暴力暴言など威圧的な者が なぜ暴力威圧的態度を採るのか
暴力者というのは 過去に家庭内の虐待や学校におけるイジメ差別によるヒエラルキーを迎合服従せざるを得ない環境下において 暴力威圧に服従したという自分の過去の選択を正当化するために 「自分が暴力威圧に服従したのだから 他の誰でも暴力威圧には服従するものである」という観念に囚われ 「そう思っていなければ やってられない」という主観的感情によって認知的不協和を解消する形で暴力威圧行動を正当化するのである
暴力者というのは 過去に自分が暴力に屈服した事実を事後正当化する形で他人に暴力を振るうことを「合理化」しているのである
もちろん この「合理化」とは精神医学上において「合理化」と形容されているだけであって 実際には何の論理的合理性は全く存在しておらず
あくまで主観的気分感情に基づいた身勝手な「こじつけ」のことを 精神医学上では「合理化」と形容しているに過ぎない
軍隊というのは こうしたヒトの先天的習性を利用し 暴力的「訓練」によって統率命令に対する服従性を刷り込み学習させることで戦争などのバカげた事にも便利に使うことが可能となる
軍隊というのは その内部では平等とか公平といった概念は存在せず あくまで上官に対する絶対服従行動だけを刷り込み学習されているため 相手が非武装の自国民であっても暴力威圧によって服従させることこと以外の「考え」が一切働かなくなり 太平洋戦争時の日本軍や ポルポト政権 ミャンマーの軍事政権 香港警察のような残虐な行動でも平気で行えるようになるのである
これらは一種の洗脳の一形態に過ぎない
ヒトには イヌやハダカデバネズミのような本能習性としての生物学上の「社会性」があるため 特定権威(ボス)に対する服従に快楽を感じることによって服従行動が促される仕組みがあり 元々は獲物を狩る際に生存にとって有利に働いたことで結果的に組み込まれた行動習性である
先天的行動習性というものは 主体的な個人の選択ではなく あくまで無意識な行動バイアスに過ぎず 人間個人としての意識的目的行動選択とは全く別物である
とはいえ 理性だけでは目的行動が決定することはないのだが 様々な情動が促すバイアスの中において 自己存在し続ける上において主体的に最も優先すべき事柄(目的)に対する意識を自己客観的に論理検証して選択することにおいて人間性や倫理として働くのであり 断じて主観的な好き嫌いだけで意思や「目的」が決定されることが人間性ではないのである
自己がこの社会の中においてこれからも存続する上において 最も優先されるべきは安全で持続可能な社会であることである
安全でもなければ持続可能性もない社会であれば もはや一秒足りとも生き続ける合理的必要性が存在しないからである
倫理というものは 神だの国家権力などの他者から強制されるものではなく 論理客観的に検証すれば あくまで「主体的に求めるもの」なのである
主体的に安全性や持続可能性を求めないのであれば これは人間性でも倫理でもない
同じヒトでありながら 軍隊だけは文民が統制しておかなければならないのは 軍隊というものは暴力威圧を旨とした組織であり 暴力威圧によって服従すると同時に 他者に対しても暴力威圧を強要したがる性質があるからだ
軍隊というのは文民ではないのである 軍隊内部には平等も公平も民主主義もないからだ
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ヒトは先天的には「罰で解決」だと錯覚する習性がある
そのため 誰かが「犯罪者の親だ」などと書き込んだだけで身勝手な正義を振りかざし 何ら真偽の検証すらもせずに無言電話だの「死ね」などといった合理性も何もない誹謗中傷を 集団統率的にやりたがるのである
たとえ犯罪者の親族であることが本当であるとしても 嫌がらせをして良いわけではない
多数で誰かが袋叩きにしていれば 自分も便乗して暴力威圧をしても気分的には安心なのだろう
その主観に過ぎない「安心」を 絶対だと信じていることこそが傲慢なのである
「懲罰」を行うと気分が良くなる ヒトとは先天的にそういうものである その主観に過ぎない「気分」的満足によって本当に優先すべき社会安全性や持続可能性に対する合理的選択を全く検証しなくなるという「人間としての欠陥」を ヒトは先天的に持っているのである
「自分の主観的感情は 常に絶対に正しい結果に導かれるように出来ている優秀な存在である」とでも思い込んで満足していれば さぞかし「幸福」であろう
そんな都合の良い習性がヒトに組み込まれる進化的メカニズム構造は存在していないにも関わらず である
だからバカが治らず 何度でも同じような過ちを繰り返すのである
暴力威圧というのは 基本的に「懲罰の一環である」と思っているから正義正当化できるのである
Ende;