書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

「心に刺さる」かどうかは主観に過ぎない

2023年01月15日 13時26分41秒 | 意識論関連

「心に刺さる」などと称して主観的好き嫌いかどうかで選ぶのが「哲学」の目的ではない

哲学というのは主観的好き嫌いを根拠に衆愚人気を集めることが価値になるわけではなく

科学同様に真理を追求し 真偽を判定し デマや嘘に惑わされたり騙されたりしないことが目的や価値である

どんなに多数の衆愚から人気を集めようとも 論理客観的真理に適わない話は「哲学」ではない

フリードリヒ:ニーチェの「名言(迷言)」が どんなに多数の衆愚から人気を集めても 基準が曖昧だったり 個人的主観が基準だったり 論理客観的根拠が伴わなければ「哲学」でも何でもない衆愚迎合に過ぎない

衆愚や「哲学者」共の大半はイマヌエル:カントの「純粋理性批判」における実証不能の謎の「叡智界」を鵜呑みにし 主観的に安心満足して何の疑問も持たないものであり これこそがヒトという種の生物における先天的な認知上の重大な欠陥に由来するものである

認知的不協和理論も スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験も バックファイア効果も 衆愚の主観的気分を良くし安心満足を与えて「心に刺さる」ようなものではなく むしろ気分的に不安や恐怖を与えるため

何の根拠も挙げずに「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと勝手に決めつけることで 意識から外し 無視し 他人事として忘れようとするのが衆愚の習性である

 

結果的事実だけを陳列枚挙しておいて「考え」だと倒錯しているというのは 養老孟司が死体を担ぎ出して来て「実証だ」などと主張しているのと同様に「バカの立証方法」に過ぎない

どんなに大量の結果的事実を陳列枚挙しても その結果の中から論理客観的な根拠に基づいて「なぜそのような結果に至ったと言えるのか」を論じなければ客観的「真理」とは言えない

衆愚マスコミの大半 ほぼ全員は 論理客観的な「考え」と 単なる「悩み」の区別ができないバカである

江川紹子ですら「適切な裁判で判決を下すことが本当の解決」などと言い出す始末である オウム真理教の教祖や幹部に罰を与えても カルト宗教などの洗脳集団がどうして出来上がるのかについての徹底した原因もわからなければ 必然的に再発防止にもならず 全く持って「解決」になどなっていないのである

ヒトの多くは法手続きさえ踏めば「正義」だと倒錯しているが そもそもヒトの作った「法手続き」が完璧で万能であることの保証など どこにもないのである

国際法ではプーチンを裁くことができないのも 戦争をやめさせることもできないのも 法手続き制度の根源的欠陥であり そもそも腐敗組織が出来上がるメカニズム構造やプロセス過程を刑法判決を理由にして厳密に検証しておけば防げた可能性も充分にある

防げた可能性が存在するにも関わらず これをやらない無責任さについては 衆愚の多数は多数によって責任が薄まると倒錯しているからである

何をすべきか 何を優先すべきか それを個人が自律的に選択してこその人間としての「意識」だと言えるのであって 漫然と主観的安心満足に溺れてニーチェやカントなんぞを「哲学」だと倒錯しているというのは もはや犯罪レベルの無責任である

あまりにも頭が悪すぎて呆れるばかりである

 


Ende;

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