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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

葛と藤。

2011年03月26日 10時39分28秒 | 日記
 「葛藤。」でググってみたら、蔓性植物がお互い譲り合わない様を形容した言葉らしい。

 仏教用語では、煩悩と同義だそうである。

 まあ、大抵の場合、葛藤の結末は煩悩が勝るので、葛藤している時点で間違いなんだろう。

 オウム真理教幹部の林郁夫が、もし葛藤などという迷いをせず、内部告発に踏み切ったら。惨劇は食い止められたかも知れない。でも、もしかすると教団に抹殺されていたかも知れない。

 人道的、公益倫理的判断を行ったからといって。それが必ずしも社会にとって役に立つとは限らない。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者が、その危険性を告発したとしても。偶然事故が起こらなければ、この技術者は単なる「神経質な理論家。」としてしか扱われないであろう。

 危険性というのは、「絶対に危険。」であることを証明できない。危険性とは、「絶対に安全。」であることの反証でしかない。だから、危険性告発というのは、実際に事故などが発生しないと、多くのヒトはその意味に意識が働かない。

 「気分的に面倒臭い。」のである。


 正直、私自身いくら説明しても理解されない話をし続けるというのは面倒臭い。だが、それは私の個人的な感情論であるから、これは私自身の本質的意識としては無視しなければならないものである。そこに葛藤の余地などあってはならない。

 そうか、葛藤というのは「余地。」であり、「余計なこと。」なのか。だから煩悩と同義なんだな。

 だけど、一般的に「悟り。」を開いたなんて言ってる場合。ほとんど全ては「考えるのが、面倒臭いので。諦めた。」という意味でしか使われない。

 「迷いがない。」状態には二種類ある。本能のおもむくまま何も考えない状態と、本能に惑わされずに確固たる意思を持ち続ける状態である。

 どちらが「正しい。」のかは、最初から選択の余地などないのである。

 居酒屋で、何人かで酒を呑み。固定観念を共有しあって気分的に満足した後、家に帰る時になって、その内の何人かが、車を運転して帰ることを知ったとする。

 飲酒運転は危険であることを告げると、相手は激昂して怒鳴り散らす。周りの仲間も「それ程酔っていないから、大丈夫。」と諭す。あなたは仲間内では神経質で、「空気を読まない。」変人扱いされる。警察に通報すれば、あなたは裏切り者として扱われ、二度と楽しい飲み会には誘われることはないであろう。多くの友人を失うであろう。下手をすると仕事まで失うかも知れない。

 もし、放置しても、交通事故は起きないかも知れない。


 ヒトの意識の9割は無意識である。アルコールなどで脳が麻痺していれば99%以上は無意識であろう。「俺は既に酔っ払っているから、もはや理性的な判断なんぞ、出来なくって構わない。もはや仕方がない。」そう思い込むこともできるであろう。

 「仕方がない。」とは、厳密には「それ以外の一切の選択の余地が存在しない。」という意味である。

 本当にないのか?。


 私の気分的には、酔っ払い相手に理性を求めているような徒労感でいっぱいである。時折ふざけた文章になるのは、こうした気分的な憂鬱を紛らわすための感情的「息抜き。」とか「気晴らし。」である。それが反って信憑性を失わせているとしても、そこまでは私の知ったことではない。

 「信じる者は、救われる。」盲目的にペテンを鵜呑みにしておけば、気分的には「救われる。」であろう。ドストエフスキーで満足している安物の哲学マニアの類なら、自分の個人的な感情さえ満たされていれば安心であろう。「救われる。」のであろう。

 だが、私に言わせれば、それは酔っ払いの屁理屈でしかない。


 言語によって、意識を撹乱させることは簡単である。だが、言語を用いて意識を喚起することは困難である。「喚き、起こす。」というくらい、大声で言わないと、誰も自己満足のまどろみからは起きて来ないからである。






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