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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

迷惑。

2011年03月26日 12時24分24秒 | 意識論関連
 やたらと他人に迷惑をかけたがる人間というのがいる。こういう人間というのは、自分では自分が制御できないので、誰か他人に制御して欲しくて。その制御してくれる誰か「他人。」を求めて迷惑行為をしているので。すんごくひつこい。

 ヤクザがヤクザの幹部に従順なのは、ヤクザの幹部が自分を制御してくれるからであり。自分勝手な観念によって「かっこいい。」とか勘違いしているからである。

 土居健朗が提唱した「甘え。」に関する話とは、こうした「カッコイイ。」という子供じみた感情論についても言及している。ただ、残念ながら生物学的な社会形成習性にまでは踏み込んでいない。

 飼い主の手を噛む小型犬の苛立ちと、迷惑な人間の勝手な苛立ちは、情動行動的には同根であり。本能的な強迫観念に基づいているので始末に負えない。

 「バカにつける薬はない。」というが。バカというのは意識の問題なので、薬だけでどうにかなるようなものではないのだろう。

 昔、というか今でもいるんだろうけれど。神に目覚めたテロリストの本を読んだことがある。アイルランドのUVRという、IRAの対抗組織の一員だったらしいんだけど。彼が言うにはアイルランド紛争っていうのは宗教戦争ではないらしい。

 結論的には「カッコイイ。」っつうのがテロの理由だったらしいのである。

 「力。」を持つ集団に所属することによって、気分的な安心感を得ることができる。ヤクザとかテロリストといった集団は、自分の暴力性と服従性を正当化できるため。生物学的な社会形成習性を短絡的に満たすことができるのである。

 集団で迷惑行為をして満足しているので、迷惑極まりないのだが。当人達は非常に満足しているため、集団以外の人間の迷惑には一切意識が働かないのである。

 仲間内だけの正義を共有して、気分的な満足によって思考停止に陥っているので。本能的な快楽の限りを尽くすのである。

 イヌは、訓練やシツケによって、従順に育てることが可能である。よく訓練されたイヌは人の役に立つことも可能となる。盲導犬が人を助けたという話は少なくない。

 しかし、盲導犬というのは「犬種。」ではない。盲導犬に適した種のイヌであっても、最初から野犬の群れで育てば、それは野犬としての行動しかできないのである。

 むしろ盲導犬のように、人に従順な行動を採っている状態というのは。生物種としては無駄な行動であり、「洗脳。」状態であると言える。ヒトによって訓練をされることによって、盲導犬は盲導犬足りうるのであり。訓練という刷り込み学習的な環境なくして盲導犬としては使えないのである。

 養老とかっていうのは、要するに「俺らはイヌと同じで、誰かがシツケてくれなきゃ自分じゃ何にも判断できないから。お前ら世間が面倒見てくれ。」という意味で、「世間が悪い。」「社会が悪い。」「環境がおかしい。」「お寺は何してる。」と言っているのである。

 これは秋葉原の通り魔と、言っている内容としては同じことである。

 通り魔ですら、一部では人気があるらしいから。特に犯罪を犯していない東京大学名誉教授に人気があっても、珍しいことではない。

 むしろ「ポピュラー。」なことであろう。

 大多数のヒトは、養老とかニーチェを読んで満足する。

 このブログを読んでいる人はせいぜい160人程度であるから、決して大多数ではない。むしろ、時折ぶちギレるヒステリー男のブログに付き合っているくらいだから、むしろ変人といっても過言ではなかろう。

 養老とか通り魔が主張する「世間が悪い。」という話には、具体的な解決策などが全く提示されていない。極めて抽象的に「何で、○○なんですかねぇ。」的な「質問。」形式にしかなっていないのである。

 要するに養老の言っている話には、論理的根拠とか、原因究明とか、それに伴う再発防止策とかが全く存在しないのである。

 養老は本当は、ヒゲボソゾウムシのケツの穴を覗いていることが楽しいのであって。「人間とは何か。」についてなど、自分自身の意識についてなど、本当はどうでもいいと思っているのである。

 なんだか偉そうに「人間とは。」的な話をしておくと、大衆にウケて金になるので、調子に乗って観念をぶちまけているだけなのである。

 現実には何の役にも立たないばかりか、多数のマスコミ大衆を洗脳して思考停止に陥れているのである。

 しかし、大多数のマスコミ大衆は、そうは思わないらしい。

 大多数という集団心理によって、それで気分的には安心であるため。検証も何も行うつもりもないのである。

 それでマスコミは責任を全うしていると勘違いしているのである。


 古館一郎は、「養老先生が、中国に木を植えろとおっしゃっていた。」などと言っていた。だから?。それが?。

 論理的に考えることが苦手な文系の人間というのは、観念的な断言という、格言風味な話が大好きで。予め誰かに決め付けてもらっておけば、自分では何も考えなくても良いと勘違いしているのであろう。格言風味な決め付けによって、脳が酔っているのである。

 権威に服従しておけば、自律的には何も考えなくても、何の責任も負わずにいられるものであると、大衆観念的には思うらしい。

 アプリオリな「思い込み。」に対して、多くのヒトは何の疑いも持つことはない。それが安心だからである。

 安心なことというのは、同時にそれ以外のことに対する不安感、恐怖感も作り出しているために。むしろ不安なことは感情的には拒絶するのである。

 アスペクト盲などの盲目性というものは、実はそれほど珍しいものではなく。網膜上の盲点とか、脳梗塞などに伴う半側無視などの症状にも見られる普通の出来事、ポピュラーな現象なのである。

 盲点とは、片目を閉じて、一点を見つめた先に。腕を伸ばした握り拳一つ分程度外側に、小さな見えない領域が存在するのだが。その存在を認識することができない、もとい、認識することが困難である。

 両目が見える人であれば、互いの盲点を両方の目が補いあうので、見えないことによる危険性はないが。片目が見えない状態においては、見えない小さな領域があることを意識しておかないと、重大なミスを招くことがある。

 脳というものは、普段問題を生じない事象について、それを無視することによって、余計なことに意識を奪われないように、認識を「整理。」してしまう。

 錯視などの錯覚現象というのは、普段は経験しないような特殊な場面を与えられたときに生ずるものである。特殊な図像に対しての適応がなされていないことによる、認識能力の暴走のようなものである。

 縦縞の中で猫を育てると、横縞を認識出来なくなるという。縦縞の中で育てられた猫の脳にとって、横縞は存在しなくなってしまうのである。「慣れ。」とは、そういう現象も引き起こすのである。

 ヒトという種の生物を、天動説の中で育てると。地動説を火炙りにしようとする。

 カルト宗教の中にいれば、地下鉄に毒ガスを撒くこともある。

 普通の生活を送っている人物をアイヒマン実験という環境におけば、権威のいうなりに他人に危害を加えることもある。

 多くのヒトは、それを他人事であると意識から外す。

 「ヒトとは、そういうものである。」





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