まず、現在哲学として扱われている書物は、一体どのような基準で選択されているのか。一体誰が現在の哲学書物を選択したのか。その書棚のラインナップはどこの馬の骨が選定したのか。
そこには自己自身の選択は含まれてはいないのである。
ただ、漫然と与えられた選択肢の中において、漫然と内容を鵜呑みにしておいて「知能。」であるなどとは論理的に証明されえない。
そもそも、与えられた選択肢の中でしか知識を持つことしかしないで、それが自分の「考え。」であることの論証など最初からない。
既に存在している価値観に基づいた選択肢に迎合しておいて、一体何を「考えた。」つもりになっているのであろうか。バカな西洋哲学カブれは「哲学には好き嫌いがある。」などと言い出すであろう、好き嫌いがあるのは当たり前の話であり、あったところで論理的思考を放棄してなを哲学であるわけでもない。
自分が「好き。」な現在哲学者として扱われている書物があるとして。それが原因で気分的満足や逃避によって本質的思考が停止してしまうのであれば、それは最初から哲学書でも何でもない。
多くの西洋哲学カブれ達というのは、気分的な満足や救いばかりを求めており、それによって本質的には考え自体を放棄しているのである。こいつらが選択した哲学をいくら「学んで。」も、思考停止したバカになることはあっても、大多数のバカ学生共は論理的検証や、それに伴う批判を一切しないし、できもしない。
何も考えずに、ただ「誰其は、かく語りき。」的に引用を繰り返すことはできても。大抵の場合自分の愚かさを事後正当化したり肯定するための屁理屈に使うことしかしておらず、これはむしろ手の込んだ「取り繕い。」「言い逃れ。」に過ぎない。
現在の大学では、それさえやっておけば成績単位が取れるのである。これが何か社会の公益的な役に立つかと言えば、糞の役にも立つことはなく。高学歴な天下り役人達が大量生産され続け、大学ではただ漫然と無益な哲学部が税金で保存されるだけである。
本当に自分自身の頭で「考える。」というのは、自分が育った環境としての現代社会の価値観自体から検証していかなければならない。手抜きがしたいなら哲学でも何でもないのである。
既に存在しているだけの自己というものは自己自身で選択したものではない。遺伝的にも後天的にも、育った環境としての社会や時代は自己自身で選択したものではない。バカな生物学者は後天的に刷り込まれた価値観無意識的な好き嫌いのことを「潜在知。」などと称して、あたかも個人が個人であることの論証であるかのように言い張る。
バカであれば、これに論理的根拠がないことには気づくこともなく、簡単に鵜呑みにするであろう。
成育環境によって刷り込まれた価値観というものは自己の選択を介していない。何も選んではいないのである。そんなものに個人が個人であることの論証として最初から成立していない。
自己の遺伝子は自己自身では選択不可能である。誰も自分から望んで生まれてきたものなど存在しないからである。そんな遺伝子によって作り出された脳、大脳辺縁系からわいてくる本能欲望もまた、何ら自己自身で選択したものでも何でもないのである。
こういう話をすると、それまで漫然と無思考に生きてきたヒト達は気分的に恐慌をきたすことから拒絶し、逃避し、検証するという思考が全く働かなくなるのである。
無思考に漫然と生きてきたヒトにとっては、無思考のまま漫然と生き続けることの方が「慣れて。」おり、「楽。」なのである。
それは実は「慣れ。」の問題でしかない。
論理的に検証するという本質的思考に「慣れ。」てしまえば、気分的「安心。」よりも合理的「安全。」を優先するようになるのは自然なことである。
これは教育システムの問題ではない。むしろ成育環境に依存していること自体が本質的自発思考を阻害するのである。「教わっていないから、できない。」というのは、最初から自分では考える意思が存在しないことの証明にしかならない。
教わっていないことを考えられないのであれば、それは実際には最初から何も「考えて。」はいないのである。それは教えられたことを鵜呑みにしているだけで何ら検証していないことを証明しているのである。
End;
そこには自己自身の選択は含まれてはいないのである。
ただ、漫然と与えられた選択肢の中において、漫然と内容を鵜呑みにしておいて「知能。」であるなどとは論理的に証明されえない。
そもそも、与えられた選択肢の中でしか知識を持つことしかしないで、それが自分の「考え。」であることの論証など最初からない。
既に存在している価値観に基づいた選択肢に迎合しておいて、一体何を「考えた。」つもりになっているのであろうか。バカな西洋哲学カブれは「哲学には好き嫌いがある。」などと言い出すであろう、好き嫌いがあるのは当たり前の話であり、あったところで論理的思考を放棄してなを哲学であるわけでもない。
自分が「好き。」な現在哲学者として扱われている書物があるとして。それが原因で気分的満足や逃避によって本質的思考が停止してしまうのであれば、それは最初から哲学書でも何でもない。
多くの西洋哲学カブれ達というのは、気分的な満足や救いばかりを求めており、それによって本質的には考え自体を放棄しているのである。こいつらが選択した哲学をいくら「学んで。」も、思考停止したバカになることはあっても、大多数のバカ学生共は論理的検証や、それに伴う批判を一切しないし、できもしない。
何も考えずに、ただ「誰其は、かく語りき。」的に引用を繰り返すことはできても。大抵の場合自分の愚かさを事後正当化したり肯定するための屁理屈に使うことしかしておらず、これはむしろ手の込んだ「取り繕い。」「言い逃れ。」に過ぎない。
現在の大学では、それさえやっておけば成績単位が取れるのである。これが何か社会の公益的な役に立つかと言えば、糞の役にも立つことはなく。高学歴な天下り役人達が大量生産され続け、大学ではただ漫然と無益な哲学部が税金で保存されるだけである。
本当に自分自身の頭で「考える。」というのは、自分が育った環境としての現代社会の価値観自体から検証していかなければならない。手抜きがしたいなら哲学でも何でもないのである。
既に存在しているだけの自己というものは自己自身で選択したものではない。遺伝的にも後天的にも、育った環境としての社会や時代は自己自身で選択したものではない。バカな生物学者は後天的に刷り込まれた価値観無意識的な好き嫌いのことを「潜在知。」などと称して、あたかも個人が個人であることの論証であるかのように言い張る。
バカであれば、これに論理的根拠がないことには気づくこともなく、簡単に鵜呑みにするであろう。
成育環境によって刷り込まれた価値観というものは自己の選択を介していない。何も選んではいないのである。そんなものに個人が個人であることの論証として最初から成立していない。
自己の遺伝子は自己自身では選択不可能である。誰も自分から望んで生まれてきたものなど存在しないからである。そんな遺伝子によって作り出された脳、大脳辺縁系からわいてくる本能欲望もまた、何ら自己自身で選択したものでも何でもないのである。
こういう話をすると、それまで漫然と無思考に生きてきたヒト達は気分的に恐慌をきたすことから拒絶し、逃避し、検証するという思考が全く働かなくなるのである。
無思考に漫然と生きてきたヒトにとっては、無思考のまま漫然と生き続けることの方が「慣れて。」おり、「楽。」なのである。
それは実は「慣れ。」の問題でしかない。
論理的に検証するという本質的思考に「慣れ。」てしまえば、気分的「安心。」よりも合理的「安全。」を優先するようになるのは自然なことである。
これは教育システムの問題ではない。むしろ成育環境に依存していること自体が本質的自発思考を阻害するのである。「教わっていないから、できない。」というのは、最初から自分では考える意思が存在しないことの証明にしかならない。
教わっていないことを考えられないのであれば、それは実際には最初から何も「考えて。」はいないのである。それは教えられたことを鵜呑みにしているだけで何ら検証していないことを証明しているのである。
End;