深層学習型ニューラルネットワークAIが 大量の「正解データ」からネコをネコだと認識できるようになるというのは 「ネコの抽象化」だと言えます
しかし 予め与えられている正解データが少ない場合には ネコをネコだと認識する能力は高くなりません
ヒトの乳幼児期では 小児科医からたくさんの予防接種をされたり 金属のヘラ状のものを舌に押し付けられたりするため 子供は小児科医に対する嫌悪感や恐怖感を経験的に「学習」してしまい 白衣を見ただけで泣き出したりすることがあります
白衣というのは医師以外でも着用することがあり 栄養士であっても幼児は白衣を見て泣き出すこともあります これはまだ栄養士と医師の違いを識別するための経験(正解データ)が少ないために 「白衣=医師」という短絡的抽象化しか「学習」されていないためだと言えます
オオスカシバという昆虫がいまして これは蛾の一種で 毒針どころか噛み付く顎すら持たず もっぱらストロー状の口で花の蜜を吸うだけの人畜無害な昆虫です
これ とても大きくて 透明な翅で高速に羽ばたきホバリングができる上に 色も派手な黄色であるため 知らない人がみたら大型のスズメバチのようなものではないかと恐怖を抱くことがあります
ヒトの認知機能としては AIとは異なり一度オオスカシバとオオスズメバチの相違点を認識すれば オオスカシバを見ても恐怖は感じなくなりますが
AIの場合は大量の「正解データ」を与えないとオオスカシバをオオスカシバだとは認識(抽象化)はできません
幼児が栄養士の白衣を怖がり泣き出した場合に 「この人はお医者さんではない」と教えても 白衣に対する観念的(抽象的)恐怖の方が先行してしまい泣き止んでくれないことがあります
ヒトであっても幼児期には論理客観性が充分に発達していないために 主観的感情や抽象的観念が先行して泣くわけです
しかし ある程度の年齢にまで育つと 白衣に対して反射的な恐怖心によって泣き出したりはしなくなります
泣き出さなくなる理由としては 一つは「危害を加えられるのではなくて 病気が悪くならないように治療してくれているのだ」と客観的に理解することで恐怖心を抑えることが出来る
もう一つの理由は 「みんなが泣いていないのに 自分だけが泣いているのは恥ずかしい」というピアプレッシャー(同調圧力)から恐怖心を抑圧するという要素もあります
大人になっても ワクチン接種で注射針を刺される恐怖心というものはあるもので 接種を受ける人は大抵注射針を刺されるところから目をそむけて見ないようにすることが多いようです
最近の注射針というのは 本当はさして痛みはないのですが 視覚情報というのはヒトの感覚入力で大きな要素を占めているため 刺されるところを注視してしまうと 本当はそんなに痛くもないのに反射的に無駄な力が入ってしまうため 針を刺されるところは見ないようにしておいた方が安全でもあります
何の話だっけ?
ああ 恐怖対象の抽象化の話だった
寒すぎて記憶がとぶわ
指も動かないし
子供が「勉強ってしなくちゃいけないの?」と嫌がるのは
実は学校の授業が退屈で面白くないからであって 学校の授業に対する苦痛を学習することで勉強が嫌いになってしまうからなんですね
でも 本当は知りたいことを知ることというのは楽しいことであって 学んでできることが増えると人生はより楽しいものになるわけです
人というのは望んでいないことを強要されると楽しいとは感じないものであり 望んだことが得られると楽しいと感じるものなのです
学力成績を高めるための「手段」の一つとして 他人との成績競争を煽る手口があります
他人と比べて成績が低いことに対し 「恥ずかしい」という恐怖心を煽ることによって強迫観念的に勉強をさせる手法です
成績が上がると大人から誉められます
誉められると嬉しいのですが 勉強自体は望んではいないので 誉められることが動機で学習しているだけなので 教えられたことを教えられた通りに覚えてできるようになること以外には自発的興味が育ちません
チンパンジーの瞬間記憶能力実験と一緒で エサと引き換えにタッチパネルを操作しているだけであって 別にチンパンジーはタッチパネルを操作したいわけではないので エサが得られなくなれば一切興味を持たなくなります
人が社会に出て 様々な問題に直面した場合 教えられたことをただ鵜呑みにしていただけでは未知の問題解決能力は発揮することが出来ず そもそも問題自体を発見することすらできません
それこそ 間違ったことを教えられても 教えられた内容が間違っていることにすら気付くことはできないのは 学ぶということに対する主体性とか自発性が無いのが原因です
自発的に楽しいと思ってやっていることは 他人からの評価や報酬とは無関係に 純粋に個人的楽しみとして脳内麻薬の自給自足ができるため 集中力も高いために教師などから無理やり教え込まれずとも勝手に学んで能力を高めることができます
自発的意欲を発揮できる 個人的な興味のある事柄さえ発見できれば 大人がいちいち教え込まなくても勝手に学んで様々な知識や能力を獲得することができるのです
生徒本人が興味のないことを無理やり教えこもうとするから「何でこんな簡単なことができないんだ!」と 教師の方も理不尽な感情に苛まされてしまうことに陥るのです
どんなに簡単なことであっても 当人に興味がなければ意欲なんかわきません
逆に当人に興味があれば意欲的に勝手に物事を学び 高い能力を獲得することも可能になるのです
生徒が何に興味を持つのかは 生徒それぞれ全く異なるものであって 従来の学校の勉強のように一律に同じことを教え込もうとしても興味にバラつきが出るのは必然というものです
当人の主体的興味を入り口に学習させておけば 既存の学力基準に基づいた成績に偏りはあったとしても 能力の総体としては高めることが可能になります
イジメなんぞに邁進してしまうのは 子供の人生がつまらなくて「暇」だからイジメなんぞに囚われてしまう
主体的に楽しいと思えることがあれば イジメなんぞやっている暇はなくなります
人生がつまらないから イジメくらいしか楽しみが見い出せずに中毒になって 標的の子を自殺に追い込むまで暴走的に過激化してしまうことに陥る
自分では歯止めが効かないのは そもそも自発的にイジメをやりたくてやっているのではなく 「他にないから」という消極的な理由でイジメ以外に楽しみがないから自分で自分の行動をそもそも選択していないのが原因なのです
イジメ以外に何の楽しみも見いだせないように追い詰められてイジメに「逃げて」いるだけだから 自分で自分の行動が自由に選択できない
テレビ朝日で放送している「博士ちゃん」達というのは やりたいことや知りたいことが無数にあるので イジメなんぞしている暇がありません
そういう主体的に人生を楽しめる能力を獲得させられれば 自ずとイジメはなくなります
そもそも既存の学力成績というのは 入学試験以外では何の役にも立ちません それは学力偏差値の高い東大医学部の学生がテロをやらかすことからも明らかです
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」を学生の大半が鵜呑みにして何の疑いも持たないのも 自分の頭で物事を考え検証する能力が身についていないのが原因です
NHKの番組制作者達も さぞかし学力偏差値が高い人達によって制作されているはずですが 「子宮内膜を厚くすることを考えた」だとか「マントヒヒが存続のために工夫した」などといった あたかも遺伝的進化に「考え」や「目的」が介在しているかのような説明を平気でやらかすのも 自分の頭で物事を考えていないのが原因です
最近では 「何も教えない塾」というのも出てきていて 調べ方とか方法論だけをアドバイスして 実際に子供が知りたいことは子供自身に勝手にやらせておくという 主体性任せの塾もあるそうです
いうなれば「博士ちゃん」の量産みたいなものだと言えるでしょう
それはそれでとても良いことなのですが
逆に「良くないこと」が何なのかも明らかになっているわけです
それが生徒の主体性を無視して 「同じ」基準だけで順位序列をつけて評価するという手法です
養老孟司は「個性は身体」と称して 「安心して同じを追求すれば良い」と言い出し その論拠が「だって皆さん同じを求めるでしょ」という多数大衆の観念が基準です
そもそも「安心して」という主観的気分の話であって 論理客観的根拠に基づいた話ではないのです
大衆は多数派に迎合同調し 多数派が認証した「権威」肩書を持った相手に服従忖度して気に入られておけば安心することができるため 養老孟司は東京大学名誉教授という肩書を利用して大衆が気分的に安心できるように誘導する話を陳列して人気を集めたのです
ヒトは多数他人と違うことに恐怖を感じます
同調圧力というのは 自分が他人と「同じ」であることに対する主観的安心感から 他人に対しても「同じ」であることを強要することで生ずる多様性を許容しない観念であり 客観的合理性がありません
「博士ちゃん」的に個人の主体性を重んじた教育を受けて育てば 他人との興味や能力の違いを許容する寛容さを持つことができるので 同調圧力に屈したり 他人に同調圧力を加えたりはしなくなるのです
養老孟司が「教科書に墨を塗らされた」と称して支離滅裂な嘘をつきつづけるのは 養老が主体性を重んじた育て方をされなかったことで他人の主体性や個性を認めたがらない認知的な偏りが「学習」されてしまっているからです
教え込まれた内容が ある日突然「なかったこと」にされるという理不尽で衝撃的出来事によって 「世の中誰も責任なんか取らないんだな」という無責任性を「学習」する形で養老は嘘つきになったと言えるのです
それは シエラレオネの少年ゲリラと同じで 残虐な環境で育つと残虐性が「常識(正常)」だと学習するのと同様
生育環境が嘘だらけだと嘘つきこそが「常識(正常)」として学習してしまった結果だと言えるのです
生育環境が無責任な嘘つきだらけだと 嘘をつくことが平気になってしまう
それは 虐待をされて育った人が虐待を連鎖するのと同じで 合理性がない不条理で理不尽な扱いを次世代に「連鎖」する形で認知上の偏りとして「学習」してしまった結果なのです
それは Microsoft社のTwitterAIが ツイッター上のヘイトスピーチを正解データとして深層「学習」する形でヘイトスピーチに同調し始めたのと同じで 主体的な「考え(論理客観的検証性)」という人間としての意識の本質が働いていないのが原因です
「自分が散々騙されてきたのに 何で俺だけが他人に正直に本当のことだけしか言わなきゃいけないんだ」という価値観のバイアスが 論理客観性を阻害することで 嘘つきは嘘つきになるのです
嘘をつくことが論理客観的に合理的かどうかは 嘘つきにとってどうでも良いことです
なぜなら 嘘をつくことは嘘つきにとって「正常(常識)」だからです
嘘によって社会全体の損失になるとしても 嘘つきにとっては責任意識というものがありませんから どうでも良いのです
嘘をついて利益になるなら平気で嘘をつきますし 既得権を保守するためにも嘘はバレなければ構わない
私は50代ですが 同年代から上の殺人犯が非常に多いのは 私の世代の生育環境に起因する要素が大きいんだと思います
私の世代では 暴力威圧的な人物の方が「カッコイイ」とみなされ イジメられている「標的」は惨めな「カッコ悪い」というレッテルを貼られていました
これは男女共にです
私は衝動殺人型なので イジメられても大抵は我慢していたのですが ある日堪忍袋の緒が切れ ブチギレてイジメ首謀者をボコボコにしてチョークスリーパーで「落とし」てやったことがありまして それ以降皆の私への扱いが急に変わったんですよ
急に「カッコイイ」という扱いになった
こういう環境を そのまま「学習」してしまうと 「暴力威圧的なことこそが有利で正しい」という価値観に陥るのでしょうが 私は「何だコイツら」という不信感しか持ちませんでした
暴力威圧的な相手を「カッコイイ」とみなす「常識」を 鵜呑みにはできなかった
そういうことを「学習」する能力が 私にはなかった
記憶力が良くて学力成績が高い人というのは おそらく多数世間的な「常識」を簡単に鵜呑みにして「学習」することができるんだと思います
だから「学力成績=知能」や「世間的成功や人気取り=頭が良い」という方程式解釈も鵜呑みにできる
その短絡的解釈には論理客観的根拠が伴っていないとしても 多数という「みんな」がそう思っている「常識」は疑うことをむしろ避けようとするようにもなる
そうやって根拠のない常識に則った因習的制度やルールが温存されていることに「安心」してしまい 問題解決能力を喪失する原因となる
Ende;