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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の23

2024-10-04 11:09:40 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の23
第三章
第8節 本文の今後の予定の変更と釈明の2

目次
1) 一斉糾弾闘争との遭遇の余韻(後日譚)の2―朝鮮奨学会と学校現場―
2) 僕が生まれ育った地元の労働青年たちとの交友 
3) 韓青同の支部レベルの活動家や参加者たち
4) 民団傘下の青年組織(韓青同)と学生組織(韓学同)

1)一斉糾弾闘争との遭遇の後日譚の2―朝鮮奨学会と学校現場―
 
 大学入学直後から僕に襲いかかって来た民族主義の大波を受けて、僕なりに迷いと躊躇いの末に関わるようになった学内外の民族的な組織活動は、一年の終盤になって遭遇した兵庫県の高校における一斉糾弾闘争とは対蹠的なものに映った。それだけに僕は、ようやく決めるに至った方向をそのまま突き進むためにも、一斉糾弾闘争の衝撃から目を反らそうとした、と前回の最後のあたりで書いた。
ところが、そのようにして切り捨てたはずの一斉糾弾闘争の潮流は、僕が目を反らしさえすれば視界からきれいさっぱり消え去ってくれるものではなかった。
 当時の僕にはまだ良く分かっていなかったが、その潮流は<在日の歴史と現実と未来>に根差していたものだっただけに、方向性や方法には大きな違いがあったとしても、僕が選んだ民族的活動とも切っても切れない関係にあった。だからこそ、僕自身が意図したわけではないのに、その潮流の一部もしくは断片と、その後も遭遇・接触を繰り返すことになり、僕は腰を引きながらも関わりを持たざるを得なかった。
 例えば、大学4年生時と、卒業を先送りした結果としての5年生時のことだった。
 都心に位置してわが家からはアクセス至便、いつも殆ど誰もおらず、冷暖房完備で読書や勉強や昼寝にも最適な図書室を備えているうえ、昼食はもちろん、時には夕刻の帰路には酒食までご馳走してくれる韓学同の優しい先輩が職員として勤務していたこともあって、暇を見つけては通っていたのが、財団法人朝鮮奨学会の関西支部だった。
 留年すると奨学生の資格を失ったが、それ以前の4年間は継続して奨学金による経済的支援はもちろん、奨学会の多様なイベントや印刷物やネットワークは、僕の学生生活をずいぶんと豊かにしてくれた。
 ついでに言えば、大学院に入ってすぐに学生結婚することになった際には、主礼といって朝鮮式の人前結婚の仲人役を、その奨学会の支部長にお願いしたし、格別に好条件の家庭教師のアルバイトも、さらには大学卒業の際には、就職先の紹介までしていただいた。そして、その会社のトップがわが家にまで足を運び、父に入社の許可を求めるなど積極的に勧誘していただいたのに、生憎と家庭の事情と僕の気持ちの踏ん切りがつかなかったので、入社をお断りすることになって、ご迷惑もおかけした。
 奨学金の支給日を待ち望み、受けとるや否や仲間が集まって、どれだけ飲み食いに励んだかを思い出すと、恥ずかしく申し訳ない限りだが、日本の公的な奨学金その他からシステマチックに排除されていた在日の学生にとって、返済義務のない朝鮮奨学会の給付金はすごくありがたいものだった。僕の場合には特に大学院時代がそうだった。ふたりしてアルバイトを掛け持ちする苦学生夫婦にとって、まさに命綱だった。大学院在学中には、在日もようやく日本育英会の受給資格も認められることになったので、その二つの奨学金があったからこそ、僕らの大学院を終えることができたようなものだった。
 しかし、能力不足なのか何なのか、生憎なことに指定された研究職に就職できなかったので、日本育英会への返済負担が大きく、もし、朝鮮奨学会にも返済義務があったなら、僕ら2人の長い非常勤生活は、はるかに厳しいものになっていただろう。
 それはともかく、まだ学部に在学中に頻繁に奨学会図書室に通っていた頃に戻ると、教育関連で僕の父親代わりだった5親等の伯父が、奨学会の関西支部長と若かりし頃からの親しい友人だったという縁もあったし、頻繁に出没するので使い勝手が良いという理由もあったのか、時にはアルバイトとして奨学会の業務を手伝うこともあった。例えば、一斉糾弾闘争の牙城のひとつだった兵庫県立尼崎工業高校に職員に代わって派遣されたりもした。
 因みに、上で触れた5親等の伯父とは、父の従兄で、統一朝鮮新聞の創立以来の編集長だったが、僕が大学に入学した1969年の秋には、持病の肝臓病の悪化で、失意のままに亡くなった。
 それから30年後には、韓国済州で生まれ育ち、後には韓国の近現代文学の研究者として、また、小説家としても活躍するようになった従兄が、在日の調査で大阪にやって来た際には、大阪城近辺の砲兵工廠跡や真田山の陸軍墓地に続いて、従兄が是非とも5親等の伯父について話を聞きたいと言うので、奨学会の支部長のところにも案内した。
 支部長はその従兄を迎えると、涙を流しながら歓迎してくれ、初対面の2人の感動的な様子を目にして、僕はお邪魔虫と感じたので、ふたりをその場に残して、僕はその場を去ったこともある。一世と僕ら二世の差異を、今さらながらに痛感してのことだった。
さて、尼工での僕の任務は、奨学生に奨学金を支給するのと合わせて、課外活動として在日の渡航史や朝鮮語の初歩などを教えたりして交流することだった。月に一度だけのことだし、たった3,4カ月だけのことだったが、そこでの見聞は僕の一斉糾弾闘争について考える際の大きな材料のひとつとなった。そこで知り合った一人の高校生がすごくなついてくれたので、僕の実家に招待して夕食を一緒にするなどして、その後も長い付き合いを期待していたのだが、尼工では突如として在日教員を正式採用することになり、僕の派遣は取りやめとなったので、その高校生とは二度と会えなくなるなど、期待ははかなく消えた。
 しかし、その後にも大阪府立柴島高校では春休みに限って一週間、課外活動として尼工とよく似た関りを持った。さらに、僕自身の母校である大阪市立東三国中学にもたった1回だけのことだったが、在校生たちや、大阪みおける在日外国人教育運動の中心人物だった教員と交流する機会を得た。
 そうした<にわか職員>としての、とりわけ<尼工>での経験については、以下で既に詳しく論じているので、ここでは繰り返さない。関心のある方は、是非とも参考にしていただきたい。
・『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社、2021年、特に106頁~137頁と151頁~152頁。
・「金時鐘とは何者かー<自分・在日語り>の済州篇―」朝鮮史研究会関西部会、2024年1月27日。そのレジュメは朝鮮史研究会月報に掲載。
・書評への応答;『金時鐘は「在日」をどう語ったか』、『コリア研究』第12号、立命館大学コリア研究センター、2024年3月
以上の文献を必要とされる方は、僕のメールアドレスにその旨と送り先を明記していただければ、メール添付か郵送でお送りします。もちろん、押し売りなので、無料です。

 ついでに言えば 僕が大学時代に関係していた韓学同や朝鮮奨学会その他の、一斉糾弾闘争や民族祭りその他の在日の諸運動との関係についても、以下で詳論している。

「在日の精神史からみた生野民族文化祭の前史―在日の二世以降世代の諸運動と「民族祭り」―、41頁~62頁、『民族まつりの創造と展開』上、論考篇、JSPS科学研究費 基盤研究(C)研究成果報告書、課題番号22520069 2010年度~2013年度 研究代表者 飯田剛史、2014年2月28日
最後に挙げた文献は入手が困難なはずなので、せめて輪郭だけでも窺えるように、章立てなど全体の構成を以下に記して、参考に供しておきたい。

はじめに
1. 民族祭り研究の領域の拡張
2. 民族祭りの前史としての在日の状況と運動史
2、1 在日の2大組織の退潮と新たな潮流の勃興
2、2 在日の韓国籍サイドの状況変化
2、3 在日の韓国籍サイドの「第二極:の青年学生運動その他
3.民族祭りの準備
  3,1 本節の内容について
  3,2 韓国籍サイドの第二極の青年学生組織における民族文化体験
  3,3 小中学校における民族学級の取り組み
  3,4 日本の高校の朝鮮文化研究会(以下、朝文研と略記)
  3,5 朝鮮奨学会
  3,6 在日のキリスト教関係
  3,7 韓国の状況、あるいは運動との関連
まとめに代えて
 
 以上のようにささやかな拙論リストを見るだけでも、僕が一度は遭遇しながら切り捨てたつもりになっていた一斉糾弾闘争ばかりか、途中からそこに招き入れられて、やがてはそのヒーローとして持て囃され、自らもそのように振舞うようになった金時鐘さんに関しても、僕が半世紀にわたって未練がましくこだわってきたこと、さらには、いかにも僕らしい生産効率の悪さが一目瞭然であり、我ながら呆れてしまう。
 しかし、肝腎なのは、いくら時間がかかっても、さらには、いくら歳をとっても、自分が解き明かせない問題に気づいたら、その解明のための努力を諦めないことだと、自らを叱咤しながら、何の役にも立ちそうにないこんな文章を、ちまちまと書き続けている。
 そんな僕の、異様と評されがちな一斉糾弾や金時鐘さんに対する執拗な言及は、在日の近現代史の記述の一部に関する、僕の長年の違和感、とりわけ、1960年以後の在日史記述に関する違和感に端を発している。
 例えば、右翼反動というラベルを貼り付けて一括し、殆ど無視されてきた民団傘下の青年学生組織はもちろん、日本政府と在日の左右の両組織が中立を標榜して共同で運営してきた朝鮮奨学会のとりわけ関西支部が、1960年以降に在日の青年学生たちに及ぼしてきた影響の数々に、しかるべき関心が払われてこなかったことに対して、半世紀近くも僕が温めてきた批判的観点のささやかな結果なのである。
 それはともかく、当時の僕が関わっていた大学内の民族サークルや学外の民族的学生組織の僕も含めたメンバーの殆どが、一斉糾弾闘争における在日の若者と日本人教師との共闘に対して、その内情を理解したうえできちんと対峙できなかったことも、その活動の限界を証している。とりわけ、そうした限界に気づこうともしなかったことは、僕らが数多く冒してきた過誤の中でも大きなもののひとつだったと、今さらながらに思う。だからこそ、一斉糾弾のその後と金時鐘さんとの関係については、これからも書き続けなくてはならないと、自分に改めて言い聞かせている。

2)僕が生まれ育った地元の労働青年たちとの交友と韓青同の活動

 大学一年から二年にかけて、僕が経験しながらも書き落としていたことの二番目は、僕が生まれ育った地域における在日の労働青年たちに対しての、それまでにはなかった角度からの関心を持って、交友を再開するなど、同世代の労働青年の生活と民族的活動の実態に触れ、理解を少しは深めたことである。
 少し年上の幼馴染の人たちの仕事場に足を運び、邪魔になる懸念がありながらも、その働きぶりを見たり、よもやま話を交わしたり、週末の夜には、車に乗せてもらい、一緒にサウナで背中を流しあったりもした。さらには、彼らが中心になっていた韓青同大阪地方本部傘下の支部の活動にも、お客さん扱いながら参加した。
それによって、僕は大学の民族サークルや学外の民族活動と比較対照するなど、韓学同の活動の性質、とりわけ、その限界について考える得難い機会を得た。
 そこで、あくまで韓学同について考える参考資料として、僕が垣間見た在日の労働青年の生活と民族的活動について語りたいのだが、それに先立って、必須の留保条件を提示することで、往々にして生じる誤解の防止に努めておく。
 一つは、同じ在日の青年運動でも、民団傘下の学生、青年運動は、朝鮮総連傘下の学生・青年組織とは、親組織との関係が正反対と思えるほどに異なっていたことである。朝鮮総連とその傘下組織との間には殆ど軋轢・対立はなく、殆ど一枚岩のように映ったし、当事者たちもそのように主張していた。それに対し、民団とその傘下の青年・学生組織との間には厳しい軋轢・対立が常に存在し、同一組織内における与党と野党のような関係だった。
 但し、以上はあくまで、半世紀以上も昔の、僕が学生時代のことに過ぎず、現在の話ではないことを、くれぐれも忘れることなく、この前後の文章を理解していただきたい。
 そうした親団体と傘下団体との関係については、本シリーズの初期の頃に、韓学同と民団との関係に限ってのことだが、詳しく述べたことがあるので、ここでは再論を慎むが、以下のことだけは忘れないように、重ねてお願いしておきたい。
 韓学同や韓青同の活動は、民団の傘下団体でありながらも、むしろその親団体である民団の中枢、さらには、それが依拠する本国政権とは対立し、その結果、監視や数々の処分など厳しい統制を受けながら活動していた。民団の執行部のメンバーは、しばしば韓青同や韓学同のことを、<スイカ>と呼んでいた。外見は青くても、開いてみると、中は真っ赤、つまり、実際は彼らの、そして民団の仇敵である共産主義者の巣窟と言うのだった。
 その延長上では、僕は4年生で韓学同大阪本部の執行部の一員だってたころに、当時の民団大阪本部の監察委員長から、「お前はすっかりエンゲルス気取りやないか。それやったら、朝鮮総連に鞍替えした方が、傷ついて、親を泣かさないで済むのに、馬鹿者め!」と罵倒されたことがある。その人はかつて朝鮮総連のお偉方だったこともある、「やめ総連」だったらしいのだが、それにしては知ったかぶりの、しかも、ひどい曲解だった。自慢じゃないが、僕は生涯、共産主義者だったことは一度もないし、共産主義の聖典などもあまり読んだこともない、やわな日和見の中庸主義者である。したがって、民団のお偉方たち、とりわけ、大阪本部の人たちの<スイカ>呼ばわりは、韓学同をひどく買い被っていたか、あるいは、もっぱら貶めることで弾圧の伏線を敷くためのデマゴギーに過ぎなかった。
 しかし、少なくとも民団とその傘下にある青年・学生団体との関係の一端を理解するには、格好のエピソードだからと、僕は鮮明に記憶している。
 そんなわけで、朝鮮総連の性格をその傘下団体である青年・学生組織にそのまま当てはめても大きく外れないのとは正反対に、民団の性格をその傘下団体である韓青同や韓学同に当てはめると、とんでもない誤解を生じかねない。
 第二に、僕がほんの少し、あくまで<お客さん>のようにして参加した韓青同とは、中央本部や地方本部のそれではなく、地方本部傘下の支部における労働青年たちの活動のことだった。韓青同は中央集権組織なので、総体を一括して論じることも可能だろうが、僕としては最低限、以下のことを抑えたうえで、論じるべきだと考えている。
 韓青同の中央本部はもちろん地方本部も、主導的に活動するのは、専従者を中心にした執行部であり、支部などの労働青年たちの活動はそうした本部の専従者たちの指導や指示や支援を受けて活動していた。つまり、韓青同は、指導層は専従活動家で労働青年ではないのに対し、その指導や支援を受けて地元で活動する実働部隊は労働青年であるといったように、社会的ステイタスや生計手段と活動との関係が異なる二種類の青年たちが、上下関係を構成する組織体だった。
 しかも、その階層は殆ど固定的だった。支部レベルの活動家が地方本部の専従や、さらに中央本部の専従、つまり指導層に<上昇>することも皆無ではなかったが、殆どなかっただろう。他方、地方本部の専従が中央本部の専従になる場合は、少なからずあったように思われるが、その場合には、専従活動家の転勤にすぎず、先に挙げた二つの階層間移動ではなかった。他方、支部の労働青年が中央本部の専従活動家になるといった、二つの階層間の移動を、少なくとも僕は見たことも聞いたこともない。
従って、物質(下部構造)が精神(上部構造)を規定するという言い方に倣えば、韓青同は、二つの下部構造とそれに由来する二つの精神的階層とが、交じり合うことなく併存する組織だった。
 但し、その階層を貧富の階層と重ね合わせることはできない。専従活動家が支部の労働青年たちよりも経済的に豊かというわけではなく、むしろ、その反対だった。専従活動家の給料は微々たるもので、独身ならまだしも、夫婦やさらに子供までいる世帯の生計を支えることはとうてい無理だった。したがって、民族的組織活動とは別の労働によって、たとえ多額ではなくても生計を支えるだけの所得を得ていた支部の労働青年たちの方が、経済的には余裕がある場合が一般的だった。
 逆に言えば、自分の稼ぎで家計を支える必要のない人が専従活動家になったとも言えそうである。経済的に豊かな家の生まれだったり、伴侶に十分な稼ぎがあったり、あるいはまた、大学院生で何らかのアルバイトで最低限の生活費くらいは稼げると言った、経済的条件に恵まれた人、あるいは、もっぱら使命感にかられて<冷や飯>を自ら買って出るような<志が高い>若者が専従活動家になりえた。
 そんな地方本部の専従活動家の活動の一端を、僕は一年近くも韓学同の本部に通ううちに、見聞きして、ある程度は分かるようになった。民団や韓青同大阪本部事務所はもちろん、様々な行事や宴会や、さらには、事務所近くの麻雀屋で時間をつぶしながら交し合う話なども見聞きして、やむを得ないこととは思いながらも、あまり好印象はなかった。ところが、地元の労働青年との交友で目撃した活動と日常生活は、それとは多様な意味で大きく異なるので驚くと共に、地元の労働青年たちの活動や人となりに好奇心を強く刺激され、新鮮な共感を覚えた。

3)韓青同の支部レベルの活動家や参加者たち

 僕が地元で参加した韓青同というのは、平日の昼間は労働に明け暮れて、夜も7時や8時を過ぎてようやく仕事を終えてから、あるいは、週末などのごく限られた時間における活動のことだった。
当時の在日の労働青年たちは、親と一緒に自営業に従事したり、地縁・血縁などで、零細もしくはそれに近い小さな企業、今でいう3Kとかみず商売と呼ばれる職種に雇用され、将来もその経験を活かして同種の業態で独立して自営を目標にするような人が大半だった。
 女性の場合は家業の手伝いが多く、在日が経営する小企業体などで事務仕事や飲食業に従事する者が大半で、男女に違いがあるとすれば、肉体労働の軽重など職種の違いくらいだった。
 零細自営業者にとって必須でありながらも、当時は都市銀行の門戸は在日には狭かので、金融も同業者間や地縁・血縁関係を基盤にした相互扶助が基本であり、その代表が頼母子、手形や小切手の貸し借りなど、不法あるいは不法すれすれの危険な手段に頼るしかなかった。70年代にもなると、それ以前と比べれば、都市銀行も在日に門戸を少しは広くするようになったが、それでも信用保証や担保などに関しての厳しい条件があったので、国籍をはじめとして条件が比較的に緩い在日系の信用組合の貸付に頼るのが中心で、貸付利子などもはるかに高く、不利だった。住宅ローンなども、在日の場合は都市銀行はよほどでなければ受け付けず、その銀行系列の住宅ローン会社の高利の貸付に頼らざるを得ないほどだった。それだけに、「一つこけたら皆こける」といったように、在日の私的金融による連鎖倒産や夜逃げなども多く発生した。 
 労働時間なども現在とは全く異なるハードなものだった。週休二日どころか、週休一日も確保するのは難しく、急ぎの仕事があれば、祝祭日にも勤務が一般的だった。土曜日の半ドンは。日本人の場合であり、在日の労働現場では殆どなかった。
メンバーの殆どが日本の公教育で小・中学校を終えて、高校は定時制に辛うじて通った青年、つまり、中学卒業以前から既に労働に明け暮れていた人が多かった。
 そんな余裕のない青年たちが、ただでさえ限られた余暇に、勉強したり本を読んだりするのは、なかなか難しい。そんな状況におかれながら、民族的活動に喜び勇んで参加する青年が在日の、とりわけ、民団系の家庭で一般的であるはずもないから、組織率も低かった。
 しかし、それだけに、参加者には、何か切実な欲求や喜びがあったのだろう。人恋しさとか、それも厳しい民族差別が大手を振る社会から解放されたひと時の安らぎといったように。
 韓青同の支部レベルの活動家や参加者も、そうした在日の労働青年一般の、多様な縁が何重にも重なった濃密なエスニックコミュニティの一員だった。その一方で、そのようなコミュニティとは断絶していたり、はるかな距離がある青年たちもいたが、そんな青年たちも韓青同の活動に加わることで、そこに色濃く残存していた伝統的なエスニックコミュニティを(再)発見し、そこに一体感や安らぎの時空を見出し、それに虜になった者もいる。その極端な例が、すっかりアウトローの世界に片足を入れていたのに、それとは別の場所の方に、生涯を託せる仲間を見出して、悪の世界から足を洗ったような人もいた。
 その人たちは、自分と同じような労働青年だけでなく、地元の在日コミュニティの老若男女の生活に根を張っていた。いわゆる活動以外に、冠婚葬祭などでも有用な人手として活躍すると同時に、それ自体を楽しんでいた。それが彼らの民族的な日常活動の基盤になっていた。活動と生活とが区別できるものではなかった。
 韓青同の支部の活動は、差別問題その他の権利保障などの生活問題に加えて、祖国の統一、民主化などの政治的スローガンを掲げながらも(本部の専従の指導部の主たる領域)、その実、親睦、商売、就職斡旋、異性の友人紹介、その延長上での恋愛、結婚の斡旋など、実に多様な意味での出会いとその延長上での相互扶助(支部の日常活動の領域)が、必ずしも口外せずとも、より切実で重要なものであった。
 メンバーのリクルートも、「どこそこの三兄弟、三姉妹」といった言葉が意味を持つ親密圏を中核に、その伴侶たちも含めての「友達の友達は友達」式のネットワークが機能しており、そうして構成された集団の活動は、個々人の生活の一部などではなく、個々の生活全般に広く関係するもので、一過性のものにおさまるはずがなく、生涯にわたる堅い絆になることも多かった。

4)民団傘下の青年組織(韓青同)と学生組織(韓学同)の相違
 
支部レベルの、いわば草の根レベルの韓青同の活動の性格を考えるには、学生組織である韓学同と比較すれば、より鮮明になるだろう。分かりやすそうな事項に絞って、箇条書きしてみる。
1.本業の違い;韓学同は建前としては学生が本業のメンバーで構成されていたのに対し、韓青同は高校生(夜間の定時制も含む)や大学生なども含むが、基本的には労働を本業として、経済活動が本業である青年で構成されていた。

2.拠点の違い;韓学同は大学内サークルもしくは民団本部内の一室である韓学同大阪本部(後には朝鮮奨学会関西支部の図書室と、韓学同の寮と呼ばれる一軒家になったが、韓青同は民団支部や分団など民団の建物と地元のメンバーたちの家その他の関連場所だった。
 それもあって、韓学同の成員は一般に、どこで生まれ育とうとも、また、どこで生活をしようとも、所属することになった大学の地域の韓学同組織に属するのが一般的だった(属人主義的?)。但し、敢えて大学が位置する地域の韓学同ではなく、自分が暮らす地域の韓学同に属すことを選び、卒業するとその地域の韓青同で活動し、35歳を過ぎると同じ地域の民団で活動するといったように、生涯の殆どの時期を、自分が生まれ育った地域の組織に優先的に属する場合も少しはあり、そんな人の中には、韓学同地方本部の委員長、韓青同地方本部の委員長、そして最後には民団地方本部の団長となった人もいる。
それに対し、韓青同の成員は日常的に暮らしている地域の韓青同に属するのが普通であり、属地主義とでも呼べそうである。

3. メンバーシップの年齢などの参加資格の違い;韓学同は18歳から22歳(4年幅)が基本なのに対し、韓青同は18歳から35歳(17年幅)までと年齢幅が約4倍とはるかに広いので、高校生、独身青年、子どもがいる家庭の夫や妻といったように多様だ  
以上の単純な対比だけでも、韓青同と韓学同とでは、どちらも同じく大衆組織を謡っていても、その言葉が指し示す内容には大きなずれが生じていた可能性が推察される。

5)学生組織と青年組織における言語の比重とずれ

 学生組織の大衆運動とは、運動の対象が学生大衆であるということが第一義で、それに加えて、民団の関係部署に、学生大衆の総意という建前で提言することで、民団大衆にも間接的に影響力を行使するということも含意されていたが、それはあくまで建前の話であり、それに実効性が感じられることは稀な機会だけのことであった。例えば、入管法反対や外交人学校法案反対運動の場合がそれだった。しかし、それも、韓青同と民団内の民主派と呼ばれていたグループとの共闘の結果であった。しかし、そうした統一戦線が民団内で影響力を発揮できるのは、ごく稀なことであり、しかも、韓国政府に対する直接的批判を含まない場合に限られていたし、統一戦線を除けば、韓学同自体には民団大衆に声を届けるような手段は殆どなかった。
 それに対して、韓青同は民団の各支部とその地域の在日コミュニティに一定の基盤を持ち、動員力も韓学同の比ではないことなども相まって、青年ばかりか、民団の成人大衆全般にまで直接的な影響力を行使する可能性を備えていた。
 以上のような差異を前提にして、韓学同の大衆運動としての在日の学生運動という言葉が意味することを、その実態と照合してみると、言葉がいかに実質を欠いたものであったかがよく分かる。そしてそれだけに、僕などは自分たち、民団内の学生組織の限界を意識しないわけにはいかなかった。そして、相当に限定的なものに過ぎない学生運動に参加していることを忘れないように努めることになった。
 しかし、韓学同のメンバーの中には、そうした厳しい現実に対する反動のようにして、自分たちが在日の前衛的組織としての役割を担うべきと考えるような傾向の学生もいた。
 僕のような腰抜けでも、そんな立派で大層なことが、ついつい口から出てしまうようなこともたまにはあるが、本当のところは、自分たちがしていることは、決してそんなものではないことを自認していた。だからこそ、威勢が良く、切れ味の鋭い弁舌には憧れる一方で、そんな言葉に弄ばれないように警戒して、腰が引けるようなことが多かった。特に労働青年を兼ねた学生が多い大阪の韓学同には、僕のような認識が一般的だったように思っていた。
 だから、そうした考えの延長上では、地域に根差せない韓学同の論理など現実性がないと見做し、それに飽き足らないからこそ学生同盟ではなく、韓青同での活動を選ぶ学生もいた。
 要するに、中央本部や地方本部の公的な文章や言葉を見聞きしているだけでは、韓青同の実態は分かりにくいし、韓学同と韓青同の違いなど分かるはずがないと言いたいのである。
 そんなことを、僕は韓青同の地域の在日コミュニティの一端に根ざした労働青年たちの生活と活動に触れることで痛感した。そして当然、韓学同とは何かについて、懐疑を深くせざるを得なかった。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の24に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の22

2024-08-28 11:03:28 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の22

第三章
第7節 本文の今後の予定の変更と釈明

一年から二年への進級前後の記述の欠落

 大学一年時のことを延々と書き続け、前回でようやくケリをつけたつもりで、今回からは、2 年生への進級以後の、学内サークルと学外の民族組織での活動について書き始めた。
 ところが、一年時の、特に後半に関して書き落としてしまったことが次々と蘇ってきて、ひたすら前に向かって書き進めようとする僕の前に立ちはだかった。
 書き落としたことのどれをとっても、その後の学生時代全般にわたっての僕の民族的活動はもちろんのこと、卒業して半世紀後の現在まで、折に触れて考えながらも、答えが出なかった問題と密接に関係するものばかりだったからである。
 その当時はともかく、歳を重ねるにつれて重要性を痛感するようになってきたそれらの問題を放置したまま前進というのは、気持ち良くないし、許されないことのように思えてきた。
 そこで、今回も含めてこの先の数回にわたっては、予定を完全に変更して、一年終盤から二年への進級前後の時点に立ち戻って、書き落としたことの補充に努めることにした。
 書き落としたこととは、主に以下の3点である。
 一つは、1960年末から70年代中盤まで、兵庫県の高校を中心に吹き荒れていた「一斉糾弾闘争」という、教員と高校生による学校、教師、教育行政、そして社会に対する激しい異議申し立ての運動と、ひょんなことから遭遇して大きなショックを受けておきながら、それをいかにも僕らしい理屈で切り捨てて、目を背けることにしたことである。
 次いでは、僕が生まれ育った地元の在日の青年の労働も含めた日常生活と、彼らの民族的な青年運動との接触である。僕は大学に入って以降、もっぱら大学生や卒業生によるオルグを受けた結果、在日の問題、あるいは、僕の在日としての生き方について考え、大学生グループとともに活動するようになった。
 しかし、それと並行して、幼い頃から知っていた人々も含めた地元の在日の労働青年たちの生活と民族運動とも接触する機会を持った結果、自分が参加している在日の学生運動に対する観点を、よく言えば複眼化、悪く言えば、他者の目で見る経験も少しはできた。そんな僕自身の生活現場と地続きの同世代の人々の現実の見聞、そしてそれが育んだ視点についての話である。
 最後の三つめも、僕の地元における労働にまつわる経験という意味では、上の二番目に挙げたものとよく似ているが、今度は他者を見るのではなく、自らが一時的でも肉体労働者になっての労働生活の経験とそれに対する視点の話なのである。
 僕はそれ以前に、幼い頃からわが家のコウバで汗を流してきたし、その他、アルバイトとして、新聞配達、酒屋の配達、ゴルフのキャディその他の数々の肉体労働の経験が」あったが、わが家のコウバとは別のコウバ内での純粋な厳しい肉体労働は初めてのことだっただけに、自分は<労働者としては半人前のへなちょこ学生>にすぎないのだから、労働云々などと訳の分かったようなことを話す資格などないことを自覚した。
 ところが、そのアルバイトの縁もあって、大学時代を通して、毎日、短時間ながらも知人のコウバの配達など外回りの自動車運転手として働くことになった。そのおかげで大学時代を通して、学生にしては懐具合には余裕があり、下請け孫請け零細自営業者と発注企業の担当者の関係の微妙さや汚さを垣間見た。その結果、零細自営業者の生き残りのために必須の<寝技(賄賂やそれに相当する接待などの利益供与)>も含めた秘訣も分かった気分になって、学生ながらに世の中の表も裏も少しは弁えた一人前の大人のつもりになるなど、鼻持ちならない学生運動家気取りにもなるなど、いろいろとアンバランスで矛盾にまみれた若造になった。
 以下では、以上の3項目について、少し立ち入って記述していく。

兵庫県の高校の一斉糾弾闘争との遭遇。
 正確な日付は今では定かでないが、僕は大学一年生の終盤に、大学では2年上で学内サークルでも学外組織でも中枢の策士的な位置にあった<先輩>に誘われて、兵庫県の高校での在日に関係する研究集会に足を運んだ。
 会場は、昼間は全日制高校、夜間は定時制高校と、二つの県立学校が併設された教育現場だったが、当日は主に定時制高校に関連する県内外に跨る大々的な交流と研究のイベントだった。当時の僕はまだ詳しく知らなかったが、「兵庫県の高校の一斉糾弾闘争」と呼ばれ、被差別部落や在日その他の多様な意味で抑圧された階層の高校生の、教育行政と教員への激しい異議申し立て運動に関係する多様な人々が参加していた。
 圧倒的多数の高校生に加えて、これまた相当数の教員などが参加して、開会式としての短時間の全体集会に続いて、テーマごとの分科会での実践報告と討論が延々と続き、最後に、総括のための全体集会が予定されていた。しかし、僕は分科会が終わった時点で、心身ともに疲れはて、最後の全体集会には参加せずに、後ろめたい気持ちを抱えながら帰路についた。
 何しろ、事前に詳細な情報など持たないままに、しかも、土地勘がまったくない地域での、予想外に大規模で、見るからに多様(特に服装や挙動、言動が、僕が一般にイメージする高校生の枠を超える高校生たち)な人々が参加する集会だったので、着いたとたんに、たじろいでしまうほどだった。
 最初の全体集会は後ろの方で成り行きを見るだけだったが、その後にはいくつかの関心を引く分科会を巡りながら、全般的な状況を把握しようとした。ところが、どの分科会も会場の教室は満杯で、多数を占める高校生たちが次々と、僕は聞いたこともないから、すごく乱暴そうに聞こえる土地言葉(西神戸弁や広島弁)で、教員を糾弾し、あちこちからそれに呼応する、これまた高校生たちのヤジが飛びかう雰囲気にはすっかり圧倒された。
 教員たちは生徒たちの、果てしない詰問と抗議と罵倒を受けて、すっかり言葉をなくし、項垂れていた。
 ところが、分科会報告を聞き、配布資料に目を通すうちに、実はその眼前で項垂れている教員たちの献身的な指導や協力によってこそ、ようやく目覚めた高校生たちが、その教員たちを批判、糾弾するようになったらしく、社会運動のダイナミックで厳しい動態が衝撃的だった。
その中でも特に印象的だったエピソードを二つだけ紹介する。
 ある分科会を覗いたところ、女学生が頬を紅潮させながら、地の言葉を絞り出すように、自分の家庭と育ちについて話していた。涙なしには聞けそうにないその話を聞くうちに、話している女子高生が、僕の大学で同期の新入生の妹であることに気づいて、驚いた。
 大学の在日サークルの歓迎会などで紹介を受けて以降は、少しは言葉を交わすようになった同期生と顔だち、とりわけ大きな目と肌の白さ、そして地の言葉による話しぶりがそっくりだった。そして、父親や兄の苦労話の内容がその同期生と一致していたし、その女生徒は現に兄が病気のせいもあって二浪の末にやっと入学した大学として、僕ら大学の名前をあげていた。
 あの物静かでいかにも恥ずかしがり屋の同期生の妹が、教師に対する詰問と抗議と罵倒が行きかう会場で、自分が通う商業高校の教師の言動を、さらにはそれに代表される教育行政の差別性の深刻さを語る言葉の切実さ、真摯さと厳しさには、普段は感情の浮き沈みが少ないと自認する僕でさえも、涙がこぼれてきそうになって、会場から逃げ出した。
 外の空気を吸って少し気持ちを落ち着けたうえで、次に覗いた分科会では、聞きなれない語彙と語調と抑揚で、すっかり項垂れる教師たちを揶揄したり、厳しく批判したりの、長髪で白面の若者の技に、たちまちのうちに舌を巻いた。
 周囲の反応からすると、高校生ではなく、既に卒業していそうで、口の端に唾の泡をため、色白の顔が蒼白になったり、逆に、真っ赤になったりと、瞬く間の七変化。時には独特な冷笑まで交えて繰り出される語りの名人芸。しかも、そんな彼と会場の高校生たちとが繰り広げる掛け合い漫才のようなやり取りも、余裕たっぷりで見ものだった。
 彼らは、まさに同時代の同じ文化を生きている。つまり、闘いの現場は彼らの文化であると感じた。そのヒーロー的な青年のことを、教員や高校生たちは、鄭(チョン)と繰り返し呼んでいたので、僕の記憶にその名が深く刻まれた。

一斉糾弾闘争と韓学同

 その集会に参加したのは、僕の大学の上級生の誘いによるものだったことは既に触れたが、その当人とも現場で会って、少し言葉を交わしたが、その人が僕を誘ったこと自体が、実に不思議なことだった。僕の見る限り、その人はそこで展開されているアナーキーな運動を好みそうには思えなかったからである。
 僕が見る限り、その人こそは韓学同の組織原則にもっとも忠実で、その原則、運動論とその兵庫県の運動とはまったく相いれそうになかったのに、どうして、そそれも僕なんかを誘ったのか、その時もそうだったが、今でも謎のままである。
 因みに、その人はその他にも、僕を韓学同とは関係なく、むしろ敵対しかねない性質の学習会に誘ったこともあって、それまた不思議だった。学習会と言っても、その人と、彼と知り合いらしい青年と僕の3人だけだった。しかも、その青年というのは、後には韓国系を謡うようになったが、それまでは一貫して中立を標榜していた民族学校の高等部の卒業生で、韓学同と激しく争っていた韓民自青系(統一朝鮮新聞系)の運動に関っていたことがあると自己紹介していた。そんな2人がどうして僕を誘ったのか、訳が分からなかった。
 それはともかく、生野区の在日集住地区のほぼ真ん中にあったその青年の家の2階の部屋で、岩波文庫の毛沢東の『実践論・矛盾論』を一緒に読んだ。しかし、それも数回だけで、有耶無耶なままに消滅した。
 そのうちには一回限りだが、韓国で生まれ育って密航で渡日したという事情もあって、反共ばりばりの学生が参加して、話がまったく通じなくて困ったこともある。そもそも、その学生の実兄が民団の反共武闘派の先頭に立っていた人で、僕は後に、韓学同の執行部のメンバーだった頃には、青年学生を監視し統制する役職についていたその方から、脅迫まがいの言葉に加え、憎しみの眼差しで威嚇されて、すぐにでも暴力を被りそうで怯えたこともあるが、僕は小中学の頃から、その種のことには慣れていて、その怯えと言っても本当は大したことはなかった。その人は役職柄、そのようにするしかなくて、それも度を越すと首になりかねないことを知らないはずがないと、僕なりに見透かしていたからだろう。
 因みに、そのように僕に得体のしれない動きをしていた上級生は、大学卒業後には他の地方都市の大学院に進学して後は、すっかり音沙汰がなくなった。ところが、僕が大学院に進み、結婚直後のことだった。大学院を終えて就職が決まったので大阪に立ち寄るので、ぜひとも会いたいと電話をかけてきた。
 そこで狭い家に来ていただくわけにもいかず、最寄りの駅近くの喫茶店で会うことにしたのだが、その人は単身ではなく、若い女性を同行していた。話を聞くと、その女性は日本人で許嫁とのことで、先輩が大阪の実家のご両親に紹介するために同行したとのことだった。それ自体はなんでもないことで、そうなのかと思ったが、しかし、どうして僕と会うのに、許嫁まで連れてきて紹介したのか、これまた不思議だった。民族主義の手ほどきをした後輩に許嫁を紹介することで、何かの認証でも受けたかったのか、などと思ったりもしたが、先輩の心のうちなど分かるはずもない。
 彼が日本人の女性と結婚することを、後輩の一人に過ぎない僕が認証する必要などあるはずもないし、他人の恋路や婚姻に干渉したい気持ちなど僕にあるはずもなかった。それでも何かしら、その先輩の気持ちも分からないではないと思い、そんな自分のことも不思議だった。
ともかく、その許嫁はすごく疲れて見えて、なんだか可哀そうに思えたし、申し訳ない気分だった。
 僕自身は在日だから日本人と恋愛や結婚などしてはならないとは思わなかった。<民族的に生きる>には、同じ朝鮮人と結婚すべきとも思わなかったし、むしろ思うべきではないとまで、一応は考えていた。
 しかし、現実問題としては、それは避けたいというのが正直なところだった。そのことで両親との軋轢を避けたい気持ちもあったし、結婚生活で必ず生じるであろう民族問題の懸念もあった。
 物心ついて以来、僕は女性に好意を持ちそうになると、殆ど同時に、結婚対象にできるのかと自問する癖がついていた。そんなわけだから、日本人と在日のどちらかを結婚相手に選ばねばならない状況になったら、在日の女性を選ぶことになるだろうと、思っていた。
 しかし、結婚相手に関して、同じく民族組織にいた誰かの認証を受ける必要なんてあるわけがないと考えていたので、その先輩の挙動はやはり納得できなかった。その一方で、その先輩の気持ちも分からないわけではない感じだった。何もかもが妙な感じだった。
 その後にも、その人とはそれから半世紀の間に何度か一緒に酒を飲む機会があって、その度に彼の言動に、奇妙なものを感じ取ることになるのだが、その人のことを批判したり非難したりしたい気持ちなどまったくなくて、ただただ不思議だったが、実は、その不思議は僕が彼の気持ちを理解することを拒んでいるという事態そのものに発しているのかもしれない。
 神戸の集会では、もう一人、意外な知人と出会った。しかし、後で考えると意外でもなんでもなかった。
 韓学同のOBで民族学校の教員をしている人だった。録音機を持参して、現場の様子を勤務する民族学校の生徒たちに紹介するなど、教育資料にするという話だった。それを聞いても、韓学同の運動の方針とは正反対に思えるそんな一斉糾弾闘争に、韓学同のOBまでが参加しているのが何故なのか不思議だった。
 ところが、よくよく考えてみると、そのOBと僕を誘った先輩とは、同じ在日の集住地区で生まれ育ったし、学生組織で知り合ってから特別に親しくしていたふしもある。だから、一斉糾弾闘争の集会のことは、そのOBが民族教育関係のネットワークを通じて情報を仕入れ、僕を誘った上級生にもその情報を伝えるがてらに誘い、そしてその人が今度は僕を誘ったという経路が推 察できて、僕もようやく得心した。
 その集会で垣間見た一斉糾弾闘争は、実に多様な意味で、僕が大学入学以降になって知った民族運動とは違っていた。だから。僕のそれまでの、北か南かといった、あるいは、日本か民族か、といった選択の枠に収まりきらず、僕としては大いに当惑して当然だった。しかも、民族運動の枠内で言えば、北系も南系もどちらもそれなりの組織的規律、あるいは、民主集中制といった組織原則に則っていそうだったのに、一斉糾弾闘争はそれとも決定的に異なり、すごくアナーキーな印象だったから、僕はとうてい対応できそうになかった。
 僕の個人的な資質とは正反対のものだった。僕は他人を糾弾するようなことはできない。そんな人間と自認していた。いくら自分が正しくても、正しくない人を罵倒し、糾弾するようなことも、僕にはできそうにない。少しはそれに似たことはできても、そんなことをするには、自分の正しさに自信なんて持てないし、糾弾で人間が改心するとも思えなかった。運動のある局面では有効であったとしても、その後のいつかに起こりうる反動の恐ろしさもあるなど、いろんな理屈があった。
 しかも、それは僕の資質であると同時に、僕の行動原則のようなものでもあり、その意味で僕とは相いれないと思わざるを得なかった。糾弾スタイルの運動なたなんでもダメというのではない。それが必要な場合もあり、僕もその集会で目撃したスタイルの運動の有効性は認めないわけにはいかなかったが、僕にはそれはできない。殆ど確信だった。
 それにまた、先にも述べたことだが、僕が大学入学以後にさんざん迷った末に選んだサークルや学外組織の民族運動の方向性とも明確に異なりそうな運動に関心を持つ余裕もなかった。
 現に、僕を誘った上級生も、その場で偶然に会ったOBも、僕と同じように、その後はそんな運動に見切りをつけたのだろう。その後にはその集会の話が僕の耳に聞こえてくることはなかった。

一斉糾弾闘争との遭遇の余韻の1―人物―

 ところが、少なくとも僕に関しては、一斉糾弾闘争のスタイルは、僕らが在日として生きる限り、無関係ではおれず、宿命的な何かを含んでいると感じ、それを自分のどこかに潜む脅威のように感じながら生きていくことになりそうな予感があった。そして実際に、いろんな偶然が重なって、その集会絡みの人物や、その運動の延長上に位置する学校などに、腰を引きながらも関わる機会をもつことになる。
 先ずは、人物である。集会ですごく早口の広島弁(実際は東広島の福山の言葉と後で知った)で教師を見事に虚仮にしたりなじったりしていた<ヒーロー>は、その2,3年後に、広島出身の知人の紹介で僕の前に現れ、その後の1年近くの間、僕の近くに住んで、親しく付き合うことになる。
 再会した頃には、彼は詩と漫画に入れ込んで、どちらもその筋では有名な雑誌に投稿して高く評価されているような話だった。当時、NHKの人形芝居で一世を風靡していた井上ひさし原作の「ひょっこりひょうたん島」に入れ込んで、それに関する覚書を自作の挿絵入りで、書いてあるのを見せてもらったこともある。その他、丸っこくて独特な筆跡でびっしり散文や詩を書いており、それも僕に見せてくれた。それを一見して、僕なんかとは比較にならない才能を見て取った僕は、その才能に惚れこんだ。その理由は、僕自身の頭の固さ、学校教育的優等生の限界を、痛烈に嘲笑していそうだったことである。僕のお得意の自虐趣味を刺激したのだろうか。
 ところが、奇妙なことに、そんな彼が僕のことを信頼して、すごく素直に、夢なども語ってくれるので、僕としては困ってしまった。しかも、どこで見つけたのか僕の殴り書きの文章の断片を読んで、もっと書いてほしいなどと、言うのだった。
 今でもそうだが、当時の僕は今以上に、ものを書ける人間ではないと自認していたし、僕の文章に見るべきところなんか、正直なことを除いては何一つないと思っていたから、彼が僕のことを買いかぶっていると思えて負担だった。しかも、彼の社会に対する激烈な批判が呪詛の色合いまで帯びる様子を見るのは、辛かった。そのあげくには、僕自身もその呪詛の対象に含まれていそうに思えたし、彼の将来の悲惨な姿が見えてくる気がした。当然のように、そのまま付き合い続けていると、僕自身が壊れそうで、不安になってきた。
 そんな頃に、彼は忽然として姿を消した。呆気にとられたが、どこかで既にそれを予想し、心配もしていた。その一方で、申し訳ない気もしたが、ほっとする気持ちの方が大きかった。
 彼との別れは、集団運動と個人の生き方の違いはあっても、一斉糾弾闘争に対する僕の感じ方、そして対応と同じだった。関係していると自分が壊れてしまいそうな恐怖感!その壊れかねない自分というのは、自己防衛のための仮面や数々の自己欺瞞なども含めて、幼い頃から懸命に作り上げてきた僕なりのサバイバル作戦に関わっていた。
 それなくしては、在日として先験的に不利な数々の条件や、在日だからこその<神経症>を抱えては、生きてなどいけないと思い、懸命に培ってきたサバイバル戦略!
 たとえ<打たれても>、一度だけ、あるいは、ほどほどの力で打たれるだけで済むような<出る杭>にならなっても良い。落ちこぼれても、なんとか社会にしがみつき、自分と周囲の人々の精神と生活の安定を少しでも確保する術を探しだす努力さえ忘れなければ、とことん排除され、圧殺されるようなことにはなるまい。或いは、そんな目には決して合わないように生きなくてはなるまいといった、相当に能天気な世界観もしくは人生観を、僕は既にもっていた。
 そうした観点からすれば、僕が大学入学後に民族主義の洗礼を受けて選んだ学内サークルや学外組織は、そんな僕でも受け入れる余地を備えた穏当な活動。そして運動であるという理解があったからこその選択だった。一斉糾弾闘争はその対蹠という<勘>があったからこそ、僕はそれを切り捨て、目を反らすことにした。(23に続く。2024年8月28日11時)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の21

2024-08-07 11:19:32 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の21
第三章
6節 大学内の民族サークル(韓歴研)の活動

学内の民族サークル
 古典的な理屈に立てば、大学生の本業のはずの学業、それに関して僕は、待望の授業が始まってからも、毎日を共にする教員や学生一般からはすっかり浮いた感じが深刻にますます深刻になるばかりで、そのまま落ちこぼれていきそうな予感に苛まれていた。
 ところがその一方では、授業が始まったのとあわせて、民族サークルの学内での活動が活発になり、そのメンバーといつでも一緒にいるような気分だった。そのうちに、彼らと一緒にいることが、僕の大学通学の動機、そして目的に成り替わってくれた。
 しかも、それにつれての成り行きで、学外の民族的学生組織(以下では特に明示しない場合は、「韓学同」のこと)の活動にも、誘われるままに、頻繁に参加するようになった。
 したがって、待ちに待った大学正常化のはずが、肝腎の授業には身が入らない代わりに、課外活動としての学内の民族サークルと学外の民族組織の活動が本業のような充実感を覚えて、いそいそと通学していた。
 但し、実はそうした真面目な通学には、他にも切実な理由があった。家で日中に朝寝していたり、テレビをのんびり見ている姿が、早朝からコウバで仕事の準備をしてから、いったん帰宅して朝食をとることもある父の目に入ろうものなら、大声で叱責されて、すぐさまコウバで仕事を手伝うように命令されかねなかった。だからこそ、日中は、何が何でも外出、とりわけ大学にいる体裁を取り繕わねばならなかった。
 それはともかく、そのようにいそいそと通学して、皆勤だった大学内の民族サークルの活動だが、それには大別して二種類のものがあった。
 1つは韓国語の学習会である。週に3回、昼休みに、教養部棟内の空き教室を利用して、主に新入生を対象に行っていたが、そこには教養部の2年生、そして同じキャンパス内の専門学部(文系では法学部、経済学部、文学部、理系では、理学部、基礎工学部)の3、4年生なども、顔見世を兼ねて参加することがあった。
 それとは別に、月に1、2回、朝鮮半島や在日の歴史や政治・社会情勢の学習会もあって、そこに参加するのは、韓国語学習会よりも範囲が広がり、教養部とは別のキャンパスにある専門学部である医歯薬系や工学部の上級生などが参加することもあった。僕はその両方とも見事なまでに皆勤だった。
 先ずは最も頻繁だった韓国語の学習会の様子は以下の通りで、僕が大学時代に最も熱心に、そして楽しく韓国語を学んだのは、その場でのことだった。
 当時の僕らの大学は、1講義が100分(他大学では一般に90分だったが、大学が古典的習慣にこだわっていたのか、あるいは、文部省の指示通達に忠実だったからか)で、午前に2コマ、午後には3コマの授業が組まれ、その間の昼休みは50分だった。
 そこで、その50分のうちの40分ほどを割いて、新入生を主たる対象にした初級の韓国語講習が、隔日の月、水、金と週に3回もあった。参加者は一年生が3~4名、教養部在籍の上級生、つまり2年生が1~4名、先にも触れたように、それ以外にも教養部と同じキャンパスに通う専門学部の3年生などが立ち寄ることもあった。別のキャンパスにある専門学部の学生は、物理的に参加は無理だった。
 指導してくれたのは上級生の中でも韓国語運用能力が目立って高そうな2年生で、その他の2年生はその補助役として、何かと細かい配慮も交えながら、僕ら新入生をサポートしてくれていた。
 それはともかく、昼休みの学習会は、各回の時間は短くても、2日に1回と集中的でコンスタントに回数を重ねるので、言語学習の初級程度の場合には、利点が多かった。短期間の集中的な学習によって、着実に進歩している実感もあるので、学習意欲も高まった。
 しかも、毎回の終了直前には、学んだばかりの韓国語の歌を全員で合唱する時間を繰り込んでいたので、幼稚と嗤われそうで恥ずかしく思いながらも、声を揃えるのは、学生サークルらしくて愉しく、仲間意識も高まった。
 言葉の勉強は、民族云々なんて難しい話で頭を悩ませる必要などなくて、肉体的訓練の趣があり、慣れない音声を聞いたり発話することで、心身が解放されていく快感、韓国の歌の合唱の場合は、その快感がさらに増幅した。
 授業が始まってからも、同じ学部の学生たちとの接触にしくじったという思いが募っていたせいで、授業に出るのも億劫になっていた僕だけに、週3回の昼休みのサークルの学習会がなかったら、もっと早く大学から足が遠のいていただろう。
 要するに、韓歴研の学習会が僕を大学に引き留めてくれていたわけである。ところが、その反面では、韓歴研の活動が僕を授業から遠ざける側面もあった。
 昼休みの学習会に参加するためには、昼食の時間を別に確保することが必須だった。とりわけ、僕などは食事をきちんととることにやかましかった母のしつけなのかどうなのか、三食を決まった時間に摂れないと、体調がおかしくなるばかりか、機嫌も悪くなる。だから、何とかして昼食時間を確保するために、昼食の前後の授業をさぼって昼食時間に充てるようになった。そして、それに味を占めるとたちまちのうちに習慣化してしまい、授業をさぼる癖がすっかり身についた。その結果、大学の授業のためよりも、昼休みの韓国語学習が、僕の通学の動機、目的になっていった。
 大学へ行っても几帳面に授業に出ていたわけでもなく、図書館にこもっていたわけでもなく、もっぱらキャンパスの芝生で寝転び、本を読みながら時間をつぶし、昼近くになると、学食が混雑する前にと逸早く昼食を済ませてから、学習会に参加する。その後にはサークルの先輩たちと、学生会館や、丘の上に位置する大学から丘下にある商店街まで坂道を下って、喫茶店などで話し込む。そレが終わっても、改めて坂を上って、大学キャンパスに戻って授業を受ける気などにはなれない。電車に乗って帰路につくのだが、時間が早すぎると拙いことになりかねないからと、都心にある書店などに立ち寄って、書物を探しては立ち読みに励む。家庭教師のおかげで懐具合が良くなると、サークルで紹介された朝鮮や社会運動その他の本を購入してから、落ち着けそうな喫茶店でそれを読みながら時間を潰し、夕食時になってようやく帰宅する。そんなことで、それなりに充実した気分になれた。
 時には大学の授業を終えてから、サークルの先輩に誘われて都心にある韓学同の事務所まで同行し、各種の学習会や、その資格などあるはずがない執行委員会にまで、オブザーバーの資格で参加するように勧められて、成り行きで参加することもあった。そして、そのついでに事務作業なども手伝ってから、ひそかにお待ちかねだった酒席にももちろん、喜んで同行した。
このようにして、学内サークルの活動とそのメンバーたちとの交友が、僕の大学生活におけるもっとも生き生きとした活動であるだけに、最大の愉しみになった。

朝鮮半島や在日に関する歴史や時事問題の学習会
 韓国語学習以外の活動としては、歴史や時事問題の学習会があった。最初の1,2回は上級生が模範を示すような報告をしたが、それ以降は、指名された新入生が指定された本や論文を読んで、そのレジュメを準備してきて発表する。次いでは、そのようにして口頭発表されたレジュメについての質疑応答を皮切りに、討論が続く。
 自分が指名されると、なにしろ初めてのことなので、なかなかに負担だったが、そうした訓練を通して、社会科学系統の書物や歴史書の読み方を学んでいるという感触があって、発表の問題点の指摘なども受けて、今後の課題なども分かって、励みになった。
 その頃には、家庭教師を掛け持ちでしていたので懐具合も余裕があり、都心の大型書店や梅田桜橋の左翼書専門で有名な本屋などで、目についた書物を次々と買いこむことも楽しみの一つになった。
 そこではアジアアフリカに関する歴史や社会・政治運動の理論書、マルクス・エンゲルス、レーニン、毛沢東など、魯迅選集や世界革命文学全集、黒人文学選集なども買って読んだ。
 因みに、黒人文学はそれから15年ほど後になって、改めて本気になって多くの作品を読んだ。在日文学について考えるにも示唆が多そうな予感があったからである。第一世代は主にマジョリティに対する告発的傾向、第二世代は、それが内向的方向を帯びて、マイノリティ内の分裂・葛藤が主要なテーマになる。男女間、性愛に関する多様な立場や性向の間、経済的階層間、その他、多様な資産(経済、知的、人間関係その他)の有無その他。特に僕が関心を持ったが、考えを突き詰められなかったのは、同性愛者に対する同じマイノリティ集団内での抑圧の問題で、そこには僕の心身が対応できなかった。要するに在日にも重なる問題として考えることに対する怯えのような何かがあった。僕は性愛の問題については触れたくないという傾向をはっきり自覚していて、それがいろんな問題に関する曖昧さとつながってネックになっているという感じ方をしていた。
 その他、岩波書店の「世界」や「朝日ジャーナル」、思想の科学の会の刊行物が主たる情報源になった。思想の科学関連では、とりわけ『転向研究』が僕にとってすごく刺激的で、その中心人物である鶴見俊輔については、在日の知識人との関係は批判的に見ていたが、それはそれとして、実に多くのことを学ばせてもらった。
 鶴見と僕との違いなど数え上げればきりがないのだが、それでも僕の鶴見に対する信頼が揺らいだことは殆どない。だからこそ逆に、鶴見のもっぱら好意的な在日論は相当に警戒して読まねばならないと、考えてきた。
 吉本隆明もわりと読んで面白く思ったが、当時は吉本ファンがあまりにも多かったせいなのか、そんな雰囲気に溶け込むことに対する警戒心が強く働くという、僕お得意の天邪鬼が頭をもたげて、吉本教信者などにはならなかった。そんな人々はむしろ苦手だから。遠ざけた。

個人的な学習と読書
 韓国・朝鮮の多様な問題、とりわけ、民族問題に関する書物もたくさん買って読んだ。当時はアジアアフリカの状況に関する叢書などが次々に刊行されて、大いにお世話になった。それ以外の分野、例えば文学書で僕が選好したのは、何よりも日本の戦後派文学系列の作家たちが中心だった。
 先ずは、中野重治、佐田稲子、野間宏、大岡昇平、武田泰淳、椎名鱗三など、それより少し若い世代となると、開高健、小田実、大江健三郎、井上光晴、三島由紀夫などを、片っぱしから買って読んだ。その中では、三島の世界が無理をしている感じが強いが、すごくわかりやすい作家と印象を持った。知が、そして知的自尊心が、勝ちすぎているとでも言うか。
 最も熱心に読んだのは、中野重治、野間宏、大江健三郎、大岡昇平、井上光晴で、そのうちの野間、大江、大岡は仏文系の作家であることが影響してのこと だったのだろう。中野は転向(者)に対する僕の生来の関心から、武田は高校時代の担任教師が武田を尊敬し、繰り返しその話をしていたからだろう。井上は当時の支配的な知的雰囲気としての反・日共と、在日その他の被圧迫者への関心が関係していた。中野や佐田と関連して、プロレタリア文学全般もずいぶんたくさん読んだ。
 それ以前の時期に活躍した作家としては、私小説作家がそれ以前からの僕の好みでいろんな作家の小説を読んだ。その中では、必ずしも私小説と言えそうにはないけど、島崎藤村の『破戒』は中学時代に読んで、少なからぬ影響を受けた。私小説的要素が強い『新生』を読んだのは大学生になってからで、衝撃だった。『夜明けまで』はその後の30歳代になってから読んだが、僕の好きなタイプの長編小説である。島崎は資質的に僕の好きな作家という感じが、今もある。ユーチューブで夜明け前の朗読などがあれば、睡眠薬代わりに流している。
 戦後派文学とは毛色が異なる、例えば、第三の新人グループの安岡章太郎や遠藤周作、小島信夫、吉行淳之介を読み始めたのは、それから10年ほど後、20歳代末に大学院を終えてからのことだった。そのグループの作家こそが僕の資質にマッチしているのに、在日の僕としては、<社会参加の文学>からこそ学ぶべきで、それを優先すべきと思い込んだ結果だった。遠藤については、上で触れた高校時代の教師の影響があってのことだったが、後には、日本のカトリック作家について考えたくなって、遠藤を中心軸にして多様なカトリック作家を集中的に読むようになった。それについてまともなことは何一つ書けなかったが、本気で読んだ。40歳代のはじめの頃、仏文研究はもちろん、研究などを決定的に断念した頃のことである。
 因みに、同じ戦後文学派でも野間宏を厳しく批判した大西巨人の『神聖喜劇』を読んだのはさらに後の40歳代末のことで、その時になってようやく、僕の文学的世界の狭小さを思い知った。野間にこだわっていたのは徒労だったのではと後悔した。
日本の近現代文学その他で、今も高く評価する谷崎潤一郎を発見したのも、大学院時代のことで、サルトルが谷崎の『細雪』の緻密で鋭敏な細部描写に着目して高く評価していることを知ったことがきっかけだった。したがって、サルトル経由の谷崎読解、あるいは、サルトルの受け売りにすぎなかったのかもしれない。
 内向の世代とされる古井由吉を後に読んだ際(40歳代前半)にもまた、僕の読書の偏狭さを思い知り、それを契機にして僕のドイツ文学経験の浅さと狭さも痛感したので、その穴埋めに懸命になった時期もある。しかし、カフカとトーマス・マンは大学時代に既に読んで、文学の可能性に思いを馳せたことがある。
 その他、後藤明生、小川国夫なども同じ時期に読んで、戦後派一辺倒からようやく抜け出せそうな感触を持ったが、あまりにも遅すぎた。
 石川淳は熱心に、そして、楽しく読んだが、太宰はあまり読まなかった。芥川にもあまり興味をそそられなかった。森鴎外や夏目漱石を懸命に読んだのは、たぶん、石川淳を読んでいたのと同時期で、日本語の表現の多様性などに目覚めた思いだった。その頃には中上健次も愛読していた。村上春樹は同時代人で、20歳代の半ばで読んだ際にはびっくりした。それをどのように評価するかが、日本の現代文学評価のリトマス試験紙になると感じたが、それについて僕が明示的に書ける自信はなかった。小説以上に、村上のサリン事件の被害者に対するインタビューの記録を読んで、村上ほどに良い耳を持った作家は珍しく、僕なんかは話にならないとつくづく思った。しかし、その一方で、僕は村上とはまったく違う道を歩いてきたし、その後も歩いていくことを確信して、その後はすっかり興味をなくした。僕の日本文学経験についてはこの程度にしておこう。
 当時は韓国の近現代文学も日本語翻訳で紹介されるようになっていたので、少しは読んでみた。しかし、僕が主に読んだのは、やはりサルトルや日本の戦後文学の影響が濃厚な社会参加の文学、抵抗文学に偏っており、それからこの歳に至るまで、朝鮮・韓国の近現代文学を系統的に読んだことは一度もない。
 金芝河は大学時代に日本でも大いに話題になっていたので読んでみたが、独裁政権に対する抵抗運動の闘士の主張として読んだにすぎない。しかも、その後の、ヒーロー化現象は僕がのすごく苦手とするという事情もあって、文学作品として彼の詩を読んだことはなかったし、金芝河については語ることを避けていた。
 あの頃に金芝河を絶賛していた人々が、その後の彼の変遷をどのように考えているのか、韓国での評価については最近になってようやく読んで、少しは納得できたが、日本で在日や日本人で、金芝河とその作品を誉めそやしていた人々が、今、どのように金芝河とその文学を、そしてそれをありがたがっていた自分のことなどを、今ではどのように考えているのか、知りたい気もする。
 僕が大学に入った年には、在日作家の李恢成が群像新人賞、金鶴泳が文芸新人賞を授賞するなど、在日文学その他、<問題としての在日>に対する日本のメディアの関心が盛んになっていたので、僕もそれらの作品は読んでみた。そして、僕自身の資質が大きく関係して、前者よりも後者に圧倒的に親近感を覚えた。ところが、そこにとどまっている限り、進歩はないなどと、むしろ否定的に捉えようと努めていた。僕自身の資質などはさておいて、文学としてどう考えるべきかについては、何も考えられないままだった。
 2人の在日の作家の差異と、僕自身のそれらの作家に対する共感の差異が、どのように絡み合っているかを、解きほぐして考えることはまったくできなかった。
 そのはるか後に、竹田青嗣の『在日の根拠』によって、そうした僕の文学観の欠陥や脆弱さを教えられた。金鶴泳に惹かれる自分は退廃的で、負け犬根性にどっぷりと浸っているなどと思い込んでいた僕の感性、その単純さや分析力の欠如は、今でもたいして変わっていそうにない。
 それでも当時と比べれば、<正しい見方>といったものを自分に強制しなくなったことだけは確実で、それだけでも少しは進歩したのかもしれない。
 梁石日は初期の「タクシードライバー」系列の作品に新鮮なものを感じたが、その後に売れ筋になって以降は、文章の粗さと思考の乱暴さ、そして、血統(血)、セックス、バイオレンスのトライアングルの常套的組み合わせなどに、うんざりしてしまい、読む気にならなくなった。
 彼が若い頃に金時鐘たちと雑誌を始めようとしていたころの、背伸びはしながらも、明確にあった批評精神を、かなぐり捨てた抜け殻のベストセラーのように思えて、悲しかった。
 大学院時代には、金石範の公刊された作品はほぼ読んでいたし、その後の50歳代になると、韓国語版もほぼすべて読んだうえで、再度、日本語版に挑戦しながら懸命に考えたことを、論文の形で発表した。とりわけ、日本の読者や批評家が賞賛する金石範の厚化粧で塗りたくったような日本語の文章については、酷評しないではおれなかった。
 金時鐘についてはずいぶんとたくさんの文章を既に書いて発表したので、ここでは触れないでおくが、金石範も金時鐘も日本の知識人の理解の欲望に基づく好意的批評を真に受けるばかりか、それに悪乗りして、初発の志向性を歪曲してしまったように思えて仕方がない。
 因みに、金石範に関する拙論には以下などがある。関心のある方はメールで連絡していただければ、メール添付でお送りしたい。
「済州4・3事件に関する未体験世代の表象 ─済州での予備的インタビュー調査─」
「金石範著『火山島』の言語の<異様さ>について」

 長い脱線だったが、僕が大学生になって以後の、仏文関係以外の大雑把な読書履歴の話はこの程度で打ち止めにして、話の本筋に戻ろう。

(再説)学内サークルの学習会と学外組織の活動について
 大学時代の学内の民族サークルの活動について述べている途中に大いに脱線してしまったので、本筋に戻りたい。
韓国語の学習会以外で、僕らの学内の民族サークルが行っていたのは、歴史や時事問題の学習会だったが、その初期に取り上げたテクストの多くは、日本で出版された朝鮮や在日関連の書物や論文だった。しかし、僕ら一年生が韓国語の初級をなんとか習得した頃になると、韓国の新聞記事や雑誌の評論などの一部を指定して、各自が読んできて感想や疑問点を話しあう形も採用するようになった。
 当時の韓国の新聞や雑誌は、漢字とハングルの混交文で、ハングルの初歩さえ習得すれば、新聞記事や評論などの大意を把握するのは、それほど難しいことではなかった。
 但し、小説や詩などの文学作品は、さすがに初歩的な韓国語能力では歯が立たなかった。僕が韓国の小説をハングル版でまともに読めるようになったのは、4年生なって以降に、大阪外大の朝鮮語科の小説購読の授業に、それを担当していた韓国からの招聘教授に特にお願いして、聴講させてもらったことがきっかけだった。
 その時には、さすがに文学作品は僕程度の韓国語能力ではとうてい歯が立たないことを思い知らされたが、その一方で、いつかは本気でそれに挑戦してみたいと、ひそかに思うようにもなった。
 しかし、その淡い思いが実現したのは、それから10年以上も経ってからのことで、韓国で評判となった『馬鹿たちの行進』という小説を、辞書を引きながら楽しんだ時だった。さらにその延長で韓国の小説の翻訳を試みるようになったのは、それからさらに四半世紀も経ってからのことである。
 済州で生まれ育った僕の従兄で、韓国現代文学の研究者かつ小説家でもあった玄吉彦兄の『戦争ごっこ』(岩波書店刊)の翻訳を試みて、それが韓国の大山文化財団の翻訳部門の出版助成金の対象に選ばれた。
 幸いにも、少し通っていた猪飼野朝鮮語教室で出会って、後には高校と大学文学部の先輩であることが判明したこともあって親しくなった森本由紀子さんの、全面的な協力を得ることができたおかげで、実現したことである。
 その間には、僕の韓国語能力の進歩がもちろんあったが、それ以上に、日本の村上春樹『ノルウェイの森』や谷崎潤一郎『細雪』などの小説の韓国語訳とフランス語訳の両方を、それぞれ、辞書の助けを借りずに、寝転びながら愉しく読み流すことを試した結果だった。
 翻訳は読み手の解釈を、自分が最も自信がある言語で表現することに尽きる。そのように思えたからこそ、能力を超えていることを重々承知の上で、正しい翻訳をなどとしゃちこばって肩に力を入れずに、あくまで小説を楽しんだ結果を、持ち前の訳文で表現すればいい。つまり、日本語への翻訳は、僕の母語に他ならない日本語で僕が楽しめた過程を表現すればいいのだと、居直った結果だった。そんな考えは村上春樹の現代アメリカの小説の翻訳が僕に実例を示してくれたお陰でもあった。僕は同時代の村上にそれなりに多くを負っている。

(再説)大学のクラスメイトたちとの関係
 学業の方は、授業にもクラスメイトにも馴染めないから、教室に行くのも億劫になるなど、さぼり癖がついた。これではダメと自分を叱咤して授業に出ても、かえって<浮いてしまっている自分>を意識するがあまり、集中力を欠いて上の空、教師が何を言っているのか筋道もつかめない。そうなるとますます授業から遠のいてしまう。
 クラスメイトたちとも、その名に相応しい関係になれないまま時間が経過して、周囲はもっぱらそんな変な学生として、僕を扱うようになった。
 そうした疎外感はそれまでの学校経験では初めてのことだったから、どのように対処していいのか、分からなかった。しかし、何度も誘われたあげくに、文学部一年生の懇親コンパに参加したことがあった。つまり文学部定員80名で2クラスの合同コンパに、重い足を引きずりながら、参加したのである。
 その頃には、学生運動のセクト活動にのめりこんだり、本来の志望大学の入試が中止されて仕方なく僕らの大学を受けて入学した学生の中に、やはり本来の志望校を受け直すために受験勉強を再開したせいで、授業はそっちのけになったり、コンパなどの酒席は苦手な学生も少なからずいて、全体の3割に満たない20人強の規模で開かれたコンパに緊張しながらの参加だった。
 なにしろ初めてのことだったし、軽口で話せそうな相手もいないので、注がれるビールや酒の杯を次々に飲み干していると、たまたま僕の真ん前に座っていたが、口をきいたこともない女学生が声をかけてきた。
 「玄さんて、授業では殆どお目にかかったことがないのに、こんな場にはおいでなのね」と、冗談なのか何なのか、澄まし顔で言いながらまともに僕を見つめていた。僕はすっかり不意を衝かれて、ドギマギするだけで、返事ひとつできなかった。そして、そのせいもあって、ますます酒のピッチが早まった結果、すっかり泥酔してしまった。
 散会となっても、まともに歩きもできないので、世話役の三人の男子学生にかわるがわるおぶってもらうなどしながら、家まで連れ帰ってもらった。そのせいで、その後は、醜態をさらけ出したことが恥ずかしくて、ますます授業から遠のくようになった。
 因みに、その時に僕に声をかけてきた女学生については、今から考えても、僕のなんとも滑稽な話があるので、この際、恥を忍んで紹介しておく。

 既に書いたことだが、僕は大学一年時によく読んだ作家のひとりに小田実がおり、彼の「全仕事」という10巻ほどの全集もまとめて買って、愛読していた。その中に、彼の若書き(たぶん、大学時代に書いた)の長編小説があって、その内容がまるで僕らの大学を舞台に、しかも、中心的なヒロインの設定が、先に僕に声をかけてきた女学生とすごく似ていたから、以前からその女学生をモデルにして小田はその小説を書いたのではと、ありえないことを承知しながらも、思っていた。 
 その小説のヒロインは、関西でもお嬢さん学校でありながら、知的なステイタスの高さでも評判の中高を卒業して、その系列の大学には進まず、僕らの大学に進んできた。しかも、その容姿や言動が、僕は一度も言葉を交わしたことなどないのに、まさにその女学生にそっくりのように思えて不思議なほどだった。
 小田実のその小説については、それ以外の詳細はすっかり忘れてしまったので、今ではそれ以上にはなんとも言えないが、小説のヒロインとその女学生とがまるで<生き写し>と、僕はひそかに思っていた。そんな女学生からいきなり、そんな言葉を突き付けられたのだから、僕が言葉を失って、泥酔いしたのも当然だと自分では思っている。
 その女学生は、その後、大学院に進み、東京の著名大学の教員になる。そして、その伴侶となったのも、僕らと同期の同じ大学の学生だったが、大学院は本来の志望大学だったところに進み、その大学の教員となるなど、ふたりとも全くぶれることなく研究者の道を進む。そんなご夫婦、とりわけ、その女学生の目に映った僕の姿を想像すると、今でも冷や汗が出る。それにしても、彼女はどういうつもりで、あんなことを言ったのだろうかと、いまでも不思議で仕方がない。彼女は冗談のつもりでも、その生真面目な才媛の表情と口ぶりからは、そのように感じ取れなかった。そんな彼女と僕とは、何から何までが違っていた。そのように当時に既に思っていたし、今から考えても、まったく別のレベル、そして全く別の方向を向いて生きていた。
 因みに彼女と同じ女子高の卒業生が僕ら文学部の同期に3人いた。1人はさっきから縷々と書いてきた学生、もう一人は、いつも上等そうな服を纏い、いかにもシャキシャキしているが、どこか浮ついた感じがあったが、後には法曹界の公務員になった。最後の一人は、大学に入ったとたんに全共闘の中でも最も過激なセクトの一員となって、僕らの前から姿を消した。彼女のなんとも言えない必死の暗い眼差しを、今でも時々思い出す。どこかで自分と近いものがあるのに、僕は彼女にように一途に生きることは避けて生きてきたし、その後もそうだろうと、当時に既に考えていた。そして、その通りに僕は平々凡々と生きてきたわけである。
 ともかく、そのようにして、落ちこぼれの道をひた走るうちに、実質的には半年にもならなかった一年生の授業も慌ただしく終わり、学年末試験となった。しかし、その試験は、進級を希望する学生を洩れなく進級させるために、レポートの提出さえすれば合格扱いといったように、もっぱら形式的手続きを踏むだけだったので、僕のような学生でも、まるで無理やりみたいに、二年生に押し上げられた。(ある在日の青春の22に続く。2024年8月7日)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の20

2024-07-27 16:43:19 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の20

僕の前に忽然と現れ、別れの言葉もなく消え去った学生たち
 もう一つの、これまたどこまでも茫漠とした話ではあるが、それまた、不正入試と絡んでいそうに思えたという意味では、既述のエピソードと似ている別の話に移りたい。
 僕が大学で周りの日本人学生たちから浮いていそうだったから、声をかけてきた学生が二人いた。一方は上で述べた事件と関係がありそうに思えたが、もう一人は、その事件とは何の関係もないことが明らかだった。しかし、大学に馴染めないという点では僕以上で、僕が大学にしがみつき、いろんな方の好意と便宜の供与のおかげで、辛うじて、しかも、意外なことに卒業にまで漕ぎつけたのに、その2人はやがては大学から完全に姿を消した。少なくとも僕は顔を見たこと噂を聞いたこともない。
 2人とも当時の時代状況の影響もあって、大学になじめなかったようで、その意味では同類であった僕も含めて3人の、先が見えない各人各様の彷徨の断片だけとも、ぜひともお伝えしたい。
 先ずは、僕よりも一年早く僕らの大学の医学部に入学したが、2年生に上がるに際して、あるいは留年でもしたのか、ともかく、文学部への転部などと前例がなさそうなことを考えた。そこで、学校当局に相談するのと並行して、主に文学部一年生を対象とした英語の授業に参加して状況把握に努めていた。学年は僕よりも1年上だが、浪人生活が長かったので、実年齢では僕よりも3,4歳年長の在日二世だった。
 その他、その人が僕に少しずつもらした事情は、次のようなことだった。医学部に在籍しているが、まったく性に合わないので、文学部、それもできれば英文学科に転部したいと考えている。教務課などとも相談しているが、何かと分からないことが多いので、わかる範囲で教えてもらえないか。躊躇いながら、おずおずと言葉を選びながら語ってくれた。
 どうしてそんな相談を、選りによって僕みたいに頼りがいなどなさそう学生に持ち掛けたのか、最初は不思議だったし、少し狼狽えた
 しかし、よくよく考えてみると、他の学生たちとはなんとなく様子が違う僕だからこそ、話しかけやすかったのではないかと、考え直した。
 それにまた、教師が授業を始めるにあたって点呼をとった際の、僕の姓が漢字一字らしかったので、自分と同じく在日であることを確信して、親近感(同類)のようなものを覚えたので、あえて僕に、ということだったのだろう。因みに、その人も漢字一字の民族姓の日本語の音読みを名乗っていることに、出席の点呼の時点で僕も気づいていた。
見るからに繊細そうで、黒縁眼鏡の奥で光る眼が優しく見えた。
 そんな様子になんとなく好感を持ったので、僕なんかでもできそうなことがあれば、何でもしてあげたいと思った。ところが、僕にできそうなことなど何一つ思いあたらなかった。
 そこで、学内の在日サークルである「韓歴研」の4人の上級生に、その人のことを尋ねてみたところ、すぐには返事を憚る気配があったので、何かがありそうに思えてきて、ますます関心が募った。
 そこで、機会あるごとにその人のことを仄めかしているうちに、おぼろげながら浮かび上がってきたのが、次のようなことだった。
 その人は在日の非常に裕福な家の長男で、大学進学に際しては、本人としては芸術系を志望していた。ところが、両親の強い希望と懇請を拒めず、医学部への進学を目指したが、あえなく不合格だったので、浪人生活を始めた。ところが、その矢先に、両親が一緒に交通事故で亡くなってしまい、二人の弟妹とあわせて三人の子どもだけが残された。
 幸いなことに、事故の巨額の保険金もさることながら、元来、相当に裕福な家庭だったので、経済的には何の支障もなかった。しかも、父か母の妹の叔母が近く、あるいは同居して日常生活の面倒をみてくれるなど、大きな支障はなかった。しかし、遺族の長男としては、両親の遺志が生前以上に重くのしかかってきたので、やはり医学部に進むことを改めて決意して浪人生活を重ねた末に、難関で有名な僕らの大学の医学部に合格した。二浪か三浪のあげくの合格だった。
 そして入学した当初には、在日サークルに少し顔を出していたが、その後はすっかり足が遠のくばかりか、同じ医学部の在日の同級生の話では、大学にも顔を出さなくなっていたので、進級は難しいと心配していた、とのことだった。
 しかし、分かったのはそこまでで、そんな苦労の果てに医学部に入学した学生が、二年に上がる際には、あるいは、留年したせいか、どうして文学部への転部を考えて学校に再び姿を現すようになったのか、その事情は誰一人として知らなかったし、そもそも転部の話も僕から聞いて初めて知ったらしかった。
 しかも、ちょうどそんな頃に、例の不正入試事件がメディアを賑わすようになったので、その人の医学部合格、そしてその後の転部希望などすべてが、もしかしてあの不正入試事件と絡んでいるのではないかと心配に、といかにも心配そうに医学部の上級生は漏らしていた。
 誰が言い出したわけでもないのだが、その疑惑を在日サークルの上級生たちは既に暗黙裡に共有しており、その人が転部を希望しているといった、誰も想像していなかった話を僕が持ち出すと、不正入試の疑惑が募り、緊張で口が重くなった、と言うのだった。
 そして、そんな真偽定かでない疑惑を口にするのは、本人に失礼だし申し訳ないので、今後はそんな疑惑を蒸し返さないことを約束して、その話は終わりとなった。そしてその後は、少なくともその在日サークルでは、それに関連した話が出てくることはなかった。
 ところが、僕の頭の中では、その人の経歴、あの優しい表情と声、それらが入試に関する疑惑とすっかり繋がってしまうなど、困ったことになった。
 それはさておいて、あの人がなんとか今後の道を切り開けるように、できそうことがあったらなんでもしたいと思っていたが、その後はその人が僕の前に姿を現すことはなくなり、消息が届くこともなかった。
 そこでいろいろと想像を巡らしてみた。文学部への転部は実現しなかったのだろう。もしそれが実現していたら、教養部ではともかく、文学部の小さな校舎なら、同じ授業を受けなくても、玄関口や廊下ですれ違う機会がきっとあったはずである。しかみ、英文科を志望しているという話だったので、同じく外国文化・言語の専攻である仏文科とは、研究室や演習室が同じ階にあるので、通りがかりに顔を合わせないはずがなかった。
 それでは、転部が実現しなかったのなら、そのまま医学部に通い続けたのだろうか。もしそうなら、医学部は僕が通うキャンパスとは全く別の場所にあるので、ふたりが偶然にすれ違うような可能性はほぼ皆無なのだから、その可能性の方が高そうなのだが、実際には、その可能性は殆どないと僕は思っていた。あの人の様子から、医学部で勉強を続けることができそうには思えなかった。
 以上のように考えていくと、あの人はその後、大学を退学した可能性が最も高そうである。しかし、だからと言って、それが悪いなどとは僕には思えなかった。その人が、どこかで元気に暮らしていれば十分であり、そんなイメージを膨らまそうと試みた。ところが、そのイメージはリアリティを伴ったものにはならず、深い霧にすっぽりと包まれた幻のようなもの以上にはならなかった。
 因みに、以上のような体験や噂話を思い返すうちに、「火のないところに煙は立たない」という諺がしきりに頭に浮かんできて、それについて考えてみた。
 取り立てて目新しいことなど何ひとつなさそうなのだが、僕なりに考えたことの大筋だけでも紹介しておきたい。
 その諺における<火>とは何か。物理現象としての火ではないのはもちろんで、煙もしかりである。その諺はもっぱら比喩で成り立っていることもあって、カバーできる領域も甚だ広範囲である。人間の思念、例えば、疑惑、羨望、敵意、好意、推察、想像など、すべてが火になりうる。煙も同じで、何だって煙になりうる。
 そうした理屈の延長上で言えば、火のないところなんてどこにもなく、煙もどこにでも立つ火があると想定したところに、後付けで、煙を想定することだって、簡単にできる。先に煙があって、その根拠として火を見つける(でっちあげる)こともよくなされる。どちらに優先権があるなんて、先験的に決まっているわけでもない。
 在日だから、金持ちだから、さらにはその二つの条件を満たしているから、何らかの行為、例えば、不正行為の蓋然性を想定する。そのとたんに、煙としての行為や事実が、くっきりと幻視され、そのあげくには実体化される。
 その種のことを免れるのは難しい。手軽で理屈にかなっていそうに思う人が多いからだろう。それほどお手軽な単純論理だからである。レイシストだけがすることではない。在日の特権なんてことを誰かが冗談半分で言ったとたんに、在日には特権があるという話がまことしやかに語られ、滑稽なほどに常套的なストーリーが実体視される。
 在日特権を云々する人には、在日の生活を実際に体験してもらいたいと思ったりもするが、そんなことを引き受ける殊勝な人などいそうにない。そこで、せめて、自分がその1人であるマジョリティが先験的に担っている特権の数々を、自分の生活の中に探し出す努力でもしてもらいたいものだが、そんなことは望み薄である。そもそも、自分だけを見ている限り、特権を認識できるわけがなく、マイノリティの実態とマジョリティのそれとの比較からしか、マジョリティの特権など把握できず、比較する目を養う気もない者に、そんなものを探し出せるわけがない。
 なんとも情けなく辛いことだが、そんな世界に僕らは生きている。だからこそ、少しでも生きがたさを軽減するためには、マジョリティであれマイノリティであれ、同時代を生きている者としての最低限の相互了解のきっかけになりうる言葉を見出す努力を続けるしかない。見果てぬ夢かもしれないが、夢を見るくらいのことなら、誰の許しも求めずに、自分で楽しく試みながら生きていきたいものである。

純な魂の一瞬のきらめき
 さて、転部を希望していた人と僕との触れ合いは、教室でいきなり話しかけられて始まり、その後もその授業だけは一緒だったので、横に座って100分の授業を2,3回くらい受けながらの言葉のやり取りがあった。だから、その間に言葉を交わしたのは、総計でも15分から20分くらいに過ぎなかった。
 それでも人間というのは面白いもので、黒縁眼鏡の奥の気弱そうで、なんとも優しく気品のある瞳の輝き、そして、低くて柔らかく余韻のある声は、半世紀後の今でも僕の記憶に残っている。
 その瞳や声に、純で高貴な魂の瞬きのようなものを。僕は一瞬ながら、捉えたような気がする。ほんの一瞬のことだったが、そんな瞬きを感知した。それだけに、その後の僕がその得難い瞬間を人生の糧にすべく努めていたら、こんな無様な人生にならなかったかもしれない、などと後悔に苛まれる。またそれとは真逆に、一瞬だけでもそんなものを感知できたからこそ、僕の恥多い人生にも、少しは得るものがあったのではないかと、居直ってみたい気持ちもある。
 そしてそんな居直りの延長上では、僕はこれまでの人生で、何度もそんな瞬きに遭遇してきたのではないか。いたるところでほんの一瞬でも、そんなささやかな経験を得たからこそ、僕をこれまで生きてこられたのかもしれない。そう思って、いきなり愉快になってきたりもする。今後も、そんな瞬きを、自らは発することができなくても、自分の周囲に見出し、見失わないように、心して毎日を送りたい。
 そのためにも、半世紀以上も前に、僕とすれ違いざまに少し言葉を交わしておきながら、その後に別れの言葉もなく姿を消してしまった人物たちのことを、しっかりと再想起しておきたいから、こんな文章を書いているのだろう。
 そんな人物として、在日とも不正入試事件とも無関係だが、大学合格後の長い宙ぶらりんの自宅待機中に、アルバイトその他に明け暮れ、大学とそこにいる学生たちに馴染む機会を持てないまま、大学から姿を消してしまった学生の話をしておきたい。
その人は、僕と同じで、文学趣味とは何の縁もなさそうなのに、何かの拍子で、<文学や本物の学問や生き方>といった雲をつかむような<純真素朴な想い>に囚われて文学部に入学したものの、そんな思いつきを内実化する手立てを見つけられないままに、そうした<夢>なんて自分の厳しい人生とは無縁なことに気づくなどして、大学から足が遠のくうちに、面倒くさくなって大学と縁を切ってしまったように僕は思っている。
 その人が僕に少しずつ語ってくれた断片的な話をまとめると、次のようなことだった。
 関西のある公立高校の野球部員だった時に、その高校が随分と久しぶりに春の甲子園に出場することになって、サードのレギュラーとして出場の機会を得た。卒業後には2年の浪人生活を経て、僕と同じ年度に僕と同じ大学の文学部に合格した。ドイツ文学を専攻するつもりと言っていたので、その理由を尋ねたところ、僕にはあまり納得のいく話ではなかったし、ドイツ文学のいったい何を研究したいのかも定かではなかった。
 要するに、僕とほとんど同類の気配があった。漠然ながらも、社会に無用な学問だからこそ、社会に無用で、そうでありたいと願っている自分に向いているのではないかと、<斜に構えた自分探し>のために外国文学を選択したのだろう。彼の断片的な話を、自分に照らしてそのように理解した。
 英語の授業に出てみたところ、そこにいたたった3人の学生の中でも僕に話しかけてきたのも、僕と同類のように感じたからだろう。話しかけられた僕の方も、初対面にしては、いろんな質問を返したのも、彼が僕と同類という臭いを嗅ぎつけ、しかも、彼よりも僕の方が学校の事情に詳しそうな気がして、何かの役に立ちたいと思ったからだった。
 ところが、その後には、2,3度、そしてその半年後に1度だけ、学内ですれ違いざまに言葉を交わしたが、その後はすっかり見かけなくなった。学校に馴染めず、早々とさじを投げて中退したのだろう。しかし、それは自主退学といった何か潔さを感じさせるものなどではなく、なんとなく足が遠のいたあげくの、なし崩しのものだったのではと、僕は推察し、もしそうなら、僕も彼と同じ道を歩んでもおかしくないように思った。
 しかし、だからこそ、僕は彼のそんな道程を反面教師のようにして、大学にしがみつくことになったのかもしれない。
僕が社会に出る前の最後の猶予期間として与えられた大学生活を捨てて、コウバに閉じ込められて一生を過ごすことになるなんて、断じて避けたいという切実な思いが僕にはあったのだろう。
 因みに、僕と彼とが2年生で授業が一緒になったのは英語の授業だったが、僕と彼とが同類の人間、そして学生であることを証明するような事情があってのことだった。
 その英語の担当教員は厳しさで有名だったらしく、その授業の選択の自由が学生側にあることを知っていた学生はすべて、その教師の授業を回避した。
 ところが、僕ら4人だけは、選択の権利が僕らにあることも、その教師が格別に厳しいという評判であることも知らずに、その教師の授業が必修と思い込んでいたからこそ、その教室で教師の登場を待っていた。
 いくら待っても他の学生が来ないのを不思議に思いながらも待っていたのは、さすがに多くなく、僕も含めて4名だけだった。
 僕以外は既に紹介した医学部からの転部希望の上級生、もう一人が、神戸の元甲子園球児、そしてもう一人が理学部の学生だった。
 そのうちの元甲子園球児と医学部からの転部希望の学生は、やがてその授業に来なくなったので、結局は理学部の学生と僕の二人だけが春学期中、厳しい教師の指導で苦しむことになった。そして、7月も半ばになってようやく、僕らも、先に紹介した選択必修のことなどを知るようになったのだが、既に時遅しだった。
 その授業に居合わせた4人の学生の共通点は、大学に馴染めず、学生にとって必須の常識を欠いていることだった。やがて姿を消した2人と僕以外の、理学部の学生がその後にどうなったのかも、僕は全く知らない。英語の授業が半期で終わってからは、会ったこともない。そもそも、一緒に授業を受けながら、殆ど言葉も交わしたことがなかったくらいだから、その後の消息が伝わってくるはずもない。
 そんなことからも察しがつくように、途中で脱落した2人の学生(元甲子園球児と医学部からの転部希望者)からすれば、僕のことを、まだ少しは学校事情を知る者と思えたからこそ、頼りにしようとしたのだろう。他の学生からは浮いた印象があるからこそ、完全に浮いてしまっていた彼らからすれば、気安く話しかけることができたのだろう。
 そのように僕やその他の学生を見て、微妙な匙加減ができたからには、途中から姿を消した2人も、世の中を生きのびる術のようなことを、全く知らなくはなく、その後もなんとか生き延びたに違いない。そもそも、<大学がすべて>なんかでないことを既に予測できて、早めに決断したのだから、僕なんかよりも賢明だったのだろう。
 因みに、春学期の終わりまで僕と一緒にその授業を受けた理学部の学生とは、その間に言葉を交わすことも殆どないままに、できの悪い2人の学生に対する英語教師の癇癪にも、素知らぬふりで我慢をつづけた。
 そんな彼に対して、同志愛とか戦友といった大層な気持ちも持たなかったのが、不思議のようでもあるが、彼は元来、すごく無口らしく、僕の方は無理することなくそんな彼に合わせることができた。
 癇癪持ちの英語教員も、当初は僕らの学力不足に対する苛立ちが激しかったが、何を言っても効き目がなさそうな僕らの態度を見て、いち早く諦めてしまい、僕ら2人に関心を示さなくなった。そんな調子で、教師と僕ら二人は数か月を何とかやり過ごした。
 世の中、何が幸いし、何が災いするのか、わかったものでない。そんなこともその大学二年生の春学期に、期せずして学んだ感じだった。
(2024年7月26日)(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の21に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の19

2024-07-24 16:19:04 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の19
第三章
5節 奇妙な関係と奇妙な事件の絡み合い

周囲から浮き上がった学生
 教養部の頃(入学後2年間)には、親しく言葉を交わす学生など一人もいなかった。高校の一年時に同じクラスで、大学でも文学部仏語仏文学専攻で一緒になって驚いた女子学生とも、目で挨拶する程度の関係はそのままだった。互いに悪感情を持っているはずはなかったが、幼い頃から僕は女の子と親しく交わる子どもではなく、それが大学に入ったからといって変わるわけがなかった。
 3年で専門の文学部に上がると、院生も交えた専攻単位の授業が増えた。しかし、とりわけ多くなった演習科目などでは、院生も含めた受講生数はごく限られ、10人を超えることは殆どなく、教員と受講生がテーブルを囲んでの演習形式だったので、それ以前と比べると言葉を交わす相手や回数はずいぶんと増えた。
 中でも、すごくフレンドリーで愛煙家で挙動の何もかもがお洒落な非常勤の先生は、授業を始めるにあたって、先ずは煙草を取り出して、学生たちにも「どうぞどうぞ」と勧めてから、自らも実に幸せそうに煙草を吸いながら、語り始めた。するとその教室内には、密室的で濃密な親密感が醸し出されるなど、それまでに経験したことがない授業となった。しかも、その対象テクストが、マルセル・プルーストの『失われし時を求めて』というフランス20世紀を代表する小説で、1頁にわたってピリオドがひとつもないような長文で構成された文章の読解など、当時の僕には至難な業だった。そこで致し方なく、高校一年で同じクラスだった女子学生に教えを乞うなんて、僕にはそれまで一度もなかったことを敢えてすることにもなった。その女子学生も僕がそんなことで話しかけてきたことに驚きながらも、懇切丁寧に教えてくれた。その他、院生のとりわけ女子の院生が、できの悪い弟のことを心配するように、僕なんかに何かと親切にしてくれるのには驚き、申し訳なかった。
 だからと言って、僕が特定の誰かと親しくなるようなことはなかった。研究室を取り仕切っていた助手が、僕らよりもはるか年長の同窓の独身女性で、研究室を自分を中心にしたサロン化することを生きがいにしていそうな印象で、スイーツ、とりわけフランス菓子の話題を中心に、のべつ幕なしに話し続けるのは耐えがたく、そんな場から次第に足が遠のくなど、仏文科の事情その他のフランス文学研究に関係する知識に耳学問であっても触れる機会を自ら捨てることになった。
 その一方で、学内の在日サークルで知り合った在日の友人と高校が同窓で親しい関係にあることが判明した仏文専攻の学生とは、その共通の友人のことなどをきっかけにして気楽に話せるようになった。ところが、親しくなるには必須の、共通の関心が見つからなかった。彼は実兄がプロ棋士であることも関係していたのだろうが、大学棋界では有名だった僕らの大学将棋部でも敵を見つけにくいほどのレベルらしく、中学時代の一時期に将棋に入れ込んだことのある僕でも、一緒に将棋を指したり、将棋の話ができそうな相手ではなかった。また、文学に関しては日本の耽美派に入れ込んでいて、その影響がよくわかる詩を書いていて、僕にも見せてくれたが、もっぱら社会参加の文学に傾倒していた僕などには、彼の詩は縁遠くて、僕なんかとは全く別世界に生きていそうに思えて、立ち入った話ができそうに思えなかった。
 それにまた、彼自身が友人知人と群れるのは苦手らしく、誰が相手でも慎重に距離をとっているのを見ているうちに、少なくとも大学の学生を相手にした場合は、僕もそのスタイルに倣うようになった。
 要するに、僕は各年度が80人(あるいは100人だったか、記憶が曖昧である)程度の文学部の同期生の中に、卒業してからも付き合いたいと思える学生はひとりもできなかった。
 必ずしも僕が望んだことではないが、自分が周囲から少し浮きあがった存在であるという自覚を僕は強く持っていた。しかし、そんな学生が稀ということもなく、周囲になじまない学生が、高校時代と比べるとずいぶんと多そうで、必ずしも僕が特別ということでもなかった。そして、それは僕らの入学直前の2、3年間、そして僕らが入学して以降の半年間にも続いていた学生叛乱の影響が大きかったのだろう。
 僕自身の場合は、自分の民族的な帰属意識と、それと密接に関連して僕が持つようになっていた日本社会と日本人一般に対する<斜に構えた見方や態度>のせいで、周囲の日本人学生とは馴染めないでいることを、ある程度は仕方のないことだと諦めていた。
 しかし他方では、そのように周囲と毛色が少し異なっていた僕だからこそ、他の学生たちとは少し異なった出来事が押し寄せてくるといった感触を、折に触れて持ったし、今でもその当時の感触は、状況をそれなりに把握した結果だったように思っている。
 但し、以上のことは僕の大学時代の生活全般を視野に取り込んだ記述ではない。そのことを、本文の読者なら既に気づいているのではなかろうか。僕は大学の合格発表があってから、大学のクラスメイトたちと知り合うまでの間に、大学内外の同世代の<同胞>集団や個人が執拗に説く民族主義的世界観との対応に大わらわであり、それと同時に、そんな人々との交遊に全身がどっぷり浸っている状態だった。
 要するに、僕の大学生としての生活の中心は大学にはなく、大学でもごく一部の同胞サークルの人々と学外の同胞組織にあった。そんな僕に、大学の日本人学生との関係が割って入る隙間や余裕など殆どなく、僕の教養部時代のクラスメイトその他の日本人学生との希薄な関係も、そんな入学初期の僕を取り巻いていた状況の必然的帰結と言う側面があった。
 それはともかく、上でも少し触れたが、僕がクラスメイト一般から浮き上がっていたからこそ、経験できたこともいろいろとあり、そうした出来事には、当時の時代相のうちでも今やすっかり忘れさられた側面が窺えそうなこともあった。ところが、それについて語ろうとする僕自身でも、当時も今も、それが一体、実際にはどういうことだったのかがいたって曖昧で、考えれば考えるほど訳が分からなくなる。それなのに、あるいは、そうだからこそか、それから半世紀以上の歳月が流れた現在でも、ふと思い出して、その後はしばらく気になる。
 そんな出来事のいくつかを紹介したいのだが、おそらくは読めば分かって頂けることだろうが、なんとしても誤解を避けるために、あらかじめ執拗すぎると思われかねない断り書きを、付しておきたい。
 以下で僕が語る事柄のうちでも、僕が聞いたり見たり感じたりしたことなどは、それが事実だったと確信があったから記述している。しかし、それ以外の噂など僕が伝聞で仕入れた事柄の真実(事実)性については、僕は保証ができない。しかも、それをまるで真実と早とちりでもされると、それに関係する人物のプライバシーを侵害したり、虚偽事実の流布の嫌疑までかけられかねない。
 それだけに、僕自身も緊張し、意識的に曖昧な記述になったり、甚だ理解が難しい文章になったりもしている。そうした点に関しては、くれぐれもご理解とご寛恕のうえで、読んでいただけるように謹んでお願いしておきたい。

不正入試事件とその当事者ではないかという疑惑

 僕が4月に入学した大学の1年の授業はその年(1969年)も終わりに近い12月になってようやく本格的に始まり、翌年(1970年)の4月末には終わり、すぐさま、もっぱら体裁を整えることだけを目的とした学年末試験も済ませた。そして、ほんの短期間の春季休暇を挟んで5月中旬には2年に進級といった具合に、<大学正常化>に至るまでの半年以上の遅れを取り戻すための駆け足の数か月間を過ごした。
 つまり、実質的にはたった5カ月で一年の授業を終えたことにして、学年末試験も殆どがレポート提出で済ませたので、自発的に進級を放棄するつもりで提出を怠った学生を除けば、全員の進級を目的とした、学年末試験などとはとうてい言えそうにないものだった。
 そのおかげもあって、まともに勉強した覚えもない僕も進級できたので、個人的には大いに助かった。しかし、学校側と学生側の双方が、そのようにして基礎教育を殆どしないままに済まさずにはおれなかったことの代価は、学生個々の大学生活どころか、その後に続く人生に大きくのしかかってくる場合も多かったはずである。つまり、大学教育を受けたなどとは言えないほどの無知で無学なのに、そうとも知らずに、あるいは、知っていても、そんなことは自分の責任ではないと居直って、その後もごまかしでやり過ごすなど、中身が空っぽの人生を大量に産出することになったような気がする。自分に照らしてそのように僕は思うことが多い。
 無知で無能な自分という現実を人生の折々で思い知らされても、その度に冷や汗をかきながらも外面は適当にごまかすからこそ、後ろめたさを募らせながら、なんとか生き延びる。そんな有象無象の成れの果てがまさに今の僕であるというわけである。
それはさておいて、2年の授業が始まった頃のことだった。あるニュースが日本中、とりわけ関西のメディアを賑わした。
 まずは、その事件の概要をネット情報の一部をペーストして紹介する。

<1971年、大阪刑務所で印刷の阪大,大阪市大入試問題が密売された事件>、「インターネット日記・奇跡体験アンビリーバボーの番組紹介のページ」の一部です。

 大阪刑務所で服役していた囚人Aが、その刑務所内の病棟で他の受刑者Bに、ある計画を持ちかけました。「私はここで金のなる木を見つけましてね・・・」と。 それは当時、大阪刑務所内の印刷の作業所で行っていた某有名大学の医学部の大学入試問題の印刷物を盗み出し、息子を医学部へ入れたがっている医者に流して、高額の報酬を得るという企てでした。
 大学の入試問題の印刷だけに、厳重な管理が行われており、作業の前後には身体検査が行われ、試験問題を外部に持ち出すのは不可能。つまり一人では実行不可能な計画です。 そこで、Aは印刷の作業に当たっていたBと手を組み試験問題を盗む計画を立てました。 Bは模範囚だったので、印刷作業所内である程度の自由な行動ができました。そこで、印刷ミスで破損した試験問題をゴミとして処分する際に、ソフトボールの中に埋め込んで隠し、運動の時間にキャッチボールをしながら、ワザと刑務所の塀の外へ投げたのです。  
 Bは模範囚だったため、用具係も当たり、ボールに細工することができたのです。 塀の外では先に出所していたAがそのボールを回収。こうして大学入試問題の入手にまんまと成功したわけです。これはまさに映画に出てくるような実話ですね・・・。  
 こうしてAは入試問題を売って巨額の報酬を得ました。しかし、Bは模範囚だったために間もなく出所。さて、その翌年の入試問題はどうやって手にいれるのか? 実は何と、Bは出所前にCという模範囚を仲間にしていたのです。こうして同様に翌年も試験問題を入手、またも巨額の報酬を彼らは手に入れました。 しかし、その後は新たな仲間を作れず、この計画は頓挫しそうになりました。
 そこで彼らは何をしたか。 何と、刑務所に侵入して大学入試問題を盗み出したのです。脱獄の反対の”入獄”です。そして、またも入試問題を売り報酬を得ました。ところがその年に試験問題を買った医者達の子供12人は全員が不合格になります。 それは盗んだ科目が3科目で、入試は全5科目だったため2科目足らなかったから・・・(あるいは模範回答として作ったものに誤答が多かったからとも考えられています) こうして彼らの信用は失墜。それ以来この企ては不可能になり、まもなく首謀者Aは他殺体となって発見されたのです。犯人はだれか、何故殺されたかは今も不明だとか。 この事件は当時報道され大きな問題となり、不正合格した者は合格取り消し処分になったりしましたが、一体どれだけの数の不正合格が行われたかは、正確には把握できなかったようで、中にはそのまま医者になった者もいるようだとのことでした。
 証拠がなければ立件できないのだから、それに関与した囚人は立件されたが、その囚人たちが、どの受験生にそれが回ったかなどを知るわけもなく、中間に立ったブローカーが言わば詐欺商法のベテランで、その高価な商品を買うような消費者は当然、社会的に高いステイタスの富裕層にほかならず、そんなお得意様についての情報を漏らすわけがなく、首謀者と目された人物の死体がその後に発見されたが、それについては何一つ明らかにならないままに迷宮入りした。
 したがって、その不正入試で医学部を中心に入学した学生の多くはそのまま居残り、卒業して、無事に医者などになったのだろうが、中には罪責感に堪えられず、自ら告白して大学を自ら退学した者もいたらしい。(ネット情報の引用はここで終わり)

 以上の不正入試の舞台となったのが主に僕らの大学を含む大阪の二つの国公立大学の医学部を中心としたいくつかの学部だったらしい、
 但し、このネット情報は僕の記憶と合致しない部分や、甚だ曖昧な部分などある。
 記事のタイトルの冒頭には1971年と記されているが、僕の記憶ではそのニュースに僕らが初めて触れたのは、僕が2年生になった年の5月か6月頃のことだった。そのように僕は記憶し、その他の状況証拠も併せて考えると、それは間違っていそうにない。つまり、1970年の春から初夏にかけて、僕らはそのニュースに初めて触れて、その後のしばらくは、それに関連する噂がいろいろと飛び交った。そして当時の僕らは、実際の事件、つまり、不正入試は、僕らの入学年度(1969年)とその前年度(1968年)で、僕らが一年生として入学した年には、不正行為の結果として、一年生と二年生に少なからずの不正入学の学生がいるものと思った。
 しかも、僕は在日であることと、僕が大学で周囲の日本人学生の中では浮いていたという事情とが絡み合って、その当事者ではと一部で噂されていた人々と、そうとは知らずに触れあったことがあったし、現に本人を目の前にしながら、そのような疑いを抱いた場合もあった。そればかりか、その人たちに関連する噂話がその後も折に触れて耳に入ってきたり、ふと何かの折に思い出しては、噂の主だったり、僕自身が疑惑を覚えた人々のその後に思いを馳せることもあった。 
 
 さて、先ずは前史に遡らねばならない。僕が大学に入学した1969年の5月か6月の韓学同の新入生歓迎会で、僕とは別の大学の同期の新入生の中に、親戚同士と自己紹介する2人の学生がいた。それを聞いて珍しく思ったが、それ以上に僕の印象に強く残ったのは、その2人の見事なまでの対照性だった。
 一人は筋肉質ですらりとしたスポーツマンタイプで、実際に高校時代には運動選手としても有望視されていたという話をだれかが紹介もしていた。しかも、話しぶりも外観に違わず、メリハリが利いて明快で、そこに居合わせた学生の多くは好感を持ったはずである。女子ならずとも、男子学生でも憧れの対象になって当然な感じだった。韓流以後の時代なら、花美男(コッミナㇺ)などと持て囃されただろう。
 他方は、背丈は人並みだが肥満気味で、立ち居振る舞いもその外観に見合っておっとりとして、顔つきや話しぶりには少しこもった感じがあり、語り口も言いよどみが目立った。
 そんな二人が近親で、同じ大学の同期生なのが、少し不思議に思えたが、そんなことを不思議に思う自分の感じ方の方がおかしいことにも気づいた。しかし、だからといってさらに深く考えるほどではなかったが、二人そろえばいつだって比較されるだろうから、その場合、後者にとってはすごく負担だろうなあと、僕はひそかに同情していた。
 その2人とはその場でも直接に言葉を交わすことはなかったし、2人ともその後はその種の民族的な学生イベントに殆ど顔を見せなくなったので、彼らに対する僕の関心は持続しなかった。ところが、その後の何かの折に、何故かしらその2人のことが話題になった際には、2人そろってすごくお金持ちの家の子どもであるといったことを、上級生が羨ましそうに話していたのが記憶に残った。
 在日にもお金持ちがたくさんいることは、大学に入学して学内外の民族サークルや組織の集まりその他の雑談を通して知って、驚くことが多かった。僕は在日でありながら在日についてそれほどに無知で、そのことに気づいての驚きだったのだが、その2人についても、僕のそうした無知の生き証人になるなあ、くらいのことを思いはしても、それ以上に関心を募らせることはなかった。
 ところが、それからおよそ1年後、上でも触れたような、不正入試のニュースがメディアを賑わした。1970年の5月か6月頃のことだったはずである。
 そのニュースを聞いてすぐさま僕の脳裏に浮かんだのは、僕らの大学の同期の学生の中で最も派手なルックスと挙動で衆目を集めていた学生のことだった。
 当時の国産スポーツカーとして最も有名な日産のフェアレディーZに乗って颯爽と通学し、その車の助手席に友人、とりわけ女子学生を同乗させて学内の随所の道路を、その道路には相応しくない速度で疾走するなど、なんとも嫌味なこと誇らしげにしていた。
 そのいかにも<金持ちのドラ息子>にぴったりの光物(ネックレスその他)やサングラス、そしてド派手な原色のシャツその他の服装や顔つきや挙動は、まるでそれより数年前の加山雄三の若大将シリーズの映画からそのまま飛び出してきた<超・軽薄版>だった。
 しかも、文学部ではなく理科系の学部なのに、文学部の受講生が中心の授業を選んだり、正式に受講登録もせずに<もぐりで出席>して雰囲気を乱すうちに、文学部で最も目立つ女子学生たちを自慢のスポーツカーに乗せ、交際していることをこれまた見せびらかすなど、幼稚きわまる挙動が男子学生、とりわけ文学部の男子学生には目障りだった。
 そんなことが伏線となっていたのか、不正入試のニュースが出ると、僕などはその学生こそは不正入試の張本人ではないのかと嫌疑をかけることで、腹いせをしたつもりになっていた。
 そしてたまたま文学部の学生2人と文学部棟の前で雑談していたところ、そのスポーツカーで疾走する<アベック>(すっかり死語になっていそうだが、書き手の古い感覚を強調するために、敢えて使用している)が現れたので、前々から心中に秘めていた疑いを、冗談めかして話したところ、それを聞いていた学生たちがすっかり共感して、3人とも言葉が尽きなくなった。そして、そのあげくには、自分たちの幼稚さに気づいて大笑いした。そんなことがあったおかげで、不正入試の疑惑の対象に仕立てあげて腹いせをしているつもりになっていたのが、僕だけではなかったことが分かって、少し安心した。
 そんなことで腹いせを済ませたからなのか、僕らの大学の学生に対する不正入学の嫌疑は、それで終わった、他にそれらしいと思える学生など、まったく思い浮かばなかった。そもそも、そんな嫌疑をかけるほどに、詳しく知っている学生など皆無で、<犯人捜し>は種切れとなり、すっかり忘れさった。
 ところが、在日の場合はそうでもなかった。
 不正入試をするには、相当の資産とそれなりの情報ネットワークへのアクセスが必須であるが、日本人学生個々の家庭のそうした内的事情など、僕らに分かるはずがなかった。他方、在日の学生の場合は、そうでもなかった。例えば、上でも触れたように、在日の学生でもある程度以上の富裕な家庭については、在日組織周辺では何かと話題になることも多いし、相当に信憑性を備えた噂として、流布する。それほどに<狭い世間>であり、そんな状況を含めた在日社会のことを、僕は一時期には<在日の村>と呼ぶほどだった。
 そんな資産その他の情報ネットワークを備えていると見なされる家庭で会って初めて、不正入学の疑惑を向けられる基本条件が備わっていると見なされた
 そうした事情とは別に、在日世界の狭さに関連する信憑の共有もまた、在日の学生に対して疑惑を覚える根拠だった。
当時から10年ないし20年ほど以前(1950年代や1960年代の中盤くらいまで)なら、「技術は国籍を超える」という希望に衝き動かされて、在日でも理科系、とりわけ工学部の人気が高かった。有名大学の工学系でも卒業すれば、さらには経済力とチャンスがあって大学院を終えれば、日本の一流どころの表舞台に躍り出て活躍できるものと信じられていた。例え、それがうまくいかない場合でも、どちらかの祖国に技術エリートとして<帰国>することも可能性の一つとして、自信を持った若者の一部はそれを目指した。
 ところが、「技術でさえも国境を越えられない」という日本の民族マイノリティーに対する過酷な現実を痛感する一方で、夢の祖国という理想の崩壊・凋落などの現実を眼前にして、在日の工学部人気は一気に凋落して、それと反比例するように、国家資格を看板にして自営が可能な医歯薬系の人気がウナギ上りになった。
 そんな趨勢などにはすっかり背を向けているつもりだった僕にまで、そんな変化を思い知らせたのが、僕が入学して3年後の大学入試の結果だった。
 例えば、僕らの大学の医学部の在日の合格者が定員100名の1割の10名に及び、合格者の最高得点者として、入学式で新入生全体の代表挨拶をしたのも在日の新入生だった。それが端的に象徴するように、在日の大学入試における人気学部としては、医歯薬系が圧倒的に一位を占めるようになっていた。そしてそれから10年以上も後になると、法曹資格の国家資格における国籍の壁に蛮勇をふるって挑戦した一人の在日青年のおかげで、一気に文系の法学部人気が一気に躍り出て、現在に至るのだが、それは僕が大学生だった頃には、まだずいぶんと先のことで、まだ想像すらできないことだった。
 そんな医学部人気の趨勢は、もちろん日本人の学生でも同じ側面があったが、在日の場合には、大学を出てもまともな就職が見込めないという、なんとも悲観的な展望が前提だったので、状況に強いられた生きる道の選択としての医学部信仰だった。
そんな医学部人気とは殆ど関係ないところに身を置きながらも、そうした趨勢を肌で感じ取らずにおれなかった僕としては、医学部絡みの不正入試となれば、おそらくは在日もその一部に絡んでいると想像するのが、きわめて自然な道筋だった。
 もちろん、先にも述べたが、潤沢な経済力を持つ家の子どもに限られるという条件付きの話であり、在日にもその種の人たちが、日本人と比べれば、はるかに数が少なく、経済規模も小さくても、確実にいるという事実を、僕も大学に入ってようやく知ったという事情もあった。
 しかも、強いられた厳しい状況の中で、在日は往々にして法律ぎりぎりのところで暮らすことを余儀なくさせられることも、体験的に思い知らされていた僕なので、違法だからといって尻込みしないで飛びつく富裕層には、一定の割合で在日がいるに違いないと考える回路ができあがっていた。
 そのうえ、その後には耳に飛び込んできた情報はむしろ、僕がなんとか避けたいと思っていた想像を掻き立てるものだった。
先に触れた親戚同士の2人の学生のうちで、暗い印象だった学生が、その彼と同じ学部だった在日の学生の話では、中途退学したと言うのである。
 驚いたのは僕だけではなかった。新入生歓迎会でその2人と初対面した僕ら在日の学生の間では、その2人もしくは1人は不正入試と関係があったのではないかと、声を潜めながらも、ささやくようになった。但し、1人だけというのはやはり状況的に無理に思えるので、関係しているとするなら2人共にの説が圧倒的だった。そして、退学しなかった方の学生のその後を注視するようになったのだが、その学生は卒業までこぎつけるばかりか、その後には華々しい活躍をしているという話が伝わってくるようになった。
 そうなると、やはり不正入試の噂は声が低くなり、それにつれて、退学した学生の方も、本当に自主退学したのか、さらには。退学したとしてもその理由は何だったのかと、不正入試の疑惑の曖昧さがむしろ前面に出てきて、ついには、不正入試と絡めて、彼らのことを話題にする者など、殆どいなくなった。
 そして、その代わりというわけなのか、大学に残った学生については、折に触れていろんなことが耳に入ってきた。
とりわけ、卒業後の在日としてはあまりにも華々しい出世話が、羨望を掻き立てるからなのか、まるでオリンピックみたいに数年おきに新たな尾ひれがついた話が、同じ大学だったわけでもない僕の耳にまで届いた。

 しかし、その種の話にはえてして、あまり気持ち良くない尾ひれがいっぱいついているもので、まともに考える気もちなど失せてしまった。お金と地位と名誉のトライアングルのファミリーヒストリーなんか、僕のように、いろんな意味で貧しい者が関心を抱きでもしたら、碌なことはない、とお得意の警戒心も働いた。
 僕らが大学に入学して半世紀以上も経過した今でも、あの頃の噂の実際はどうだったのか、まったく分からない。それなのにその事件をここで話題にするのは、僕にも不思議だった当時の大学を取り巻く雰囲気、とりわけ僕の周囲の在日の学生たちの、何ともつかみどころがない様子の一端なりとも伝えたいからである。
 因みに、その親戚同士の学生たちの親御さんたちは、関西でも有数の同一系列の大会社のそれぞれが社長らしく、子どもがどんな大学を卒業しようが、何を職業にしようが、さらにはステイタスなどあろうがなかろうが、のんびり一生を暮らせるほどの財力を持っているという話だった。だからこそ足りないのは、名誉やステイタス、そしてキャリアくらいのもの。だからこそ、いくら金をかけても、不正であろうとなかろうと、何だって敢行するし、そんな親御さんだからこそ、金持ちネットワークを通じて、不正入試の話を持ち掛けられたのだろうなどと、想像を膨らませることも可能で、人間という生き物は、つくづく欲深く、罪深いものだと、ため息が出る。
 真偽など分かりようがないし、その真偽を確認するために、そんな噂話を持ち出したわけではない。そんな噂の生成とその伝搬における在日的バイアスについて考えたかったからであり、それについては後に詳しく触れる。(2024年7月24日)(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の20に続く)