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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○本能習性とは「結果」に過ぎない。

2015年08月21日 01時41分25秒 | 意識論関連
生物の遺伝的に組み込まれた先天的な本能習性というのは目的のために意識的に選択したものではない。

にも関わらず進化生物学者達は先天的本能習性から人間性を伴った社会性や倫理といった人間としての意識的目的行動を立証可能だと強弁し続けている。

相手が京大学長だろうと誰だろうと、論理的に根拠のない嘘を主張している以上、科学者としては無能なのである。

おそらく、こうした進化生物学の嘘というのは京大に限ったことではなく、世界中の進化生物学者達が共謀して論理検証の出来ない大衆マスコミという多数派を利用して現状の体制維持のために嘘の屋上屋を重ねているのであろう。



ゴリラのご機嫌取りが出来たからといって、それがヒトという種の生物の危険性回避に役立つわけではない。

それはヒトという種の生物のご機嫌取りが出来ても詐欺や金儲けにしか利用することが出来ないのと同じことであって、イヌのご機嫌取りで芸を仕込む程度の意味しかないのである。

例えば残虐な過激派組織の構成員のご機嫌取りが出来たとしても、その構成員がなぜ残虐な行動をするようになったのかという原因究明にはつながらないのである。

ご機嫌取りという行動自体は先天的本能習性に則った「結果」しか導き出すことは出来ず、ご機嫌取り自体が無意識を利用しているだけであって、ヒトの本質的意識の喪失の解明にはつながらない。

ヒトという種の生物のご機嫌取りが得意な者は少なくないが、彼らは相手の無意識な本能習性を利用して誘導しているに過ぎず、それは本質的意識である自律的論理検証性を全く必要としないばかりか、むしろ「無意識に誘導されているという客観的事実」を自覚していないからこそ誘導可能なのであって。ヒトの本質的意識である自律的論理検証性を無視した徹頭徹尾無意識性の話にしかならない。

無意識がもたらすあらゆる「結果」の陳列によって、文科系大衆マスコミにぬかよろこびをさせても。それは科学的には何の意味もない詐欺ペテンの類でしかないのである。

大衆マスコミの多くは、ゴリラのご機嫌取りが出来ればヒトの危険性の解明か何かにつながると勘違いすることも簡単なのかも知れないが。それはとんでもない大間違いであり、大嘘でしかない。

過激な暴力者のご機嫌取りが出来ても、それは暴力性の正当化にはなっても、暴力性の原因究明にはならず。当人達の本質的意識の欠落原因については何の言及も出来ないのである。



先天的本能習性という無意識がもたらす行動の「結果」には何の保証も存在しない。そこには意識的目的行動選択が構造原理的に存在していないからである。

ゴリラであれヒトであれ、ご機嫌取りというのは「結果」の陳列にしかならない。それは無意識性の陳列枚挙であって、そこから意識的な目的行動選択性というものを論ずることは出来ないのである。

ヒトという種の生物であったとしても、本質的意識が必ず働くわけではない。人間としての本質的意識というのは先天的な本能習性から逃れるためのものであって、本能習性という無意識がもたらすあらゆる「結果」に対して無為無策に流されないようにするからこそ意識であり目的行動選択なのである。



にも関わらず、先天的本能習性がもたらす「結果」から「人間性や倫理が立証可能だ。」などという非科学的嘘によって多数の大衆マスコミは満足し、何ら問題だとすら思わないから、進化生物学の組織腐敗が放置され続けているのであろう。


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目的と結果の混同は進化生物学上の「社会性」を、あたかも人間性を伴った社会性であるかのような錯覚を招き。人間としての社会性や倫理を先天的本能習性によって立証することが論理的には不可能であるにも関わらず、それが可能であるかのように妄想錯覚していれば気分的に安心満足感が得られるため、その満足感によって思考停止に陥り、ヒトという種の生物の危険性への対策が全く進まなくなるのである。

チンパンジーなどの行動習性結果から、あたかも人間としての社会性や倫理性が立証出来たかのような嘘を陳列しておけば。大衆マスコミは気分的に安心満足して大衆人気を集めることは簡単であろうが。こうした嘘こそがISILやオウム真理教、ナチズムのようなヒトの野蛮行為の原因究明を阻害し、予防や再発防止対策をも遅らせてしまうのである。

松沢哲郎ら進化生物学者達の多くは、現状の学界体制を維持温存することによって既得権益の保守を目的として大衆マスコミを騙しているのであって。これによってヒトという種の生物の危険性への研究が停滞してしまっているのである。

国会原子力発電所事故調査委員会の畑村洋太郎による検証実験に「コンセンサスが得られない。」などというのも。ヒトという種の生物の危険性を直視することの出来ない大多数の大衆による無責任な傍観放置性が原因であり、松沢哲郎ら進化生物学上の嘘に酔いしれ虜になっており、現実逃避に他ならない。

ヒトという種の生物の危険性を科学的、論理的に検証するためには。既存の刑法懲罰の不毛さにも言及しなければならない。ところが大衆の多くは事故や犯罪が発生すると、短絡的に刑法懲罰だけを「解決」であると錯覚するが。こうした短絡的妄想錯覚こそがヒトという種の生物の危険性の一端でもある。

論理的根拠もなしに「これさえやっておけば解決。」だという短絡的錯覚こそが、あらゆるヒトが引き起こす「人災」の根源的原因であり、ヒトという種の生物における人間性や倫理性の欠如の原因なのである。




ヘイトスピーチに対してカウンターで怒鳴り返そうとすることも、要は犯罪者に懲罰を与えて「解決」だという短絡的情動が促す錯覚であり。その短絡性はヘイトスピーチをやっている者達の短絡性を基本的には同じものである。

ヒトという種の生物は、先天的に短絡的で安易な解決策に走ることで。その場限りに大脳辺縁系を満足させようとする性質がある。 これはヒトに限ったことではなく、むしろ脳を持つ生物に普遍的に見られる習性であり、先天的習性に流されているからこそ、ヒトの大脳新皮質の容量の優位性が失われてしまうのである。

ヒトの大脳新皮質の容量の優位性とは、大脳辺縁系が促す気分感情に短絡的に流されることなく論理的に検証出来ることであって。それこそがヒトが人間足りうる意識の本質なのである。

また、「論理検証性こそが意識である。」と述べると。これまた短絡的に「理性には利己的利益追求の側面がある。」などという短絡的で論理検証性のない解釈をしてみたり。数学のような特定規則上での論理思考だけを理性だと短絡的に思い込むことも大変多い。

「左脳が理性を司る。」という話も、数学計算や言語発話のような特定機能がマッピングされていることに対しての短絡的解釈に他ならない。数学が得意なら原発の危険性を放置しないとか、言語能力が優れているから振り込め詐欺師にはならないといった統計的根拠は全くないばかりか、むしろこれらは反証にしかならない。

数学や詐欺といった特定の規則や原則に則った範囲でしか物事を考えられないことは、理性の本質とは言えないのである。

本当の理性というものは、目先の利己的利益や特定規則への欲求だけに囚われず、あらゆる世界の事象との関連性をも考慮に入れた統合性が必要であり。これはむしろ右脳の機能にこそ宿る性質であると言える。

短絡的帰結で物事を判断する者の多くは左脳優位な場合が多く、数学研究者や経済学者の多くは統合性に欠けることが非常に多い。

「品格」などという定義の曖昧な言葉を用いて文学的表現で人気取りをすることも簡単であろうが、それは何ら論理的解決策にはつながらない大衆迎合的満足に過ぎない。

こうした大衆迎合性、気分的安心満足こそが論理検証性の欠如を招き、社会の安全性や持続可能性への配慮をヒトの脳から奪うのである。

言うまでもなく、気分的安心満足が促す行動というのは、先天的なバイアスによるものであり。それはヒトという種の生物の先天的本能習性にこそ人間性喪失の原因が存在するということをも意味するのである。

にも関わらず、進化生物学者達が言い張る「先天的本能習性によって人間性や倫理性が立証可能。」などという嘘を鵜呑みにしているというのは、人間としてあまりに無責任であり、もはや犯罪行為にも等しい。



「本をたくさん読め」的な話も未だに時折出てくるが。読んだ書籍に内容を鵜呑みにして満足し、内容を自発的自律的に論理検証しないのであれば、知識の「量」を自慢しているに過ぎない。

知識の「量」を短絡的に知能だと思い込む頭の悪さに認識が働いていないのに、それをどうして知能だと言えるのであろうか。

大衆観念的には知識の「量」を短絡的に知能だと思い込むのであろうが、そんなものには論理的にも認知科学的にも根拠がないのである。


Ende;

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