刑法裁判というのは罰の程度を争うだけであって 検察の業績と被告の利益を量るためのものであり 社会安全性という公益性は「蚊帳の外」にされている制度なのである
本来公的な資金で運営されている以上 公益性を最優先しなければならないにも関わらず 検察と被告の利益の奪い合いにしかなっていないという「間違い」が存在しているのである
「過失」というのは「間違い」であり 「間違い」というのは別に被害の程度に関わらず誰でもやってしまう可能性がある
誰でも引き起こす可能性のある事象に対して たまたま被害が出た事例においてのみ罰を与えて「解決」だとみなす社会制度である以上 本当の公益としての社会安全性の追求には全くなっていない
その一方では メルカリで肥料を売ったら犯罪で 飲食店の中で客が踊っていれば店長が逮捕されるのが司法制度である
テロ準備に有罪とするのもおかしな話で 被害が出ていないのに単に「刑務所にぶちこんで終わり」ではテロに対する根本的再発防止策にも全くならない
航空機事故や原発事故では危険学のメソッドを用いて徹底した再発防止を優先した検証が行われるのは それこそが社会安全性という「社会の利益」に供するからであるのだが
一般的な犯罪や交通事故に対しては「刑法判決で解決」という機械手続き的な短絡的「処分」で終わってしまうのが現状の司法制度の「間違い」なのである
東池袋プリウス暴走事故被害者遺族の松永莉子パパや 一部の被害者達が主張する「再発防止を優先して欲しい」という要望は 現状の司法制度の中では「判決で解決」という「はぐらかし」にしかなっていない
社会制度自体を変えるためには 国民の半数以上が「理解」し 立法機関の代議員達が動かないことには司法制度の根本的改革には全くならない
裁判員制度などというのは法律の素人に無理矢理裁判に参加させているだけであって 刑法罰そのものの欠陥には一切言及することが出来ないものであり これもまた司法による「はぐらかし」に過ぎない
マイケル:サンデルの講義の中には倫理の本質が存在していないにも関わらず 講義を受けたバカ学生達の多数決的人気だけで満足して何も疑問を持たない「洗脳」同様 司法裁判で何かが解決すると「思って」いること自体が著しい「間違い」なのである
「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」などというマルクス:ガブリエルの「寝言」を大多数の哲学者やマスコミが何の疑問も持たずに鵜呑みにしていたこともまた「洗脳」である
「洗脳」というの現象は ヒトという種の生物における「錯覚」が引き起こすものであり 錯覚を錯覚として認識するためには論理客観性が必要不可欠なのである
「錯覚」に起因する「洗脳」というものは ヒトでありさえすれば誰でも陥る可能性のある「間違い」であり 何が間違いなのかが理解できていなければ本当の社会安全性という「社会の利益」にはならない
「自分だけは絶対に大丈夫」だと「思って」おけば気分(主観)的には安心であろうが その気分的安心こそが論理客観的真実を見失う最も根源的原因なのである
人間としての「意識」の本質とは 「本当に社会にとって最も優先されるべきものは何なのか」を見極めるための論理客観性であり 気分感情の強度程度という主観にあるわけではない
これが理解できていないのであれば野依良治は老害でしかない
おそらくは養老孟司や「バカ哲学者」達に「洗脳」されたのであろう
「ご愁傷さま」くらいしか言葉は思いつかない
Ende;
本来公的な資金で運営されている以上 公益性を最優先しなければならないにも関わらず 検察と被告の利益の奪い合いにしかなっていないという「間違い」が存在しているのである
「過失」というのは「間違い」であり 「間違い」というのは別に被害の程度に関わらず誰でもやってしまう可能性がある
誰でも引き起こす可能性のある事象に対して たまたま被害が出た事例においてのみ罰を与えて「解決」だとみなす社会制度である以上 本当の公益としての社会安全性の追求には全くなっていない
その一方では メルカリで肥料を売ったら犯罪で 飲食店の中で客が踊っていれば店長が逮捕されるのが司法制度である
テロ準備に有罪とするのもおかしな話で 被害が出ていないのに単に「刑務所にぶちこんで終わり」ではテロに対する根本的再発防止策にも全くならない
航空機事故や原発事故では危険学のメソッドを用いて徹底した再発防止を優先した検証が行われるのは それこそが社会安全性という「社会の利益」に供するからであるのだが
一般的な犯罪や交通事故に対しては「刑法判決で解決」という機械手続き的な短絡的「処分」で終わってしまうのが現状の司法制度の「間違い」なのである
東池袋プリウス暴走事故被害者遺族の松永莉子パパや 一部の被害者達が主張する「再発防止を優先して欲しい」という要望は 現状の司法制度の中では「判決で解決」という「はぐらかし」にしかなっていない
社会制度自体を変えるためには 国民の半数以上が「理解」し 立法機関の代議員達が動かないことには司法制度の根本的改革には全くならない
裁判員制度などというのは法律の素人に無理矢理裁判に参加させているだけであって 刑法罰そのものの欠陥には一切言及することが出来ないものであり これもまた司法による「はぐらかし」に過ぎない
マイケル:サンデルの講義の中には倫理の本質が存在していないにも関わらず 講義を受けたバカ学生達の多数決的人気だけで満足して何も疑問を持たない「洗脳」同様 司法裁判で何かが解決すると「思って」いること自体が著しい「間違い」なのである
「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」などというマルクス:ガブリエルの「寝言」を大多数の哲学者やマスコミが何の疑問も持たずに鵜呑みにしていたこともまた「洗脳」である
「洗脳」というの現象は ヒトという種の生物における「錯覚」が引き起こすものであり 錯覚を錯覚として認識するためには論理客観性が必要不可欠なのである
「錯覚」に起因する「洗脳」というものは ヒトでありさえすれば誰でも陥る可能性のある「間違い」であり 何が間違いなのかが理解できていなければ本当の社会安全性という「社会の利益」にはならない
「自分だけは絶対に大丈夫」だと「思って」おけば気分(主観)的には安心であろうが その気分的安心こそが論理客観的真実を見失う最も根源的原因なのである
人間としての「意識」の本質とは 「本当に社会にとって最も優先されるべきものは何なのか」を見極めるための論理客観性であり 気分感情の強度程度という主観にあるわけではない
これが理解できていないのであれば野依良治は老害でしかない
おそらくは養老孟司や「バカ哲学者」達に「洗脳」されたのであろう
「ご愁傷さま」くらいしか言葉は思いつかない
Ende;