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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

畑村洋太郎。

2011年12月28日 00時34分33秒 | 意識論関連
 「自分にとって、社会的役割とは何かを自律的に考えることが重要。」言われたことを漫然と行うだけではダメなのである。

 ところが、自律的判断というものには必ず責任というものが伴うことになる。言われたこと以外のことに言及することというのは社会的役割であるとしても個人の地位や立場を脅かすことになる場合もある。これは実際にスペースシャトルチャレンジャー号の技術者が経験している。

 「システムや設備、マニュアルを作ることで気分的に安心してしまう。」形を作ったことで安心してしまう。

 形や形式といったものは、気分的「安心。」を作りだし。この気分的「安心。」こそが思考を停止させてしまうことになるのである。

 想定内のことを整備することを「防災。」という、想定外のことについても準備することを「減災。」という。厄介なのは減災対策というのは想定を超えた場面を想定するという矛盾した基準に基づき整備しなければならず、これは責任の所在が明確にできなくなることになる。

 想定外の準備に人員や予算を使うとなると、対策の効果に対する責任の所在を誰が担保するのか。制度手続き的上の責任問題が生ずることになる。

 実際に事故や災害が発生した後に、想定外についても考えておくべきであったと言うことなら誰でもできる。しかし、災害が未だ発生していない状況において想定外についての準備をすることは困難である。畑村洋太郎はこのことについても言及すべきである。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者と同様、事故が発生する以前において「危険性。」というのは「危険である可能性。」であって、「危険の想定。」でしかない。確率の低い危険性に対する対策のために生じる損失を、一体誰が担保するのかを問われることになるのである。

 恐ろしいことに確率の低い危険性に対する対策を行わなかった責任は誰も取らない。

 重大事故が起こった後に危険性の重要性を論じることは簡単である。問題なのは事故が起こらない状態において、一体どこまで危険性の重要性をどこまで論じることが可能かどうかが、今後の危険学においての大きな課題なのである。

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