○いろいろ。
「仲間にバカにされたから、見返したかった。」
一体バスジャックをすることによって、何をどのように「見返す。」つもりであったのか。
「バカにされた。」と言っても、暴力性の程度比較競争において「バカにされた。」のであれば、「バカにされた。」そもそもの価値観自体がバカげている。そこに自律的に気付くことができないことがバカの根源なのである。
少数の子供の集団内部における合理性のない短絡的価値観というのは放置しておいて良いものではない。
重大な事象が起こる背景には、必ず重大とまでは言えない程度の事象がたくさん起こっているはずである。現在の日本の教育システムでは、こうした子供達の小さな異常行動というものを子供達同士で検証させることを全くさせていない。
「子供のやることはバカげたものである。」という固定観念によって、バカげた価値観を放置しているのは文系大衆観念による思考停止性によるものである。
子供だけで放置することによって本能的に形成される「社会性。」では、バカげた価値観であるということを子供に認識することは出来ず。封建的社会形成によって特定の子供が主張する価値観によって集団全ての価値観が統率的に染まってしまい、自発的な合理的思考というものは行われなくなってしまうのである。
生物学における「社会性。」、すなはち本能的な社会形成習性というものは、統率的にヒエラルキー順位を決定しておくことによる気分的安心しか作り出すことはなく。習性というものは単なる生存という結果として結果的に組み込まれたシーケンスに過ぎず、本能習性自体には合理的目的など存在せず、単なる気分的な安心満足しかもたらすことはない。
こうした生物学上での「社会性。」というものの形成過程というものは、目的意識に基づいて選択されたものではなく、イヌや昆虫などの下等動物においても作り出されるものでもあり、あくまで結果的に生存に適した結果として淘汰された行動に過ぎない。そのため本能的には「社会を形成することだけ。」が目的であり、論理的には何の目的もなく暴走しか促さない。
本能的目的というものは、予め組み込まれたシーケンシャルな行動習性を作り出すことだけが目的であり。これは本質的には「目的。」ではなく、本能習性の「結果。」以上の何物でもない。
文面上では本能的であっても「目的。」と表さざるを得ないために、あたかも意識的/論理的に選択された行動「目的。」と混同しがちであるが。これは自然言語上において従来全く分類されることがなかったために致し方ない。
本能的目的というものは、本能自体が結果であり、結果が導き出す結果であっても目的には理論的にはならないのだが。他に表現する手立てが今のところ見つからない。新しく名称を作り出すと反って理解しずらくなる可能性もある。
子供に限らず、無意識的集団内部においての観念の暴走というものは。そこに本質的意識、自発的判断というものが働かないからである。
自発的に価値観の検証をしない場合、本能的な社会形成習性によって特定の個体の価値観に統率されてしまうのである。
特定の個体として無意識的に認識される「リーダー。」というのは、外見的に自信に満ち、短絡的決断力によって、あたかも絶対的な価値観を持っているかのような錯覚を促すように振る舞う性質があり。あくまで外見上の観念に過ぎないので自己検証を行う保障もない。
多くのヒトは、こうした外見上の自信や権威性といったものを短絡的に「統率力。」であると錯覚し、気分的に安心して服従するようになるのである。
生物学的社会形成習性による「統率力。」というものは、あくまで統率することだけが目的であって、その統率には目的というものがない。目的もなく統率されている状態が本能的にヒトは安心なのである。
同一の価値観を共有しておくことが気分的に安心あり、こうした本能習性というものは常に目先の相手や集団に対して働く性質がある。
本質的に合理性を追求すれば、目先の相手や集団だけでなく。合理性のある普遍的な価値観に基づいた行動選択が可能となるのであるが。意識そのもの、自発的な論理検証が働かなければ、目先の相手や集団に迎合するだけに陥ることになる。
「格好良い。」とは、その感情の元は親という服従対象に対する信頼への感情である。バスジャックをそそのかされた子供のように、「バスジャックをしたらすごい。」などという、価値観の意識誘導に簡単に引っ掛かるというのは、「それの一体何が凄いのか。」についての論理的検証が自律的にできないからであり、目先の他人が促す価値観に簡単に誘導される自発的価値観が全くないことの証明である。
暴力への羨望というものは、その根底に強さへの依存性が含まれている。しかし、本能が促すアプリオリな文系大衆観念に基づく強さへの依存性というものには合理的必然性が全くなく、その場限りの気分「空気。」によって左右される一貫性や普遍性というものを全く持たない。
シエラレオネの少年ゲリラ達の内部における価値観も、このように目先の集団内部だけで作り出されたものであり。本能的な社会形成習性というものの本能的目的結果というものには何ら意識的目的が存在せず、短絡的に力(暴力)に依存してしまいがちなのである。
ハリウッド映画の多くや、時代劇に見られるように、暴力的破壊によって一面的正義を下すことがヒトにとっては快楽をもたらすのである。
つまり、ヒトという種の生物は暴力的破壊による短絡的最終解決に快楽を感じるものなのである。しかし、ヒトの多くはそれが普通で一般的であるために、こうしたヒトの持つ危険性というものに対して気分的安心を抱き、忘れてしまうのである。
映画や時代劇のように、とってつけたような悪人というのは現実には存在せず。実際の犯罪者というのは親族も友人もいる一個のヒトであり、短絡的に殺してしまえば全ては解決するような簡単なものではない。
一個のヒトが、自律的に社会的責任判断を出来なくなる(したくなくなる)過程においては、個人の先天的個体差や成育環境によっても異なるものであるが。基本的に当人に自発的な行動選択の検証性が欠落していることが原因である。
しかし、子供においては自発的行動選択云々を論ずることは酷である。子供は子供自身では何も選択していない状態であり、構造的に自律判断というものは出来ない状態にあるからだ。
しかし、子供は必ず大人にならざるを得ない存在であるから。子供に対して自律判断が可能にできるような環境を整えることは大人にとっての社会的責務である。これは血縁関係を持った子供の有無に関わらない。
ヒトが自律的に社会的責任判断を行えるようになるためには、本質的自発性による行動選択が必要不可欠である。自律とは自発の中にあり他にはないからである。
個人が主体的/自主的動機によって存在している場合、社会というものは自己存在と等価であるから、社会安全性というものは自ずと求めるものである。
しかし、個人に本質的主体性/自主的動機がなく、親大人や世間という多数他人からの評価報酬だけを強迫観念的に求めている場合。そもそもが評価報酬という「エサ。」に対する動物的な機械的条件反射行動に過ぎないため、自発的には社会安全性にも持続可能性にも意識が働くことが原理的にない。
言うなれば、自分の世間的立場を維持することだけで精一杯で、他人の迷惑になど省みる精神的余裕が全くないのである。
あくまで精神的余裕がないだけであるため、どんなに物質的に満たされても脳は餓えたままであり。行動に影響を及ぼすことはない。意識がなければ「学習すること。」はできず、環境によって刷り込み「学習された。」行動を漫然と繰り返す以外に何も自発的には選択することはできないし、したくもないのである。
カルト宗教の教祖や、カルト国家の将軍様達が自律的に自分の行動を変えることが出来ないのは、彼らがただ既に存在していた環境に流され、多数他人に迎合することしか出来ないからである。
要するに、どんなに人数が多い集団であっても、その集団の誰にも意識がなく、漫然と既に存在している固定観念を盲信し何ら論理的検証を行わない限り。結局は通り魔やバスジャック同様、その場の空気雰囲気だけで行動が決定されてしまうから体制腐敗に陥ることになるのである。
キチガイのやることは予測がつかない。予測がつかないからキチガイである所以でもあるが、自発的に社会安全性や持続可能性を求めていれば、結果的にキチガイではなくなる。
自発的純粋行為というものは他人との気分的共感を求めないため、本能的社会形成習性によって強迫観念的に共感を求める者にとっては気分的に「怖い。」だの「気持ち悪い。」といった勝手な観念によって排除差別の対象にしたがる傾向が見られるが、これこそが本能由来の文系大衆観念というものである。
自発的純粋行為というものに対する観念的拒絶反応こそが、個人の主体的意欲や個人差というものを許容する心の広さを失う原因である。
目先の集団への迎合による安心ばかりを脅迫的に追求してしまい、意識がそれだけでいっぱいになってしまって精神的余裕を失い、目先の集団「以外。」への配慮というものが失われてしまうのである。
本当の心の広さというものは、無為無策に感情任せにしておいて発揮されるものではなく。本質的合理性を自主的/自発的に追求する本質的な意思というものによって発揮されるものである。
文系観念上においては、社会的責任判断であっても社会的な評価によって導き出されるものであるとされる。しかし、社会的評価を目当てにした条件反射行動である限り他律であり、これは何ら「自律。」的判断ではない。
社会的評価といっても、実際には時代に左右され得る普遍性を持たない世間的評価にしかならず、世間的評価に依存してしまえばナショナリズムを利用したプロパガンダに対しての抑制としては働くことはない。
単なる多数決ではナチズムを止めることは出来ないのである。
多数決的に倫理を求めることは多数が間違った価値観を持っている場合には無効であり、社会的責任判断という倫理性というものは科学的/論理的に導き出すものであって、時代などの不確定要素を含む世間多数によって導き出すべきではない。
社会環境や本能習性といった本質的には自発的に選択していない条件によって選択される行動というものには意識的目的というものがない。文系大衆観念主体の文学の多くでは、自己やヒトがなぜ社会的責任判断をできなくなる原因というものは自己自身/ヒト自身の内部にはないという帰結に至る話が非常に多いが、これは自己/ヒトというものが世間環境や先天的本能習性以外には行動選択不可能な存在であるという文系大衆観念に由来する思考停止が働いているからである。
倫理をWeb上の文章から多数抽出するプログラムを人工知能であるとするのはとんでもない大間違いである。単なる多数抽出であれば文系大衆観念の方が多数を占める可能性も高く、倫理判断としての機能を果たす保証はない。ヒトの判断の9割は無意識的な外見に依存しがちであることを忘れるべきではない。
多数抽出によって「概ね。」正しい結論が導き出せるとしても、倫理という社会的責任判断というものは「概ね。」論によって導き出すべきようなものではないのである。
工学/科学や理論というものは、世界の全ての安全性を確保可能な絶対的なものではなく、あくまで論理的に理解認識可能な範囲内においての有効性しか持ち得ない。しかし、気分や観念というものというのは論理的認識を阻害することはあっても、何ら特定範囲における有効性の証明すら全く持ち合わせておらず。単なる偶発的な結果以外を全くもたらさない不確定で不安定なものに過ぎないのである。
ヒトという種の生物に、どのような行動習性/本能があることを多数抽出しても、それによって気分的に安心したり不安に陥ったりするだけでは何ら行動選択の正当性を抽出することは出来ない。
目先の気分や本能に左右されずに、常に自発的に論理検証を行う「考え。」によってこそ人間としての行動選択というものが導き出されるのである。
目先の集団への表面的外見上の優位性のアピールのために、社会全体の持続可能性や安全性というものを放棄しておいた方が精神/感情的には楽であろう。
バスケットボールが下手くそだからといってバスジャックをすれば優位性が得られるという価値観は、目先のバカな子供達の内部における、その場限りの格好良さを求めているだけであり。本能的社会形成習性が促す迎合性によって、目先の集団の価値観に簡単に意識誘導されてしまうのである。
漫画家の倉田真由美が強迫観念的に「みんな、同じ。」であることに安心するのも、こうした観念に多数人気が集まることも、全ては目先の多数他人という世間体に対する本能無意識による行動バイアスである。
科学的認識における客観性というもの、一歩引いて俯瞰する意識というものは、目先の感情や観念によって簡単に失われがちであり。本能的にはヒトという種の生物は「そういうもの。」なのである。しかし、ヒトというのは本能以外にも選択することが可能であり、世間環境や本能習性による「結果。」以外にも行動選択することが可能なのである。
可能でありながら行わないというのは無責任なのだが、多くのヒトはこれを気分的感情によって簡単に放棄しがちである。
東大の入学式において、ノーベル賞受賞者の根岸氏が「自分の好きなことを探すことが大切。」と論じていたが。東大の入学試験に合格する程の高い成績を得るためには、子供の頃から学力成績に対する機械条件反射的価値観への刷り込み学習が行われていた場合が少なくないはずである。ほとんどの新入生達は「このオッサン何言ってんだ。」的にキョトンとしていたのは、それまで盲目的に学歴学力に執着させられてきた学生達にとって、「自分が本当に自発的に好きなこと。」など全く尊重されたことのないものであり。唐突な価値観転換をさせられている故の不信感によるものである。
本質的自発性というものは、小学校低学年から社会とは何かを広く知ることによって長い時間をかけて醸成されるべきものであり、大学に入学してから唐突に価値観転換させられるべきものではない。
とは言え、子供達の自発性を養うためには大人達の価値観から変える必要性があることは確かであり。唐突な方針転換であるとはいえ、これからの社会の在り方を子供達自身に考えさせる自発性を醸成するためには、どこかで誰かが唐突な方針転換の苦痛を味わう必要性がある。
私としては「ご愁傷様。」としか言いようがない。
Ende;
「仲間にバカにされたから、見返したかった。」
一体バスジャックをすることによって、何をどのように「見返す。」つもりであったのか。
「バカにされた。」と言っても、暴力性の程度比較競争において「バカにされた。」のであれば、「バカにされた。」そもそもの価値観自体がバカげている。そこに自律的に気付くことができないことがバカの根源なのである。
少数の子供の集団内部における合理性のない短絡的価値観というのは放置しておいて良いものではない。
重大な事象が起こる背景には、必ず重大とまでは言えない程度の事象がたくさん起こっているはずである。現在の日本の教育システムでは、こうした子供達の小さな異常行動というものを子供達同士で検証させることを全くさせていない。
「子供のやることはバカげたものである。」という固定観念によって、バカげた価値観を放置しているのは文系大衆観念による思考停止性によるものである。
子供だけで放置することによって本能的に形成される「社会性。」では、バカげた価値観であるということを子供に認識することは出来ず。封建的社会形成によって特定の子供が主張する価値観によって集団全ての価値観が統率的に染まってしまい、自発的な合理的思考というものは行われなくなってしまうのである。
生物学における「社会性。」、すなはち本能的な社会形成習性というものは、統率的にヒエラルキー順位を決定しておくことによる気分的安心しか作り出すことはなく。習性というものは単なる生存という結果として結果的に組み込まれたシーケンスに過ぎず、本能習性自体には合理的目的など存在せず、単なる気分的な安心満足しかもたらすことはない。
こうした生物学上での「社会性。」というものの形成過程というものは、目的意識に基づいて選択されたものではなく、イヌや昆虫などの下等動物においても作り出されるものでもあり、あくまで結果的に生存に適した結果として淘汰された行動に過ぎない。そのため本能的には「社会を形成することだけ。」が目的であり、論理的には何の目的もなく暴走しか促さない。
本能的目的というものは、予め組み込まれたシーケンシャルな行動習性を作り出すことだけが目的であり。これは本質的には「目的。」ではなく、本能習性の「結果。」以上の何物でもない。
文面上では本能的であっても「目的。」と表さざるを得ないために、あたかも意識的/論理的に選択された行動「目的。」と混同しがちであるが。これは自然言語上において従来全く分類されることがなかったために致し方ない。
本能的目的というものは、本能自体が結果であり、結果が導き出す結果であっても目的には理論的にはならないのだが。他に表現する手立てが今のところ見つからない。新しく名称を作り出すと反って理解しずらくなる可能性もある。
子供に限らず、無意識的集団内部においての観念の暴走というものは。そこに本質的意識、自発的判断というものが働かないからである。
自発的に価値観の検証をしない場合、本能的な社会形成習性によって特定の個体の価値観に統率されてしまうのである。
特定の個体として無意識的に認識される「リーダー。」というのは、外見的に自信に満ち、短絡的決断力によって、あたかも絶対的な価値観を持っているかのような錯覚を促すように振る舞う性質があり。あくまで外見上の観念に過ぎないので自己検証を行う保障もない。
多くのヒトは、こうした外見上の自信や権威性といったものを短絡的に「統率力。」であると錯覚し、気分的に安心して服従するようになるのである。
生物学的社会形成習性による「統率力。」というものは、あくまで統率することだけが目的であって、その統率には目的というものがない。目的もなく統率されている状態が本能的にヒトは安心なのである。
同一の価値観を共有しておくことが気分的に安心あり、こうした本能習性というものは常に目先の相手や集団に対して働く性質がある。
本質的に合理性を追求すれば、目先の相手や集団だけでなく。合理性のある普遍的な価値観に基づいた行動選択が可能となるのであるが。意識そのもの、自発的な論理検証が働かなければ、目先の相手や集団に迎合するだけに陥ることになる。
「格好良い。」とは、その感情の元は親という服従対象に対する信頼への感情である。バスジャックをそそのかされた子供のように、「バスジャックをしたらすごい。」などという、価値観の意識誘導に簡単に引っ掛かるというのは、「それの一体何が凄いのか。」についての論理的検証が自律的にできないからであり、目先の他人が促す価値観に簡単に誘導される自発的価値観が全くないことの証明である。
暴力への羨望というものは、その根底に強さへの依存性が含まれている。しかし、本能が促すアプリオリな文系大衆観念に基づく強さへの依存性というものには合理的必然性が全くなく、その場限りの気分「空気。」によって左右される一貫性や普遍性というものを全く持たない。
シエラレオネの少年ゲリラ達の内部における価値観も、このように目先の集団内部だけで作り出されたものであり。本能的な社会形成習性というものの本能的目的結果というものには何ら意識的目的が存在せず、短絡的に力(暴力)に依存してしまいがちなのである。
ハリウッド映画の多くや、時代劇に見られるように、暴力的破壊によって一面的正義を下すことがヒトにとっては快楽をもたらすのである。
つまり、ヒトという種の生物は暴力的破壊による短絡的最終解決に快楽を感じるものなのである。しかし、ヒトの多くはそれが普通で一般的であるために、こうしたヒトの持つ危険性というものに対して気分的安心を抱き、忘れてしまうのである。
映画や時代劇のように、とってつけたような悪人というのは現実には存在せず。実際の犯罪者というのは親族も友人もいる一個のヒトであり、短絡的に殺してしまえば全ては解決するような簡単なものではない。
一個のヒトが、自律的に社会的責任判断を出来なくなる(したくなくなる)過程においては、個人の先天的個体差や成育環境によっても異なるものであるが。基本的に当人に自発的な行動選択の検証性が欠落していることが原因である。
しかし、子供においては自発的行動選択云々を論ずることは酷である。子供は子供自身では何も選択していない状態であり、構造的に自律判断というものは出来ない状態にあるからだ。
しかし、子供は必ず大人にならざるを得ない存在であるから。子供に対して自律判断が可能にできるような環境を整えることは大人にとっての社会的責務である。これは血縁関係を持った子供の有無に関わらない。
ヒトが自律的に社会的責任判断を行えるようになるためには、本質的自発性による行動選択が必要不可欠である。自律とは自発の中にあり他にはないからである。
個人が主体的/自主的動機によって存在している場合、社会というものは自己存在と等価であるから、社会安全性というものは自ずと求めるものである。
しかし、個人に本質的主体性/自主的動機がなく、親大人や世間という多数他人からの評価報酬だけを強迫観念的に求めている場合。そもそもが評価報酬という「エサ。」に対する動物的な機械的条件反射行動に過ぎないため、自発的には社会安全性にも持続可能性にも意識が働くことが原理的にない。
言うなれば、自分の世間的立場を維持することだけで精一杯で、他人の迷惑になど省みる精神的余裕が全くないのである。
あくまで精神的余裕がないだけであるため、どんなに物質的に満たされても脳は餓えたままであり。行動に影響を及ぼすことはない。意識がなければ「学習すること。」はできず、環境によって刷り込み「学習された。」行動を漫然と繰り返す以外に何も自発的には選択することはできないし、したくもないのである。
カルト宗教の教祖や、カルト国家の将軍様達が自律的に自分の行動を変えることが出来ないのは、彼らがただ既に存在していた環境に流され、多数他人に迎合することしか出来ないからである。
要するに、どんなに人数が多い集団であっても、その集団の誰にも意識がなく、漫然と既に存在している固定観念を盲信し何ら論理的検証を行わない限り。結局は通り魔やバスジャック同様、その場の空気雰囲気だけで行動が決定されてしまうから体制腐敗に陥ることになるのである。
キチガイのやることは予測がつかない。予測がつかないからキチガイである所以でもあるが、自発的に社会安全性や持続可能性を求めていれば、結果的にキチガイではなくなる。
自発的純粋行為というものは他人との気分的共感を求めないため、本能的社会形成習性によって強迫観念的に共感を求める者にとっては気分的に「怖い。」だの「気持ち悪い。」といった勝手な観念によって排除差別の対象にしたがる傾向が見られるが、これこそが本能由来の文系大衆観念というものである。
自発的純粋行為というものに対する観念的拒絶反応こそが、個人の主体的意欲や個人差というものを許容する心の広さを失う原因である。
目先の集団への迎合による安心ばかりを脅迫的に追求してしまい、意識がそれだけでいっぱいになってしまって精神的余裕を失い、目先の集団「以外。」への配慮というものが失われてしまうのである。
本当の心の広さというものは、無為無策に感情任せにしておいて発揮されるものではなく。本質的合理性を自主的/自発的に追求する本質的な意思というものによって発揮されるものである。
文系観念上においては、社会的責任判断であっても社会的な評価によって導き出されるものであるとされる。しかし、社会的評価を目当てにした条件反射行動である限り他律であり、これは何ら「自律。」的判断ではない。
社会的評価といっても、実際には時代に左右され得る普遍性を持たない世間的評価にしかならず、世間的評価に依存してしまえばナショナリズムを利用したプロパガンダに対しての抑制としては働くことはない。
単なる多数決ではナチズムを止めることは出来ないのである。
多数決的に倫理を求めることは多数が間違った価値観を持っている場合には無効であり、社会的責任判断という倫理性というものは科学的/論理的に導き出すものであって、時代などの不確定要素を含む世間多数によって導き出すべきではない。
社会環境や本能習性といった本質的には自発的に選択していない条件によって選択される行動というものには意識的目的というものがない。文系大衆観念主体の文学の多くでは、自己やヒトがなぜ社会的責任判断をできなくなる原因というものは自己自身/ヒト自身の内部にはないという帰結に至る話が非常に多いが、これは自己/ヒトというものが世間環境や先天的本能習性以外には行動選択不可能な存在であるという文系大衆観念に由来する思考停止が働いているからである。
倫理をWeb上の文章から多数抽出するプログラムを人工知能であるとするのはとんでもない大間違いである。単なる多数抽出であれば文系大衆観念の方が多数を占める可能性も高く、倫理判断としての機能を果たす保証はない。ヒトの判断の9割は無意識的な外見に依存しがちであることを忘れるべきではない。
多数抽出によって「概ね。」正しい結論が導き出せるとしても、倫理という社会的責任判断というものは「概ね。」論によって導き出すべきようなものではないのである。
工学/科学や理論というものは、世界の全ての安全性を確保可能な絶対的なものではなく、あくまで論理的に理解認識可能な範囲内においての有効性しか持ち得ない。しかし、気分や観念というものというのは論理的認識を阻害することはあっても、何ら特定範囲における有効性の証明すら全く持ち合わせておらず。単なる偶発的な結果以外を全くもたらさない不確定で不安定なものに過ぎないのである。
ヒトという種の生物に、どのような行動習性/本能があることを多数抽出しても、それによって気分的に安心したり不安に陥ったりするだけでは何ら行動選択の正当性を抽出することは出来ない。
目先の気分や本能に左右されずに、常に自発的に論理検証を行う「考え。」によってこそ人間としての行動選択というものが導き出されるのである。
目先の集団への表面的外見上の優位性のアピールのために、社会全体の持続可能性や安全性というものを放棄しておいた方が精神/感情的には楽であろう。
バスケットボールが下手くそだからといってバスジャックをすれば優位性が得られるという価値観は、目先のバカな子供達の内部における、その場限りの格好良さを求めているだけであり。本能的社会形成習性が促す迎合性によって、目先の集団の価値観に簡単に意識誘導されてしまうのである。
漫画家の倉田真由美が強迫観念的に「みんな、同じ。」であることに安心するのも、こうした観念に多数人気が集まることも、全ては目先の多数他人という世間体に対する本能無意識による行動バイアスである。
科学的認識における客観性というもの、一歩引いて俯瞰する意識というものは、目先の感情や観念によって簡単に失われがちであり。本能的にはヒトという種の生物は「そういうもの。」なのである。しかし、ヒトというのは本能以外にも選択することが可能であり、世間環境や本能習性による「結果。」以外にも行動選択することが可能なのである。
可能でありながら行わないというのは無責任なのだが、多くのヒトはこれを気分的感情によって簡単に放棄しがちである。
東大の入学式において、ノーベル賞受賞者の根岸氏が「自分の好きなことを探すことが大切。」と論じていたが。東大の入学試験に合格する程の高い成績を得るためには、子供の頃から学力成績に対する機械条件反射的価値観への刷り込み学習が行われていた場合が少なくないはずである。ほとんどの新入生達は「このオッサン何言ってんだ。」的にキョトンとしていたのは、それまで盲目的に学歴学力に執着させられてきた学生達にとって、「自分が本当に自発的に好きなこと。」など全く尊重されたことのないものであり。唐突な価値観転換をさせられている故の不信感によるものである。
本質的自発性というものは、小学校低学年から社会とは何かを広く知ることによって長い時間をかけて醸成されるべきものであり、大学に入学してから唐突に価値観転換させられるべきものではない。
とは言え、子供達の自発性を養うためには大人達の価値観から変える必要性があることは確かであり。唐突な方針転換であるとはいえ、これからの社会の在り方を子供達自身に考えさせる自発性を醸成するためには、どこかで誰かが唐突な方針転換の苦痛を味わう必要性がある。
私としては「ご愁傷様。」としか言いようがない。
Ende;