自転車が車道を走るとなぜ「恐い」のか。
それは自転車のスレスレを無理矢理追い抜く自動車がいるからであって、それは自転車が車道を走るのが悪いのではなくて、「無理矢理追い抜く自動車の運転者」の脳が危険だからである。
日本では、どういうわけか先の信号が赤だったり、先の交通が滞っていたりしても、車間距離を開けると後ろから「煽る」奴が時折いて。こういうキチガイに煽られるのを嫌うんだか何だか異常執着、強迫観念的に前の自動車に「詰め」ようとしてやたらと速度を上げたがる自動車運転者が結構多い。
自転車に乗っていると、おいらを無理矢理追い越していった自動車を、赤信号やプチ渋滞で追い越すことが時折ある。
バイクに乗ってるときに、やたらと煽ってくるバカが一体何を急いでいるのか知りたくて、何度か追跡したことがあって。やたらと煽って加速する奴はコンビニの駐車場に自動車を停めてクソゲーをやっていたり。あるいは路肩で漫画を読んでいる事例しか見たこたない。
なので、本当は急ぐ用事なんてなくて、暇なのにやたらと急いでいたのだ。
暇なんだけど、何かやたらと加速したがる。これは「急いでいる」のではなくて「慌てている」だけ。こういう奴が自転車が車道を走ることを邪魔扱いしている。
時間は経済学的にはリソース(資源)ではある。しかし、クソゲーや漫画を読むために二酸化炭素を無駄に排出しながら他者に迷惑(社会的負荷)をかけてまで「有効活用」するのは身勝手極まりない。
社会的責任を放棄していては、どんなに経済的に自立していても、社会的にはむしろ邪魔な存在なのである。
先日、「合理性を追求し過ぎると時間的資源を無駄にするので、合理性は万能ではない」といった趣旨の記事をハフィントンポスト日本版で読んだのだが。こいつの言っている「時間的資源」とは、要は金目の問題であって。「金儲けをするのに合理性は邪魔だ。」などという主張は根源的に間違っている。
金儲けという経済活動は、あくまで社会持続可能性や安全性といった「人間としての目的」を達成するための「手段」や「手法」のひとつに過ぎない。
手段や手法が目的に対して「万能ではない。」などと言っていること自体が本末転倒で、非合理的な主張なのである。
合理性の追求とは、社会の中において責任ある行動を採るために必要不可欠な人間性、倫理の問題であって。目先の欲望を叶えるための万能の魔法ではなく。個人が自分自身の行動を主体的に選択する「目的」意識の問題を論じているのである。
時間という資源を、目先の利益(欲望)のためだけに使っていれば、正に「時間泥棒(ミヒャエル:エンデ)」に他ならない。
経済学では特定の「顧客」や「利益」といった単純化したモノサシばかりを挙げて理論を展開するが、これは要するに単純化された話しか理解できないバカの論理に過ぎず、社会的責任といった統合的視点を欠いた論理展開しかしたがらない。
基本的に経済学者達は単純な思考の大衆ウケ、大衆迎合のための利己的利益回収の話ばかりをしたがるが。これは経済学者としての本当の意味での社会的責任を全く無視した悪質な洗脳のようなものである。
方便としては、ピーター:ドラッカー的に「社会的責任や顧客の本当の要望に応えなければ、企業は生き残れない。」と述べることも出来るが。ナチズムなどの暴力集団に反対して命を落とした賢者達というは数知れず、必ずしも社会的責任判断が個人の社会的成功や持続可能性を保証する根拠はない。
社会を構成する個人の多数がバカで、自分達がどういった洗脳状態であるのかを認識していないからこそ、正しい選択が社会的に認められないという結果を招くのであり。手段と目的の区別がつかないようなバカしかいないからこそ、「正直者がバカを見る。」ことに陥るのである。
正直に生きられないのであれば、多数が嘘つきになるのも必然である。
ましてや、自分が常に正しいと思い込んでいるのであれば、これは暴走しか促さない。これは「人類の救済。」と全く同じ構造である。
振り込め詐欺にカモられる被害者と同様、愚かさゆえに結果的に暴力団に資金提供をしてしまっているのであれば、これは社会的には加害者に加担しているのと同じである。
振り込め詐欺でも基本的には騙す方が悪いのだが。経済学上のモノサシで人間性や倫理を語るような支離滅裂な話も詐欺や洗脳の一種に過ぎないことは認識すべきである。
Ende;
それは自転車のスレスレを無理矢理追い抜く自動車がいるからであって、それは自転車が車道を走るのが悪いのではなくて、「無理矢理追い抜く自動車の運転者」の脳が危険だからである。
日本では、どういうわけか先の信号が赤だったり、先の交通が滞っていたりしても、車間距離を開けると後ろから「煽る」奴が時折いて。こういうキチガイに煽られるのを嫌うんだか何だか異常執着、強迫観念的に前の自動車に「詰め」ようとしてやたらと速度を上げたがる自動車運転者が結構多い。
自転車に乗っていると、おいらを無理矢理追い越していった自動車を、赤信号やプチ渋滞で追い越すことが時折ある。
バイクに乗ってるときに、やたらと煽ってくるバカが一体何を急いでいるのか知りたくて、何度か追跡したことがあって。やたらと煽って加速する奴はコンビニの駐車場に自動車を停めてクソゲーをやっていたり。あるいは路肩で漫画を読んでいる事例しか見たこたない。
なので、本当は急ぐ用事なんてなくて、暇なのにやたらと急いでいたのだ。
暇なんだけど、何かやたらと加速したがる。これは「急いでいる」のではなくて「慌てている」だけ。こういう奴が自転車が車道を走ることを邪魔扱いしている。
時間は経済学的にはリソース(資源)ではある。しかし、クソゲーや漫画を読むために二酸化炭素を無駄に排出しながら他者に迷惑(社会的負荷)をかけてまで「有効活用」するのは身勝手極まりない。
社会的責任を放棄していては、どんなに経済的に自立していても、社会的にはむしろ邪魔な存在なのである。
先日、「合理性を追求し過ぎると時間的資源を無駄にするので、合理性は万能ではない」といった趣旨の記事をハフィントンポスト日本版で読んだのだが。こいつの言っている「時間的資源」とは、要は金目の問題であって。「金儲けをするのに合理性は邪魔だ。」などという主張は根源的に間違っている。
金儲けという経済活動は、あくまで社会持続可能性や安全性といった「人間としての目的」を達成するための「手段」や「手法」のひとつに過ぎない。
手段や手法が目的に対して「万能ではない。」などと言っていること自体が本末転倒で、非合理的な主張なのである。
合理性の追求とは、社会の中において責任ある行動を採るために必要不可欠な人間性、倫理の問題であって。目先の欲望を叶えるための万能の魔法ではなく。個人が自分自身の行動を主体的に選択する「目的」意識の問題を論じているのである。
時間という資源を、目先の利益(欲望)のためだけに使っていれば、正に「時間泥棒(ミヒャエル:エンデ)」に他ならない。
経済学では特定の「顧客」や「利益」といった単純化したモノサシばかりを挙げて理論を展開するが、これは要するに単純化された話しか理解できないバカの論理に過ぎず、社会的責任といった統合的視点を欠いた論理展開しかしたがらない。
基本的に経済学者達は単純な思考の大衆ウケ、大衆迎合のための利己的利益回収の話ばかりをしたがるが。これは経済学者としての本当の意味での社会的責任を全く無視した悪質な洗脳のようなものである。
方便としては、ピーター:ドラッカー的に「社会的責任や顧客の本当の要望に応えなければ、企業は生き残れない。」と述べることも出来るが。ナチズムなどの暴力集団に反対して命を落とした賢者達というは数知れず、必ずしも社会的責任判断が個人の社会的成功や持続可能性を保証する根拠はない。
社会を構成する個人の多数がバカで、自分達がどういった洗脳状態であるのかを認識していないからこそ、正しい選択が社会的に認められないという結果を招くのであり。手段と目的の区別がつかないようなバカしかいないからこそ、「正直者がバカを見る。」ことに陥るのである。
正直に生きられないのであれば、多数が嘘つきになるのも必然である。
ましてや、自分が常に正しいと思い込んでいるのであれば、これは暴走しか促さない。これは「人類の救済。」と全く同じ構造である。
振り込め詐欺にカモられる被害者と同様、愚かさゆえに結果的に暴力団に資金提供をしてしまっているのであれば、これは社会的には加害者に加担しているのと同じである。
振り込め詐欺でも基本的には騙す方が悪いのだが。経済学上のモノサシで人間性や倫理を語るような支離滅裂な話も詐欺や洗脳の一種に過ぎないことは認識すべきである。
Ende;