大抵の場合 自分が他人を評価する時に 相手の人生を本気で考えて責任持って評価しているわけではなく その場の軽い気分で好き嫌いを述べているに過ぎない
そもそも他人の人生になど責任持てる奴など親兄弟でも難しいものである
それなら他人から受ける評価であっても別に自分の人生に責任を持って評価しているわけではないので 「そういう意見もあるんだな」程度に聞いてておけば良い話である
ましてやトンチンカンな個人的好き嫌いに基づいた根拠のない誹謗中傷の類なら 「コイツ頭おかしいわw」と分類すれば良いだけである
というか 論理的根拠のない主観的好き嫌いでしか言ってこない相手なんぞ 客観的には「頭がおかしい」としか分類のしようがないのである
「かっこ悪い」だの「恥ずかしい」だの「死ね」だの「黙れ」だの そういう何の論理的根拠もない 単なる個人的主観に過ぎない幼稚な罵詈雑言なんぞを気に病む必要性は全くない
論理客観的根拠に基づいて「バカとは具体的にどういうものなのか」を説明しているのとは全く別次元の話である
一番良くないのは 根拠のない誹謗中傷悪口を真に受けてしまって 気分的に落ち込んでしまうことである
たとえ根拠があるとしても 気分的に落ち込むことには意味がない
間違いを指摘されたとしても その間違いという経験に基づいて 同じような間違いに陥らないよう再発防止の教訓として論理客観的にバカになってしまうメカニズムを理解し 心にとどめておくことで バカにはならないようにできるのであり その分は「頭が良くなった」と言うことができるのである
つまり「頭が良くなる」というのは 自分の頭の悪さを自覚することによって 頭の悪さに起因する間違いを減らせることを言うのである
私が個人的主観として「バカかよ」と憤慨していても 所詮は私の主観に過ぎず 社会的には意味などなく ただの個人的感想を述べているに過ぎない
気分的に落ち込むというのは 所詮情動であって 無意識に過ぎず どんなに気分的に落ち込んでも頭が良くなることはない だから落ち込むことには意味がないのである
主観的気分に過ぎない気分的落ち込みこそが無意識な脳電位に過ぎず それ自体は何の意味もないのである
重要なのは意識 論理客観的認識の方であって 「間違えちゃった でも どうして間違えたんだろう」と自己客観的に間違えた原因分析をして 同じような間違い方をしないように理論的教訓知識として自覚することである
こうした考え方というのは 失敗学のメソッドそのものであり そこに主観的気分は刑罰同様に「どうでも良い話」なのである
禊(みそぎ)などと称して自分に懲罰的戒めをしても 「なぜ自分は間違えたのか」についての論理客観的原因や再発防止にはならないのであって それこそ自殺なんぞしても何の「解決」にもならない
ヒトである以上は誰しもが間違える可能性があり 一度も何も間違えたことのないヒトなどいるわけがないのである
誰も神じゃねぇんだから
それこそ通り魔だのプーチンのように取り返しのつけようのない大間違いに陥る前に 被害が小さいうちに間違えないようにするための知識を身につけることが重要なのである
Ende;