マックス:テグマークは「主観がなければ宇宙は存在しない」と述べた
主観とは何かと言えば 先天的に脳に組み込まれたバイアスであり 脳内物質によって促される恐怖や怒りや安心や快楽といった感覚である
3歳の娘と女房を交通事故で失い 毎日が地獄だと感じることも主観である
パレスチナの救急隊員がどんなに命がけで活動しても 毎日のように子供達が傷つけ殺され続ける無力感に絶望するのも主観である
根拠のない誹謗中傷で満足することも それによって相手が苦しむことに何も感じないことも 主観である
主観的嫌悪感に基づいたヘイトスピーチに明け暮れている者にとって「ヘイトスピーチをすることで得られる快楽がなければ宇宙は存在しない」のであれば ヘイトスピーチこそが宇宙そのものだと言えるであろうか
麻薬中毒患者にとって 強力な中毒性を持った麻薬を投与することで得られる快楽がなければ「宇宙は存在しない」と言えるであろうか
主観的感覚としての快楽の強度程度に行動が左右されている状態は 果たして「自由」な意思を持っている状態だと言えるだろうか
本当の自由とは 本質的な自由意思とは 主観全体を客観的且つ統合的に検証し どのような主観を優先すべきかを「目的」として選択できることである
主観的感覚が促す快楽の強度程度で決定してしまうような シーケンシャルで機械的条件反射に自由など存在しない
意識とは 感覚という主観の中にあるのではなく あくまで客観的論理検証に基づいた「目的」行動選択の中にある
だからこそ「目的意識」と言うのである
主観的感覚というものは 先天的に決定している条件反射であり 結果的に生存に適した個体に残された 自己選択不可能な「結果」に過ぎず これを意識の本質だと言うことは出来ない
マックス:テグマークはこの部分を理解しておらず 考えが及んでいない
個人の主観に倫理はないし 倫理は必要がない
芸術という「表現」は主観であり どんなに内容が非道徳的であろうが構わないのである
文芸作品の内容が猟奇殺人であろうとも 表現の範囲内である限り倫理は必要ないものである
会田誠の絵画作品には 全裸の少女の手足を切り落とし犬の首輪で繋いで屋外に飼うという表現もあるが こうした極端に非道徳的表現であっても表現の範疇である限り許されるのである
しかし 倫理とは主観を統合客観的に検証することで割り出すことが出来る社会的責任判断選択であり 主観だけでは倫理を語ることは出来ない
主観的感覚が促す快楽の強度程度だけで行動が決定しているのでは ただの中毒患者に過ぎず 到底倫理も人間性もスッタクレもあったものではない
自己の目先の快楽の強度程度に左右されずに 客観的に検証した目的意識が働いてこその倫理であり人間性なのである
主観というのは「ヒトという種の生物」としての感覚に過ぎず そこに合理性がなくとも 人間性が伴わずとも 全ては「結果」に過ぎず 「人間」としての「目的」行動選択なくして倫理を論ずることは構造原理的に不可能なのである
マックス:テグマークは自己の主観的感覚を あたかも神のような何者かによって保証担保された特別なものであるかのような錯覚に陥っており 言うなれば「正常性バイアスの虜」である
主観的感覚というものは 所詮は個人的なものに過ぎず大多数の他者が好むものを好まなくても 大多数の他者が嫌悪するものを好んでも それは勝手である
「愛」と称して特定の配偶関係者や子供に対してエコヒイキをすることも 所詮は主観に基づいた行動バイアスに対する事後正当化のこじつけに過ぎない
ところが「神」という普遍的な平等者に対しては処女懐胎などというムリゲーを要求するという 倫理のダブルスタンダードをゴリ押しするのである
配偶交配による変異の促進が生存にとって有利に働いたのは 決して生存などの目的に基づいたものではなく あくまで「死なずに生き残った」という結果に過ぎず 繁殖行動バイアスに起因する様々な犯罪やトラブルの全ては 先天的繁殖行動バイアスには合理的目的が最初から存在していない故の必然である
にも関わらず 主観こそが意識の本質であるかのように言い張るマックス:テグマークは 考えが浅く論理整合性のない「嘘つき」に過ぎない
この手の「嘘つき」というのは 論理思考の成立していない文科系大衆に迎合している多くの論客に見られるものであり
ヒトという種の生物の先天的暴力性を取り上げずに「どうして戦争はなくならないのか」の原因を 知識のひけらかしによって知ったかぶりする池上彰などにも見られるものである
大多数の論客が こうした論理整合性のない「嘘」を述べているのであれば あたかも責任や罪が薄まるかのように錯覚することも簡単なのであろうが
こうした「嘘」を認識出来ない大多数の大衆やマスコミも同罪である
人工知能の危険性を語る前に ヒトの危険性を認識することの方が先である
バカが作るものがバカげているのは当たり前の話である AIであろうが何であろうが作っている方のバカさを認識しないことには バカが治ることはない
Ende;
主観とは何かと言えば 先天的に脳に組み込まれたバイアスであり 脳内物質によって促される恐怖や怒りや安心や快楽といった感覚である
3歳の娘と女房を交通事故で失い 毎日が地獄だと感じることも主観である
パレスチナの救急隊員がどんなに命がけで活動しても 毎日のように子供達が傷つけ殺され続ける無力感に絶望するのも主観である
根拠のない誹謗中傷で満足することも それによって相手が苦しむことに何も感じないことも 主観である
主観的嫌悪感に基づいたヘイトスピーチに明け暮れている者にとって「ヘイトスピーチをすることで得られる快楽がなければ宇宙は存在しない」のであれば ヘイトスピーチこそが宇宙そのものだと言えるであろうか
麻薬中毒患者にとって 強力な中毒性を持った麻薬を投与することで得られる快楽がなければ「宇宙は存在しない」と言えるであろうか
主観的感覚としての快楽の強度程度に行動が左右されている状態は 果たして「自由」な意思を持っている状態だと言えるだろうか
本当の自由とは 本質的な自由意思とは 主観全体を客観的且つ統合的に検証し どのような主観を優先すべきかを「目的」として選択できることである
主観的感覚が促す快楽の強度程度で決定してしまうような シーケンシャルで機械的条件反射に自由など存在しない
意識とは 感覚という主観の中にあるのではなく あくまで客観的論理検証に基づいた「目的」行動選択の中にある
だからこそ「目的意識」と言うのである
主観的感覚というものは 先天的に決定している条件反射であり 結果的に生存に適した個体に残された 自己選択不可能な「結果」に過ぎず これを意識の本質だと言うことは出来ない
マックス:テグマークはこの部分を理解しておらず 考えが及んでいない
個人の主観に倫理はないし 倫理は必要がない
芸術という「表現」は主観であり どんなに内容が非道徳的であろうが構わないのである
文芸作品の内容が猟奇殺人であろうとも 表現の範囲内である限り倫理は必要ないものである
会田誠の絵画作品には 全裸の少女の手足を切り落とし犬の首輪で繋いで屋外に飼うという表現もあるが こうした極端に非道徳的表現であっても表現の範疇である限り許されるのである
しかし 倫理とは主観を統合客観的に検証することで割り出すことが出来る社会的責任判断選択であり 主観だけでは倫理を語ることは出来ない
主観的感覚が促す快楽の強度程度だけで行動が決定しているのでは ただの中毒患者に過ぎず 到底倫理も人間性もスッタクレもあったものではない
自己の目先の快楽の強度程度に左右されずに 客観的に検証した目的意識が働いてこその倫理であり人間性なのである
主観というのは「ヒトという種の生物」としての感覚に過ぎず そこに合理性がなくとも 人間性が伴わずとも 全ては「結果」に過ぎず 「人間」としての「目的」行動選択なくして倫理を論ずることは構造原理的に不可能なのである
マックス:テグマークは自己の主観的感覚を あたかも神のような何者かによって保証担保された特別なものであるかのような錯覚に陥っており 言うなれば「正常性バイアスの虜」である
主観的感覚というものは 所詮は個人的なものに過ぎず大多数の他者が好むものを好まなくても 大多数の他者が嫌悪するものを好んでも それは勝手である
「愛」と称して特定の配偶関係者や子供に対してエコヒイキをすることも 所詮は主観に基づいた行動バイアスに対する事後正当化のこじつけに過ぎない
ところが「神」という普遍的な平等者に対しては処女懐胎などというムリゲーを要求するという 倫理のダブルスタンダードをゴリ押しするのである
配偶交配による変異の促進が生存にとって有利に働いたのは 決して生存などの目的に基づいたものではなく あくまで「死なずに生き残った」という結果に過ぎず 繁殖行動バイアスに起因する様々な犯罪やトラブルの全ては 先天的繁殖行動バイアスには合理的目的が最初から存在していない故の必然である
にも関わらず 主観こそが意識の本質であるかのように言い張るマックス:テグマークは 考えが浅く論理整合性のない「嘘つき」に過ぎない
この手の「嘘つき」というのは 論理思考の成立していない文科系大衆に迎合している多くの論客に見られるものであり
ヒトという種の生物の先天的暴力性を取り上げずに「どうして戦争はなくならないのか」の原因を 知識のひけらかしによって知ったかぶりする池上彰などにも見られるものである
大多数の論客が こうした論理整合性のない「嘘」を述べているのであれば あたかも責任や罪が薄まるかのように錯覚することも簡単なのであろうが
こうした「嘘」を認識出来ない大多数の大衆やマスコミも同罪である
人工知能の危険性を語る前に ヒトの危険性を認識することの方が先である
バカが作るものがバカげているのは当たり前の話である AIであろうが何であろうが作っている方のバカさを認識しないことには バカが治ることはない
Ende;