人智や理性を超越しちゃった「叡智」なる実証不能の観念に基づき 「人間(ヒト)は叡智界に属している」などという論理的根拠のない訳のわからぬオカルト観念を言い出した時点でイマヌエル:カントは哲学を逸脱している
ヒトの多く 文科系大衆やマスコミの大多数は哲学というものを 主観的に気分が良くなる「好きな」話で満足することだと勝手に勘違いし 論理的根拠も示されない実証不能の観念であっても鵜呑みにして有難がる習性がある
これはヒトという種の生物の先天的欠陥である
哲学は「答えが出なくても良い」とか「役に立たなくても良い」からといって 論理的根拠も示されない実証不能の観念を盲目的に信じ込み 何が間違っているのかを一切考えなくなることは哲学ではない
基礎科学においても 砂漠の真ん中で一日中穴掘りしてトカゲ一匹見つからなかったとしても 「見つからなかったからこの砂漠には絶対にいない」などという勝手な妄念的決めつけをして良いわけではない
探し方が悪かったのか たまたまいる場所に辿り着かなかっただけなのかは 「わからない」というのが科学的な検証である
「わからない」ことは「わからない」として保留しておく姿勢が科学や哲学には必要であり 勝手な主観的感覚に基づいて「わかった」と思い込むことは科学や哲学からの逸脱でしかない
ましてや論理的には理解不可能な話を盲目的に信じ込み 主観的気分を満足させて思考検証を放棄することは ただのオカルト洗脳でしかない
養老孟司はこう述べたことがある
「わからないなら わからないなりに わかったとする そういうわかりかたもあるのかと 思って頂けれればさいわいである」
こういう科学を逸脱した意味不明な観念の方が大衆には人気が得られるのである
人気とは 主観的な「好き」の多数決である
ヒトは主観的に気分が良くなる「好き」な話を聞くと 相手の言うことを盲目的に信じ込み 疑うことや論理的に検証することを全くしなくなる習性がある
カントの講義も学生から人気があったそうだ
マイケル:サンデルの講義もバカな学生共からは大人気である
カール:ライムンド:ポパーの講義に人気があったという話はない
キェルケゴールやサルトルの著作も人気はない
気分が良くならないからである
大衆人気が得られるのはフリードリヒ:ニーチェなどの主観的観念ばかりである
別に「大衆人気があったら哲学ではない」ことの論証にはならないが 「多数人気があれば論理的に正しい」ことの証明にはならないことは明確に言えるのである
「ヒトは先天的に理性や人智を超越した叡智なる凄い能力を持っている」などというオカルト話を聞くと ヒトの多くは「自分は生まれながらに優秀な存在なんだな」と勝手に勘違いし 「全てを知覚可能」だと全能感に溺れて思考を停止させている頭の悪さは認識できなくなる
養老孟司はこうも述べたことがある
「教えてもらってないことは わからないじゃないですか」
多くの人が理解可能な話であるならば それは理解可能な人の誰が思いついてもおかしくはないのである
教えてもらわなくても自分の頭で考えればわかることを 「教えてもらっていない」ことを根拠に「絶対にわからない」かのように言い張るのは 自分では何も考えていないバカの主張である
哲学とは 「考える」ことである
「考える」とは あくまで論理的根拠に基づいて検証することであって 論理的根拠をすっ飛ばした意味不明な話で満足して盲目的に鵜呑みにすることは哲学ではない
主観的に「信じたい」ことをどんなに主張しても それは客観的論理検証にはならない
客観性とは言っても 所詮はヒトの主観から導き出されたものであることに違いはないが 論理的根拠のない感覚的観念と 論理的根拠を伴った理論は区別が可能である
可能ではあるが バカはこれができない
できない奴をバカと言う
どんなに学力成績が良くても バカは間違ったことを教えられても間違いに気付くことは出来ない
だから「叡智界」などという意味不明なオカルト話も鵜呑みにできるのである
自らの頭の悪さを認識しなければ 頭の悪さから脱却することはできない
頭が良くなるというのは オカルト話を鵜呑みにして満足している自分の頭の悪さに気付くことで オカルトや錯覚に惑わされずに客観的論理検証によって真理(本当のこと)と そうでないものを区別することが可能となるのである
自らの頭の悪さを自覚することは 気分の良いことではない
気分的にいくら落ち込んでも 頭が良くなるわけではなく 主観的気分をも客観的には意味がないことを理解し 同じ過ち間違いに陥らないようにするためには主観的感覚を一度棚上げにして 徹頭徹尾論理客観的検証に徹する必要性がある
「自分の間違いを自覚すると 気分が悪くなる」というシーケンス(条件反射)も含めてのヒトの先天的な欠陥なのである
生物の生存価の観点からは 別に論理客観的検証ができなくても死にはしない
猫が鏡に映る自分の姿に威嚇し続けても 生存にとってはさしたる障害にはならないのと同じようなものである
身体障害者を虐殺した男を「こんな奴は死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得 論理的原因究明や再発防止を放棄していても 梅沢富美男は死にはしないばかりか むしろ金儲けに成功するのである
個体の生存価に基づけば バカでも死にはしないが 社会的責任のある人間としては機能しない
世の中にはバカは多い
バカが大半だからこそ 叡智界などという糞の役にも立たないことが証明されているオカルト話が哲学扱いされ続けているのである
マイケル:サンデルは トロッコ問題などという制限をその場で追加し続けて答えが出せないように誘導する「サンデル命題」で聴衆を「悩ましい」気分にさせることで 「悩ましい」気分と論理的に検証した「考え」の区別が出来ないバカ学生に「自分は深く物事を考えたから 頭が良くなった」という錯覚を与えて満足させることで人気を得る
サンデルが提供している命題の制限の中だけでしか「悩んで」いないにも関わらず その思考の薄っぺらなことには自覚出来ず 気分的に「深く考えた」と勝手に勘違いし満足する
これはオウム真理教の洗脳の構造と全く同じものである
本当は何も「考え」てなどいないのに 勝手に「自分は頭が良くなった」と勘違い錯覚することで サンデルや麻原彰晃を主観的に好きになり 疑うことや検証することを一切しなくなることで洗脳が成立するのである
イマヌエル:カントの純粋理性批判というのは 話が複雑でややこしいため 読者は「理解できないのは自分の理解能力が低いからだ」と諦めてしまうのだが 実際には最初から論理的理解など不可能な実証不能の観念への誘導に過ぎず それでバカ学生から人気を得るための大衆迎合に過ぎないのである
麻原彰晃の話も 多くの幹部や信者は理解していない していないからこそ教祖に判断を丸投げして盲目になるのである
もはや自分では判断できない
洗脳状態に陥ると「個人が自律的に社会的責任を負う」ことができなくなるのである
だから都営三田線にサリンを撒き散らすこともできるようになり それが「人類の救済」だと信じて疑うことがない
純粋理性批判の中に出てくる「叡智界」などというオカルト観念すらも信じておけば 大衆の多くはバカなマスコミ関係者達は哲学だと勝手に勘違いして間違いに気づかない
論理的に間違っていて 論理的根拠も何もなく 応用も利用も不可能なことが論理的に証明されている概念を鵜呑みにすることは哲学ではない
それは「何も考えていない」からである
Ende;