チンパンジー眼球に白目がないのは、集団内部の他の個体に対する「騙し。」が行えるからだという。
ところが、こうした利己的行動のことを、生物学者共は「個人主義。」などと蔑む。
利己性が集団に存在したとしても、結局は利己的であることに何ら変わりはないのである。
カルト宗教や暴力団の類が集団に対しての自己犠牲を発揮しても、それは鉄砲玉。或は特攻でしかないのである。
本当の個人主義というものは、利己性とは直接関係がない。むしろ、本当に純粋に個人的価値を追求していればこそ公益性が発揮されるのであって。こうした事実を無視している生物学者共の漫然とした無意識性こそが、生物学会という集団主義に彩られた利己主義なのである。
誰が本当に個人的価値観を大切にしているのかを知ることは困難ではある。だが、少なくとも通り魔が個人的価値観を大切にしているとは言うことができない。
無差別に不特定多数の「社会」「世間」に迷惑をかけなければいられない自己中心的行動というのは、本質的な自己としての個人的価値観を持たない人間特有の行動パタンである。
イヌであれ、チンパンジーであれ、野生動物というのは狂暴であることに何ら変わりはないのである。
単なる集団内部における利己主義を抽出しても、それは種における行動習性を抽出しただけであって。こうした従来の生物学のパラダイムに基づいている限り、そこからは「ヒトという種とは、こういうものである。」という傾向しか抽出することはできない。
どんなにたくさんの傾向を抽出しても、それは反証主義において絶対である証明にはならないのである。
ヒトの多くがバカであることを多数抽出しても、ヒトの全てはバカであることの証明にはならない。なぜなら、バカをバカであると認識できればバカではなくなるからだ。
生物学者のほとんど全員がバカでいられるのは、気分的にそれが安心であるからであり。こうした「気分。」という大脳辺縁系の反射に行動が左右されていることこそが、バカがバカであることの所以に他ならない。
ところが、こうした利己的行動のことを、生物学者共は「個人主義。」などと蔑む。
利己性が集団に存在したとしても、結局は利己的であることに何ら変わりはないのである。
カルト宗教や暴力団の類が集団に対しての自己犠牲を発揮しても、それは鉄砲玉。或は特攻でしかないのである。
本当の個人主義というものは、利己性とは直接関係がない。むしろ、本当に純粋に個人的価値を追求していればこそ公益性が発揮されるのであって。こうした事実を無視している生物学者共の漫然とした無意識性こそが、生物学会という集団主義に彩られた利己主義なのである。
誰が本当に個人的価値観を大切にしているのかを知ることは困難ではある。だが、少なくとも通り魔が個人的価値観を大切にしているとは言うことができない。
無差別に不特定多数の「社会」「世間」に迷惑をかけなければいられない自己中心的行動というのは、本質的な自己としての個人的価値観を持たない人間特有の行動パタンである。
イヌであれ、チンパンジーであれ、野生動物というのは狂暴であることに何ら変わりはないのである。
単なる集団内部における利己主義を抽出しても、それは種における行動習性を抽出しただけであって。こうした従来の生物学のパラダイムに基づいている限り、そこからは「ヒトという種とは、こういうものである。」という傾向しか抽出することはできない。
どんなにたくさんの傾向を抽出しても、それは反証主義において絶対である証明にはならないのである。
ヒトの多くがバカであることを多数抽出しても、ヒトの全てはバカであることの証明にはならない。なぜなら、バカをバカであると認識できればバカではなくなるからだ。
生物学者のほとんど全員がバカでいられるのは、気分的にそれが安心であるからであり。こうした「気分。」という大脳辺縁系の反射に行動が左右されていることこそが、バカがバカであることの所以に他ならない。