情報=知識=知能という方程式は、一般大衆的な観念の産物である。
どんなに大量の知識情報を正確に「知って。」いても、その情報の論理的整合性が理解できておらず、一体何が正しいのかさっぱり自分ではわからないのでは。これは知能でもなんでもなく、単なる暗記マニアでしかない。
大量の知識情報を「知って。」いることをひけらかしていると。大衆観念的には「知性的だ。」と勝手に勘違いしたがる。
ある編集者は、「引用の使い方に、厭味を感じない。」などという、主観的な「感じ。」を述べていた。文系の人間というのは、自分の「感じ。」が絶対的な基準なのである。
自分の主観的な「感じ。」が絶対というのは、自分の観念に疑いを持つつもりが全くないということである。こういう人物に理論的な話をいくらしても「糠に釘。」である。
自分の観念の殻の中に閉じこもって、自分の都合の良いように他人の話をねじまげてしまうからである。
認知症患者の初期症状に見られる「取り繕い。」というのは、単なる外見上の取り繕いだけではなく。実は自分の思考自体の間違いまでも自分自身に取り繕っているため、自分自身の間違いを認識することを拒絶してしまうのである。
認知症患者に自覚症状がないのは、そのためであり。また、自覚させると反って気分的な抑鬱によって、さらに観念の殻の中に閉じ篭ろうとするため、症状が悪化したりもする。
自分の、その場限りの気分的に「楽。」なようにしか認識が働かないため。感情的に気に入らない話、嫌な話は意識から外そうとするのである。
気分的に認識したくない話、理解したくない話を意識から外し、無視する。これがアスペクト盲などの盲目性の原因である。
既に脳に刷り込まれた価値観に基づく、機械手続き的条件反射としての「好き嫌い。」に基づき、ほとんど脊髄反射的なまでに論理的話を拒絶するため。盲目のスパイラルに陥るのである。
以前にもこうしたスパイラルの話をしたような気がする。その時は「何スパイラル。」と名付けたか忘れたが。まあ、何でもいいや、「バカスパイラル。」とでも呼んでおこう。
ヒトであっても、所詮は動物であるため。大脳辺縁系というのは、別に論理的に考えるように作られているわけではない。むしろ観念の殻の中に閉じ篭って、何も認識しないでいた方が大脳辺縁系は「楽。」なのである。
こうした脳の構造原理的なディレンマであっても、別に誰も望んでそうなっているわけではなく。あくまで「結果。」的なものでしかない。
自閉症患者というのは、生れつき感情的な好き嫌いが激しく、他人とのコミュニケーションが「嫌。」であるために、言語すら覚えようとはしないのであろう。どんなに話かけても無視するのはそのためであると考えられる。
要は、好き嫌いの程度が一般的なヒトとは少し異なるだけのことであって、一般的な多くのヒトであっても盲目性は存在するのであり。程度問題でしかないのである。
「自閉症。」なんて病名を付けてしまうと、おそらく認知症同様に反って自閉症が悪化するのではないだろうか。自閉症と診断された人であれば、一般的な学習による学力順位付けのような、実際には論理的根拠のない知能論に基づく「学習障害。」などと定義せず。自発的に行えるような純粋行為を見つけられるように、幅広く様々な情報を与えてみることの方が良いのではないか。
「なぜ、他人と話をしなければならないのか。」その論理的根拠もなしに、ただ「話をしろ。」と強制するから、話すことが嫌になるのであろう。
おそらく、言語学習の速度が相対的に遅いだけなのかも知れない。自閉症の子供の行動を見ていると、決して知能が劣っているようには見えないからである。自発的に伝えたいこと、話たいことがあれば、自ずと話はするようになるはずである。それを「他人と比べて、うちの子は。」的な順位に執着するから、自発性を失うのである。
自閉症というのは、実際には親の方が固定観念に囚われているから、子供が拒絶してしまうのである。
暴走族だの暴力団といったものも、盲目性が存在する。しかし、臨床的にはそれを病気であると診断する基準がないだけであって。人畜無害な学習障害よりも、こちらの方がよっぽど悪辣で「病的。」あるが。そちらはほったらかしなのはなぜであろう。
それは大衆観念的な知能の基準自体が根本から間違っているからである。
震災に巻き込まれた途端に、「他人のためになる人になって下さい。」的に。あたかも「人間にとって最も重要な資質。」を急に思い出したように言い出す教育関係者と同じで。多くのヒト達は根本的な価値観自体を意識から外して生きているのである。
それで世の中良くなるわけねーだろ。的な話である。
どんなに大量の知識情報を正確に「知って。」いても、その情報の論理的整合性が理解できておらず、一体何が正しいのかさっぱり自分ではわからないのでは。これは知能でもなんでもなく、単なる暗記マニアでしかない。
大量の知識情報を「知って。」いることをひけらかしていると。大衆観念的には「知性的だ。」と勝手に勘違いしたがる。
ある編集者は、「引用の使い方に、厭味を感じない。」などという、主観的な「感じ。」を述べていた。文系の人間というのは、自分の「感じ。」が絶対的な基準なのである。
自分の主観的な「感じ。」が絶対というのは、自分の観念に疑いを持つつもりが全くないということである。こういう人物に理論的な話をいくらしても「糠に釘。」である。
自分の観念の殻の中に閉じこもって、自分の都合の良いように他人の話をねじまげてしまうからである。
認知症患者の初期症状に見られる「取り繕い。」というのは、単なる外見上の取り繕いだけではなく。実は自分の思考自体の間違いまでも自分自身に取り繕っているため、自分自身の間違いを認識することを拒絶してしまうのである。
認知症患者に自覚症状がないのは、そのためであり。また、自覚させると反って気分的な抑鬱によって、さらに観念の殻の中に閉じ篭ろうとするため、症状が悪化したりもする。
自分の、その場限りの気分的に「楽。」なようにしか認識が働かないため。感情的に気に入らない話、嫌な話は意識から外そうとするのである。
気分的に認識したくない話、理解したくない話を意識から外し、無視する。これがアスペクト盲などの盲目性の原因である。
既に脳に刷り込まれた価値観に基づく、機械手続き的条件反射としての「好き嫌い。」に基づき、ほとんど脊髄反射的なまでに論理的話を拒絶するため。盲目のスパイラルに陥るのである。
以前にもこうしたスパイラルの話をしたような気がする。その時は「何スパイラル。」と名付けたか忘れたが。まあ、何でもいいや、「バカスパイラル。」とでも呼んでおこう。
ヒトであっても、所詮は動物であるため。大脳辺縁系というのは、別に論理的に考えるように作られているわけではない。むしろ観念の殻の中に閉じ篭って、何も認識しないでいた方が大脳辺縁系は「楽。」なのである。
こうした脳の構造原理的なディレンマであっても、別に誰も望んでそうなっているわけではなく。あくまで「結果。」的なものでしかない。
自閉症患者というのは、生れつき感情的な好き嫌いが激しく、他人とのコミュニケーションが「嫌。」であるために、言語すら覚えようとはしないのであろう。どんなに話かけても無視するのはそのためであると考えられる。
要は、好き嫌いの程度が一般的なヒトとは少し異なるだけのことであって、一般的な多くのヒトであっても盲目性は存在するのであり。程度問題でしかないのである。
「自閉症。」なんて病名を付けてしまうと、おそらく認知症同様に反って自閉症が悪化するのではないだろうか。自閉症と診断された人であれば、一般的な学習による学力順位付けのような、実際には論理的根拠のない知能論に基づく「学習障害。」などと定義せず。自発的に行えるような純粋行為を見つけられるように、幅広く様々な情報を与えてみることの方が良いのではないか。
「なぜ、他人と話をしなければならないのか。」その論理的根拠もなしに、ただ「話をしろ。」と強制するから、話すことが嫌になるのであろう。
おそらく、言語学習の速度が相対的に遅いだけなのかも知れない。自閉症の子供の行動を見ていると、決して知能が劣っているようには見えないからである。自発的に伝えたいこと、話たいことがあれば、自ずと話はするようになるはずである。それを「他人と比べて、うちの子は。」的な順位に執着するから、自発性を失うのである。
自閉症というのは、実際には親の方が固定観念に囚われているから、子供が拒絶してしまうのである。
暴走族だの暴力団といったものも、盲目性が存在する。しかし、臨床的にはそれを病気であると診断する基準がないだけであって。人畜無害な学習障害よりも、こちらの方がよっぽど悪辣で「病的。」あるが。そちらはほったらかしなのはなぜであろう。
それは大衆観念的な知能の基準自体が根本から間違っているからである。
震災に巻き込まれた途端に、「他人のためになる人になって下さい。」的に。あたかも「人間にとって最も重要な資質。」を急に思い出したように言い出す教育関係者と同じで。多くのヒト達は根本的な価値観自体を意識から外して生きているのである。
それで世の中良くなるわけねーだろ。的な話である。