ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の18
第3章第4節
4節 しくじりの大学生活という物語
既に繰り返し書いてきたことなので、読者は辟易していることを重々承知しながら、またしても繰り返さねばならない。
大学一年時の僕は、大学生というのは名前だけのことだった。まずは叛乱学生のバリケードによる封鎖、次いでは機動隊の管理下の、さらには機動隊をバックにした大学教職員によるなど、行為の主体は変わっても、学生が自由にキャンパスに立ち入ることを禁止されることにおいては何ひとつ変わらないキャンパス立ち入り禁止状態が、延々と8か月も続いた。
一時的に他の場所で授業もどきの試みはあったが、実質的な授業などまったくなされないばかりか、先が見通せない宙ぶらりん状態だった。
終わりがない休暇となれば、普通の学生の大半は大喜びだろうが、僕は家業のコウバから逃げられず、毎日、缶詰を強いられた。
そこで、次々と舞い込む同胞学生の勧誘を口実に、父からコウバからの早退許可を得て、いそいそと出かけた。しかし、それにも限度がある。短期間のうちに何度も続くと、さすがに父の機嫌がよろしくない。それにまた、そんな父に気を遣う母の表情も渋くなり、ときには愚痴も出るので、大学当局からの呼び出しという伝家の宝刀も持ち出す。学校に通ったことがなく、学校事情にはいたって疎い両親の弱みを突く。つまり、噓を吐いてコウバから逃避した。
そんなわけで、僕は実際に大学へ通学する以前に、同胞の学生サークルや組織との交遊、そして彼らから吹き込まれる「民族的覚醒」とそれに抵抗しようとする「それまでの己」との葛藤がもたらす<青春の煩悶>に精神を、そしてコウバでの単調労働に肉体を、といった具合に心身ともに縛られた生活を余儀なくされた。
そのあげくには、民族にまつわる問題系と民族サークルや組織の関係者たちとの交友を物心両面において最優先する習慣が身についた。
そのせいで、<大学正常化>という長期間にわたる空念仏がようやく実現し、待望のはずの授業が本格的に始まっても、僕の心も体も普通の大学生活などには適応できなくなっていた。つまり、そうした僕と大学とのしっくりしない関係が、その後の僕の大学生活の基本形となってしまったのである。
授業やクラスメートとの関係はいつだって二の次となるから、大学では周囲からすっかり浮きあがった状態が卒業まで続いた。
しかも、学外の民族組織の活動に明け暮れ、大学からは足が遠のいたせいで留年もした。一緒に入学した学生たちは僕よりも一足早く卒業していたので、卒業式も一人で参加して、誰とも言葉を交わさず、帰りに職員の方から卒業証書を受け取って、寒々しい気分で帰宅した。僕の大学生活総体を象徴する卒業式だった。
それどころか、僕は4年生の途中からは、大学の卒業どころか、大学そのものにもすっかり興味を失って、大学に行くことなどなくなっていた。そして、4年生の末には。学外の民族組織の活動から正式に引退したので、何一つすることなどなくなり、それ以降、つまり、形式的には大学5年生の一年は、もっぱら家業見習いとしてコウバに日参していた。僕の意識から大学はすっかり消えていた。両親もそのことについて僕には何一つ言わなかった。僕と両親の間では、学外の民族的な学生組織の活動で僕が民団を除名され、そのあおりで両親も旅券を剥奪された結果、父が僕の頬を叩きながら目をにじませた事件以来、何かの了解というか、諦念というか、そんなものが支配して、成り行きに任せること が暗黙の了解になっていた。
そんな5年生の秋に、コウバで仕事中の僕に、大学の文学部の事務室の、初対面時から何かと僕のことを可愛がってくれていた中年の事務職員の方から、初めてのしかも、なんとも意外な電話がかかってきた。
「玄君、何してんのよ?!。滞納している学費をはきれいさっぱり納めて、気持ちよく卒業しなさいよ。そのつもりになったら、連絡して頂戴!」と軽口めきながらも、僕の感触をはかりながら、励ました。卒業のことなど全く考えていなかった僕の気持ちにも、さざ波が立った。
受話器を置いた僕に、たまたま横で仕事をしていた父が、電話の内容について尋ねたので、事実通りに答えた。すると父は、「そら、そやろ。卒業くらいしても、何の損にもならんやろ」と、まるで独り言のように呟いた。僕も、「なるほど、卒業してもいいか、面倒くさいけど」、と僕の気持ちはさらに動いた。そしてその後の数日間は迷ったあげくに覚悟を決めた。大学に出向いて、電話をくれた職員に挨拶したところ、彼女はにっこり笑いながら、「何よりも顔を見れたことがうれしいわ。ありがとう。面倒くさいように思うやろけど、何一つ大したことないやん。滞納している一年分の学費の12000円くらい、いとも簡単なことやし、足りない単位言うても、科目一つだけやから、担当のA先生と会って話つけたらええ。あの先生は玄君のこと可愛がってるはずやから、簡単に話はまとまるやん。最後は、卒業論文やけど、主任教授は杓子定規な人やけど、きちんと筋を通して頼んだら、嫌なんか言うはずがないから、論文提出の許可を得て、適当に書くくらい、お易いことやろ。最初はちょっと面倒に思うやろけど、気持ちよく、おさらばしいよ。大学なんか長い間、おるとこ違うし」と励ましてくれた。
その後は、何もかも彼女の教え通りに進め、最後の締めとして、俄仕立ての作文をでっち上げて、期限の一日前に提出して、事務室のあの職員の方に挨拶も終えた。「もう、会われなくなるのは寂しいけど、学生なんかそんなもんやから、ともかくよかった。また、どこかで会ったら、よろしくね」と言われて、互いに笑顔で別れた。
それで卒業の要件は揃った。主任教授には卒論審査の際に、皮肉めいたことを言われたが、僕には不思議に親切だったA助教授が、意識的なのかどうなのか、「そんなに悪いものでもないかも」などと、いかにもすっとぼけた一言を挟んでくれたので、恐縮しながらもありがたかった、
もし職員の方からの親切で積極的な卒業の勧め、そしてその後に関する懇切な説明と配慮に満ちた軽口調の電話がなかったら、僕はそのまま、大学のことなど何もかも忘れて、家業に没頭していただろう。そして、両親も、何も言わずにそれを受け入れていただろう。僕と僕が在籍する大学との関係は、僕と両親にとってはその程度のものだった。そしてそれも実は、大学入学時点から、少なくとも僕に関しては、そうなることが決まっていた、と言ってもよさそうなものだった。
高校一年から医学部や工学部、さらには経済学部などと、少しは実益になりそうで、それなりに格好がつきそうな学部への志望を、いろんな事情があって次々に変更したあげくに、最終的にはそのすべてから逃げるような形で、文学部の仏文学科を選んだ。その時から、僕はもちろん両親も、僕には大学で何か資格を得て卒業後に飯のタネになりそうなことなど望まずに、いづれは家業を継ぐものと、半分は諦めながら、その一方では期待もしていた。
僕の大学進学にあたっての目的が、社会に出て直面することが確実な厳しい民族差別の壁に、持ちこたえる精神的(むしろ心理的と言うべきか)基盤を探しだすこと、逆に言えば、幼い頃から骨の髄までしみ込んだ民族的コンプレックスを転倒できるような契機を見つけだすことだったからである。
4年間の大学生活はそのために、僕に与えられた最後の猶予期間だった。そのように考えたからこそ、僕は何の役にも立ちそうにない文学部の、それも仏文科を選んだ。そしてそれは、高校時代の一部の先生方の教えに沿うものでもあった。
その意味からすれば、大学入学直後から僕に襲い掛かってきた民族組織のオルグの大波は、僕の大学進学の目的にかなったものであり、それが学業より優先するのも当然だった。そのはずである。
ところが人間、とりわけ僕の機会主義と健忘症はひどいもので、大学に合格したとたんに、志望学科を決めた時点での大学進学の目的を、僕自身がすっかり忘れてしまっていたようなのである。何よりも、尋常の大学生活に憧れ、それが叶えられなかったから、大学との関係づくりにしくじってしまった、などとこれまでに述べてきた話が出来上がった。
既に触れたことの繰り返しになるが、その話とは次のような理屈で成り立っていた。
一般の学生の場合、大学は休みでも様々な学内のネットワーク、例えば、学内サークルや、住居(学内の寮や)大学近辺の下宿やアパートの関係、そして学生運動のセクト、もしくはクラス討論を繰り返すうちに醸成された人間関係、さらには高校(先輩後輩なども含めて)や予備校などで既にあったネットワークなどを通じて、大学の状況についての情報がリアルタイムで入っていた。
それに対して僕は、同胞サークルとの関係を除けば、コウバ通いが重くのしかかっていたせいで、大学側からの公式の情報以外には、大学とはほとんど無縁のまま、何も知らずに8ケ月を過ごしてしまった。その結果、その間もそれ以降も、日本の大学一般で起こっていることを、メディアを通してよそ者の目で見るだけで、当事者として何かを試みることもほとんどなかった。その結果、当時はまったくのノンポリを自称する学生たちでさえも少しは知っていた学生運動のセクトなどに関する知識も皆無だった。そして当然のこと、それぞれの党派の考え方、そしてその裏にある個人的バックボーンや心情についても知らないばかりか、関心すらないまま、もっぱらマスメディアからもたらされた断片的な情報で、活動家たちに対する偏見を募らせていた。
68年の末(高校3年の秋から年末にかけての頃)くらいまでは、高校の一部の教員たちのアジテーションの影響も受けて、叛乱学生一般へのシンパシーを募らせていたはずなのに、1969年1月の東大安田講堂の攻防戦の模様を、テレビにかじりついて見入って以来、メディアで一気に支配的になった叛乱学生に対する厳しい批判と非難の論調と雰囲気にすっかり染まってしまい、学生の異議申し立ての運動その他を、<恵まれた学生たちの傍迷惑な遊び>といったイメージで片付けることになった。しかも、授業がないからコウバで毎日を過ごす羽目に陥ったという個人的事情もあって、学生運動家、ひいては、それに共感していそうなクラスメートたちに対しても、羨望、更にはその延長上での怨恨の色合いが濃厚な、偏見の砦に閉じこもった。
大学や社会に対する異議申し立てを始めた当の学生たち、すなわち僕らよりも2,3年上級の学生たちは、実際に大学を経験したからこそ、それに対する異議申し立てをするのは当然の権利である。ところが、一度も大学生活を経験しないうちに、もっぱら叛乱学生たちのせいで授業を受けられず、もっぱらコウバでの<奴隷労働>を強いられることになった僕などは、一方的な被害者である。
そんな理屈と心情から、とりわけ自分と年齢が近い叛乱学生に対する反感と批判を募らせていた。
しかも、僕などは出自からして、日本ではあらゆる場面で差別を被る運命にあるのに、それと比べれば<日本人として生まれたということだけではるかに恵まれた贅沢な学生>を批判するのは、義務であり権利であると思えてきた。
そんな理屈を討論で述べた僕に対して、クラスの叛乱学生やそのシンパの学生たちは、民族的で歴史的な自責感も絡んでのことだろうが、すっかり黙り込んでしまうようなことがあり、それ以降は僕を腫物のように扱うようになった。
その様子を見るにつけ、「君子危うきに近寄らず」という日本の伝統的な身の処し方が、まじめな学生ほど浸透していそうに思えてきて、僕と彼らとの間に言葉が通じる可能性が見いだせず、そんな状況を打開しようという積極的な気持ちにもなれなかった。
他方で、ノンポリを自称する学生の幾人かとは、しだいに淡い関係を結ぶようになったが、それは端から議論や悩みの共有などの面倒を互いに避けることを前提にしたものだった。僕は大学の文学部の学生たち、中でも一緒に授業を受けていた級友一般にとって、外様の存在、<お客さん>だった。
しかし、先にも述べたように、そんな事態は、大学入学以降の状況がもたらした側面もなくはないが、それよりむしろ、僕が大学進学にあたって打ち出した目的自体に含まれていた方向性の具現にほかならず、必然的なものだった。
ところが、そのことを当時の僕は自覚していな。かった。大学進学の目的としての、アイデンティティの確立と民族差別に対して抵抗できる心理的基盤の構築、それを民族組織との関係において達成しようと焦り、家庭教師の件でも明らかなように、それまでの18年間にわたって形成されてきた日本人との関係における民族的自己(主に劣等感)の検証は避けてしまった。
そうした安易な解決策(むしろ逃避策)が僕の意識の深層に残した罪責感を直視しないように、当初の大学進学の目的などはすっかり忘れて、<普通の大学生>に憧れるからこそ、ともに学ぶ学生たちとのディスコミュニケーションにフラストレーションを募らせるしかなかった。(ある在日の青春の19に続く)
第3章第4節
4節 しくじりの大学生活という物語
既に繰り返し書いてきたことなので、読者は辟易していることを重々承知しながら、またしても繰り返さねばならない。
大学一年時の僕は、大学生というのは名前だけのことだった。まずは叛乱学生のバリケードによる封鎖、次いでは機動隊の管理下の、さらには機動隊をバックにした大学教職員によるなど、行為の主体は変わっても、学生が自由にキャンパスに立ち入ることを禁止されることにおいては何ひとつ変わらないキャンパス立ち入り禁止状態が、延々と8か月も続いた。
一時的に他の場所で授業もどきの試みはあったが、実質的な授業などまったくなされないばかりか、先が見通せない宙ぶらりん状態だった。
終わりがない休暇となれば、普通の学生の大半は大喜びだろうが、僕は家業のコウバから逃げられず、毎日、缶詰を強いられた。
そこで、次々と舞い込む同胞学生の勧誘を口実に、父からコウバからの早退許可を得て、いそいそと出かけた。しかし、それにも限度がある。短期間のうちに何度も続くと、さすがに父の機嫌がよろしくない。それにまた、そんな父に気を遣う母の表情も渋くなり、ときには愚痴も出るので、大学当局からの呼び出しという伝家の宝刀も持ち出す。学校に通ったことがなく、学校事情にはいたって疎い両親の弱みを突く。つまり、噓を吐いてコウバから逃避した。
そんなわけで、僕は実際に大学へ通学する以前に、同胞の学生サークルや組織との交遊、そして彼らから吹き込まれる「民族的覚醒」とそれに抵抗しようとする「それまでの己」との葛藤がもたらす<青春の煩悶>に精神を、そしてコウバでの単調労働に肉体を、といった具合に心身ともに縛られた生活を余儀なくされた。
そのあげくには、民族にまつわる問題系と民族サークルや組織の関係者たちとの交友を物心両面において最優先する習慣が身についた。
そのせいで、<大学正常化>という長期間にわたる空念仏がようやく実現し、待望のはずの授業が本格的に始まっても、僕の心も体も普通の大学生活などには適応できなくなっていた。つまり、そうした僕と大学とのしっくりしない関係が、その後の僕の大学生活の基本形となってしまったのである。
授業やクラスメートとの関係はいつだって二の次となるから、大学では周囲からすっかり浮きあがった状態が卒業まで続いた。
しかも、学外の民族組織の活動に明け暮れ、大学からは足が遠のいたせいで留年もした。一緒に入学した学生たちは僕よりも一足早く卒業していたので、卒業式も一人で参加して、誰とも言葉を交わさず、帰りに職員の方から卒業証書を受け取って、寒々しい気分で帰宅した。僕の大学生活総体を象徴する卒業式だった。
それどころか、僕は4年生の途中からは、大学の卒業どころか、大学そのものにもすっかり興味を失って、大学に行くことなどなくなっていた。そして、4年生の末には。学外の民族組織の活動から正式に引退したので、何一つすることなどなくなり、それ以降、つまり、形式的には大学5年生の一年は、もっぱら家業見習いとしてコウバに日参していた。僕の意識から大学はすっかり消えていた。両親もそのことについて僕には何一つ言わなかった。僕と両親の間では、学外の民族的な学生組織の活動で僕が民団を除名され、そのあおりで両親も旅券を剥奪された結果、父が僕の頬を叩きながら目をにじませた事件以来、何かの了解というか、諦念というか、そんなものが支配して、成り行きに任せること が暗黙の了解になっていた。
そんな5年生の秋に、コウバで仕事中の僕に、大学の文学部の事務室の、初対面時から何かと僕のことを可愛がってくれていた中年の事務職員の方から、初めてのしかも、なんとも意外な電話がかかってきた。
「玄君、何してんのよ?!。滞納している学費をはきれいさっぱり納めて、気持ちよく卒業しなさいよ。そのつもりになったら、連絡して頂戴!」と軽口めきながらも、僕の感触をはかりながら、励ました。卒業のことなど全く考えていなかった僕の気持ちにも、さざ波が立った。
受話器を置いた僕に、たまたま横で仕事をしていた父が、電話の内容について尋ねたので、事実通りに答えた。すると父は、「そら、そやろ。卒業くらいしても、何の損にもならんやろ」と、まるで独り言のように呟いた。僕も、「なるほど、卒業してもいいか、面倒くさいけど」、と僕の気持ちはさらに動いた。そしてその後の数日間は迷ったあげくに覚悟を決めた。大学に出向いて、電話をくれた職員に挨拶したところ、彼女はにっこり笑いながら、「何よりも顔を見れたことがうれしいわ。ありがとう。面倒くさいように思うやろけど、何一つ大したことないやん。滞納している一年分の学費の12000円くらい、いとも簡単なことやし、足りない単位言うても、科目一つだけやから、担当のA先生と会って話つけたらええ。あの先生は玄君のこと可愛がってるはずやから、簡単に話はまとまるやん。最後は、卒業論文やけど、主任教授は杓子定規な人やけど、きちんと筋を通して頼んだら、嫌なんか言うはずがないから、論文提出の許可を得て、適当に書くくらい、お易いことやろ。最初はちょっと面倒に思うやろけど、気持ちよく、おさらばしいよ。大学なんか長い間、おるとこ違うし」と励ましてくれた。
その後は、何もかも彼女の教え通りに進め、最後の締めとして、俄仕立ての作文をでっち上げて、期限の一日前に提出して、事務室のあの職員の方に挨拶も終えた。「もう、会われなくなるのは寂しいけど、学生なんかそんなもんやから、ともかくよかった。また、どこかで会ったら、よろしくね」と言われて、互いに笑顔で別れた。
それで卒業の要件は揃った。主任教授には卒論審査の際に、皮肉めいたことを言われたが、僕には不思議に親切だったA助教授が、意識的なのかどうなのか、「そんなに悪いものでもないかも」などと、いかにもすっとぼけた一言を挟んでくれたので、恐縮しながらもありがたかった、
もし職員の方からの親切で積極的な卒業の勧め、そしてその後に関する懇切な説明と配慮に満ちた軽口調の電話がなかったら、僕はそのまま、大学のことなど何もかも忘れて、家業に没頭していただろう。そして、両親も、何も言わずにそれを受け入れていただろう。僕と僕が在籍する大学との関係は、僕と両親にとってはその程度のものだった。そしてそれも実は、大学入学時点から、少なくとも僕に関しては、そうなることが決まっていた、と言ってもよさそうなものだった。
高校一年から医学部や工学部、さらには経済学部などと、少しは実益になりそうで、それなりに格好がつきそうな学部への志望を、いろんな事情があって次々に変更したあげくに、最終的にはそのすべてから逃げるような形で、文学部の仏文学科を選んだ。その時から、僕はもちろん両親も、僕には大学で何か資格を得て卒業後に飯のタネになりそうなことなど望まずに、いづれは家業を継ぐものと、半分は諦めながら、その一方では期待もしていた。
僕の大学進学にあたっての目的が、社会に出て直面することが確実な厳しい民族差別の壁に、持ちこたえる精神的(むしろ心理的と言うべきか)基盤を探しだすこと、逆に言えば、幼い頃から骨の髄までしみ込んだ民族的コンプレックスを転倒できるような契機を見つけだすことだったからである。
4年間の大学生活はそのために、僕に与えられた最後の猶予期間だった。そのように考えたからこそ、僕は何の役にも立ちそうにない文学部の、それも仏文科を選んだ。そしてそれは、高校時代の一部の先生方の教えに沿うものでもあった。
その意味からすれば、大学入学直後から僕に襲い掛かってきた民族組織のオルグの大波は、僕の大学進学の目的にかなったものであり、それが学業より優先するのも当然だった。そのはずである。
ところが人間、とりわけ僕の機会主義と健忘症はひどいもので、大学に合格したとたんに、志望学科を決めた時点での大学進学の目的を、僕自身がすっかり忘れてしまっていたようなのである。何よりも、尋常の大学生活に憧れ、それが叶えられなかったから、大学との関係づくりにしくじってしまった、などとこれまでに述べてきた話が出来上がった。
既に触れたことの繰り返しになるが、その話とは次のような理屈で成り立っていた。
一般の学生の場合、大学は休みでも様々な学内のネットワーク、例えば、学内サークルや、住居(学内の寮や)大学近辺の下宿やアパートの関係、そして学生運動のセクト、もしくはクラス討論を繰り返すうちに醸成された人間関係、さらには高校(先輩後輩なども含めて)や予備校などで既にあったネットワークなどを通じて、大学の状況についての情報がリアルタイムで入っていた。
それに対して僕は、同胞サークルとの関係を除けば、コウバ通いが重くのしかかっていたせいで、大学側からの公式の情報以外には、大学とはほとんど無縁のまま、何も知らずに8ケ月を過ごしてしまった。その結果、その間もそれ以降も、日本の大学一般で起こっていることを、メディアを通してよそ者の目で見るだけで、当事者として何かを試みることもほとんどなかった。その結果、当時はまったくのノンポリを自称する学生たちでさえも少しは知っていた学生運動のセクトなどに関する知識も皆無だった。そして当然のこと、それぞれの党派の考え方、そしてその裏にある個人的バックボーンや心情についても知らないばかりか、関心すらないまま、もっぱらマスメディアからもたらされた断片的な情報で、活動家たちに対する偏見を募らせていた。
68年の末(高校3年の秋から年末にかけての頃)くらいまでは、高校の一部の教員たちのアジテーションの影響も受けて、叛乱学生一般へのシンパシーを募らせていたはずなのに、1969年1月の東大安田講堂の攻防戦の模様を、テレビにかじりついて見入って以来、メディアで一気に支配的になった叛乱学生に対する厳しい批判と非難の論調と雰囲気にすっかり染まってしまい、学生の異議申し立ての運動その他を、<恵まれた学生たちの傍迷惑な遊び>といったイメージで片付けることになった。しかも、授業がないからコウバで毎日を過ごす羽目に陥ったという個人的事情もあって、学生運動家、ひいては、それに共感していそうなクラスメートたちに対しても、羨望、更にはその延長上での怨恨の色合いが濃厚な、偏見の砦に閉じこもった。
大学や社会に対する異議申し立てを始めた当の学生たち、すなわち僕らよりも2,3年上級の学生たちは、実際に大学を経験したからこそ、それに対する異議申し立てをするのは当然の権利である。ところが、一度も大学生活を経験しないうちに、もっぱら叛乱学生たちのせいで授業を受けられず、もっぱらコウバでの<奴隷労働>を強いられることになった僕などは、一方的な被害者である。
そんな理屈と心情から、とりわけ自分と年齢が近い叛乱学生に対する反感と批判を募らせていた。
しかも、僕などは出自からして、日本ではあらゆる場面で差別を被る運命にあるのに、それと比べれば<日本人として生まれたということだけではるかに恵まれた贅沢な学生>を批判するのは、義務であり権利であると思えてきた。
そんな理屈を討論で述べた僕に対して、クラスの叛乱学生やそのシンパの学生たちは、民族的で歴史的な自責感も絡んでのことだろうが、すっかり黙り込んでしまうようなことがあり、それ以降は僕を腫物のように扱うようになった。
その様子を見るにつけ、「君子危うきに近寄らず」という日本の伝統的な身の処し方が、まじめな学生ほど浸透していそうに思えてきて、僕と彼らとの間に言葉が通じる可能性が見いだせず、そんな状況を打開しようという積極的な気持ちにもなれなかった。
他方で、ノンポリを自称する学生の幾人かとは、しだいに淡い関係を結ぶようになったが、それは端から議論や悩みの共有などの面倒を互いに避けることを前提にしたものだった。僕は大学の文学部の学生たち、中でも一緒に授業を受けていた級友一般にとって、外様の存在、<お客さん>だった。
しかし、先にも述べたように、そんな事態は、大学入学以降の状況がもたらした側面もなくはないが、それよりむしろ、僕が大学進学にあたって打ち出した目的自体に含まれていた方向性の具現にほかならず、必然的なものだった。
ところが、そのことを当時の僕は自覚していな。かった。大学進学の目的としての、アイデンティティの確立と民族差別に対して抵抗できる心理的基盤の構築、それを民族組織との関係において達成しようと焦り、家庭教師の件でも明らかなように、それまでの18年間にわたって形成されてきた日本人との関係における民族的自己(主に劣等感)の検証は避けてしまった。
そうした安易な解決策(むしろ逃避策)が僕の意識の深層に残した罪責感を直視しないように、当初の大学進学の目的などはすっかり忘れて、<普通の大学生>に憧れるからこそ、ともに学ぶ学生たちとのディスコミュニケーションにフラストレーションを募らせるしかなかった。(ある在日の青春の19に続く)