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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○共通する欠陥。

2019年04月25日 14時26分20秒 | 意識論関連
大衆の多くは哲学というものを何か勘違いしているらしくて

文芸書と同じように 読んだら気分が良くなるとか 楽しくなるためのものだと勝手に思い違いをしている

哲学ってのは科学と同じで 論理的根拠に基づいた真理(本当のこと)を見極めるためのものであって 観念的に安心満足するためのものではない

悪霊妖怪の類といったオカルト観念に惑わされずに 論理客観的な真理を見極めることが哲学の本質であって

クソの役にも立たない「理性や人知を超越した実証不能の謎の英知」なんぞを説いているのは哲学ではない

論理的真理の追求というものは 気分的に安心満足するためのものではない

国会原発事故調査委員会報告書というのは 気分的に安心満足することが目的ではなく 論理的に安全性を追求するためのものである

哲学であってもこれは同じで 哲学書で気分的安心満足を得ようとするのが根本的に大間違いも甚だしいのである

構造主義者は実存主義の不条理性を受け入れることができずに 結果と目的を論理的厳密に区別しないという非科学的暴挙に出た

NHK解説委員の室山哲也が「人類は絶対に絶滅します」などと断言したのも 構造主義による非科学的観念に基づいた暴走暴言である

ヒトという種の生物が先天的に欠陥品であるという不条理性は 「不条理だ」と感じている主観的なものに過ぎず どんなに主観的に不条理性を「感じ」ようとも欠陥品であることの論理否定には断じてならない

ヒトという種の生物が 何ら知的生命体でも何でもない単なる大型の猿に過ぎないことを どんなに強く不条理だと感じようとも 不条理性を根拠に欠陥の論理反証には一切ならない

犯罪者やテロリスト達の行動の危険性というものは 自分達には関係がないものだと信じ込みたい感覚によって 本来ヒト全般に普遍的に見られる欠陥までをも「無かったこと」にし 意識から外し 考えないようにすることで気分的に安心満足しようとする

ヒトという種の生物は そういう出来損ないのポンコツに過ぎないのである

自分のどこが欠陥で どのように頭が悪いのかを理解していれば 頭の悪さに起因する錯覚や幻想に惑わされずに合理的安全性の追求が出来るようになる

それは 原発のどこに欠陥があったのかを知ることによって同じトラブルの再発防止が出来るようになるのと同じことである

合理的な社会安全性を追求することは 無駄に苦しむ人を減らすことにとって最も近道である

だが 大衆の多くは近道の存在を理解認識することよりも 目先の気分感情観念に囚われ 簡単に「人間としての目的」すら見失う

「遠回り」どころか 本来の「目的」にすら向かおうとはしないのである

それは 先天的なヒトの欠陥に起因する頭の悪さが原因である



どんなに説明しても論理的理解の出来ない大多数のバカに対して

個人的主観的には「死ねバカ」とか「思う」が

だが 私は主観的感覚というものが客観的には意味がないことを理解している

どんなに強く「死ねバカ」と「思って」いても 本当に松永さん家の真菜莉子ペアが亡くなれば飯の味がわからなくなるのである

縁もゆかりもない松永さん家の親子でも 路上で血まみれになっていたら何も感じずにはいられない

それもまた主観的感覚ではあるのだが どちらの方が優先すべきなのかは客観的理性であり 一貫性である

養老孟司は一貫性や論理整合性を放棄する それは その場限りの主観的感覚こそが意識の本質であるという構造主義に基づいた非科学的屁理屈である

論理整合性がないというのは 人間としての一貫性がなく 無責任であるという意味でもある

そういう無責任を促すバカの言っていることの方が 大多数の大衆は気分的安心満足が得られるのである

「出来そうにないことは やらないほうが良い」とはニーチェの言葉だが それは「出来そうかどうか」という主観的感覚を優先する観念であり 倫理的に「やるべきかどうか」を無視した気分的安心満足を促すものである

そんなニーチェを未だに倫理だと生徒に教え込んでいる現在の哲学界というのは 無責任なオカルト集団にしかなっていない

そういうバカ相手に本当の哲学とは何かを説明することは絶望的であるが

絶望もまた主観に過ぎない

絶望とか不条理とか 社会安全性にとってどうでも良いのである

だから説明している



Ende;

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