迷惑ユーチューバーの〝へずまりゅう〟こと原田将大被告(29)が警察にこっぴどく追求されて「反省している」とか言っているが 反省するくらいなら最初からやるなと思うのだが
誰かに叱られないと何が悪いことなのかを自分で判断する能力が欠如しているから糞DQNになる
なぜ自分で善悪を判断しないのか この部分が人間性や倫理の根幹にある
頭ごなしに「あれをやるな これをやれ」と命令ばっかり強要されて育つと 自分で物事の判断をせずに 他人の顔色ばかりを窺う評価承認欲求中毒に陥るようになる
他人からの評価承認だけが行動のモチベーションになってしまうと YouTubeで数字さえ採れれば それが短絡的に「正しいこと」になってしまい 自分自身で「これは正しい行為なのか?」という自問を一切行わないバカになる
「金が儲かったりして気分が良いこと=正しいこと」という 犯罪者特有の思考パターンがあって 幼女誘拐殺人犯の宮崎勤も「気持ちいいこと=正しいこと」という持論を展開していた
個人的な主観に過ぎぬ「楽しい事」や「気持ちいいこと」が 短絡的に社会的に「正しいこと」であるかのように錯覚してしまっているのである
だが 本当に主体的に好きな純粋行為を持っている場合 好きなことを続けられるためには社会がどうあるべきなのかについても配慮が働くようになる
こうした配慮というのは 他人との関係性から築かれるものではなく あくまで自分自身で「考える」ことでのみ発揮される能力である
逆に言えば 周囲の誰もが無責任で身勝手な奴らばっかりの中で育てば 無責任で身勝手なバカに育つ傾向が強くなるばかりである
シエラレオネのゲリラ社会で育てば 全員もれなく残虐なゲリラに育つのものなのである
生育環境に左右されることなく 自律的に社会的責任判断を身につけるためには 他人からの評価に頼ることなく自分自身が本当に楽しめる 脳内麻薬の自給自足が出来てこそ自律的な社会的責任判断能力も発揮できるようになるのである
ゲリラ社会の中で自発性もへったくれもないのだが 日本の学校に通っていながら自律が育たないのは 人間性や倫理というものが「他人との関係性によって形成されるものだ」という大衆観念(一種の錯覚)に囚われているため 人間性の本質が養われるためのメソッドが機能していないからである
原田将大被告は おそらく本当に反省してはいるであろう
反省はしているが それは気分的に「悔やんでいるだけ」であって 問題の本質がどこにあるのかは全く理解していない
田代まさしが何度も「反省している」と述べていたのに 実際には全く人格が変わらないのは 自己の自律の欠如を客観的に理解していないからである
誰かに叱られて気分的に落ち込み 悔やんでいるだけだからこそ 叱ってくれる相手がいなくなれば平気で何度も同じ過ちを繰り返すようになる
フワちゃんは表面的な「社会性」には欠けていて 目上に対してタメ口だったりするのだが 社会的な迷惑行為には及ばない
「目上の人にタメ口をきいてはいけません」なんてのは上っ面な礼儀作法に過ぎず 形式でしかない
人間として重要なのは 外見上の形式的手続きではなく 自律である
外見が真面目そうなら多くの人は安心するのだが その気分的安心を短絡的に人間性や倫理だと「思って」いるからこそ 振り込め詐欺なんぞに簡単に引っかかるのである
イマヌエル:カントの純粋理性批判だの フリードリヒ:ニーチェだの マルクス:ガブリエルやマイケル:サンデルを哲学だと誰もが信じて疑わなかったのも それが学術権威の「形式(外観)」をとっていたからである
進化生物学における「進化の目的」だの「生存戦略」といった著しい誤謬も 学術権威の多数決によって温存されていたのであり 権威という形式は あくまで気分的な安心感を得るためだけのものであって 科学は権威を疑うことを忘れてはならない
Ende;