goo blog サービス終了のお知らせ 

玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の3

2024-02-25 12:24:15 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の3

第一章
第2節 入試状況と受験戦略 
僕らの高校と大学入試
文学部志望生

僕らの高校と大学入試
 僕らの高校では現役で国公立を複数受験する生徒は少なく、さらに私学まで複数受験する例は、僕の周囲ではあまり聞かなかった。僕が知る限りでは、現役では第一志望が国公立1期校でそれ以外は受験しない生徒が多数派だった。少なくとも僕はそのように思いこんでいたからこそ、そんな風潮(或いは勝手な思い込み)のせいで、受験したのは1期校の一校だけだった。ところが、それが先にも述べたように、本来なら最も避けたかった地元の、自宅通学ができる大学だった。
 高校3年の夏の野球からの解放による放心状態、そんな最中に突如として舞い込んだ誘いに乗っての、生まれて初めて、野球選手としての韓国訪問と1月あまりの滞在中のカルチャーショックとアイデンティティの混乱、帰阪直後における高校の友人の自死の衝撃、日本全国で吹き荒れる大学生の反乱と東大入試の中止による受験戦線の大混乱、全共闘シンパの教員のアジテーションなどの刺激と自衛本能など、混乱の極みの果ての志望大学や専攻の突如の大変更には、僕の本質的な何かが露呈していた。そんなことが70歳を越えた今になって、ようやくわかってきたような気がする。
 僕は大学進学を契機に、より正確に言えば、それを口実にして、大阪を、つまりは親元を離れるつもりだった。そのことが、次のようなことでも分かる。
 実際に受験した一期校とは別に、東京にある二期校への出願もしていた(記憶がはっきりしないのだが、まだ出願の締め切りには余裕があったので、出願には至らず、その用意をしていただけだったかもしれない)。但し、それは一期校が不合格だった場合に、本当に受験するかどうかの決心はつかないままのことであり、実際には、自分は大阪ではなく他の地方、例えば東京の大学へ行くつもりであることを、自分に対して確認するためだっただけかもしれない。
 韓国から帰阪直後には惨憺たる模擬試験の結果だったのに、高校最後の模擬試験では飛躍的に成績が伸びて、合格の可能性が浮上してきた地元の大学を受験することにした。しかし、それは僕の本意ではない。あくまで本命は、東京で浪人生活を経て、東京か京都の大学に入ることによって、なし崩し的に家から離れて暮らすことであると、他ならぬ自分自身に念押しするために、東京の予備校の願書まで取り寄せているほどだった。
 ところが、いろんな状況変化と偶然、そしてそれに伴った心境変化なども重なった結果として、それまでの志望校ではないどころか、最も避けたかった地元の、それも我が家からは最寄りの大学の、それも文学部といったように、年末までには想像もしていなかった選択だった。
 生まれ育った大阪は嫌で、家庭、とりわけ、僕を愛すると同時に頼りにしていると、僕自身が思い込んでいた母の情愛の束縛から逃れたいと願っていた。それなのに、模擬試験でようやく合格圏内に入いったし、国立だから授業料は年額で12,000円と格安で、自宅通学など甚だ経済的だから、親に経済的負担をかけないで済む。そうした、いかにもケチな僕らしく、実利的な基準を優先させる一方で、文学部それも仏語仏文科といった実利とは正反対なうえに、それまでは考えたこともなかったし、僕の教育に関する最大のアドバイザーであった<東京の伯父さん>(小説を書きながら統一運動に専心していた)が「文学部だけはダメだよ」というアドバイスに真っ向から反する学部学科を選んだのだから、矛盾も甚だしい。
 しかも、その選択には大学卒業後の職業選択も絡んでいた。大学卒業後には家業の零細町工場を継ぐのが、両親にも僕にも無難であるという実に現実的な計算もあった。ところが、その一方では、高校時代の造反有理という中国の毛沢東の理屈に基づく先生方のアジテーションの影響を受けて、社会で何の役にも立たないからこそ、厳しい競争と差別が絡み合う社会に出るまでの猶予期間という目的に適合しているといったように甚だ観念的な理屈も作用しているなど、まさに矛盾の極みの選択だった。
 ところが、受験大学や専攻の選択がいくら矛盾の極みだったとしても、合格してしまえば、無駄の骨頂と思っていた浪人生活を免れるのだから、喜ばないでおれるはずもなかった。
 他方、その合格は、三年夏の甲子園地方予選の敗退直後の、いきなりの誘いを受けての、しかも生まれて初めての一か月を越える野球選手としての韓国滞在、さらには両親の故郷である済州訪問、そこから帰阪して以降の、僕自身の計画的な受験勉強の賜物であったことは否定できない。しかし、それも含めて、受験技術のプロを自認する僕らの高校の先生たちの3年に亘る教えの成果でもあるといった具合に、今度はそれなりに筋道が立った話になる。
 僕が思い出す限りで言えば、合否の岐路は数学の試験の出来具合にかかっていた。問題用紙が配布されると直ちに問題全体に目を通して、それぞれの難易度を判断した。大きな設問が4つ、そのうちえ一つの問題だけが、解法がすぐには思いつきそうになかった。そこで、その問題は後回しにした。そして、他の3問に取り組んで解答を書き込んだ。その時点で時間の余裕があまり残っていなかったが、後回しにしていた問題に取り組まないわけにはいかない。慌ててその問題に取り組み始めると、まるで天啓のように解法のヒントが浮かんできた。早速、それを糸口にして解に至るまでの過程を詳細に書き終えた途端に、試験時間終了の鐘がなった。実に爽快な気分で、達成感も大きかった。
 もしも最初から難問に拘っていたならば、他の問題には十分な時間を費やせなかったかもしれず、結果的に入試にも失敗していたに違いない。高校の<数学博士>が口を酸っぱくして繰り返していた受験の鉄則、先ずは問題全体に目を通し、容易そうな問題を確実にこなしてから、残った時間を難問に費やすという鉄則を守ったおかげだった。
 合格後に知ったことだが、僕の入試の総合点は文学部の合格最低点よりは10点しか高くなかったので、あの数学の難問の解に到達していなかったならば、確実に不合格だった。
 そうなっていたら、僕のその後はどうなっていただろうか。当初の目論見通りに東京の二期校を受けて合格していたのか、或いはそれも不合格だったならば、東京で予備校生活を送り、翌年には東京か京都の大学に再挑戦するなどして、念願通りに家を出ることも可能になったのかもしれない。そしてその後の僕の人生も大きく変わっていただろう。
 ところが、考え直してみれば、東京での浪人生活など、果たして両親が許してくれただろうか?そもそも、そんな自分勝手な希望を、朝から晩まであくせく働く両親に対して、この僕が口に出せただろうか?なんとか口に出したとしても、返事が芳しいものでなかったら、即座に腰砕けになっていたのではないか。もしそうなっていたならば、大阪の予備校に自宅から通う一浪生活になり、その先では自宅通学圏で、合格が確信できる大学の受験となっていただろうし、ひょっとしたら一年遅れになるだけで、現実の起こったことと同じだったかもしれない。と言うより、それが最もありうるシナリオだった。
 <タラレバ>の話の多くがそうだろうが、僕の場合も現実性の少ないことが分かりきったことを夢として膨らませることで、当座の心理的苦境を凌ごうとしていただけだったかもしれない。
 そもそも、大学受験について僕は父や母と相談したことなど一度もなかったのではないか。どこの大学を受験するかも、両親にきちんと伝えた覚えがない。秘密にしていたわけではないが、そんなことをいちいち伝えないといけないような家庭ではなかった。僕から改まって伝えなくても、僕が何かの拍子に口にしたことを耳にした兄弟の誰かを通して、両親にも伝わっていたのだろう。
 我が家ではたいていのことがそのように、まるで空気を通して伝わるようになっていた。言葉はあまり重要ではないから、会話もいたって少ない。身を寄せ合って暮らしているという実感は確実にあったからか、表情その他で意思疎通がそれなりに成立していた。しかも、それが最も重要なことであるという暗黙の了解もあった。そのことで母は寂しい思いをしていたかもしれないが、その母自身が無駄口は殆んど叩かず、無言実行タイプの人だったから、母の寂しい思いは、自業自得という側面もあった。
 僕が受験したのは、それまでは殆んど想像もしていなかった文学部だったが、その文学部の受験とその学生についても少し話してきたい。 
 当時は不思議だったことの一つが、就職に不利なはずの文学部が、たいていの国公立大学の文系学部では、法律や経済その他の学部よりも合格最低点が高かったことなのである。
 例えば、僕が入学した大学では僕らが卒業後に、文学部を二分して、実業向きで就職の需要がはるかに高い心理学や社会学系統を中核にした学部を創設した。それでも随分と長期間にわたって、就職には圧倒的に有利なはずのその新学部よりも、就職には不利なことが明らかな文学部のほうが、入試の難易度が高い状態が続いた。
 その理由は主に二つあったと、今の僕なら考える。
 先ずは、教育や就職における男女差別が深刻な日本社会の構造的問題の反映だったことが大きいのだろう。当時は女子の高校生の卒業後の進路が相当に限られていた。僕らの高校のように典型的な進学校でも、女子の場合は大学進学ではなく、就職する生徒がいて、その大部分が女子生徒だった。当時の僕はそんなことすら知らなかった。男子生徒の中にも例外的に、家庭の事情などで進学できなかった生徒がいたことは知っていたのだから、僕の視野に入っていたのはもっぱら男の世界だったわけである。
 次いでは二年制の短期大学が人気を博していた。その後の就職にはいたって有利だったからである。日本の企業は四年制を卒業した女子学生はあまり好まず、短大卒の女子学生を選好した。新卒採用時に20歳、それから3,4年間だけ働いて、23歳、24歳で<寿退社>してもらうと、人事の更新に便利だったからである。それに対して、4年制の女子大生ではそうはいかず、好まれなかった。その四年制の大学でも、女子の進学する学部は極めて限られていた。文系では文学部、教育学部系統が圧倒的で、経済学部や法学部などには女子学生は殆んどいなかった。理系の場合は、医歯薬系統に女子学生がいたが、理工系となるとごく少数だった。
 その結果、<真面目で優秀>な女子学生が文学部に集中した。僕の高校から僕が大った大学には一年で100名内外の卒業生が入学したが、僕の年度の場合、僕の高校の卒業生が文学部に僕も含めて5名がいた。そのうちの男子は僕だけで後の4人はすべて女子学生だった。そしてその4名の女子のうち、2名は僕よりも1年上、つまり一浪を経ての入学、残りの2名が僕と高校では同期の女子学生だった。ここでも僕が知る限りの話なのだが、経済学部には僕と高校で同期だったひとりの女子学生、法学部にはひとりもいなかったように思う。その他では薬学部にも同期の女子学生がいた。100名のうちで、女子学生は2割にも満たなかったのではないかと言うのが、僕の印象である。
 但し、僕が在籍していた学年の文学部学生総数80名の男女比はほぼ半々だった。おそらくはその女子学生たちの入試成績が入試の合格最低点を押し上げていたのだろう。
 そして、その女子学生の多くが卒業後には高校の教員や研究者になるか、或いは、卒業以前に他の学部(何か資格を取れる学部、経済、法律、医歯薬系の学部)に転部したり、或いは、卒業後にそれらの学部に学士入学したり、或いは、専門学校に通って、自営業を始めたりで、新卒で一般企業に入った女子学生は、相当に限定されていたのではなかろうか。
もう一つの理由は、お金に換算されない価値に憧れる文系志望の高校生が、卒業後の展望などは無視して、或いは、そうした厳しい現実に無知なままに、文学部に殺到した結果だったのではなかろうか。
 それと言うのも、僕らの学年に関しては紛争の余波もあって、大学の教員など研究者になった学生の率が例年と比べてはるかに低いといったように、相当に異例だったが、僕らの学年に限らず、文学部の学生は大学に入ってようやく、自分たちが卒業後に直面する厳しい現実を少しは知るようになったような気がする。だから、上でも述べたように、途中で文系の他学部に転部したり、或いは卒業後に医学部や歯学部や薬学部、法学部や経済学部など実業的資格の取得できる学部を再受験したり、専門学校に通ったり、更には、独学などで多様な実務資格を取得して、自営業を創業する卒業生が少なからずいた。
 要するに文学部志望者には<真面目>で<おぼこい>高校生が多かったのではないかと言うのである。僕の明らかな身贔屓もあるだろうが、僕はその<おぼこさ>や<真面目さ>が備える価値を否定しているのではなく、学生時代には、そしてその後も今に至るまで、貴重なものと思っている。
 高校時代の造反教員のアジテーションが当時も今も変わらず、僕に作用しているのだろう。世の中の役になど立たない、純粋な学問という話は、大学卒業が何の将来保障にもならないことが端から分かり切った在日の僕にとって、救いになっていたことも関係している。そして大学入学後に、カリキュラムの都合で他学部の学生たちと同じ授業を受ける度に、文学部以外の学生の言動には不快なことが多かったので、相対的に文学部の学生に対する僕の信頼がさらに強まった。無骨な真面目さのようなものが僕にとって救いとなったのだが、それについては後に、詳述することになるだろう。
 それはさておき、僕の大学入試に関しては、一見では不利と思われかねない条件や環境が、結果的にはむしろ幸いすることが、いろいろとあった。僕の場合は、大学受験に関して、周囲とりわけ両親からのプレッシャーが殆んどなかっただけでなく、無意識ながらも自分にプレッシャーがかからないように、僕お得意の心理操作を自分に施していたようである。
 例えば、既に触れたことだが、親には黙って東京の予備校に応募書類などの申し込みも済ませて、浪人になって大阪の家を出ることこそがむしろ第一目標なのだと、自分に言い聞かせていたことなどは、自分に対する心理操作の気配が濃厚なのである。
 東京での予備校暮らしなどは、両親に一言も漏らしていなかったのだから、実現できるかどうか分からない自分勝手な夢のようなものに過ぎず、敢えて言えば、自分の精神安定のための保険のつもりだったのかもしれない。
 当時はそんなことまで明確に意識していたかどうか定かでないのだが、今になって思い返すと、その側面が十分にある。そして、そのラインで再考すれば、「本当はその年には合格するつもりなどなくて、来年の方が本命だから、今年はただの練習」といったように、自分自身にかかってくるプレッシャーを軽減する戦術だったのかもしれない。このように「お金をそれほど要しない安手の戦術」はいかにも僕が考えそうなことである。いつだって予め逃げを用意するなど、自分でも情けなくなるほどに、あらゆることで、志が低いのである。(ある在日の青春の4に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の2

2024-02-24 13:55:18 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の2

現時点における全体の目次
第一章 大学入学前後
1節 当時の大学入試の概況
2節 1969年の入試戦線と一般的受験戦略
3節 <次男坊>の大学入試
第二章 大学紛争による長期の宙ぶらりん生活
1節 大学に入学したはずが、実際には町コウバの見習い 
2節 <同胞>を名乗る<学生集団>の出現
3節 大学との接触の失敗 
第三章 民族主義の洗礼
1節 <同胞>との接触(喫茶店文化) 
2節 接触した<同胞>の類型 
3節 学内サークルから学外組織へ
4節 <民族>と<酒>のイニシエーションによる陶酔
5節 政治的選択の裏面に押し隠した自己欺瞞
第四章 民族サークル・組織間の対立・軋轢
1節 民族組織間の鞘当て1―<同胞>という印籠
2節 民族組織間の鞘当て2―<われわれ(ウリキリ)>の威力
3節 イデオロギーに組み込まれた思考停止の強制
4節 <民族主義的成長>の自己欺瞞と虚飾 
5節 急ピッチな大学正常化に取り残された学生たち
6節 学内サークルの活動実態
7節 活動の軍資金稼ぎの肉体労働と韓青同との接触。
第五章 韓学同の地方組織ごとのローカル文化、とりわけ大阪の場合(支部協、女子部、そして寮)、
多様なフラクション活動の草刈り場(勝共連合、統一朝鮮新聞系の複数の党派、救援団体に生まれ変わる「シアル書堂」その他)
民団大阪本部と韓学同事務所の様子
第六章 民団大阪傘下の青年・学生組織。
第七章 学生組織の中央と地方との関係
第八章 ???
第九章 最終学年生としての責任の引き受け方とその後
第十章 総まとめ

本文
第一章 大学入学前後
第1節当時の大学入試の概況
1970年前後と現在の大学入試の相違
僕の受験準備
国公立か私学か

1970年前後と現在の大学受験の相違
 本文では大学時代における民族関係に焦点を絞った僕の日常生活について記述するが、それに先だって、当時の高校生一般がどのような経路で大学に入いっていたのかを少し説明しておきたい。既に半世紀も昔のことなので、現今の状況とは多様で大きな違いがありそうだし、日本の大学志望者の一部としての在日の大学志望者の状況の詳細にも少しは踏み込んでおきたいからである。僕自身と同世代だけを読者として想定せずに、もっと広い範囲の読者に読んでいただけるように、本文をもっと開かれた書き物に仕立て上げたいという儚い望みがあってのことである。
 その他に是非とも記しておきたいことがある。僕のように大学進学を当然のこととみなし、それを実行に移すことができた僕のように恵まれた高校生とは別に、大学進学など想像すらできなかった在日ばかりか日本人の高校生が少なからずいた。僕が小中学校時代に親しくしていた友人の多くがそうだった。
 それなのに、そうした在日や日本人の青少年のことは本文では対象としていない。そのことが本文の大きな欠落であることを、今さらながらに確認しておきたいのである。
 同時代を生きていたそれら<同胞(日本人も在日も含めてである)>のことを、僕は高校時代に自分から遠ざけることによって生き延びることを選んだのだろう。すっかり眼をそむけて、想像力を働かすことさえしなかった。僕にとって完全な死角となっていたし、今もなおそうであり続けている同時代の日本人そして在日の若者たちのことを、本文の死角、そして決定的な欠落として、意識くらいはしておきたい。
 そして、本文の射程の短さ、狭さと対比してのそうした死角の広大さと深さを確認することで、本文の裏に隠れている大きな闇のことも、読者にも少しは想像して、以下の文章を読んでいただくことを期待したい。
 僕の高校時代には、学校からすぐ近くの尼崎その他の兵庫県では、高校生によって一斉糾弾闘争が激しく展開されていた。大阪の僕らの家や高校の近隣での高校どころか僕らの高校でも、例えば、吉田茂の国葬に反対して、一部の生徒たちが休校日とされた日に登校し、さらには府庁まで抗議に出向くようなこともあった。僕らは事後的であっても、そのことを知らないわけではなかった。
 それどころか、二年生の担任は、最先鋭の造反教師で、僕らはその教師の造反有理を基盤としたアジテーションに大きく影響され、その種の教員たちの自他共に認めるファンだった。ところが、3年になると、そんなこともすっかり忘れ、殆んど無意識ながらも眼をそむけて、受験も含めた最後の高校生活を楽しもうと懸命だった。3年の秋には親しくしていた友人が自死もしたのに、そのことがもたらした精神的動揺も直ちに忘却の淵に追いやった。
 そんな事実でも明らかなように、本文はなんとも甘えてふやけた高校生だった僕とその周辺を中心にした物語なのである。本文は、僕が在日だからと日本社会を偉そうに批判する書き物ではない。そもそも、そんな資格が僕にあるわけもない。

(以上のような但し書きは、実は、三部作の第二部にあたる「高校篇」で微に入り細に入り、甚だ執拗に記述しているが、本文でも必要最低限、再論する。以下でもそうした場合が多数、生じるだろう)

 以下の、当時の大学入試に関する記述は、僕と同世代の人々にとっては常識に属するもので、退屈なことを承知のうえで敢えて記すのは、当時の僕が、大学入試を含む日本の教育制度とその基盤となっていた日本の近現代のイデオロギーに完全に取り込まれていたことを再確認したいからでもある。僕は日本の公教育の枠内で、その制度とその思想にほぼ完全に飼い馴らされ、そこからなんとしても転げ落ちないように懸命だった。
 僕が高校を卒業して大学に入ったのは1969年春のことで、当時の大学受験の類型は大別して三種類だった。国公立型と私立型、さらには、その両者の併用型だった。したがって、それ自体は現在とさほど変わりはなさそうだが、そのいずれのタイプにおいても、推薦入試枠が現在とは比べものにならないほど限定的で、もっぱら筆記試験が中心であり、受験生はほぼ一律に筆記試験を受けた結果で、合否が決まった。
 但し、芸術系やスポーツ系などでは実技の比重が高く、高校時代に目立った実績のある受験生の場合は、その経歴が入試の合否に大きく作用して、ペーパー試験を経ずに、さらには、入学時のみならず在学中にも諸種の特別待遇を条件にして、スカウトされる学生も少数ながらいた。
 その他にも、一般の入試に先立つ実技のセレクション(選抜試験)の成績を、一般入試の点数に大きく加点することを前提にして、他の受験生たちと同じようにペーパーテストも受けるか、或いは、そのペーパーテストまでも免除されて入学を許可される場合もあった。
 しかし、そうした特殊で特権的な受験生を除いた圧倒的多数は、一律にペーパー試験で合否が決まった。その点では、指定校推薦や公募推薦など実に多様な名称の推薦入試によって、ペーパー試験が殆んど有名無実化した感まである試験形式が、私立か国公立かを問わずに大手を振るうようになった現今とは隔世の感がある。
しかも、そのペーパー試験の詳細に立ち入ると、様変わりはさらに甚だしい。
 例えば、入試日程である。国公立大学の場合は、1期校(3月初旬)、2期校(3月下旬)、そして中間校(3月中旬)などと試験日が3グループに大別され、国公立大学の受験者は一般に1期校が第一志望、2期校が第二志望、さらには、第2もしくは第3志望として中間校までの受験が可能だった。但し、以上はあくまで一般的な話である。
 第一志望が必ずしも1期校でなくてはならないわけでもなかったが、合格発表後の入学手続きなど日程の関係から、2期校を第一志望としておきながら、一期校を滑り止めにするというのは現実的には殆んど不可能なのに対し、第一志望の一期校の受験に失敗しえ二期校や中間校を受験・合格すれば、不承不承であっても、その合格した大学に入学というケースが少なからずあった。
 因みに、一期校には旧帝国大学系を中心としたいわゆる有名大学が多く、それらの大学でも学部によっては、1期と2期の両方で試験を実施しており、一人の受験生がその両方を受験することが可能な場合もあった。
 現在のセンター試験(当初は<共通一次試験>と呼ばれていた)のように全国一律の入学試験は、僕らが大学入試を受けた時期から10年ほど後の1979年頃から試験的に始まり、試行錯誤を重ねたうえで制度化されたものにすぎず、僕らの時代にはもっぱら自分の志望大学に赴き、その志望大学側で独自に作成した試験問題に挑戦する<一発勝負>だった。
 その一発勝負は但し、試験が短時間もしくは1日だけといったことではなく、2日ないし3日に亘る場合の方が一般的で、現今は大勢になっていそうな〇×式や複数回答例から正答を選択する問題形式と比べると、記述式に近い設問が多くを占めていた。
 受験校の選択に際しては、上でも述べた通りに、国公立だけでも一期、中間、そして二期を合わせると3回、その度に異なる大学や学部の受験も可能だったが、実際には第一志望の1期校に合格しなければ、その年度の大学入学をすんなり諦めて、翌年に期す受験生も少なからずおり、僕が通っていた高校の、少なくとも僕の周囲の生徒の多くがそうだった。
 僕が高校で所属していた野球部の3年生で、甲子園予選の地方大会が終わるまで在籍していた同期のメンバーは、僕を含めて7名だったが、そのうちで国公立の一期校を受験しなかった生徒はひとりもいなかった。そして、結果的に一年の浪人後に再挑戦した者も含めて第一志望の国公立一期校に入学したのが、4人なので総数の半分を少し超えていた。  
 但し、ここでも付言しておくべきことがある。このあたりの記述では「少なくとも僕、もしくは、僕の周囲」という文言が繰り返されるのは、本論の記述が相当に一面的、とりわけ、当時の主に男女の差異についての必須の記述を欠いていることを意識してのことである。
 それについても三部作の「高校篇」で相当に詳しく記しているのだが、当時の僕らの高校の男女に対する区別・差別は相当に深刻だったし、僕自身の性格や中学の野球部で特に培われたマッチョ的な気風もあって、僕は女子生徒と日常的な関係を殆んど結べなかった。したがって、僕の大学入試に関する記述には、女子生徒たちの存在の痕跡が全く見られない。当時の僕はそれについて殆んど何も知らなかったのである。僕が高校時代の同期の女子生徒だった人々と不通に話を交わせるようになったのは、40歳代半ば以降に同期会などを契機にしての交遊のおかげであり、高校在籍時は男女共学ながらも、僕と女子生徒たちの関係は極度に限定され、僕は彼女たちについて、本当に何も知らなかったのである。

僕の受験準備
 当時の僕は、自分の高校の教師や生徒たちから入手したもの以外に、入試情報を自ら収集するような努力は殆んどしなかった。当時では代表的だった受験雑誌を発行する出版社が主催する全国模擬試験を一回だけ受験したが、その模擬試験のデータを信頼してのことではなくて、せめて一回くらいは自分の高校とは別の場所での受験を経験しておいたほうが、本番での緊張が軽減されるのではないかといった気休め的理由からにすぎなかった。したがってその試験結果など殆ど気にしておらず、その成績のことも全く記憶に残っていない。
 要するに、僕は世に溢れる入試情報一般には甚だ疎く、もっぱら自分の高校における<常識らしいもの>に自分の事情を掛け合わせて、将来設計の一環としての大学受験の準備をしているつもりだった。換言すれば、通っていた高校が与えてくれる情報に絶大な信頼を置く、なんとも能天気な受験生だった。
 したがって、当時、フォークソング歌手の高石ともやが歌って人気を博していた「受験生ブルース」を、ラジオばかりか高校の最寄りの会館で行われたミニコンサートに友人たちと駆け付けて、随分と愉しく口ずさんだりもしたが、その歌詞の内容ほどに厳しい受験生活を僕なんかは送っていなかった。
 大学入試の模擬試験も、もっぱら僕らの高校の先生方が作成し、学内で年に3回実施されていたものを受験し、その成績に基づいて、担任と相談して受験校を決めるのが僕らの高校では一般的だった。但し、担任教師が何と言おうと、不合格は覚悟のうえで自分の意思を優先する生徒も少なからずいて、そんな生徒に対しても、先生たちは高校の過去のデータに基づく合否判定を率直に提示するだけで、翻意を求めるようなことは殆んどなかった。
 僕は高校三年の一月に実施された学内最後の模擬試験で、僕自身の目標に近い成績に達したので、高校の従来のデータ上では志望大学の合格圏内とのことだった。しかし、後にも触れるように、その年の入試の特殊事情を勘案すれば、合否半々くらいとしか言えないというのが、担任教師の話で、僕もそんなことは既に予想していたこともあって、即座に納得した。その結果として、面談の予定時間を持てあました先生と僕は、野球部のことなど雑談でお茶を濁して、予定の時間が来ると、あっさりと席を立った。
 そもそも、僕らの高校から国公立の第一志望の大学に現役で合格するのは卒業生の半分強で、一年の浪人生活は端から覚悟の生徒がかなりいたので、僕もそんな雰囲気にどっぷりと浸っての受験生生活だった。
 因みに、僕らの高校の模擬試験には現役の三年生だけではなく、浪人中の卒業生も数多く受験し、現役と浪人の区別などなく、成績上位者の名前と席次と総得点が校内に掲示されるのが慣例だった。僕らはそこに名前が掲示された者は、国公立の主要大学の合格圏内に入っているものと見なし、3回目の模擬試験後には僕の名も掲示されていたので、浪人生活を免れるかもしれないと希望を持った。
 高校のそうした長年のデータに基づく大学入試の合否予想は、卒業予定者個々人に関するものの他に、高校全体として主要大学に現役生と浪人生を合わせて何名くらい合格するかの予想もあり、それは毎年、大きく外れることがなかった。入試戦線の大混乱を予想されていた僕らの年度でも、いざ蓋を開けてみると、入試自体を取りやめた東大は別として、その他の主要国公立大学への僕らの高校の合格者数は、例年とほぼ変わらず、高校のデータの精度に今更ながらに脱帽した覚えがある。
 高校のカリキュラムも国公立大学の受験を前提にして組み立てられており、それに則ってそれなりに勉強しておれば、例え運が悪くても一浪すれば、志望大学に入学できるといった信憑が、生徒には浸透していた。高校のそうした受験体制に批判的な生徒は、まるで受験予備校のようで、まともな学校教育ではないと非難し、嫌悪する者もいたらしいが、僕などは、長年にわたって築きあげられてきた気風、学風、教育スタイル、受験のノウハウにいたって従順に、高校生活を楽しんでいた。要するに、当人は順応しているつもりだったが、実際には飼い馴らされていたと言べきだろう。
 <上位3~5%>以上の生徒たちに対して、<一定の自由>の保証によってプライドを満足させる一方で、予備校的カリキュラムを進んで受け入れながら高校生活を大過なく過ごさせるシステム。その中でのほどほどに快い高校生活の詳細については、既にこの連作三部作の第二部の高校篇で詳しく記述したことなのだが、<文武両道>などもその一環で、管理統制を進んで受け入れる交換条件として、自己満足を糧にした受験勉強に向けて採用されたキャッチフレーズだった。

国公立か私学か
 僕は在日だから、どの大学に入学・卒業しようと、それによって何らかの将来保証が得られるわけではないことを、誰に教えられたわけでもないのに、生きるために必須の基礎知識のように随分と幼い頃から頭に入っていた。そしてそうした将来的展望の一環としての大学入試観、大学生活観、卒業後の職業生活観などもそれなりに描いていた。
 僕にとって大学入試とは、それなりのステイタスを備えた大学に合格することで、卒業後に本格的に立ちはだかる民族差別に対抗するための、せめてもの心理的担保としての知的能力に関する自信、それを得る為の通過儀礼だった。そして、その後の大学生活は、むき出しで襲い掛かって来る差別に曝される前の、人生で最後の猶予と鍛錬の期間、それが僕の人生における大学の位置づけだった。逆に言えば、社会で役立つ知識や技術を身に着けるとか、それを糧にして社会的上昇を図るとかの夢や展望などは、僕の大学観からはすっぽりと抜け落ちていた。
 それはともかく、先に紹介した僕らの高校の受験戦略は、主に現役の生徒に焦点を当てたものであり、卒業後に浪人生活を経た生徒の場合は、それぞれの事情に応じて微妙な変化が生じる。再度の浪人生活(二浪,三浪)は是が非でも避けたいので、国公立の2期校や中間校も「滑り止め」として受験し、第一志望に関しても大学や学部の難易度のランクを落とし、さらなる安全弁として私学の受験率も高くなる。
 但し、先にも述べたことだが、国公立と私学では受験科目が相当に異なるので、受験生は自分が国公立型なのか私立型なのか、或いはまた、どちらを目標にして高校生活を送ってきたのかなど自己認識が受験校の選択に少なからず影響する。
 国公立の試験科目は主要五科目である。但し、理系の場合には理科科目として物理や化学や生物から2科目(但し、学部によっては物理と化学が指定されている場合もある)、文系の場合は社会科目として世界史、日本史、公民、倫理などから2科目が選択必修なので、文系も理系も総計6科目を受験しなくてはならず、試験日も2日ないしは3日に渡った。他方の私学の場合は2科目ないし3科目だけの受験科目なので、受験日も一日で済んだ。したがって、科目数とそれに応じての心理的、肉体的負担は、私立の方が国公立よりも軽かった。
 但し、私学の場合は、文系や理系の複数学部を掛け持ち受験する場合も多いので、実際には二日三日と連日の受験となるなど、どちらの負担が大きいかは一概に言えない。
 それにまた、科目の得手不得手、とりわけ、数学のそれが志望大学や学部の選択に大きく影響した。数学が極端に苦手な生徒は、文系理系を問わず、数学を必須科目とする国公立大学の受験には、確実に不利になるので避けがちだった。
 以上のように、一般には科目の得手不得手がそれほどでもないジェネラリスト的な受験生であれば国公立、科目の得手不得手や好き嫌いが甚だしい受験生は、苦手科目を避けることも可能なので合格の可能性が大きく開ける私学を選ぶ傾向が強かった。
 しかし既に述べたように、僕らの高校では国公立大学の受験を前提にしたカリキュラムを組んでいたので、その分、私学だけを受ける者には不利な部分が少なからずあった。例えば、数学が苦手な生徒は入学して卒業するまでずっと、数学に悩まされ、いきおい他の科目にしわ寄せが及ぶ。そのあげくには、大学入試どころではなくなったりする場合もある。卒業するためには、多大な時間を割いてでも数学の単位を取得しなければならず、その分だけ、肝心の大学入試の受験科目の準備が手薄になってしまう。
 例えば、卒業年度の2月初旬に私学を受験して合格しても、元来はとっくに単位を取得しておかねばならなかった数学の単位が、卒業を直後に控える時点になっても取得できておらず、特別に設定された再試験に合格して卒業単位を揃えるために、卒業直前までその対応に躍起になるような生徒が、現に僕の周囲にもいた。
 既に述べたように、当時の私立大学の受験日は、関西が2月初旬、関東が2月下旬、国公立一期校は全国一律で3月初旬、中間校が3月中旬、二期校が3月20日前後となっていたので、それらをすべて受けようとすれば、相当数の学校や学部の受験も可能だった。しかし、近年のように試験科目や試験方法の多様化によって、滅多やたらの複数受験が可能になったので、そうした好条件をフルに活用するような受験生がいるのと比べれば、当時はまだ個々の生徒の受験回数ははるかに少なかったように僕は思う。特に現役生の場合がそうだった。
 それに国公立と私立の受験料や授業料その他の経費の大きな格差も考えあわせれば、国公立大学が圧倒的に受験生を吸引した。国公立大学の学費は僕らが通っていた府立高校(諸費用も含めて月額2500円)の半額にも満たない年額1万2千円で、私立大学はその10倍以上だった。昔と比べれば異常に高くなった国公立の学費(昔の50倍以上)と、それと比べれば引き上げ率が低かった私学の学費(医学部を除けば10倍から15倍程度)の格差が、せいぜい2倍から3倍くらいに収まっている現在とは比較にならなかった。
 当時は大学の学食のランチが100円前後、素うどんが20円前後といったように、高校の学食と変わらない廉価だった。家庭教師を一回2時間で週に2回もすれば月に少なくとも八千円くらいの時代だったので、国公立の学生はたとえ家が貧しくても、当人が家族の生計を支える必要さえなければ、アルバイトで自分の学費と寮費(下宿代)と生活費を稼ぎながらの大学生活もそれほど難しくなかった。
 学生寮が殆んどなくなったこともあって、寮生活の学生など殆どいなくなった現在とは違って、当時は2食付きの学生寮が苦学生を支えていた。しかも、例えアパート住いでも、その部屋が3畳程度のものも少なからず、押し入れに万年床を敷くなどの工夫をしても、部屋の中は足の踏み場もないといった暮らしを余儀なくされる学生が少なくなかった。今ではすっかり普通になったバス・トイレ付きワンルームなどは、当時の苦学生からすれば、まさしく夢の学生生活だった。
 私大生なら、高額な授業料に加えて自活費用を稼ぐために、アルバイトにかける時間が国公立の学生よりもはるかに多くならざるを得なかったが、不可能というほどでもなかった。当時の大学は授業の出席について今のようにうるさくなかったし、そもそも教員の休講が今の学生には信じがたいほど多くて、その補講など、たいていの教員や学生が嫌がっていたので、よほどに休講が多かった教員がアリバイ証明の体裁で行う場合だけだった。但し、よほどに真面目な教員が最低限の義務と考えて行う場合もなくはなかったが、僕は大学在籍中に、補講に出た記憶が全くない。
 春と秋のそれぞれで、教員の学会出張名目の休講が少なくとも1、2回はあったし、学校に来ているのに休講の掲示もせずに授業に現れない教員もいるくらいだった。しかも、そんな教員にも言い分があって、大学というものは学生が自分で学ぶところと言うのであった。そんなご託宣を嘯く教授様が実際にいらして、僕はそんな現場を目にして、すごく喜んでいた。
 しかも、現在のように文科省が定めた年30回の授業回数を是が非でも確保するために、祝日でも授業を行うなんてことはありえなかった。その結果、月曜日などは年間で授業の回数が実質的には20回を割り込むことも稀ではなかった。
 しかも、90分から100分の授業でも、かつての教員は10分以上も遅れて教室に姿を現して、終わる際には10分以上も前に教室から去っていくのが普通だったので、実際の授業時間はせいぜい60分から70分、授業時間をフルに、そして休講が実質的にない現在と比べると、年間の延べ授業時間は半分くらいにしかならなかった。但し、ここからが面白いところなのだが、実際の教育効果がその物理的時間に比例するなんてことはあまりなさそうというのが、僕の半世紀近くの三文教師生活に基づく信憑である。
 それはともかく、大学紛争の<収拾>後に、強引かつ急速に進められた大学正常化だけに、様々な局面で混乱が後を引いていた頃には、学年末試験も形だけで済まさざるを得なかった。したがって、実験などの拘束時間が多い学科、学部の学生でもなければ、掛け持ちのアルバイトで超多忙な毎日を過ごす苦学生でも、卒業単位を取得するのはそれほど難しいことではなかった。そのうえ、就職も過度に欲張らなければ、そして、学生運動絡みで警察に逮捕されるなど脛に傷もつ身でさえなければ、不思議なほどに容易だった。
 企業側も大学で<変に>社会的な問題意識を持って勉強を積んできた学生よりも、ほとんど勉強などしなかったおかげで、特定の政治思想や社会観などの<色に染まらず殆んどまっさら>に見える学生の方が、終身雇用を謳う会社独自の職業倫理や営業方針に基づいて鍛えあげて、理想的な会社人間をつくりあげるのが容易という考え方だったらしい。但し、鍛え上げるべき新入社員にもある程度のポテンシャルがなくては困ることも多いからと、大学時代の成績よりも、在学していた大学の<名前(ステイタス)>をそのポテンシャルの尺度として、秩序や規律に絶対服従で上意下達の運動部気質を備え、号令一下でわき目を振らずに邁進する学生を選好していた。
 それもあって、先輩後輩などの上下関係と学閥が就職活動、そしてその後の会社生活でも現在以上に重視されていたのではなかろうか。(ある在日の青春の3に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―のブログアップにあたって

2024-02-24 09:18:06 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―のブログアップにあたって

 拙著『金時鐘は在日についてどう語ったか』を2021年4月に刊行すると、僕は主に以下の二つを余生の糧にすることに決めた。
 一つは、拙著の後始末をすることである。本当は、続編を書き継いで、納得のいく金時鐘論、ひいては在日論を完成したかった。ところが、このところの心身の衰え、とりわけ、集中力と記憶力と持続力の減退を考えると、そうはいきそうになかった。それにまた、、金時鐘さんについて僕が書きたかったことの大筋と、僕の能力を筆頭とする多様な限界が、拙著で既に出尽くした感もあり、いかに小さなものであれ、金時鐘的テクストの解釈に関しての一石は、辛うじて投じることができたと、納得することにした。
 それでも、果たすべき義務がなだ残っているので、それだけはきちんと終えたい。例えば、兵庫の一斉糾弾闘争に関しての、当事者途へ言いにくいが、かといって無関係でもないといった中途半端な存在としての整理をするとともに、その闘争の過程で深く傷ついたあげくに、無念を抱えたまま倒れてしまった方々に対して、哀悼の気持ちを表明しておきたい。それだけでも僕には十分以上に荷が重いのだが、その程度のことしか僕にはできないという諦念の結果でもある。そんな意味で、僕にできることは拙著の後始末の感が拭えないのだが、その範囲に限定することで、自分を<保たそう>としている。
 その一環として、先般(2024年1月27日)に朝鮮史研究会関西部会の月例研究会で、僕の人生最後と決めた研究発表もどきを行い、その際には参加者に、A4で40枚(400字詰め原稿用紙で約15000字)に及ぶ長大な草稿を配布した。それをどこかの雑誌にでも掲載してもらえればいいのだが、量的にも内容的にも、受けいれてくれそうな媒体の心当たりが現時点ではないし、この先にもありそうにない。近いうちに、このブログにアップするか、或いは、金時鐘関連の拙文をなんとか書き足したうえで、単行本として出版するか選択することなりそうである。
 そしてもう一つの余生の糧が、2020年頃に書き始めた自伝的エッセイを、今後も連綿と書き継いで、人生最後を飾る大長編三部作エッセイとして完成することである。第一部は僕の小中時代の民族関係を中核にした生活、第二部は高校時代のそれ、そして第3部が、大学時代のそれであり、現時点で前者二つの草稿はほぼ完成したが、最後の第三部は予想外に膨れ上がり、自分でも制御が効かなくなったので、ひとまず放置したままである。、
 第一部は、A4で100頁(400字詰めで約350枚)、第二部は200頁(700枚)、第三部は未完の現時点でも、230頁(800枚)で、総計530頁(1850枚)を越える。そんな大量の原稿をそのまま出版するわけにはいかず、半分以上の削除は避けられないだろうから、それまた大仕事になる。
 したがって、出版するかどうかはペンディングにして、当面は完成に努めるしかないと自らに言い聞かせた。そこで執筆再開のきっかけにするためにも、その大企画のきっかけになった既発表の文章をブログにアップすることにしたのである。
 それにあたって、草稿の現況とその書き方に関する方針について、少し説明しておきたい。
僕はそれらの原稿をあくまでノンフィクションとして書いた。フィクションは混入させないように努めた。
但し、なにしろ遥か昔のことなので、記憶違いもあるだろうし、ものを書くことは嘘を吐くことでもある。表象と表現の二つの段階のそれぞれにおいて、非・真実が紛れ込む。それが言葉の、そして書く行為につきまとう宿命である。しかも、物語化の欲望や誘惑は、人間の意志を越える。意図しなくても、ついついそれが忍び込む。
 したがって、僕が書くことのすべてが実際にあったことであると、保証することなどできない。しかし、少なくとも僕には、フィクションを書くつもりはなかった。そのことだけは確かである。
そして、それを少しでも保証するために、努力もした。例えば、第一部と第二部については、僕の過去を知る幾人かに読んでもらって、明らかな嘘が紛れ込んでいないかのチェックをお願いした。
 第一部については、小学校6年間を同じ学校、そして時には同じクラスで過ごした女生徒だった知人に読んでもらった。その他にも、在日や日本人の10名くらいにも、読んでもらった、
 第二部の高校時代についても、同じ高校で毎日を送った旧友たち10名ほどに読んでもらった。
 以上の人々の中で、僕の記憶違いを指摘したのは、高校時代の友人で、大学卒業後は教職に就き、長年にわたって母校の教員として同窓会関連の仕事などを一手に引き受け、母校について最も詳しい友人だけだった。彼は10点ぐらいの、主に高校の制度や歴史などの細かな点における僕の誤記や誤解に限って訂正の必要を指摘してくれた。
 全体として、僕の記憶力に対する驚きに加えて、同時代に同じ環境を生きていた自分たちとあまりにも違う人生を僕が生きていたことに驚きの二点が最大で共通の読後感だった。
 僕が望んだ真実性のチェックには殆んどならなかったが、拙文を公表することに関する、励ましや認証と解釈してもよさそうに思った。それだけに、僕としては、そうした優しい励ましに対して、それが内包する責任をしっかり引き受けて、努力するしかないと心に決めた。
 そこで、第一部と第二部については、文体に関する迷いを振り切って、方針が固まり次第、全面的な改稿を試みながらの完成を目指すことにした。
 他方の第三部については、最後まで書き継ぐ作業と並行して、冒頭からの改稿作業の刺激とするためにも、少しずつブログにアップするに先立って、最終的な推敲に緊張感を持って取り組むことにした。
執筆にあたっては、以下のことに留意して文章を書き継いできた。
 何よりも散文に徹することである。大見えを切らない。物語化の欲望も断つべく努力した。青少年時代の散文的な毎日を散文的に書くように努めた。読者は退屈になるかもしれないが、僕は敢えて、そのように努めた。
 もう一つは、在日の子どもの世界を日本人の子ども世界と隔絶したものとして書かないように努めた。在日の世界も、日本の社会の一部として描くように努めた。在日の世界しか描いていそうにないと思えそうなところでも、その意図を貫徹しようと努めた。
 以上の意図をどこまで徹底できたか、僕には分からない。だからこそ、読者の忌憚のない批判や苦情や冷やかしなどが、僕には必須だし、有難いものなのである。どうか宜しく。
 以上がブログアップにあたっての能書きで、以下は、この大長編エッセイ全体の前触れとして既に発表した文章である。前触れなので、少しばかり「謡」が入っており、上で書いた方針に馴染まない部分もあるかもしれないが、そのあたりはどうかご寛恕のほどをお願いしておきたい。

 韓学同史編纂企画の波紋―「在日」の青春群像の記述という夢想―
(青丘文庫月報巻頭言の転載。発行日は不明で、原稿の執筆日は最後に)

 その昔、特に1960年代から1990 年代半ばにかけて、日本のあちこちの大学には「在日」の学生サークルがいくつもあった。そのうちで「北」の立場に立つのが「朝鮮文化研究会」(朝文研、チョムニョン)あるいは「朝鮮歴史研究会」(朝歴研、チョリョギョン)を名乗り、その統括団体として朝鮮総連傘下の「朝鮮留学生同盟(留学同、リュハㇰトン、リュウガクドウ)」の中央、地方本部があり、「南」の側に立つものは韓国文化研究会(韓文研、ハンムニョン)あるいは韓国歴史研究会(韓歴研、ハニョギョン)を名乗り、その連合体として韓国民団中央本部と大阪、愛知、京都、兵庫地方本部の傘下団体として在日韓国学生同盟(カンガクドウ、ハナㇰトン)の中央総本部(チュウソウ)と地方本部があった。数が減ったとはいえ前者、つまり総連傘下の留学同は今でも少しは残っているらしいが、後者は数年まではわずかに京都にその名残があったが、今ではそれもなくなったらしい。
 そんな韓学同の歴史編纂という話が持ち上がったのが今から10年ほど前のことだったが、その話は僕に少なからぬ精神的動揺をもたらした。
 まずはそうした企画がありうることに驚いた。僕が経験した学生組織の運動の歴史が編纂に値すると考えている人がいるという事実に、唖然としたわけである。それはなにも、僕がそれを「ひと時の遊び」だったと考えていたからではない。僕もそれなりに懸命に取り組んだこともあったし、その責任を問われて親団体である民団を除名され、その後20年以上にわたって韓国政府から旅券発給を拒否されるなど、人生に大きな足かせがついてしまった。具体的には日本から一歩も外に出られないということとそれに派生する様々な束縛とそれに絡む心理的な後遺症も抱えて生きてきた。
 だからといって、そんな<災厄>をもたらした原因としての学生組織の運動が、歴史として書かれるもの、表舞台に出せるものとは、これまでに一度も考えたことがなかった。
 それというのも、僕らがしていたことは、なんともちまちまとした活動に過ぎなかったのに、それとは釣り合わない大きな損を被っただけのことだから、僕は馬鹿で不運だったと考えていたからである。しかも、そんな「外れ籤」のようなことは、在日として生まれたことの一環に他ならないから、嫌々ながらも引き受けないわけにはいかないなどと、<日陰者のひがみ根性と諦め>の絡み合いをかみしめ、それをも生きる糧にしていたからである。
 そうした僕固有の「僻み根性」の延長なのか、趣旨文の「美しさ、勇ましさ」にも驚いた。「祖国における民族民主運動の一翼を担った在日の学生運動」といった類のものである。なるほどそういう見方もできなくはないのだろうし、そういう話が好きな人が少なからずいるだろうが、僕が体験したのはそんなものではなかった。だからこそ、<違う>、という感じが日増しに強くなっていった。歴史編纂の企画に協力するのは難しいと思った。
 しかし、そうした感じ方が僕一人のものなのか、それとも一般的なものなのかがよく分からなくて、それが知りたくなった。そこで、その昔にその組織に関係していた知人、友人たちに意見を求めてみたところ、またしても驚いた。厳しい反発から冷たい黙殺までと実に多様な反応があったが、歴史編纂への協力の提案に対して好意的な人などほとんどいなかった。したがって僕の違和感は決して特殊なものではなかったわけで、驚くことはないはずなのに、僕は驚いたのである。
 僕だけがその経験を後生大事に抱え込んでいると思いこんでいた浅はかさ、傲慢さ!それを思い知らされた。若かりし頃のほんの数年の経験が、少なからぬ人々の現在に後を引いている。多くの人が否定的であれ肯定的であれ、あの学生時代の延長上で生きているからこそ感情の揺れを否定しがたいのではないか。そうだったなら、そうしたことは書かれるに値するし、そういうことなら僕も非才を顧みずに書いてみたい、と考え始めたのである。但し、それは企画のラインに沿ってのものではない。政治運動の歴史、あるいは、政治路線の変遷、対立といったレベルで何かを書くなんて僕にはありえない。
 なるほどさまざまな路線があり、その選択を迫られた。それでお互いに傷つけあい、すっかり関係を絶ったりすることも多くはないが、なかったわけではない。しかしそのような対立は、状況認識、展望、戦略、戦術なるものを理解したうえでの選択というよりも、個々人の事情(家庭の事情もあれば、性格、信頼関係など)によって左右されることが多かった。それが僕の経験的信憑だった。
 あの頃、僕らは何故集まったのか、何故あれほど長時間を一緒に過ごしたのか、何故、あれほど議論し、そのあげくに非難しあったり、心中に不信を抱えこんで黙り込んだまま、その後を生きてきたのか。あれほど同胞、民族、民主化、在日の権益、祖国統一を口にしておきながら、その後、それとはすっかり背反したり、あるいは、まるでそんなことなど何一つなかったみたいに多種多様な生き方をしてきたのか。そうした「在日」の青春とその後の姿が書かれて悪かろうはずもない。そう思うようになった。それは何かを誇ったり、何かを批判したり、といった代物ではありえない。同じ言葉を語り、共通感情に浸っているつもりでいても、その裏で蠢いていたもの、隠されていたもの、意識に明確に上らせることができなかったことども、それが老齢に至った今でも明らかにならないままである。そんなことを記してみたいと切実に思うようになった。
「正史など糞くらえ!」というわけではないが、それはそれにふさわしい人の仕事であって、僕ができることはと言えば、個々人の屈託、背伸び、反省、諦念、居直り、それらが絡み合った在日二世三世の意気が上がらない青春の記述くらいである。多様と言えば多様、しかし観点を変えれば、単純と言えば単純、そんなことをぼつぼつ書き始めている。曰く「在日の青春群像の記述という夢想」というわけである。そして今回、その下書きを大幅に改稿して、このような形でお披露目することになったのである。(2020年8月8日)