goo blog サービス終了のお知らせ 

書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○科学的議論に向いてないタイプ。

2015年05月21日 11時52分40秒 | 意識論関連
海外での研究だったと思うけど、殺人犯の脳を医学的に分析すると連続殺人犯と衝動殺人犯に違いがあったそうです。

連続殺人型というのは大脳辺縁系の活動が活発で、いわゆる「熱しやすく、冷めやすい」タイプで。衝動殺人型というのはその逆で、「普段おとなしいのだけれど一旦感情的になると手がつけられなくなる」タイプになる。

燃料で例えるとメタノールタイプと備長炭タイプとでも言えるかな。こうした分類は殺人犯に関わらず、あらゆる人にスペクトラムとして存在する傾向で、個体の性格に大きく影響を及ぼす。

で、おいらは後者にあたる。

なので、他の人から較べると物凄い「根に持つ」タイプで、一つのことを徹底的に突き詰めないと気が済まない。

しつこいタイプなのね。

地獄の底まで追求しないといられないのよ。



それに対してどこぞの小型犬みたいに吠えまくる病理医ちゃんは前者、連続殺人型に分類される。

連続殺人型っていうのは大脳辺縁系の活動が活発なので、元々感情が行動に直結しやすい性質があって。こういうヒトが承認欲求中毒(いわゆる「甘え」)と組み合わさると自律的に論理検証することが出来ないヒトの出来上がり。

どっかの病理医ちゃんみたいなヒト(あくまで個人攻撃じゃないからね、そういうヒトって結構あちこちいて、普遍的で一般的な傾向でもあるから。)っていうのは、子供のイジメのキッカケみたいなことを平気でやっておいて、他人に「恥ずかしいからやめとけ」とか言い出す始末。

恥ずかしいのはどっちでしょうねぇ。

そこは考えが及ばないんでしょうねぇ。

そんなんでどうして「ヒトという種の生物の科学的分析」をするつもりでいるんでしょうねぇ。

「攻めすぎ」なんてのも、おかしな話で、科学的分析に攻めるも守るもありゃしないんですよ。科学的分析っていうのは徹底的に理論で詰めて真理に近づくものであって、どんなに時間や労力をかけてでも真理に近づくことに意味があるわけです。

ところが連続殺人型+承認欲求中毒タイプのヒト(以下、めんどくさいので「どこぞの病理医ちゃんタイプ」と略す。)というのは、論理的思考よかその場限りの感情が優先してしまうために、外見的な体裁ばっかり優先しちゃうので「守り」だとかいう概念で議論しようとする。

それが一番科学的検証にとって害になる。

承認欲求中毒というのは、学生時代に学力競争による優位性ばかりに意識を奪われ、「学力=知能=人間としての優位性」といった、大衆観念的価値観をまるまる鵜呑みにすることでも生ずる症状です。

承認欲求中毒というのは、そもそもが「甘え」ですから。他人からの評価という、いわば他人から与えられる脳への報酬に対して条件反射的無意識に他人目ばかりが優先してしまう。

子供が親大人から誉められることばかりを求め続けた結果、誉めてもらう相手が多数や権威に転移することで、目先の多数や権威に同調的で自律のないヒト全般に生ずるものなので、どこぞの病理医ちゃんのように高学歴だけに見られるタイプではありません。

先天的要因などで学校での学習が苦手な人の場合、学力という基準では「勝ち目」がないために、暴力などの他の基準で優位性を確保しようとする場合もあります。

なにが何でも「俺の方が上に立ちたい」という、本能的欲求に対して自律的なブレーキが効かないので、些細なケッカケでイジメとかヘイトスピーチなどに加わることで、目先の優越感を満足感させることばかりに意識が働いてしまう傾向が見られます。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

ただ、そもそも学校での学力競争だけが人間の価値を決めるようなものではないので、道徳教育のペーパーテストで「殺人は悪いことかどうか、○×で答なさい」という設問で○を書けば殺人をしなくなる的な安易で簡単なものではありません。

こうした短絡的評価基準というものは、学力試験全般に存在するものであって。諺の類の「量」なんぞで国語力を評価するような設問などは、日常親大人との会話や、会話している大人そのものによっても異なるものですので、こんな基準で子供を評価するのは実はかなりとんでもない話でもあります。

現在の学力基準というものの異常性というものは他にもたくさんありますが、それはまた別の機会に。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

目先の優位性ばかりを追求している人の場合。目先の多数派や権威からの評価を優先してしまうために、自発的で自律的な自分の考えというものが全く働きません。 そのためどこぞの病理医ちゃんみたいに「恥ずかしいからやめておけ」的な発言が出てくるわけです。

こういうヒトの場合、恥ずかしいかどうかの基準は多数派や権威に依存しているために。客観的に見ればとんでもなく恥ずかしいことであっても、自分の中にある価値観でしか物事を判断しないために。ISILとかヘイトスピーチに加わっても気分的には「平気」なんですね。

そこには客観性というものが存在しない。

だからどこぞの病理医ちゃんが小型犬のように吠えまくりながら他人に「恥ずかしいからやめとけ」なんていう支離滅裂なことも「恥ずかしく」はない。

その場限りの優越感ばかりを追求していて、考えに深みがない。物凄い薄っぺら。(多少は個人的怨念も入っているかもね。申し訳ない。衝動殺人型なので地獄の底まで追求しちゃうかもね。)

こういうヒトがどんなに科学的議論を真面目にしたつもりになっても、所詮は多数派や権威の顔色窺いからは逃れられないので、自由に物事を考えることが出来ないわけです。だから科学者には向いていない。

どっかの病理医ちゃんみたいにたかだか5000弱のフォロワ内部での賛同なんていうのは、世界人口からすればサンプル抽出としてはあまりに少なく、また偏りも激しく、科学的議論の査読なんぞには全く値しないことは、言うまでもないでしょう。そもそも「チンコ」ばっかり呟いて人気取りをしているようなアカウントのフォロワですしね。

にも関わらず、「恥ずかしい」とはなんでしょう。自己客観性が欠如しているにも甚だしい。

きっと、事故前の東電社内で原発の危険性を論ずることもさぞかし「恥ずかしい」ことだったに違いありません。

ナチス政権下のドイツにおいても、「ユダヤ人を差別するな。」なんて主張はさぞかし「恥ずかしい」ことだったでしょう。下手すりゃ差別対象です。ヴァルター:ベンヤミンのようにスイス山中で自害しなきゃならないかもしれません。

これらのことから言えるのは、自分が生活している世間の内部における「恥ずかしい」なんていう基準はアテにならないということです。環境に依存した価値観にしかならないですから。

環境依存的価値観が優先していれば、必然的に自律は失われます。

本論(意識論)に限らず、危険学においても最も重要なのは「個人が自律的に社会的責任判断を行う。」ことであり。自律が失われることというのが社会にとって最大の損失をも生み出すのです。



権威などに対し議論をふっかけると、大衆の多くは「勝ち目がないから、やめておけ。」的なことを言い出します。これも目先の勝ち負けを基準とした話でしかないため、科学的議論を深める上においても障害となる感情論(思考バイアス)に過ぎません。

このように、感情気分といった大脳辺縁系が促してくる行動バイアスは、科学的論理検証性に対して阻害するような働きをすることが少なくありません。

むしろ大衆的な固定観念に迎合しておいた方が、多数派同調バイアスを満足させることが出来るため。ヒトの多くは科学的議論がどんどん苦手になるわけです。

科学的議論というのは、真理を追求するためのものであって。他人からの承認欲求を満足させるためのものではありません。しかし学校教育で学力競争にばかり執着していれば、試験の点数という評価だけが学力追求の動機になってしまうために。学力評価という「エサ」に対する条件反射的情動行動としてでしか頭が働かなくなるのです。

承認欲求中毒患者にとっては、他人からの承認なしで物事を深く突き詰めることは厳しいことだと「感じる」ようですが。そうした「感覚」こそが中毒症状に他ならないのです。

主観的感覚が優先しておいて科学的客観性が出てくるわけがないんですよ。当たり前でしょ。

科学が厳しいというのは、実は承認欲求中毒患者にとっての主観的感想に過ぎないのであって。それがない者にとっては厳しいという感覚がありません。

なので、もしかすると私は研究者に向いているのかも知れませんけど。そもそも研究組織に限らず一般的に集団組織が持つ閉鎖性にこそ興味があるので組織に属するつもりも最初からなかったんですね。組織の中にいたら組織批判が難しくなることは最初からわかっていたことですから。



お腹がすいたのでペヤングタイム。




Ende;

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。