現在の教育システムにおいて、自己の感情を自律的に制御できるようになるための教育上の指針なり方法論はほとんどない。
そもそも、教育関係者の誰もが、こうした教育を受けておらず。自己制御自体ができないのであるから生徒達に対してもできないのも必然というものかも知れない。
養老とかが、「教わっていないことは、教えられない。」などと言っているのも、一理あるとも言える。もちろん「一理。」しかないのであるが。
親や教師などの大人からの評価を、強迫観念的に欲した結果。成績評価だけにしか意識が働かないチンパンジー的な高い能力を獲得しても、それは成績評価という「エサ。」と引き換えにしか発揮することのできない、極めて限定的な能力でしかなく。また、途中で評価の得られそうにない行為には一切興味を持たず、大多数の意見に流されるだけなので。結局は新しい発見や発明の全くできない単なる「学力の高い凡人。」にしかならないのである。
東京大学生物学部などは、こうした高学力な凡人しかいないので。体制に迎合するだけで自律的には何も判断しない従順な年功序列体質の歯車の一人に成り下がるのである。
その結果、生物学的な社会形成習性を無意識的に発揮し、体制に迎合しない人間の意見を徹底的に排除する「閉じた。」体制を作り出すのである。生物学であるから、生物の習性に従うのは必然であろうか。それなら「学。」ではなく、単なる「生物。」でしかないではないか。
東大というのは、学内の観光ツアーを行いさえすれば、「開かれた大学。」であると言い張るのである。
北朝鮮や、暴力団、テロリスト集団などに見られる「閉じた。」体制というものは。無意識的な服従性によって、漫然と作り出される封建的集団特有の盲目性である。
もし、自浄効果が働いているのならば、帝京大学の安部英のような「権威。」に対する精密検証と、それに伴う批判精神によって。自ずと排除されていたはずである。
養老の言葉に、「論理整合性がないだけ、開かれているではないか。」というのがある。マトモな科学者であれば、この時点で「こいつは頭がイカれている。」と排除しているはずであるが。脳科学者の誰も養老を批判せず、大衆人気のあるペテンにあやかることしかしていないのである。
「論理整合性を開く。」とは、言っている内容が支離滅裂であるということである。理論的にツジツマの合わない話にしなくてはならないのは、その話が理論的な根拠がなく、単なる観念でしかないからこそ。その観念を「閉じる。」ために論理整合性を「開いて。」いなければならないのである。
自分勝手な観念の殻の中に閉じ篭るために、論理整合性は「開かなければならない。」のである。
養老ほど支離滅裂な話をする者も珍しいのだが。こうした支離滅裂な話を真に受けてしまう者しかいない現状が、私は気持ち悪くて仕方がない。養老の観念と共鳴できるようなルサンチマン全開の人間しか、日本にはいないのではないかと思うと吐き気しかしないのだが。恐らく体制から睨まれずにいることを優先し、理解しながらも保身のために沈黙しているのであろう。「学界内部で大勢を占める。」までは、黙って推移を見守っていた方が危険ではないからであろう。非常に「理性的。」でもあるが。その根本動機は極めて利己的でもあり、公益倫理に反する行動選択でもある。
それは保身が目的であって、研究内容自体は目的ではないということの現れであり。研究者としての素養の欠落をも意味する。
こと程左様に、自発性のない者の行動というものは。旧来の体制維持、実力を排除する年功序列主義の脱構築性を失わせるものであり。内実を伴わない表面的な権威性を維持するだけの組織の形骸化が生ずるのである。
こうした集団から、原発の安全性なんぞ確保できるわけがないのである。東大の原子力関係の研究者達が、テレビで偉そうに解説しているが。こいつら原発の設計にも関与しているはずである。何で今更こいつらの言うことを信用しなければならないのか、訳がわからぬ話である。マスコミも頭がおかしいとしか思えない。
都合の良いように「国民に冷静な態度。」を要求しておいて、都合が悪いことには目を潰れというのは、もはやご都合主義というレベルではなく。頭がイカれているとしか思えない。
本質的意識に関する話を散々隠蔽しておきながら、都合の良い時だけ理性的で冷静な対応を求めること自体、支離滅裂である。個人的感情としては「東大なんぞ焼き討ちにでも遭えばいい。」と思うくらいである。一体何が「国家最高学府。」であろうか、ふざけているとしか言いようがない。
もちろん、この記事を読んでいる人であるなら、個人的感情論に意味がないことは充分に承知しているであろう。偶然初めて読んだ人がいて、ヒステリックな行動に出たとしても、もはや止める気にもならない。
そもそも、教育関係者の誰もが、こうした教育を受けておらず。自己制御自体ができないのであるから生徒達に対してもできないのも必然というものかも知れない。
養老とかが、「教わっていないことは、教えられない。」などと言っているのも、一理あるとも言える。もちろん「一理。」しかないのであるが。
親や教師などの大人からの評価を、強迫観念的に欲した結果。成績評価だけにしか意識が働かないチンパンジー的な高い能力を獲得しても、それは成績評価という「エサ。」と引き換えにしか発揮することのできない、極めて限定的な能力でしかなく。また、途中で評価の得られそうにない行為には一切興味を持たず、大多数の意見に流されるだけなので。結局は新しい発見や発明の全くできない単なる「学力の高い凡人。」にしかならないのである。
東京大学生物学部などは、こうした高学力な凡人しかいないので。体制に迎合するだけで自律的には何も判断しない従順な年功序列体質の歯車の一人に成り下がるのである。
その結果、生物学的な社会形成習性を無意識的に発揮し、体制に迎合しない人間の意見を徹底的に排除する「閉じた。」体制を作り出すのである。生物学であるから、生物の習性に従うのは必然であろうか。それなら「学。」ではなく、単なる「生物。」でしかないではないか。
東大というのは、学内の観光ツアーを行いさえすれば、「開かれた大学。」であると言い張るのである。
北朝鮮や、暴力団、テロリスト集団などに見られる「閉じた。」体制というものは。無意識的な服従性によって、漫然と作り出される封建的集団特有の盲目性である。
もし、自浄効果が働いているのならば、帝京大学の安部英のような「権威。」に対する精密検証と、それに伴う批判精神によって。自ずと排除されていたはずである。
養老の言葉に、「論理整合性がないだけ、開かれているではないか。」というのがある。マトモな科学者であれば、この時点で「こいつは頭がイカれている。」と排除しているはずであるが。脳科学者の誰も養老を批判せず、大衆人気のあるペテンにあやかることしかしていないのである。
「論理整合性を開く。」とは、言っている内容が支離滅裂であるということである。理論的にツジツマの合わない話にしなくてはならないのは、その話が理論的な根拠がなく、単なる観念でしかないからこそ。その観念を「閉じる。」ために論理整合性を「開いて。」いなければならないのである。
自分勝手な観念の殻の中に閉じ篭るために、論理整合性は「開かなければならない。」のである。
養老ほど支離滅裂な話をする者も珍しいのだが。こうした支離滅裂な話を真に受けてしまう者しかいない現状が、私は気持ち悪くて仕方がない。養老の観念と共鳴できるようなルサンチマン全開の人間しか、日本にはいないのではないかと思うと吐き気しかしないのだが。恐らく体制から睨まれずにいることを優先し、理解しながらも保身のために沈黙しているのであろう。「学界内部で大勢を占める。」までは、黙って推移を見守っていた方が危険ではないからであろう。非常に「理性的。」でもあるが。その根本動機は極めて利己的でもあり、公益倫理に反する行動選択でもある。
それは保身が目的であって、研究内容自体は目的ではないということの現れであり。研究者としての素養の欠落をも意味する。
こと程左様に、自発性のない者の行動というものは。旧来の体制維持、実力を排除する年功序列主義の脱構築性を失わせるものであり。内実を伴わない表面的な権威性を維持するだけの組織の形骸化が生ずるのである。
こうした集団から、原発の安全性なんぞ確保できるわけがないのである。東大の原子力関係の研究者達が、テレビで偉そうに解説しているが。こいつら原発の設計にも関与しているはずである。何で今更こいつらの言うことを信用しなければならないのか、訳がわからぬ話である。マスコミも頭がおかしいとしか思えない。
都合の良いように「国民に冷静な態度。」を要求しておいて、都合が悪いことには目を潰れというのは、もはやご都合主義というレベルではなく。頭がイカれているとしか思えない。
本質的意識に関する話を散々隠蔽しておきながら、都合の良い時だけ理性的で冷静な対応を求めること自体、支離滅裂である。個人的感情としては「東大なんぞ焼き討ちにでも遭えばいい。」と思うくらいである。一体何が「国家最高学府。」であろうか、ふざけているとしか言いようがない。
もちろん、この記事を読んでいる人であるなら、個人的感情論に意味がないことは充分に承知しているであろう。偶然初めて読んだ人がいて、ヒステリックな行動に出たとしても、もはや止める気にもならない。