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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

論理。

2011年03月31日 11時32分00秒 | 意識論関連
 人間科学として、「ヒト。」という種の動物としての行動習性への理解、解析を行うことによって。これを工学的な見地から危険行為の再発防止とか危険回避への方策の再構築性の基礎中の基礎として、本質的な意識への論理的理解。論理的認識が必要なのである。

 それに対して生物学や哲学は、従来の非論理的観念を振り回すだけの害悪を撒き散らしているだけであり。これは糾弾されなければならない。

 科学哲学っていうのは、基本的には喧嘩屋というか、ノーベル賞の益川さんとかは「いちゃもん屋。」っつってたけど。迎合したら成立しない。ポパーも喧嘩しかしなかった。


 無意識的行動の結果論の枚挙に依る安全性の証明とは、科学的には「反証され得ない。」ものであり、「概ね安全である。」ことしか証明していない。

 臨床とかはそれで許される。患者の個人差による治療効果とか安全基準なんて、全てを把握していなくても構わない。

 放射線耐性だって、偶発的に極端に弱い人がいたとしても、臨床ではそこに「病名。」をつけて「症例。」報告をすればいいだけ。

 色素性乾皮症とかは、「普通の人。」なら概ね大丈夫な紫外線でも皮膚が爛れてしまう病気だけど、それは臨床的には特殊扱いすることによって、紫外線は極端に当たらなければ特に大きな害はないってことになってる。

 一応、癌治療とかで、それなりに放射線耐性に対する知見というのはあるけれど、決して科学的に「絶対安全。」なんてことは断言できない。

 もしかして、放射線に対して遺伝的に極端に耐性が低い人がいたとしても、新しく「病名。」をつけて、症例報告をすればいいだけ。

 だから「臨床は、科学ではない。」ってこと。

 いきなりこれだけ読んだ人は、もしかして恐怖心を煽られたかも知れないけど、私の論じている本質的な意識というのは、論理的理解を促すものであって、感情的に「不安。」かどうかに対して意識的に抑制することの重要性を述べているのであるから、ヒステリックに怖がらなくてよい。というか怖がるな。


 だから、私の論じている本質的意識についての話というのは、「患者。」が読むものではなくて、研究者とかが読むべきもの。

 だから、怖かったら読まない方がいいかもです。

 だけど、多くの人が怖がるからって、多数決的に研究者が無視してよい理由にはならんからな。臨床であっても同じである。

 科学の持つ厳格さというのは、感情的な固定観念に惑わされることなく。徹底的に理論的「理解。」力を要求されることにある。それができないというなら、科学に携わる適性に欠けるということである。

 観念的な「わかったような気分。」と、理論的な「理解。」とを厳格に区別できなければ科学ではないのである。

 哲学に「科学。」とついてないからといって、論理的な検証性を持たないというのは精神的な怠慢である。ポパーが論ずるように、科学と哲学は普遍性を持たなければならないのである。気分的高揚なんぞ追求しているのは、哲学ではなく新興宗教のでっちあげにしかならない。

 芸術の類であれば構わない、最初から「お伽話。」であることが明言されていれば、公益倫理的な行動判断に影響はないからである。占いだって、占いだって言ってるから信じた者がバカなだけで話は済む。

 しかし、科学者として発言するのであれば、占い師的な「人生相談。」だとか、テレビゲームを「脳に良い。」とか断言するのはペテン、嘘でしかない。

 哲学者として、「気分的な高揚。」の追求をするのは、もはや宗教である。お前ら自分のことを何様だと思っているんだ。

 ヒトという種の生物であるにも関わらず、「人間以上の何者。」を持ち出している時点で論理的矛盾なのである。

 学生達は、教授の言うことに対して反論することは教授の気分を損ね、成績に関わると思って反論しないであろう。それこそ、私の言うことなど、哲学界全体に対する反論であるから、体制に迎合するだけのバカ学生なら、バカ教授に反論などしない。

 この文章を読んで、「ああ、こういう意見もあるんだな。」的に勝手な解釈をでっちあげて気分的に満足することも可能である。

 それは「バカの論理。」に過ぎない。





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