鈴木敏昭による記事 グルーディング夫妻の提唱する「禁止令」
このテの心理学的分析の記事の多くは、「世間的に成功するかどうか。」を基準にしているというのが、意識の低さを顕している。
こうした傾向というのは、経済学でも同様で。とにかく世間的に成功することばかりを基準にしており。結局は利己的欲求を満たすための方法論としてしか論じられていない。
社会にとって最も重要なのは、安全性と持続可能性であって。これは単に個人が利己的欲求さえ叶えればどうにかなるという短絡的なものではない。 利己的利益を基準にして物事を論じるというのは、世間ウケを基準とした大衆迎合性の顕れであり。科学者として無責任な発言でもある。
グルーディング夫妻らも含めて、心理学や経済学における大衆迎合的記事というのは。「多数大衆からの評価報酬」ばかりを目当てにしたものであり、社会的価値の低いものであることを認識しておく必要性がある。
◇
グルーディング夫妻らの提唱する、幼児期に受ける親や大人からの「禁止令」というのは、無意識下の超自我的行動抑圧としては働くであろうことは言えるのだが。意識そのもの、自分自身で論理的に考え、本当の意味で自分自身が望む「選択」を行うことで、成育環境から受けた無意識な行動バイアスに左右されずに済むのである。
社会的に最も重要な点とは、「自律的に社会的責任判断を行わなくなる」ことが社会にとって最も損害を産むのであって。ヒトが「自律的に社会的責任判断を行わなくなる」根源的原因というのは、そもそも自発的に物事を考えていないからである。
他人からの評価報酬という、言い換えれば他者から与えられる「脳への報酬」に対する条件反射的な行動原理というのは。脳の報酬系に作用する中毒症状を作り出し、麻薬中毒患者のように他者からの評価報酬への異常執着をするようになる。
こうした成育過程における環境依存的行動「学習」によって。評価報酬とセットで教えられたことには何の疑問も持たずに鵜呑みにし、自発的には何も考えないようになり。結果的に社会的責任判断をしなくなることが社会的に有害なのであって、個人が世間的に成功するかどうかなどは副次的な結果論に過ぎない。
東京電力社内において、事故が発生する以前に原発の津波に対する危険性を提唱することで、社内での居場所を失い失職する可能性があるとしても。自分が属する組織の利益を優先して保身に走らず、自律的に社会的責任判断を行うことが人間として必要なのであり。 これは深層心理的な行動バイアスでどうにかなるようなものではない。
成育環境に依存した、自己肯定感という「感覚」が行動に及ぼす影響というものは。その場限りの世間的成功にとっては有利に働くことはあるかも知れないが。権威や体制、多数大衆からの評価が行動に直結していることで生ずる「自律」の欠如には、こうした「感覚」の有無は無関係である。
ナチス政権下における、ユダヤ人絶滅収容所の吏官が、戦後国際法廷において「自分は体制に忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」などと称してホロコーストに加わったことを事後正当化することも、また自己肯定感が促す傲慢さでもあるからだ。
そもそも、「自分がダメ」だとか、「他人がダメ」といった感覚の源というのは、自己や他者に対する順位序列感覚が促すものであって。それ自体が先天的本能に由来する思考バイアスに過ぎないことを認識し、自己検証していれば出てくることはない感覚なのである。
人はそれぞれ個性があり、得手不得手が存在し、それぞれが得意なことや好きなことを分担することで結果的に効率が上がったり、自分の仕事に責任を持つようにもなるのであって。 他人を蔑んだり盲目的に尊敬したりといった序列をつけるからこそ、「自分がダメ」とか「他人がダメ」といった感覚が出てきてしまうのであって。 そんな「感覚」は社会的には意味がない。
気分的な感覚が行動に直結している状態を「無意識」と言うのであって、感覚に左右されずに論理的に物事を客観視出来ていれば気分的感覚に左右されずに純粋に分析することが可能になるのである。
気分的感覚が行動に直結することで起きる典型的問題行動の一つが「虐待の連鎖」である。
虐待を連鎖してしまう原因とは、自分がかつてされた虐待を事後正当化する形で、「そこには意味があったんだ、そう思わなきゃ、やってられないじゃぁありませんか。」といった感覚的行動バイアスが働くことで虐待を連鎖することを自己内部で正当化しているから、何の疑問も持たずに虐待を行えるようにもなるのである。
「苦労は必ず報われる。」だとか、「苦しい思いをたくさんすれば、優しい人になれる。」などといった大衆迎合的な嘘も、結局は事後正当化バイアスが作り出した妄想に過ぎない。
無駄な努力は、どんなに頑張っても無駄なのである。 こうした客観的事実というものは気分的には嫌なものであるかも知れないが、何が無駄で何が無駄ではないのかを客観的に直視し、分析出来ないからこそ、無駄な異常行動に執着して問題が全く解決しないというスパイラルに陥るのである。
グルーディング夫妻らが提唱する「禁止令」の類などというものは、あくまで無意識下に刷り込まれた後天的な思考や行動バイアスであって。自律的に自己の行動や言動を客観視出来ていれば、成育環境から受ける行動抑圧なんぞに左右されずに済むのである。
何でもかんでも成育環境の処為であると称していれば、あらゆる「人災」も「自分の育ちが悪いからだ。」という言い逃れをも正当化してしまう。
本能が促す先天的な行動バイアスと、成育環境から受けた後天的な行動バイアスが複雑に絡みついてヒトの行動に影響を及ぼしているというのは確かであるが。何が無意識なバイアスなのかを自分で認識出来ていれば、自ずと本質的「意識」というのは導き出されるものでもある。
気分感情が促す行動バイアスに流されているという無意識性こそが、人間としての客観的論理検証性を喪失させ、結果的に社会にとって有害な行動にも発展するのである。
「自律的な社会的責任判断」というのは、社会にとって最も重要なものではあるが。自律というものを個人が出来るようにするためには、他人からの影響でしか行動選択が出来ないという「他律」性を植え付けてしまっているからである。
一人の大人として、指導者の立場の者が自律的に責任を負えないなどというのは許されることではない。しかし、そうした無責任な者が無責任な判断を「してしまう」のも、成育環境から及ぼされた影響が存在することは確かである。
とは言え、「オノレはカブトムシだイヌだ本能には逆らえないんだと称して事後正当化する奴なんぞにはスイカの皮でも与えとけ。」という話になるのである。
虐待を受けて育った親が子供にも虐待を連鎖する言い訳として、「自分はそういう育て方しかされていないから、そういう育て方しか出来ない。」といった論法も、事後正当化バイアスが促す思考停止の一つである。
キェルケゴール著「死に至る病」における、「絶望して自己自身であろうと欲する絶望」というものは、気分感情が促す無意識な事後正当化バイアスが促す、無意識な「結果」に他ならない。
また、「絶望して自己自身であろうと欲さない絶望」というのも、単に「自分は愚かだ」と嘆いて気分的に凹んでいるに過ぎず。結局は「自分は愚かだから、仕方ない。」などという諦めを持ち出して事後正当化することで気分的憂鬱から逃れることしか出来ないのである。
本当に重要なのは「気分的に凹む」だとか「事後正当化の強弁をすること」ではなく、むしろそういった気分という無意識性に流されないという本質的な意識を持つことである。
自己の気分感情を客観視し、その感情が促すバイアスに本当に意味があるのかどうかを論理的に検証することで、自己の感情が促す無意識な行動バイアスに流されることのない行動選択も可能となる。 それをしないと、どうなるか。 原発の危険性を放置したり、ナチズムに迎合してユダヤ人殺害計画書の作成に邁進するようになるのである。 そりゃヘイトスピーチなんぞ簡単に出来るようになるのも必然である。
気分感情を後回しにして論理的に検証することに対して、大衆の多くは観念的に冷酷さか何かと勝手に妄想しがちであるが。アドルフ:アイヒマンの外見的冷酷さというものは、アイヒマンの気分的感情バイアスが促した、極めて「情熱的」な行動結果なのである。
オウム真理教による「人類の救済」も、太平洋戦争における「お国の為」も、決して論理検証性が導き出した行動ではなく。むしろ気分感情が促した「情熱的な無意識」の結果である。
振り込め詐欺に騙されることも、同様に強い感情に左右されることが原因である。
当然、詐欺をする方も利己的欲望に基づいた行動である。
利己的欲望も含めて自分の感情やバイアスに流されることなく、何が本当に自分が求めているものなのかを客観的に検証することが出来ないからこそ、目的を見失い実証不能の観念に囚われ他人に多大な迷惑をかけることに陥るのである。
◇
生物というものは、生存を目的として生きているわけではない。あくまで結果的に生きているものを生物と分類しているに過ぎないことを忘れているからこそ、進化生物学も含めて事後正当化のこじつけに満足しようとするのである。
大脳辺縁系が促す気分感情のバイアス自体は自己の選択を介していない。なぜなら自己の遺伝子を自己では選択していないからである。
さらに言えば、成育環境から受けたあらゆるバイアスであっても同様である。
先天的、或は後天的なバイアスという無意識性でしか行動が決定出来ないというのであれば、それはただのバカとしか言いようがあるまい。そんな「カブトムシ男の屁理屈」に意味などない。
ヒトという種の生物として産まれて来た不条理に歎き絶望するのではなく。むしろ不条理性を認識可能であるという「素晴らしい特性」を持ち合わせていることを忘れるべきではない。 これこそが単なる「ヒトという種の生物」と「人間」を分けるものであるからだ。
Ende;
このテの心理学的分析の記事の多くは、「世間的に成功するかどうか。」を基準にしているというのが、意識の低さを顕している。
こうした傾向というのは、経済学でも同様で。とにかく世間的に成功することばかりを基準にしており。結局は利己的欲求を満たすための方法論としてしか論じられていない。
社会にとって最も重要なのは、安全性と持続可能性であって。これは単に個人が利己的欲求さえ叶えればどうにかなるという短絡的なものではない。 利己的利益を基準にして物事を論じるというのは、世間ウケを基準とした大衆迎合性の顕れであり。科学者として無責任な発言でもある。
グルーディング夫妻らも含めて、心理学や経済学における大衆迎合的記事というのは。「多数大衆からの評価報酬」ばかりを目当てにしたものであり、社会的価値の低いものであることを認識しておく必要性がある。
◇
グルーディング夫妻らの提唱する、幼児期に受ける親や大人からの「禁止令」というのは、無意識下の超自我的行動抑圧としては働くであろうことは言えるのだが。意識そのもの、自分自身で論理的に考え、本当の意味で自分自身が望む「選択」を行うことで、成育環境から受けた無意識な行動バイアスに左右されずに済むのである。
社会的に最も重要な点とは、「自律的に社会的責任判断を行わなくなる」ことが社会にとって最も損害を産むのであって。ヒトが「自律的に社会的責任判断を行わなくなる」根源的原因というのは、そもそも自発的に物事を考えていないからである。
他人からの評価報酬という、言い換えれば他者から与えられる「脳への報酬」に対する条件反射的な行動原理というのは。脳の報酬系に作用する中毒症状を作り出し、麻薬中毒患者のように他者からの評価報酬への異常執着をするようになる。
こうした成育過程における環境依存的行動「学習」によって。評価報酬とセットで教えられたことには何の疑問も持たずに鵜呑みにし、自発的には何も考えないようになり。結果的に社会的責任判断をしなくなることが社会的に有害なのであって、個人が世間的に成功するかどうかなどは副次的な結果論に過ぎない。
東京電力社内において、事故が発生する以前に原発の津波に対する危険性を提唱することで、社内での居場所を失い失職する可能性があるとしても。自分が属する組織の利益を優先して保身に走らず、自律的に社会的責任判断を行うことが人間として必要なのであり。 これは深層心理的な行動バイアスでどうにかなるようなものではない。
成育環境に依存した、自己肯定感という「感覚」が行動に及ぼす影響というものは。その場限りの世間的成功にとっては有利に働くことはあるかも知れないが。権威や体制、多数大衆からの評価が行動に直結していることで生ずる「自律」の欠如には、こうした「感覚」の有無は無関係である。
ナチス政権下における、ユダヤ人絶滅収容所の吏官が、戦後国際法廷において「自分は体制に忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」などと称してホロコーストに加わったことを事後正当化することも、また自己肯定感が促す傲慢さでもあるからだ。
そもそも、「自分がダメ」だとか、「他人がダメ」といった感覚の源というのは、自己や他者に対する順位序列感覚が促すものであって。それ自体が先天的本能に由来する思考バイアスに過ぎないことを認識し、自己検証していれば出てくることはない感覚なのである。
人はそれぞれ個性があり、得手不得手が存在し、それぞれが得意なことや好きなことを分担することで結果的に効率が上がったり、自分の仕事に責任を持つようにもなるのであって。 他人を蔑んだり盲目的に尊敬したりといった序列をつけるからこそ、「自分がダメ」とか「他人がダメ」といった感覚が出てきてしまうのであって。 そんな「感覚」は社会的には意味がない。
気分的な感覚が行動に直結している状態を「無意識」と言うのであって、感覚に左右されずに論理的に物事を客観視出来ていれば気分的感覚に左右されずに純粋に分析することが可能になるのである。
気分的感覚が行動に直結することで起きる典型的問題行動の一つが「虐待の連鎖」である。
虐待を連鎖してしまう原因とは、自分がかつてされた虐待を事後正当化する形で、「そこには意味があったんだ、そう思わなきゃ、やってられないじゃぁありませんか。」といった感覚的行動バイアスが働くことで虐待を連鎖することを自己内部で正当化しているから、何の疑問も持たずに虐待を行えるようにもなるのである。
「苦労は必ず報われる。」だとか、「苦しい思いをたくさんすれば、優しい人になれる。」などといった大衆迎合的な嘘も、結局は事後正当化バイアスが作り出した妄想に過ぎない。
無駄な努力は、どんなに頑張っても無駄なのである。 こうした客観的事実というものは気分的には嫌なものであるかも知れないが、何が無駄で何が無駄ではないのかを客観的に直視し、分析出来ないからこそ、無駄な異常行動に執着して問題が全く解決しないというスパイラルに陥るのである。
グルーディング夫妻らが提唱する「禁止令」の類などというものは、あくまで無意識下に刷り込まれた後天的な思考や行動バイアスであって。自律的に自己の行動や言動を客観視出来ていれば、成育環境から受ける行動抑圧なんぞに左右されずに済むのである。
何でもかんでも成育環境の処為であると称していれば、あらゆる「人災」も「自分の育ちが悪いからだ。」という言い逃れをも正当化してしまう。
本能が促す先天的な行動バイアスと、成育環境から受けた後天的な行動バイアスが複雑に絡みついてヒトの行動に影響を及ぼしているというのは確かであるが。何が無意識なバイアスなのかを自分で認識出来ていれば、自ずと本質的「意識」というのは導き出されるものでもある。
気分感情が促す行動バイアスに流されているという無意識性こそが、人間としての客観的論理検証性を喪失させ、結果的に社会にとって有害な行動にも発展するのである。
「自律的な社会的責任判断」というのは、社会にとって最も重要なものではあるが。自律というものを個人が出来るようにするためには、他人からの影響でしか行動選択が出来ないという「他律」性を植え付けてしまっているからである。
一人の大人として、指導者の立場の者が自律的に責任を負えないなどというのは許されることではない。しかし、そうした無責任な者が無責任な判断を「してしまう」のも、成育環境から及ぼされた影響が存在することは確かである。
とは言え、「オノレはカブトムシだイヌだ本能には逆らえないんだと称して事後正当化する奴なんぞにはスイカの皮でも与えとけ。」という話になるのである。
虐待を受けて育った親が子供にも虐待を連鎖する言い訳として、「自分はそういう育て方しかされていないから、そういう育て方しか出来ない。」といった論法も、事後正当化バイアスが促す思考停止の一つである。
キェルケゴール著「死に至る病」における、「絶望して自己自身であろうと欲する絶望」というものは、気分感情が促す無意識な事後正当化バイアスが促す、無意識な「結果」に他ならない。
また、「絶望して自己自身であろうと欲さない絶望」というのも、単に「自分は愚かだ」と嘆いて気分的に凹んでいるに過ぎず。結局は「自分は愚かだから、仕方ない。」などという諦めを持ち出して事後正当化することで気分的憂鬱から逃れることしか出来ないのである。
本当に重要なのは「気分的に凹む」だとか「事後正当化の強弁をすること」ではなく、むしろそういった気分という無意識性に流されないという本質的な意識を持つことである。
自己の気分感情を客観視し、その感情が促すバイアスに本当に意味があるのかどうかを論理的に検証することで、自己の感情が促す無意識な行動バイアスに流されることのない行動選択も可能となる。 それをしないと、どうなるか。 原発の危険性を放置したり、ナチズムに迎合してユダヤ人殺害計画書の作成に邁進するようになるのである。 そりゃヘイトスピーチなんぞ簡単に出来るようになるのも必然である。
気分感情を後回しにして論理的に検証することに対して、大衆の多くは観念的に冷酷さか何かと勝手に妄想しがちであるが。アドルフ:アイヒマンの外見的冷酷さというものは、アイヒマンの気分的感情バイアスが促した、極めて「情熱的」な行動結果なのである。
オウム真理教による「人類の救済」も、太平洋戦争における「お国の為」も、決して論理検証性が導き出した行動ではなく。むしろ気分感情が促した「情熱的な無意識」の結果である。
振り込め詐欺に騙されることも、同様に強い感情に左右されることが原因である。
当然、詐欺をする方も利己的欲望に基づいた行動である。
利己的欲望も含めて自分の感情やバイアスに流されることなく、何が本当に自分が求めているものなのかを客観的に検証することが出来ないからこそ、目的を見失い実証不能の観念に囚われ他人に多大な迷惑をかけることに陥るのである。
◇
生物というものは、生存を目的として生きているわけではない。あくまで結果的に生きているものを生物と分類しているに過ぎないことを忘れているからこそ、進化生物学も含めて事後正当化のこじつけに満足しようとするのである。
大脳辺縁系が促す気分感情のバイアス自体は自己の選択を介していない。なぜなら自己の遺伝子を自己では選択していないからである。
さらに言えば、成育環境から受けたあらゆるバイアスであっても同様である。
先天的、或は後天的なバイアスという無意識性でしか行動が決定出来ないというのであれば、それはただのバカとしか言いようがあるまい。そんな「カブトムシ男の屁理屈」に意味などない。
ヒトという種の生物として産まれて来た不条理に歎き絶望するのではなく。むしろ不条理性を認識可能であるという「素晴らしい特性」を持ち合わせていることを忘れるべきではない。 これこそが単なる「ヒトという種の生物」と「人間」を分けるものであるからだ。
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