、卓球ができくるように、卓球台が置かれているだけの、何もないだだっ広い空間だった。
 新入生歓迎会は二部構成になっていて、第一部では舞台の前にパイプ椅子を縦列、横列ともに10列ほど並べて観客席とした。要するに、100名分の座席を確保していたが、実際の参加者は50名に満たなかったのではなかろうか。だから、1名分は荷物を置くようにして参加者全員が座ることもできた。
 舞台端には韓国国旗である太極旗が掲げられ、先ずは<国民儀礼>をしたが、その内容については正確な記憶がない。その種の儀式が僕は大の苦手だったからだろうか。それに僕は高校三年の夏の韓国遠征の際に、それを何度も経験していたので、慣れもあって、あまり抵抗感がなかったからだろうか。ともかく、上級生たちがするのを真似たはずである。
 先ずは右手を胸にあてたままで、黙とうをしたのか、或いは、愛国歌を上級生が歌うのを聞いていたのか、そのどちらかのはずである。
 念のためにネットで調べたところ、1972年に朴正熙大統領が決めて実行されるようになった新たな国民儀礼では、決まった文言を宣誓するようになったらしい。ところが、僕が大学に入ったのは1969年なので、その新形式とは無関係だったし、1972年には4年生だったが、朴正熙大統領が決めた新国民儀礼を行った記憶がない。しかも、その年には、韓学同は民団から放逐された結果、民団の束縛から解放されて、そのような儀式を行う必要もなくなったはずだが、そんな変化に後輩たちがどのように対処したのか、僕はまったく知らない。韓学同が民団から追放されると同時に僕も民団から除名され、そのあおりを食らって両親までも連座制で旅券を剥奪されるなどして、僕の身辺には嵐が吹いて、韓学同のその後に神経を遣う余裕など殆どなかったからである。
 それはともかく、韓学同が民団の傘下団体だった時期の公式行事では、とりわけ民団役員が来賓として参加している場合には、国民儀礼を行わないで許されたはずがない。
 そんな儀式に少なからずの抵抗感を持った新入生がいただろうが、そのような話を聞いた記憶がない。韓学同の行事に参加するからには、その程度のことは覚悟していたのかもしれない。少なくとも僕はそうだった。
 国民儀礼に続いては、既に学内サークルの歓迎会で顔を合わせたことのある韓学同大阪の委員長の挨拶、次いで、民団の文教部長の挨拶、そして、卒業生代表の挨拶が続いた。或いは、卒業生代表は挨拶ではなく、在日韓国人の大学生の進むべき道といったテーマの講演をしてくれたような気もする。
 次いでは、韓学同の盟員(学生同盟員)の様々な出し物、例えば、合唱、伽耶琴の合奏、集団舞踊などが続いた。
それが終わると、第二部の準備のために、しばしの休憩時間となり、その間に、上級生が会場の設営で慌ただしくしている間は、その手伝いなどもしていた。 
 さて、準備とは次のようなことだった。4つの組み立て式の長い机を並べて、全体としてほぼ正方形になるようにして、その上に白い大きな模造紙を数枚、ピンでとめるなどして敷いて、それをテーブルクロス代わりとする。その上に、お茶菓子、韓国料理(韓国風の海苔巻であるキンパプ、鶏肉のから揚げ、煮豚のスライス、モヤシやホウレン草、蕨、ニンジンなどの和え物であるナムル、茶菓子、そしてジュースやビールとグラスを並べる。そんなものを6テーブル設営して、その各々を取り巻く形でパイプ椅子を8から10脚ほど並べた。それで50名から60名収容の宴会場ができあがった。
第二部が始まった。
 先ずは、先ほど講演をした先輩とは別の先輩の音頭で乾杯となった。それぞれが紙コップにビールやジュースを注ぎ、その紙コップを高く差し出し、先輩の音頭に合わせて、声を揃えて乾杯!を叫んで、飲み干した
 しばらくの歓談の時間となって、既にハイキングで顔見知りに、さらには言葉も交わしていた学生などもいるので、それなりにリラックスして挨拶その他、ビールなど飲みながら歓談しているうちに、真昼間のビールでたちまちのうちにほろ酔い気分になった。
 次いでは、歌がいかにも得意そうな上級生たちの歌、そして特に指名された新入生代表の自己紹介と、韓学同の一員としての活動を始める決意表明もあった。
 第一部で基調講演をしてくれた先輩が、今度は新入生への祝いとして「カゴッパ(行きたい、帰りたい)」を歌ってくれたが、その流麗で勇壮でリリックな歌声が、今でも忘れられない。
 韓学同や韓青同の酒宴その他では、歌唱力に自信がある人の多くがその歌を十八番としており、僕もその後には何度も、その歌を聴くことになった。それなのに、何故かしら、その新入生歓迎会で卒業生が歌ってくれた「カゴッパ」が特別に記憶に残っており、今でもその人のことを思い出すたびにその歌声が蘇る。

女子学生たち

 ところで、その種のイベントも含めて、何かイベントがあった後には必ず二次会があった。そして、それに最後まで付き合う新入生は当然のように、<脈あり>と見なされる。そうなると、その種の新入生に対する上級生の議論も、もはやお客さん扱いではなくなる。新入りの、いは、下っ端として、組織の内部事情なども少しは明かにした本音に近づく。ところが、そんな場面に女子学生がいることは少なく、その種の内輪話も含めた本音は男子学生たちの特権のようになって、女子学生たちには共有されにくい。
 女子の場合は、家の門限その他の事情もあって、たとえ二次会に付き合ったとしても、喫茶店までのことで、その喫茶店でも途中で後ろ髪を引かれるようにして帰路につく場合も多い
 他方の男子学生の場合は、喫茶店どころか、さらに酒席まで居残ることも多いし、そもそも、韓学同のイベントに参加する学生の大半は男子学生にほかならず、女子学生は2割に満たなかった。しかも、それが二次会三次会などと長時間、夜遅くともなれば、女子の姿は極端に少なくなる。
 それにまた、男女間の垣根も高かった。イベントが重なるにつれて、同じ大学の新入生の多くは互いに顔合わせを済ませているので、それなりの関係もできてくるが、他大学の新入生や上級生の多くとは、顔をあわせる機会自体が限られるので、なかなか打ち解けない。とりわけ、男子学生の多くは、女子学生と自然に言葉を交わすことに慣れていない。自分が通う大学には知っている同胞の女子学生など、ひとりもいない場合も多い。
 僕の大学でも、全学部の全学年が対象ならば、わずかだが同胞の女子学生がいた。例えば、僕より4年上の5年生には、既に紹介したように医学部に一人、2年上の3年生では歯学部に一人、僕より下では、一年下の薬学部に一人、3年下の経済学部には一人の女子学生がいた。それより下の学年については、僕は大学は卒業していなくても、同胞の学内サークルと学外組織からは卒業が慣例だったので、知るはずもない。
 その他、僕らの大学に併設されていた医療短期大学が僕の卒業後には、大学本体に編入され、次いでは大学の医学部に組み込まれることになったらしいが、それはずっと後のことで、僕らの時代には医療短大の学生とはまったく接触がなかった。後の趨勢から見て、僕らの時代にも相当数の同胞の、特に女子学生がいたはずだが、僕らの視野にはまったく入ってこなかった。
 それにまた、僕が活動に参加することに決めた学内サークルの韓歴研は、僕が在学していた頃には男子しかいなかった。したがって、学外組織で接触することになる他大学の女子学生を相手にすると、少なからず緊張し、どのように対応していいのか分からなかった。
 そもそも、当時の日本総体の教育状況においても、四年制大学に通う女子学生数は甚だ限られていた。むしろ二年制短大が女子の多数派であり、4年制でも特定の学部、例えば、薬学、家政学、文学などにほぼ限られ、全体として男子学生と比べれば、女子学生は圧倒的に少数派だった。
 在日の学内サークルや学外組織の場合は、そうした日本総体の状況と比べても、さらに女子の率は低かったはずである。女に教育は無用であるばかりか、邪魔になると考える在日一世が、男女を問わず多かった。
 しかも、2年制短大の女子学生たちの場合は、ようやく親しくなった頃には、卒業を目前とするなど、本音をぶつけて議論を交わすような機会など、ほとんどなかった。僕らの在日の学内サークルも学外組織も、圧倒的に男子学生の世界だった。人数はもちろんのこと、思考方式なども圧倒的に男中心で、そのことに僕ら男子学生は気づきもしなかった。
 それでも、さすがに同胞の若い男女が巡り会う機会が他には少なかったからか、そうした学内サークルや学外組織などで知り合って、後に結婚に至った人たちが少なからずおり、僕の場合もそうだった。大学は異なり、学年も異なり、学外組織の先輩後輩として知り合って、数年後には結婚に至った。
 但し、同じ大学の学生同士の結婚は、女子学生が圧倒的に少なかったので、あまりいなかった。僕が知る限りでは、4年上の医学部同士のカップル、3年下と4年下の同じ文系同士のカップルだけだった。
 しかし、学外組織、もしくは他大学の場合には、僕自身はあまり詳しくはないが、その数が相当に増えるし、学生組織と兄弟関係にあった同じ地方の青年同盟のメンバーとの間での恋愛や婚姻の場合も合わせれば、飛躍的に数が増えた。
ところで、上で言い落したことが気になるので、学外組織の新入生歓迎ハイキングの帰路の話に少し戻る。
イベントや学習会の二次会で、話を継続するべく喫茶店などに入ると、4人の席に上級生が1、2名、そして所属大学が異なる新入生2、3名が一組で対面して腰を下ろす。その形で膝を詰め合って対面すると随分と親しみもわく。そして、話をするうちに、沈黙でも生じれば、上級生がその間をつないだりと、リードもしてくれるので、言葉も滑らかになって、同胞感情が芽生えたりもする。
 そのうちに夕刻にでもなれば、酒席へと誘われる。それを断って、そのまま帰路につく新入生もいるが、僕などはむしろその酒席自体もお目当てにした参加だったので、帰るわけがない。そして、何かの折に、例えば、ビールを注ぎあったりする際に、女性の上級生が声をかけてくれたり、上手にあしらってくれたりの配慮をしてくれると、すぐさま反応して、酒のスピードも速くなり、舌も滑らかになって、その場に、そしてもちろん、一緒にいる同胞学生になじむようになる。
 ところが、そのように一次会、二次会、三次会と議論が続くうちに、オルグする上級生や組織専従の活動家たちの話も、次第に本音になってくる。そして、そうなると、南北の二つの組織の議論の違いが、甚だしく明確になってくる。そのことを、留学同の場合に絞って記しておきたい。それと言うのも、その違いは僕の違和感の強弱として僕の記憶に残っており、違和感が圧倒的に激しくなったのは、留学同の場合だったからである。
 最初は身の回りの話など、相当に柔軟に僕ら新入生の話に耳を傾けてくれる様子だったのに、ある時点からは<親愛なる金日成将軍同志>といった呼称を先頭に掲げて、正義、真理、英雄、偉大な指導者(領導者)といった言葉が数珠つなぎになって途切れなくなる。そうなると、ただでさえ<臍曲がりな>僕などは、胸やけが始まって耐えられず、ついには逃げ出してしまいたくなる。
 ところが、その一方では、その人たちの主張する<正しい歴史>と、その言葉に反発する僕の存在と志向性に対する<歴史に対する背反>といった強迫的かつ脅迫的な裁断とが、僕の心身を縛りつける。<民族に対する裏切り>という僕に投げつけられる非難に抵抗するのは難しいだけでなく、僕の中に潜む懐かしく甘い記憶と密接に絡みあった情緒とが一体となって僕を金縛りにした。

<歴史への背反という恫喝>と<甘い追憶>のダブルバインド?

 その昔、中二階建ての4軒長屋の一軒だった我が家の、中二階で新婚所帯を構え、夫は我が家のコウバで父の右腕として働きながら、夫婦ともども僕ら兄弟をすごく可愛がってくれる若夫婦がいた。その二人がやがて生まれた赤ん坊も連れて、北へ<帰国>することになった。
 僕がまだ小学校の一、二年の頃のことだったはずである。我が家で開かれたその一家の送別会での、まるで夢のような甘い記憶が、それから10年以上も後に大学生になった僕の、<北の祖国>に対する考え方や対応に影響を及ぼすことになる。
その<兄ちゃん>は宴会も終わりそうな頃に、送別会に参加した人々への感謝と別れの挨拶の際に、僕を高々と天井近くまで抱え上げながら立って、「お前たちもいつか祖国に帰ってくるんやど。自分の国が一番や。待ってるぞ!」と力強く言い聞かせたのである。
 その時に僕は、自分がまるでヒーローになったみたいに顔が火照り、前身が思わず身震いするような感覚だった。
ところが、実はその言葉は、抱き上げられていた僕に向けられたものではなく、その兄ちゃんの足下で座って、兄ちゃんを仰ぎ見ていた僕の兄に向けられていた。そのことを、僕は知っていながら、何故かしら、僕に向けられたものであるかのように、ほとんど意識的な錯覚をして、記憶に刻み込んだ。
 しかも、それからさらに数年も遡る、ある出来事の記憶も重なる。
当時の父は、北系の政治運動に相当なシンパシーを持って応援もしており、我が家の近くにあった北系組織の事務所前の広場での集会に、まだ幼かった僕を抱いて参加した。
 そして僕はその父の胸の中で、人々が<祖国統一マンセー(万歳)!>などと声を合わせて叫ぶのを聞きながら、その意味など全く分からないままに、その広場を埋め尽くした大人たちの声と動きを、父を通して体感し、それと共鳴していた。
洋館風の二階のバルコニー上の、白い襷がけの人物たちの演説、それに呼応して声をあげ、全身で喜びを表現する大人たちの様子ももちろん目にして、喜んでいたのである。
 集団的高揚に影響されてのことだろうが、普段はそんなことなどしそうにない父までもが、大きく体全体を揺らしながら声をあげ、その父に抱かれた僕の体も、すっかりその波に乗っていた。
 演説や掛け声が織りなすリズムと、それに合わせた集団の大きな揺れ動きが一体となった記憶が、僕の心身に刻み込まれた。その躍動感に彩られた強く激しい記憶には、大学新入生としての北のイデオロギーやその人間的表現としてのオルグに対する違和感、警戒感などは太刀打ちできなかった。
 僕は「民族の歴史への背反」などは、恐ろしくて、何としても避けたかった。しかも、飽きることなくに情熱的に祖国を語る人たちの辛抱強さとそれを支えていそうな信念に脱帽せずにはおれなかった。だからこそ、違和感と警戒感に苦しみながらも、北系の学内サークルや学外組織の誘いに、拒否の姿勢を闡明にすることも、さらには、その気持ちを密かに貫くこともできるはずがなく、いたずらに右往左往を繰り返していた。
(「ある在日二世の青春11」へと続く。2024年3月29日改稿)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の9

2024-03-15 15:18:33 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の9

第三章 同胞集団との関係の進展 
1節 同胞との接触場所―喫茶店文化の花盛り
2節 同胞の類型
3節 組織化の階梯-学内サークルから学外組織に
4節 民族集団という「想像の共同体への参入」ー民族と酒の二重の陶酔
(検討中:5節 選択の時-北か南か、或いは、ノンポリか。それも、グレーゾーンか断絶かー)

1節 <同胞>との接触場所

喫茶店文化の花盛り
 僕の大学入学前後の頃が、日本の喫茶店文化が最盛期だった気がする。少なくとも僕の場合、70年を越える人生の中で、あの頃ほど喫茶店に頻繁に出入りした時期は他になかった。、僕にとって大学と喫茶店とは、ペアの関係だった。大学生になったからには喫茶店に出入りするのが当然、或いは、喫茶店に頻繁に出入りしてこそ大学生といった信憑が僕にはあった。さらに言えば、常連の喫茶店の一つか二つを持っていない大学生なんて、その名に値しないといった思い込みを、僕は持っていたらしい。そんな馬鹿げた思い込みの数々が、僕の人生を左右してきた。中高までの文武両道などもその一つだろう。ああ、何たることかなどと、今さら呆れかえっても仕方がないことだけど。
 因みに、その<喫茶店>とは、近年になって、やたらと使われるようになった<カフェ>とは似ているが、異なる側面を多々備えた飲食店である。ここで言うところの喫茶店とその文化は、今や、その過半は消えてしまったような気がする。テレビその他で、まるで生き残った珍種のようにノスタルジーを込めて取り上げられる<純喫茶>なんかには、その片鱗が残っているが、その純喫茶などは、かつての多様な喫茶店の多様なバリエーションの一つに過ぎないだろう。
 それはともかく、その頃に僕もようやく、少しは金銭的余裕と喫茶店に出入りしても許される<一(もしくは半)人前の大人>のステイタス(つまり大学生)を得て、その一(もしくは半)人前気分を味わいたくて、喫茶店への出入りを始め、やがてはいろいろな理由が付け加わることによって、入り浸るようになった。
 喫茶店通いはその頃の僕にとって、自立もどき(あくまで、僕の人生の多くに関係する、<もどき>)のシンボルであり、そこで過ごした無駄そうな時間は、僕にとって貴重な人生経験・勉強の側面があった。やたらと肩に力を込めての真面目くさった議論ばかりか、他愛ない雑談や冗談その他こそが、僕の青春だった。
 喫茶店通いがすっかり習慣になると、夜に布団に入ろうとしてふと、その日には一度も喫茶店の敷居を越えなかったことに気づいて、何か大事なことをし忘れたような気分になることもあった。
 喫茶店とくれば<一人前の男>の徴であり、格好付けの必須の小道具だからと、タバコも絡んで、コーヒー、タバコ、そしておしゃべりのトライアングル、それが夜の場合には、ウイスキーがコーヒーに取って代わり、ウイスキー、タバコ、そしておしゃべりのトライアングルが病みつきになって、僕の自堕落な人生の大半がそれに費され、僕の青年期以降、とりわけ、中年期に入ってからとみに目立ち始めた心身の不調の最大の源泉となった。
 但し、その種のことは必ずしも僕に限られたものではなく、むしろ、時代のファッションの一端でもあり、僕の場合はそんな習慣付けの何よりも大きなきっかけが、大学内外の民族サークルや組織のオルグ(勧誘)であり、これまた在日二世のある種の学生に共通することだったので、僕だけの独自なことなど、何一つなかったことになる。しかしともかく、僕の喫茶店びたりは、大学入学直後からの民族主義の襲来と共に始まった。
 そうは言うものの、大学入学直後から延々と続いた自宅待機の頃には、終日にわたってコウバに縛り付けられていた僕が、喫茶店にたむろできる曜日や時間帯は、ウイークディなら夕刻以降で、昼間も可能だったのは日曜日だけだった。
しかも、自前で喫茶店に頻繁に出入りする金銭的な余裕など、無給でコウバに駆り立てられていた僕なんかにあるはずもなく、もっぱらオルグを目的として僕を繁華街の喫茶店に呼び出す<先輩のおごり>だった。喫茶店ばかりか酒席もまた、そのたいていが<先輩のおごり>だった。
 尤も、そのことくらいのことなら、<先輩>の必要と要請を受けて僕が喫茶店に出向いたのだから、当然かつ合理的と思えて、心理的負担にならずに済んだ。ところが、そうした経験を数多く重ねるうちに、そのような形(立場が強いる飲食の<おごり>)がすっかり身に着いてしまった。年齢や社会的ステイタスその他の上下関係と金銭関係とが不可避に絡みあい、それを当然視するようになった。言わば、男の大人の世界の旧態依然とした行動規範の一つとなった。それから脱しようと何度も試みながらも、それに成功しないままに、釈然としないものが燻ったままである。
 それはともかく、大学が正常化という錦の御旗を掲げて授業を開始すると、僕はよほどの繁忙期は除いて、コウバから解放されるようになった。そこで、遊びやサークル活動の軍資金稼ぎの為に家庭教師のアルバイトを始めると、ついつい成り行きで家庭教師を掛け持ちする羽目になったので、思わぬことに、経済的な余裕にも恵まれるようになった。
 しかも、大学に通うという名目を盾に、時間に関する自由裁量の幅も一気に広くなった。そうした二つの条件の際立った改善のおかげで、僕の喫茶店通いに加速度がついた。
 授業の開始をあれほど切実に願っていた僕なのに、いざ授業が始まると、その退屈さに負けて、次々とさぼるようになり、その<成果>としてのフリータイムを、特に午前のそれを利用して、米飯とみそ汁と母親お手製のごま油と醤油味の卵焼きが定番だった朝食に代えて、喫茶店のゆで卵と厚焼きトーストとコーヒーのモーニングサービスを、時間の余裕など学生身分の贅沢さもあわせて満喫する癖がついた。
 軍資金の確保には、短時間で稼げる家庭教師を見つけた。ところが、良い事の裏には何かと不都合なことが付きまとうのが人生の常らしく、<民族に目覚める過程>の在日の学生に往々にして生じる、自業自得の心理劇の苦味などもやがてには経験するのだが、それについては後に詳述する。

 喫茶店と言っても、その実態は実に多種多様だった。喫茶の前に冠のように付すジャンル名に各種あるばかりか、それぞれのジャンルの喫茶のそれぞれに足を踏み込めば、さらに多様な性格を備えた喫茶店があった。
 つまり、謳い文句としてのジャンル名が同じであっても、その実態は千差万別で、価格はもちろん、インテリアの様式も含めた店の雰囲気、コーヒーの濾し方や味、さらには、提供される飲食物の種類も実に多様だった。その結果、店が掲げる喫茶店のジャンルなど、殆んど意味をなさない場合も少なからずあった。
 そこで、あの時代に疎い読者もいることを考慮して、以下では参考までに、当時の喫茶店という飲食業の多様性について説明を試みたい。
 <純喫茶>が最も一般的な冠名だったが、一般的とは、千差万別の多様な実態を一括したものにすぎず、その内部には多種多様な形態の喫茶店が含まれていた。その名に最もふさわしそうなのが、店内どころか店外の界隈までコーヒーの香りが漂い、少し凝ったインテリアで、少し暗めで静かで落ち着ける雰囲気、妙齢の男女の二人連れはもちろん、一人で本でも読みながらゆっくりとコーヒーや紅茶を味わいながら、休息の時空を楽しめる場である。
 しかし、実際には純喫茶を名乗る店で最も多かったのは、むしろ日本中のどこにでも、例えば、いくら小さな町や駅の周辺には必ず一、二軒があって、その界隈で働いたり、たまたまそのあたりを訪れた人々に、軽食その他の飲食を提供するとともに、商売絡みの事務所代わりや、備え付けられたテレビや週刊誌や漫画を楽しみながらの休息の場として利用される純喫茶と言う名の何でも屋。 
 そんな場末もしくはどこにでもありそうな純喫茶では副業も盛んだった。電話一本もしくは符丁コトバの簡単なやりとりで契約が成立する<競馬のノミ屋>を、公然の秘密とばかりに堂々と営むほか、賭博性が甚だしいゲーム機などを設置して荒稼ぎもしながら、まるでその隠れ蓑のように純喫茶を営業している場合もあった。
 そんな純喫茶が例えばパチンコ屋の近辺にあれば、なじみ客が終日、パチンコ屋とその純喫茶との往復を繰り返し、食事も酒もお喋りもそこですべて済ませ、店主や他の顔見知りの客に愚痴を垂れたり儲けを自慢したりとわが物顔で、知らない人が見ると、まるでその人こがその純喫茶の経営者と間違いかねない有様だった
 因みに、大阪の在日集住地区として有名な生野区界隈の純喫茶は、他の地域と比べて逸早く、そして長期にわたって、モーニングサービスが発達していたことでも知られているのはその地域の在日のご婦人方の多くは、家事とは別に終日の厳しい長時間労働を抱えており、朝食を自宅で用意して食べるよりも、最寄りの馴染の純喫茶でのモーニングで済ます方が、時間の節約に加えて休息や仲間たちとお喋りを楽しめるので、そこに<出勤>して、お喋りとモーニングをしっかり楽しんでから、第二の仕事場に出勤するのが一般的だった。そんなご婦人方にとっては、喫茶店の支払いなど、自分の稼ぎのことを考えると取るに足りないものだったらしい。
 つまり、巷のどこにでも転がっている大小の純喫茶は、いたって現実的な生活空間であり、格好を構うことなく、実質的な軽食と飲み物、そして仲間と気楽な歓談もしながら休息が取れる時空を提供していた。
 それに対して、都心のビジネス街や繁華街の純喫茶は、ビジネスマンが商用に、或いは、仕事をさぼって休憩に活用するなど多様な用途で活用され、シンプルで機能的なインテリアで明るく、一人でビジネスの準備や気分転換などにも格好の場所だった。
 次いで、音楽喫茶にもクラシック喫茶やジャズ喫茶など音楽の種類の冠名が付される場合があった。しかも、同じジャズ喫茶という名称でも、真昼から暗い店内で、ジャズにかぶれた徴でもある服装の客と店員が、殆ど終日にわたってたむろして、流れる大音響のジャズに合わせて、自分がまるでドラマー、或いはトランぺッターになったみたいに、手近にあるものなら何だって手に取り、それを楽器と見なして演奏の真似事もしたりと、すっかりプロのミュージシャン気取りが目についたり、夜にはライブ演奏などもある本格的なジャズ喫茶もあれば、もっと一般向けで、ジャズのスタンダードナンバーを静かに流し、壁には著名なサックスやトランペットの奏者やボーカル歌手の大きなポスターを貼り、お洒落なインテリアも相まって、上品でおしゃれな雰囲気を演出し、ゆったりとくつろげるジャズ喫茶もあった。そして、そんな店ではコーヒーもその店独特の香りと味わいを誇り、僕なんかは、ひとりもしくは友人と連れ立って、通いつめた時期もある。
 クラシック喫茶もいろいろで、大音響のクラシック音楽に合わせて、あるいはそれを率いる指揮者のように、手近にあるものなら何でも指揮棒に見立て、一心不乱にそれを振る客が何人もいるようで、そんな人の顔を隠す為でもないのだろうが、暗くて玄人好みのクラシック喫茶もあった。しかし、その一方ではわりと著名なクラシック音楽を静かに流して、客同士の話声が周囲に洩れないないような配慮がなされているクラシック喫茶もあった。
 その他、デート喫茶や同伴喫茶など相当にきわどそうな喫茶店と言う名の風俗営業店もあって、一時はラブホテル街などの周辺などで流行していた。

オルグの舞台としての喫茶店

 僕が<同胞の先輩たち>の誘いで足を運んだのは、初期はとりわけ、我が家から国鉄でたった二駅のキタの繁華街に位置し、相当に込み入った話でも周囲のことを気にせず話せそうな純喫茶か音楽喫茶だった。高校を卒業したばかりで、喫茶店通いの習慣などあるはずがなく、都心や繁華街の地理にもあまり詳しくない新入生でも、容易に見つけることができるようにという先輩方の配慮の結果だったのだろう。
 当時、よく通った喫茶店の中で今でも僕の記憶に残っているのは、国鉄(現在のJR)大阪駅前のすごく幅広の道路を挟んで真向いにあった古い木造二階建ての旭屋書店(当時のキタにおける最大の書店)裏の別館2階にあった「リーブル(本という意味のフランス語)」という音楽喫茶で、いつもスタンダードのクラシック音楽が音楽趣味などない客でも耳障りにならない音量で流れて、客が込み合うようなこともあまりないので、すごくゆったりと長時間、読書に耽りながら居座ることができそうだった。
 もう一つが、梅田東通り商店街のはずれでそこから奥はすっかりラブホテル街になったいわば境界に位置して、純喫茶の名に恥じず、凝った豪奢なインテリアと調度を誇る「白馬車」で、テーブルを間に挟む深々として背の高いソファのおかげで、恋人同士のプライバシーなども十分に守れそうなところだった。しかし、大学に入りたての僕などには豪華すぎて、あまり落ち着けなかったので、やはりそのすぐ近くに広がるラブホテルに向かう前の二人連れにこそ似合う純喫茶だったのだろう。
 さらにもう一軒となれば、梅田の桜橋交差点のすぐ近くの、オフィス街ということもあって、シンプルながらもそれなりの高級感を備え、ビルの二階にあった「大都」という純喫茶で、窓ごしに広い道路を行き交う車や人の波なども良く見えるなど解放感があるし、機能的なインテリアのおかげで、すごくリラックスできるので、僕はすごく気に入って、後には一人でも、その周辺にあった古本屋や左翼系の思想書を専門とする書店に立ち寄るついでに、通ったものだった。
 今から考えてみると、同じ大学の同胞の上級生たちが面談の場所としてそれらの喫茶店を選好したのは、先ほども少し触れたように、大学生になりたての僕でも見つけやすいといった配慮ももちろんあったのだろうが、それ以上に、その上級生たちの都合も作用していたのかも知れない。
 旭屋別館の「リーブル」や桜橋の「大都」などは、堂島にあった僕らの大学の本部と医学部および附属病院などに通う医歯薬系の学生にとっては通学路にあたっていた。他方の「白馬車」があった阪急東通り商店街は、中崎町に事務所があった韓学同関係者にとっては、その事務所から比較的に近いといったように、彼ら自身の動線との関係でも便利だったのだろう。
 ついでに言えば、あの東通り商店街には、当時は古本屋などもあって、特に新左翼系の雑誌や出版物が揃った小さな書店が異彩を放っていた。そんな光景など、僕らよりも後の世代の人々には想像がつきにくいのではなかろうか。
 但し、以上のようなキタを中心とした上級生たちとの面談場所は概ね初期に限られ、それ以後はしだいに在日集住地区として有名な地域の方に移っていった。例えば、国鉄鶴橋駅の中央口を出るとすぐに右に折れるとすぐ右手の階上にあった「ロイヤル」という、当時としては随分と広くてお洒落な喫茶店であり、上級生と待ち合わせたり、何らかの会合などの後で話し込むことが多くなった。
 そこはしかし、交通アクセスの他、在日の諸組織や団体がその地域に多数あるといった地理的条件もあって、在日の多様な学生青年組織のメンバーと鉢合わせになることも多くて、気まずくなることも多かった。
 例えば、そこに一歩足を踏み入れた途端に、上級生の目付きが変わり、理由を明らかにしないままに退散し、すぐ近くの別の喫茶店に入り直すようなこともあって、そんなことが繰り返されるうちに、僕ら新入生でもその種の微妙なことに目敏くなって、自分が同胞組織のメンバーとしても一皮むけて、一人前に近づいたように思えて、内心で喜ぶといった幼稚なこともあった。そんなことを思い返すと恥ずかしくもあるが、その一方で懐かしくもあって、この歳になるとさすがに本物の鉄面皮になったのかもしれない。
 その他に、大阪駅から徒歩圏内にあった中崎町の民団大阪本部の二階奥の韓学同事務所での学習会などの前後に、その近くのいかにも在日二世の雰囲気を持った中年夫婦が営む、地元密着の純喫茶を使うこともあった。
 但し、その店は韓学同の事務所での会議や学習会の前後に、手近なところで空腹を宥めながら議論するために限られ、わざわざそこを待ち合わせの場所として選ぶようなことは殆んどなかった。
 そこは場末の印象が強くて、それだけに慣れてしまえば、気楽で居心地も悪くはないが、新入生時にはなんとなく違和感が否めず、すぐ近くにある民団事務所の関係者が立ち寄ったり出前を頼みに来たりもするので、僕らのいかにも学生らしく生硬な議論が漏れる危惧もあり、意識的に避ける場合もあった。
 したがって、やはり都心の、或いは、学生街にあって、それなりに匿名性が保証され、学生が小生意気な議論を延々と続けても不都合がなさそうな店が選好された。
 以上は主に僕が新入生時によく通った喫茶店の話なのだが、それとほとんど同じことが、その後も3年以上にわたって、つまり、僕が大学の4年生を終了すると同時に韓学同の役職を離れるまで繰り返される。
 最初はサークルに勧誘されて、次いでは、サークルや学外組織のメンバーとの議論のために、そして二年生になると、今度はこちらが勧誘のために先輩風を吹かせて、さらには、脱落しそうな学生をなんとか思いとどまらせるためにといったように、組織の都合や僕個人の上級生としての責任感での喫茶店通いが続いた。
 そして、そんな際には、懸命に背伸びしながらの知ったかぶりもやむを得なかった。そしてもちろん、表向きは得意がる一方で、内心では恥ずかしさを噛み締め、喫茶店から出て行く際には、家庭教師の稼ぎで、喫茶店の支払いをそれが当然のようにして引き受けることで、先輩風を吹かすのだった。

喫茶店と僕

 そしてその延長上では、何の用事もなくても、まるで惰性のように喫茶店に立ち寄り、たむろするようになった。朝食も喫茶店のモーニングサービス、昼食も学外にいる時には、喫茶店のカレーやナポリタンなどパスタ類などの軽食で済ますことも増えた。
 既に述べたことだが、とりわけモーニングサービスが僕のお気に入りになった。米飯が大好きでパンが苦手だった僕なのに、特に夏場になると、厚切りトーストとアイスコーヒーとゆで卵を偏愛し、やがてはそれがないと毎日の排便がうまくいかないと思い込むようになった。
 喫茶店の他に居酒屋も僕のお得意の場所になった。
 酒席後の二次会、もしくは三次会に喫茶店を好む者が、とりわけ女子には多かったが、僕はそんな時には、酒を飲み続けたい気持ちが勝って、場を移すとしても喫茶店より居酒屋を選んだ。
 要するに、すっかり一人前の呑み助であり、議論あるいはお喋りもあくまで酒の肴、或いは、酒と議論(お喋り)とが切っても切れない、まるでシャム双生児のようにペアのアイテムとなった。
 70歳を越えた今でも、酒は議論という肴があってこそ楽しく、議論を欠いて、いかにも趣味人ぶった料理談義や酒の品定めの蘊蓄を垂れ流したり競ったりの酒席などは、いくら酒があっても僕としては、お断りである。
 だから、フランス語や文学の教員たちとの酒席の多くは、遠慮する。文学であろうとワインであろうとチーズであろうと、物知りを気取った蘊蓄などは、僕には無縁である。本気で議論する時にこそ、酒と肴がその潤滑油になるというのが、僕の考える酒文化である。自慢できる話などではとうていないことを承知の上で、もっぱら僕の日常を述べている。
 <同胞>の上級生たちは一般に、事前に電話を通して僕との約束を取り付けたが、時には前触れもなしに、夕食後の時間帯に我が家を訪問してくることもあった。そんな時には、その熱心さに驚くとともに、頭が下がる思いだったが、その一方では少し怖くなったりもしたり、自分がまるで人気者になったみたいで、晴れがましく感じることもあった。
 合格したはずの大学に殆んど足を踏み入れたことがなかった頃には、その大学の学生という実感があるはずもなく、同じ大学の先輩であると自己紹介されても、押しつけがましく感じられる場合が多かった。しかし、それが不快感や嫌悪感に至らなかったのは、<自分が求められていそう>だったからである。
 入れ替わり立ち代わり、いろんな<先輩>が僕の前に姿を現すなど、完全な<売り手市場>ということもあって、僕はすっかり天狗になっていたのだろう。そして、それこそがその先輩たちの望むところでもあり、その思惑通りに、僕は嬉々として餌に食いついて、難なく釣り上げられた。

2節 <同胞の先輩>のいろいろ

オルグの<同胞の先輩>

 そのようにして出会った<同胞の先輩>なのだが、<同胞>だからと言って、だれもが同じであるはずがない。表情も風采も服装も話し方も、実に多様だった。しかし、会う目的が新入生のオルグという点で変わりがないから、おのずと話の基本形がそんなに異なるはずがない。
 大学生になったからには、現実の差別状況を直視し、誤った教育や社会の差別体制などで心身に叩きこまれてきた民族的コンプレックスを克服し、民族的自覚と誇りを持って生きなくてはならない。そのためにも、民族の歴史と文化(言語を含む多様な文化)を共に学ぼう。さらにその先では、帝国主義列強によって二つに分断された祖国が自主的に統一できるように、在日の立場から共に立ち上がろう、と話は実にスムーズに展開する。
 しかし、人によってそうした一連の過程の、どこに時間と重心をかけるかに多少の違いがあった。例えば、結論ありきで、究極の課題としての祖国統一に向けての活動をもっぱら強調する人もいれば、民族的コンプレックスの克服という、初歩的ながらも個々人にとって決定的な変革に重点を置く人もいた。それは各人の語りの戦術や得手不得手、さらには、その源としての個々人の性格や育ちの違いなどに由来していたのだろう。
 その一方で、会った瞬間から目立った違いもあった。少し誇張めいた言い方をすれば、実際に会う以前から、つまり電話で言葉を交わした時点から既に気づくような違いもあった。
 先ずは、僕に対する呼称が違った。南系の人たちは僕のことをヒョン・ソニュン氏、或いはソニュン君と呼んだ。他方、北系の人たちは僕のことを<トンム>、或いは、ヒョン・ソニュン・トンムと呼んだ。
 玄善允という僕の姓名の漢字表記は、ハングル音ではヒョン・ソニュンと発音されることくらいのことは、僕でも知っていた。まだほんの幼い頃に、民族服を身にまとったお姉さんたちが我が家やその周辺の在日の集落を廻って、僕ら子どもを近くの在日の左翼組織の事務所に連れて行き、朝鮮語の手ほどきもしてくれた。またその数年後の小学校低学年の頃にも、今度は在日の南系の民族団体の事務所に父に連れられて行った際に、ハングルの手ほどきを受けて、すごく簡単で分かりやすい言葉であり文字であることに驚いて、すぐにでも習得できそうに思った。
 ところが、その後にその勉強に励むようなことにはならなかった。そもそも、そんな経験をその後、日本人の友達はもちろん、家族に話したこともなく、すっかり記憶から追い払った。
 僕の生活と興味は、そんな学びとその環境にはなくて、日本人集落の子どもたちとその集落内にあった日本の公立学校の世界が、家庭以外の僕の世界の殆どすべてだった。
 それから10年ほど経ってから、既に何度も触れたことだが、高校三年の夏に在日僑胞野球団の一員として韓国でひと月あまりにわたって現地の高校の名門チームと対戦して回った際には、チームのメンバーの名前として、民族名のカタカナ表記しか知らされていなかったこともあって、互いにその民族名で呼びあった。それにまた、現地の新聞などには、写真入りの本名(民族名のハングル表記)でメンバー紹介がなされていたので、僕らはその呼称に違和感がなくなる程度に慣れ親しんでいた。
 しかし、その韓国遠征チームでは、<トンム>などの呼称は決して使わず、それはむしろ禁句の一つであると、日本を発つ際に、付き添いの大人たちから厳重に教えられていた。そればかりか、その言葉には特定の政治色がついており、どこでも使ってよい言葉ではないことを、僕らは、相当に幼い頃から承知していた。そうした経緯もあって、僕などは既に中学生の頃から、その呼称に対して相当に強い違和感や抵抗感を持っていた。
 それは漢字で書けば<同務>となり、<北>、そして在日の<北系>の組織の人たちの間ではごく一般的な呼称だったが、逆に南系の人々の間では禁句になっていることを僕は知っていただけでなく、その呼称を聞くだけで心身が強張るような語感がいつの間にか僕の中に形成されていた。
 小学校への入学以前には、夏季休暇などには、在日の集住地域には北系の民族大学や師範学校の学生たちが集団でやってきて、手分けして在日の家を一軒ずつ回って子どもたちを集めて地域の事務所に連れて行く、歌や言葉のイロハを教えながら、民族学校への勧誘がなされていた。そんな頃には、僕はチマチョゴリ姿のお姉さんたちから、<トンム>と呼ばれ、頭を撫でられて飴玉などをもらったりもして喜んでいた。
 それでいながら、父がその民族学校に行くようにと勧められると、頑強に抵抗した。兄弟がみんなそうだったし、父もいつの間にか、北系の民族団体とはすっかり距離を摂るようになったので、僕らは胸をなでおろした。その頃には北アレルギーが僕ら子どもだけでなく、僕らの家族にはすっかり根を下ろしていたのだろう。
 しかも、その後には、在日の北系の民族学校の生徒たちとの、生涯にわたって忘れられないほどに悔しい出来事を経験した。しかも、それにも関わらずその後の一時期には、性懲りもなく、僕をひどい目に合わせたグループの一部とは親しく付き合うようになって、またしてもショッキングな経験を重ねたあげくに、完全に袂を分かって久しかった。
 当然の如く、キタ系の子どもたちやその学校や組織にとっての、<トンム>という言葉に象徴される一枚岩のメンタリティには相当に厳しい見方、つまり拒絶の意識や感情が僕の中に根付いていた。「甘い言葉なんかに騙されないぞ」といった、防衛的機制があった。
 そんな僕なのに、しかも、その仲間になると約束したわけでもないのに、<トンム>を押し付けられることは耐えられなかった。
 だから当然、そんな呼称で僕のことを呼ばないように何度も頼んでみた。しかし、何やかやとおためごかしの理屈を盾にして、こちらの言い分を受け入れてくれそうな気配などなかった。そのことひとつだけでも、僕はそんな人たちの仲間になり得るはずがなかった。
 それなのに、その人たちと会うことを拒否しなかったのは何故か。次のような理屈からだったのだろう。相手の話をきちんと聞いたうえで、自分の考えを整理したうえで、最終的な判断を下すべきと考えていたのである。僕にもその程度には理性があると思い込んでいたのである。
 しかも、それは理屈だけの問題ではなかった。まだ幼い頃に事務所に誘われて、若いお姉さんたちからトンムと呼ばれ、飴玉を貰ったりした際に、漂ってきた何とも甘ったるい香り、そして、いかにも明るい笑顔でトンムと呼ばれた時に沸き起こる快感、その記憶がその呼称を耳にする度に蘇り、まるで自分がその人たちに全面的に受け入れられていそうな陶酔と幻想に引きこまれそうになることを自覚していたからこそ、つまり、その呼称には何か抵抗しがたい<甘い蜜>が潜んでいそうだからこそ、それに対する警戒心が頭をもたげて、意地をかけて抵抗しなくてはならないと、自分に言い聞かせていた。
<トンム>という呼称だけでも、そんな独り相撲めいた葛藤があったからこそ、自分なりの理屈を駆使して、自分なりに納得のいく答えにたどり着きたかった。
 ところが、その理屈は自己過信に基づく建前に過ぎず、その時点で既に僕の気持ちは決まっていたに違いない。僕が生まれ育った地域で、「トンム」に類する言葉遣いをしている人々に対して僕がもっていた不信、もっと正直に言えば、越えられそうにない<距離感>を考えれば、僕がたどり着く結論はとっくの昔に、降りていた。それなのに、僕はそんな事実を認めたくなかっただけのことだった。

<生き下手>と<生き上手>

 新入生個々に対するオルグ要員を手分けする際には、地縁、血縁、学縁など多様な要素を勘案してのことらしく、事前に電話で連絡することもなく、いきなり家にやってきた男女一対の上級生は二人とも、僕が卒業したばかりの高校を5年前に卒業していたし、僕と同じ学区で生まれ育ったと自己紹介した。そのおかげで、いきなりの訪問に対する僕の警戒感も一気にほどけて、親近感が湧いた。そして、初対面なのに、高校や、僕とその二人が生まれ育った地域に絡んだよもやま話など、話のタネは尽きなかった。そして、彼らの本来の目的であるはずの僕に対する<説法>の色あいは霞んで、その分だけ、その二人の容貌や話しぶりや個々の暮らしぶりなどに関する、個性と人物像の甚だしい対照性に、僕の興味は向いた。
そして、二人の話を聞けば聞くほど、そして、二人の話す様子を見れば見るほど、どんな社会でもうまく生きることができそうな人と、いくら頑張ってもそうはできそうにない人がいるものだと、僕は今更ながらに痛感した。
 そして僕の関心は、男の先輩の方に向かった。すごく小柄でひ弱そうだから、力仕事なんどとうてい無理そうなのに、日雇いの土方をアルバイトにしていると言う。理学部の数学科の学生なのに・・・
 それを聞いて、少し呆れてしまった。外見と専門とアルバイトの職種などのひどいアンバランスもさることながら、その人の話に一貫していそうな<生き下手>という印象に、僕は圧倒された。
 先ずはアルバイトで、見るからにその種の労働に適したタイプではないし、稼ぎとしても効率が最も悪そうなアルバイトなのに、と僕は殆んど腹が立っていた。
 一般的に、家庭教師だと時給が当時の相場では、新入生でも千円にはなる。それに対して、その種の肉体労働ならば、時間給換算ではその1割、良くても2割に過ぎない。それなのに稼ぎの効率が悪い職種をわざわざ選んでいるとしか言えない。それなのに、どうしてと僕は納得できなかった。
 所属している組織その他の伝手を頼れば、在日の富裕層の子どもの家庭教師くらいは簡単に見つかるに違いなく、しかも、組織の伝手ならば、一般の家庭教師よりも実入りがよく、時間や肉体的な負担も少なく、したがって学業にも影響が少ないに違いない、
 その種の仕事が苦手で、肉体労働の方が性にあっていると当人が思い込んでいるのかもしれない。或いはまた、敢えてそのような稼ぎが少ない苦行によって、自分を思想的に鍛えているのかもしれない。青白いインテリ根性を過酷な肉体労働で克服しようなどと考えてことかもしれない。ところが、それは馬鹿げていると、僕は思った。そのうえ、その人のそんな苦学の実態を知りながら、同じグループの人たちが、<同志>のそんな厳しい状況に手を差し伸べないのは何故だろうかと、不思議だった。伝手に頼るのを本人が潔しとしないからなのか、或いは、その程度の頭も回らないのか、僕には訳が分からなかった。
 次いでは、その人の専攻である。日本人ならまだしも、ただでさえ就職が難しい在日の場合なら、就職口など見つかるはずがないだろうに、どうしてそんな専門を選んだのだろうか。どんな理屈であろうと、無謀すぎるのではないか、と思った。家が裕福ならまだしも、その風采や話の内容からは、経済的に余裕がある家の人では断じてなさそうだった。
 ところが、不思議なことに、すごく生き生きとした表情で、卒業したら祖国のために尽くしたいと語り、自分と祖国の未来を信じていそうだった。
 その様子を見ながら、僕とはまったく違う人種であり、全く別世界に生きている人のように思えた。
 もし僕がその人のように貧しい家の子供だったら、先ずは、自分の家族のことを考えて、家族が少しでもよい暮らしができるように、大学の専門、アルバイトの職種、さらには。卒業後の職業の選択をするだろうと思った。その人には、そうした具体的な問題は、自分自身の将来像には関係がなさそうだった。或いは、組織や祖国に献身することがその道と固く信じているからこそかもしれないが、それは僕には甚だしく非現実的に思えて、誠に失礼で申し訳ないことだったが、これこそ<生き下手>の骨頂だと思った。ところが、そうだからこそ、その人に対する僕の好感度はますます高まった。しかし、そのこと自体が、その先輩の不幸を如実に示していそうに思った。僕は幸福な人に興味を持ったり、羨んだり、理想化したりはしないような性質の人間である。少なくとも僕自身は、そのように自認している。
 だから、その先輩のことを<可哀そう>になどと、なんとも生意気に考えた。
 他方、その人と同行してきた医学部の女子の先輩は、まったく屈託のない明るい声付きと表情で、僕を甘やかすようにしながら指導する<姉御役>を演じきっていて見事だった。だから悪い印象などあるはずはなかったが、僕が知っている<キタ系の活動家>の典型的なタイプであると同時に、裕福な家で何不自由なく育った優等生の典型のように思えた。こんな人なら、どんな社会でも、自分を信じて努力して、道を切り開いていけそうだった。しかし、その人と、或いは、その近くで暮らしたいとは思わなかった。敬して遠ざかるのが無難と、むしろ警戒心が芽生えた。
 そのように、同じ大学の、志を同じくしていそうな同胞学生の中にでも、いかにも生き方が上手そうな人と下手そうな人がいることが、不思議な気がする一方で、その二人が共に夢見ている理想の国でも、その人たちと同じように対照的な人々が暮らしているのだろう、と思った。しかし、そんな人たちもいつまで同じ夢を胸にして仲良く暮らせるのだろうかと、皮肉なことばかりが頭に浮かんだ。
 その数学科の先輩は、卒業の暁には組織の指示に従って民族学校の教員として、後進の教育に励むと明るい声で話していたが、その後には、その人のことは、誰からも聞いたことがない。
 最後に会ったのは、僕が一年生の終わり頃で偶然に学内で会った。その人は相変わらず、すごく優しい表情で、「今はどんな本を読んでいるの」と質問してきたので、きっと嫌がるだろうと思いながらも、敢えて、「サルトルです」と答えた。すると、その人が属す組織の人ならいかにも言いそうな、「そんなプチブルインテリの退廃的な本よりももっといい本がいくらでもあるのに」などと本気で残念がっていたので、失礼で申し訳ないと思いながらも、その人の言い分だけでなく、その人の存在までが無残に思えてきた。そして、それも僕としては致し方ないことだと、何とも偉そうな話だが、その人のことを<見切った>。
 今から思い返すと、当時でも既に僕の生意気さは相当なものだった。しかも、その後の僕の考え方や生き方も、あまり変わっていそうにない。偉そうに分かったようなことを呟きながら、他人様に対しては、つれないのである。(2024年3月15日脱稿、「ある在日の青春の10」に続く)