ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の3
第一章
第2節 入試状況と受験戦略
僕らの高校と大学入試
文学部志望生
僕らの高校と大学入試
僕らの高校では現役で国公立を複数受験する生徒は少なく、さらに私学まで複数受験する例は、僕の周囲ではあまり聞かなかった。僕が知る限りでは、現役では第一志望が国公立1期校でそれ以外は受験しない生徒が多数派だった。少なくとも僕はそのように思いこんでいたからこそ、そんな風潮(或いは勝手な思い込み)のせいで、受験したのは1期校の一校だけだった。ところが、それが先にも述べたように、本来なら最も避けたかった地元の、自宅通学ができる大学だった。
高校3年の夏の野球からの解放による放心状態、そんな最中に突如として舞い込んだ誘いに乗っての、生まれて初めて、野球選手としての韓国訪問と1月あまりの滞在中のカルチャーショックとアイデンティティの混乱、帰阪直後における高校の友人の自死の衝撃、日本全国で吹き荒れる大学生の反乱と東大入試の中止による受験戦線の大混乱、全共闘シンパの教員のアジテーションなどの刺激と自衛本能など、混乱の極みの果ての志望大学や専攻の突如の大変更には、僕の本質的な何かが露呈していた。そんなことが70歳を越えた今になって、ようやくわかってきたような気がする。
僕は大学進学を契機に、より正確に言えば、それを口実にして、大阪を、つまりは親元を離れるつもりだった。そのことが、次のようなことでも分かる。
実際に受験した一期校とは別に、東京にある二期校への出願もしていた(記憶がはっきりしないのだが、まだ出願の締め切りには余裕があったので、出願には至らず、その用意をしていただけだったかもしれない)。但し、それは一期校が不合格だった場合に、本当に受験するかどうかの決心はつかないままのことであり、実際には、自分は大阪ではなく他の地方、例えば東京の大学へ行くつもりであることを、自分に対して確認するためだっただけかもしれない。
韓国から帰阪直後には惨憺たる模擬試験の結果だったのに、高校最後の模擬試験では飛躍的に成績が伸びて、合格の可能性が浮上してきた地元の大学を受験することにした。しかし、それは僕の本意ではない。あくまで本命は、東京で浪人生活を経て、東京か京都の大学に入ることによって、なし崩し的に家から離れて暮らすことであると、他ならぬ自分自身に念押しするために、東京の予備校の願書まで取り寄せているほどだった。
ところが、いろんな状況変化と偶然、そしてそれに伴った心境変化なども重なった結果として、それまでの志望校ではないどころか、最も避けたかった地元の、それも我が家からは最寄りの大学の、それも文学部といったように、年末までには想像もしていなかった選択だった。
生まれ育った大阪は嫌で、家庭、とりわけ、僕を愛すると同時に頼りにしていると、僕自身が思い込んでいた母の情愛の束縛から逃れたいと願っていた。それなのに、模擬試験でようやく合格圏内に入いったし、国立だから授業料は年額で12,000円と格安で、自宅通学など甚だ経済的だから、親に経済的負担をかけないで済む。そうした、いかにもケチな僕らしく、実利的な基準を優先させる一方で、文学部それも仏語仏文科といった実利とは正反対なうえに、それまでは考えたこともなかったし、僕の教育に関する最大のアドバイザーであった<東京の伯父さん>(小説を書きながら統一運動に専心していた)が「文学部だけはダメだよ」というアドバイスに真っ向から反する学部学科を選んだのだから、矛盾も甚だしい。
しかも、その選択には大学卒業後の職業選択も絡んでいた。大学卒業後には家業の零細町工場を継ぐのが、両親にも僕にも無難であるという実に現実的な計算もあった。ところが、その一方では、高校時代の造反有理という中国の毛沢東の理屈に基づく先生方のアジテーションの影響を受けて、社会で何の役にも立たないからこそ、厳しい競争と差別が絡み合う社会に出るまでの猶予期間という目的に適合しているといったように甚だ観念的な理屈も作用しているなど、まさに矛盾の極みの選択だった。
ところが、受験大学や専攻の選択がいくら矛盾の極みだったとしても、合格してしまえば、無駄の骨頂と思っていた浪人生活を免れるのだから、喜ばないでおれるはずもなかった。
他方、その合格は、三年夏の甲子園地方予選の敗退直後の、いきなりの誘いを受けての、しかも生まれて初めての一か月を越える野球選手としての韓国滞在、さらには両親の故郷である済州訪問、そこから帰阪して以降の、僕自身の計画的な受験勉強の賜物であったことは否定できない。しかし、それも含めて、受験技術のプロを自認する僕らの高校の先生たちの3年に亘る教えの成果でもあるといった具合に、今度はそれなりに筋道が立った話になる。
僕が思い出す限りで言えば、合否の岐路は数学の試験の出来具合にかかっていた。問題用紙が配布されると直ちに問題全体に目を通して、それぞれの難易度を判断した。大きな設問が4つ、そのうちえ一つの問題だけが、解法がすぐには思いつきそうになかった。そこで、その問題は後回しにした。そして、他の3問に取り組んで解答を書き込んだ。その時点で時間の余裕があまり残っていなかったが、後回しにしていた問題に取り組まないわけにはいかない。慌ててその問題に取り組み始めると、まるで天啓のように解法のヒントが浮かんできた。早速、それを糸口にして解に至るまでの過程を詳細に書き終えた途端に、試験時間終了の鐘がなった。実に爽快な気分で、達成感も大きかった。
もしも最初から難問に拘っていたならば、他の問題には十分な時間を費やせなかったかもしれず、結果的に入試にも失敗していたに違いない。高校の<数学博士>が口を酸っぱくして繰り返していた受験の鉄則、先ずは問題全体に目を通し、容易そうな問題を確実にこなしてから、残った時間を難問に費やすという鉄則を守ったおかげだった。
合格後に知ったことだが、僕の入試の総合点は文学部の合格最低点よりは10点しか高くなかったので、あの数学の難問の解に到達していなかったならば、確実に不合格だった。
そうなっていたら、僕のその後はどうなっていただろうか。当初の目論見通りに東京の二期校を受けて合格していたのか、或いはそれも不合格だったならば、東京で予備校生活を送り、翌年には東京か京都の大学に再挑戦するなどして、念願通りに家を出ることも可能になったのかもしれない。そしてその後の僕の人生も大きく変わっていただろう。
ところが、考え直してみれば、東京での浪人生活など、果たして両親が許してくれただろうか?そもそも、そんな自分勝手な希望を、朝から晩まであくせく働く両親に対して、この僕が口に出せただろうか?なんとか口に出したとしても、返事が芳しいものでなかったら、即座に腰砕けになっていたのではないか。もしそうなっていたならば、大阪の予備校に自宅から通う一浪生活になり、その先では自宅通学圏で、合格が確信できる大学の受験となっていただろうし、ひょっとしたら一年遅れになるだけで、現実の起こったことと同じだったかもしれない。と言うより、それが最もありうるシナリオだった。
<タラレバ>の話の多くがそうだろうが、僕の場合も現実性の少ないことが分かりきったことを夢として膨らませることで、当座の心理的苦境を凌ごうとしていただけだったかもしれない。
そもそも、大学受験について僕は父や母と相談したことなど一度もなかったのではないか。どこの大学を受験するかも、両親にきちんと伝えた覚えがない。秘密にしていたわけではないが、そんなことをいちいち伝えないといけないような家庭ではなかった。僕から改まって伝えなくても、僕が何かの拍子に口にしたことを耳にした兄弟の誰かを通して、両親にも伝わっていたのだろう。
我が家ではたいていのことがそのように、まるで空気を通して伝わるようになっていた。言葉はあまり重要ではないから、会話もいたって少ない。身を寄せ合って暮らしているという実感は確実にあったからか、表情その他で意思疎通がそれなりに成立していた。しかも、それが最も重要なことであるという暗黙の了解もあった。そのことで母は寂しい思いをしていたかもしれないが、その母自身が無駄口は殆んど叩かず、無言実行タイプの人だったから、母の寂しい思いは、自業自得という側面もあった。
僕が受験したのは、それまでは殆んど想像もしていなかった文学部だったが、その文学部の受験とその学生についても少し話してきたい。
当時は不思議だったことの一つが、就職に不利なはずの文学部が、たいていの国公立大学の文系学部では、法律や経済その他の学部よりも合格最低点が高かったことなのである。
例えば、僕が入学した大学では僕らが卒業後に、文学部を二分して、実業向きで就職の需要がはるかに高い心理学や社会学系統を中核にした学部を創設した。それでも随分と長期間にわたって、就職には圧倒的に有利なはずのその新学部よりも、就職には不利なことが明らかな文学部のほうが、入試の難易度が高い状態が続いた。
その理由は主に二つあったと、今の僕なら考える。
先ずは、教育や就職における男女差別が深刻な日本社会の構造的問題の反映だったことが大きいのだろう。当時は女子の高校生の卒業後の進路が相当に限られていた。僕らの高校のように典型的な進学校でも、女子の場合は大学進学ではなく、就職する生徒がいて、その大部分が女子生徒だった。当時の僕はそんなことすら知らなかった。男子生徒の中にも例外的に、家庭の事情などで進学できなかった生徒がいたことは知っていたのだから、僕の視野に入っていたのはもっぱら男の世界だったわけである。
次いでは二年制の短期大学が人気を博していた。その後の就職にはいたって有利だったからである。日本の企業は四年制を卒業した女子学生はあまり好まず、短大卒の女子学生を選好した。新卒採用時に20歳、それから3,4年間だけ働いて、23歳、24歳で<寿退社>してもらうと、人事の更新に便利だったからである。それに対して、4年制の女子大生ではそうはいかず、好まれなかった。その四年制の大学でも、女子の進学する学部は極めて限られていた。文系では文学部、教育学部系統が圧倒的で、経済学部や法学部などには女子学生は殆んどいなかった。理系の場合は、医歯薬系統に女子学生がいたが、理工系となるとごく少数だった。
その結果、<真面目で優秀>な女子学生が文学部に集中した。僕の高校から僕が大った大学には一年で100名内外の卒業生が入学したが、僕の年度の場合、僕の高校の卒業生が文学部に僕も含めて5名がいた。そのうちの男子は僕だけで後の4人はすべて女子学生だった。そしてその4名の女子のうち、2名は僕よりも1年上、つまり一浪を経ての入学、残りの2名が僕と高校では同期の女子学生だった。ここでも僕が知る限りの話なのだが、経済学部には僕と高校で同期だったひとりの女子学生、法学部にはひとりもいなかったように思う。その他では薬学部にも同期の女子学生がいた。100名のうちで、女子学生は2割にも満たなかったのではないかと言うのが、僕の印象である。
但し、僕が在籍していた学年の文学部学生総数80名の男女比はほぼ半々だった。おそらくはその女子学生たちの入試成績が入試の合格最低点を押し上げていたのだろう。
そして、その女子学生の多くが卒業後には高校の教員や研究者になるか、或いは、卒業以前に他の学部(何か資格を取れる学部、経済、法律、医歯薬系の学部)に転部したり、或いは、卒業後にそれらの学部に学士入学したり、或いは、専門学校に通って、自営業を始めたりで、新卒で一般企業に入った女子学生は、相当に限定されていたのではなかろうか。
もう一つの理由は、お金に換算されない価値に憧れる文系志望の高校生が、卒業後の展望などは無視して、或いは、そうした厳しい現実に無知なままに、文学部に殺到した結果だったのではなかろうか。
それと言うのも、僕らの学年に関しては紛争の余波もあって、大学の教員など研究者になった学生の率が例年と比べてはるかに低いといったように、相当に異例だったが、僕らの学年に限らず、文学部の学生は大学に入ってようやく、自分たちが卒業後に直面する厳しい現実を少しは知るようになったような気がする。だから、上でも述べたように、途中で文系の他学部に転部したり、或いは卒業後に医学部や歯学部や薬学部、法学部や経済学部など実業的資格の取得できる学部を再受験したり、専門学校に通ったり、更には、独学などで多様な実務資格を取得して、自営業を創業する卒業生が少なからずいた。
要するに文学部志望者には<真面目>で<おぼこい>高校生が多かったのではないかと言うのである。僕の明らかな身贔屓もあるだろうが、僕はその<おぼこさ>や<真面目さ>が備える価値を否定しているのではなく、学生時代には、そしてその後も今に至るまで、貴重なものと思っている。
高校時代の造反教員のアジテーションが当時も今も変わらず、僕に作用しているのだろう。世の中の役になど立たない、純粋な学問という話は、大学卒業が何の将来保障にもならないことが端から分かり切った在日の僕にとって、救いになっていたことも関係している。そして大学入学後に、カリキュラムの都合で他学部の学生たちと同じ授業を受ける度に、文学部以外の学生の言動には不快なことが多かったので、相対的に文学部の学生に対する僕の信頼がさらに強まった。無骨な真面目さのようなものが僕にとって救いとなったのだが、それについては後に、詳述することになるだろう。
それはさておき、僕の大学入試に関しては、一見では不利と思われかねない条件や環境が、結果的にはむしろ幸いすることが、いろいろとあった。僕の場合は、大学受験に関して、周囲とりわけ両親からのプレッシャーが殆んどなかっただけでなく、無意識ながらも自分にプレッシャーがかからないように、僕お得意の心理操作を自分に施していたようである。
例えば、既に触れたことだが、親には黙って東京の予備校に応募書類などの申し込みも済ませて、浪人になって大阪の家を出ることこそがむしろ第一目標なのだと、自分に言い聞かせていたことなどは、自分に対する心理操作の気配が濃厚なのである。
東京での予備校暮らしなどは、両親に一言も漏らしていなかったのだから、実現できるかどうか分からない自分勝手な夢のようなものに過ぎず、敢えて言えば、自分の精神安定のための保険のつもりだったのかもしれない。
当時はそんなことまで明確に意識していたかどうか定かでないのだが、今になって思い返すと、その側面が十分にある。そして、そのラインで再考すれば、「本当はその年には合格するつもりなどなくて、来年の方が本命だから、今年はただの練習」といったように、自分自身にかかってくるプレッシャーを軽減する戦術だったのかもしれない。このように「お金をそれほど要しない安手の戦術」はいかにも僕が考えそうなことである。いつだって予め逃げを用意するなど、自分でも情けなくなるほどに、あらゆることで、志が低いのである。(ある在日の青春の4に続く)
第一章
第2節 入試状況と受験戦略
僕らの高校と大学入試
文学部志望生
僕らの高校と大学入試
僕らの高校では現役で国公立を複数受験する生徒は少なく、さらに私学まで複数受験する例は、僕の周囲ではあまり聞かなかった。僕が知る限りでは、現役では第一志望が国公立1期校でそれ以外は受験しない生徒が多数派だった。少なくとも僕はそのように思いこんでいたからこそ、そんな風潮(或いは勝手な思い込み)のせいで、受験したのは1期校の一校だけだった。ところが、それが先にも述べたように、本来なら最も避けたかった地元の、自宅通学ができる大学だった。
高校3年の夏の野球からの解放による放心状態、そんな最中に突如として舞い込んだ誘いに乗っての、生まれて初めて、野球選手としての韓国訪問と1月あまりの滞在中のカルチャーショックとアイデンティティの混乱、帰阪直後における高校の友人の自死の衝撃、日本全国で吹き荒れる大学生の反乱と東大入試の中止による受験戦線の大混乱、全共闘シンパの教員のアジテーションなどの刺激と自衛本能など、混乱の極みの果ての志望大学や専攻の突如の大変更には、僕の本質的な何かが露呈していた。そんなことが70歳を越えた今になって、ようやくわかってきたような気がする。
僕は大学進学を契機に、より正確に言えば、それを口実にして、大阪を、つまりは親元を離れるつもりだった。そのことが、次のようなことでも分かる。
実際に受験した一期校とは別に、東京にある二期校への出願もしていた(記憶がはっきりしないのだが、まだ出願の締め切りには余裕があったので、出願には至らず、その用意をしていただけだったかもしれない)。但し、それは一期校が不合格だった場合に、本当に受験するかどうかの決心はつかないままのことであり、実際には、自分は大阪ではなく他の地方、例えば東京の大学へ行くつもりであることを、自分に対して確認するためだっただけかもしれない。
韓国から帰阪直後には惨憺たる模擬試験の結果だったのに、高校最後の模擬試験では飛躍的に成績が伸びて、合格の可能性が浮上してきた地元の大学を受験することにした。しかし、それは僕の本意ではない。あくまで本命は、東京で浪人生活を経て、東京か京都の大学に入ることによって、なし崩し的に家から離れて暮らすことであると、他ならぬ自分自身に念押しするために、東京の予備校の願書まで取り寄せているほどだった。
ところが、いろんな状況変化と偶然、そしてそれに伴った心境変化なども重なった結果として、それまでの志望校ではないどころか、最も避けたかった地元の、それも我が家からは最寄りの大学の、それも文学部といったように、年末までには想像もしていなかった選択だった。
生まれ育った大阪は嫌で、家庭、とりわけ、僕を愛すると同時に頼りにしていると、僕自身が思い込んでいた母の情愛の束縛から逃れたいと願っていた。それなのに、模擬試験でようやく合格圏内に入いったし、国立だから授業料は年額で12,000円と格安で、自宅通学など甚だ経済的だから、親に経済的負担をかけないで済む。そうした、いかにもケチな僕らしく、実利的な基準を優先させる一方で、文学部それも仏語仏文科といった実利とは正反対なうえに、それまでは考えたこともなかったし、僕の教育に関する最大のアドバイザーであった<東京の伯父さん>(小説を書きながら統一運動に専心していた)が「文学部だけはダメだよ」というアドバイスに真っ向から反する学部学科を選んだのだから、矛盾も甚だしい。
しかも、その選択には大学卒業後の職業選択も絡んでいた。大学卒業後には家業の零細町工場を継ぐのが、両親にも僕にも無難であるという実に現実的な計算もあった。ところが、その一方では、高校時代の造反有理という中国の毛沢東の理屈に基づく先生方のアジテーションの影響を受けて、社会で何の役にも立たないからこそ、厳しい競争と差別が絡み合う社会に出るまでの猶予期間という目的に適合しているといったように甚だ観念的な理屈も作用しているなど、まさに矛盾の極みの選択だった。
ところが、受験大学や専攻の選択がいくら矛盾の極みだったとしても、合格してしまえば、無駄の骨頂と思っていた浪人生活を免れるのだから、喜ばないでおれるはずもなかった。
他方、その合格は、三年夏の甲子園地方予選の敗退直後の、いきなりの誘いを受けての、しかも生まれて初めての一か月を越える野球選手としての韓国滞在、さらには両親の故郷である済州訪問、そこから帰阪して以降の、僕自身の計画的な受験勉強の賜物であったことは否定できない。しかし、それも含めて、受験技術のプロを自認する僕らの高校の先生たちの3年に亘る教えの成果でもあるといった具合に、今度はそれなりに筋道が立った話になる。
僕が思い出す限りで言えば、合否の岐路は数学の試験の出来具合にかかっていた。問題用紙が配布されると直ちに問題全体に目を通して、それぞれの難易度を判断した。大きな設問が4つ、そのうちえ一つの問題だけが、解法がすぐには思いつきそうになかった。そこで、その問題は後回しにした。そして、他の3問に取り組んで解答を書き込んだ。その時点で時間の余裕があまり残っていなかったが、後回しにしていた問題に取り組まないわけにはいかない。慌ててその問題に取り組み始めると、まるで天啓のように解法のヒントが浮かんできた。早速、それを糸口にして解に至るまでの過程を詳細に書き終えた途端に、試験時間終了の鐘がなった。実に爽快な気分で、達成感も大きかった。
もしも最初から難問に拘っていたならば、他の問題には十分な時間を費やせなかったかもしれず、結果的に入試にも失敗していたに違いない。高校の<数学博士>が口を酸っぱくして繰り返していた受験の鉄則、先ずは問題全体に目を通し、容易そうな問題を確実にこなしてから、残った時間を難問に費やすという鉄則を守ったおかげだった。
合格後に知ったことだが、僕の入試の総合点は文学部の合格最低点よりは10点しか高くなかったので、あの数学の難問の解に到達していなかったならば、確実に不合格だった。
そうなっていたら、僕のその後はどうなっていただろうか。当初の目論見通りに東京の二期校を受けて合格していたのか、或いはそれも不合格だったならば、東京で予備校生活を送り、翌年には東京か京都の大学に再挑戦するなどして、念願通りに家を出ることも可能になったのかもしれない。そしてその後の僕の人生も大きく変わっていただろう。
ところが、考え直してみれば、東京での浪人生活など、果たして両親が許してくれただろうか?そもそも、そんな自分勝手な希望を、朝から晩まであくせく働く両親に対して、この僕が口に出せただろうか?なんとか口に出したとしても、返事が芳しいものでなかったら、即座に腰砕けになっていたのではないか。もしそうなっていたならば、大阪の予備校に自宅から通う一浪生活になり、その先では自宅通学圏で、合格が確信できる大学の受験となっていただろうし、ひょっとしたら一年遅れになるだけで、現実の起こったことと同じだったかもしれない。と言うより、それが最もありうるシナリオだった。
<タラレバ>の話の多くがそうだろうが、僕の場合も現実性の少ないことが分かりきったことを夢として膨らませることで、当座の心理的苦境を凌ごうとしていただけだったかもしれない。
そもそも、大学受験について僕は父や母と相談したことなど一度もなかったのではないか。どこの大学を受験するかも、両親にきちんと伝えた覚えがない。秘密にしていたわけではないが、そんなことをいちいち伝えないといけないような家庭ではなかった。僕から改まって伝えなくても、僕が何かの拍子に口にしたことを耳にした兄弟の誰かを通して、両親にも伝わっていたのだろう。
我が家ではたいていのことがそのように、まるで空気を通して伝わるようになっていた。言葉はあまり重要ではないから、会話もいたって少ない。身を寄せ合って暮らしているという実感は確実にあったからか、表情その他で意思疎通がそれなりに成立していた。しかも、それが最も重要なことであるという暗黙の了解もあった。そのことで母は寂しい思いをしていたかもしれないが、その母自身が無駄口は殆んど叩かず、無言実行タイプの人だったから、母の寂しい思いは、自業自得という側面もあった。
僕が受験したのは、それまでは殆んど想像もしていなかった文学部だったが、その文学部の受験とその学生についても少し話してきたい。
当時は不思議だったことの一つが、就職に不利なはずの文学部が、たいていの国公立大学の文系学部では、法律や経済その他の学部よりも合格最低点が高かったことなのである。
例えば、僕が入学した大学では僕らが卒業後に、文学部を二分して、実業向きで就職の需要がはるかに高い心理学や社会学系統を中核にした学部を創設した。それでも随分と長期間にわたって、就職には圧倒的に有利なはずのその新学部よりも、就職には不利なことが明らかな文学部のほうが、入試の難易度が高い状態が続いた。
その理由は主に二つあったと、今の僕なら考える。
先ずは、教育や就職における男女差別が深刻な日本社会の構造的問題の反映だったことが大きいのだろう。当時は女子の高校生の卒業後の進路が相当に限られていた。僕らの高校のように典型的な進学校でも、女子の場合は大学進学ではなく、就職する生徒がいて、その大部分が女子生徒だった。当時の僕はそんなことすら知らなかった。男子生徒の中にも例外的に、家庭の事情などで進学できなかった生徒がいたことは知っていたのだから、僕の視野に入っていたのはもっぱら男の世界だったわけである。
次いでは二年制の短期大学が人気を博していた。その後の就職にはいたって有利だったからである。日本の企業は四年制を卒業した女子学生はあまり好まず、短大卒の女子学生を選好した。新卒採用時に20歳、それから3,4年間だけ働いて、23歳、24歳で<寿退社>してもらうと、人事の更新に便利だったからである。それに対して、4年制の女子大生ではそうはいかず、好まれなかった。その四年制の大学でも、女子の進学する学部は極めて限られていた。文系では文学部、教育学部系統が圧倒的で、経済学部や法学部などには女子学生は殆んどいなかった。理系の場合は、医歯薬系統に女子学生がいたが、理工系となるとごく少数だった。
その結果、<真面目で優秀>な女子学生が文学部に集中した。僕の高校から僕が大った大学には一年で100名内外の卒業生が入学したが、僕の年度の場合、僕の高校の卒業生が文学部に僕も含めて5名がいた。そのうちの男子は僕だけで後の4人はすべて女子学生だった。そしてその4名の女子のうち、2名は僕よりも1年上、つまり一浪を経ての入学、残りの2名が僕と高校では同期の女子学生だった。ここでも僕が知る限りの話なのだが、経済学部には僕と高校で同期だったひとりの女子学生、法学部にはひとりもいなかったように思う。その他では薬学部にも同期の女子学生がいた。100名のうちで、女子学生は2割にも満たなかったのではないかと言うのが、僕の印象である。
但し、僕が在籍していた学年の文学部学生総数80名の男女比はほぼ半々だった。おそらくはその女子学生たちの入試成績が入試の合格最低点を押し上げていたのだろう。
そして、その女子学生の多くが卒業後には高校の教員や研究者になるか、或いは、卒業以前に他の学部(何か資格を取れる学部、経済、法律、医歯薬系の学部)に転部したり、或いは、卒業後にそれらの学部に学士入学したり、或いは、専門学校に通って、自営業を始めたりで、新卒で一般企業に入った女子学生は、相当に限定されていたのではなかろうか。
もう一つの理由は、お金に換算されない価値に憧れる文系志望の高校生が、卒業後の展望などは無視して、或いは、そうした厳しい現実に無知なままに、文学部に殺到した結果だったのではなかろうか。
それと言うのも、僕らの学年に関しては紛争の余波もあって、大学の教員など研究者になった学生の率が例年と比べてはるかに低いといったように、相当に異例だったが、僕らの学年に限らず、文学部の学生は大学に入ってようやく、自分たちが卒業後に直面する厳しい現実を少しは知るようになったような気がする。だから、上でも述べたように、途中で文系の他学部に転部したり、或いは卒業後に医学部や歯学部や薬学部、法学部や経済学部など実業的資格の取得できる学部を再受験したり、専門学校に通ったり、更には、独学などで多様な実務資格を取得して、自営業を創業する卒業生が少なからずいた。
要するに文学部志望者には<真面目>で<おぼこい>高校生が多かったのではないかと言うのである。僕の明らかな身贔屓もあるだろうが、僕はその<おぼこさ>や<真面目さ>が備える価値を否定しているのではなく、学生時代には、そしてその後も今に至るまで、貴重なものと思っている。
高校時代の造反教員のアジテーションが当時も今も変わらず、僕に作用しているのだろう。世の中の役になど立たない、純粋な学問という話は、大学卒業が何の将来保障にもならないことが端から分かり切った在日の僕にとって、救いになっていたことも関係している。そして大学入学後に、カリキュラムの都合で他学部の学生たちと同じ授業を受ける度に、文学部以外の学生の言動には不快なことが多かったので、相対的に文学部の学生に対する僕の信頼がさらに強まった。無骨な真面目さのようなものが僕にとって救いとなったのだが、それについては後に、詳述することになるだろう。
それはさておき、僕の大学入試に関しては、一見では不利と思われかねない条件や環境が、結果的にはむしろ幸いすることが、いろいろとあった。僕の場合は、大学受験に関して、周囲とりわけ両親からのプレッシャーが殆んどなかっただけでなく、無意識ながらも自分にプレッシャーがかからないように、僕お得意の心理操作を自分に施していたようである。
例えば、既に触れたことだが、親には黙って東京の予備校に応募書類などの申し込みも済ませて、浪人になって大阪の家を出ることこそがむしろ第一目標なのだと、自分に言い聞かせていたことなどは、自分に対する心理操作の気配が濃厚なのである。
東京での予備校暮らしなどは、両親に一言も漏らしていなかったのだから、実現できるかどうか分からない自分勝手な夢のようなものに過ぎず、敢えて言えば、自分の精神安定のための保険のつもりだったのかもしれない。
当時はそんなことまで明確に意識していたかどうか定かでないのだが、今になって思い返すと、その側面が十分にある。そして、そのラインで再考すれば、「本当はその年には合格するつもりなどなくて、来年の方が本命だから、今年はただの練習」といったように、自分自身にかかってくるプレッシャーを軽減する戦術だったのかもしれない。このように「お金をそれほど要しない安手の戦術」はいかにも僕が考えそうなことである。いつだって予め逃げを用意するなど、自分でも情けなくなるほどに、あらゆることで、志が低いのである。(ある在日の青春の4に続く)