○猫の解剖。
「生きている。」ということがどういうものなのかを確認したかったのではないか。
おそらく、自分自身の命の存在の理由が感じられなくて、生きていることと死んでいることの境界を実感したくて猫を解剖したのではないかと思われる。
生きている実感というのは主観であって、これは生物学的構造から導き出せるようなものではないのだが、実感という主観、「自分の気持ち」がわからないから物理的証拠を欲しがるのではないか。
自分のことを大切に出来なければ、他人のことも大切には出来ない。
自分の存在価値、生きていることの意味がわからなければ、他人の存在価値も生きている意味もわからなくなるのは必然的結果であろう。
自己の存在の意味、生き続けることの意味というのは、主観的感覚である「自分の気持ち」が根幹にあり、これが喪失してしまえば何も考えられなくなるのは必然的結果である。
本当の意味での「心の教育」というのは、単に「命は大事。」などと言葉で刷り込み学習することではなく。「これなら一生続けることが出来る純粋行為。」などの主観的実感を得られるようにすることである。
ところがバカな大人達は自分達の主観的気分を無理矢理共有させようとするばかりで、押し付けがましいばかりか実質的効果が全くない。いうなれば、「俺はこんなにやさしい気持ちになれるんだから、お前もやさしい気持ちになれ。」と強要しているだけであって、鬱陶しいだけである。
こんなものを「心の教育」だと思っているのは、とんでもない大間違いである。
また、本当は自分の主観的な「生きている実感」を持っていない者の場合、主観的実感というものの価値を全く知らないため。やたらと気分感情の多数派共有でしか社会的責任というものが論じられないのである。
社会的責任というものを多数他人からの監視によってでしか持てないからこそ、自律が働かないのである。フロイトの言う超自我的無意識な抑圧を人間性だと思うのは大間違いで、むしろ無意識下に刷り込み学習された規範意識こそがオウム真理教のような暴走テロを引き起こすのである。
つまり、気分感情で行動を誘導することを「心」だと思っていることが根源的間違いであり。主観的な自己存在肯定感覚というものは他人から与えられるようなものではなく、自分自身で見つけるものなのである。
気持ちという気分感情は短絡的に「心」ではない。このことを大人が理解していなければ子供が気分感情のままに行動してしまうのは当たり前である。
司法は刑法に基づいて機械手続き的に懲罰の程度を決めるだけであり。なぜ主観的実感としての自己肯定感覚が持てなかったのかについての論理科学的分析は一切行われず、再発防止策に一切つながっていない。
司法刑罰というのは被害者感情を国家権力で代弁するだけの野蛮で短絡的解決策であって、何ら「加害者の理性がなぜ働かなかったのか。」について全く言及していない。
司法裁判では時折「殺意の有無」を議論したがるが、殺意などというものは殺人犯でなくても起きるものであり、殺意の有無を論じても何の意味もないのである。おいらだって殺したい奴はいくらでもいる、殺意だったら犯罪の被害者遺族なら誰でも持ちうるものであって、それは何も問われないのに加害者の殺意の有無だけ論じるのは不毛極まりない。
こういう何の合理性もない司法刑罰に依存しているからこそ、具体性を持った犯罪への再発防止策が一切行われず、文科系大衆観念に基づいた「心の教育」などという不毛なものばかりが続けられることになるのである。
自分の存在価値がわからず自己肯定感覚が全く持てない相手に対して、司法刑罰を与えて安心満足するだけでは。「なぜ、この犯罪者は自己肯定感覚を持つことが出来なかったのか。」についての、本当の意味での「心」についての分析には発展しない。
それがどれだけ社会的損失になっているのか、それがどれだけ無責任であるのかを認識していないからこそ、漫然と司法刑罰だけに依存することに陥るのである。
Ende;
「生きている。」ということがどういうものなのかを確認したかったのではないか。
おそらく、自分自身の命の存在の理由が感じられなくて、生きていることと死んでいることの境界を実感したくて猫を解剖したのではないかと思われる。
生きている実感というのは主観であって、これは生物学的構造から導き出せるようなものではないのだが、実感という主観、「自分の気持ち」がわからないから物理的証拠を欲しがるのではないか。
自分のことを大切に出来なければ、他人のことも大切には出来ない。
自分の存在価値、生きていることの意味がわからなければ、他人の存在価値も生きている意味もわからなくなるのは必然的結果であろう。
自己の存在の意味、生き続けることの意味というのは、主観的感覚である「自分の気持ち」が根幹にあり、これが喪失してしまえば何も考えられなくなるのは必然的結果である。
本当の意味での「心の教育」というのは、単に「命は大事。」などと言葉で刷り込み学習することではなく。「これなら一生続けることが出来る純粋行為。」などの主観的実感を得られるようにすることである。
ところがバカな大人達は自分達の主観的気分を無理矢理共有させようとするばかりで、押し付けがましいばかりか実質的効果が全くない。いうなれば、「俺はこんなにやさしい気持ちになれるんだから、お前もやさしい気持ちになれ。」と強要しているだけであって、鬱陶しいだけである。
こんなものを「心の教育」だと思っているのは、とんでもない大間違いである。
また、本当は自分の主観的な「生きている実感」を持っていない者の場合、主観的実感というものの価値を全く知らないため。やたらと気分感情の多数派共有でしか社会的責任というものが論じられないのである。
社会的責任というものを多数他人からの監視によってでしか持てないからこそ、自律が働かないのである。フロイトの言う超自我的無意識な抑圧を人間性だと思うのは大間違いで、むしろ無意識下に刷り込み学習された規範意識こそがオウム真理教のような暴走テロを引き起こすのである。
つまり、気分感情で行動を誘導することを「心」だと思っていることが根源的間違いであり。主観的な自己存在肯定感覚というものは他人から与えられるようなものではなく、自分自身で見つけるものなのである。
気持ちという気分感情は短絡的に「心」ではない。このことを大人が理解していなければ子供が気分感情のままに行動してしまうのは当たり前である。
司法は刑法に基づいて機械手続き的に懲罰の程度を決めるだけであり。なぜ主観的実感としての自己肯定感覚が持てなかったのかについての論理科学的分析は一切行われず、再発防止策に一切つながっていない。
司法刑罰というのは被害者感情を国家権力で代弁するだけの野蛮で短絡的解決策であって、何ら「加害者の理性がなぜ働かなかったのか。」について全く言及していない。
司法裁判では時折「殺意の有無」を議論したがるが、殺意などというものは殺人犯でなくても起きるものであり、殺意の有無を論じても何の意味もないのである。おいらだって殺したい奴はいくらでもいる、殺意だったら犯罪の被害者遺族なら誰でも持ちうるものであって、それは何も問われないのに加害者の殺意の有無だけ論じるのは不毛極まりない。
こういう何の合理性もない司法刑罰に依存しているからこそ、具体性を持った犯罪への再発防止策が一切行われず、文科系大衆観念に基づいた「心の教育」などという不毛なものばかりが続けられることになるのである。
自分の存在価値がわからず自己肯定感覚が全く持てない相手に対して、司法刑罰を与えて安心満足するだけでは。「なぜ、この犯罪者は自己肯定感覚を持つことが出来なかったのか。」についての、本当の意味での「心」についての分析には発展しない。
それがどれだけ社会的損失になっているのか、それがどれだけ無責任であるのかを認識していないからこそ、漫然と司法刑罰だけに依存することに陥るのである。
Ende;