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霊的なもの

2021年01月09日 13時35分18秒 | 意識論関連

「国民」と一言で括ってもいろいろな人がいて

国家権力による刑法罰で威圧しなければ自主的には社会安全性や公平性に一切配慮しないバカもいるのだが 世の中そんなバカしかいないわけではないはずである

今回の新型コロナウイルス感染症対策や温室効果ガス削減対策といったものについては 国家権力を用いた威圧的な刑法罰ではどうにもならず あくまで個人による自主的 自律的な行動が求められるのであり 

「法律で規制さえしておけば全ては解決する」という為政者や役人による短絡的発想こそが国民の主体性の醸成を阻害しているのである

 

ヒトという種の生物は どうしても主観的な安心満足ばかりを追求し 論理客観的な検証に基づいた行動選択をしたがらない傾向があり

また 多数派や多数派が認証している権威や権力者に服従迎合しておいた方が主観的に安心な習性が先天的にあるため どうしても主体的には論理客観的判断選択というものが蔑ろにされがちな傾向が強い

だからといって十把ひとからげに「刑法罰で威圧さえして服従さえさせておけば良い」という短絡的な発想では むしろ国民の主体的判断能力というものを阻害するばかりである

刑法罰などの威圧的抑圧ばかりに頼ってしまえば 国民は罰に対する恐怖心(主観)でしか行動選択が出来なくなってしまうようになる

これは家庭内での子供の虐待と同じように ヒトから主体性を奪ってしまい 同時に自律的な判断能力も奪ってしまうことになるのである

為政者や役人による短絡的な刑法依存もまた 自律的な判断能力の欠如が招くものであり バカのスパイラル状態がバカを助長する温床になってしまっているのである

 

刑法罰がなければ主体的に社会的責任を負う選択をしないバカが一定数存在することは確かだが 感染症対策や温室効果ガス削減においては罰で抑圧して解決するものではなく あくまで国民一人一人の主体的で自律ある行動選択がなければ実現不可能である

そもそも自律のないバカに対して どんなに刑罰を与えても自律的な社会的責任判断能力が発揮されるようになるわけでもないのであって 罰では社会安全性は高まらないのであり 実際刑罰というものは再犯率が50%近くあり 犯罪者の半数は「治っていない」のである

犯罪者が「治っていない」にも関わらず 司法手続き上「懲役◯年」などという判決に基づいて刑を執行しても その半数は再度社会の中で再び被害をもたらしてしまうのであり その被害の責任については司法役人の誰も責任を負わない制度にしかなっていない

主体的に社会的責任を負わないバカであれば 殴って(罰)服従させておけば主観的には満足であり それは私も感覚(主観)的同じではある

だが 主観的満足では論理客観的な安全性には結びつかないのであって だからこそ危険学や失敗学では「刑法を一時停止」させて徹底した原因究明と再発防止を優先するのである

社会にとって最も重要なのは安全性である

安全性にとって最も優先されるべきものは罰という感情論ではない
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ドイツ語のガイストと日本語の精神―知性のない精神

このブログの著者が誰なのかがわからないのだが 日本語における「精神」についての批判は的を射ており 文章も読みやすいのでお薦めできる

日本では古来から「精神論」と称して努力辛抱根性論のようなものを指しているのだが これは知性とは正反対とも言える概念である

 

しかし「霊的なものと知性が矛盾しない」という発想は鵜呑みにしてしまうとオカルトにしかならない

そもそも科学や哲学というものは「怪異(主観的感覚)」を解明して「真理」を識別するためのものであり その動機としての知的好奇心自体は理性ではなく 欲望である

社会安全性を優先するという「選択」自体は欲望の一つであるのだが 様々な自己の欲望の中から優先順位をつけるのは理性である

純粋理性状態とも言える大脳辺縁系を損傷した人にとっては こうした「選択」自体も働くことはない

大脳辺縁系を損傷してしまうと欲望の全てを失うことになるため 知的探究心をも失うことになる

しかし 理性が働かずに目先の欲望の強度程度で行動が決定していれば野獣の行動と変わりはなくなる

これは文系の奴らが主張したがる「バランス問題」ではなく あくまで理性が欲望を制御していることによってはじめて人間性や倫理として働くのであって 決してバランスの問題ではない

欲望のままに好奇心だけで判断しても真実を見極めることはできず あくまで動機としての好奇心(欲望)に基づき理性によるフィルターによって不純物としての誤謬を取り除くことによって真理を見極めることが可能となるのである

大脳辺縁系を損傷していないのであれば 欲望は勝手に働くものであり それゆえヒトの多くはヘイトスピーチだの私刑だのイジメといった非合理な行動にも暴走するようになるのである

しかし理性は勝手に働くことはなく あくまで主体的に物事を判断しようとする本質的な人間としての意識がなければ働くことはない

それなら大脳辺縁系を損傷していない一般的なヒトが優先すべきは理性の方であり 感情の方ではない

 

霊的なものと知性が矛盾しない」わけではなく 「霊的」なものとは何かを論理客観的に分析すれば それは主観的感覚や錯覚に他ならない

どんなにたくさんのヒトが同じ錯覚を「感じる」としても その感覚としての「霊的なもの」が科学的に証明されるわけではない

あくまで主観には錯覚が伴う可能性が排除できず むしろその錯覚の原因となる「必然的理由」は解明できるとしても 錯覚それ自体が錯覚ではないことの論証にはならない

それは「生物というものが結果的に生存していることの必然的理由」と「生物の目的」の違いと同じであり どんなに大量の結果を陳列枚挙しても それが目的であることの論証にはならない

感覚(主観)によって促される様々な怪異(恐怖)に対して 論理客観的証拠によって「何が起きているのか」という真理を見極めることで 科学や哲学として成立するのであって 「霊的なものの全てが知性と矛盾しない」という話にはならない

怪異などに対する恐怖心を動機として 真実を探求し 見極めようとすることで科学や哲学が成立するとは言えるのだが そこには必ず理性としての論理客観的根拠や証拠が伴う必要がある

 

単なる「多数の感情論」によって厳罰化や死刑制度を「民主主義」的に正当化しても それが「社会安全性にとって最も有効である」ことの論証にはならない

加害者側が潔く罰を受け入れたからといって 加害の原因が解明されるわけでもなく 通り魔が死刑を望んでも通り魔事件そのものの原因究明にも再発防止にもならず 似たような非合理でバカげた無差別殺人は繰り返すことになるのである

こうしたバカげた現状制度を傍観放置することもまた 社会的には無責任な選択であり どんなに多数が傍観放置しているとしても 「責任が薄まる」わけではない

 

 

Ende;


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