ヒトという種の生物は 認知的不協和を解消する形で 事後正当化をしようとする
既に自分が一度信じた事柄に対して 疑いを持つことに対する拒絶反応を示す思考バイアスが ヒトの脳の認知機能には存在するため ヒトは簡単に洗脳されるのである
ヒトは洗脳されていると気分的に安心満足感が得られるため 洗脳というのは簡単で
逆に洗脳を解くことは非常に困難になる
バカというのは難治性が高い
ヘイトスピーチを繰り返す奴に対し 認知行動療法のメソッドを用いて「それは なぜそう思うのですか?」という問いかけをしても
最終的には「だって 悔しいじゃありませんか」などという主観的感想にしか至らないのだが
何せ自分の主観的「感覚」こそが絶対だと思っているパラノイアなので 自分の異常性を自覚することは出来ない
「自分も間違う可能性が充分にある」という自己客観性を失わなければ 特定の他人だけを糾弾懲罰して満足するような短絡安易な方法論には頼らなくなる
同じ「ヒト」という種の生物であれば 同じような間違いに陥る可能性は充分に有り得るという自覚が必要である
だが 自己客観性のない者というのは 自分の主観的「感覚」こそが絶対だと「思って」いるため 実証不能の観念ばかりを信じ込もうとするのである
つまり 主観的な「思い」の強度程度というものは 本質的意識を阻害することはあっても人間としての意識そのものではなく 「動物的なヒトという種の生物としての意識」レベルでしかない
重要なのは ヒトに普遍的に見られる「間違いや欠陥の構造」を知り 自己の思考や行動における同じ間違いに陥らないように教訓知識として理論体系化することである
京大霊長類研究所や養老孟司やマイケル:サンデルの言っていることが嘘であることの論証を根拠に 彼らを糾弾非難するのはトンチンカンな行動である
騙されていた大多数のバカも バカであることに何の違いもないからだ
「目糞 鼻糞」「50歩 100歩」でしかない
私が刑法廃止を主張しているからといって 「死刑制度が気に入らないから 竹下通りをほっつき歩いていた奴を自動車で轢き殺しました」などというのも もうバカ過ぎてどうにもならん
養老孟司は「教えられて知っていることと 気付いたことは 脳の機能として同じだ」と述べたが 自発的に「気付く」ことと 単に他人から教えられて「知っている」ことは 行動結果が同じだとしても 脳の機能自体は全く別のものである
地動説を単に教えられて「知っているだけ」なのと 当時に「地動説に気付く能力」は全く別物なのである
大量の知識を「知っているだけ」では 与えられた情報の中から間違いに「気付く能力」が発揮されるわけではない
論理検証性というものは 自己客観性に基づくものであり 「自己客観性」自体は文字通り自発性 主体性 能動性を意味するものであり
客観的論理検証性がなければ 主観的観念が促す気分感情の強度程度でしか行動選択は働かなくなる それは「ヒト」という動物ではあっても 「人間」性は伴わない
あらゆる「人災」の全ては 「個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」が原因である
「人災」を引き起こしておいて人間性もヘッタクレもあるわけがないのだが 実際に被害が起きる以前の「小さな事象」を見逃すことも 「人災」に加担しているのと同じである
言っておくが 私は刑法廃止論者である だから観念的な「罪の意識」なんぞどうでもよろしい
間違いを間違いだと論理的に自覚したら 気分的に凹んだり悔やんだりすることよりも これから間違わないようにするにはどうするべきかを「考える」ことである
既に轢き殺された子供達は どんなに悔やんでも戻らない
遺された我々に出来ることは これから起きる危険の可能性をどうやって潰してゆくかを「考える」こと以外に選択肢はどこにも実在しないからだ
Ende;
既に自分が一度信じた事柄に対して 疑いを持つことに対する拒絶反応を示す思考バイアスが ヒトの脳の認知機能には存在するため ヒトは簡単に洗脳されるのである
ヒトは洗脳されていると気分的に安心満足感が得られるため 洗脳というのは簡単で
逆に洗脳を解くことは非常に困難になる
バカというのは難治性が高い
ヘイトスピーチを繰り返す奴に対し 認知行動療法のメソッドを用いて「それは なぜそう思うのですか?」という問いかけをしても
最終的には「だって 悔しいじゃありませんか」などという主観的感想にしか至らないのだが
何せ自分の主観的「感覚」こそが絶対だと思っているパラノイアなので 自分の異常性を自覚することは出来ない
「自分も間違う可能性が充分にある」という自己客観性を失わなければ 特定の他人だけを糾弾懲罰して満足するような短絡安易な方法論には頼らなくなる
同じ「ヒト」という種の生物であれば 同じような間違いに陥る可能性は充分に有り得るという自覚が必要である
だが 自己客観性のない者というのは 自分の主観的「感覚」こそが絶対だと「思って」いるため 実証不能の観念ばかりを信じ込もうとするのである
つまり 主観的な「思い」の強度程度というものは 本質的意識を阻害することはあっても人間としての意識そのものではなく 「動物的なヒトという種の生物としての意識」レベルでしかない
重要なのは ヒトに普遍的に見られる「間違いや欠陥の構造」を知り 自己の思考や行動における同じ間違いに陥らないように教訓知識として理論体系化することである
京大霊長類研究所や養老孟司やマイケル:サンデルの言っていることが嘘であることの論証を根拠に 彼らを糾弾非難するのはトンチンカンな行動である
騙されていた大多数のバカも バカであることに何の違いもないからだ
「目糞 鼻糞」「50歩 100歩」でしかない
私が刑法廃止を主張しているからといって 「死刑制度が気に入らないから 竹下通りをほっつき歩いていた奴を自動車で轢き殺しました」などというのも もうバカ過ぎてどうにもならん
養老孟司は「教えられて知っていることと 気付いたことは 脳の機能として同じだ」と述べたが 自発的に「気付く」ことと 単に他人から教えられて「知っている」ことは 行動結果が同じだとしても 脳の機能自体は全く別のものである
地動説を単に教えられて「知っているだけ」なのと 当時に「地動説に気付く能力」は全く別物なのである
大量の知識を「知っているだけ」では 与えられた情報の中から間違いに「気付く能力」が発揮されるわけではない
論理検証性というものは 自己客観性に基づくものであり 「自己客観性」自体は文字通り自発性 主体性 能動性を意味するものであり
客観的論理検証性がなければ 主観的観念が促す気分感情の強度程度でしか行動選択は働かなくなる それは「ヒト」という動物ではあっても 「人間」性は伴わない
あらゆる「人災」の全ては 「個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」が原因である
「人災」を引き起こしておいて人間性もヘッタクレもあるわけがないのだが 実際に被害が起きる以前の「小さな事象」を見逃すことも 「人災」に加担しているのと同じである
言っておくが 私は刑法廃止論者である だから観念的な「罪の意識」なんぞどうでもよろしい
間違いを間違いだと論理的に自覚したら 気分的に凹んだり悔やんだりすることよりも これから間違わないようにするにはどうするべきかを「考える」ことである
既に轢き殺された子供達は どんなに悔やんでも戻らない
遺された我々に出来ることは これから起きる危険の可能性をどうやって潰してゆくかを「考える」こと以外に選択肢はどこにも実在しないからだ
Ende;