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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

責任の範囲外

2021年08月10日 14時46分25秒 | 意識論関連

以前にも書いたことがあるんだが

甥っ子が小学生の時に プレイステーションでクラッシュ・バンディクーをやっていたのだが

まるで「家事ヤロウ」以外の番組に出演しているカズレーザーみたいな死んだような目でつまらなそうにやっていたので 「それ 楽しいのか?」と訊いたら 「… そんなには…」という答えが帰ってきた

「じゃ 何でやってんの?」と訊くと 「学校で友達と話が合わなくなるから」という どっかで聞いたような答えが帰ってきた

下手すると 小学生がゲームをやるのは ゲームが楽しいからではなく 本当は全員「学校で友達と話を合わせるため」だけにやっている可能性もある

”ゲーム=楽しいもの”という刷り込み(根拠なき常識)でやっているだけであって 本当は誰もゲームなんぞ興味はないのではないか

バーゲンセールで商品を奪い合って欲しくもないものに無駄遣いするのと同じようなもので 状況とか環境に無意識に流され 本当はやりたくもないことを必死になって集団でやっているのではないか

冷静になって考えてみたら 本当はそんなに欲しくもやりたくもないことなのに 皆が競うようにやっているもんだから やらないと損なんじゃなかろうかという「感覚(錯覚)」に流されていることって 結構ありがちなのではないか

それが「無意識」というものの正体である

「冷静になって考えてみたら」ということは 要するに「目先の感情に無意識に流されてやっているだけ」だからこそ「冷静」になれば無駄だと気づくことができるわけで

これって振り込め詐欺に騙されているのと構造的に一緒なんだよな

冷静になって考えれば 「ウチの息子や孫は犯罪や事故に本当に巻き込まれているのかしら そもそもお金払って刑を免れることなんてできるわけないのに」って気づくことは簡単なはずである

「約束手形をなくした」なんて話であっても 冷静に考えたらなくした手形は銀行に停止してもらって新しく発行すれば良いだけの話であって 「何でアタシが肩代わりしなくちゃならないの?」って気づくことは簡単なはずである

そもそも取引のない銀行に他人の手形持っていって現金化することなどできるわけがないだろ

何千万円もの大金を即日に工面できるほどの資産がありながら 手形がどういうものなのかを知らないというのは随分おかしな話である

 

何が言いたいかというと 目先の感情が論理客観性を失わせることこそが 「無意識」に無駄な行動を採ってしまう原因であるということ

それなら 意識の本質とは何かと言えば 自ずと「冷静になって論理客観的に考えてみること」なのである

バカというのは冷静に物事を考えることを「人間味がない」だとか形容して 頭ごなしに否定したがるが ヒトという種の生物が先天的にバカで欠陥を持っている以上 ”人間味=人間性や倫理”という方程式は成立しない

カモが騙されて暴力団に資金提供しておいて 「人間性」があることの論証になどならんだろ

感情というものは先天的に組み込まれた本能習性に起因するものであり かつての祖先がかつての生存環境にとって有利になる適応的行動習性が組み込まれているに過ぎない

だから焦って感情的になると冷静さを簡単に喪失してバカみたいな無駄な行動でも達成するまでやめることができない

何を達成するのかといえば 「気分的に安心満足するまで」という主観的な達成感だけであって 別に合理性があるわけではない

論理客観的な合理性ある安全性の保証が確認されるかどうかに関係なく 主観的安心満足することだけを「達成」しようとする

ヒトとは そういうものなのである

だが これは「結果」であって「目的」でも「考え」でもない

こういった欠陥が先天的に存在することを踏まえて 気分感情だけに流されることなく 論理客観的に物事を把握しないと失敗する可能性が高いことを自覚しておく必要性がある

ヒトという種の生物は先天的にはバカで欠陥があるものだが 欠陥がどういうものなのかを理解し 把握し 論理客観的に検証(考え)することで バカげた行動に陥らないように回避することができる

 

他人と比較して特定の能力が高いことを自慢して まるで人間として優秀であるかのように錯覚して満足することは簡単であるが クイズの正解率だの学力試験やIQの偏差値だのは それだけでは人間性としての価値基準には全くならない

本当の人間としての価値基準とは 他人と比較できるようなものではないからだ

個人が自律的な社会的責任判断をするのは むしろ人間として当然のことであって 褒められなくても評価されなくても 逆に組織から排除されるとしても全うする必要がある

原発の安全担当者が 原発の津波に対する脆弱性放置を「東電の組織体質が悪いからだ」と言い出しても そんなもん言い逃れにもならない

社会安全性や持続可能性を追求しても 金にもならなきゃ評価にもなりゃしない

それでもやるのは 自分が生きていく上で破綻することがわかっている社会には生き続ける必要性が論理的に存在しないからである

「人が人を殺してはいけない理由」はないが 「人が人を殺してまで生き続ける理由」もまたないのである

生存そのものにいくら執着しても いつか必ず死ぬことからは逃れられない

自己の生存にとっていくら有利な行動を選択しても 社会全体が破綻してしまったのでは自分が何年生き延びても 人間として満たされる人生にはならない

論理客観的に考えれば それは明白であり 何が本当に「正しい行動なのか」は誰もが「知って」いるのである

それともバカ過ぎて理解できないバカしかおらんのか?

まあ 養老孟司の「バカの壁」だのイマヌエル:カントの「純粋理性批判」なんぞを鵜呑みにしているようなバカしかおらんのなら 本当にバカしかいないのかもね

そらもう私の責任じゃないからな

とてもじゃないが面倒看きれないよ

 

 

 

Ende;


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