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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

Place cell。

2013年10月28日 16時03分22秒 | 意識論関連
○Place cell。

 脳の海馬にはPlace cell(場所細胞)というのがあって、これを利用すると暗記に応用出来るそうだ。

 年齢に関わらず、有酸素運動をすることで海馬を成長させるのだそうで、認知症リスクを半減させるとのこと。

 ただし、単なる記憶能力というものが短絡的に人間としての知能(自律的な社会的責任判断能力)の論証になるわけではない。東電社員の記憶能力さえ高ければ原発の危険性が放置されなかったなどという話には全くならず、あくまで特定の記憶能力についての話に過ぎない。記憶力などの特定能力だけ論じても、本質的な人間としての知能を証明したことには全くならない。

 結論としては、あくまで「有酸素運動が認知症リスクを半減させる。」ことが証明されたのであって、記憶術や脳トレーニング類に認知症予防効果が証明されたわけではないことを勘違いしてはいけない。

 通り魔やテロリストや振り込め詐欺師の海馬が萎縮している訳でもないので、「海馬の容量=人間としての知能」という短絡的方程式にも当然ならない。記憶術で記憶力が上がれば、大衆観念的には頭が良くなったような錯覚を得ることで安心満足することも簡単であろうが、記憶力などの特定能力だけで知能の全てを論ずるのはあまりに短絡的で、大衆ウケ狙いに他ならない。

 記憶力が向上すれば生活上は便利であろうが、そもそもメモをとれば済むような記憶力ならメモを忘れず書けば良いのであって、下らない記憶術のコツで「自分の頭が良くなった。」などと勝手に錯覚して満足すること自体が頭の悪さを露呈している。

 人間としても最も肝心な、「自律的な社会的責任判断能力」についての配慮を忘れ、ヒトの多くはその場限りの気分的安心満足ばかりを追求しているから、こうした記憶術の類に知能論が撹乱されてしまうのである。

 暗記術の類をどんなに会得しても、ノーベル賞が採れるような発見発明が出来るわけでも、戦争も含めた重大な「人災」への対策が立てられる訳でもなく。あくまで記憶の外見的容量が増えることで「自分の頭が良くなった。」ような錯覚に陥って大衆観念的に安心満足しているに過ぎないのである。

 記憶コンテストの類で高い成績をとっていても、他者との比較による優位性(環境から与えられる抽象化された脳への報酬)を目的としている限り、思うように成績が伸びなくなれば簡単に諦めてしまい、認知症に陥ることは充分考えられる。

 記憶コンテストという環境自体が、クソゲー環境同様に本質的自発性を伴うものではなく。あくまで他者との比較によって自分の優位性を妄想させることで促されている能力に過ぎない。「他者との比較による優位性。」という「ソーシャル」な環境依存的行動バイアスに無意識に流されている時点で、既に主体的な脳の使い方から逸脱しており、成績ランクという偏った価値観に基づいていることに気付かない点において、無意識であり頭が悪いと言えるのである。

 「元気が出る。」だの「勇気がわく。」といった安心満足気分感情の問題を、短絡的に「頭が良くなった。」ことの論理的根拠であるかのように錯覚しているのが、最も大衆迎合的でバカげているのである。

 学力が高いだけの無差別殺人犯というのも、要するに現状における教育システム上での成績評価を鵜呑みにし、成績さえ良ければ短絡的に頭が良くなったと勝手に勘違いし、成績評価の論理的根拠への配慮検証性が全く働いていないからこそ、学力成績だけに意識を奪われ本質的な知能を喪失することに陥り無差別殺人などという愚かな行動へと暴走するハメに陥るのである。



 認知症になりかけのウチの母親もそうだが、認知症に陥るヒトというのは自発性とか主体的意欲といったものが欠けており、環境依存的にあれこれ他者がそそのかさないと全く動こうとも、考えようともしない。こうした性格は認知症状を発症する以前からのものであり、認知症状が出てから自発性がなくなったわけではない。

 学習ドリルの類が認知症改善に効果があるというのも、あくまで成績を評価してくれる他者環境に依存したものであって。むしろ認知症患者には本質的主体性が欠如していることの証明でもある。

 学習ドリルの解答が合っているのかどうかを他人が評価し、「よく出来ました。」的にそそのかしてくれる他者の存在がなければ意欲を発揮出来ないということは、自発的に何かを検証するといった本質的意欲や好奇心が欠けていることの証明である。

 記憶術の類で安心満足しているというのは、認知症患者が学習ドリルで評価されて気分的に安心満足し、自信を持っているのと同じで。根源的な頭の悪さ、本質的主体性の欠落自体は構造的には全く同じものである。

 たとえ脳に加齢による老人斑が生じていても、主体的意欲による論理検証性を持っていれば認知症状は発症しないことも多く。必ずしも有酸素運動をしなければ認知症に陥るというわけでもなければ、有酸素運動さえしておけば認知症に全くならないわけでもない。有酸素運動はあくまで認知症リスクを半減させるという臨床統計に過ぎない。

 「半減」ということは、原因の一つである証明ではあっても、絶対根源的原因の証明ではないのである。

 たとえ記憶力がどんなに高くても、環境に流され社会安全性や持続可能性への配慮が抜け落ちていたのでは人間としてバカであることに変わりはない。



Ende;

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