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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○客観性。

2014年09月04日 13時45分31秒 | 意識論関連
 イジメをしている時、その集団の状態という環境要因に無意識に流されている状態なのですが。この時に客観的に自分の行為を冷静に検証する自己が失われています。

 自分や自分のおかれた状況といったものを分析する統合的判断能力が失われ、その場の「課題」に意識を奪われている状態であると考えて良いでしょう。

 これは振り込め詐欺師に被害者が騙されている時と同じで、その場において促された強い感情によって、「振り込むこと。」という「課題」が自己客観性を喪失している状態と同じような状態だと言えるでしょう。

 イジメなどの差別排除というのは、本当は誰にも「目的」がありません。

 その場の「空気」、その場限りの状況に対して、「自分がイジメられないようにするため。」とか、「どうやったら他人より目立つことが出来るか。」といった「課題」に意識が奪われており。その結果差別排除に加担してしまっているだけなのです。

 自己客観性を取り戻すには、一度こうした「課題」に集中してしまっている自分というものを一歩引いて見る必要性があります。

 自分が人間としてクズに陥っていないのか、それを多数が客観的に自己検証できればイジメは収まります。

 理屈で言えば簡単ですが、それを実行に移すのは困難です。

 自分一人で冷静になっても、お祭り騒ぎ的な集団興奮状態では、反って興奮している相手の感情を逆なでして自分がイジメの対象になるのが大体のシナリオですから。

 シナリオというのは、予め決まったシーケンシャルな行動です。だからこそ無意識なのであり、「目的」がないのです。



 また、先天的本能である暴力は快楽中枢が活性化するはずです。

 機能性MRIの中に頭を突っ込んだまま暴力を振るうなんて器用なことが出来る奴はいないので調べようがないかも知れませんが。DV男がパートナーに散々暴力を振るった後には、脳内にセロトニンという安息物質が分泌されるため、「急に優しくなる。」というチグハグな行動を採ることが知られています。

 脳は暴力を振るうと満足するように出来ているのです。

 テストステロンなどの男性ホルモンは、暴力衝動を引き起こすようになっていて。これが自然界においては摂食行動のトリガーとなって、結果的に生存に結び付いた「結果」として。ヒトという種の生物の脳にも残されています。

 ヒトの大脳辺縁系の構造は、実は獰猛なワニなどの爬虫類とさしたる構造の違いがないそうです。

 言い換えれば、ヒトの脳の中には野生生物と同じように狂暴な獣が棲んでいるようなもので。ヒトが暴力を振るうというのは、その意味においては「自然な行動」だと言えるのです。

 「自然な行動」とは、「結果」です。これは「目的」とは言えません。

 目的もなく漫然と先天的本能習性に無意識に流されていて、それで本当に「自分」の選択だと言えるでしょうか。

 イジメが発生しているときに、「本当に攻撃すべきはコイツなのか?。」と引きで見て下さい。

 冷静に客観視すれば「そんなわけねぇだろ。」と気付くことが出来るはずです。



 他人を比較して順位をつけたがる習性というのも脳にはあります。イヌの順位欲というのがその典型で、大好きな飼い主に対しては異常な興奮を示して、あまりに興奮し過ぎて室内で放尿したりすることもある程です。

 いわゆる「うれション。」ってやつですね。

 その一方で、イヌは見知らぬ怖い相手には異常なまでに吠えかかります。(厳密に言うとイヌの場合は遺伝的に改造されまくっているために個体差が大きくなってしまっているので、オオカミのように純血な種で考えた方が良いのかもしれませんが。イヌは馴染みがある生物なので理解しやすいとも言えるでしょう。)

 イヌは他の個体に順位をつけます。自分より上なのか、下なのかを明確にしておかないと気が済まないように脳が出来上がっているからです。

 そしてこうした順位欲というのは、ヒトでも同じように見ることが出来ます。

 誰でも良いので特定の誰かを蔑み、集団で攻撃排除しておけば、自分達が優位に立ったような錯覚に陥るのも、こうした順位欲も一因となっているのです。

 スタンレー:ミルグラムらによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」では。ヒトの多くが権威と見なした相手の命令に従い他人に危害を加える習性が存在することを実証しました。

 アイヒマン実験の被験者の中には、自分が危害を加えた「理由」として、「危害を加えてしまったが、それは相手が悪い。」という発言をする例がありましたが。これはイジメにおける「イジメられる方も悪い。」という、子供じみた言い逃れと同じで。自分が既に行ってしまった行動「結果」を、事後正当化するという形の「取り繕い」なのです。

 なぜ、ヒトは無意識に流されて行ってしまった行動を事後正当化するのでしょうか。

 それは、その人が「自分の行動というのは、自分自身で常に意識的に選択出来ているものである。」という錯覚がもたらした妄想に由来する錯覚なのです。

 人の意識の9割以上は無意識です。人の行動や言動の多くは、その場限りの条件反射に過ぎず。自分がおかれた状況や環境に対して、その場限りに反応した「結果」に過ぎないことを、多くの人は認識していません。

 むしろ、「人は9割は見た目で判断する。」ことを利用した金儲けの手口をもてはやし、欲得勘定による世間的な成功ばかりを「目的」だと錯覚しているバカげた新書類が書店には蔓延しているのです。

 利己的な金儲けというのは欲望主体の行動です。決して「理性」などではないのです。ところが文科系の人達というのは論理的理解力が乏しいため、習慣的に「理性=利己的欲望」という論理的根拠ない観念を信じて疑うことがないのです。

 「自分は絶対大丈夫。」という錯覚によって、間違いを認識したがらない習性も、こうした観念に論理的根拠がないことへの認識が働かなくなる原因なのです。

 本当の意識とは何でしょう。それは一切の無意識を排除した状態であって、絶対的完全意識というような状態は有限の脳しか持たない「ヒト」の脳では構造原理的に不可能であることが証明可能でもあります。

 しかし、より無意識を排除するよう心掛けるという「意志」を持つことが不可能であることの論理証明には一切なりません。

 無意識のままに流されることに抗おうとする自己は、少なくとも無意識のまま条件反射的に流されている状態よりは自己が存在すると言えるでしょう。




 一人の「人間」として、本当に望むべき「目的」とは。目先の金儲けやその場限りの享楽などではなく、持続可能性を持った安全な社会であることを、多くの人は忘れがちです。

 忘れがちだからといって忘れて良いという根拠にはならないので、時折忘れないように思い出すことが必要なのです。

 脳のデフォルトモードネットワークというのは、特定の「課題」に意識を奪われない状態でなければ働くことがありません。

 しかし、ここで矛盾が生じます。何の「課題」も考えずに自分の過ちに気付くことが可能なのでしょうか。

 実は可能です。要するに自分が何かの「課題」に意識を奪われて客観性を失っていることが気付けば、その「課題」を解決しようとすることの不毛さに気付くことが出来るからです。

 「何の課題も与えられていない。」状態であっても、寝ているとか意識不明の昏睡状態ではないので、目の前で起きている事象に対して客観的に分析することは、ある意味自動的に行える状態ではあるのです。



 オウム真理教の修行に「十万回マントラを唱えなさい。」的なものがありましたが、これは信者の脳に常に「課題」を課すことで、脳のデフォルトモードネットワークを働かせないように「学習」させ、客観的に自分の行動を検証するという本質自己を破壊させる手口なのではないかと思います。

 カルト宗教の洗脳手法でなくても、「自分より先に他人を大事にしろ。」だとか「好きなことをやるより苦手を先に克服しろ。」などといった日本人特有の精神論というのも。いわば「文化」という形をとった軽い「虐待の連鎖」なのではないかと思うのです。

 虐待の連鎖はどこかで断ち切らないといけません。客観性を持った本質的自己というものを取り戻さないからこそ、無知で自分勝手な教師、親大人というのがいなくならないのです。

 若い人達は、これから親大人として子供達を導いていかなければならない社会的責任というものがあります。「目上に責任取らないバカが多いから、俺も取らねぇ。」というのは子供の言い逃れに過ぎません。

 もちろん臭いヲヤヂ達やクソババア達にも社会的責任はあります。そのための啓蒙はこれからも続けてゆきますが、バカのまま歳だけとったバカ達も、結局は日本という社会の「文化」に毒された憐れで惨めなヒステリー(心理拘束)に陥った病人に過ぎないことを認識しておけば、ムキになって怒る必要性がないことに気付いて欲しいのです。(おいらは腹立ってしょうがないけどね。)



 人は他人のヒステリーに感化されがちな性質があります。

 そうした条件反射的感情論に流されないよう、「しっかりする。」ためには。従来の観念のような精神論ではなく、むしろ「一旦落ち着いて、ぼんやりと客観視する。」ことの方が大事なのです。



Ende;

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