若い頃
近所の小学生の男の子が悪さをしたので
「どうしてそんなことしたの?」と冷静に問うてみたことがある
まあ、子供なので答は「イライラしたから」的なしょうもない幼稚なものだったのだが、
「イライラしたらそんなことしても良いのかな?」といった風に
認知行動療法的に自分自身に考えさせてみようとしたんだが
周りの人からは「そんなに問い詰めたらかわいそうだ。」と遮られてしまったことがある
「むしろ激しく感情的に怒鳴りつけてやった方が子供の方も楽だ。」的なことも言われてしまった
「理詰めで問い詰めたりすると精神を病んでしまうから、頭ごなしに怒鳴りつけてやった方がわかりやすいだろう。」との意見だった
でも激しく怒鳴りつけたら悪さをしなくなるかというと
その場限りではおとなくはなるのだが、怒鳴る大人がいなくなれば平気で同じような悪さをするようになるのだ
怒鳴りつける誰かがいないと自分では自分の行動をコントロール出来ない状態の方が精神を病んでいる状態なのに、自発的思考を促し自分を省みることで気分が悪くなることを、「精神を病んでしまう。」などと称してさせないというのは
かなりおかしな話である
これもある種の日本の風土や「文化」であろう
短絡的に「怒鳴りつけておいた方が精神を病まない。」と言えるのであろうか
時間は短く出来るだろう
短時間に怒鳴りつけておいた方が、子供は何も考えずに「よくわからないけど、怒られるからやりたくない。」という動物的行動バイアスによって子供をコントロールしておいた方が、子供にとっても気分的に「楽」だと、そういうことらしいのだ
「楽」なの?
その場限りに怒鳴られておいた方が「楽」なの?
そこ手抜きしておいて人間性とか倫理が育つわきゃないのに
子供と向き合って、時間をかけて自律的行動選択を育てようとすることは「かわいそう」なのでやらない
多分このことを論じようとすると、「自分がそういう育て方をされていないから。」などという
一体何の「連鎖」なんだろうと思うような答がかえってくることが多い
何だろう、自分が常に正しい存在で、その正しい自分の育ち方こそが絶対的に正しいものであるという観念が根底にあるのではなかろうか
全能感というか、「自分は絶対に大丈夫」感といったものが大半のヒトにはあって
「自分を疑うと気分が悪くなるので考えないようにする。」ことが常態化しているのではないか
故に振り込め詐欺の誘導に簡単に乗ってしまうのであろう
自分の育ち方に疑問を持つことを恐れ、自分は育ちだけで全てが決定している存在であると信じ込んでいるフシがある
故に自分の育てられ方というものを、事後正当化する形で絶対的に正しいものであるという盲信に基づいて、自分の育てられ方をそのまま子供の育て方に適用しているのであろう
こうした一種の「風土」というか「文化」のような形をとって、誤った育て方が連鎖されているのである
虐待の連鎖も含めて、こうした連鎖というのは無意識という感情論によって生ずるものであり
無意識である以上、その実態はどんどん安易で雑なものになってゆく傾向もある
育て方に絶対などないだろう
だからといって何も改善しなくても良いことの理由にはならないのだが
問題は自分の観念を疑い、論理的に検証し、間違っている部分があれば改善するという姿勢、謙虚さというものが
本質的な意識の欠けたヒトには全くないのである
「怒られて、怖いから、悪いことはやらない。」という発想は、まだ自律のない幼児の行動制御だけに対して、便宜的、暫定的に適用すべきものであって
これをスタンダードにしてしまうから、刑罰の厳罰化だけが唯一絶対の解決策になってしまうのである
これは国家単位での話でも同じであり
北朝鮮と米国による軍事力を用いた脅し合いという、幼稚な外交であっても同じ原因である
ヒトは事物の大きさだけで分類しがちだが、国家単位であろうと実際には権力者という個人同士のやりとりであることに違いはない
大きなことを変えるためには、無数の小さな目先の間違いから修正してゆく地道さが必要なのだが
ヒトは大きな事象だけに目を奪われ、小さな事象を無視しようとする習性がある
だからわざわざ「ハインリッヒの法則」というものを挙げなくてはならない
◇追記:「頭の悪い子供に自発的思考なんぞ促したら、ストレスが溜まって逆に悪事がエスカレートするのではないか。」という意見が出てきた
これは恐ろしい発想で、「頭の悪い子供は適当に悪いことをしても仕方がない。」「障らぬ神に祟りなし。」というか、事なかれ主義全開で、その場限りに子供の気分に迎合しているのである
こういう頭の悪い大人が、その場限りに子供のご機嫌取りばかりしているから、子供も頭が悪くなるのである
これも恐らくは「文化」と称した「連鎖」によるものであろう
無意識なヒトって「雑」なのよね
Ende;
近所の小学生の男の子が悪さをしたので
「どうしてそんなことしたの?」と冷静に問うてみたことがある
まあ、子供なので答は「イライラしたから」的なしょうもない幼稚なものだったのだが、
「イライラしたらそんなことしても良いのかな?」といった風に
認知行動療法的に自分自身に考えさせてみようとしたんだが
周りの人からは「そんなに問い詰めたらかわいそうだ。」と遮られてしまったことがある
「むしろ激しく感情的に怒鳴りつけてやった方が子供の方も楽だ。」的なことも言われてしまった
「理詰めで問い詰めたりすると精神を病んでしまうから、頭ごなしに怒鳴りつけてやった方がわかりやすいだろう。」との意見だった
でも激しく怒鳴りつけたら悪さをしなくなるかというと
その場限りではおとなくはなるのだが、怒鳴る大人がいなくなれば平気で同じような悪さをするようになるのだ
怒鳴りつける誰かがいないと自分では自分の行動をコントロール出来ない状態の方が精神を病んでいる状態なのに、自発的思考を促し自分を省みることで気分が悪くなることを、「精神を病んでしまう。」などと称してさせないというのは
かなりおかしな話である
これもある種の日本の風土や「文化」であろう
短絡的に「怒鳴りつけておいた方が精神を病まない。」と言えるのであろうか
時間は短く出来るだろう
短時間に怒鳴りつけておいた方が、子供は何も考えずに「よくわからないけど、怒られるからやりたくない。」という動物的行動バイアスによって子供をコントロールしておいた方が、子供にとっても気分的に「楽」だと、そういうことらしいのだ
「楽」なの?
その場限りに怒鳴られておいた方が「楽」なの?
そこ手抜きしておいて人間性とか倫理が育つわきゃないのに
子供と向き合って、時間をかけて自律的行動選択を育てようとすることは「かわいそう」なのでやらない
多分このことを論じようとすると、「自分がそういう育て方をされていないから。」などという
一体何の「連鎖」なんだろうと思うような答がかえってくることが多い
何だろう、自分が常に正しい存在で、その正しい自分の育ち方こそが絶対的に正しいものであるという観念が根底にあるのではなかろうか
全能感というか、「自分は絶対に大丈夫」感といったものが大半のヒトにはあって
「自分を疑うと気分が悪くなるので考えないようにする。」ことが常態化しているのではないか
故に振り込め詐欺の誘導に簡単に乗ってしまうのであろう
自分の育ち方に疑問を持つことを恐れ、自分は育ちだけで全てが決定している存在であると信じ込んでいるフシがある
故に自分の育てられ方というものを、事後正当化する形で絶対的に正しいものであるという盲信に基づいて、自分の育てられ方をそのまま子供の育て方に適用しているのであろう
こうした一種の「風土」というか「文化」のような形をとって、誤った育て方が連鎖されているのである
虐待の連鎖も含めて、こうした連鎖というのは無意識という感情論によって生ずるものであり
無意識である以上、その実態はどんどん安易で雑なものになってゆく傾向もある
育て方に絶対などないだろう
だからといって何も改善しなくても良いことの理由にはならないのだが
問題は自分の観念を疑い、論理的に検証し、間違っている部分があれば改善するという姿勢、謙虚さというものが
本質的な意識の欠けたヒトには全くないのである
「怒られて、怖いから、悪いことはやらない。」という発想は、まだ自律のない幼児の行動制御だけに対して、便宜的、暫定的に適用すべきものであって
これをスタンダードにしてしまうから、刑罰の厳罰化だけが唯一絶対の解決策になってしまうのである
これは国家単位での話でも同じであり
北朝鮮と米国による軍事力を用いた脅し合いという、幼稚な外交であっても同じ原因である
ヒトは事物の大きさだけで分類しがちだが、国家単位であろうと実際には権力者という個人同士のやりとりであることに違いはない
大きなことを変えるためには、無数の小さな目先の間違いから修正してゆく地道さが必要なのだが
ヒトは大きな事象だけに目を奪われ、小さな事象を無視しようとする習性がある
だからわざわざ「ハインリッヒの法則」というものを挙げなくてはならない
◇追記:「頭の悪い子供に自発的思考なんぞ促したら、ストレスが溜まって逆に悪事がエスカレートするのではないか。」という意見が出てきた
これは恐ろしい発想で、「頭の悪い子供は適当に悪いことをしても仕方がない。」「障らぬ神に祟りなし。」というか、事なかれ主義全開で、その場限りに子供の気分に迎合しているのである
こういう頭の悪い大人が、その場限りに子供のご機嫌取りばかりしているから、子供も頭が悪くなるのである
これも恐らくは「文化」と称した「連鎖」によるものであろう
無意識なヒトって「雑」なのよね
Ende;