斎藤幸平というカール:マルクスを研究している哲学者がいて
この人は西研などのバカ哲学者とは違って言っている内容に整合性がある
むしろ学界では異端扱いだそうな
斎藤幸平の主張では 「資本主義は社会を崩壊させる」的な様々な要素を挙げてきているんだけど
制度とか法律といった「手続き」的なものでは細かい対処ができずに どうしても「抜け道」「抜け穴」によって制度や法律の主旨を逸脱した使い方に陥りかねない
資本主義か共産主義かのどちらが「正義」なのかを論じても トロッコ問題同様に「一人殺すか 五人殺すか」を議論しているのと同じで 根源的な部分が抜け落ちている
重要なのは 制度法律の問題ではなくて それを運用する「人間性」や「意識」の問題なのである
中央集権的にトップダウンで物事を決めるにせよ 権力闘争に使われてしまうか それとも本当に社会安全性のために使われるのかは 「人間性」の問題である
現実には 例えば今回の感染症対策においては 国民一人一人の個人が丁寧な対策をしないことには首相や都知事が何をしても全部無駄になってしまう
結局は国民個人の「意識」こそが重要なのであって ただ盲目的に「法律や制度に従う」といった手続き的な機械的条件反射だけでは問題の解決にはつながらない
飲食店が営業自粛をどんなに耐えて頑張っても 路上呑みによって全てが無駄になるのである
こうした国民個人の「自律」的判断が重要なのは 温室効果ガス削減においても同じである
照明器具を全てLEDに取り替えて こまめに節電を心がけても 隣家で冷房ガンガン効かせて白熱電球点けっぱなしにして寝ていたのでは意味がない
「利己的金儲けにさえ邁進しておけば自動的に社会全体が潤う」というデマを作り上げたのはアダム:スミスの「見えざる神の手」幻想である
「見えない」 すなはち「認識できない」何かによって自動的に良い結果が得られるかのようなデマを流しておけば バカな大衆は「自分達は何も考えなくて良いんだな」とばかりに益々バカが酷くなり 方向性のない暴走破綻への道を突き進むようになる
そして更に 遺伝的進化万能妄想を持ち込むことによって 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれていて 自動的自然に正しい結果に導かれる習性を持っている」かのような妄想で満足し ありもしない力学や構造によって意識を「超越」した実証不能の謎の「目的」に向かって自動的に誘導されるものだと錯覚するのである
ヒトの先天的な動物習性としての「社会性」とは あくまで狩猟採集生活や部族紛争における優位性に特化されたものであり 基本的に暴力的で封建的不平等な集団組織を作り出すための統率的協調性に過ぎない
同士での領地争いに「勝った」集団だけが「生き残った」結果であって 資源の乏しい自然環境下においては過酷な生存競争に「勝た」ないことには生き残れないのである
だから子供だけを集団にしておくと自動的シーケンシャルにイジメ差別が始まるのである
ヒトに限らず 動物というのは「情動行動」がベースであって 主観的に「怖い」とか「嫌い」なものから逃げ出し 「安心」で「好きな」ものには迎合同調したり集まったりするものである
通り魔の被害者の多くが無抵抗な子供や女性なのは 通り魔にとって「勝てそう」で「怖くない」から標的にされるのである
これは集団組織的なイジメにおいても同じで 「勝てそう」な弱者にしかイジメは行われることはない
集団組織的に協調して暴力を振るい その集団の中だけの「正義」を振りかざしておけば仲間意識を満足させることができるからである
「卑劣」という概念は 自然環境下における生存競争において成立せず 勝って生き残れば生存であり 現状の生物学界では「生存」という結果そのものを「目的」だと言い張って正当化してしまっているのである
勝てそうにない相手に迎合同調し 生存にとって有利に持っていこうとする卑劣な行動であっても 生存にとって有利で「死なず」に済めば「正しい」行動ということになっているのである
目先の安心満足を追求すれば 総合的には損失になり得る可能性には配慮が働かない
化石燃料を大量に消費して温水を無駄遣いし 無駄に大型の乗用車を一人で乗り回すような物質的「豊かさ」ばかりを追求していれば 当然地球環境には負担になる
「地球環境」と言うと あたかもゴキブリやドブネズミやウイルスも含めた途方もない他人事のような錯覚をもたらしかねないが 実際には「ヒトの生息環境」としての「地球環境」保全であって 別にヒトが絶滅しようがどうなろうが岩石の塊に過ぎない「地球」にとってはどうでも良い話なのである
ヒトという種の生物には 目先の快楽や安心満足を追求する習性しか組み込まれておらず 何も「考え」なければ環境破壊だろうが不公平であろうが 自分に直接的な「痛み」が伴わなければ興味すら持たない
そういう「残念な生き物」なのである
ヒトの知能というものは 元々個体の生存価にとって有利な行動選択を合理的に選択するために進化したものであって それ以上の社会安全性や持続可能性にまで配慮意識するようには進化的にできていない
だからヒトの多くは利己的行動しか興味を持たないのである
ヒトは先天的には「人間として欠陥品」ではあるが 欠陥を自覚認識することで 欠陥を補うことは可能である
本来「哲学」とは 物事を深く検証するためのものであるのだが いつの間にか「主観的納得感によって満足して安心するためのファンタジー」で大衆人気を得るためのものにすり替わってしまっているのである
「気分が良くなること=正しいこと」という方程式は 「自分の気分こそが絶対的に正しいもの」という傲慢さから導き出されるのだが その自覚は「考え」なければ出てこない
「見えざる神の手」だとか「理性を超越した 絶対に知覚できない叡智界」といった 実証不能の謎の観念に囚われ 自分では何も考えないように誘導洗脳されていた方が ヒトは安心で満足なのである
この根本的欠陥を自覚認識しないことには 資本主義も共産主義もヘッタクレもないのである
Ende;