第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか
多様な感覚的素材を「時間」と「空間」という形式を通して受容する「感性」。「時間」と「空間」は客観世界にあるのではなく、私たちの認識主観にあらかじめ組み込まれている「形式」だとカントは考える。いわば、私たちは「時間」「空間」という眼鏡をかけて世界を認識しており、その規格が共通だからこそ科学や数学が客観性をもつというのだ。しかし、それだけでは認識は成立しない。もう一つの共通規格である「悟性」が、そうした感覚的素材を量、質、関係、様態といった「カテゴリー」に当てはめて統一することで、初めて万人が共有できる「知」が成り立つという。第二回は、認識能力の限界を見極めるカントの洞察を通して、「人間が何を知りえて、何を知りえないか」を明らかにし、科学的知識がなぜ共有できるのかを掘り下げて考える。
『私たちの認識主観に予め組み込まれている「形式」だとカントは考える。』
「考える」と述べているが 根拠が示されておらずデマ同様に勝手な決めつけにすぎず それに基づいたカントの論説は全て基礎を失う
カントは理性を超越しちまった悟性(何だそれ)という分類の中に錯覚がもたらす科学的誤謬の存在を無視している
「万人が共有できる」ことの全てが真理であることの根拠が全く示されていない
ヒトの大多数は科学的思考や論理客観的検証というものが苦手で 神だの魂だのといった実証不能の観念を信じ込み倫理に反する行為を行うようにもなる
それなら「万人」という多数が共有したがるからといって真理であるとは言えないのである
「万人」と称して多数派の人気取りをしているだけなら それは哲学ではなく大衆迎合に過ぎない
第3回 宇宙は無限か、有限か
理性が本来の限界を超えて推論を続けると必ず陥ってしまう誤謬。中でも「世界全体についての認識」を例にそうした誤謬の検証を行うカント。例えば「宇宙は無限か、有限か」。宇宙に時間的な始まりがあるとすると、その前には時間が存在しないことになり、いかなる出来事も生じず宇宙は誕生しないことになる。逆に宇宙に時間的な始まりがないとすると、現在までに無限の時間が経過したことになるが、無限の時間とは経過し終えないもののはずだから現在という時間は決して訪れないことなる。このように、対立するどちらの論も成り立たない矛盾をアンチノミー(二律背反)と呼び、この検証を通じてカントは理性の限界を鮮やかに浮かび上がらせる。第三回は、理性が自ら陥ってしまう誤謬の解明を通して理性や科学的思考への過信に警告を鳴らす。
「いかなる出来事も生じず」と言っているが この論証における「出来事」とは「この時空間においての出来事」を述べているに過ぎず 「この時空間」からは見えない高次の「ゆらぎのようなもの」の存在を否定したことにはならない
最新の物理学においては「この時空間」の4っつの次元からは少なくとも他の7次元を知覚することは原理的にできず 「いかなる出来事も生じない」ことの論証には全くならず 何ら論理性の限界の証明にはなっていない
今更ビッグバン理論(この時空間の始まり)を否定する天文学者なんぞオカルトでしかない
第4回 自由と道徳を基礎づける
理性の能力の限界を厳しく吟味すると「神の存在」や「魂の不死」は証明できないことが明らかになる。ではなぜ古来人間は、神や魂について考え続けてきたのか? その動機の裏には「かくありたい」「かく生きたい」という「実践的な関心」があった。「神の存在」「魂の不死」を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値なものになると考えたカントは、それらを「認識の対象」ではなく、実践的な主体に対して「要請された観念」だと位置づける。この立場からカントは、科学によって居場所を失いつつあった価値や自由といった人間的な領域を基礎づけようとする。第四回は、科学が主導権を握りつつあった世界にあって新しい道徳の復権を目指したカントの思索を通して、知識や科学だけでは解決できない「人間的価値や自由の世界」を深く見つめ直す。
ヒトが神や魂について考え続けてきた動機の裏にあるのは動物としての先天的な「社会性(社会形成習性)」による妄想観念の事後正当化であり 錯覚を錯覚だと認識するのは客観的論理検証性である
「神の存在を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値になる」と述べているが
旧約聖書において「神がいないのであれば 何をしても許される」という話同様 自律のないバカの主張に過ぎない
社会安全性や持続可能性の追求(倫理)というものは神が許すかどうかの問題ではなく あくまで「人間」としてのヒトが求めているものであり 神がいようがいまいが関係がない
そもそも魂が不死であるのならば 死ぬことを恐れる必要もなくなるので 「早く死ね」という結論にしかならない
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カントは当時の科学の進歩に対しての観念的恐怖心から科学的な理論(理性)を頭ごなしに否定したかっただけであって 純粋理性批判は何ら理論として成立していない
そもそも「理性を否定する理論」自体が自己矛盾であって その屁理屈の結論が実証不能の「叡智界」では話にならない
ヒトの多くは自分の主観的観念の方を意識の本質だと錯覚する習性があり 客観的な論理検証に基づく話に耳を貸さないようにするためには「理性は悪だ」と決めつけておけば主観的に満足し 何も考えなくなる
考えないということは バカということである
ヒトはバカでいた方が楽なのである
Ende;