
「嫌い」とか「ウザい」なんていうのは個人的な主観や印象に過ぎないので 基準としてあやふやで普遍性に欠ける
「攻撃的」というのも主観が介在し 社会的に無責任な奴を攻撃的に批判しているからといって人格に問題があるわけではない
糞DQNの主観からすれば 正しいことを主張してくる相手は「嫌い」で「ウザい」奴ということになる
カルト宗教の信者なら 「お前さんが信じ込んでいる教祖は頭がおかしいぞ」と言ってくる相手は「嫌い」で「ウザい」奴という話になる
振り込め詐欺師に騙されてコンビニでプリペイドカードを大量に買おうとしているボケジジイに「騙されていませんか?」などと言えば ボケジジイは「そんなことはない!」と怒り出すものである
主観的な感覚や印象を基準にするから自己客観性が失われるのであって 重要なのは論理的根拠が伴う真実なのかどうかを判別する能力の方である
NHKの番組制作者達は生物学における遺伝的進化に対する誤謬に耳を貸さずに「○○を目的として進化を選択した」といった非科学的オカルト観念に基づいた「説明」を一切やめようとしないが これもまたNHK番組制作者達が「学術権威の多数決」を「科学的真理」だと主観的に「思って」いるからである
厄介なことに 学力偏差値が高い奴というのは 「自分は他の奴よりも頭が良い」と勝手に勘違いしているフシがあり 自分が学校で教わったことには一切の間違いなど存在しないはずだという盲目性を発揮しているために 都合の悪い気分の悪くなる話を平気で無視するのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」に論理客観的根拠が示されていないことにも気づかず
マイケル:サンデルの「トロッコ問題」には倫理が含まれていないことにも気づくことなく鵜呑みにするのが「学力偏差値が高いだけのバカ」というものである
「多数が正しいと言っているのであれば それは正しいとみなしておいて構わない」と「思って」いるのである
だから自分の頭では論理的に検証(考える)しないため 間違ったことを多数が信じていれば気分的に安心満足して一切疑うことをしなくなる
「嫌な相手と どう付き合うか」については養老孟司も述べていたことがあり その解決策は「意識から外す 無視する」といった短絡的なものであった
カルト宗教の信者がこれを鵜呑みにすれば 自分が信じ込んでいる対象への批判は全て「意識から外し 無視」されてしまうことになる
ナチス政権に迎合していても ミャンマー政府軍の兵士でも 北朝鮮政府高官達であっても 日大事業部の組織腐敗であっても同じことである
大学でニーチェを教え込まれ 何の疑いも持たずに鵜呑みにしたバカ学生は 後に「基準に客観的根拠がない」と指摘されても理解しようとはしないものである
逆に 指摘されて理解した学生の大半も「自分はバカだった」と気分(主観的印象)的に落ち込むだけで 「どうして鵜呑みにしちゃったんだろう」と客観的に自己検証することはしないものである
「禊(みそぎ)」と称して自分に懲罰を加えて「解決した」と勝手に勘違いしているバカも多いが 自己であれ他人であれ懲罰報復は主観的満足に過ぎず 客観的には「解決」になどならない
ヒトという種の生物は 基本(先天)的にバカなので 間違うことがままある
間違ったことが悪いのではなく 間違った時に原因を究明して再発防止の知識教訓として周知することこそが再発防止に最も有効な対策となるのである
自分の間違いを周知することは 主観的に「恥ずかしい」と思うものであるが 「恥ずかしい」というのは恐怖心であって 「衆人から排除される恐怖」という主観的感覚や印象に過ぎない
衆人から排除されるかどうかは人間としての価値にはならない ナチスに反対して自決を余儀なくされても 地動説を主張して火炙りにされそうになっても イジメに反対してイジメの標的にされたつぃても 真理(人間として正しい行動)かどうかは無関係である
目先の多数に迎合する形で組織は腐敗する それは日大を見れば明らかである 「怖い相手には逆らわない」からこそ マスコミは上司からの命令に唯々諾々と服従する形で菅義偉元首相や尾身茂分科会会長への密集囲みぶら下がり取材を強行していたのである
私が数回に渡って指摘しても 一切耳を貸さなかったのは 自分達集団内部の「正義」が絶対的なものだと主観的に「思って」いたからである
現場で取材をしている記者達にとって 都合の悪い指摘をしてくる相手は「嫌な相手」であり 無視して意識から外しておいても構わないと「思って」いたからである
自分が所属する組織内部での評価を優先する形で「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことこそが 原発も含めあらゆる「人災」の根本原因なのである
Ende;