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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

犬の幸福。

2011年11月19日 15時34分38秒 | 意識論関連
 相互が奪い合いをすれば社会は崩壊し、結果的に不幸な社会に生きなければならなくなる。

 相互が助け合えば社会は安定し、結果的に幸福な社会で生活をすることができる。

 しかし、ヒトは目先に利己欲に意識を奪われ、狭窄な意識に基づいた奪い合いに簡単に陥る習性がある。

 たとえどんなに他人から利益を奪っても、他人をないがしろにしたという自分の心の平穏を失うことによって本当の満足を得ることができなくなるばかりか、むしろ自分が既に行って来てしまった行為を事後正当化しないといられなくなり。ますます他人からの利益の略奪に邁進してしまう傾向がある。

 どんなに金儲けをしても、個人の心の平穏とは無関係である。独裁国家の国家元首になって、どんなに裕福な生活をしていても、心が満たされなければ何ら個人の幸福を得ることはできない。

 ブータンにわざわざ航空機まで使って観光に日本人が行くのは何故か。そこには日本が忘れた心の平穏があるからである。数値上での経済成長というものと個人の幸福とは無関係である。

 人はいつか必ず死ぬ。その死に臨して本当に個人が欲するものとは何か。それは相互の信頼関係である。

 ヒトは哺乳類であるから、子供を守ろうとする本能が非常に強い。自分の命が終わる時、子供達に幸福な社会を遺せることこそが、実はヒトという種の生物にとって最も「幸福。」なことなのである。

 仏教においても「菩薩」とは仏に最も近い存在であり。それはあらゆる人の心の中に存在することが「可能。」な心でもある。

 しかし、「可能。」でありながらできないのはなぜか。それが意識の狭窄による利己欲、仏教的に言えば「煩悩。」によって、個人的利益、或は狭い仲間内での利益しか考えることをしなくなるからである。



 多くのヒトは、その論理的根拠のない観念によって、公益倫理的自律判断選択をバカにし。それを「負け犬。」と形容する。

 しかし、こうした大衆観念こそが「犬の論理。」であり。どんなに追求したところで最終的には「犬の勝利。」しか得ることはできないのである。

 「犬の勝利。」は人間の幸福足り得るか。否、足りないからこそ際限なく欲望を追求しなくてはならなくなるのである。


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