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太平洋戦争の時に反戦を論じた新聞社が多数大衆による不買運動に負けたように、多数大衆がバカならば社会安全性も持続可能性も放棄される。それでもマスコミというのは社会安全性や持続可能性を追求し続けなければならない社会的使命というものがある。世間的成功としての販売部数だの視聴率ばかりを追求するというのはマスコミとしての社会的使命、本質的な社会的要請の放棄に他ならない。
多数大衆の流行に逆らえば世間的には上手くゆかないこともしばしばあろう。本論に多数人気がないのも同じ理由である。たとえ流行に逆らってでも、社会全体の持続可能性や安全性というものを優先することは、人間においての義務なのである。
経営学修士課程を取ったからといっても、所詮は企業の経営における世間的成功能力に過ぎない。それは一級建築士の免許を持っていても建築強度偽装をしないことの証明にならないのと同様、社会全体の持続可能性や安全性を優先することの論証には全くならないのである。
それは人間性の論証とは無関係なのである。
世間的な成功を「目的」とすることは、社会全体の持続可能性や安全性を二の次にする意識狭窄性を促すことに陥る。多数大衆がバカで、現状世間的に成功することだけが人間としての価値であると勘違いしていれば、統合的視点に立脚した社会全体の持続可能性や安全性が無視されるのは当然の結果である。
ヒトの多くは目先の利益という、「生体にとって有利と見なされる結果」こそが人間の価値基準であると思うのであろう。こうした目先の「効用」に意識を奪われているから検証範囲の狭窄化に陥り、社会の持続可能性や安全性を見失うことに陥るのである。
利益を求めるのは本能であり無意識である。どんなに意欲的であろうとも、どんなに渇望していようとも、本能という自己自身による意識的選択を介さない無意識行動に意識を奪われてれば、破綻への暴走に陥るのは当然の結果である。
Ende;