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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の18

2024-06-25 10:22:09 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の18
第3章第4節

4節 しくじりの大学生活という物語
 既に繰り返し書いてきたことなので、読者は辟易していることを重々承知しながら、またしても繰り返さねばならない。
大学一年時の僕は、大学生というのは名前だけのことだった。まずは叛乱学生のバリケードによる封鎖、次いでは機動隊の管理下の、さらには機動隊をバックにした大学教職員によるなど、行為の主体は変わっても、学生が自由にキャンパスに立ち入ることを禁止されることにおいては何ひとつ変わらないキャンパス立ち入り禁止状態が、延々と8か月も続いた。
 一時的に他の場所で授業もどきの試みはあったが、実質的な授業などまったくなされないばかりか、先が見通せない宙ぶらりん状態だった。
終わりがない休暇となれば、普通の学生の大半は大喜びだろうが、僕は家業のコウバから逃げられず、毎日、缶詰を強いられた。
 そこで、次々と舞い込む同胞学生の勧誘を口実に、父からコウバからの早退許可を得て、いそいそと出かけた。しかし、それにも限度がある。短期間のうちに何度も続くと、さすがに父の機嫌がよろしくない。それにまた、そんな父に気を遣う母の表情も渋くなり、ときには愚痴も出るので、大学当局からの呼び出しという伝家の宝刀も持ち出す。学校に通ったことがなく、学校事情にはいたって疎い両親の弱みを突く。つまり、噓を吐いてコウバから逃避した。
 そんなわけで、僕は実際に大学へ通学する以前に、同胞の学生サークルや組織との交遊、そして彼らから吹き込まれる「民族的覚醒」とそれに抵抗しようとする「それまでの己」との葛藤がもたらす<青春の煩悶>に精神を、そしてコウバでの単調労働に肉体を、といった具合に心身ともに縛られた生活を余儀なくされた。
 そのあげくには、民族にまつわる問題系と民族サークルや組織の関係者たちとの交友を物心両面において最優先する習慣が身についた。
 そのせいで、<大学正常化>という長期間にわたる空念仏がようやく実現し、待望のはずの授業が本格的に始まっても、僕の心も体も普通の大学生活などには適応できなくなっていた。つまり、そうした僕と大学とのしっくりしない関係が、その後の僕の大学生活の基本形となってしまったのである。
 授業やクラスメートとの関係はいつだって二の次となるから、大学では周囲からすっかり浮きあがった状態が卒業まで続いた。
 しかも、学外の民族組織の活動に明け暮れ、大学からは足が遠のいたせいで留年もした。一緒に入学した学生たちは僕よりも一足早く卒業していたので、卒業式も一人で参加して、誰とも言葉を交わさず、帰りに職員の方から卒業証書を受け取って、寒々しい気分で帰宅した。僕の大学生活総体を象徴する卒業式だった。
 それどころか、僕は4年生の途中からは、大学の卒業どころか、大学そのものにもすっかり興味を失って、大学に行くことなどなくなっていた。そして、4年生の末には。学外の民族組織の活動から正式に引退したので、何一つすることなどなくなり、それ以降、つまり、形式的には大学5年生の一年は、もっぱら家業見習いとしてコウバに日参していた。僕の意識から大学はすっかり消えていた。両親もそのことについて僕には何一つ言わなかった。僕と両親の間では、学外の民族的な学生組織の活動で僕が民団を除名され、そのあおりで両親も旅券を剥奪された結果、父が僕の頬を叩きながら目をにじませた事件以来、何かの了解というか、諦念というか、そんなものが支配して、成り行きに任せること が暗黙の了解になっていた。
 そんな5年生の秋に、コウバで仕事中の僕に、大学の文学部の事務室の、初対面時から何かと僕のことを可愛がってくれていた中年の事務職員の方から、初めてのしかも、なんとも意外な電話がかかってきた。
 「玄君、何してんのよ?!。滞納している学費をはきれいさっぱり納めて、気持ちよく卒業しなさいよ。そのつもりになったら、連絡して頂戴!」と軽口めきながらも、僕の感触をはかりながら、励ました。卒業のことなど全く考えていなかった僕の気持ちにも、さざ波が立った。
 受話器を置いた僕に、たまたま横で仕事をしていた父が、電話の内容について尋ねたので、事実通りに答えた。すると父は、「そら、そやろ。卒業くらいしても、何の損にもならんやろ」と、まるで独り言のように呟いた。僕も、「なるほど、卒業してもいいか、面倒くさいけど」、と僕の気持ちはさらに動いた。そしてその後の数日間は迷ったあげくに覚悟を決めた。大学に出向いて、電話をくれた職員に挨拶したところ、彼女はにっこり笑いながら、「何よりも顔を見れたことがうれしいわ。ありがとう。面倒くさいように思うやろけど、何一つ大したことないやん。滞納している一年分の学費の12000円くらい、いとも簡単なことやし、足りない単位言うても、科目一つだけやから、担当のA先生と会って話つけたらええ。あの先生は玄君のこと可愛がってるはずやから、簡単に話はまとまるやん。最後は、卒業論文やけど、主任教授は杓子定規な人やけど、きちんと筋を通して頼んだら、嫌なんか言うはずがないから、論文提出の許可を得て、適当に書くくらい、お易いことやろ。最初はちょっと面倒に思うやろけど、気持ちよく、おさらばしいよ。大学なんか長い間、おるとこ違うし」と励ましてくれた。 
 その後は、何もかも彼女の教え通りに進め、最後の締めとして、俄仕立ての作文をでっち上げて、期限の一日前に提出して、事務室のあの職員の方に挨拶も終えた。「もう、会われなくなるのは寂しいけど、学生なんかそんなもんやから、ともかくよかった。また、どこかで会ったら、よろしくね」と言われて、互いに笑顔で別れた。
 それで卒業の要件は揃った。主任教授には卒論審査の際に、皮肉めいたことを言われたが、僕には不思議に親切だったA助教授が、意識的なのかどうなのか、「そんなに悪いものでもないかも」などと、いかにもすっとぼけた一言を挟んでくれたので、恐縮しながらもありがたかった、
 もし職員の方からの親切で積極的な卒業の勧め、そしてその後に関する懇切な説明と配慮に満ちた軽口調の電話がなかったら、僕はそのまま、大学のことなど何もかも忘れて、家業に没頭していただろう。そして、両親も、何も言わずにそれを受け入れていただろう。僕と僕が在籍する大学との関係は、僕と両親にとってはその程度のものだった。そしてそれも実は、大学入学時点から、少なくとも僕に関しては、そうなることが決まっていた、と言ってもよさそうなものだった。
 高校一年から医学部や工学部、さらには経済学部などと、少しは実益になりそうで、それなりに格好がつきそうな学部への志望を、いろんな事情があって次々に変更したあげくに、最終的にはそのすべてから逃げるような形で、文学部の仏文学科を選んだ。その時から、僕はもちろん両親も、僕には大学で何か資格を得て卒業後に飯のタネになりそうなことなど望まずに、いづれは家業を継ぐものと、半分は諦めながら、その一方では期待もしていた。
 僕の大学進学にあたっての目的が、社会に出て直面することが確実な厳しい民族差別の壁に、持ちこたえる精神的(むしろ心理的と言うべきか)基盤を探しだすこと、逆に言えば、幼い頃から骨の髄までしみ込んだ民族的コンプレックスを転倒できるような契機を見つけだすことだったからである。
 4年間の大学生活はそのために、僕に与えられた最後の猶予期間だった。そのように考えたからこそ、僕は何の役にも立ちそうにない文学部の、それも仏文科を選んだ。そしてそれは、高校時代の一部の先生方の教えに沿うものでもあった。
 その意味からすれば、大学入学直後から僕に襲い掛かってきた民族組織のオルグの大波は、僕の大学進学の目的にかなったものであり、それが学業より優先するのも当然だった。そのはずである。
 ところが人間、とりわけ僕の機会主義と健忘症はひどいもので、大学に合格したとたんに、志望学科を決めた時点での大学進学の目的を、僕自身がすっかり忘れてしまっていたようなのである。何よりも、尋常の大学生活に憧れ、それが叶えられなかったから、大学との関係づくりにしくじってしまった、などとこれまでに述べてきた話が出来上がった。
 既に触れたことの繰り返しになるが、その話とは次のような理屈で成り立っていた。
 一般の学生の場合、大学は休みでも様々な学内のネットワーク、例えば、学内サークルや、住居(学内の寮や)大学近辺の下宿やアパートの関係、そして学生運動のセクト、もしくはクラス討論を繰り返すうちに醸成された人間関係、さらには高校(先輩後輩なども含めて)や予備校などで既にあったネットワークなどを通じて、大学の状況についての情報がリアルタイムで入っていた。
 それに対して僕は、同胞サークルとの関係を除けば、コウバ通いが重くのしかかっていたせいで、大学側からの公式の情報以外には、大学とはほとんど無縁のまま、何も知らずに8ケ月を過ごしてしまった。その結果、その間もそれ以降も、日本の大学一般で起こっていることを、メディアを通してよそ者の目で見るだけで、当事者として何かを試みることもほとんどなかった。その結果、当時はまったくのノンポリを自称する学生たちでさえも少しは知っていた学生運動のセクトなどに関する知識も皆無だった。そして当然のこと、それぞれの党派の考え方、そしてその裏にある個人的バックボーンや心情についても知らないばかりか、関心すらないまま、もっぱらマスメディアからもたらされた断片的な情報で、活動家たちに対する偏見を募らせていた。
68年の末(高校3年の秋から年末にかけての頃)くらいまでは、高校の一部の教員たちのアジテーションの影響も受けて、叛乱学生一般へのシンパシーを募らせていたはずなのに、1969年1月の東大安田講堂の攻防戦の模様を、テレビにかじりついて見入って以来、メディアで一気に支配的になった叛乱学生に対する厳しい批判と非難の論調と雰囲気にすっかり染まってしまい、学生の異議申し立ての運動その他を、<恵まれた学生たちの傍迷惑な遊び>といったイメージで片付けることになった。しかも、授業がないからコウバで毎日を過ごす羽目に陥ったという個人的事情もあって、学生運動家、ひいては、それに共感していそうなクラスメートたちに対しても、羨望、更にはその延長上での怨恨の色合いが濃厚な、偏見の砦に閉じこもった。
 大学や社会に対する異議申し立てを始めた当の学生たち、すなわち僕らよりも2,3年上級の学生たちは、実際に大学を経験したからこそ、それに対する異議申し立てをするのは当然の権利である。ところが、一度も大学生活を経験しないうちに、もっぱら叛乱学生たちのせいで授業を受けられず、もっぱらコウバでの<奴隷労働>を強いられることになった僕などは、一方的な被害者である。
 そんな理屈と心情から、とりわけ自分と年齢が近い叛乱学生に対する反感と批判を募らせていた。
 しかも、僕などは出自からして、日本ではあらゆる場面で差別を被る運命にあるのに、それと比べれば<日本人として生まれたということだけではるかに恵まれた贅沢な学生>を批判するのは、義務であり権利であると思えてきた。
 そんな理屈を討論で述べた僕に対して、クラスの叛乱学生やそのシンパの学生たちは、民族的で歴史的な自責感も絡んでのことだろうが、すっかり黙り込んでしまうようなことがあり、それ以降は僕を腫物のように扱うようになった。
 その様子を見るにつけ、「君子危うきに近寄らず」という日本の伝統的な身の処し方が、まじめな学生ほど浸透していそうに思えてきて、僕と彼らとの間に言葉が通じる可能性が見いだせず、そんな状況を打開しようという積極的な気持ちにもなれなかった。
 他方で、ノンポリを自称する学生の幾人かとは、しだいに淡い関係を結ぶようになったが、それは端から議論や悩みの共有などの面倒を互いに避けることを前提にしたものだった。僕は大学の文学部の学生たち、中でも一緒に授業を受けていた級友一般にとって、外様の存在、<お客さん>だった。
 しかし、先にも述べたように、そんな事態は、大学入学以降の状況がもたらした側面もなくはないが、それよりむしろ、僕が大学進学にあたって打ち出した目的自体に含まれていた方向性の具現にほかならず、必然的なものだった。
 ところが、そのことを当時の僕は自覚していな。かった。大学進学の目的としての、アイデンティティの確立と民族差別に対して抵抗できる心理的基盤の構築、それを民族組織との関係において達成しようと焦り、家庭教師の件でも明らかなように、それまでの18年間にわたって形成されてきた日本人との関係における民族的自己(主に劣等感)の検証は避けてしまった。
 そうした安易な解決策(むしろ逃避策)が僕の意識の深層に残した罪責感を直視しないように、当初の大学進学の目的などはすっかり忘れて、<普通の大学生>に憧れるからこそ、ともに学ぶ学生たちとのディスコミュニケーションにフラストレーションを募らせるしかなかった。(ある在日の青春の19に続く)


ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の17

2024-06-13 09:34:16 | 在日韓国学生同盟
ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の17

第三章 第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の7

目次
5)韓学同の地方色ー地方ごとの、そして、下宿生と自宅通学生の学生気質の濃淡など―
6)韓学同メンバーの集団的<祝祭的才能>もしくは<在日的民族文化の伝統>

本文
5)韓学同の地方色ー地方ごとの、そして、下宿生と自宅通学生の学生気質の濃淡など―
 前節の、家庭教師のアルバイト絡みで自己欺瞞に苦しんだ僕のような経験は、在日の大学生に普遍的なものではないかもしれない。例えば、大学がどんな地方・都市に位置するか、そこでは学生がどのように認識され、扱われる傾向があるか(都市や地方に固有の大学生観)、自宅通学か下宿生活かといった大学生活の形態の差異、さらには、韓学同のメンバーの場合にはとりわけ、その地方の民団など民族組織の性格や特徴など、多様な要素の絡みあいの結果として、個々の在日の大学生、そしてその集団の地方的特徴のようなものが醸成されていそうに、大学時代の僕は思っていたし、今でもその考えにはあまり変化がない。
 そうした多様な要素のうちでも最も大きなものは、大学生活とそれ以前の家庭を中心にした地域における小・中・高時代の生活との間に、一見してそれとわかるような区別や断絶があるか否かが、個々の在日の大学生の学生気質の濃淡を決めたのではないだろうか。少なくともここでは、その要素を主に扱いたい。
 一般には、大学生活、とりわけ民族に関わる大学生活にあって、生まれ育った家庭や地域との関係を、ほぼ無視ないし看過できる環境に置かれた大学生の場合には、僕が経験した類の自己欺瞞の苦しみなどは、あまり経験せずに済んだのではないか。
 高校を卒業後に生まれ育った家や土地を離れて別の都市の大学に通い始めると、それまでの通名を民族的もどきの姓名に変えて、少なくとも大学生活の4年間に限っては(ただし、春夏の長期休暇で帰省している間は除いて)民族的?生活を営み、卒業して生まれ育った地域に戻ると、またしても高校までの生活環境に戻って、それまでと同じように日本式の通名を名乗った生活に戻り、二つの地域のそれぞれにまつわる交友関係もきちんと分離されたまま、おそらくは、その後も民族的帰属の処理に関しては、安定した二重生活をつつがなく送る。その二つの生活は互いに干渉しあうことなく、それぞれが一応は独立し完結したものとしてあまり揺らがない。
 その逆に、高校時代までの生活と大学生活との間にほとんど切れ目がなく、あくまで生まれ育った家の子供として、それまでと同じように自宅から大学に通う学生の場合には、僕とよく似た経験があったのではなかろうか。その学生はそれまでと同じように、親が名乗っていた日本式の通名と、大学から使い始めたり、あるいは。民族組織の活動に限って、民族名もどきを使いだすので、姓名の二重生活を同時並行的に営む。そしてそれに伴って、民族的帰属に関しても二重生活を営む。しかし、その二重生活は必ずしもそれほど画然としたものではなく、相互に浸食、あるいは干渉しあって、不安定に揺れる。例えば、卒業して結婚式を挙げる場合などでは、その二つの生活が公的な形で接触する。そういう機会を利用して、その参加者に二重生活者としての自分の認知を強いる。カミングアウトの辛さは軽減されて、お祝いがてら、参加者はその二重生活を認知する。
 自宅通学生と下宿生との学生気質の差異もしくは濃淡は、日本人学生にもよく見られるが、在日の場合には、とりわけ大学入学以降に民族主義に目覚め、その運動に関わり始めた学生の場合には、日本人のそれよりもはるかに明確に生じた。それを韓学同の活動に参加した学生に限定して考えれば、その差異の原因の多くは、韓学同の上部団体である民団の性格、特徴にも左右された。
 さらに言えば、その中間に位置するような学生もいる。例えば、大阪の自宅から京都の大学に通学する学生は、なるほど自宅通学ではあるが、大阪の自宅から大阪の大学に通学する学生とは、相当に異なった民族的学生生活を送るようになる。要するにその学生は京都の大学生の感覚に染まる傾向が圧倒的に多い。京都は学生の街で、しかも、京都の民団は、全国民団でも代表的な民主的民団だったので、その傘下にあった韓学同も韓青同も、その反対に反動の巣窟と見なされていた大阪の民団傘下の韓学同や韓青同と比べれば、はるかに居心地がよかっただろうからである。
 現在のことは良く知らないが、少なくとも僕が大学生だった1960年代末から70年代初盤には、中央集権組織の民団でも、地方それぞれに目立った特色があり、その傘下の学生同盟の地方本部の学生の活動にも、当然、大小の統制・牽制・抑圧がなされた。
 例えば、大阪の民団と京都や東京の民団とでは、敢えて単純化して言えば、反動の巣窟としての大阪に対して、民主派の影響力が濃厚な京都や東京というような評価もしくはイメージが、韓学同や盟友関係にある韓青同のメンバーには、常識として強固にあった。
 但し、誤解を生じかねないので、一言付け加えれば、東京の場合には少し複雑である。民団東京本部は民主派の牙城だったのに対し、同じ東京にあっても民団の全ての地方本部を束ねる中央本部は、大使館なども通じての韓国政府の統制が直接的かつ強力ということもあって、本国政府一辺倒、つまり、当時の見方で言えば、反動の巣窟とされ、二つの民団本部は、同じ東京に本部を構えながらも深刻な軋轢・対立関係にあった。
 ところが、民団とは異なって、韓学同には東京地方本部はなく、韓学同中央本部は民団中央本部の傘下にあり、民団中央を通じて韓国政府の統制も受けていた。つまり、韓学同総体としては、その韓学同中央本部を通して、民団中央本部との緊張関係を維持して、対峙・折衝・妥協などを通じて、民団総体に対する影響力を行使しながら、間接的だが、韓国政府にも対峙するという論理だった。
 しかし、東京の場合はほかの地方本部とは違って、韓学同中央本部の執行部のメンバーは別として、一般の韓学同のメンバーは民団中央本部に頻繁に出入りすることはなく、もっぱら大学サークルとしての韓文研で監視や抑圧などの懸念からは相当に免れて、自由な討論を行いながら中央本部の執行部にもメンバーを送り込み、韓学同中央の執行部に影響力も行使していた。
 他方、自身が通う大学にその種の民族サークルがない学生の場合にはどうしていたのか、僕には正確なことは分からないが、別の大学の民族サークルのサブメンバーにでもなるか、あるいは、韓学同中央本部がその事務所(つまり民団中央本部の一隅など)その他で随時に開催する学習会などに参加していたのだろう。但し、以上はあくまで筆者の推測に過ぎない。
 要するに、東京の韓学同の学生一般(つまり大学サークルとしての韓文研のメンバーは、直接に民団組織と接触・対峙する機会は相当に限られていた。学内の韓文研が一定の独立性を保持する一方で、韓学同中央の下部団体、つまり支部のような位置づけがなされていても、民団中央の執行部の統制を直接に受けるのは、そうした韓文研の一般の学生ではなく、韓学同中央本部の執行部のメンバーに限られていただろう。
 韓学同中央だけではなく、日本全国の愛知、京都、大阪、兵庫の4か所の韓学同地方本部の場合も似たり寄ったりの側面があった。
 活動家の中には、自分は所属する大学の韓文研のメンバーではあっても、韓学同のメンバーになるという契約を結んだわけでもないし、大学内の韓文研と韓学同の間には上下関係などなく、対等な盟友関係を持っているにすぎないと主張する学生も少なからずいた。
 その結果、各大学の韓文研に所属する学生にとっては。民団中央を筆頭とする民団組織の傘下にある韓学同地方本部の執行部でも経験しない限りは、民団組織などは相当に抽象的な存在に過ぎなかっただろう。
 その結果、いろんな理由で中央本部や地方本部の執行部に頑として入らない学生もすくなからず存在し、韓学同の集会などには参加して、自由で先鋭的な議論を展開することで自らの存在感を誇示して一定の影響力を及ぼすが、中央本部や地方本部の執行部の学生や少なくとも一時はそれを経験した学生からすれば、少々厄介な存在と見なされる場合も少なくなかった。だからと言って、そんなタイプの言わばグレーゾーンの学生の存在感の大きさもあって、それを抑圧もしくは排除すれば、在日学生大衆組織としての韓学同はやせ細る危惧が大きく、微妙な対応を強いられことが多かった。
 因みに、学生の街とも言われ、大阪などと比べれば、大学生が一定の尊敬や親しみを持って遇される傾向があり、しかも、自宅通学よりも下宿生の比率が高い東京や京都の大学に通う学生には、(学生)気質が濃厚で、それを誇る気配も強かった。
 それを例えば、商人と中小や零細企業の町工場が多く、在日の家庭は特にその傾向が強い大阪の自宅通学で、しかも、家業の零細的コウバの跡継ぎ候補として毎日、働きながら大学にも通っていた学生と比べれば、見るからに同じ学生とは思えないほどだった。
 大阪の家業の手伝いをしながら自宅通学する学生の場合には、自身のステイタスとしても将来の町工場や商人の気質の色合いが濃厚なことがその立ち居振る舞いから歴然としており、家族を筆頭にした周囲もまた、半学生、半商人と見なし、そのように扱かった。
 学生だからと将来の出世を見越して、贔屓するような雰囲気は、大阪でも大学周辺の下宿街などは別として、都市の一般的風潮には皆無だった。
 そのように自他ともに商人の跡取り候補と認識しながら自宅通学していた学生に、学生としての特権的意識などあるわけがなかった。
 ところが、そんな大阪で生まれ育ちながら、京都の大学に入り、そこで下宿生活でも始めると、すぐさま京都の学生らしい意識と立ち居振る舞いに染まった。下宿生ではなくて大阪から自宅通学を続けても、その種の学生は、大阪の学生よりも京都の学生の色合いが濃厚に見えたし、話す内容もそうだった。
 それに対し、大阪で生まれ育ち、大阪の大学に入学し、家業を手伝いながら自宅通学し、将来はその家業を継ぐことが暗黙の約束になっていた学生の場合(例えば、僕の場合)は、そんな学生気質のようなものに強く憧れながらも、実際には自営業者の見習い跡取り候補の従業員の自覚の方が濃厚だった。それが僕の経験的信憑なのである。
 ただし、以上はあくまで、全般的な印象の比較にすぎないし、基本的に女子学生の場合は視野に入っていない。それほど、僕などは日本の女子学生も在日の女子学生もほとんど視野に入っていなかったし、接触もごく限られていた。したがって、以下の記述も、そのように書いていなくても、実際には男子学生の場合で、女子学生に関しては、別の視点と別のニュースソースを開拓して、考えてみる必要があり、僕の手に余る。
 それはともかく、京都や東京でも在日の家は零細家族経営の事業主が多く、そんな家の(男の)子供として生まれ育ち、その都市である京都や東京の大学に自宅通学していた学生には、東京や京都の学生気質はあまり感じられず、むしろ、大阪の僕なんかと似た雰囲気があった。
 僕は学生時代に何度も韓学同の上級生や下級生の家に泊めてもらって、後には、僕ら兄弟4人がすべて韓学同で活動していたので、その個々の学生時代には、我が家はまるで宿泊所のように、いろんな学生が泊まるようになったので、一家族としては宿泊関係に関する収支決算の帳尻が付くようになった。
 僕が大学に入った年から、末弟が大学を卒業するまでは、二人の年齢差が8歳もあるし、弟の浪人時代も計算に入れると、都合13年間、酔っぱらっては我が家で泊まり、朝ご飯を食べてから帰って行った学生の数は、延べ100人程度では収まりそうにない。
 東京や京都の自宅通学の学生の家が自営業で、家とコウバとが一体の家に泊めてもらった時には、同病相哀れむとでも言うか、僕の家や僕自身と同じ<臭い>を嗅いで、なにかしら安心したものだった。
 京都の上級生の場合は、その後、どのようになったのかまったく知らないが、東京の方の自宅通学の学生は僕より2年ほど下級生だったが、大学卒業後には弁護士として活躍していると聞いたので、法律絡みのことで電話して少し相談をもちかけたところ、先方には僕の記憶など全くなく、見事なまでにビジネスライクな対応だったので、少しは覚悟はしていてもさすがに当惑を否めず、相談はやめた。もとより、特別な計らいを期待してのことではなくて、旧交を温めたいという気持ちが少しはあった自分の甘さが恥ずかしかった。
 その他、一年時に東京で九州出身の3年ほど上級生のアパートに転がりこんだ際には、翌朝にその人がタンスからクリーニング屋から戻ってきたワイシャツを包装のビニールをいかにも乱暴に破って取り出し、それを着る一挙一投足を目にして、学生ごときがワイシャツをクリーニングに出して、それを毎日着替えるなんてなんと贅沢なのかと、すごくおせっかいなことであることは重々承知の上ながらも、なんとも生意気なことに少し腹を立てたこともある。
 そんな気持ちが後を引いてのことだろうが、その上級生はきっと、大学卒業後には故郷に戻って、その故郷での本来の暮らしのスタイル、例えば、大学入学以前に親が用いていた通名に戻って、その親の跡継ぎで東京の大学帰りの在日のエリートとして偉そうに暮らしていくのではないかなどと、相当に悪意のこもった想像をしたことを思い出す。なんともお節介で、狭量で、生意気な大学一年生の僕だった。
 それに対して、京都出身で東京の大学に入学して、卒業後も家業を継ぐつもりなどなさそうな上級生の京都の実家に泊めてもらった時には、その家の様子などが我が家に近く感じたが、その人はさすがに東京で下宿生活を終えてからは家業を継ぎそうな気配がなかったからか、その言動から僕と同じような<臭い>はまったくしなかった。
 そしてなるほど、その人は大学卒業後に京都に戻りはしたが、学究肌の雰囲気のままに国家資格を得てから個人事務所を開いて身を立てるようになった。
 その他には、実家とその実家が属している民団地方本部などとの関係も、韓学同で活動する学生の言動や気質に少なからず影響した。
 親が大阪の民団に所属している場合には、子どもが他の地方の韓学同に出入りしても、その情報が大阪の親の所にまでには、少なくとも直接には届かない。しかし、大阪生まれの大阪育ちで実家が大阪にあり、大阪の韓学同のメンバーで執行部の一員にでもなれば、大阪の民団本部から親が所属する民団支部に、「お前どこの息子が何か変なことをしている」といった情報が筒抜けで、親に少なからずの迷惑、そしてプレッシャーがかかり、子供に対する監視・干渉が深刻になる場合も多かった。
 そんなわけで大阪の学生は、気軽さと能弁、そして親や家から離れて独立した自由な生活を謳歌する学生気質などに強く憬れながらも、家庭と地域の在日や日本人との様々な縁(しがらみ)に拘束され、それを暗黙の前提にして、ものを考えたり行動する傾向が強かった。
 しがなく狭く明るい未来など殆ど望めない自分と環境世界との関係を考えると、威勢のよい戦闘的な言葉など発するわけにはいかないし、そんな能力も育ちにくい。
 自分の実態とかけ離れた議論なんか想像するだけでも恥ずかしく、自分と何の関係もない別の地方の学生がそれを言うならまだしも、自分が成り行きもあって無理して偉ぶって話しだしでもしたら、力みこんで絶叫調になったり、しどろみどろになったりして、そんな自分の無様さに慌てふためく。そんな経験がやがてはトラウマにまでなったりもする。
 他の地方、とりわけ東京や京都の学生たち(あるいは、少数精鋭を誇る兵庫県の学生にもその気配があったが)のように、滑らかで戦闘的な弁舌を日常的に聞きなれた成果なのか、自らもそれを模倣・加工できる学生たちからすれば、大阪の学生のいかにも拙くて、見るのも聞くのも忍びない言動は、イベントに際して最大の学生を動員する以外にはまったく役立たずと映るのも当然だろう。そのあげくには、そんな「だら幹」の無様さに呆れて、そんな上級生のせいで苦労している下級生たちなり替わって、正義の刀を振り回したりもする。
 例えば僕は、韓学同を離れて2.3年後の大学院時代に、朝鮮奨学会関西支部の奨学生OB座談会のような場で、大阪出身で大阪に住みながら神戸の大学に通い、韓学同兵庫の中心メンバーだった医学部生が、「韓学同でも大阪なんかはだら幹ばかりで・・・」と吐き捨てるように話すのを聞いて、その生理的な嫌悪感が露骨な口ぶりと表情に当惑したことがある。そして、自分自身がそのだら幹の一人だったのに、その医学生の言い分には一理ありそうな気がして、おかしな気分だった、
 彼としては、韓学同兵庫の現役メンバーだった時代に、僕ら大阪の無能な上級生(彼は僕よりも一年下だった)の言動が腹に据えかねていたのだろうか。
 僕が最上級生だった年度の韓学同兵庫本部には僕らと同じ学年のメンバーがひとりもおらず、3年生以下だけで執行部を構成しており、委員長も副委員長も3年生で彼自身がその一人だったので、その経験に根差した批判や嫌悪感だったのだろう。
 それにしても、そんなことを非難の対象の一人である僕の面前で、しかも、公的な席で言えるなんて、「すごいなあ」と感心し、そしてなんと申し訳ない気持ちにまでなった。
 しかし、その一方では、僕らのような大阪の幹部を<だら幹>呼ばわりできるほどに、厳しく聡明で有能な活動家だったその医学生と、日々を共に過ごさずに済んだ自分の学生生活の幸運には感謝したくもなった。
 韓学同のメンバーには、その医学生や先ごろ惜しまれて亡くなった著名な著述家などを筆頭とするピンから、面前で過去の活動に関して<だら幹>呼ばわりされても、それに納得して申し訳なく思ってしまう僕に代表されるようなキリまで、実に多様な有象無象が集っていた。
 ただし、そんな厳しい雄弁家が抱いていた韓学同イメージと僕なんかのそれの差異、落差、さらに言えば、その両者の活動の様態に圧倒的な影響を及ぼしていた民団の地方本部ごとの性格の差異、落差などを、はたして彼は知ったうえでの<決めつけ>だったのかと、当時も今も疑念がある。そうだからこそ、こんなに歳をとっても、いまだにこんな文章を書いている。
 各人固有の韓学同イメージがあり、それはまた、地方ごとの韓学同とその環境としての民団社会の特徴とも大きく関係しており、それを少しは考慮に入れて、個々人の韓学同イメージや認識の多様性を整理した批判でなければ、実態に即したものにはならないのではないかと、すごく寂しくみじめな気分ながらも、最後の粘り腰に頼るしかない。
 <だら幹>呼ばわりは、やはり<ひそひそ>と、あるいは、<愚痴の垂れ流し>の形でなされるべきもので、それを公的な場で、しかも、相手が状況を慮って、反論などできそうにない場で行うのは、甚だ失礼なことなのではと僕は思う。
 しかし、その医学生(当時は5年か6年だったはず)はもしかして、僕の反論なども期待して、敢えて挑発を目論んでそんなことを言ったのかもしれず、それなら、本気で反論しなかった僕の方に非がある。
 当時の僕は、そうした厳しい<だら幹呼ばわり>には、さすがに少し腹を立てて、何らかの反応をしたはずだが、何を言ったのかまったく記憶にない。
 その一方で、僕らを<だら幹>呼ばわりした医学生の、苦虫をかみつぶしたような、それを見る人のすべてを不快にするような表情だけは奇妙にはっきりと記憶に残っている。
 以上のこととも無関係ではなさそうなこととして、いわゆる地方の学生と東京の韓学同で言えば、中央本部とそれに連なる東京その他の首都圏の大学の韓文研の学生たちとの間には、目線の高さの上下関係のようなものがあったように思う。
中央の学生には<上から目線>の気配があり、地方の学生たちはそんな東京、つまり、<中央>の学生一般、とりわけ、韓学同中央の執行部のメンバーのことを、<下から仰ぎ見る>という感じがなくはなかった。
 但し、東京の学生たちや韓学同の執行部のメンバーだったが、そんなことを意識していたとは思えない。もし彼らがそんなことを意識していたとしたら、そして、僕らがそのことを察知していたら、僕らはとうてい彼らと一緒に活動できなかっただろう、と言いたいのは山々なのだが、実は、それほど単純な話ではない。僕ら地方の学生の意識のどこかで、東京の学生たちは自分たちの<上から目線>を意識しているのだろうと察しながらも、立場上、それも仕方のないことと甘受していたのではなかろうか。
 東京の学生が必ずしも地方の学生に対して傲慢だったというわけではなくて、中央と地方とのほとんど必然的な視線の上下関係があったのでは、と言うのである。
 中心を見上げる周辺、中心に近い人に憧れて仰ぎ見ながら、そんな存在に少しは近づいて、自分も仰ぎ見られるようになることを夢見る周辺部の人といった関係図が、韓学同の学生にもあったような気がする。
 そんな気配にはすごく敏感な学生もいて、その種の気配を感じるからこそ、中央部の学生は遠ざけ、頑なに地方主義に閉じこもるような傾向を持った学生(僕などはそのタイプ)もいたし、自分の内心の憧れや世俗的所作に気づかないままに、実に自然に中央の学生たちと仲良く付き合うことができる学生も、もちろんいた。
 そんな僕の若かりし頃からの感じ方が裏付けられたと思えるようなことが、韓学同から離れて30年以上も経ってから生じた。
 僕の一年上級生で、僕が大阪の韓学同の執行部の一員だった年度に、中央本部の委員長だった方とお会いした際に、その人の言動を見て、<なるほど>と今さらのように思い知ったのである。
 なお、誤解のないように念のために書いておくが、以下のエピソードは誰かを非難するためのものではない。何らかの事情である位置に置かれた人が、その位置にふさわしい身の処し方をするようになるのはごく自然なことであり、そんな実例として取り上げて、韓学同に集った学生たちの学生生活とその後の生活との関係についての僕の感触を述べている。
 その人とは僕が大学一年時に初めて会った。と言うより、むしろ仰ぎ見て印象が深かった。学年は僕より一年上で、東京で下宿しながらの大学生活で、2年生で既に韓学同中央本部の執行部の一員として、全国レベルの集会などでは、ほとんど常に情勢報告などを担当していた。背が低く、少し小太り、髪は年齢にしては少な目で、いづれ近いうちに禿げ上がりそうで、いつも汗をかき、それをハンカチや手ぬぐいでぬぐいながら情勢報告などをしている様子が印象的だった。
 その後、その人は卒業するまで一貫して中央本部の役職を務め、「ミスター中総」と僕なんかは勝手に名付けていた。先に挙げたように、一年生で既に雄弁家として有名で、後には在日の著述家として名をなす僕と同年の人物ほどには、弁舌の切れ味は感じられなかったが、いかにも誠実・着実に役割をこなすという印象が強く好感度がすごく高かった。
 僕が4年生になって大阪地方本部執行部の一員になった年度には、先の人物は5年生で卒業しているはずが、中央総本部の4年生に人材がいなかったせいか、あるいは、その数年前から委員長は5年生にという慣例が成立していたのか、その人も卒業はせずに、5年生で中総の委員長になったので、全国委員長会議などでは定期的に、しかも委員長暮らすだけの少人数な会合で僕と顔を合わせることも増えた。それだけに僕はその人に対しても尊敬す先輩として仲間意識があった。
 しかも、まだ1年か2年の頃には、彼の京都の実家にほかの学生2,3人と一緒に泊めてもらったこともある。
さらには、僕の4年生時には、その人とすごく密接な関係になったと僕がすっかり思い込むような出来事もあった。
 僕が4年になった年度は、7・4南北共同声明の余波で、民団も、そして韓学同も特別に大変な時期だった。僕は副委員長として支えるべき大阪の委員長が、中央の方針に反対する方向に傾いているからと、その方針の撤回を求めるために、中総の執行部から副委員長が急遽、大阪まで駆け付けて、僕に対する説得工作をした。僕としては、大阪の委員長が本当に中央の方針に反対するとしたら、それについていくメンバーは大阪でも少ないだろうという状況認識だったので、中央の説得工作も当然のことであると思っていた。
 しかし、大阪の委員長が本気で中央の路線に反旗を翻して、大阪の執行委員会でそのラインで話をまとめる意思を持っているなら、副委員長としてその委員長と心中するつもりだった。理屈ではなく、僕のどうしようもない浪花節根性のせいだった。そして、最も望んでいたのは、大阪の執行委員会の総意で、委員長と副委員長である僕に対して反旗を翻して韓学同中総の路線に従う決定を下すことだった。その可能性は十分にあったし、僕は幾人かにそのような内心も打ち明けていた。
 ところが、大阪の委員長を僕が説得したわけでもないのに、彼はなぜかしら、それまでの自分の主張を取り下げて、中総の方針通りに進むように主張したので、大阪の執行部の分裂は回避された。
 僕が委員長を補佐する副委員長を引き受けた際に自分に誓ったことだけは守られた。
 念のために繰り返すが、韓学同中総の僕をターゲットにしての、多数派工作に応じて、僕が何かをしたことなど何もなかった。しかしながら、そうした内輪の経緯もあって、僕は中総の執行部、とりわけ委員長とは特別な縁が強まったと思い込んでいた。
 そもそも、一年生の時から僕は、彼にシンパシーをもっていた。いつも額に汗をかきながら情勢報告などに勤しむ姿は、浮足立ったものなど何一つなく、実直で有能な活動家というイメージには揺るがなかった。
 ところが、そうした中総の委員長に対する僕の思い込みなど、まったく片思いだった。それどころか、そんな平等な関係など、中央と地方の学生にはよほどに稀な場合を除いては成立しなかったのではないか。そんなことにようやく気付いたのが、大学を卒業して30年以上も経ってから再会した時のことだった。僕は再会のつもりだったが、相手には再会という意識すらなかった。僕は一度も会ったことがない好人物といった印象のようだった。そんなことを彼自身がその際に言うのを聞いて、僕は本当に驚いた。学生時代の記憶が消えてしまったのか。それほど辛い役割だったのかと、今さらながらに痛感した。僕らはまった見ず知らずの他人だった。
 韓学同で活動していた学生たちの、地方ごとの、そして個人ごとの多様性、とりわけ学生気質の濃淡、さらには、高校までの実家を中心にした生活と大学生活における民族が占める位置、そして相互の乖離の問題は、当事者が意識していた以上に大きなものがあったに違いない。
 当時もその後も、個々人がものを言ったり書いたりする時や、生き方を選択するにあたっては、民族主義的論理や思想などよりも、個々人の家庭や大学生活の個別的条件、そして、民団内における地方的特徴などの方が、はるかに大きく作用したのではないかと僕は考えている。

6)韓学同メンバーの集団的<祝祭的才能>もしくは<在日的民族文化の伝統>
 これまでは、韓学同の地方ごとの特徴を比較することを通じて、その差異を強調した。ところが、その一方で在日の大学生や青年の、生まれ育った地方や通っていた大学があった地方などを超えて、在日の民族的学生集団には、多くの共通性もあって、その中でも僕が驚いたのは、ショーイング(見せること)の才能、あるいは、集団におけるその伝統のレベルの高さだった。
 既に新入生歓迎会などにおける民族サークルや学外民族組織の上級生たちの歌や踊りなど、宴会芸には舌を巻いたことについては繰り返し述べたが、韓学同の信州での二泊三日のサマーキャンプなどでの、寸劇などでの即興の風刺、諧謔、そして吉本ばりのドタバタ喜劇が絡み合った演劇とおしゃべりのレベルの高さにも驚いた。しかもそれは、学生組織だけに限られたことではなく、韓青同のような青年組織の一泊のイベントに参加した際にも、同じ類の即興の風刺、諧謔を交えた演劇的才能、あるいは、その組織で代々受け継がれえてきた伝統としての弁舌と身体的演技力の高さを痛感した。
 先般に急死した在日二世の著名な著述家などは、まだ大学に入ったばかりの頃の政治集会で、鮮やかで激烈な弁舌によって参加者一同を圧倒したし、その他にも芸達者が数多くいた。
 歌、舞踊、寸劇(戯画、諧謔を交えた即興の政治的風刺劇)、弁舌がそうした民族主義的芸達者の4本柱で、それまでの僕などはまったく知りもしなかった才能が、合宿の余興などでは見事に発揮されて、喝采を浴びた。
 しかし、そうしたことが僕の民族的コンプレックスからの脱却を促進したといったように、単線状に物事は進まない。思春期までほとんど空気のようにして吸ってきた日本の社会の民族的排外主義の錐で心臓を完全に射抜かれていた僕、さらには、真綿で首を絞めるように全身にいきわたった劣等感の毒は、なんとも執拗かつ強力で、僕はそれをほとんど生涯にわたって抱え持ち、自分自身がそれを手放そうとしていない気配すらある。だからこそ、こんな文章をうじうじと書き続けているのかもしれないと、なんとも情けない話になって申し訳ない限りである。
 次回こそはなんとか、何度目かの粘り腰を発揮して、将来に少しは明るい光が射すような議論をしたいのだが、約束すれば、またしても空約束になりそうなので、情けない話だが約束はしないで、僕自身の願望としてのみ、記しておきたい。(完)

ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の16

2024-06-01 16:27:12 | 在日韓国学生同盟
ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の16

第三章 第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の6

4)<通名の衣を纏った栄光>に対する<懲罰>としての<自己欺瞞の苦悶>と遁走

 朝文研の大ボスに紹介された家庭教師にも少しは慣れて、気持ちと小遣い銭の余裕ができると、根っからの小金好きの僕の金銭欲はますます募って、柳の下の泥鰌を求める誘惑が芽生えてきた。そんな頃のことである。
 コウバの仕事が少し暇になって自由な時間を与えられたので、そんな予想外の暇をつぶしがてら、大学生になったことを自慢するつもりだったのか、母校の中学の野球部の練習に立ち寄った。
 高校一年の頃に先輩風を吹かそうと訪問して以来で3年ぶり、中学卒業以来だと6年も経っていたので、恩師たちも喜ばしいことだったのか、思わぬ歓待をしてくれた。
 野球部など運動部関連の先生方、次いでは、生徒補導の先生方、さらには、生意気盛りだった僕が甘えるがあまりに、何かと困らせて喜んでいた女の先生方が、運動場にいた僕のところに駆け付けて、
「なるほどなあ、もう大学生なんや。早いよね、すっかり大人になってしもて、見違えるやないの。私らも歳とっても、当然やなあ」と、まるで出世を果たした弟を迎える姉さんたちみたいに、頬を紅潮させてはしゃぐので、僕も顔が火照った。
話題は中学時代の僕の<やんちゃ話>、その後の高校生活のこと、そして大学入試や大学生活のことなど、多岐にわたったが、僕は得意満面で、自分でも驚くほどに饒舌だった。
 そんなところに、一年時の主担任で、正真正銘の新米教師で副担任となった女性教師の<真理(しんり)ちゃん>とタッグを組んで、在日の中でもとりわけ扱いにくいと噂されていた<トウシュ>と、対面式で全校生を前に新入生代表で挨拶するなど、在日でありがら最優等生だからと、教師たちには一段と注目を浴びていた僕の二人を、同じクラスに取り込んで、その二人をセットにしての<在日生徒の更生プロジェクト(僕の命名)>を企画して(だからこそ、僕らのクラスだけは珍しく複担任制だったのだろう)、その成功のために骨身を惜しまなかった<ギッチョン先生>も、昔と変わらず松葉杖を巧みに操って、飛ぶようにして駆け付けてくれた。
 ギッチョン先生は、僕と顔をあわせると、昔のそうであったように、まずは目を細め、額と目じりに深いしわを寄せ、次いでは色白の顔を少し紅潮させ、眼鏡の奥から先生特有の柔しい瞳を輝かせていた。少しも老けた感じはなく、そっくり昔のままだった。そんなギッチョン先生の笑顔が嬉しくて、僕はますます調子に乗ってしゃべり続けた。そのうちに、先生から家庭教師のアルバイトの提案があった。
「そうやった。すっかり忘れてしもとったが、なんともグッドタイミングや。家庭教師を探すように頼まれてたんやが、延山(僕の通名)やったら打ってつけやないか。わしの長年の愛弟子中の愛弟子やからなあ」
 そんなギッチョン先生の<仲人口>にすっかり乗せられて、僕は殆ど何も考えないままに快諾した。小金儲けの話に僕がためらうはずがないし、そもそも、家庭教師の口をもう一つくらいは探すつもりでいた。
 ところが、それから数か月間、その家庭教師にまつわって、意図してのことではなかった嘘が、僕の最大の頭痛の種になった。実は、二つ返事で気やすく引き受けた時点で、何か拙いことになりそうな予感が兆していたのに、大歓迎を受けてすっかり浮ついた気分の僕は、それを看過して、成り行き任せを決め込んだのだが、その不安の兆しは、それから50年以上が経った今でも、不思議なほどによく覚えている。
 アルバイト先は開業医のお宅とのことだった。地元出身という閲歴もあってか、地元の小学校や中学の嘱託医を引き受けている医師と言う。そんなこともあって、僕らの中学がそこから独立して間もなかった本校である中学の教員、そしてそこから分校だった僕らの中学に移った教員たち、とりわけ、補導関係などの役職上の必要もあって地元と関係が深い教員たちとは長年の親交があり、中でも地元出身の補導教員としてワルやその家族にも信頼が厚かったギッチョン先生とは昵懇の仲だった。
 そんな経緯もあって、ギッチョン先生に一人娘の家庭教師の紹介を依頼したからには、ギッチョン先生の紹介なら、無条件に大歓迎という話だった。その結果として、僕が実際にその家に赴いて挨拶も兼ねた面接以前から、その家では僕、つまり、ギッチョン先生曰く「地元出身の文武両道の優等生である延山君」に対する期待は大きく膨らんでいた。そのことを僕は実際にその家を訪問して、肩の荷が重かった。
 僕が教えることになったのは、小学校5年生で、ゆくゆくは当時の小学生の<お受験>のシンボル的存在だった教育大付属中学への進学を、両親も当人ともども希望していた。そして、そのためには6年生になってからでは遅すぎる懸念もあって、5年生からせめて算数だけでも準備を進めておきたいという。
 そこで、算数を中心にして、それ以外の科目は当人の必要や希望に応じて柔軟に対応することになったので、僕としては気が楽になった。当時の僕は、最も教えやすい教科は算数と信じ込んでいた。
 そして、いざその娘さんに会ってみると、すごく礼儀正しく、勉強もよくできそうで、家庭教師など不要そうな優等生だった。つまり、教えるふりだけで、既に数か月前から始めていた家庭教師の報酬の2割高といった過分な報酬をもらえるというありがたい話で、実際に教える以前から既に、申し訳ない気分だった。
 それなのに僕は・・・・
 僕が中学の教師たちの中で、尊敬し、慕っていた野球部の顧問の先生にもまして親しくしていたギッチョン先生でも、大学入学以後の僕の<民族的覚醒>のことなど、ましてや<北か南かの選択の悩み>のことなど、知っているはずもなかった。そもそも、僕が中学を卒業して高校に入った時点から、民族名と日本語の通名のチャンポンのような、漢字名の音訓読みの混合としての玄善允(ゲン・ヨシミツ)を名乗っていたことすら、先生には想定外のことだったはずである。
 自身が生まれ育った地元の中学で長らく補導担当教師として、そしてそのための一助になるように運動部顧問などを積極的に引き受けて、<問題生徒もしくはその予備軍>をその運動部に入いらせることで寄り添って、何かと配慮を怠らず、卒業後も変わることなく面倒を見るなど、地元の問題生徒やその先輩筋やその親御さんたちから、絶大な信頼を勝ち得ていた先生でも、あるいは、そうだからこその、融和的な考え方では、それが限界だった。当時の僕を取り囲む環境世界では、本名を名乗るとか、民族的な生き方を生徒たちに勧めるような機運は、まったくなかった。問題が起こらないように、生徒がなんとか毎日を無事に過ごし、少しでもまっとうな職に就けるように面倒を見ることで、精いっぱいだった。ギッチョン先生たちは、そのために地元の町内会はもちろん、警察などとも親しく連携をとるなどしながら、融和を旨としていたに違いない。そんな先生たちにとっての最大の敵は、教員内における民族差別的で高圧的な管理主義であり、それと対抗しながら、事なかれ主義に収まっていたのではなかろうか。そんな先生にとって、中学までの僕は、期待の生徒だったのである。
 在日でありながら、中学時代の一時期には<はぐれ生徒>グループに片足を突っ込んで、心配させたこともあったが、やがてはそんな危機も脱して、中学入学時点から周囲が進学先として期待していた高校に、さらにはその高校でも野球を続けながら、これまた期待されていた大学へと、その先生方にとっては理想的な歩みを続けているように映った僕のことを、人一倍、喜ばしく思い、自慢にしていた。その分、僕の高校入学以後の民族的関係などはまったく想像外のことだった。
 因みに、既に理解いただいていることだろうが、僕は小学校と中学校はもちろん地元では、もっぱら通名を使用していた。
わが一族は本貫が延州玄氏で、創氏改名を強いられた際に一族の多くはその本貫に肖った日本風の姓の「延山」を用いることで、民族アイデンティティや一族の血統を維持する砦のようなものとしたらしい。その発音には「のぶやま」と「のべやま」の二種があって、我が家は後者だったので、地元では僕は「のべやまさんの二番目の息子」で通っていた。それは地元の日本人社会に限られたことではなかった。地元の在日の社会でも、普段は親しみを込めて「文(ブン)チャン、あるいは、文チャン兄ちゃん」と呼ばれることが多く、母は長男である兄の名前を冠して「@@ちゃんのおかちゃん(社会的・経済的階層に応じた「おかあちゃん」という呼称が、韓国語の干渉を受け、「あ」抜きの「おかちゃん」」」、年下の在日のおばさん、おねえさんからは「@@ちゃんのねえちゃん」とか、「@@ちゃんのねえさん」と呼ばれることが多かった。
 在日の人々が民族的な集まりなどで改まった際には、父のことを韓国語で「玄文式(ヒョン・ムンシㇰ)」と呼ぶようなこともあったし、親しい知人間で民族語で会話する場合には、そうした民族的姓名で呼ぶこともあったが、普段は在日の人々も「のべやまさん、文ちゃん」と父のことを呼ぶ場合の方が多かった。ましてや、僕らのことを民族名、例えば、「ヒョンソニュン、あるいは、ソンニュニ」で呼ぶ在日の大人も子供も一人もいなかった。そもそも、そんな「ソニュンやソニュニ」という僕の民族名のファーストネームを知っている人など、在日のたとえ親戚でも、一人もいなかったのではなかろうか。
 僕が高校入学以降に、学校で「玄(げん)」を名乗っていることを知っていたのは、同じ中学から同じ高校に進んだ僕も含めると5名の同期生(そして、同じ中学から同じ高校に通っていた1年ないしは2年上と1年ないしは2年したの生徒たちのうちの何人か)、小学校から中学に上がる際に、その高校に隣接する中学に越境入学して、3年後には同じ高校で再会することになったひとりの生徒だけだった。
 そんな状況がすっかり反映して、家庭教師先でも僕が訪問して自己紹介するまでもなく、僕は中学の先生が紹介した「延山君、延山先生」という名の、中学の並みいる先生たちが太鼓判を押す優等生として、ご夫婦とその娘さんは僕のことを認識し、僕のことを固く信頼していた。
 そのようにして、最初から歯車の大きな掛け損ないがあったのだが、その由来は僕の小中学時代と高校時代、さらには、大学入学直後から民族主義の洗礼を受けた僕の内面の変化と、そんなことなど夢にも思っていなかった中学時代の恩師の認識もしくが常識の落差にあった。そしてその落差も本来は、僕の生き方の矛盾に源を発していた。
 僕はその家庭教師を始めることで、そうした自分の生活や意識の二重性や、その矛盾や乖離を、その後の生き方との関連でどのようにして乗り越えるかを問われていたわけである。
 そうした状況下で、何もなかったかのようにして、家庭教師を務めあげる。つまり、1年半後の「お受験」の終了までは、少なくとも家庭教師としては「延山君」として、それ以外は玄善允としてといった具合に二重生活を送るか。あるいはまた、一刻も早く関係者に洗いざらい打ち明けるとともに謝罪し、家庭教師については関係者(に判断を委ねる。関係者とは、家庭教師先の親子、とりわけご両親とそこに僕を紹介したギッチョン先生のことだったが、そのうちの教え子は判断するのは肩に荷が重すぎるので、除外すべきだろう。
 それによって、少なくとも僕は、自己欺瞞から解放され、自己矛盾も解消できる。
 その結果として、家庭教師先から解雇されるかどうかは、僕にとってもはやどうでもいい問題だったが、その解雇の理由はやはり重要で、せめて、僕の嘘、あるいは、ギッチョン先生の早合点に責任を求めるものであって欲しかった。ご両親の心のうちはどうであれ、外面的にはそうであってほしかった。そうであれば、善意の当事者であるその二人をレイシスト呼ばわりしなくても済むからである。
 その反対に、解雇の理由が民族差別的な心情や思考を疑わせるような形であった場合には、僕が当初に真実を言わなかったこと自体にも非があるから、ご両親の結論は仕方ないことと見なして、その二人に対して、非を云々することはないだろう。しかし、僕は心の中で、それまではそれほど明確はなかった民族主義的心情を一気に強固なものにして、民族主義者になることを目指すようになるだろう。そんな予想をしていた。
 以上の二つの選択肢はもちろん、それに加えて様々なバリエーションも想定し、それぞれの場合における具体的な場面のシミュレーションを繰り返した。眠れない夜には特に、そんなことで夜を明かし、目覚めるとすっかり疲労困憊していた。
 シミュレーションの一つは例えば、次のようなものだった。
 僕が高校入学時点から名乗り始めた「玄善允」として、改めて家庭教師先のご両親に自己紹介を行い、在日の大学生として受け入れるように要求するなんてことを想像すると、そんなことは僕にできるはずもないと直ちに結論が出た。そんなことをすれば、関係者全員がそれぞれの立場を失うことになるだろうと考えて、それは避けたいし、ありえないことだと思った。
 その医師夫妻がその民族名の僕を家庭教師として改めて受け入れることはあり得ないだろう。娘さんに対する説明の難しさもあっただろうが、それ以上に、紹介を受けた際の話と違うので、長年にわたって信頼してきたギッチョン先生に裏切られたと思うに違いない。ギッチョン先生は、そんな僕の<正体>を知っていながら、全面的に信頼されていた夫婦に<嘘>の紹介をしたことになりかねない。そんなことは断じて避けたかった。
 しかし、僕がそれ以上に避けたかったのは、その姓名の変更に伴う民族的帰属を盾にして、その夫婦が僕を解雇することであり、そんなことになれば、彼ら自らがレイシストであることを露呈することになる。そんなことは彼らには難しいことだっただろうが、それ以上に、僕自身が最も避けたいことだった。もし、そんなことになれば、僕はそのご夫婦をレイシストとして恨み、それをバネにして、民族主義的心情と信条を強固にすることになって、見方によってはありうべきシナリオではあるが、僕はそれを最も恐れていた。そんなことになるくらいなら、つまり、彼らを悪人として恨むくらいなら、むしろ僕が恨まれる方が気楽と思っていた。
 ともかく、家庭教師の際の姓名、ひいては僕の民族的帰属に関する嘘もしくは誤解によって、僕は生まれてこの方の、そしてとりわけ高校入学以来の本名もどきの玄善允を名乗り始めて以降の二重生活の矛盾に、本格的に直面していたのである。大学入学以来の民族的覚醒という自意識との矛盾・分裂が深まり、僕の心身に重くのしかかってきた。
 実は、民族的に、そして政治的に北か南かといったことよりも、その親切で上品な家庭教師先の母娘に対して、嘘をついていることを巡っての自責の念の方が当時の僕にとっては深刻な問題だった。僕の本当の悩みを打ち明けたうえで、アルバイトを潔く辞めるか、僕が家庭教師を続けるべきかどうかの判断は先方に委ねるか、と両方の場面を何度もシミュレーションしてみたが、端から、そんなことは僕にできるはずがないと、答えは決まっていた。
 そんな状態が数か月も続いたあげくに、半年は教えたのだから、紹介してくれたギッチョン先生と家庭教師先の両方に、最低限の義理は果たしたものと自分に言い聞かせた。その家庭教師を自ら辞めないと、自分の心身が持ちそうにないほどに、追い詰められた気分だった。
 電話で、折り入って話があるので訪問したい旨を、先方の奥さんに告げて、訪問の了承を取り付けた。そして、娘さんがまだ学校から帰っていない時間帯を見計らって訪問した。玄関まで応対に出た奥さんに対して、問答無用の顔つきと語調で、「家庭の事情で続けられなくなったので、申し訳ありませんが、辞めさせていただきます」と、鼻を棒でくくったようなセリフを、がちがちに緊張しながら告げて、逃げるようにその家を後にした。
 いったい何が起ったのかと、すっかり困惑した奥さんの顔つきが、僕の背中にずっと張り付いていた。その一月前には、奥さんから、彼女が手編みした立派なセーターをプレゼントしてもらっていながら、そんなひどいことをしでかした僕は、まさしく恩を仇で返したわけである。
 ともかく、なんとも自分勝手な話だが、僕自身としての当座の懸案はそれでケリがつき、晴れて民族闘士としての難問に取り掛かることができるようになった。
 今でもその時のことを思い出すと、顔が火照り、気持ちが揺れ、胃の変調が始まりそうな予感に怯える。
 その時どころか、それから半世紀以上も経った現在に至るまで、問題は何一つ解決していそうにない。
 思い出しては顔が火照ってくることが、そのほかにも数多くあるが、僕にとってなんとも幸いなことに、その殆んどは意識からすっかり遠のいてしまって、よほどのことでもない限り思い出すことすらない。断片を思い出すだけで、狼狽えて心身が凍り付いてしまいかねないので、思考を停止してわが身を守る術、そして習慣を身に付けたのだろう。
 以上のエピソードは大学時代の僕の<民族的覚醒>の内実を如実に示している。日本人や日本人の世界との関係で形成されてきた<自我>との対決を回避して、まるでそんなものなどなかったみたいに、<正しい民族運動>の隊列に入ろうとしていたわけである。
 自分の過去はカッコに括って封印することで、それを無傷のまま守りながら、それでも辛うじて成り立つ民族的正しさの水準を設定したというにすぎず、民族でも何でも、僕の人格とその生き方に切り込むようなものではなかった。何一つとして犠牲にすることなく、自分自身の内部にある何ものとも対決せず、危機と真っ向から対することさえ避けて、別の何かにこれまたこっそり忍び込むようにして、民族運動の尻尾にぶら下がった。
 しかも、そんな自分を民族的成長の一段階と見なそうとしていたのだから、とんだお笑い草である。
 その後、しばらくの間はさすがに後ろめたさが拭えなかったが、家庭教師先の親子に対する嘘がもたらした申し訳なさとその苦しみから逃げ出せた解放感が、しだいに否定的側面の色合いを薄くしてくれたのか、ついには殆ど忘れてしまった時には既に、僕の新たな日常が始まっていた。
 要するに、僕の民族的覚醒なるものは、まるで仮面のようなもので、いつだって取り外しが可能らしく、その使い方の工夫をしながら、その後の僕の人生が続いてきた。
 実はその直前の僕は、入管法反対のデモの隊列の中で、エスニックマイノリティとして機動隊とその向こう側から僕らを取り囲む圧倒的な日本人とその社会という圧倒的に劣勢なマイノリティとしての現実を再確認すると同時に、同胞集団の懐に包まれる快さも経験していた。それだけに、ともかくそうした民族の懐の中に忍び込んで安穏をむさぼりたいという欲望も強まっていたのだろう。
 そのための様々な理屈を組み立てるために、時には当時の日本の学生の多くが共感していた全共闘運動の自己否定のように、格好がよさそうな言葉を借りて、その真似もしながら、実際には、民族的コンプレックスに基礎づけられた過去を、すっぱり捨てるみたいな形をとりながらも、実はその温存を図りながら、民族的主体性なるものを身に着けようと刻苦精励することで、分裂し相反し続ける自分自身の過去と現在と未来の併存を図っていた。
 こんなことを書いている今でもなお、当時に僕が採用した手立て以外の選択肢があったのかという自問に、すっきりとした答えが思い浮かばない。先にも書いたことだが、嘘にまみれた家庭教師稼業の状況にあって、何かまっとうなことをすれば、三者(紹介してくれた中学の恩師、僕を雇った医師一家、そして僕)をすべて傷つけてしまうことにしかならなかったと思ってしまう。だからこそ、何もかもに蓋をして遁走した僕のやり方が、そんな不要な軋轢を避ける唯一の方法だったと、改めて確認するような結果になる。虚飾を捨て、真実をさらけだし、その責任を取るべきだったと思いはするが、今の僕でもそんなことはできそうにないと思えるほどだから、当時の自分はやはりそこまでが限界だったと居直ってしまう。
 正しいことと思える道を選んだとしたら、心身を収縮させて辛うじて耐えてきた自分の小さな世界をさらに小さく狭くして、窮屈に生きるしかなくなってしまいそうな怯えもあった。ささやかな融和と安寧を求める根性が骨の髄までしみ込んだ僕に相応しい弁解がオチとなる。
 民族主義の洗礼を契機にした僕の変革とか成長といったものは、実は一歩前進二歩後退と停滞、あげくは後退を続け、当時でも既に明らかだった矛盾を押し隠したままに続けた。そんななれの果てとして、現在の僕がいる。と言ったわけで、身も蓋もない話になってしまう。
 そんなことを今更のように確認するために本文を書き始めたわけではないのに、ついついそんなことに行きついてしまう。だとすると、まさにそういうことが、僕が目論んでいた自己点検の本質だったということになりかねないのだが、予定の半分にも達しない現段階で、そのように結論を下すのは時期尚早と、いったんは言葉を濁して、予定していたところまでは書き継ぎながら、少しは夢のありそうな結論が出てくることを期待するしかない。
 以上のように何重もの同心円を描くだけの、なんとも疲れる議論を重ねているだけのようだが、あの家庭教師事件から55年も経ってからの、本文を書くための悪戦苦闘の末に僕が思いついたのが、次のようなことだった。
 あの時、僕はギッチョン先生にすべての事情を話したうえで、ギッチョン先生の意見や事情もお聞きすべきだった。そして、必要ならば、家庭教師先のご両親にも、それまでの経緯をすべからくお伝えして、少しでも理解を得るように努めるしかなかった。そしてその後のことは、ギッチョン先生と家庭教師先のご両親に一任することが、最善の方策だったという、考えてみればなんの変哲もないなのだが、それこそが、すべての関係者に対して僕がなしうる最低限の礼儀であり、義務でもあり、唯一の方法だった。
 そうしてさえおれば、僕のその後の生き方も少しは変わったかもしれないと、この文章を書いているうちに思えるようになった。
 何の役にも立ちそうにないこんな文章であっても、それを書くための僕なりのささやかな努力は、少なくとも僕個人には、ご利益がありそうなのである。
 因みに、それ以前の55年間には一度たりとも、そんな解決策が思い浮かばなかったというのは、僕自身が思っていることなのだが、胡散臭い話である。僕は自分の記憶を改変、もしくは捏造している可能性が大である。
 そんな単純かつ明快な方策を考えつきそうな予感がする度に、僕には難しそうであるという判断が先立って、その厄介さに怯んでしまい、その予感自体を抑圧してきたのかもしれないのである。
 いずれにしても、僕のパンチョッパリ(半日本人)根性の深刻さを思い知るばかりなのだが、本文を僕のしつこい懺悔もどきだけの場にするつもりなどは毛頭ない。いくら恥ずかしいことでも、それを自分の実態であることを認めたうえで、そんな記憶や現時点からのとらえ直しを、僕の人生はもちろん、韓学同の歴史を考える際の材料にもするといった、老いの二枚腰、三枚腰の実験こそが、本文の目的であり、次回はなんとしてもそのような内容になるべく努めたい。
(ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の17に続く)

ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の15

2024-05-23 17:43:05 | 在日韓国学生同盟
ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の15

第三章 第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の5

3)民族サークルや組織を選択する際の個人と家庭の事情、
 大学合格直後から、複数の学内の民族サークルや学外の民族組織からの繰り返しの勧誘を受けたが、やがては北系のそれとは絶縁し、民族的活動に関しては南系の学内サークルと学外組織の活動に集中するようになった。但し、絶縁したはずの北系のサークルや組織からは、その後も卒業まで、折に触れて個人としても集団としても統一戦線的な呼びかけが続いたので、絶縁という言い方はそぐわないのだが、少なくとも僕の気持ちとしてはそうだったし、先方も、僕を「反共的かつ反民族的」と見なしていたはずである。
 そうした僕の選択に関して、当時の僕はさすがにまだ若かったからか、自らの主体的な判断によるものと思っていた。或いはむしろ、思い込もうと努めていたと言った方が正確だろう。自ら情報を収集して客観的に分析し、自らの知的能力を総動員して決断しようと思った結果、そのようにできたとでも考えていた。一人前の大人としての理論的かつ政治的判断と自認していたわけである。
 ところが、それ以来、歳を重ねるにつれて、そんな主体的あるいは独りよがりな見方は徐々に、しかも大きく修正を余儀なくされた。僕個人の判断などよりもむしろ、僕を取り巻く環境総体が僕の判断の基盤にほかならず、僕自身が得た情報やそれに基づく判断自体にも、僕の様々な意味での環境、とりわけ家庭の事情の影響が圧倒的かつ多様な形で関係していたと考えるようになった。だから主体性などなかったというわけでもないのだが、若かりし頃に自分で信じ込んでいたほどには、主体なるものの力は弱かったように今では思っている。
 そこで今やすっかり歳を取ってしまった僕がようやく持つに至った観点から、その当時の僕個人とその環境の絡み合いについて記述を試みようと思う。
 本文は過去の自分の言動や考えや気持ちその他を記述するだけでなく、その後の僕がそれをどのように見るようになったか、その変遷を記述することも大きなテーマである。したがって、それらの二重もしくは多重的観点、よく言えば重層的、悪く言えば、ついつい複雑曖昧で分かりにくい記述が特徴なのである。すべては書き手の能力不足に起因することであり、誠に申し訳ないことだが、改めてご理解のほどをお願いしておきたい。
 さて、北の共和国や、その国家に対する在日の支持・支援組織に対しては、大学生になる以前の僕には既に一定の固定観念や解きほぐして説明するのは至難の複雑な感情があった。
 それを単純化して言えば、個人崇拝に基づく専制的独裁支配国家という観点があり、そんな体制に対する嫌悪感、警戒感が僕の心身において殆ど固定観念化し、それを僕自身の理想とは対蹠的のものと考えていたわけである。しかし、そうした固定観念や凝り固まった感情がどのようにして形成されたのかを考えてみると、実に多様な外的要因があったことに気づかずにはおれない。
 例えば、僕が受けた教育はほぼ完全に日本の公教育であり、日常生活で受け取る情報もほぼ日本のメディア発のものだった。そうしたものと起源が異なりそうなものとして、在日一世の両親による家庭教育や、在日コミュニティに源を発し主に両親を経由して僕ら子供に届く情報もあった。しかしその種のものは、日本の公教育やメディアや人々の固定観念に拮抗するほど強力なものではなかった。
 日本社会や人々の朝鮮半島および在日に対する基層的な偏見や差別的な固定観念を、僕らはまるで空気のように呼吸し、馴染み、ついには内面化することが、成長過程に他ならなかった。例え、不可解で不愉快な差別に真っ向から抵抗しても、根本的にこの社会の基層が大きく変わるなんてことはありえないといった<年齢に似合いそうにない諦念>にもまるでそれが空気でもあるように馴染み、それを生活の基礎条件と見なした。
 因みに、僕が小学校で担任の先生から受け取る通知表の総体的所見の欄には、いつも「子供らしくない。もっと子供らしく振舞ってもらいたい」と記されていたが、そうした見方には、今しがた述べた<諦念>も含まれていたのではないかというのが、僕の幼い頃から現在に至るまで、ほとんど変わらない感じである。
 しかし、差別に押しひしがれてばかりでは、生きていけない。そこで、それに負けない心理的な回路を開発する。そんな偏見などさらりと受け流し、そんな馬鹿げたものに拘泥するエネルギーがあれば、その方向で自分なりの努力をする。そんな生き方が、僕らの最も身近な両親の生活における大原則のようなものだった。
 「朝鮮人は日本人の二倍三倍努力してこそ一人前!」、「どんなときにも背筋を伸ばして、堂々と生きろ!」と二人は、言葉ではなく生活態度で僕らに訓令を発していた
 そんな我が家とその子供である僕らのことを好ましく思わない在日の人々もたくさんいたようである。差別意識を執拗に再生産する日本社会に協調しつつ、何らかの形で自恃を保とうと励む我が家などは、目の敵とするような、在日の個人や集団が身近にたくさんいた。両親の少しばかりの成功を妬んで、何かと邪魔したり、意地悪をしたり、両親の努力の成果を端から奪い取ろうとするような人たちが身近にもいたし、民族主義その他の旗を高く掲げて、これ見よがしに僕らの家族の慎ましい生き方に対する威嚇や攻撃をするような個人や集団もいた。
 そうした在日社会内の大小の葛藤・対立を、僕と直接に関連する形で、シンボリックに表出したのが、北系の民族学校の生徒たちの僕に対する集団的リンチであるが、それは単に僕個人に対するものではなく、我が家のような生き方に対しての懲罰的行為の側面が少なからずあった。
 そのように僕が見なすのは、やはり僕ら兄弟の教育環境が培った在日観にあるりそうなので、まずはそれについて述べた後で、僕のその後の長い人生でしだいにトラウマ的性格を強めていくことになった集団リンチ事件について詳細に説明したい。
僕ら5人の兄、僕、妹、弟、弟と5人の子供は幼稚園(保育園)と小中高大とすべて日本の公教育の枠内で育った。僕らが生まれ育った集落は、我が家を含めて在日は4軒だけの圧倒的な日本人中心の集落だった。そして、その集落の生活の物理的かつ精神的な中核は小学校で、一年の歳時記はもちろん、生活のすべてがその小学校を中心に営まれている雰囲気だった。
 僕ら兄弟は当然のように、その集落の日本人の子供たちに交じって育った。近隣の集落には在日の親戚も、あるいはまた、両親と同郷、同業だから親しくしていた在日の知人たちも多くおり、その子供たちとも少しは付き合ったが、それはあくまで副次的、一時的なものにすぎず、僕らの日常生活にとって不可欠なものとは言いにくかった。親たちの交友圏に過ぎず、子供たちの交友圏といった性格は、そこには及んでいなかった。
 そんな僕らにも、北系の民族学校に通うようにと、父が強く勧める時期が時折あった。ところが、僕らは示し合わせたわけでもなかったのに、それぞれが勝手ながら、揃いもそろって全員が、珍しく強硬に抵抗した。
 学齢期以前からの遊び仲間はもっぱら界隈の日本人の子供たちだったので、子供にとっては全世界に相当する幼馴染たちと別れて、見ず知らずの子供たちや、どちらかと言えば、苦手に思っていた近隣の集落の在日の子供たちが通う、はるか遠くの学校に行くなんて、想像もできないほどの怯えや寂しさのせいだった。
 それにまた、そんな学校に行くことになれば、集落の幼馴染などに、自分が<チョーセン>であることが露見してしまうことをすごく恐れてもいたのだろう。
 民族学校に通う子供やその親たちに対して、僕らは子供心にも相当にはっきりした違和感、警戒感を持っていたが、それには僕らの親とその子供たちの親との関係が大きく影響していた。それだけに、必ずしも両親がシンパシーを持っているわけでもない人たちの勧めや依頼を受けての、父の僕ら子供に対する転校の勧奨は、本気のものとは思えなかったし、一時の思いつきや気まぐれで父はそんなことを言いだしたに違いないと、子供なりに推察していた。
 父の意向に常々は相当に従順な母が、その問題については賛成していそうになかったことも大きく関係していた。しかも、言い出しっぺの父も、在日の組織や個人との付き合い上の義理や体面もあっての気まぐれの勧奨に過ぎないと、僕らは高をくくってもいた。
 そもそも、当時には盛んに理想郷を云々されていた北の共和国への「帰還話」に対して、父は不思議なほどに素っ気なく、むしろ警戒の気持ちをもっていそうな気配も僕らは感じ取っていたからでもある。
 そうした子供なりの状況判断があたっていたからこそ、父もずいぶんあっさりと引き下がった。怒ったりすることもなく、むしろ「親は子供に勝てない」とでも言うように、微妙な苦笑いも浮かべていた。その時点で既に、「子供は民族学校に」と繰り返し勧誘していた人々に対する弁解の台詞でも考えていたのではなかろうか。
 それはともかく、僕が北系の組織や人々や民族学校の生徒集団に対しての不信感を決定づけたと思われる出来事があった。小学6年時に民族学校の生徒たちの僕に対する集団的リンチである。
 それについては、僕のその後の人生において持つようになった意味などを探ろうとして、これまでに主に二つの形、一つはフィクションとして、もう一つは記憶通りのノンフィクションとして記述を試みたことがあり、ここではその後者のノンフィクション版の一部を引用して、その事件を紹介する。
 因みに、本文は元来、三部作の第三部として構想し、その前座としての第一部は小中時代、第二部は高校時代、そして本文にあたる第三部が大学時代と、僕の思春期までの時期を三区分して書き継いできたものだが、以下に引用するのはそのうちの第一部の一部の抜粋である。
 そこでは、少なくとも僕の意識においては、僕の記憶を再構成したノンフィクション的記述であるが、人名などは英文イニシャか仮名にして、プライバシーの保護に抵触しないように配慮した。小学校6年時の夏休みにおける、僕が通学し、当時の僕の生活においては家庭と同じくらいに重要だった小学校の運動場での出来事である。

(・・・)
 照り付ける日射しでグランドの赤土が白く見える。その照り返しには、日陰に身を隠していても、目を開けているのがつらくなるほどで、すっかり圧倒されてしまう。そんなグランドに人影なんかあるわけがない。水まき用の長いホースも片づけられないままに放置されている。せっかく片づけても、数時間後にはまたもや水やりのために引っ張り出す手間が面倒だからと、用務員さんが手を抜いたのだろう。それを幸いと、そのホースでグランドの赤土にたっぷり水を撒くと、白く光っていた赤土が湿りを帯びて黒っぽくなり、その上を通りすぎる風も、心なしか爽やかに感じられる。野球を始める気分が高まってくる。
 誰にも邪魔されず、グランドの王様になれる折角の機会なので、思う存分に走り回りたいところである。しかし、四角ベースで2チームを構成できる人数を確保できなかったので、仕方なく3角ベースで必要人数を減らして2チームに分かれた。
チーム分けはO君と僕が相談して決めた。幼い頃から兄とのゴムマリ遊びの成果なのか、僕は球技ではだれからも一目置かれるようになっていた。お金持ちの一人息子で、野球道具も1チーム分を揃えることができるO君と仲良くなれたのも、そんな僕の技量に目を付けたO君の対抗心と頼りがいのおかげだったに違いない。
 薬缶に入れた水でラインを引き、あちこちから拾い集めてきた段ボールを幾つかに破り、適当な場所に置いてベースに見立てて準備完了となった。
 O君だけがユニフォームに身を固めて、その他はすべてランニングシャツに半ズボンなので、なんともちぐはぐだが、そんなことを気にする必要なんかないし、これだけの暑さではO君の仰々しい格好の方が、暑苦しく馬鹿げて見える。
 しかし、O君は他人が何と思おうが、何を言おうが、まったくお構いなしである。すっかりその気になって、チームの統括に大張り切りである。その他大勢組の僕らも、道具は自前のものでなくても、試合となれば真剣である。むしろ、道具に関する負い目がある分、技量と真剣さで穴埋めするという気持ちもなくはない。暑さなんか忘れて、ゲームに没頭していた。
 僕のインコース高めのボール気味の投球はO君に見事に打ち返された。ボールは遥か向こうの運動場の柵際へ飛んでいった。歓声をあげてベースを走り回るO君の声を背中に、僕たち守備側は全員がボールを探しに走り出した。すると、フェンスの向こう側の小川のあたりから、いかにも乱暴そうな声が次々に聞こえてきて、やがては人影まで目に入った。
「まずい」と思う暇もなく、その声の主たちは身軽に小川を飛び越え、フェンスによじ登っては柵からグランド側に飛び降りてきた。
 僕はそうした声や動きに気を取られながらも、ボールを探さないわけにはいかないし、むしろ、その闖入者たちのことなど忘れるためにも、懸命にボールを探した。そして、ようやく、柵際の下水口の隅にボールを見つけた。
「あったぞ、見つけたぞ!」
 と叫ぼうとして仲間たちのほうに目を向けたところ、闖入者たちにすっかり包囲されたO君その他の仲間たちが、すっかりしぼんでしまって小さく見えた。
 すごく慌てたが、やがては気を取り直し、何もなかったかのように、意識的にゆっくりと小走りに格好で駆けつけると、O君を取り巻いていた民族学校の子どもたちの環の一角が割れて、僕はO君の横に吸い込まれるように近づいていった。
 事情を探ろうとして、O君の顔を覗きこむと、怯えが顔の全面を覆って、何か訴えでもしているかのように、涙ぐんでいた。その怯えの原因を探しだそうと、O君の視線の先を見ようと振り返った。するとそこには、その集団の親分格で、際立って大きな体躯、大きな顔をしたボングが仁王立ちで、にやにやと、いかにも意地悪そうに僕に向かって笑っていた。
 僕らと同年齢などとはとうてい思えないほど背が高く肩幅も広く、がっちりとした体格で、大人に負けない貫禄を備えている。そのうえ、在日の北系組織のこの地域の中心人物の長男だからなのか、親譲りの威厳のようなものまで発散している。
父親は人並外れて立派な体格で、いつも難しそうな顔で前かがみで歩いている。そんな姿を路上でよく見かけるし、我が家を訪ねて来ても、愛想笑いひとつ見せない。その父にしてその息子あり、或いはその息子にしてその父ありといった言い方が、まさにぴったりの父子である。
 ポングは毎日、取り巻き4、5人ほどを引き連れて、はるか遠くの民族学校に通っている。僕らの小学校の生徒たちは、その連中の姿が目に入ると、見えないふりに徹する。或いは、可能な場合には、いきなり道を引き返したり、近くの路地に入りこんだりして、出会わないで済むように精いっぱいの工夫をする。しかしそれも無理な場合には、ボングを中心にした恐ろしい群れの嘲弄するような目つきを全身で受けながら、前かがみでひたすら前方だけを見つめて足早に通り過ぎる。
 しかし、「どんなときにも背筋を伸ばして堂々」と、両親からいつも言い聞かされている僕としては」、こんな時こそそれを実践する時だと気張って、自分を励ます。
 その日の集団も、ポングを筆頭にいつもの取り巻きはもちろん、その他にも年下らしい姓とも混じって、人数が普段よりずいぶんと多い。弟分の下級生や弟や親せきの子供たちも連れてきたのだろう。中でも最も僕の目を惹いたのは、そのグループのナンバーツーと見なされているトングンである。その外見はポングと好対照で、小柄で敏捷そうな上に、鋭い目つきが特徴で、力がすべて体の中心に向かって集中していそうな感じがする。既に戦闘の準備完了の様子だった。
 トングンはそのグループの副将で参謀格らしいが、その一方で、そのグループとは少し距離を置いて独立独歩の雰囲気も漂わせている。それだけに僕は常々、魅力も感じるなど、注目していた。しかし、誰かに紹介されたことなどないし、口をきいたことなど一度もなかった。
 ポングが口を大きく開いて、「おい、おまえ」といかにも喧嘩腰で声をかけてきた。
 その声を聞きながら僕は自分の周囲を見回したが、何故かしら、その時にはチョーセン学校の子供しか目に入らなかった。そのうちの半数くらいの顔は見覚えがあったが、名前が分かるのは、既に挙げたポングとトングンの二人だけで、その二人は僕らの小学校では恐怖の的だった。たいていの男子生徒は、その二人の顔は知らなくても、名前くらいなら、何度も聞き知っている。
 ポングが言葉を継いだ。
「あのなあ、野球の試合でもしようやないか。人数もちょうど足りていそうやし」
 僕個人にはそんなつもりなどまったくなかったが、とりあえずは仲間の意見を聞くために、しかし、心の内では強い反対を求めて、振り返ってみた。ところが、肝腎の仲間がそろいもそろって俯いたままで、顔をあげようとしなかった。
仕方なく、改めてポングたちの方を向いた。いつの間にか、僕らの野球用具、つまりO君の家のバットやグラブやボールを彼らは勝手にもてあそびながら、これ見よがしににやにや笑っていて、申し出を拒めそうになかった
「やろか」と仕方なさそうに言った。O君も少し離れたところから、消え入りそうな声で「そやな、そうしょうか」と呟く声が辛うじて聞こえた。
 楽しいはずの時間がたちまち苦行の時間に変わった。
 それでもまだ途中までは、少しは野球の体裁をなしていた。僕らはゲームに懸命に打ち込むことで、苦行と化した現実を忘れようとした。それに、相手は野球にあまり慣れていないのか、技量的にはこちらの方がはるかに勝っていることもはっきりしてきたので、相手側の判定に関するごり押しを大目にみたとしても、シーソーゲームの格好になっていた。
しかし、そんな状態がその連中の勝負への執着に火をつけたのか、終盤にさしかかるにつれて、アウトかセーフを巡っての<ごり押し>が一段とひどくなってきた。こちら側は、さすがにうんざりして、どうでもいいので一刻も早く終えて、逃げ帰るしかないと思うまでになっていた。
 ところが最後の段になって、なんとも厄介なことに、O君のピッチャ-ゴロを相手投手が一塁に大暴投したので、あっけなく、そして僕らの意に反して、僕らのサヨナラ勝ちとなった。
 それなのに、僕のそんな気持ちに気づいていないのか、結果的にサヨナラ打になった凡打の当事者であるO君は、大喜びではしゃいでいた。しかも、そんな様子につられたのか、僕らのチームの僕を除く全員が喚声をあげた。そしてそれが悪い刺激になったのか。相手側の周囲には不穏な気配が立ち込めた。
 やがてその異変に気づいた僕らの仲間は一気に沈みこみ、表情も固まった。相手チーム全員がホームベース近くまで集まってきて、示し合わせたように口々に畳みかけてきた。
 「わしらの勝ちや。約束の金、もらおか!」「その金で何を食べよか」「ありがたいもんや」「さあ、出さんかい!金や。約束したやろ」「さあ、さあ。金や、金や、約束の金や」
 にやにやしながら、いかにも狡猾そうな顔つきと、有無を言わさない口調に、ぼくらはすっかり怯えた。そして、一人また一人と後退りした。しかし、O君が家から持ってきた野球道具がすべて相手側の手にある。まるで人質だから、そのまま見過ごして、黙っているわけにもいかなかった。
 「何を言うてるんや、こっちの勝ちや・・な・・・い・・・か」
 言いたい言葉もすっかり尻すぼみになった。しかも、思わず伏し目がちになっている自分に気づいて、情けなかった。しかし、そう思ったからこそ、かえって懸命に自分を奮い立らせた。
 「こっちの勝ちやないか。そもそも賭なんかしてないぞ。金なんか何のことや!?」
そんな言葉を言い終わりもしないうちに、トングンが眼前に詰め寄ってきた。その鋭く厳しい目付きに、対抗しようとは思わなかった。敵意の競争で勝てる自信など、僕にはまったくなかった。
 しかも、ポングまで加勢するためなのか、僕の方ににじり寄ってきた。
「お前の仲間らは、ほんまに情けない奴らやな。やっぱりチョッパリや、ウェノムや(カタカナはどちらも日本人に対する蔑称)。みんな逃げてしもとるから、めちゃくちゃにおかしい話やけど、お前が日本人側の代表としてケリつけるしかなくなったやないか。それにや、お前はひとりやのに、こっちは大勢では、いくらなんでも卑怯で格好悪いやないか。やっぱし1対1やないとあかん。そこでや、うちの代表選手はこのトングン。ワシらの学校の優等生でスポーツのスターや。そっちの代表は、この小学校の優等生らしいお前しかおらんから、二人が1対1で正々堂々の果し合いや。おもろそうやないか。さあ、みんな。絶対に手出したらあかんぞ!正々堂々やぞ!」
 ポングの言葉には、かすかに笑い声のような気配もあったが、本気そうに聞こえた。しかも、その最後の言葉を、連中全員が次々に繰り返し、ついには唱和した。
「手出したらあかんぞ。手出しは禁物や。正々堂々の果し合いや!」「正々堂々の果し合いや!」
「ええぞ。野球よりおもろなってきたな。さあ、開始や!トングンの出番や!」
トングンはお得意の厳しい目付きで、僕を威嚇しながら、
「さあ、やろやないか。お前も偉そうな顔してれるんは、これまでや!」
そう言いながら、いきなり僕の胸ぐらをつかんだ。
「むちゃくちゃやないか!」
やけくそになった僕も叫びながら、トングンの胸ぐらをつかんだ。
 近くには僕の仲間なんかひとりもおらず、僕一人は奴らにすっかり包囲されていた。目の片隅に、校舎の影に隠れて心配そうにこちらを覗き見している仲間たちの姿がかすかに入ってきた。腹立たしさと情けなさとで、やりきれなかったから、そんな気持ちを払いとばすように、トングンを思いっきり投げ飛ばした。
 しかし、さらに攻撃を続ける気にはなれなかった。突っ立ったまま、ぼんやりしていた。トングンが体勢を立て直して、猛然と食らいついてくるのも、まるで他人事のように見ているだけだったので、突進をまともに食らって、あお向けに倒れてしまった。
 とっさに腕を頭の後ろに当てたおかげで、頭は打たずに済んだ。しかし、倒れたショックで頭がくらくらしていた。僕が完全に組み伏せられると、周囲から歓声があがった。
「ええぞ、ええぞ、もっとやれ!やれ!」
 はやし立てる声が聞こえたが、朝鮮語らしく、意味なんか分かるはずがない。しかし、状況や口調から意味を想像した。悪口や嘲弄であることは確実だった。そのおかげもあって、反発心が湧いた。ありったけの力で切り返し、またしても僕が馬乗りになった。
 下から挑みかかってくるトングンの恐ろしい形相、とりわけその鋭く怒気がこもった目つきに対抗するために、胸ぐらをつかんで、首ねっこをしめつけた。
 ところがそのとたんに、斜め後ろから背中や肩や腕を立て続けに蹴られて、横倒しになってしまった。するとまたしても組み伏せられ、顔面にまともに一発くらって、目から火花が飛んだ。
 くんずほぐれつを繰り返して転がるうちに、校舎脇の下水溝近くの大きな段差でせき止められた。またしても、僕が組み伏せた。それでも変わらず獰猛に睨みつけてくる目付きから目をそらして、左手で胸倉を掴み、右手で拳をつくってみた。ところが、その拳を振り降ろせなかった。仕方なく、その手で相手の腕を抑えて反撃できなくした、
 しかし、そんな状態も長くは続きそうになかった。両手がしびれてくる。自分でも情けないほど芸がないと思いながらも、人の顔を殴るなんて僕にはできなかった。ひたすら相手を掴んで反撃させなくすることしかできなかった。どれくらい時間が経ったのか、「パン・チョッパリ(半日本人)め!」という声が聞こえた。そしてその瞬間、腕の力が抜けたせいで、またもやひっくり返された。それと同時に、方々から体や四肢に次々と足げりを食らい、それを避けようと転げまわるうちに、下水溝に下半身が落ち込んでしまった。下半身が狭い下水溝にはまり込んで、動かせなくなった。
 泥だらけで下水溝にはまり込んでしまっている僕を見降ろしながら、連中は囃し立て、嘲り笑った。またしても「パン・チョッパリ」という声が不思議なほどに鮮明に聞こえた。
 そのとたんにすっかり力が抜けてしまった。じっとしているしかなかった。そのうちに、半ズボン姿なので露出している腿から下の脚部に、何かが吸いついてくる感触がして、蛭ではないかと慌てふためいた。ナメクジのような柔らかくて得体のしれないものが、幼いころから大の苦手だった。必死の思いで下水溝から下半身を抜き出し、脚部の随所に吸い付いた蛭を叩き落した。しかし、まだどこかに蛭が吸い付いていそうな気がして、懸命に体に吸い付いているはずの蛭を探した。
 いくら探しても、もはや蛭など見つからなくて、ようやく落ち着いてきた頃には、連中は視界から消えてしまっていた。声も聞こえなかった。しかし、顔を上げてみると、はるか遠くのフェンスを乗り越えて去っていく後ろ姿がぼんやりと見えた。
どれくらい時間が経ったのか。「悪かったなあ」と震えるような声が背後から聞こえた。「わ・・・る・・・かった・・・なあ」と、切れ切れの言葉が繰り返されたが、応答する気にはなれなかった。しかし、そのうちに全身が震えだし、涙がポロポロと頬を伝った。誰かが僕の手を取り、そこにグラブを載せたが、それを払いのけた。O君の縋りつくような声が聞こえた。 
「そやけどなあ、チョーセンを相手にしたら、後が恐いから。ほんまに、悪かったなあ、チョーセンの奴らめ、みんな、死んでしまいよったらええのに」
 その声がしだいに大きくなり、ついには吐き捨てるような口調に、さらには、絶叫調になった。
「チョーセンめ、くそったれめが!死んでしまいやがったらええのに!」
 それを聞くと、ますます情けなくなった。そして怒りが込み上げてきたが、口をつぐんでいた。
何を言っても反応を示さないので、甲斐がなくなったのか、一人二人と去って行く気配がした。しばらくしてから顔を上げると、ばらばらになって肩を落として歩いていく幾人かの後ろ姿が見えた。それがすっかり見えなくなってようやく、懸命にこらえていた涙があふれた。しゃくりあげながら、思う存分に泣いた。
「ええい、糞ったれ、誰もかも、みんな糞ったれや!
 そのうちに、ある言葉が思い浮かんだ。奴らが何度も繰り返していた言葉である。そんな言葉など、僕自身は口にしたことがなくても、その意味は知っていた。自分のような人間のことと思っていた。「ウェノㇺ(倭奴、日本人め)」「パン・チョッパリ(半日本人)」と声に出してみた。でも、そうするとますます惨めな気分になってきた。ゆっくりと歩き始めた。行き先の当てがあるわけではなかった。家に帰るわけにはいかなかった。ともかく、その場から一刻も早く、どこかに逃げていきたかった。(・・・)

 僕がどうしてそんな羽目に陥ったのかと言えば、まずは、僕が日本人の子供たちの中に紛れ込んだ在日だったからであり、そのことを民族学校の子供たちは知っていたからこそだった。
 僕らのグループの日本人はすべて逃げてしまい、遠くから僕の様子をうかがっていた。それなのに、僕がたったひとりで、民族学校の大勢の生徒たちを相手にする役まわりになったのは、僕が<健気にも>同族としての責任感に駆られたからだったのだろう。他方、僕の仲間であるはずの日本人の子供たちにとって、朝鮮人など全くの外部の邪魔者、つまり、もっぱら怖くて迷惑な存在に過ぎなくて、その場をしのぎさえすれば、いつでもどこでも、圧倒的多数である自分たち日本人の世界だから、<その場は逃げるが勝ち>を決めこむのも当然のことだった。
 民族学校の子供たちは、僕も含めた日本人集団を敵とみなして差別に対する腹いせをすることも確かに重要な目的だったろうが、それ以上に、そこに紛れ込んだ<半日本人>の僕こそは、敵に寝返った裏切り者だからと血祭りにあげることによって、<正統な>朝鮮人同士の一体感を高めるという理屈もあったのだろう。
 要するに、子供の喧嘩などではなかった。彼らが在日である僕に集団リンチを仕掛けることになったのは、彼らの親たちが所属する民族集団が、僕の家族をその民族総体に対する裏切り者と烙印を押し、排除の決定を下していることを知っていたからである。つまり、僕が同族の子供集団から暴力を被ったのは、民族にまつわる父の政治的選択と無関係ではなく、むしろそれが根本の理由であり、子供である僕個人に帰着するものなどではなかった。それは言わば、在日の裏切り者も含んだ敵対集団としての日本人と日本人社会の総体に対する<正しい在日>を自認する集団の象徴的な逆襲行為、つまり見せしめ行為だった。
 以上の僕の議論は、ひどい思い込みと考える向きもあるだろうが、そんなことはないと、今の僕は確信をもって言える。
但し、その確信は11歳当時の僕のものではなかった。当時は、ぼんやり明滅する勘のレベルにとどまっていた。だからこそ、それから1,2年後の中学時代には、僕対する集団的リンチに加わっていたグループの一部と、ずいぶんと親しく付き合いもして、ずいぶんと悪さも教えてもらって、いっぱしの不良生徒になったつもりだった。
 しかし、やがては、そんな彼らとは仲間になどなれないと確信したからこそ、改めて袂を分かった。
 従って、中学時代もその後の高校時代にも、そのリンチ事件によるトラウマめいたものを意識した記憶はなく、大学一年時に民族サークルや組織を選択する際に、その事件のトラウマが決定的に作用したなどとも言えそうにない。
 だから、その事件も含めて民族学校やそのバックに存在していた組織やそれを構成する人々に関しての、僕の幼い頃から思春期に至る時期の、実に多様な経験と情報とが総合的に作用して、僕の大学一年時における政治的決定がなされた。したがって、リンチ事件そのものは、僕の大学一年時の政治的決定においては、多様な原因のうちの一部に過ぎなかった。
 ところが、その事件から60年以上の歳月が流れた現在から再考してみると、その事件で<一対一の果し合い>と彼らが勝手に命名した<集団リンチ>の先鋒として僕を処断する役を振りあてられた子供の、むしろ成人して以降の我が家と僕に対する一貫 した敵対的挙動が、より大きな意味を持って浮かび上がってくる。
 僕が小学校時代には、せいぜい兆し程度に、ぼんやりと意識した状況認識が、数十年後になってようやく、見事に証明されたという感が僕にはある。
 <一対一の果し合い>という名目で僕に対する<仕置き人>に指名された民族学校の文武両道の優等生は、その後、中高大、そして青年組織、さらにはそれらすべてを束ねる在日組織において重要な役職を歴任し、今では年齢もあって引退したようだが、それでも隠然たる影響力を及ぼしていそうである。
 そうした系列の組織とは生涯を通じて何の関係も持たなかった僕ごときが、どうしてそんなことまで知っているのかと言えば、その組織内でその人物に近い方が僕の遠縁におり、その方からその人物の現況の一端が漏れ伝わってくることが、かつてはあったからである。
 しかも、昨年2月に100歳で亡くなった僕の母が、数年前に老人介護施設に入るまでの70年以上も暮らしていた僕らの実家と目と鼻の先のところに、その人物が新婚所帯を構えて暮らすようになって、既に半世紀にもなるからでもある。
母はその家で80年近くも暮らした後に亡くなったが、その家は母の死後もそこにあり、その人物は50年以上もその僕の実家のすぐ近くで暮らし続けている。
 僕はと言えば、24歳で結婚して実家を出たので、その人物が僕の実家近くに転居してきたのとはほとんど入れ代わりになったが、そんな僕はその後も実家に頻繁に出入りを繰り返しててきたので、その<仇敵>と呼んでも差し支えなさそうな人物と僕とが、我が実家とその人物の家の間にある路上で偶然に出会うことも避けられなかった。
 とりわけ、母の目や耳には、それこそ四六時中、その家の動静の一端が飛び込んでくる。家の前の路上を掃除していると、その人物の家人と顔を合わせる。しかも、足がすっかり衰えて外出がままならなくなって以降の母は、自宅の二階の窓から界隈の通りや近所の人々の動静を眺めるのが最大の暇つぶしになっており、そのために二階の窓を開けると、斜め向かいの三階建てのその人物の家の前面が目に飛び込んでくる。
 それほど長い歳月にわたってのご近所同士で、しかも、その日本人中心の集落で数軒しかない在日同士なのに、その人物が僕の母に対して、長年にわたって挨拶もしたことがないという話を、母からいつのことか聞いた時には、なんとも奇異に、しかし、その一方では、「さもありなん」と不思議なほどに合点がいった。
 その人物が転居してきた頃の新妻の母親と僕の母とは、故郷が同じ済州島ということもあって知り合いだったので、その娘にあたる新妻とも母は親しく言葉を交わしていた。それなのに、その新妻の連れ合いが母に対して、不遜な態度を貫き通していたなんて、本当に不思議であると同時に、それまた、さもありなんと、僕には合点がいく。
 そしてもちろん、僕と路上で出くわしても、その人物は僕に言葉をかけるどころか、目もくれない。
 僕の方は、相手の態度を受けてというよりも、むしろ、自分が相手に何か悪いことでもしたことがあって、その罪滅ぼしでもしているかのように、目をそらし、知らぬふりをするように追いやられるような感じだった。
 そんな関係が、少なくともその人物がそこに転居してきて以来、半世紀以上も続いてきた。
 その間に僕は、ひょっとしたら彼は僕のことなど記憶にないのかもしれないと考えたこともある。まさかそんな馬鹿なとは思いながらも、である。ところが、ある時、やはりそうではなかったことが判明した。
 先にも触れたが、彼と同じ組織の専従活動家で、彼が礼を欠くことなど断じて許されそうにないはずの先輩かつ上司でもあった方が、我が家の遠縁にあたり、しかも、その方の奥方は、母の紹介もあって結婚に至ったという経緯もあって、その奥方は何か困ったことがあると僕の母のところに駆け付けるといった深い信頼関係を築いていた。
 そんな遠縁の方によると、その先輩後輩の二人の間では、時折、僕のことが話題に上るとなんとも意外なことを言うことが何度かあった。
「この前なあ、あいつがお前のことを話してた」と、その方は笑顔で語った。かの人物と僕とが、政治的な立場その他が大きく異なっていようとも、同じく在日の後進世代として互いに関心を保持していそうなことが、先輩格、あるいは親戚筋の兄貴格として嬉しいといった口ぶりだった。
 その二人が具体的に、僕について何を話していたのかは定かではなかったが、ともかく、そんな打ち明け話を、僕は何かの折に、2,3度は耳にしたことがあった。
 要するに、かの人物の僕や僕の母や家族に対する挙動は、見ず知らずの他人に対するものではなくて、相手をきちんと特定できたうえでの確信犯的なものだったことがほぼ確実なのである。しかし、それがどんな意図によるものだったか、それは分明ではない。
 それにしても、民族、親族、そして組織などの関係の規律に厳しく、伝統的な長幼の秩序にも厳格だが、同志的関係における相互信頼の厚さや情の深さを誇る民族組織の専従活動家でありながら、僕はともかく、長年にわたって近隣で暮らしてきた在日の親の世代の高齢者に挨拶もしないというのは、甚だ異例なことのように思えて、僕としてはついつい想像をたくましくする。
僕をリンチにかけた集団の先鋒としての恥ずかしく忌まわしい過去の記憶が、僕の母を筆頭にした僕の家族に対する一貫した無礼な態度の源泉にあったのではないかと。もしかしたら、自責感のようなもの、消えない過去の傷を心の奥底に秘めているからこそ、僕はもちろん、僕の親にまで、そんな態度をとり続けてきたのではないか。そして、そうすることによって、まるで非はむしろ僕や僕の家族の方にあるのだと、事実関係や因果関係を自分に都合のいいように転倒して、自己正当化しているのではないのかと。
 因みに、僕が集団リンチ事件と呼ぶ出来事において、先方は10名ほど、僕は一人(といったように、圧倒的な多勢に無勢の状況だった。<一対一の果し合い>なんて実際には何の意味も効力もない体面だけの理屈であり、相手側がそれを言い出したが、それに対し僕が同意などするはずもなく、そもそも同意しようがしまいが、何の違いもないことなどはじめかからその場に居合わせたものすべてには、分かり切ったことだった。
 <一対一の正々堂々の果し合い>が始まり、体力的に優勢で腕力にも勝る僕が優勢になるや否や、僕らを取り巻く彼ら全員は、僕を背後から足蹴にしながら罵倒した。正々堂々も糞もなかった。
 僕はその事件以来、彼を目にすると、まるでそれが僕に課せられた懲罰の形でもあるかのように、目を伏せて犯罪者のような挙動をするようになった。端から見れば、僕が過去にその人物に対して何か卑劣なことでもしたのかと疑われかねない態度である。そんな僕に釣り合わせてのことか、相手側は僕など目に入らない様子で、素知らぬ人間、あるいは、透明人間のように僕を扱った。
 そうした集団リンチ事件とその後日譚とを考え合わせると、我が家の民族にまつわる傾向性、あるいは、父の政治的、組織的選択が、民族学校の子供たちの僕に対する態度や行動に決定的な影響を及ぼしていたのではという僕の推察は正しかったと確信が募ってくる。 
 我が家の在日における政治的選択に関して、彼らの親の考えや感情を知ったうえで、それに倣ったうえでの、子供たちなりの敵味方の判断とそれに基づく一貫した態度が、僕の家族に向けられていたのだろう。そうでもなければ、有能な組織人と評価され、組織内で一貫して要職についてきた人物が、僕と僕の家族に対しては、ひどいほどに大人気なく、とりわけ在日の大衆組織の活動家としては、決してあってはならないことだと思わないわけにはいくまい。
 だが、以上はやはり、僕の立場からの一方的な記述であり判断であるという疑いを一掃できない。その人物にも、彼なりの事実認識や理屈があるのだろう。そして、僕と僕の家族は釈明しようがないほどに、反民族的で反在日的な言動、そして生き方をしてきたと見做すような人が彼以外にも数多くいるかもしれない。
 因みに、僕は歳を重ねるにつれて、かつての友人たちから次々と絶交を宣告されたり、愛想をつかされている気配を感じたりもする。そんな場合、僕にはその理由が分からないままに、そんな処遇を当然のことと納得することも少ないのだが、だからと言って、その理由を詮索する気にはならず、致し方ないこと、あるいは、不徳の致すところで、申し訳ないという謝罪の気持ちと、少なくとも過去の一時期に、温かく親身に相手をしてもらえたことに対する感謝の気持ちを再確認して、甘受するべく努めている。
 上のエピソードで長々とご登場願った人物に関しても、それとよく似た事情を想像して、僕とその人物のどちらもどっちで、互いに致し方なかったことであり、その人物と僕とが、甚だ寂しい形ではあっても、それなりに同時代を、それぞれの立場で生きてきたことを認めることで、僕はなにかしら、解放感を覚えることができそうな気がしてくる。
 そんなことをこの文章と悪戦苦闘しながら、ようやく考えついた。生きること、そして、文章を書くことが僕にもたらしてくれる慰労の一部として、僕はそれを喜んで受け入れたいと思う。
 なんとも非論理的な話と非難が寄せられそうなのだが、僕としては、当座はそのラインで考えながら、いつの日か、もう少し読者に納得してもらえそうな理屈を編み出すことを約束して、ここではご容赦をお願いしたい。

 それはともかく、以下では我が家の民族関係、もしくは在日における政治的立場の閲歴と事情について、既に断片的に述べてきたことと重複を厭うことなく、改めてその変遷を辿ってみる。
 我が家は1960年以前には北系の組織にも南側の組織とも関係を一定の友好的態度を保っていたが、当時は南系の組織など圧倒的な少数派だったし、父のシンパシーは圧倒的に北の左翼側に向けられていた。父は心情的には、左翼であると自認していたはずである。家のすぐ近くの小学校の講堂で開かれる日本の政治家の演説会などにも、父はよく足を運んだが、とりわけ、日本共産党の代議士の演説会を選り好み、その代議士とその演説の印象などについても、珍しくよく話していた。だから僕は今でも父が当時のみならずその後も長らく尊敬していた日本共産党の政治家の名前を今でも覚えている。父の口から聞こえるその名は、まだ幼かった僕にとっても、輝いていた。
 民族組織に関しても同じようなことがあった。僕はまだ幼い頃に父に抱かれて、北系の組織の事務所前広場での政治集会の真っただ中で、集まった人々の歓声の波の中で父と自分も揺れていた。それはまるで夢の中のことのようだが、まさに歓喜に揺れる<同胞>の波だった。
 ところが、1950年代末に済州在住の祖父の臨終の知らせを受けて以降の父は、大きく変化する。父は祖父の死に水をとるための手続きに奔走する。1940年前後に故郷の済州を去って以来の初の里帰りの為の奔走に明け暮れたが、それは徒労に終わり、その悔しさで父は、僕ら子どもたちの眼前で号泣をつづけた。
 それを契機にして、それまではあまり口にしなかったことなのに、両親の故郷である済州のことがしきりに話題に上るようになり、父はその故郷訪問の為に必須の旅券を獲得するために、北系組織とはすっぱりと縁を切り、南へ舵を切った。当然、北系組織から批判を受けるなど組織との関係は冷え切った。しかし、それでもすぐに断絶には至らなかった。北系の人士が折に触れて寄付を求めてきたし、その組織の新聞が定期的に家に配達された。
 そのように、所属組織は変わっても、父はそれなりに政治的中立を標榜し、北を悪しざまに非難するようなことなどなかった。僕ら子供にも、「北系の家の子供とは付き合うな」といった類のことを口にするようなことはなかったし、自身も北の組織に所属する親戚や知人との関係は継続していた。
 父の初の帰郷は1960年、母はその翌年の1961年に実現したが、その際には日本にある財産に加えて、借金や頼母子などで調達した資金で物資を大量に購入し、それを済州に持ち込んだ。そして、それを済州で現金化して、親戚にばらまくと同時に、余生は済州に帰って暮らすつもりで、畑や居住用や投資用の不動産の購入に充てたが、当時は在日が韓国で不動産を自分の名義で購入することが認められていなかったので、現地在住の兄弟や親戚の名義で登記せざるをえず、それが後には兄弟や親族との軋轢の種となった。
 それはともかく、親族などを助けるためのお金や不動産の借名取得などで、父は故郷では実際以上に資産家と誤解された結果、大いに歓待・期待されるなど、父の済州との蜜月関係が成立したが、その一方で、そんな蜜月関係による過剰な期待が、後には大きな禍根となる。
 そのうちに、父の故郷贔屓の延長上での韓国贔屓は進み、政治的立場も完全に南側に傾いた。僕が大学に入学した1969年頃には、我が家の在日社会における政治的立場は完全に南側に移行してしまっていた。
 さらには、中立を謡っていた統一朝鮮新聞とその政治組織である韓国自統との関係も、初の故郷訪問以降には韓国における政治的迫害の懸念もあって、慎むようになった。伯父が編集長をしていた統一朝鮮新聞とも距離をとり、伯父の新聞社における立場が微妙になると、ほぼ関係はなくなり、伯父が1969年に死亡して以降は、その新聞社との関係は完全に切れた。
僕が大学に入学した1969年頃には、在日のどのような党派の人であれ、個人的関係に限っては継続していたが、組織的には南系である民団の一員としての立場を明確にするようになっていた。そして、その4年後に僕が民団を除名され、連座制が適用されて両親ともに、僕のとばっちりで旅券をはく奪された際には、故郷往来を最大の楽しみにしていた父は慌てふためき、僕の記憶にある限りでは、僕が生まれて初めて僕に手をあげた。
 そして、それ以降は、さらに積極的に寄付はもちろん役職も引き受けるなど、懸命の工作に努め、ついには旅券の再取得に至った。
 それ以降は、済州滞在がますます長くなり、ひどいときには一年の半分以上も大阪の家とコウバを留守にするばかりか、たとえ日本にいても、心ここにあらずの状態になった。
 しかし、それでもなお、両親ともに僕が北系の組織の人々と接触することを禁ずるようなことはなかった。そもそも、両親は北系の組織との関係が切れても、親戚や同郷人や仕事関連では、北系の人々と以前とそれほど変わらない関係を維持していた。
したがって、大学の民族サークルからの僕に対する誘いも、それが左右両翼からのものであることを承知しながらも、どちらを選ぶようにと強いる気配など全くなかったし、我が家を訪れる先輩学生の所属組織を確認して、対応を変えるようなこともなかった。
 敢えて言うならば、母が特にそうだったが、むしろ北系の組織の上級生たちの方を選好した。
北系の先輩たちの立ち居振る舞い、表情、長幼の秩序の尊重と礼儀正しさ、そして何より笑みなどの表情に、つまりすっかり肉体化したショーイング(見せること)の原則に対する母の好感度はすこぶる高いものがあった。
 ところが、秩序からの<はずれもの>的挙動が好みで、必然的に生意気を旨とする僕のような若造は、そうした北系の上級生たちの言動、立ち居振る舞いの画一性がなんとも苦手で違和感が強かった。
 しかし、その違和感も単純ではなかった。
 違和感が否めない服装や挙動、そして表情と口調でも、いかにも親しげに<トンム>などと呼びかけられると、その呼称には反発しながらも、何とも言えない吸引力を感じて、魅了されそうな自覚もぬぐいがたかった。
 まだ幼なかった頃に、北系の組織の事務所に誘われて、お姉さん方の優しい言葉や、鼻先に漂ってくる若い女性特有の香りに、ついつい反応してしまっている自分が、すごく気恥ずかしかったのだが、その時の母の懐に抱きかかえられた幼い頃に対するノスタルジーともどこか共通した何かが、いつも僕のなかで蠢くことを感じるのである。

(ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の16、第三章 第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の6に続く)

ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の14

2024-05-11 17:25:14 | 在日韓国学生同盟

ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の14

第三章 第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の4

1)大学の授業が始まるまでの民族的活動
2)韓学同大阪の事務所と民団大阪本部などの建物

1)大学が始まるまでの民族的活動
 夏季休暇を利用しての留学同の合宿学習会に参加したものの、一日で音を上げて逃げ出した。その結果、留学同や朝文研との蜜月関係は破綻し、その後の僕は民族的関係では、学内サークルの韓歴研、そしてその延長上での学外組織の韓学同の活動に集中するようになり、イニシエーションの第一段階が終わった。
 ところが、相変わらず大学の授業については開始の見込みもなかったので、僕は家業のコウバ通いの毎日だった。それに僕以外の韓歴研の上級生や新入生も、大阪の郊外に位置する大学キャンパスに行くのは面倒だから、都心に位置し、無料で場所を確保できるし、帰路には阪急東通り商店街や天神橋筋には安酒場がしのぎを削っているなど、中崎町の韓学同大阪の事務所が好都合だった。おのずと活動の本拠はそこ(韓学同大阪本部事務所)となる。そのために、建前上は大学サークルの活動とは言っても、事実上は学外の民族組織である韓学同大阪の活動と区別がつきにくく、やがては無用の体裁などほとんど無用となった。
 そんなわけで、大学の授業が始まる12月の初旬までは、僕らの学内サークルの活動は韓学同大阪の活動とほぼ重なった。そもそも、韓歴研の上級生の多くは韓学同大阪の主要メンバーなので、<よほどのこと>がなければ、大学サークルとしての韓歴研の独自活動という体裁も捨てた。
 因みに、<よほどのこと>とは、前々回にも触れたような、韓国の政権に対する批判的な研究会を公開で行う場合のことであり、上部団体である民団の介入、そして弾圧を避けるためには、学内サークルとしての韓歴研の衣を借り、大学施設などを利用した。つまり、学内サークルとしての韓歴研主催というのは、組織防衛の方便だった。
 以下ではまず、1969年12月に大学の授業がようやく開始されるまでの、僕らの活動、つまりは主に韓学同大阪のそれについて紹介するが、それにあたっては便宜的に、日常的で反復的なものと一時的でイベント的なものに大別する。
 日常的活動としては国語(韓国語)講習会、歴史や文化の学習会、さらには韓国や在日に関する情勢(在日の法的地位の問題なども含む)などの学習会があった。
 国語講習会は受講生の数自体かがたかが知れているのに、受講生のレベルが多様すぎて、効率的な運営が難しかった。例えば、民族学校出身(もしくは一時的にでも通っていたことがある)の学生と日本の学校出身の学生とでは、特に初歩段階では話にならない格差があり、一緒に授業などとうてい無理だった。しかも、日本の学校出身の学生でも、何らかの理由で韓国語の初歩を学んだ経験のある新入生も少なからずいる一方で、まったくの初学者もいたので、それぞれのレベルと需要に合わせてのクラス編成をすべきところだが、母集団がそれほど多くない集団ではとうてい無理なので、新入生を組織につなぎとめると同時に、個々の母国語学習を促進するような場になりにくかった。
 韓国語講習は一般的には日本語の「あかさたな」にあたる基本的な母音と子音の文字と発音から始めるが、僕の大学の同期の新入生で韓歴研に参加していた3人の場合、全員がそのレベルの知識を既にある程度は備えていたので、他の大学の完全な初学者とは別に行うしかなかった。そこで、上級生たちは、そのレベルを一気に上げることで一石二鳥を狙った。初級程度の文法や購読ももちろん行うが、それと並行して韓国の新聞や雑誌の論説文原文の購読の形をとったりもした。
 当時の韓国の新聞や雑誌など活字媒体は、漢字とハングルの混合であり、名詞は殆ど漢字、動詞も語幹は漢字なので、ハングルの基本さえ習得すれば、文法については参考書、語彙に関しては辞書の助けを借りさえすれば、僕ら程度の初心者でも、それなりに文章の大意くらいなら理解しながら読み進むことができた。
 そんな形で韓国語の論説文と格闘していると、現代韓国の政治社会情勢の学習も兼ねることになるので、退屈さなど感じることなく、むしろすごくチャレンジングなので、少しは民族的素養も身に着いたような錯覚まで生じた。
 指名された者がまず音読すると、上級生から発音やイントネーションの矯正をしてもらい、次いでは全員で音読する。さらに担当者が和訳し、自分では分からなかった箇所について質問を提示すると、全員がその点についての意見を述べ、それをまとめる形で講師役の上級生が、文法や関連知識の説明を補充する。そのようにして、韓国の同時代の代表的な論説文や時事的ニュースも少しは読んだ。そのやり方は、漢字のハングル読みの学習にもなり、ハングルだけの文章を読む際にも、そのハングルの裏に潜んでいる漢字を、自然に想像するようになるなど、韓国語文の解読にはすごく便利なうえに、僕ら中途半端な初学者にとっまことに刺激的だった。
 しかし、その一方で、やはり訳読中心という点では、当時の日本の中高時代の英語の授業と似た面があり、実践的な会話能力の錬成など望めないばかりか、学習者の言語運用能力における甚だしいアンバランスを固定化するなど、禍根を残したと、それからずいぶんと経ち、言語を教える立場になってからの僕は思うようになった。
 初歩段階で訳読に偏よると、後になっての実践的な言語運用能力の養成に障害となりかねない。発話よりも意味その他の多様な側面で正誤の懸念が先立つようになり、口から言葉が自然に出てこなくなる。さらにはそのことでコンプレックスを抱くようになるなど、会話能力の練成には不都合に作用する。
 特に<在日二世以降>の場合は、ウリマル(韓国語、朝鮮語、我々の言葉)を必ずや習得すべき言語と見なすような強迫観念にとらわれて、言葉を発し交わしあうことに対する欲求や喜びを二の次にしたげくに、それをつぶしてしまいかねない。
 そのような僕らの初学時にはある意味で不可避でもあったいびつな学習方法のせいで、僕が韓国語の会話など実践的運用能力を楽しく習得する気になれたのは、それから20年以上も後のことだった。
 話したり聞いたりすることは本来楽しいことなので、ブロークンであろうと何であろうと構わないと居直って、主にカセットを聞きながらおうむ返しに発話する形式の学習方法を採用して以後のことだった。
 言語以外の歴史や文化や現代情勢を含めた焦眉の懸案の学習会も、講義のような一方向的な形はとらず、指名された担当者が基本文献の担当箇所のレジュメ(概説)を試み、そのレジュメに関して全員が検討するといった双方向性が目指されたので、高校生時代までと比べれば、一人前の大人になった気分にもなり、議論に積極的に関わることこそが物事を学ぶことだと気づくようになった。
 因みに、言語学習の際には歌の練習も大いに取り入れていたので、発音やイントネーションその他の習得に益が多く、楽しく関心も持続した。
 僕らに韓国語を教えてくれたのは主に三名の二年生だったが、その人たちは三人そろって不思議なほどに美声で音感も素晴らしく、韓国語と歌の指導力の高さに驚いた。そんな人たちに教えてもらいながら、韓国語の歌がいっこうに上手にならなかったのは、音痴の僕だけだったので申し訳なく、僕の音痴ぶりが尋常でないことを今さらながらに思い知った。
 それでも二年後には、その上級生たちと日本海の浜辺にキャンプに行った際に食後にお酒を飲みながらキャンプファイアーをしながら、指名されたので十八番の「青春放浪歌」(チョンチュンパンランカ)を、酒の酔いや海辺の夜の独特な雰囲気の影響もあってか、歌詞の気分にすっかりはまって、自分でも不思議に気持ちよく歌えた時には、「ソニュン(僕のこと)も、その歌に限っては、すごくええやないか。見直した」と珍しく褒められた。しかし、それもその上級生たちの粘り強い指導のおかげにほかならず、僕が自慢できそうなことではなかった。
 他方、一時的、イベント的な活動は次のようなものだった。
 韓学同の地方本部単位での文化祭など恒例の行事も控えて、伝統的な民族的歌曲や民謡、舞踊、伝統楽器など民族文化の練習は、全身運動の要素もあって楽しかった。
 さらに、時事的な緊急の問題に関しての、街頭での署名活動やデモ行進などのカンパニア活動も、僕の大学在学中では目立って多い年度だった。中でも特筆すべきは、外国人学校法案と出入国管理法案の改悪反対運動に参加した。大阪だけでも数千人に及ぶ大きなデモ行進に、なんと民団が総力をあげて取り組めたのは、民団内の民主・自主を標榜する人士たちや韓学同と韓青同が協力して、民団に執拗な働きかけを行ってきた成果だった。
 その成功体験と感激によって、普段は無力さを痛感させられてばかりの韓学同も、民団に、そして在日社会に一定の影響力を及ぼすこともできるように思えた。そして、続々と観光バスに乗って参集する老若男女の同胞集団の熱気の中で、その大きな懐に抱かれる気分で安らかであると同時に気分は高揚し、韓学同の活動に参加してよかったと、つくづく思った。
 そんなことがすべて、僕の記憶ではその年のことになっているが、実はそのデモの時期や年度に関しては、僕の記憶違いの懸念もある。
 しかし、本文総体が僕の記憶に依拠した極私的物語であることを、当初から断って書き継いできており、たとえ自信のない記憶であっても、そのことをあらかじめ断ったうえで、その曖昧なものでも僕の記憶に頼った記述を続けるしかない。改めてそのように自分に言い聞かせながら、書き継いでいきたい。ご理解とご容赦を重ねてお願いしておきたい。

 1969年、僕の大学一年時に、日本政府の在日に関する二つの抑圧的法案に対する在日総体、とりわけ、本国政府の肝いりだからと、長年にわたって日本政府の言いなりと侮られていた民団が、まったく予想外なことに、総力をあげての反対運動に取り組むことになった。
 僕は大学に合格した直後から大学の民族サークルや学外の民族祖組織のオルグを受ける過程で、その法案のことも教えられ、その内容に恐怖を抱くほどだったので、当然のこととして、デモにも積極的に参加した。そしてその際の高揚感や達成感こそが、僕の韓学同の活動への参加、つまり僕の民族主義的な活動への参加の決定的な第一歩になった
 とりあえずは、そうした僕自身の記憶に依拠すると、1969年、つまり僕の大学一年時の時系列に沿った民族的な学習や活動の大まかな展開は次のようになる。
 3月の合格発表直後から始まった学内の民族サークルや学外の民族的学生組織によるオルグ活動、新入生歓迎を謡った野外イベント(韓学同と留学同それぞれの歓迎ハイキング)と屋内イベント(韓歴研と朝文研それぞれの新入生歓迎宴会、そして韓学同の文化祭的歓迎行事)、夏季休暇時期における留学同の合宿学習会と韓学同中央本部主催の毎年恒例の信州での2泊3日のサマーキャンプ。
 以上についてはほぼ間違いのないところなのだが、先にも触れたように、入管法改悪と外国人学校法案の二つの在日関連の法案に対する反対運動が、その後に続いたのか、あるいは、その前、つまり夏季休暇の前だったのか、あるいは、翌年のことだったのかが定かでない。
 その当時の記憶をまさぐってみると、あのデモで体感した暑さが、真夏の灼熱の陽光によるものではなく、梅雨の蒸し暑さでもなかった。むしろ、秋の運動会などの際の爽快さを備えた暑さの印象が強く、秋先のことだったように思える。
 さらには、デモ後の達成感と脱力感の中で、総括会という名の夕食会の場所として指定された民団民主派(有志懇談会)の有力人士が経営するという大型焼肉店の近くで待機していると、夕闇とさわやかな冷気がわりと早い時間に感じられて、季節の移り変わりを痛感したかすかな記憶もあり、それらも考え合わせると、やはり、その年の秋のことだったのではなかろうか。
 したがって、そのデモなどの高揚感の余韻に包まれながら、僕らは韓学同大阪の恒例の秋の文化祭に向けての、合唱や舞踊や伽耶琴など民族的伝統文化の習熟に励み、文化祭でそれを披露し終えると、その後には、これまた緊張感が高まる朴正熙大統領の三選改悪に反対する東京での韓学同の集会やデモ行進などが待ち受けていた。
 そして、それからほどなくの12月になると、僕らの大学でもようやく授業が開始され、12月中旬か、年が明けた1月の中旬か下旬に、韓学同中央の年次総会、さらには年度末の3月中旬には韓学同大阪の年次総会で一年間の活動が幕を閉じ、新執行部の下で3月末からは、新入生に対するオルグの準備が始まった。
 ただし、僕らの大学では12月に始まった一年生の授業が5月初旬になってようやく終わり、ほんの少しの休暇を挟んで、5月中旬には二年生に進級した。
 それに対して、その年の新一年生の授業は、僕らの二年時の授業と時期を合わせて始まったのか、あるいは、二年生のスケジュールとは関係なく、例年通りに4月の初旬に始まったのかが、僕の記憶にはまったく痕跡がない。
 僕らの学内サークルである韓歴研の活動はしたがって、授業が開始した12月に始まって5月までが最もコンスタントに行われた。そして、それが終わってから、新入生を交えて行われたのか。あるいは、新入生のスケジュールに合わせて僕らの大学での学習会も行われたのかも定かではない。
 因みにその日常活動の中心だった学習会とは、主に昼休みを利用した週に3日、毎回30分ほどの国語講習であり、昼食の時間を割いて慌ただしく行い、終わるに際してはほぼ毎回、韓国の歌を習ってみんなで一緒に歌うなどもして、負担が少なく、時間が短いからこそのテンポも良くて、楽しかった。
 他方、他の学習会は、僕らの大学が<たこ足>大学という事情もあったし、しかも、普通は教養課程から専門学部には2年を終えて進級するのに対し、僕らの大学の場合は、工学部に限って1年の後期から、つまり半期分だけ逸早く専門課程に進級するといった変則的な形になっており、工学部生が多数派である僕らの韓歴研では、全員がそろって何かを行うことが甚だ難しかった。しかしそれでもなんとか工夫して会場を工学部キャンパスや共用部キャンパスなど、状況や都合にあわせて続けていたことが、この歳になると、すごく健気に思えて懐かしい。
 なお、僕らの一年下の入学生は、学外組織は政治活動であるという警戒心が親御さんたちに強くて、韓学同の活動には参加を慎まねばならないような事情を抱えた学生であっても、学内サークルである韓歴研の活動への参加なら可能だからと、極力、参加に努めてくれていた。
 そんなケースも少なからずあることを前提にして、大学サークルと学外組織の二重性が僕らの活動にとっては必須で、そのおかげもあってつかず離れずの学生同士のシンパシーが育まれていたことも、うれしい思い出である。それぞれの家庭の事情が大きく作用するのが、僕ら在日の学生、とりわけ自宅通学の学生にとっての不可避の条件だったことは、在日の学生組織の運動について考える際には看過してはならない、と僕は考えている。
 以上の中でも民族や同胞といった言葉や感情に関係して、僕に最も大きな高揚感をもたらし、僕の民族活動にとっての転機になったのが、上でも触れたようぬ、在日の抑圧を目的とした二つの法案に対する、在日社会総体による大々的な反対運動であり、そのデモの隊列の中で覚えた、同胞に抱かれる安心感や一体感が、当時の僕には強烈な興奮をもたらした。
 しかも、その種の運動が、当初は反対運動に積極的でなかった民団を、韓青同と韓学同、さらには、民団内の有志懇談会と名乗る民主派、自主派(韓国政府に従属することなく、是々非々を貫くことを主張する人々)との統一戦線のイニシアチブによって、巨大な大衆運動ととし展開させるに至ったという事実に関しては、民団でさえもが反対運動の先頭に立つばかりか、ついにはその二法案を廃案に導くことに大きな寄与をしたという総括(民団内民主派と学生青年組織との統一戦線による総括であり、日本のメディアその他では、そうした運動に着目した専門家などは殆どいなかったような気がする)は、僕らに一定の誇りと今後の運動のさらなる展開の可能性を夢見させた。
 だからこそ、その後には、甚だ抑圧的な本国政府とそれに追随する民団執行部の抑圧体制にも関らず、韓学同は朴正熙大統領の三選改悪反対に打って出ることができた。ところが、そうした成功の結果として、その後の韓国政権や日本政府は、民団内部の民主勢力、自主勢力に対して過酷な反動体制を徹底するようになるのだが、当時は、そんなことを予想できた民主派はそれほど多くなかったのではなかろうか。
 入管法反対運動の成功を、もっぱら民団の民主化の一定の達成として肯定的にしか評価していないように、当時の僕は考えていた。
 しかし、いろんな社会運動の経験を備えた<大人の組織人たち>がまさか、そんな楽観論に浸って、能天気に構えていたわけではなく、それなりに警戒心を募らせながら、反動の嵐に備えていたに違いないが、反動の嵐はそんな警戒心など押しつぶすほどに厳しかった、と今の僕なら考えたいところである。

 因みに、在日関連の二つの法案に対する反対運動では、民団が支部その他、組織全体をフルに動員した。その成果として、観光バスで続々と駆け付けた在日一世の中高年の男女や在日二世の壮年と青年の男女が一体となって、大阪の中心的な大通りを行進し、時には、練り歩きは小走りで意気をあげたりもした、機動隊の過剰警備や挑発に対して、青年層が激怒して隊列を離れては拘束されそうになると、高齢者たちが大きな声で機動隊に抗議するなど、元気で意気軒高の姿には、機動隊も譲歩を余儀なくされて、それを目にした僕たちは大いに感激した。
 しかも、その男女の高齢者たちを巧みにリードする民団中央の専従者は、冗談を随所に交えながら、韓国語と日本語のチャンポンによる当意即妙の統率力さには、行進に参加している人々からは思わぬ哄笑の大波が続くなど、圧倒的な達成感に包まれての解散に至った。
 先にも触れたように、最も見事な統率力を発揮して参加者を讃嘆させた人物は、大阪の中立系の民族学校を卒業後に東京の大学に進み、韓学同中央の委員長も歴任後には、民団中央本部に勤務しながら韓青同や韓学同との連携の中心人物でもあり、僕のような新米大学生でも、名前と評判を耳にしたことがあって、噂以上の能力に驚いた。
 集団の導者としての口八丁手八丁の能力と、それに似合った華々しい閲歴、さらには、その人の父親もまた民団民主派内、とりわけ大阪では最も影響力を備えた人物とのことだった。
 そんな人の家に、僕は何の用なのか今ではまったく思い出せないが、一年時に上級生に連れられて訪れたところ、その家が路地裏にあって、僕の家と比べても慎ましそうな古長屋の一軒であったので、意外な上に、すごく感動を覚えたことがある。
その人は骨太の民族主義者としてつとに著名で、息子三人とも、大阪の在日の民団系の俊才として、また、指導者として卓越した人物として著名だった。
 先にも触れたが、デモ行進を終えての総括会という名の「慰労会」の会場も、上で触れた型とは別人だが、民団内民主派として著名な方が経営する大型焼き肉店で行われると聞いて、僕らは喜んで北大阪の私鉄の小さな駅前の店に駆け付けた。日ごろから、口の卑しさを自認する僕は、食べ物に関することは自分でも不思議なほどに、しかも、それがまるで自慢でもあるかのように、よく覚えているのである。なけなしの特技の一つなのである。
 それはともかく、僕らが入学した年に限っては、とりわけ、僕らの大学の授業が開始される12月以前に限っては、僕の民族関連の活動の拠点は、民団大阪地方本部の二階の隅にあった韓学同大阪本部だった。上でも触れた韓学同大阪の文化祭の準備のために歌や舞踏や伝統楽器の練習などは、同じ建物内の階下にあった民団講堂を用いたが、何か曰くでもありそうな古くて大きなそに講堂、特にその舞台の上に立つと何かしら歴史の重みのようなものが感じられて、緊張感もあって、気持ちが高揚したものだった。だからこそ、合唱練習などでは、まるで僕がその合唱団をリードしているような気持になって、音痴であることまですっかり忘れて、音程外れなのに大声で歌って、周囲を辟易させていた。ただし、そのことに気づいたのは、友人が笑い話として呆れかえりながら教えてくれた結果にすぎず、すっかり手遅れになってからのことだった。
 韓学同は民団の傘下団体の一つとして認可されており、いろいろと便宜を与えられていた、その一つが事務所の無償貸与であり、その他、毎月の活動費(当時は月額3万円)、それ以外にも民団で学生団体担当の文教部長から、折に触れてのカンパという名称での援助もあった。それにもう一つ大きな便宜として、民団社会内では公認された学生団体として、各種の権利が与えられていた。例えば、あくまで僕の想像に過ぎないが、民団地方本部の団長選挙などでは投票権もあったのではなかろうか。少なくとも、団長選挙前の選挙運動の一環として大きな中華料理店での立候補挨拶と饗応の会などには、投票権を持った民団支部の代表などと一緒に招かれて、執行部から委員長あるいは数名の幹部が参加し、僕も一年時にはご相伴に預かったことがある。そんな便宜と引き換えに統制・指示命令とが下されていたわけである。
 そこで民団と傘下団体の一つとしての韓学同大阪が無償で貸し与えられていた事務室兼会議室、そしてそれをも含む民団大阪の建物について説明しておきたい。
 その建物は木造二階建てで、全体として曰く言い難い雰囲気があり、昭和20年代生まれの僕らの世代にとっても、僕ら以前の古い昭和、つまり戦前、戦中、戦後がそのままに残っている建物のように思えたものだった。好きになったことなど一度もなく、いつも違和感や圧迫感を拭えなかったが、僕らが青春の一部を過ごしたことは間違いなく、それなりのノスタルジーもあって、なんと言うか、それなりの愛着もなくはない。
 僕がそれとよく似た感じ方をするのが、大阪と僕との関係である。僕は大阪で生まれ育ったことは間違いないのだが、その大阪のことを誇りに思ったり、好きになったことなどもない。それでいて、その大阪になじみ、それ以上になじんで落ち着ける都市はほかにない。僕の人生のほとんどを過ごしてきて、僕の一部にもなっているに違いない大阪のことを、否定する気にはなれない。好きかと尋ねられたら、好きとも嫌いとも言えず、そこで生まれ育って、そこでいろんなことを学んで生きてきたのだから、自分と同じくらいにいとおしく、その一方では、自分と同じくらいに嫌いでもある。
 さらに言えば、僕は両親が生まれ育った故郷である済州に関しても、よく似た感じ方をする。ただし、済州に対する感じ方は大阪とは少し違って、自らがそのように感じるべく努めた結果のようにも思える。
 ともかく、僕らが大学一年から4年まで通い続けた民団大阪本部の建物とそれが僕に及ぼした何ものかに、僕が今なお持っている感じ方なのである。

2)韓学同事務所と民団大阪本部の建物など
 今では解体されて鉄筋9階建ての近代的ビルになっているが、かつての、つまり、僕らが大学時代に通っていた民団大阪本部とその中にあった韓学同大阪事務所とは、はたしてどんなものだったのか、その来歴と僕らが活用していた頃(少なくとも1969年から1973年まで)の様子について説明したい。建物にまつわる記憶を活用して僕の学生生活の一部を表象してみる。
まずは、その来歴なのだが、それについては昨年9月に亡くなった僕の畏友・塚崎昌之さんから既に15年ほど前に教えてもらった内容を紹介する。

 民団本部の土地は、元は大阪府協和会館です。1949年に朝鮮人連盟が強制解散になったとき、民団のものになった。協和会館は「紀元二千六百年」記念事業として朝鮮人の中堅層を対象に日本精神を鼓吹する修練道場として計画された。具体的な計画は1941年初頭から動き始め、敷地3,000坪、建坪680坪で、皇大神宮(天照大神)を祀る奉拝殿を中心に、1,000名収容の大講堂、みそぎ道場、200名の宿泊施設、2,000坪の運動場を作り、「婦人」のための裁縫、作法などの講習道場も設ける予定であった。
最初の予定地は西淀川区佃町だったが、理由は不明だが、そこでは建設されなかった。建築費60万円のうち50万円は「半島同胞」の醵金を当て込み、協和会が働きかけた結果だろうが、宮内省から下賜金も与えられた。

 その結果、天皇からの「有難い思し召し」があるにも関わらず、醵金に応じない者は「非国民」扱いされたはずである。そして、アジア太平洋戦争開始後の12月になってやっと、敷地が北区中崎町の済生会病院跡と決定し、翌1942年9月に地鎮祭、1943年4月に上棟式、12月に竣工した。
 竣工後、実際にどのように修練道場として使用されたかは不明だが、壮丁訓練、「勤労報国隊」訓練などに活用されたものと思われる。1943年12月の在阪朝鮮台湾学徒兵の壮行出陣式や、1944年8月の「女子勤労挺身隊」の結成式、12月の海軍特別「志願」兵の検査会場としても使用された。
…協和会館(興生会館)は、戦後、朝鮮人連盟、朝鮮人国際労働同盟に「無償貸付」されるなど、朝鮮人たちの様々な活動に利用され、現在は大韓民国民団大阪府地方本部になっている。

 次いでは、以上の塚崎情報とも関連して、僕が経験したその建物とそこでうごめいていた人々についての記憶を蘇らせてみる。

 まずは、今では取り壊されて跡形もなくなった旧民団大阪本部の建物の、歴史的経緯の確認である。
韓学同大阪本部の事務所も間借りしていた中崎町の民団大阪本部の敷地・建物は、解放以前には協和会のものだったが、協和会など在日の管理統制のための実質的には官製団体の施設一般は、解放直後における在日の民族団体の中心であった朝連が占拠し、その編成替え後には総連に引き継がれた。
 ところが、大阪中崎町の土地建物は、珍しく民団のものになった。在日の民族組織としてはむしろ少数派であった建国青年同盟と民団が、それを確保・維持されてきた。

 次いでは、その建物と敷地の見取り図を記述する。
 真ん中には幼稚園の規模の運動場(集会場)、外の道路から正面には、2階建ての木造建築が20m程度の幅で立ち、その一階の右手には大きな講堂が、そして左手には民団本部事務所(事務室、団長室その他)が、そしてその間、つまり建物の玄関を入ったところには、二階へ通じる階段があって、それを上がると左側に伸びる廊下に沿って二つの事務室が並び、奥の方が韓学同の事務所で、手前の方が在日韓国奨学会(徐龍達桃山学院大学教員主宰)の事務所だった。
 その奨学会の事務所には、普段は殆ど無人だが、時折、何をしているかわからない中年男性が一人、その事務所内外をうろついて、僕などの印象では、韓国の情報部員のような雰囲気を漂わせる不愛想な人物で、廊下を行き交う僕ら学生に対して、いかにも冷たい目つきを向けたりもした。
 ところが、そんな僕らの印象は完全に間違っていたことが、それから10年ほど後になって判明した。そのいかつい目つきの不愛想な人物が後には鶴橋駅近くで、韓国朝鮮専門書籍の書店を創設し、僕は韓国から来た大学教師の知人にそこに連れていかれて、紹介を受けたのである。僕は大いに驚いたのは、その人が何と、笑顔を浮かべながら応対してくれたこともあって、人は見かけによらないものだと、学生時代の自分の鑑識眼の誤りが恥ずかしく思ったのも一瞬、その笑顔は一瞬にすぎず、やはりその笑顔の奥には、学生時代にみかけた怖い顔、言い換えると警戒心が解けない顔つきが居座っていそうな感じみして、そんな顔つきでは、お客など寄り付かないのではなどと、余計な心配をした。
 しかし、韓国朝鮮関係の書籍をわざわざ買いに来るような客は、そんな小さなことは気にならないのか、或いは、上客が相手の場合には、その人も愛想が良かったのか、或いは、書籍に関する特別な知識やネットワークを備えての書店創業だったのかもしれない。
 書店の運営はうまくいっているみたいだったし、その書店に出入りする人々を見ていると、そのいかつい中年男性は、韓国でも民主運動と関係を持っていそうにも思えてきた。その種の志を持っていたからこそ書店を開設したのだろうと、あまりにも当然のことに気づくようになった。しかし、僕に関しては、やはり初印象がいつまでも後を引き、その人と、心やすく話したことなど、一度もなかった。
 それはさておいて、廊下の端に位置する韓学同の事務所は、幅が5m×奥行きが7mくらいの長方形で、入り口は廊下に面しており、その廊下の窓からは、運動場を挟んだ向こう側の韓青同の事務所もある2階建ての老朽化した建物が見えた。また、事務所奥(つまり建物の正面側)の窓からは、民団の前を通る幅3メートルくらいの道と民団に出入りする人びとの姿が見下ろせた。
 部屋の真ん中には、古くていかにも重そうな木製の机を4つ対面上に引っ付けて並べてあり、その全体を取り囲んで10名が向かい合って座ることができ、さらにその外側には椅子を置いてさらに7,8名参加の円卓会議もできた。
 その他、部屋の片隅にも事務机が1つあり、その上には書類や本などが乱雑に折り重なっていた。その他で目につくものと言えば。それほど大きくない古い黒板くらいで、壁にはいろんなポスターが貼ってあったが、その内容はほとんど記憶にない。イベントのポスター(例えば、昔の韓青同の全国サマーキャンプや、民団の光復節のポスターだったようなかすかな記憶もある)。
 その部屋で韓学同大阪の会議や学習会、そして事務仕事なども行っており4年間近くもそこに通っていた僕などは、一定の愛着があっておかしくないのだが、生憎とそうでもない。
 建物自体が古く、部屋もそれ相応に汚れて清潔感も欠いており、そこをわざわざ選り好んでそこで集まりたがる学生などいなか ったのではなかろうか。もっぱらアクセスの便利さ、無料で自由に使えるといった利便性があるから利用していたにすぎない。
 汚さ、古さ、その他の欠点なども、当時は僕もさすがに若かったおかげか、あるいはまた、自分の家などとそれほど変わらない環境だったので、あまり気にはならなかったが、今のようにどこでも清潔感がある時代なら、いくら学生でも、特に女子学生の場合には、選り好んでそこで話しあうことなどなかったのではなかろうか。
 そこに週に、2度3度、多いときには毎日、足を運んで事務仕事に励んだり、いろんな会議や学習会に参加していた僕にしては、不思議などほどに、愛着を持てなかった。その最大の理由は、そこが僕らの場所という気持ちを持てなかったからだろう。民団の監視下に置かれているといった恐怖感、もしくは警戒心による圧迫感、束縛感がいつでも心の隅にあったからだろう。
民団は学生団体としての韓学同に対して、親心なんかなかった。少なくとも僕らには、そんなものなど感じられなかった。世の中のことなど何も知らない青二才の跳ね上がりの集まりであり、目を光らせて、時には暴力的な威嚇も用いて、抑圧・統制すべき対象として僕ら韓学同の学生は、民団事務所の二階の韓学同本部に通っていた。
 民団のお偉方たちからすれば、親の心も知らないドラ息子、親のすねをかじりながら、共産主義者仕込みの理屈を習い覚えて、親や周囲を困らせる厄介な青二才などと考え、折あるごとに、学生青年担当の文教部長や監察委員長などが主要メンバーを呼びつけては、脅迫したり懐柔に努めていた。
 僕もそうした対象者の一人で、武道家出身であることを自慢に強面で有名だった文教部長か青年部長のような役職の人(後には、学校法人の理事長にも民団団長にもなったらしい)から、「明るい夜だけではないぞ」などと凄みをきかされて、その芝居がかった台詞とそのいかめしい表情に、思わず笑いそうになったことがある。
 また、かつては総連の役職者で民団に宗旨替えして監察委員長にまで上り詰めた人に「お前はエンゲルスか?」と何のことか僕にはさっぱり分からない台詞を向けられ、さらには目を剥いて睨みつけられて、頭の中が???マークだらけになり、笑いをこらえるのに懸命になったこともある。
 念のために付け加えておくが、僕はマルクスエンゲルス主義者などでは生涯に一度もなったことがないし、そもそもそんな偉い人たちの著書など、当時の学生の多くが齧っていて比較的薄くて優しそうな2,3冊はパラパラ読んだことくらいはある。しかし、正直なところを言えば、その著者たちがどうしてそれほどに世界中に影響力を発揮してきたのか、まったく理解できなかった。そんなわけだから、監察委員長の僕に対する買い被りは、自分のことなどと思えなかった。
 話を韓学同大阪の事務室にもどそう。僕らはそこに4年近く足しげく通ったが、愛着を抱くことはなかったどころか、得体のしれない場所というだけでなく、怖いところでもあった。僕らを敵視する人々である民団事務所の住民たちの根城の2階の奥にある事務室だったので、その一回から集団で押しかけられでもすれば、窓から階下に飛び降りるしか逃げようがないとロケーションの問題もあったが、それ以上にその民団本部の大人たちの僕ら学生に対する目つきの厳しさというか、人間として相手にしてもらえそうにないという印象のせいだった。
 そんな警戒心が強すぎて、会議の資料も決して外に、つまり民団の人々の目に触れないようにするために、会議をしながらメモを取ることさえ避けなくてはならないような状態だった。だから、学生が心置きなく議論できるような環境ではなかった。
僕がその事務所に立ち寄り始めたのは、大学一年の5月ころ、つまり1969年の晩春、たぶん、一階の講堂で開かれた新入生歓迎会の前後のことだった。そして、それ以来4年近く、随分と頻繁に通うことになった。
 国鉄の大阪駅から繁華街を抜けて天六へと通じる市電路を、サウナで有名な大東洋の8階建てのビルを左に見ながら進むと、ついでは道路を挟んで右手に新北京という在日の結婚式会場として有名だった中華料理店が上階3フロアーを占めるビル、そしてその横には総連系の金融機関である朝銀の大きなビルを見て進むと、中崎町の交差点にさしかかり、その十字路を左手に曲がって100mくらい進み、さらに小さな十字路を右に曲がると、左手に民団本部である二階建ての白亜、と言いたいところだが、すっかりそれがくすんだ灰色になった建物があり、それに沿って10mほど進むと、左手に民団事務所の玄関が見える。
 大阪駅からだと、徒歩で15分くらいなので、昼間ならなんてこともないのだが、夜ともなると繁華街のはずれになり、人通りも急に少なくなるので、広い道路端の薄暗がりは、特に若い女性には気持ちの良くないところだったはずで、女学生たちは可能な限り一人歩きは避けたかったはずである。
 もう少しだけ、民団本部の周囲の様子について述べておきたい。
民団本部がある二階建ての建物の奥には、その建物と直角に交わる平屋の建物が伸びており、そこには体育会、軍人会?そして婦人会の事務所などが並んでいた。その三つの組織は民団の傘下団体だったが、大阪の民団は在日の中でも最も右派で韓国の強権的な政権を熱狂的に支持しており、しかみ、在日の最大の人口を誇る大阪の民団ということもあるから、右翼反動の拠点に中でも最も強硬派が、ほかならぬ体育会、軍人会、そして婦人会だったので、それらの三つの団体は隣り合わせた事務所を使用しているように、僕などには感じられた。
 その敷地にはさらに、運動場を挟んで民団の言わば本館と正対する位置にも2階建ての古めかしい建物があって、その入り口の右手には韓青同の事務所があった。但し、その入り口の韓青同事務所を除いた建物全体は、まるでスラム街のアパートのような雰囲気で、中は迷路のように見えるし、得体のしれない雑多な人が暮らしていそうな雰囲気だったので、僕などは怖がりは、すっかり怖けづいて、入って行く気になどならなかった。
 後になって、香港ノワールという名称で一括されることになる映画群を見るようになってから、その舞台が韓青同の建物の雰囲気を僕に想起させた。
 韓青同の事務所と民団本部が正対する位置にあったのは、二つの組織の性質に由来するのかもしれないなどと思ったこともある。韓青同の事務所は元来、建国青年同盟の後身の性格が強い韓青同が、民団の傘下団体というよりも、むしろ民団とは独立し、民団と覇権を争う組織であるという自己認識の現れのようにも見えた。
 その韓青同と比べれば、韓学同はあくまで民団傘下の学生団体にすぎず、実に多様な意味で軟弱、脆弱に思われた。それはおそらく、僕が一時期に、韓学同の活動と並行して韓青同の支部での活動に触れていた経験があってのことだろう。韓学同よりも韓青同の方が、はるかに地域に、そして在日と密着し、それなりの戦闘力を備えているというのが、その時の実感だった。
民団本部や韓青同があった建物、さらにはその間にあった運動場など敷地全体の法的な権利関係がどうだったのか、僕に知りようがないのだが、今では、かつての民団や韓青同の建物は完全になくなって、その跡地に9階建てのビルが建てられて、昔の面影などまったくない。
 それに、韓青同と韓学同は1972年の7・4共同声明以降の反動の嵐を受けて、民団から傘下団体を取り消されて主なメンバーの多くは民団を除名、もしくは停権などの厳しい処分まで受けた。つまり、民団を追放され、その後釜として、統一朝鮮新聞の残党が主導する青年会や学生会が新たに傘下団体として認定され、そのビルのどこかに収まっているはずである。
 しかし、かつては在日の諸団体がその旧建築物の主人だったのに対し、今やそこで最も大事なのは、韓国政府の出先機関としての韓国文化院だろう。つまり、在日の自主的な相互扶助組織としての民団という初志が、その建物に今なお息づいているのかどうかは、僕のように、22歳の時に、つまり、50年も昔に除名処分を食らって以降には、怖くて民団には近寄れないでいる者には皆目、わからない。(ある在日の青春の15に続く)