ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の23
第三章
第8節 本文の今後の予定の変更と釈明の2
目次
1) 一斉糾弾闘争との遭遇の余韻(後日譚)の2―朝鮮奨学会と学校現場―
2) 僕が生まれ育った地元の労働青年たちとの交友
3) 韓青同の支部レベルの活動家や参加者たち
4) 民団傘下の青年組織(韓青同)と学生組織(韓学同)
1)一斉糾弾闘争との遭遇の後日譚の2―朝鮮奨学会と学校現場―
大学入学直後から僕に襲いかかって来た民族主義の大波を受けて、僕なりに迷いと躊躇いの末に関わるようになった学内外の民族的な組織活動は、一年の終盤になって遭遇した兵庫県の高校における一斉糾弾闘争とは対蹠的なものに映った。それだけに僕は、ようやく決めるに至った方向をそのまま突き進むためにも、一斉糾弾闘争の衝撃から目を反らそうとした、と前回の最後のあたりで書いた。
ところが、そのようにして切り捨てたはずの一斉糾弾闘争の潮流は、僕が目を反らしさえすれば視界からきれいさっぱり消え去ってくれるものではなかった。
当時の僕にはまだ良く分かっていなかったが、その潮流は<在日の歴史と現実と未来>に根差していたものだっただけに、方向性や方法には大きな違いがあったとしても、僕が選んだ民族的活動とも切っても切れない関係にあった。だからこそ、僕自身が意図したわけではないのに、その潮流の一部もしくは断片と、その後も遭遇・接触を繰り返すことになり、僕は腰を引きながらも関わりを持たざるを得なかった。
例えば、大学4年生時と、卒業を先送りした結果としての5年生時のことだった。
都心に位置してわが家からはアクセス至便、いつも殆ど誰もおらず、冷暖房完備で読書や勉強や昼寝にも最適な図書室を備えているうえ、昼食はもちろん、時には夕刻の帰路には酒食までご馳走してくれる韓学同の優しい先輩が職員として勤務していたこともあって、暇を見つけては通っていたのが、財団法人朝鮮奨学会の関西支部だった。
留年すると奨学生の資格を失ったが、それ以前の4年間は継続して奨学金による経済的支援はもちろん、奨学会の多様なイベントや印刷物やネットワークは、僕の学生生活をずいぶんと豊かにしてくれた。
ついでに言えば、大学院に入ってすぐに学生結婚することになった際には、主礼といって朝鮮式の人前結婚の仲人役を、その奨学会の支部長にお願いしたし、格別に好条件の家庭教師のアルバイトも、さらには大学卒業の際には、就職先の紹介までしていただいた。そして、その会社のトップがわが家にまで足を運び、父に入社の許可を求めるなど積極的に勧誘していただいたのに、生憎と家庭の事情と僕の気持ちの踏ん切りがつかなかったので、入社をお断りすることになって、ご迷惑もおかけした。
奨学金の支給日を待ち望み、受けとるや否や仲間が集まって、どれだけ飲み食いに励んだかを思い出すと、恥ずかしく申し訳ない限りだが、日本の公的な奨学金その他からシステマチックに排除されていた在日の学生にとって、返済義務のない朝鮮奨学会の給付金はすごくありがたいものだった。僕の場合には特に大学院時代がそうだった。ふたりしてアルバイトを掛け持ちする苦学生夫婦にとって、まさに命綱だった。大学院在学中には、在日もようやく日本育英会の受給資格も認められることになったので、その二つの奨学金があったからこそ、僕らの大学院を終えることができたようなものだった。
しかし、能力不足なのか何なのか、生憎なことに指定された研究職に就職できなかったので、日本育英会への返済負担が大きく、もし、朝鮮奨学会にも返済義務があったなら、僕ら2人の長い非常勤生活は、はるかに厳しいものになっていただろう。
それはともかく、まだ学部に在学中に頻繁に奨学会図書室に通っていた頃に戻ると、教育関連で僕の父親代わりだった5親等の伯父が、奨学会の関西支部長と若かりし頃からの親しい友人だったという縁もあったし、頻繁に出没するので使い勝手が良いという理由もあったのか、時にはアルバイトとして奨学会の業務を手伝うこともあった。例えば、一斉糾弾闘争の牙城のひとつだった兵庫県立尼崎工業高校に職員に代わって派遣されたりもした。
因みに、上で触れた5親等の伯父とは、父の従兄で、統一朝鮮新聞の創立以来の編集長だったが、僕が大学に入学した1969年の秋には、持病の肝臓病の悪化で、失意のままに亡くなった。
それから30年後には、韓国済州で生まれ育ち、後には韓国の近現代文学の研究者として、また、小説家としても活躍するようになった従兄が、在日の調査で大阪にやって来た際には、大阪城近辺の砲兵工廠跡や真田山の陸軍墓地に続いて、従兄が是非とも5親等の伯父について話を聞きたいと言うので、奨学会の支部長のところにも案内した。
支部長はその従兄を迎えると、涙を流しながら歓迎してくれ、初対面の2人の感動的な様子を目にして、僕はお邪魔虫と感じたので、ふたりをその場に残して、僕はその場を去ったこともある。一世と僕ら二世の差異を、今さらながらに痛感してのことだった。
さて、尼工での僕の任務は、奨学生に奨学金を支給するのと合わせて、課外活動として在日の渡航史や朝鮮語の初歩などを教えたりして交流することだった。月に一度だけのことだし、たった3,4カ月だけのことだったが、そこでの見聞は僕の一斉糾弾闘争について考える際の大きな材料のひとつとなった。そこで知り合った一人の高校生がすごくなついてくれたので、僕の実家に招待して夕食を一緒にするなどして、その後も長い付き合いを期待していたのだが、尼工では突如として在日教員を正式採用することになり、僕の派遣は取りやめとなったので、その高校生とは二度と会えなくなるなど、期待ははかなく消えた。
しかし、その後にも大阪府立柴島高校では春休みに限って一週間、課外活動として尼工とよく似た関りを持った。さらに、僕自身の母校である大阪市立東三国中学にもたった1回だけのことだったが、在校生たちや、大阪みおける在日外国人教育運動の中心人物だった教員と交流する機会を得た。
そうした<にわか職員>としての、とりわけ<尼工>での経験については、以下で既に詳しく論じているので、ここでは繰り返さない。関心のある方は、是非とも参考にしていただきたい。
・『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社、2021年、特に106頁~137頁と151頁~152頁。
・「金時鐘とは何者かー<自分・在日語り>の済州篇―」朝鮮史研究会関西部会、2024年1月27日。そのレジュメは朝鮮史研究会月報に掲載。
・書評への応答;『金時鐘は「在日」をどう語ったか』、『コリア研究』第12号、立命館大学コリア研究センター、2024年3月
以上の文献を必要とされる方は、僕のメールアドレスにその旨と送り先を明記していただければ、メール添付か郵送でお送りします。もちろん、押し売りなので、無料です。
ついでに言えば 僕が大学時代に関係していた韓学同や朝鮮奨学会その他の、一斉糾弾闘争や民族祭りその他の在日の諸運動との関係についても、以下で詳論している。
「在日の精神史からみた生野民族文化祭の前史―在日の二世以降世代の諸運動と「民族祭り」―、41頁~62頁、『民族まつりの創造と展開』上、論考篇、JSPS科学研究費 基盤研究(C)研究成果報告書、課題番号22520069 2010年度~2013年度 研究代表者 飯田剛史、2014年2月28日
最後に挙げた文献は入手が困難なはずなので、せめて輪郭だけでも窺えるように、章立てなど全体の構成を以下に記して、参考に供しておきたい。
はじめに
1. 民族祭り研究の領域の拡張
2. 民族祭りの前史としての在日の状況と運動史
2、1 在日の2大組織の退潮と新たな潮流の勃興
2、2 在日の韓国籍サイドの状況変化
2、3 在日の韓国籍サイドの「第二極:の青年学生運動その他
3.民族祭りの準備
3,1 本節の内容について
3,2 韓国籍サイドの第二極の青年学生組織における民族文化体験
3,3 小中学校における民族学級の取り組み
3,4 日本の高校の朝鮮文化研究会(以下、朝文研と略記)
3,5 朝鮮奨学会
3,6 在日のキリスト教関係
3,7 韓国の状況、あるいは運動との関連
まとめに代えて
以上のようにささやかな拙論リストを見るだけでも、僕が一度は遭遇しながら切り捨てたつもりになっていた一斉糾弾闘争ばかりか、途中からそこに招き入れられて、やがてはそのヒーローとして持て囃され、自らもそのように振舞うようになった金時鐘さんに関しても、僕が半世紀にわたって未練がましくこだわってきたこと、さらには、いかにも僕らしい生産効率の悪さが一目瞭然であり、我ながら呆れてしまう。
しかし、肝腎なのは、いくら時間がかかっても、さらには、いくら歳をとっても、自分が解き明かせない問題に気づいたら、その解明のための努力を諦めないことだと、自らを叱咤しながら、何の役にも立ちそうにないこんな文章を、ちまちまと書き続けている。
そんな僕の、異様と評されがちな一斉糾弾や金時鐘さんに対する執拗な言及は、在日の近現代史の記述の一部に関する、僕の長年の違和感、とりわけ、1960年以後の在日史記述に関する違和感に端を発している。
例えば、右翼反動というラベルを貼り付けて一括し、殆ど無視されてきた民団傘下の青年学生組織はもちろん、日本政府と在日の左右の両組織が中立を標榜して共同で運営してきた朝鮮奨学会のとりわけ関西支部が、1960年以降に在日の青年学生たちに及ぼしてきた影響の数々に、しかるべき関心が払われてこなかったことに対して、半世紀近くも僕が温めてきた批判的観点のささやかな結果なのである。
それはともかく、当時の僕が関わっていた大学内の民族サークルや学外の民族的学生組織の僕も含めたメンバーの殆どが、一斉糾弾闘争における在日の若者と日本人教師との共闘に対して、その内情を理解したうえできちんと対峙できなかったことも、その活動の限界を証している。とりわけ、そうした限界に気づこうともしなかったことは、僕らが数多く冒してきた過誤の中でも大きなもののひとつだったと、今さらながらに思う。だからこそ、一斉糾弾のその後と金時鐘さんとの関係については、これからも書き続けなくてはならないと、自分に改めて言い聞かせている。
2)僕が生まれ育った地元の労働青年たちとの交友と韓青同の活動
大学一年から二年にかけて、僕が経験しながらも書き落としていたことの二番目は、僕が生まれ育った地域における在日の労働青年たちに対しての、それまでにはなかった角度からの関心を持って、交友を再開するなど、同世代の労働青年の生活と民族的活動の実態に触れ、理解を少しは深めたことである。
少し年上の幼馴染の人たちの仕事場に足を運び、邪魔になる懸念がありながらも、その働きぶりを見たり、よもやま話を交わしたり、週末の夜には、車に乗せてもらい、一緒にサウナで背中を流しあったりもした。さらには、彼らが中心になっていた韓青同大阪地方本部傘下の支部の活動にも、お客さん扱いながら参加した。
それによって、僕は大学の民族サークルや学外の民族活動と比較対照するなど、韓学同の活動の性質、とりわけ、その限界について考える得難い機会を得た。
そこで、あくまで韓学同について考える参考資料として、僕が垣間見た在日の労働青年の生活と民族的活動について語りたいのだが、それに先立って、必須の留保条件を提示することで、往々にして生じる誤解の防止に努めておく。
一つは、同じ在日の青年運動でも、民団傘下の学生、青年運動は、朝鮮総連傘下の学生・青年組織とは、親組織との関係が正反対と思えるほどに異なっていたことである。朝鮮総連とその傘下組織との間には殆ど軋轢・対立はなく、殆ど一枚岩のように映ったし、当事者たちもそのように主張していた。それに対し、民団とその傘下の青年・学生組織との間には厳しい軋轢・対立が常に存在し、同一組織内における与党と野党のような関係だった。
但し、以上はあくまで、半世紀以上も昔の、僕が学生時代のことに過ぎず、現在の話ではないことを、くれぐれも忘れることなく、この前後の文章を理解していただきたい。
そうした親団体と傘下団体との関係については、本シリーズの初期の頃に、韓学同と民団との関係に限ってのことだが、詳しく述べたことがあるので、ここでは再論を慎むが、以下のことだけは忘れないように、重ねてお願いしておきたい。
韓学同や韓青同の活動は、民団の傘下団体でありながらも、むしろその親団体である民団の中枢、さらには、それが依拠する本国政権とは対立し、その結果、監視や数々の処分など厳しい統制を受けながら活動していた。民団の執行部のメンバーは、しばしば韓青同や韓学同のことを、<スイカ>と呼んでいた。外見は青くても、開いてみると、中は真っ赤、つまり、実際は彼らの、そして民団の仇敵である共産主義者の巣窟と言うのだった。
その延長上では、僕は4年生で韓学同大阪本部の執行部の一員だってたころに、当時の民団大阪本部の監察委員長から、「お前はすっかりエンゲルス気取りやないか。それやったら、朝鮮総連に鞍替えした方が、傷ついて、親を泣かさないで済むのに、馬鹿者め!」と罵倒されたことがある。その人はかつて朝鮮総連のお偉方だったこともある、「やめ総連」だったらしいのだが、それにしては知ったかぶりの、しかも、ひどい曲解だった。自慢じゃないが、僕は生涯、共産主義者だったことは一度もないし、共産主義の聖典などもあまり読んだこともない、やわな日和見の中庸主義者である。したがって、民団のお偉方たち、とりわけ、大阪本部の人たちの<スイカ>呼ばわりは、韓学同をひどく買い被っていたか、あるいは、もっぱら貶めることで弾圧の伏線を敷くためのデマゴギーに過ぎなかった。
しかし、少なくとも民団とその傘下にある青年・学生団体との関係の一端を理解するには、格好のエピソードだからと、僕は鮮明に記憶している。
そんなわけで、朝鮮総連の性格をその傘下団体である青年・学生組織にそのまま当てはめても大きく外れないのとは正反対に、民団の性格をその傘下団体である韓青同や韓学同に当てはめると、とんでもない誤解を生じかねない。
第二に、僕がほんの少し、あくまで<お客さん>のようにして参加した韓青同とは、中央本部や地方本部のそれではなく、地方本部傘下の支部における労働青年たちの活動のことだった。韓青同は中央集権組織なので、総体を一括して論じることも可能だろうが、僕としては最低限、以下のことを抑えたうえで、論じるべきだと考えている。
韓青同の中央本部はもちろん地方本部も、主導的に活動するのは、専従者を中心にした執行部であり、支部などの労働青年たちの活動はそうした本部の専従者たちの指導や指示や支援を受けて活動していた。つまり、韓青同は、指導層は専従活動家で労働青年ではないのに対し、その指導や支援を受けて地元で活動する実働部隊は労働青年であるといったように、社会的ステイタスや生計手段と活動との関係が異なる二種類の青年たちが、上下関係を構成する組織体だった。
しかも、その階層は殆ど固定的だった。支部レベルの活動家が地方本部の専従や、さらに中央本部の専従、つまり指導層に<上昇>することも皆無ではなかったが、殆どなかっただろう。他方、地方本部の専従が中央本部の専従になる場合は、少なからずあったように思われるが、その場合には、専従活動家の転勤にすぎず、先に挙げた二つの階層間移動ではなかった。他方、支部の労働青年が中央本部の専従活動家になるといった、二つの階層間の移動を、少なくとも僕は見たことも聞いたこともない。
従って、物質(下部構造)が精神(上部構造)を規定するという言い方に倣えば、韓青同は、二つの下部構造とそれに由来する二つの精神的階層とが、交じり合うことなく併存する組織だった。
但し、その階層を貧富の階層と重ね合わせることはできない。専従活動家が支部の労働青年たちよりも経済的に豊かというわけではなく、むしろ、その反対だった。専従活動家の給料は微々たるもので、独身ならまだしも、夫婦やさらに子供までいる世帯の生計を支えることはとうてい無理だった。したがって、民族的組織活動とは別の労働によって、たとえ多額ではなくても生計を支えるだけの所得を得ていた支部の労働青年たちの方が、経済的には余裕がある場合が一般的だった。
逆に言えば、自分の稼ぎで家計を支える必要のない人が専従活動家になったとも言えそうである。経済的に豊かな家の生まれだったり、伴侶に十分な稼ぎがあったり、あるいはまた、大学院生で何らかのアルバイトで最低限の生活費くらいは稼げると言った、経済的条件に恵まれた人、あるいは、もっぱら使命感にかられて<冷や飯>を自ら買って出るような<志が高い>若者が専従活動家になりえた。
そんな地方本部の専従活動家の活動の一端を、僕は一年近くも韓学同の本部に通ううちに、見聞きして、ある程度は分かるようになった。民団や韓青同大阪本部事務所はもちろん、様々な行事や宴会や、さらには、事務所近くの麻雀屋で時間をつぶしながら交し合う話なども見聞きして、やむを得ないこととは思いながらも、あまり好印象はなかった。ところが、地元の労働青年との交友で目撃した活動と日常生活は、それとは多様な意味で大きく異なるので驚くと共に、地元の労働青年たちの活動や人となりに好奇心を強く刺激され、新鮮な共感を覚えた。
3)韓青同の支部レベルの活動家や参加者たち
僕が地元で参加した韓青同というのは、平日の昼間は労働に明け暮れて、夜も7時や8時を過ぎてようやく仕事を終えてから、あるいは、週末などのごく限られた時間における活動のことだった。
当時の在日の労働青年たちは、親と一緒に自営業に従事したり、地縁・血縁などで、零細もしくはそれに近い小さな企業、今でいう3Kとかみず商売と呼ばれる職種に雇用され、将来もその経験を活かして同種の業態で独立して自営を目標にするような人が大半だった。
女性の場合は家業の手伝いが多く、在日が経営する小企業体などで事務仕事や飲食業に従事する者が大半で、男女に違いがあるとすれば、肉体労働の軽重など職種の違いくらいだった。
零細自営業者にとって必須でありながらも、当時は都市銀行の門戸は在日には狭かので、金融も同業者間や地縁・血縁関係を基盤にした相互扶助が基本であり、その代表が頼母子、手形や小切手の貸し借りなど、不法あるいは不法すれすれの危険な手段に頼るしかなかった。70年代にもなると、それ以前と比べれば、都市銀行も在日に門戸を少しは広くするようになったが、それでも信用保証や担保などに関しての厳しい条件があったので、国籍をはじめとして条件が比較的に緩い在日系の信用組合の貸付に頼るのが中心で、貸付利子などもはるかに高く、不利だった。住宅ローンなども、在日の場合は都市銀行はよほどでなければ受け付けず、その銀行系列の住宅ローン会社の高利の貸付に頼らざるを得ないほどだった。それだけに、「一つこけたら皆こける」といったように、在日の私的金融による連鎖倒産や夜逃げなども多く発生した。
労働時間なども現在とは全く異なるハードなものだった。週休二日どころか、週休一日も確保するのは難しく、急ぎの仕事があれば、祝祭日にも勤務が一般的だった。土曜日の半ドンは。日本人の場合であり、在日の労働現場では殆どなかった。
メンバーの殆どが日本の公教育で小・中学校を終えて、高校は定時制に辛うじて通った青年、つまり、中学卒業以前から既に労働に明け暮れていた人が多かった。
そんな余裕のない青年たちが、ただでさえ限られた余暇に、勉強したり本を読んだりするのは、なかなか難しい。そんな状況におかれながら、民族的活動に喜び勇んで参加する青年が在日の、とりわけ、民団系の家庭で一般的であるはずもないから、組織率も低かった。
しかし、それだけに、参加者には、何か切実な欲求や喜びがあったのだろう。人恋しさとか、それも厳しい民族差別が大手を振る社会から解放されたひと時の安らぎといったように。
韓青同の支部レベルの活動家や参加者も、そうした在日の労働青年一般の、多様な縁が何重にも重なった濃密なエスニックコミュニティの一員だった。その一方で、そのようなコミュニティとは断絶していたり、はるかな距離がある青年たちもいたが、そんな青年たちも韓青同の活動に加わることで、そこに色濃く残存していた伝統的なエスニックコミュニティを(再)発見し、そこに一体感や安らぎの時空を見出し、それに虜になった者もいる。その極端な例が、すっかりアウトローの世界に片足を入れていたのに、それとは別の場所の方に、生涯を託せる仲間を見出して、悪の世界から足を洗ったような人もいた。
その人たちは、自分と同じような労働青年だけでなく、地元の在日コミュニティの老若男女の生活に根を張っていた。いわゆる活動以外に、冠婚葬祭などでも有用な人手として活躍すると同時に、それ自体を楽しんでいた。それが彼らの民族的な日常活動の基盤になっていた。活動と生活とが区別できるものではなかった。
韓青同の支部の活動は、差別問題その他の権利保障などの生活問題に加えて、祖国の統一、民主化などの政治的スローガンを掲げながらも(本部の専従の指導部の主たる領域)、その実、親睦、商売、就職斡旋、異性の友人紹介、その延長上での恋愛、結婚の斡旋など、実に多様な意味での出会いとその延長上での相互扶助(支部の日常活動の領域)が、必ずしも口外せずとも、より切実で重要なものであった。
メンバーのリクルートも、「どこそこの三兄弟、三姉妹」といった言葉が意味を持つ親密圏を中核に、その伴侶たちも含めての「友達の友達は友達」式のネットワークが機能しており、そうして構成された集団の活動は、個々人の生活の一部などではなく、個々の生活全般に広く関係するもので、一過性のものにおさまるはずがなく、生涯にわたる堅い絆になることも多かった。
4)民団傘下の青年組織(韓青同)と学生組織(韓学同)の相違
支部レベルの、いわば草の根レベルの韓青同の活動の性格を考えるには、学生組織である韓学同と比較すれば、より鮮明になるだろう。分かりやすそうな事項に絞って、箇条書きしてみる。
1.本業の違い;韓学同は建前としては学生が本業のメンバーで構成されていたのに対し、韓青同は高校生(夜間の定時制も含む)や大学生なども含むが、基本的には労働を本業として、経済活動が本業である青年で構成されていた。
2.拠点の違い;韓学同は大学内サークルもしくは民団本部内の一室である韓学同大阪本部(後には朝鮮奨学会関西支部の図書室と、韓学同の寮と呼ばれる一軒家になったが、韓青同は民団支部や分団など民団の建物と地元のメンバーたちの家その他の関連場所だった。
それもあって、韓学同の成員は一般に、どこで生まれ育とうとも、また、どこで生活をしようとも、所属することになった大学の地域の韓学同組織に属するのが一般的だった(属人主義的?)。但し、敢えて大学が位置する地域の韓学同ではなく、自分が暮らす地域の韓学同に属すことを選び、卒業するとその地域の韓青同で活動し、35歳を過ぎると同じ地域の民団で活動するといったように、生涯の殆どの時期を、自分が生まれ育った地域の組織に優先的に属する場合も少しはあり、そんな人の中には、韓学同地方本部の委員長、韓青同地方本部の委員長、そして最後には民団地方本部の団長となった人もいる。
それに対し、韓青同の成員は日常的に暮らしている地域の韓青同に属するのが普通であり、属地主義とでも呼べそうである。
3. メンバーシップの年齢などの参加資格の違い;韓学同は18歳から22歳(4年幅)が基本なのに対し、韓青同は18歳から35歳(17年幅)までと年齢幅が約4倍とはるかに広いので、高校生、独身青年、子どもがいる家庭の夫や妻といったように多様だ
以上の単純な対比だけでも、韓青同と韓学同とでは、どちらも同じく大衆組織を謡っていても、その言葉が指し示す内容には大きなずれが生じていた可能性が推察される。
5)学生組織と青年組織における言語の比重とずれ
学生組織の大衆運動とは、運動の対象が学生大衆であるということが第一義で、それに加えて、民団の関係部署に、学生大衆の総意という建前で提言することで、民団大衆にも間接的に影響力を行使するということも含意されていたが、それはあくまで建前の話であり、それに実効性が感じられることは稀な機会だけのことであった。例えば、入管法反対や外交人学校法案反対運動の場合がそれだった。しかし、それも、韓青同と民団内の民主派と呼ばれていたグループとの共闘の結果であった。しかし、そうした統一戦線が民団内で影響力を発揮できるのは、ごく稀なことであり、しかも、韓国政府に対する直接的批判を含まない場合に限られていたし、統一戦線を除けば、韓学同自体には民団大衆に声を届けるような手段は殆どなかった。
それに対して、韓青同は民団の各支部とその地域の在日コミュニティに一定の基盤を持ち、動員力も韓学同の比ではないことなども相まって、青年ばかりか、民団の成人大衆全般にまで直接的な影響力を行使する可能性を備えていた。
以上のような差異を前提にして、韓学同の大衆運動としての在日の学生運動という言葉が意味することを、その実態と照合してみると、言葉がいかに実質を欠いたものであったかがよく分かる。そしてそれだけに、僕などは自分たち、民団内の学生組織の限界を意識しないわけにはいかなかった。そして、相当に限定的なものに過ぎない学生運動に参加していることを忘れないように努めることになった。
しかし、韓学同のメンバーの中には、そうした厳しい現実に対する反動のようにして、自分たちが在日の前衛的組織としての役割を担うべきと考えるような傾向の学生もいた。
僕のような腰抜けでも、そんな立派で大層なことが、ついつい口から出てしまうようなこともたまにはあるが、本当のところは、自分たちがしていることは、決してそんなものではないことを自認していた。だからこそ、威勢が良く、切れ味の鋭い弁舌には憧れる一方で、そんな言葉に弄ばれないように警戒して、腰が引けるようなことが多かった。特に労働青年を兼ねた学生が多い大阪の韓学同には、僕のような認識が一般的だったように思っていた。
だから、そうした考えの延長上では、地域に根差せない韓学同の論理など現実性がないと見做し、それに飽き足らないからこそ学生同盟ではなく、韓青同での活動を選ぶ学生もいた。
要するに、中央本部や地方本部の公的な文章や言葉を見聞きしているだけでは、韓青同の実態は分かりにくいし、韓学同と韓青同の違いなど分かるはずがないと言いたいのである。
そんなことを、僕は韓青同の地域の在日コミュニティの一端に根ざした労働青年たちの生活と活動に触れることで痛感した。そして当然、韓学同とは何かについて、懐疑を深くせざるを得なかった。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の24に続く)
第三章
第8節 本文の今後の予定の変更と釈明の2
目次
1) 一斉糾弾闘争との遭遇の余韻(後日譚)の2―朝鮮奨学会と学校現場―
2) 僕が生まれ育った地元の労働青年たちとの交友
3) 韓青同の支部レベルの活動家や参加者たち
4) 民団傘下の青年組織(韓青同)と学生組織(韓学同)
1)一斉糾弾闘争との遭遇の後日譚の2―朝鮮奨学会と学校現場―
大学入学直後から僕に襲いかかって来た民族主義の大波を受けて、僕なりに迷いと躊躇いの末に関わるようになった学内外の民族的な組織活動は、一年の終盤になって遭遇した兵庫県の高校における一斉糾弾闘争とは対蹠的なものに映った。それだけに僕は、ようやく決めるに至った方向をそのまま突き進むためにも、一斉糾弾闘争の衝撃から目を反らそうとした、と前回の最後のあたりで書いた。
ところが、そのようにして切り捨てたはずの一斉糾弾闘争の潮流は、僕が目を反らしさえすれば視界からきれいさっぱり消え去ってくれるものではなかった。
当時の僕にはまだ良く分かっていなかったが、その潮流は<在日の歴史と現実と未来>に根差していたものだっただけに、方向性や方法には大きな違いがあったとしても、僕が選んだ民族的活動とも切っても切れない関係にあった。だからこそ、僕自身が意図したわけではないのに、その潮流の一部もしくは断片と、その後も遭遇・接触を繰り返すことになり、僕は腰を引きながらも関わりを持たざるを得なかった。
例えば、大学4年生時と、卒業を先送りした結果としての5年生時のことだった。
都心に位置してわが家からはアクセス至便、いつも殆ど誰もおらず、冷暖房完備で読書や勉強や昼寝にも最適な図書室を備えているうえ、昼食はもちろん、時には夕刻の帰路には酒食までご馳走してくれる韓学同の優しい先輩が職員として勤務していたこともあって、暇を見つけては通っていたのが、財団法人朝鮮奨学会の関西支部だった。
留年すると奨学生の資格を失ったが、それ以前の4年間は継続して奨学金による経済的支援はもちろん、奨学会の多様なイベントや印刷物やネットワークは、僕の学生生活をずいぶんと豊かにしてくれた。
ついでに言えば、大学院に入ってすぐに学生結婚することになった際には、主礼といって朝鮮式の人前結婚の仲人役を、その奨学会の支部長にお願いしたし、格別に好条件の家庭教師のアルバイトも、さらには大学卒業の際には、就職先の紹介までしていただいた。そして、その会社のトップがわが家にまで足を運び、父に入社の許可を求めるなど積極的に勧誘していただいたのに、生憎と家庭の事情と僕の気持ちの踏ん切りがつかなかったので、入社をお断りすることになって、ご迷惑もおかけした。
奨学金の支給日を待ち望み、受けとるや否や仲間が集まって、どれだけ飲み食いに励んだかを思い出すと、恥ずかしく申し訳ない限りだが、日本の公的な奨学金その他からシステマチックに排除されていた在日の学生にとって、返済義務のない朝鮮奨学会の給付金はすごくありがたいものだった。僕の場合には特に大学院時代がそうだった。ふたりしてアルバイトを掛け持ちする苦学生夫婦にとって、まさに命綱だった。大学院在学中には、在日もようやく日本育英会の受給資格も認められることになったので、その二つの奨学金があったからこそ、僕らの大学院を終えることができたようなものだった。
しかし、能力不足なのか何なのか、生憎なことに指定された研究職に就職できなかったので、日本育英会への返済負担が大きく、もし、朝鮮奨学会にも返済義務があったなら、僕ら2人の長い非常勤生活は、はるかに厳しいものになっていただろう。
それはともかく、まだ学部に在学中に頻繁に奨学会図書室に通っていた頃に戻ると、教育関連で僕の父親代わりだった5親等の伯父が、奨学会の関西支部長と若かりし頃からの親しい友人だったという縁もあったし、頻繁に出没するので使い勝手が良いという理由もあったのか、時にはアルバイトとして奨学会の業務を手伝うこともあった。例えば、一斉糾弾闘争の牙城のひとつだった兵庫県立尼崎工業高校に職員に代わって派遣されたりもした。
因みに、上で触れた5親等の伯父とは、父の従兄で、統一朝鮮新聞の創立以来の編集長だったが、僕が大学に入学した1969年の秋には、持病の肝臓病の悪化で、失意のままに亡くなった。
それから30年後には、韓国済州で生まれ育ち、後には韓国の近現代文学の研究者として、また、小説家としても活躍するようになった従兄が、在日の調査で大阪にやって来た際には、大阪城近辺の砲兵工廠跡や真田山の陸軍墓地に続いて、従兄が是非とも5親等の伯父について話を聞きたいと言うので、奨学会の支部長のところにも案内した。
支部長はその従兄を迎えると、涙を流しながら歓迎してくれ、初対面の2人の感動的な様子を目にして、僕はお邪魔虫と感じたので、ふたりをその場に残して、僕はその場を去ったこともある。一世と僕ら二世の差異を、今さらながらに痛感してのことだった。
さて、尼工での僕の任務は、奨学生に奨学金を支給するのと合わせて、課外活動として在日の渡航史や朝鮮語の初歩などを教えたりして交流することだった。月に一度だけのことだし、たった3,4カ月だけのことだったが、そこでの見聞は僕の一斉糾弾闘争について考える際の大きな材料のひとつとなった。そこで知り合った一人の高校生がすごくなついてくれたので、僕の実家に招待して夕食を一緒にするなどして、その後も長い付き合いを期待していたのだが、尼工では突如として在日教員を正式採用することになり、僕の派遣は取りやめとなったので、その高校生とは二度と会えなくなるなど、期待ははかなく消えた。
しかし、その後にも大阪府立柴島高校では春休みに限って一週間、課外活動として尼工とよく似た関りを持った。さらに、僕自身の母校である大阪市立東三国中学にもたった1回だけのことだったが、在校生たちや、大阪みおける在日外国人教育運動の中心人物だった教員と交流する機会を得た。
そうした<にわか職員>としての、とりわけ<尼工>での経験については、以下で既に詳しく論じているので、ここでは繰り返さない。関心のある方は、是非とも参考にしていただきたい。
・『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社、2021年、特に106頁~137頁と151頁~152頁。
・「金時鐘とは何者かー<自分・在日語り>の済州篇―」朝鮮史研究会関西部会、2024年1月27日。そのレジュメは朝鮮史研究会月報に掲載。
・書評への応答;『金時鐘は「在日」をどう語ったか』、『コリア研究』第12号、立命館大学コリア研究センター、2024年3月
以上の文献を必要とされる方は、僕のメールアドレスにその旨と送り先を明記していただければ、メール添付か郵送でお送りします。もちろん、押し売りなので、無料です。
ついでに言えば 僕が大学時代に関係していた韓学同や朝鮮奨学会その他の、一斉糾弾闘争や民族祭りその他の在日の諸運動との関係についても、以下で詳論している。
「在日の精神史からみた生野民族文化祭の前史―在日の二世以降世代の諸運動と「民族祭り」―、41頁~62頁、『民族まつりの創造と展開』上、論考篇、JSPS科学研究費 基盤研究(C)研究成果報告書、課題番号22520069 2010年度~2013年度 研究代表者 飯田剛史、2014年2月28日
最後に挙げた文献は入手が困難なはずなので、せめて輪郭だけでも窺えるように、章立てなど全体の構成を以下に記して、参考に供しておきたい。
はじめに
1. 民族祭り研究の領域の拡張
2. 民族祭りの前史としての在日の状況と運動史
2、1 在日の2大組織の退潮と新たな潮流の勃興
2、2 在日の韓国籍サイドの状況変化
2、3 在日の韓国籍サイドの「第二極:の青年学生運動その他
3.民族祭りの準備
3,1 本節の内容について
3,2 韓国籍サイドの第二極の青年学生組織における民族文化体験
3,3 小中学校における民族学級の取り組み
3,4 日本の高校の朝鮮文化研究会(以下、朝文研と略記)
3,5 朝鮮奨学会
3,6 在日のキリスト教関係
3,7 韓国の状況、あるいは運動との関連
まとめに代えて
以上のようにささやかな拙論リストを見るだけでも、僕が一度は遭遇しながら切り捨てたつもりになっていた一斉糾弾闘争ばかりか、途中からそこに招き入れられて、やがてはそのヒーローとして持て囃され、自らもそのように振舞うようになった金時鐘さんに関しても、僕が半世紀にわたって未練がましくこだわってきたこと、さらには、いかにも僕らしい生産効率の悪さが一目瞭然であり、我ながら呆れてしまう。
しかし、肝腎なのは、いくら時間がかかっても、さらには、いくら歳をとっても、自分が解き明かせない問題に気づいたら、その解明のための努力を諦めないことだと、自らを叱咤しながら、何の役にも立ちそうにないこんな文章を、ちまちまと書き続けている。
そんな僕の、異様と評されがちな一斉糾弾や金時鐘さんに対する執拗な言及は、在日の近現代史の記述の一部に関する、僕の長年の違和感、とりわけ、1960年以後の在日史記述に関する違和感に端を発している。
例えば、右翼反動というラベルを貼り付けて一括し、殆ど無視されてきた民団傘下の青年学生組織はもちろん、日本政府と在日の左右の両組織が中立を標榜して共同で運営してきた朝鮮奨学会のとりわけ関西支部が、1960年以降に在日の青年学生たちに及ぼしてきた影響の数々に、しかるべき関心が払われてこなかったことに対して、半世紀近くも僕が温めてきた批判的観点のささやかな結果なのである。
それはともかく、当時の僕が関わっていた大学内の民族サークルや学外の民族的学生組織の僕も含めたメンバーの殆どが、一斉糾弾闘争における在日の若者と日本人教師との共闘に対して、その内情を理解したうえできちんと対峙できなかったことも、その活動の限界を証している。とりわけ、そうした限界に気づこうともしなかったことは、僕らが数多く冒してきた過誤の中でも大きなもののひとつだったと、今さらながらに思う。だからこそ、一斉糾弾のその後と金時鐘さんとの関係については、これからも書き続けなくてはならないと、自分に改めて言い聞かせている。
2)僕が生まれ育った地元の労働青年たちとの交友と韓青同の活動
大学一年から二年にかけて、僕が経験しながらも書き落としていたことの二番目は、僕が生まれ育った地域における在日の労働青年たちに対しての、それまでにはなかった角度からの関心を持って、交友を再開するなど、同世代の労働青年の生活と民族的活動の実態に触れ、理解を少しは深めたことである。
少し年上の幼馴染の人たちの仕事場に足を運び、邪魔になる懸念がありながらも、その働きぶりを見たり、よもやま話を交わしたり、週末の夜には、車に乗せてもらい、一緒にサウナで背中を流しあったりもした。さらには、彼らが中心になっていた韓青同大阪地方本部傘下の支部の活動にも、お客さん扱いながら参加した。
それによって、僕は大学の民族サークルや学外の民族活動と比較対照するなど、韓学同の活動の性質、とりわけ、その限界について考える得難い機会を得た。
そこで、あくまで韓学同について考える参考資料として、僕が垣間見た在日の労働青年の生活と民族的活動について語りたいのだが、それに先立って、必須の留保条件を提示することで、往々にして生じる誤解の防止に努めておく。
一つは、同じ在日の青年運動でも、民団傘下の学生、青年運動は、朝鮮総連傘下の学生・青年組織とは、親組織との関係が正反対と思えるほどに異なっていたことである。朝鮮総連とその傘下組織との間には殆ど軋轢・対立はなく、殆ど一枚岩のように映ったし、当事者たちもそのように主張していた。それに対し、民団とその傘下の青年・学生組織との間には厳しい軋轢・対立が常に存在し、同一組織内における与党と野党のような関係だった。
但し、以上はあくまで、半世紀以上も昔の、僕が学生時代のことに過ぎず、現在の話ではないことを、くれぐれも忘れることなく、この前後の文章を理解していただきたい。
そうした親団体と傘下団体との関係については、本シリーズの初期の頃に、韓学同と民団との関係に限ってのことだが、詳しく述べたことがあるので、ここでは再論を慎むが、以下のことだけは忘れないように、重ねてお願いしておきたい。
韓学同や韓青同の活動は、民団の傘下団体でありながらも、むしろその親団体である民団の中枢、さらには、それが依拠する本国政権とは対立し、その結果、監視や数々の処分など厳しい統制を受けながら活動していた。民団の執行部のメンバーは、しばしば韓青同や韓学同のことを、<スイカ>と呼んでいた。外見は青くても、開いてみると、中は真っ赤、つまり、実際は彼らの、そして民団の仇敵である共産主義者の巣窟と言うのだった。
その延長上では、僕は4年生で韓学同大阪本部の執行部の一員だってたころに、当時の民団大阪本部の監察委員長から、「お前はすっかりエンゲルス気取りやないか。それやったら、朝鮮総連に鞍替えした方が、傷ついて、親を泣かさないで済むのに、馬鹿者め!」と罵倒されたことがある。その人はかつて朝鮮総連のお偉方だったこともある、「やめ総連」だったらしいのだが、それにしては知ったかぶりの、しかも、ひどい曲解だった。自慢じゃないが、僕は生涯、共産主義者だったことは一度もないし、共産主義の聖典などもあまり読んだこともない、やわな日和見の中庸主義者である。したがって、民団のお偉方たち、とりわけ、大阪本部の人たちの<スイカ>呼ばわりは、韓学同をひどく買い被っていたか、あるいは、もっぱら貶めることで弾圧の伏線を敷くためのデマゴギーに過ぎなかった。
しかし、少なくとも民団とその傘下にある青年・学生団体との関係の一端を理解するには、格好のエピソードだからと、僕は鮮明に記憶している。
そんなわけで、朝鮮総連の性格をその傘下団体である青年・学生組織にそのまま当てはめても大きく外れないのとは正反対に、民団の性格をその傘下団体である韓青同や韓学同に当てはめると、とんでもない誤解を生じかねない。
第二に、僕がほんの少し、あくまで<お客さん>のようにして参加した韓青同とは、中央本部や地方本部のそれではなく、地方本部傘下の支部における労働青年たちの活動のことだった。韓青同は中央集権組織なので、総体を一括して論じることも可能だろうが、僕としては最低限、以下のことを抑えたうえで、論じるべきだと考えている。
韓青同の中央本部はもちろん地方本部も、主導的に活動するのは、専従者を中心にした執行部であり、支部などの労働青年たちの活動はそうした本部の専従者たちの指導や指示や支援を受けて活動していた。つまり、韓青同は、指導層は専従活動家で労働青年ではないのに対し、その指導や支援を受けて地元で活動する実働部隊は労働青年であるといったように、社会的ステイタスや生計手段と活動との関係が異なる二種類の青年たちが、上下関係を構成する組織体だった。
しかも、その階層は殆ど固定的だった。支部レベルの活動家が地方本部の専従や、さらに中央本部の専従、つまり指導層に<上昇>することも皆無ではなかったが、殆どなかっただろう。他方、地方本部の専従が中央本部の専従になる場合は、少なからずあったように思われるが、その場合には、専従活動家の転勤にすぎず、先に挙げた二つの階層間移動ではなかった。他方、支部の労働青年が中央本部の専従活動家になるといった、二つの階層間の移動を、少なくとも僕は見たことも聞いたこともない。
従って、物質(下部構造)が精神(上部構造)を規定するという言い方に倣えば、韓青同は、二つの下部構造とそれに由来する二つの精神的階層とが、交じり合うことなく併存する組織だった。
但し、その階層を貧富の階層と重ね合わせることはできない。専従活動家が支部の労働青年たちよりも経済的に豊かというわけではなく、むしろ、その反対だった。専従活動家の給料は微々たるもので、独身ならまだしも、夫婦やさらに子供までいる世帯の生計を支えることはとうてい無理だった。したがって、民族的組織活動とは別の労働によって、たとえ多額ではなくても生計を支えるだけの所得を得ていた支部の労働青年たちの方が、経済的には余裕がある場合が一般的だった。
逆に言えば、自分の稼ぎで家計を支える必要のない人が専従活動家になったとも言えそうである。経済的に豊かな家の生まれだったり、伴侶に十分な稼ぎがあったり、あるいはまた、大学院生で何らかのアルバイトで最低限の生活費くらいは稼げると言った、経済的条件に恵まれた人、あるいは、もっぱら使命感にかられて<冷や飯>を自ら買って出るような<志が高い>若者が専従活動家になりえた。
そんな地方本部の専従活動家の活動の一端を、僕は一年近くも韓学同の本部に通ううちに、見聞きして、ある程度は分かるようになった。民団や韓青同大阪本部事務所はもちろん、様々な行事や宴会や、さらには、事務所近くの麻雀屋で時間をつぶしながら交し合う話なども見聞きして、やむを得ないこととは思いながらも、あまり好印象はなかった。ところが、地元の労働青年との交友で目撃した活動と日常生活は、それとは多様な意味で大きく異なるので驚くと共に、地元の労働青年たちの活動や人となりに好奇心を強く刺激され、新鮮な共感を覚えた。
3)韓青同の支部レベルの活動家や参加者たち
僕が地元で参加した韓青同というのは、平日の昼間は労働に明け暮れて、夜も7時や8時を過ぎてようやく仕事を終えてから、あるいは、週末などのごく限られた時間における活動のことだった。
当時の在日の労働青年たちは、親と一緒に自営業に従事したり、地縁・血縁などで、零細もしくはそれに近い小さな企業、今でいう3Kとかみず商売と呼ばれる職種に雇用され、将来もその経験を活かして同種の業態で独立して自営を目標にするような人が大半だった。
女性の場合は家業の手伝いが多く、在日が経営する小企業体などで事務仕事や飲食業に従事する者が大半で、男女に違いがあるとすれば、肉体労働の軽重など職種の違いくらいだった。
零細自営業者にとって必須でありながらも、当時は都市銀行の門戸は在日には狭かので、金融も同業者間や地縁・血縁関係を基盤にした相互扶助が基本であり、その代表が頼母子、手形や小切手の貸し借りなど、不法あるいは不法すれすれの危険な手段に頼るしかなかった。70年代にもなると、それ以前と比べれば、都市銀行も在日に門戸を少しは広くするようになったが、それでも信用保証や担保などに関しての厳しい条件があったので、国籍をはじめとして条件が比較的に緩い在日系の信用組合の貸付に頼るのが中心で、貸付利子などもはるかに高く、不利だった。住宅ローンなども、在日の場合は都市銀行はよほどでなければ受け付けず、その銀行系列の住宅ローン会社の高利の貸付に頼らざるを得ないほどだった。それだけに、「一つこけたら皆こける」といったように、在日の私的金融による連鎖倒産や夜逃げなども多く発生した。
労働時間なども現在とは全く異なるハードなものだった。週休二日どころか、週休一日も確保するのは難しく、急ぎの仕事があれば、祝祭日にも勤務が一般的だった。土曜日の半ドンは。日本人の場合であり、在日の労働現場では殆どなかった。
メンバーの殆どが日本の公教育で小・中学校を終えて、高校は定時制に辛うじて通った青年、つまり、中学卒業以前から既に労働に明け暮れていた人が多かった。
そんな余裕のない青年たちが、ただでさえ限られた余暇に、勉強したり本を読んだりするのは、なかなか難しい。そんな状況におかれながら、民族的活動に喜び勇んで参加する青年が在日の、とりわけ、民団系の家庭で一般的であるはずもないから、組織率も低かった。
しかし、それだけに、参加者には、何か切実な欲求や喜びがあったのだろう。人恋しさとか、それも厳しい民族差別が大手を振る社会から解放されたひと時の安らぎといったように。
韓青同の支部レベルの活動家や参加者も、そうした在日の労働青年一般の、多様な縁が何重にも重なった濃密なエスニックコミュニティの一員だった。その一方で、そのようなコミュニティとは断絶していたり、はるかな距離がある青年たちもいたが、そんな青年たちも韓青同の活動に加わることで、そこに色濃く残存していた伝統的なエスニックコミュニティを(再)発見し、そこに一体感や安らぎの時空を見出し、それに虜になった者もいる。その極端な例が、すっかりアウトローの世界に片足を入れていたのに、それとは別の場所の方に、生涯を託せる仲間を見出して、悪の世界から足を洗ったような人もいた。
その人たちは、自分と同じような労働青年だけでなく、地元の在日コミュニティの老若男女の生活に根を張っていた。いわゆる活動以外に、冠婚葬祭などでも有用な人手として活躍すると同時に、それ自体を楽しんでいた。それが彼らの民族的な日常活動の基盤になっていた。活動と生活とが区別できるものではなかった。
韓青同の支部の活動は、差別問題その他の権利保障などの生活問題に加えて、祖国の統一、民主化などの政治的スローガンを掲げながらも(本部の専従の指導部の主たる領域)、その実、親睦、商売、就職斡旋、異性の友人紹介、その延長上での恋愛、結婚の斡旋など、実に多様な意味での出会いとその延長上での相互扶助(支部の日常活動の領域)が、必ずしも口外せずとも、より切実で重要なものであった。
メンバーのリクルートも、「どこそこの三兄弟、三姉妹」といった言葉が意味を持つ親密圏を中核に、その伴侶たちも含めての「友達の友達は友達」式のネットワークが機能しており、そうして構成された集団の活動は、個々人の生活の一部などではなく、個々の生活全般に広く関係するもので、一過性のものにおさまるはずがなく、生涯にわたる堅い絆になることも多かった。
4)民団傘下の青年組織(韓青同)と学生組織(韓学同)の相違
支部レベルの、いわば草の根レベルの韓青同の活動の性格を考えるには、学生組織である韓学同と比較すれば、より鮮明になるだろう。分かりやすそうな事項に絞って、箇条書きしてみる。
1.本業の違い;韓学同は建前としては学生が本業のメンバーで構成されていたのに対し、韓青同は高校生(夜間の定時制も含む)や大学生なども含むが、基本的には労働を本業として、経済活動が本業である青年で構成されていた。
2.拠点の違い;韓学同は大学内サークルもしくは民団本部内の一室である韓学同大阪本部(後には朝鮮奨学会関西支部の図書室と、韓学同の寮と呼ばれる一軒家になったが、韓青同は民団支部や分団など民団の建物と地元のメンバーたちの家その他の関連場所だった。
それもあって、韓学同の成員は一般に、どこで生まれ育とうとも、また、どこで生活をしようとも、所属することになった大学の地域の韓学同組織に属するのが一般的だった(属人主義的?)。但し、敢えて大学が位置する地域の韓学同ではなく、自分が暮らす地域の韓学同に属すことを選び、卒業するとその地域の韓青同で活動し、35歳を過ぎると同じ地域の民団で活動するといったように、生涯の殆どの時期を、自分が生まれ育った地域の組織に優先的に属する場合も少しはあり、そんな人の中には、韓学同地方本部の委員長、韓青同地方本部の委員長、そして最後には民団地方本部の団長となった人もいる。
それに対し、韓青同の成員は日常的に暮らしている地域の韓青同に属するのが普通であり、属地主義とでも呼べそうである。
3. メンバーシップの年齢などの参加資格の違い;韓学同は18歳から22歳(4年幅)が基本なのに対し、韓青同は18歳から35歳(17年幅)までと年齢幅が約4倍とはるかに広いので、高校生、独身青年、子どもがいる家庭の夫や妻といったように多様だ
以上の単純な対比だけでも、韓青同と韓学同とでは、どちらも同じく大衆組織を謡っていても、その言葉が指し示す内容には大きなずれが生じていた可能性が推察される。
5)学生組織と青年組織における言語の比重とずれ
学生組織の大衆運動とは、運動の対象が学生大衆であるということが第一義で、それに加えて、民団の関係部署に、学生大衆の総意という建前で提言することで、民団大衆にも間接的に影響力を行使するということも含意されていたが、それはあくまで建前の話であり、それに実効性が感じられることは稀な機会だけのことであった。例えば、入管法反対や外交人学校法案反対運動の場合がそれだった。しかし、それも、韓青同と民団内の民主派と呼ばれていたグループとの共闘の結果であった。しかし、そうした統一戦線が民団内で影響力を発揮できるのは、ごく稀なことであり、しかも、韓国政府に対する直接的批判を含まない場合に限られていたし、統一戦線を除けば、韓学同自体には民団大衆に声を届けるような手段は殆どなかった。
それに対して、韓青同は民団の各支部とその地域の在日コミュニティに一定の基盤を持ち、動員力も韓学同の比ではないことなども相まって、青年ばかりか、民団の成人大衆全般にまで直接的な影響力を行使する可能性を備えていた。
以上のような差異を前提にして、韓学同の大衆運動としての在日の学生運動という言葉が意味することを、その実態と照合してみると、言葉がいかに実質を欠いたものであったかがよく分かる。そしてそれだけに、僕などは自分たち、民団内の学生組織の限界を意識しないわけにはいかなかった。そして、相当に限定的なものに過ぎない学生運動に参加していることを忘れないように努めることになった。
しかし、韓学同のメンバーの中には、そうした厳しい現実に対する反動のようにして、自分たちが在日の前衛的組織としての役割を担うべきと考えるような傾向の学生もいた。
僕のような腰抜けでも、そんな立派で大層なことが、ついつい口から出てしまうようなこともたまにはあるが、本当のところは、自分たちがしていることは、決してそんなものではないことを自認していた。だからこそ、威勢が良く、切れ味の鋭い弁舌には憧れる一方で、そんな言葉に弄ばれないように警戒して、腰が引けるようなことが多かった。特に労働青年を兼ねた学生が多い大阪の韓学同には、僕のような認識が一般的だったように思っていた。
だから、そうした考えの延長上では、地域に根差せない韓学同の論理など現実性がないと見做し、それに飽き足らないからこそ学生同盟ではなく、韓青同での活動を選ぶ学生もいた。
要するに、中央本部や地方本部の公的な文章や言葉を見聞きしているだけでは、韓青同の実態は分かりにくいし、韓学同と韓青同の違いなど分かるはずがないと言いたいのである。
そんなことを、僕は韓青同の地域の在日コミュニティの一端に根ざした労働青年たちの生活と活動に触れることで痛感した。そして当然、韓学同とは何かについて、懐疑を深くせざるを得なかった。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の24に続く)