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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

100分で迷著。

2011年07月27日 22時29分10秒 | 意識論関連
 品格ブームで有名になった藤原まさひこっていうのは、結局「品格」だの「誇り」といった抽象的な話で大衆の脳を酔わせているだけであって。理論的具体性のある話はほとんど出てこない。

 何やら偉そうに「理論的思考。」だとか言っているが、こいつ自身が全く倫理的思考を全くしておらず、全く有益性がない。



 行動力を伴わない見識などというのは、その見識自体が自発的な意欲によって培われたものではなく。成績評価などの環境依存的な「エサ」に対する条件反射的な無意識的知能でしかないことの証明とも言える。単に「俺様はこんなことを知っているぞ。」とひけらかしたいだけであり、他人からの見た目に固執した知識でしかないからこそ、自発的な行動力を伴わないのである。

 福沢諭吉は結果的現象から論じているだけであって、なぜ「行動力を伴わない見識。」などというものがあるのかまでは分析できていないのである。



 学ぶということは、つまり、それまで知らなかったことを学ぶのであるから、最初は稚拙であるのが当たり前である。その稚拙性を恥ずかしがらずに突き進む自発的意欲こそが最も重要なのである。

 そもそも、「恥ずかしい。」などというのが他人からの見た目に対する恐怖心に由来するものであって。気分の問題、感情の問題、大脳辺縁系の反射の問題でしかないのである。




 武士道精神だとかいうのは、要するに士農工商という階級身分を正当化するための屁理屈でしかない。武士道精神というのは太平洋戦争に突入する時に散々利用された観念であって、こんなものを持ち出す藤原というのは単なるパラノイアに過ぎない。

 「本をたくさん読め。」だとかいうのもトンデモない大間違いである。自発的意欲に基づく見識を広めるために読むのは良いことであるが、ただ漫然と大量の本を、促されるままに読んでも無駄である。

 養老孟司の著作を読んでも、何ら批判できないようでは、これは全くのバカに過ぎないからである。

 藤原の話が理論的であるかどうかもわからない時点で既に充分頭が悪い。



 「100分で名著。」では、ニーチェのアンコール放送があるそうだ。「ルサンチマンを克服。」だとかいうのも、結局は気分的な救いを求める泣き言、或は勝手な観念に閉じこもるための屁理屈でしかない。

 既に有名な者に対して、何ら論理的思考も持たずに権威に無批判であることこそが独立自尊の欠落であることに全く気が付かないのであろうか。

 頭の悪い「ヒト」が多すぎてウンザリする。


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