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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

主体性とは似て非なるもの

2020年09月30日 10時05分19秒 | 意識論関連

本当の主体性というものは 自分自身の行為における好き嫌いが重要であって 行為以外の何か他者が好きだからといって正当化することは純粋行為にはならない

麻原彰晃が好きだからと称して 麻原彰晃の言っている内容を鵜呑みにしていたのでは本質的な主体性にはならない

それは養老孟司でもマルクス:ガブリエルでもイマヌエル:カントでも同じ事である

チンパンジーが好きだからといって チンパンジーの行動の全てを正当化しようとしても科学的論証にならないのも同じである

魚が好きだからといって 魚の形質や習性の全てに合理性や「賢さ」が存在すると正当化しても科学的論証にはならない

爬虫類が個人的に好きで研究しているとしても 爬虫類の遺伝的進化の全てには意味や目的があることの根拠には一切ならない

本当の主体性というものは 好きな「事」にある

好きな「物(者)」ではない

 

行為(事)自体を主観的に好きで熱中することにより 集中力や自己客観性をも持てるようになる

しかし 行為以外の「物(者)」が主観的に好きであっても集中力や自己客観性は育たない

サッカー観戦が好きで応援に熱中しても それは行為自体が好きなのではないため 時折フーリガンのような暴走に発展することがある

居酒屋で脳をエタノールで麻痺させながら仲間内で話を丸めて満足することが好きでも その「好き」というものは環境依存的なものであって 本当の主体的な純粋行為ではない

他人が大型レッカー車や鉄道列車を運転しているのを見て「かっこいい」と思ったからといって大型レッカー車や鉄道列車の運転手になりたがることは本質的主体性ではなく あくまで外見上の「かっこいい」に対する憧れに過ぎないため 行為自体が好きなわけではないので自律的な社会的責任判断選択ができるようにはならない

実際に「憧れ」で大型レッカー車の運転手になった者が持病のてんかんを隠して運転を続けた結果大事故を引き起こした例があり

航空機パイロットに憧れたが航空業界にすら入れなかった者がハイジャック事件を引き起こした例もある

芸能人(他者)を見て「自分も人気芸能人になって多数他人からチヤホヤされたい」という「憧れ」から芸能人になった場合も 芸能の仕事そのものが好きなわけではないために 無責任な不祥事を起こす事例も少なくない

「他人の成功」に対する「憧れ」というのは あくまで「他人の成功」ありきの動機であって 本質的主体性とは別のものである

「憧れ」というのは外見的な価値観であり 他人からの見た目であり 他人からの評価を基準とした価値観であるために 行為そのものが純粋に好きなわけではない

悪質なユーチューバーや悪乗り投稿というのも 別に動画撮影そのものが好きなわけではなく 他人からのウケ狙いでやっているだけであるため 自律的な社会的責任判断選択が出来ないのである

ノーベル賞受賞者の田中耕一は 別に他人が科学実験をしている姿に憧れたわけではなく あくまで自分が科学実験をしている行為自体が楽しいからこそ他人の評価や外見的「カッコ良さ」に左右されることなく地味な実験でも辛抱強く続けることが出来るのである

この違いを理解せずに ただ「好きなこと」に邁進していれば主体性だと思ったら大間違いである

怪しい薬だのエタノールやニコチンや他者への憧れや評価報酬に依存しない 自律的に好きな行為こそが本質的純粋行為であって これが本当の主体性や自己客観性を育むのである

脳内麻薬を自律的に自給自足できれば 環境依存性に左右されずに自律的に社会的責任判断選択も可能となり これが人間性として機能するのである

 ◇

根拠のない誹謗中傷をしているヒトというのは 精神に異常をきたしているのであって 何かストレスで脳が人間として機能していないから非人道的な誹謗中傷をしなければならなくなっているのである

根拠のない誹謗中傷なんぞに邁進している奴に対しては 「どうした? 大丈夫か? 何があった?(松田ゆう姫)」と思う方が客観的に正しい判断である

精神に余裕がないからこそ 他人に対して根拠のない誹謗中傷するなどしていないといられないのであって 認知的不協和を解消する形で他人を蔑み続けることで自分の優位性や正当性の立証か何かと錯覚していなければいられないのである

自分がやっている行為を客観的に鑑みることができないのである

これも一種の中毒であって どんなに誹謗中傷を繰り返しても満足することはなく むしろ中毒は酷くなる一方である

本当に純粋に好きなことに邁進していれば これは脳内麻薬を自給自足できるため どんなに身体的にしんどくても気分的には満足し 精神の余裕を持つことが出来るのである

精神に余裕があれば 根拠のない誹謗中傷に邁進することもなく 逆に論理客観的検証によって多くのヒトが気づかぬ誤謬にも気づくことが可能ともなる

根拠のない権威や多数への同調迎合というのは 精神に余裕がないために起こるものであって 他人からの評価を気にしない余裕がなければ権威の間違いにも気づくことはできなくなる

「これさえやっときゃ 全ては解決」という短絡的発想は 物事を深く考えるだけの精神の余裕がないからであって 薄っぺらで浅い発想に溺れて満足することしかできなくなっているという これもまた一種の悪質な中毒の原因である

目先の気分感情に左右されずに 客観的真理を見抜くために必要なのは 環境に左右されない主体的純粋行為の存在である

 ◇

「衝撃」とは「強烈な感情」のことである

純粋行為というのは 強烈な感情を伴うものではなく 平常心で「楽しい」と熱中できる行為のことを指すのである

散歩が好きな人は 別に散歩で強烈な「衝撃」を受けたりはしないが 日々の小さな発見で満足することが出来るから 毎日のように散歩に出かけるのである

「衝撃」というものは自己自身の主体的なものではなく あくまで環境から受けるものであり 「衝撃」という環境依存的なものが動機になっても純粋行為としての満足が得られるわけではなく

イマヌエル:カントのように実証不能の観念に一生を費やすことに陥る原因ともなる

「衝撃」というものが単なる主観的な感情の強度程度に過ぎないという客観性が働いていれば 地下鉄に毒ガスを撒いて「人類の救済だ」などと言い出すことにもならないのである

 

論理客観性という本質的な人間としての意識が働いていないからこそ 感情の強度程度に左右されるという環境依存的行動に陥ってしまうのである

それこそが「因果律(選択不可能な運命)」というものである

論理客観性があれば 環境依存的な「因果律」に左右されずに自主的な選択可能性を発揮することが可能となる

本当の意味での自己選択可能性が働かなければ 本質的な人間としての意思や意識や心の論証にはならない

 

 

 

Ende;


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